2012年02月10日

 『聖闘士星矢Ω』が制作されるとかなんとか。最近の『聖闘士星矢』の展開をきちんと追いかけていなかったので、守護星座が変更になって青銅や白銀が黄金聖闘士に昇格することがある、という設定が追加されたことを知らなかった。原作無印漫画版の設定でほぼ止まっていた私は、『仮面ライダーフォーゼ』の「ゾディアーツがホロスコープスに進化することがある」という設定にたいして、「『聖闘士星矢』とは違うんだなあ」とか思っていたのであるが、それはまったく頓珍漢な感想だったようだ。

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漫画 | アニメ

2012年02月07日

 誰とは言わないが一定の角度ばかり写真に残す人がいる。マライア・キャリーとか某人気声優さん(信者に怒られるかもしれないので伏せる)とか。眺めたときにもっとも美しく、あるいは、もっともかっこよくなる角度はコレだ、と強く信じているのであろう。
 さて、ロボットを考えてみよう。一昔前の巨大ロボットは正面にちょっと角度をつけてアオリで見たときにもっともかっこよくなるものがほとんどであった。いわゆるガワラ立ちというやつだ。そもそものデザイン画がこの角度をベースに起こされているので、そこが優れてかっこよくなるのであろう。
 ところが、これが変わってきているように思われる。もっともかっこよくなる角度がガワラ立ち風ではないロボットをちょこちょこ見かけるようになったのだ。最近の作品でわかりやすいのは『輪廻のラグランジェ』のウォクスシリーズであろうか。これらのロボット、デザインの由来が由来であるせいか、見栄えがいちばんよくなる角度が自動車とほぼ同じになっている。斜め前から俯瞰で見るとき、つまりは自動車のカタログと同じような見かたをしたときがウォクスを眺めるさいの正解のようなのだ。良い悪いは別にして、なんとなくこのあたり、不思議な感じがして面白い。『ラグランジェ』のロボットデザインで注目すべきはここだと私は思う。

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アニメ 

2012年02月06日

 どこかで似たようなことを書いたような気もするのだが、まとめなおしておく。

 このところ、いわゆるオタク系の作品において、残念な性格を属性としてもったキャラクターが目につく。このような属性はどこから要請されたのであろうか。

 一般に恋愛物語は、愛の成就の過程を描くものである。そうであるならば、愛の成就にたいする妨害がなければ物語は成立しないだろう。始まってすぐに二人が結ばれてしまうからだ。さて、虚構の恋愛物語に二人のキャラクター甲と乙がいて、甲は乙のことが好きであり、また、乙も甲のことが好きであるとする。ところが、この甲と乙の愛が実っていない。このとき、どのような事情で愛の成就が妨害されているのだろうか。古今東西の恋愛物語にはさまざまな種類の妨害が登場してきた。大まかに分類すれば以下のようになる。

(1)運命による妨害:運命によって引き裂かれたりすれ違ったりする。
(2)社会による妨害:制度上許されない、あるいは、周囲に反対される、などで引き裂かれたりすれ違ったりする。
(3)性格による妨害:性格が残念であるために、引き裂かれたりすれ違ったりする。

 その他にもいろいろあるだろうが、とりあえず三つにくくっておく。順に検討していこう。

 運命による妨害は、現代でも十分に通用している。戦争が起きて出征した、不治の病にかかった、などである。携帯小説からハリウッド映画まで、よく見かける。ただこれ、オタク系作品では使いづらい。オタクビジネスの基本にならって、その作品をシリーズ化してキャラクターを転がしていこうとすると、過酷な運命を次々登場させねばならず、かつてのジャンプ漫画のごとく悪性のインフレを起こしてしてしまうだろうからだ。

 社会による妨害は、具体的には、家柄が違った、すでに許婚がいた、同性どうしだった、等々で社会や周囲から引き裂かれる、というものである。このラインは、現代では特有の難点をもつ。一般的に、現代の社会制度や価値観は、社会の構成員のあいだの愛のありようにたいして寛容である。いや、不寛容も多く残ってはいるが、寛容な方向に歴史は動いている。そのため、社会による妨害を現代において描くと、恋愛物語を描いているというよりは、社会にいまだ残る不寛容を告発しているように読まれてしまいがちだ。話のポイントがズレてしまうのである。エンタメとして、社会派なノリからは一線を引いておきたいオタク系作品にとって、これは避けたい事態である。

 そこで残るのが、性格による妨害である。結局のところ、オタク系作品において、愛の成就の妨害要因としてもっとも手っ取り早いのは、本人たちの残念な性格なのである。我々が好む作品において、冗談にしかならないようなレベルでの、鈍感、意地っ張り、優柔不断、馬鹿、粗暴等々が属性として活躍しているのは、このような事情が出発点にあると考えられる。そののち、一部の残念系性格属性は、そのものとして愛好されるようにオタク文化のなかで洗練されていった。そのいちばんの成功例が、言うまでもなく、「ツンデレ」属性というわけだ。

