OTAPHYSICABLOG

エフヤマダのオタク雑記

2015年04月

『アルドノア・ゼロ』評

・なかなか楽しめた佳作であった。エピローグが実にいい絵になっていて、なるほどこれがやりたかったのか、と納得、感心した。その一方で、あのオチはちょっと、という反応が出るのもわかる。それまでの物語があのエピローグを支えるために十分な構造と強度をもっていたとはいえないからである。

・本作について「どのような結末にすべきだったか」と問いを立てるのはあまり適切ではないように思う。繰りかえしになるが、本作は、あのエピローグをやりたくて、そのために物語を組んでいたように思われるからである。つまり、「どのような結末にすべきだったか」というかたちではなく、「あの結末をもっと生かすためには、それ以前の物語をどうすべきだったか」というかたちで考えていったほうがよいのである。

・というわけで三人のメインキャラクターについて、それぞれ私が物足りないな、と思った点を指摘したい。

・スレインにかんしては、帝国改革という大義への向きあいかたについて、描写が足りない。だから、なにをやりたいのかわからないキャラになってしまった。最初は同じ方向を向いているはずだった「帝国改革という大義」と「姫への愛」が最終盤では相克するようになってしまうわけだが、ここできちんとスレインを苦悩させて、どちらを取るか決断させるべきであった。キャラで言えば、もっとハークライトを立てて、スレインをめぐってハークライトとアセイラム姫が対立するというかたちの三角関係をつくるべきなのだ。そこでどちらを選ぶにしろ、スレインがちゃんと決断して一方を切り捨てれば、物語はもっと締まった。大義を取るのであれば、スレインはアセイラム姫を殺そうとするところまで行くべきだった。そのほうが、ラストのスレインのありようはもっと味わい深くなったであろう。愛を取るのであれば、スレインは少なくともハークライトときちんと決裂して、盟友であったはずの彼を自分の手で殺すべきであった。本作の展開はどちらも中途半端でよくない。スレインの人生はもっと罪深く悲劇的であるべきなのだ。

・伊奈帆には端的に言って試練が足りない。だから、なんでも上手くこなしたなあ、という印象だけでキャラに深みが出ていない。火星のチートなスーパーロボットと戦って勝つなどというのは、物語上の試練にはならない。これは、勝利という目的のために適切な手段を探せ、という技術上の試練でしかない。キャラの核をつくるために必要なのは、そもそも人生においてなにを優先させるのか、という、目的設定にかんする実存的な試練である。しかし、本作の展開において、伊奈帆にかんしてたとえば「地球側の軍人としての義務」と「姫への愛」が決定的に噛み合わなくなる瞬間が来ることは結局なかった。その意味で、伊奈帆には物語のうえでの真の試練、真の逆境は訪れていない。これでは主人公としては物足りない。地球側にとって、彼は火星側の女を愛しそのために行動する異物であるはずだ。たとえば「姉や友人を含む友軍に銃を向けないとアセイラム姫を救えない」というような状況に伊奈帆は放りこまれるべきであった。物分かりのよい連中ばかりのデューカリオンという環境は、伊奈帆にとってぬるま湯すぎる。鞠戸大尉やマグバレッジ艦長にああいった過去をもたせたのであれば、伊奈帆にとっての障害として配置すべきであろう。それをさせないから、一期の鞠戸大尉推しってなんだったの、となってしまうのである。韻子も韻子である。姫不在のあいだにどうにかこうにか伊奈帆と寝ておいて、「あの敵の女と私とどちらが大事なの」くらいの迫りかたはしてもよかったのだ。そういう究極の選択を綱渡りで乗りきることが、伊奈帆に課せられるべき試練だったのである。

・アセイラム姫は、寝すぎていて、政治的指導者としての卓越性をちゃんと示しえなかったのが悪い。なるほど姿形は可愛いし性格もいいし雨宮天は姫っぽい声を出せている。二人の有能な少年が惚れるということについての説得性は問題ない。しかし、それだけでは本作のヒロインとして不十分である。彼女について描かれるべきだった物語は、指導者としての成長である。一期冒頭ではお花畑チックに平和愛を抱いていたお姫さまが、なんやかんやと経験した果てに、二期の最後では自分の理想を政治的に実現させられるような女王として覚醒する、これが欲しかった展開である。そのうえで、スレインとアセイラム姫は政治的指導者として対決して、スレインと伊奈帆はパイロットとして対決して、という構図がちゃんと成立するのである。しかし、本作はそれが描けていない。結婚相手を政治的配慮で決めました、などということではまったく足りない。それは自己犠牲にすぎない。自己犠牲は政治家のすることではない。政治家の役割は、みんなに納得して犠牲を払わせることにあり、自分が犠牲になることにはない。この点、少なくともスレインはちゃんと弁えていた。未来のヴィジョンを語り、納得ずくで兵士を戦場に赴かせ、その死の責任を負おうとしていた。そうであるならば、アセイラム姫のほうも、スレインとは別の未来のヴィジョンを語り、それがより魅力的であることを示したうえで「もしかしたらもう少しで勝てるはずの戦争を止めてその利益を丸々捨てる」という犠牲を自国民に納得ずくで受けいれさせる、ということをやって、それでもってスレインに勝たなければならなかった。止めって言ったらみんな戦争止めました、だってプリンセスだもん、では駄目なのだ。このあたり、そもそも話数が足りなかったような気がする。アセイラム姫は月面基地を脱出したあと火星に戻って、そこで民衆や耄碌した祖父と向きあって政治的な基盤を固める作業を着実にこなして、それでもって月面を中心に一大勢力を築いたスレインに対抗すべきだった。政略結婚云々はそのうえで締めとして加わる感じで処理しなくては。また、クランカインの出番もそのあたりに適宜織りこんでおけば、ぽっと出キャラっぽくはならなかったはずだ。いろいろと都合もあろうが、「火星政争編」はやはりアセイラム姫の物語にとって必須だったのではないか。

