第六話が気に入らなくてしばらく本気で不機嫌になっていた。私はそんなに好きだったのか、このアニメ。以下はただの愚痴である。
そもそも失態をひとりのキャラクターに集中させすぎであろう。たとえば、複数の人間に原因があるかたちでライブを実際に失敗させてしまって、その失敗を「リーダーだから」という変な気負いで一人で背負いこんでいく、というかたちに組めば、まだマシになったと私は思う。描くべきなのは「困難を乗りこえてチームの絆が固まる」という話だったはずなのに、「問題児がやらかしたけれど、なんとか元の鞘に収まりました」という話にしかなっていない。
アイドルものと成長譚は相性が悪い、ということに気づいていないのも問題である。第六話は、成長譚をやろうとしているようだ。しかし、そもそもこの作品はアイドルものである。アイドルものはお仕事ものの一種であり、そこで描かれるドラマはプロフェッショナルのドラマでなければならない。成長譚はアマチュアのお話であって、プロのお話ではない。多くのドラマは、困難を乗りこえる、という構造をもつ。アマものは、その困難を「主人公の未熟」に置いたうえで、成長して乗りこえる、という展開を描く。しかし、プロものに求められるものは違う。プロが立ちむかう困難は「仕事そのものが難しい」というものでなければならない。その困難を「さすがプロ」のなにかで乗りこえるのが、プロを描くお話の基本である。もうプロであるはずのキャラにアマでもしないような稚拙な失敗をさせることの危うさに気づくべきだった。やるのならばもっと丁寧にやらねばならんのである。
問題のキャラに二つの失敗をさせておいて、それを処理しそこねているのも、とても不味い。問題の彼女は「ライブの成功について誤った認識を抱く」という失敗と「無責任に仕事を放棄する」という失敗の二つをやらかしている。これら二つの失敗は別個独立のものであるから、別個独立に処理しなければならない。しかし、これがちゃんとできていないので、話の着地点がぼやけている。失敗が複合体である、というあたりは面白いといえば面白いのであるが、処理できていないところを見ると計算のうえでのものではなかったようである。
そして、これはよく指摘されている点であるが、出発点の誤認識があまりにも非合理にすぎて、その時点でお話についていけなくなってしまう。ここが最大の癌であるのは言うまでもないだろう。
そもそも失態をひとりのキャラクターに集中させすぎであろう。たとえば、複数の人間に原因があるかたちでライブを実際に失敗させてしまって、その失敗を「リーダーだから」という変な気負いで一人で背負いこんでいく、というかたちに組めば、まだマシになったと私は思う。描くべきなのは「困難を乗りこえてチームの絆が固まる」という話だったはずなのに、「問題児がやらかしたけれど、なんとか元の鞘に収まりました」という話にしかなっていない。
アイドルものと成長譚は相性が悪い、ということに気づいていないのも問題である。第六話は、成長譚をやろうとしているようだ。しかし、そもそもこの作品はアイドルものである。アイドルものはお仕事ものの一種であり、そこで描かれるドラマはプロフェッショナルのドラマでなければならない。成長譚はアマチュアのお話であって、プロのお話ではない。多くのドラマは、困難を乗りこえる、という構造をもつ。アマものは、その困難を「主人公の未熟」に置いたうえで、成長して乗りこえる、という展開を描く。しかし、プロものに求められるものは違う。プロが立ちむかう困難は「仕事そのものが難しい」というものでなければならない。その困難を「さすがプロ」のなにかで乗りこえるのが、プロを描くお話の基本である。もうプロであるはずのキャラにアマでもしないような稚拙な失敗をさせることの危うさに気づくべきだった。やるのならばもっと丁寧にやらねばならんのである。
問題のキャラに二つの失敗をさせておいて、それを処理しそこねているのも、とても不味い。問題の彼女は「ライブの成功について誤った認識を抱く」という失敗と「無責任に仕事を放棄する」という失敗の二つをやらかしている。これら二つの失敗は別個独立のものであるから、別個独立に処理しなければならない。しかし、これがちゃんとできていないので、話の着地点がぼやけている。失敗が複合体である、というあたりは面白いといえば面白いのであるが、処理できていないところを見ると計算のうえでのものではなかったようである。
そして、これはよく指摘されている点であるが、出発点の誤認識があまりにも非合理にすぎて、その時点でお話についていけなくなってしまう。ここが最大の癌であるのは言うまでもないだろう。