 このように、残念系性格属性は、もともと物語上の必要性から要請されたものである。他の属性のように、第一に萌えを狙って生み出されたされたものではない。そのため、少し間違えると、たんに不愉快なだけのものになってしまう。一部のキャラクターの鈍感さや粗暴さが反感を買うのは、そこに失敗したからである。

 平坂読『僕は友達が少ない』や高津カリノ『Working!!』が興味深いのは、残念系性格属性のこのような事情をメタな視点で作品に取り込んでいるところである。これらの作品、オタ向け恋愛物語のキャラクターはどこか残念でなければならない、という要請を逆手にとって、その残念さをよりエキセントリックにしてみたり、残念さの方向性をお約束から少し外してみたり、といった工夫をしている。これがオタ向けラブコメ最新型の定跡なのである。

 ついでに、『はがない』とよく並べられる、渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』にも言及しておこう。こちらはもうひと捻りした結果、直球に戻って、性格の残念さを正面からテーマに扱う作品になっている。別にして考えるべきであろう。

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よしなしごと 

2012年02月04日

 忙しくてせっかく届いた『フォトカノ』の箱さえ開けられていない。それでも、『スマイルプリキュア』が始まるまえに、と思って、頑張って溜まっていた『スイートプリキュア』を全話見た。残念なことに、シリーズのなかで頭一つ抜けて出来が悪い作品になってしまったことに溜息をついた。

 シリーズものはどうしても先行する成功作と比較されてしまうのが辛い。もちろん、流れに乗っかることでシリーズそのもののファンを取り込んで楽をしようと目論んでいるわけだから、そのぶんのリスクを負うのは仕方がないとも言えるのだが。ともあれ、シリーズものでもっとも難しいのは、変えてよいところと変えてはならないところの判断である。変えてよいところを変えないと、旧作をなぞっているだけだ、と言われてしまう。変えてはならないところを変えると、シリーズの魂を見失った、と言われてしまう。これがなんとも難しいのである。

 そんなことを思いつつ、東映戦隊、仮面ライダー、プリキュア、ガンダム、と、思いつくままに並べてみよう。シリーズを続ける安定感、という点では、東映戦隊が明らかにずば抜けている。毎年違うライターをつれてきつつも、毎年きちんと東映戦隊でしかない作品が出来あがる。この安定感はどこから来るのか。「これをやっていれば東映戦隊になる」「東映戦隊にしたいのならばこれだけはやるな」といった、フォーマットがきちんとしているからこその安定感であろう。では、そのフォーマットはどこから来るのか。私の仮説をメモしておきたい。

 ポイントは曽田博久なのではないか。たまに誤解している若い人がいるようなのだが、東映戦隊が毎年メインライター(シリーズ構成)を変えるようになったのは十五年くらい前のカーレンジャーあたりからのはず。それまでは、初期の試行錯誤期とジェットマンを除いては、曽田博久、杉村升の両先生がすべてメインで書いているのだ。とくに、曽田は、ゴーグルVから九作品、立て続けにメインライターをやっている。つまり、「東映戦隊のフォーマット」と我々が考えているものは、実のところは「曽田博久のフォーマット」なのである。

 さて、ここで重要なのは、曽田が東映戦隊の生みの親ではない、少なくともその中心ではない、ということだ。一人のライターが最初からずっと書き続けていたとしても、なんらかのフォーマットは形成されるかもしれない。しかし、そこで形成されたフォーマットは、たいていの場合、そのライター本人とその周囲だけにしか理解できない個人的な方法論になってしまうであろう。ところが、曽田の場合は事情が異なる。曽田は、他人から引き継いだシリーズを長期に渡って受けもったのである。そうであったからこそ、曽田によって形成されたフォーマットは、次世代のスタッフたちでも参照できる公共的な枠組みとして機能しえたのではないか。

 というわけで、歴史から読みとった私の仮説はこうなる。シリーズもののフォーマットを固めたい、と思うならば、メインスタッフが一回交代したあとの二代目スタッフに長期政権を敷かせるべきである、と。ただし、残念なことに、昭和ののんびりした時代ならばいざしらず、現代ではこんな話はまったく現実的ではない。現代のシリーズものは、これからもいつまでたっても固まらないフォーマットと格闘しつづけることになるのだろう。

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特撮 

2012年01月31日

 メモ。

 オタクが暗黙のうちにオタコミュニティに属してその影響を受けている、という論点と、オタクが意識的にオタコミュニティの反応を参照しながら行為することがある、という論点とは位相がまったく違うな。ちょっとこのあたり、私の議論で混同があったかもしれない。きちんと整理しなければなるまい。

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よしなしごと