OTAPHYSICABLOG

エフヤマダのオタク雑記

2015年02月

『アイドルマスター シンデレラガールズ』への愚痴

 第六話が気に入らなくてしばらく本気で不機嫌になっていた。私はそんなに好きだったのか、このアニメ。以下はただの愚痴である。

 そもそも失態をひとりのキャラクターに集中させすぎであろう。たとえば、複数の人間に原因があるかたちでライブを実際に失敗させてしまって、その失敗を「リーダーだから」という変な気負いで一人で背負いこんでいく、というかたちに組めば、まだマシになったと私は思う。描くべきなのは「困難を乗りこえてチームの絆が固まる」という話だったはずなのに、「問題児がやらかしたけれど、なんとか元の鞘に収まりました」という話にしかなっていない。

 アイドルものと成長譚は相性が悪い、ということに気づいていないのも問題である。第六話は、成長譚をやろうとしているようだ。しかし、そもそもこの作品はアイドルものである。アイドルものはお仕事ものの一種であり、そこで描かれるドラマはプロフェッショナルのドラマでなければならない。成長譚はアマチュアのお話であって、プロのお話ではない。多くのドラマは、困難を乗りこえる、という構造をもつ。アマものは、その困難を「主人公の未熟」に置いたうえで、成長して乗りこえる、という展開を描く。しかし、プロものに求められるものは違う。プロが立ちむかう困難は「仕事そのものが難しい」というものでなければならない。その困難を「さすがプロ」のなにかで乗りこえるのが、プロを描くお話の基本である。もうプロであるはずのキャラにアマでもしないような稚拙な失敗をさせることの危うさに気づくべきだった。やるのならばもっと丁寧にやらねばならんのである。

 問題のキャラに二つの失敗をさせておいて、それを処理しそこねているのも、とても不味い。問題の彼女は「ライブの成功について誤った認識を抱く」という失敗と「無責任に仕事を放棄する」という失敗の二つをやらかしている。これら二つの失敗は別個独立のものであるから、別個独立に処理しなければならない。しかし、これがちゃんとできていないので、話の着地点がぼやけている。失敗が複合体である、というあたりは面白いといえば面白いのであるが、処理できていないところを見ると計算のうえでのものではなかったようである。

 そして、これはよく指摘されている点であるが、出発点の誤認識があまりにも非合理にすぎて、その時点でお話についていけなくなってしまう。ここが最大の癌であるのは言うまでもないだろう。

よくわからない

・今週の『ドライブ』の意味がよくわからなかった。「警察官としての生きざま」で話の軸をつくっておきつつ、最後で警察官たる主人公が自分の私的な判断で犯罪の容疑者に手錠をかけるのを止めてしまっていて、それでいい話です、という雰囲気を出されても、どう反応していいやらわからない。友人とも話したのだが、これはたんなるシナリオ上のやらかしではなく、『ドライブ』の設定そのものがもつ根本的な問題点が露出したものと考えられるのではないか。『ドライブ』は、刑事もののフォーマットを採用しているようでいながら、仮面ライダーを警察機構の外部に置いてしまっている。つまり、泊進ノ介=ドライブは、法で裁けぬ悪を私的に罰する存在になっている。これは仕事人もののフォーマットであって、刑事もののフォーマットとは水と油で相性が悪い。その矛盾に『ドライブ』は無頓着すぎるのではないか。

・『シンデレラガールズ』の第六話も酷かったので、私は機嫌がちょっと悪い。

平井和正『死霊狩り』(1)

 このシリーズも好きだった。主人公の機械義手と義眼設定が私の燃えツボにどストライクだった。とくに一巻がお気に入り。あらためて読みかえして気になったのは、中国武術のイメージである。主人公を喰うレベルでかっこいい林石隆は中国武術の達人とされている。注目すべきは、中国武術がなぜ強いのか、という理由が、経絡秘孔を突くから、となっているところである。『北斗の拳』も当然そうだけれど、ある時期までの中国武術は点穴の武術と思われていたわけだ。ところが、それがいつしか変化する。中国武術がなぜ強いのか、それは発勁があるからだ、となる。点穴のイメージが消えるわけではないが、発勁のイメージのほうが強くなっていく。ジャパニーズエンタメにおけるこの変化はいつごろどのように生じたのだろうか。松田隆智先生の影響があるのはたしかとして、それが後続の作品にどのように伝播していったのだろうか。あまり虚構の武術格闘技ものに詳しくないので、気になりはするが、よくわからない。