・おまけでもう一点。火星騎士の服装がみな共通なのがずっと気になっていた。あれでは制服である。貴族なのだから、めいめいがめいめいなりの美意識で着飾るべきであろう。そのほうがアホっぽさがあってよかったように思う。

・いちばんキャラとして気に入っていたのは、にんにく姫かな。幸薄くて可愛い。

『ユリ熊嵐』評

幾原節を十二分に楽しめた。そのうえで、気になったところを二点ほど。「ユリ」「熊」「嵐」のうち、「ユリ」の契機にはなにも言うことはないが、「熊」と「嵐」についてはちょっと引っかかりがある。

(1)「熊」について

本作には、二種類の他者性が組みこまれている。一つめは、群れと、群れから排除されたもの、という他者性である。「透明な嵐」系統の他者性と言えよう。もう一つは、群れと、群れの完全な外部である壁の向こうから来たもの、という他者性である。こちらは「熊」系統の他者性と言える。

かつて私は、二話くらい視聴した時点で「これら二種類の他者性を先鋭に切りむすばせることができれば、文学的に成功しそう」であるとの見通しを示しておいた。結論からすると、本作は、「透明な嵐」系統の他者性についてはそれなりに語りきったが、「熊」系統の他者性については半端な処理で終わってしまっているように感じた。

本作において、人と熊との差異は結局のところ姿形にかかわるもの以上ではなかった。『ユリ熊嵐』世界において、愛のありようは人にあっても熊にあっても普遍かつ不変であったからである。さらに、社会的な排除のありようもまた、人間世界と熊世界でほぼ同型であった。このこと自体は悪くはないのだが、そのせいで、断絶の壁の断絶具合が少々弱まってしまったように思う。本作における断絶は、社会的政治的な断絶としてすっきり解釈できてしまう。しかし、「人」と「熊」というかたちで対をつくったのだから、もっと両者を存在からして、生のありよう愛のありようからして根本的に異質なものとして描くこともできたはずである。そのとき、描かれる愛は、「異質な他者をそれでもなお受けいれる特異な愛」となったはずである。そうすれば、作品にさらなる文学的妙味が加わったはずである。

現実的な観点からすれば、二つの他者性の両方を絡めつつ処理するのは難しすぎるので、本作の採った道が正しいのかもしれない。しかし「熊」は「ユリ」「熊」「嵐」という三題噺のお題の一つである。その観点からすると、やはりここまで要求せざるをえない。

(2)「嵐」について

「透明な嵐」の描きかたについても、少し物足りなさを感じる。メインキャラクターたちがすべてすでに嵐の外部にいる存在に設定されているのがよくない。排除の儀の参加者を誰か一人でもメインに格上げさせておくべきではなかったか。

本作のような描きかたでは、透明な嵐が単純な悪とされてしまう。また、透明な嵐の構成員たちが愚民としてひとくくりにされてしまう。しかし、透明な嵐は、共同体に所属して生きる主体であれば、誰でも暗黙のうちに多かれ少なかれ加担せざるをえない、社会性の根本に根差す病理であろう。透明な嵐を駆動するのは、個々人の「承認されたい」という欲求のはずであり、この点にかんしては、「愚民」たちもメインキャラたちと変わらないはずなのだ。このあたり、制作者側の「透明な嵐的なるもの」への怒りが、問題設定の可能性を狭めてしまったように思われる。その気もちはよくわかるが、やはり「自らの内なる透明な嵐への帰属欲求とどう向きあうのか」というかたちで、つまり、内面化したかたちで問いは立てられるべきだったのではないか、と私は考える。

その意味では、本当の物語は亜依撃子と百合川このみのあいだで始まるのかもしれない。
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