平井和正『狼男だよ』

 平井和正も亡くなってしまった。数日前に仕事が一段落して余裕ができたので、代表作のいくつかを電子書籍で読みかえしている。犬神明は、私がはるか昔十代だったころ、ヤン・ウェンリーとか加賀四郎(魔界水滸伝)とか秋せつらとかと一緒に妄想世界(小説版)の最強キャラの座を争っていた存在であったよ。
 平井和正はなぜか語るのに腰が重くなる。これは私にとってだけではないはずだ。代表作のシリーズがどれもアレでナニな方向に展開していったため、かつての熱烈なファンも、(いや、かつて熱烈なファンだった者ほど)「自分は平井作品の脱落者だ」「だから語る資格がないのではないか」という発想になってしまうから、ということがまずある。さらに、同じ事情のせいで受容に世代間断絶があるがゆえに、語っても多くの若いオタたちには通じないのではないかと考えてしまう、ということもある。
狼男だよ アダルト・ウルフガイ
平井和正
ルナテック
2013-06-06

九井諒子『ダンジョン飯』(1)

 ゲテモノ喰いの構造だけを抽出して、誰にでも受けいれられるエンタメにしているところが上手い。

 本作で主人公たちはモンスターをモリモリ喰っていく。これは、一見するととんでもないゲテモノ喰いのように思われる。しかし、実は違う。ゲテモノを喰うことに、普通の人は抵抗感をもつ。(普通の人が抵抗感をもつからゲテモノと呼ばれるわけだから、当然のことである。)重要なのは、この抵抗感にかんしては、どんなに虚構のなかで奇妙なモンスターを食糧にしてみたとしても、現実のゲテモノ食には絶対に敵わない、ということである。ゲテモノ食がそのゲテモノ性を最大限に発揮するのは、日常的にありふれているが、これまで絶対に食べ物だと思ったことがなかったものを素材にしたときである。現実的な実感に根差した生理的嫌悪感、これがゲテモノの抵抗感の核なのだから、ゲテモノ食は基本的には現実にしか存在しえない。どんなにグロくキモいモンスターを食べたとしても、それが虚構であるかぎり、たとえばカブトムシを食べることに気もち悪さでは勝てないのである。

 本作は、この事情を巧みに逆手にとっている。現実のゲテモノ喰いは、たいていの人には抵抗感や嫌悪感が先に立ってしまうので、娯楽作品の題材にはなりにくい。そこで、これをファンタジーの舞台に放りこむことで、ゲテモノの現実感を中和して、ゲテモノを食べるという行為の面白いところだけを取りだして描けるようにしているのである。
ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス)
九井 諒子
KADOKAWA/エンターブレイン
2015-01-15

『アイドルマスター シンデレラガールズ』

 よくできている。第三話で、これまでのアイドルものに私がうっすらと感じていた物足りなさがなんだったのかわかった。

 「アイドルの価値」には二つの意味がある。一つめは、アイドルを観賞することに価値がある、という意味である。二つめは、アイドルを目指すことに価値がある、という意味である。この二つは別個独立のことである。下手な比喩であるが、パンを美味しいと思うことと、パン屋になりたいと思うことが別問題であることを考えていただければいいだろうか。

 さて、アイドルものが物語として成立するために必要なのは、二つめの意味でのアイドルの価値を確立することである。一つめは、アイドルのファンの視点からのアイドルの価値でしかない。アイドルものがアイドル(になろうとする者)を描こうとするのであれば、二つめの価値を説得力をもって提示しなければならない。二つめの価値こそが、アイドルの視点からのアイドルの価値だからである。

 ところが、多くのアイドルものは、これら二種類の価値をちゃんと区別しそこねていたように思う。たしかに多くのアイドルものが、アイドルの姿を魅力的に描こうと努力していた。しかし、それで表現されるのは、一つめの価値でしかない。それで視聴者に伝わるのは「アイドルを観賞することは楽しい」ということでしかない。しかし、必要なのは、視聴者に「アイドルを目指すことには意義がある」ことを伝えることのほうなのだ。こちらが不十分だと、アイドルものの物語は駆動力を失い、物語中のキャラクターの行為は解釈や評価の基準を失ってしまう。そうなると、画面上のキャラクターにたいしてイラついたあげくに「いや君、そんなことでグダグダをやるんだとしたら、なんでそもそもアイドルやろうと思ったの?」と問いただしたくなるような事態などに陥ってしまう。2011年のアイマスアニメやラブライブ!の一期二期、ウェイクアップなんとかなど、どれも多かれ少なかれこの難点を抱えてしまっていた。

 『シンデレラガールズ』の第三話を私が評価するのは、一話を使って「アイドルを目指すことには価値がある」ということをしっかりと描こうとしたからである。あれを、「初ステージを苦労して成功させる話」として読んでしまうのは、解釈として浅い。そうではない。第三話は、メインの三人娘が、これまで自分がぼんやりと目指そうとしていたものがなんなのかを明確に把握し、その価値を肯定する話である。成功失敗が問題なのではなく、そもそも成功ということで目指されていたのがなにかを三人が認識し、これは目指すべきものであって、自分の歩んでいる道は間違っていなかった、とあらためて自らの目的設定を是認することに要点があるのだ。そして、その描写をつうじで、視聴者もまた、「アイドルを目指すことには価値がある」という認識を共有するに至る。アイドルのものの物語は、ここからはじまるのである。
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