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小樽運河の1本港側の「市道港線」を埋める出店と市民の人並み
写真;志佐公道 

06_01. 1978年7月7日

 ついにその日が来た。
 第一回ポートフェスティバル。 
 
 あれほど準備しても初回は初回!
 電気配線工事は遅れ、素人出店(でみせ)の地割りも遅れ、全部が遅れているのに、昼から来場者が続々と小樽運河周辺に押し寄せる波のように足を運んでくれた。

 数日前、佐々木一夫に、
  「どうだ、宣伝はうまくいってるか?」
と聞くと、
  「わや、なんもかもめちゃくちゃ。」
  「どのくらいの来場者みこんでいるんだ?」
  「山(口保)さんは、二〇〇〇〜三〇〇〇人来てくれれば、大成功だ、と。」
  「うぅ〜む、まあそれは、頑張るスタッフ向けの数字だな。」
  「えぇ、まあ。」
 準備で疲労困憊の佐々木一夫はそれでも小樽運河のポートフェスティバル現場に戻っていった。

 ポートフェスティバル当日は、蕎麦屋籔半のお客様の入り具合も普通の土曜日の比ではなかった。
 籔半の板場とホールのスタッフは勿論両親も「今日は一体なにがあるのか」と慌てるほどで、まさか、息子が関わっているイベントのそれも初めての開催での人出だとは思ってもいなかった。
 小樽も街中がそう思っていたに違いない。
 即、ポートフェスティバルの来場者数は並でない、とわかった。

 いてもたってもいられず、昼の繁忙時間を終えて、即出前に行く振りをして自転車で荷台にビール1箱を積んで、小樽運河に向かう。

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1978年ポートフェスティバル第1回 写真;志佐公道 

 人、人、人の波。
 まだ出店の一部は電気配線が来ておらず、スタッフが会場を走り回っている。
 佐々木一夫の姿も、人並みで全く探せない。

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賑わう素人出店・小樽倉庫前 写真;志佐公道 

 大家倉庫前のポートフェスティバル本部前で暫く待つと、山口保と一緒に本部に戻ってくる佐々木一夫を見つけ、
  「冷やしたの持ってきた、元気づけに吞んでくれ。」
といい、山口保が寄って来て礼を言われ、
  「なにも手伝ってないので申し訳ないのは当方の方です。
   ポートフェスティバルが一段落したら、一度吞みましょうよ。」
と声掛けし、20万円の広告看板が本当にあるかを自転車で月見橋が見えるところまで行く。
 まあ、看板屋が描いたものではなく、ポートフェスティバルのスタッフたちで塗った看板だったが、確かにあった。
 
 人並みはますます増えていく。

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1978ポートフェスティバル第1回艀会場 写真;志佐公道 

 穀物飼料が山盛りに満載されている「艀(はしけ)」を見下ろすように市道港線に素人出店が列を作って並び、「祭り会場」に化けさせるのに成功していた。

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小樽運河からポートフェスティバル出店をみる 写真;志佐公道 

 小樽運河保を埋め立て道路建設促進を陳情する団体「道々小樽臨港線建設期成会」に、市内の倉庫業の全社が加盟していた。
 しかし、その港湾倉庫会社の協力と貸し出しがなければ、そもそも使用できない「艀」だった。
 それが、フォーク艀やビアホール艀などの「祭り広場」になっていた。
 山口保が、自分の店のある手宮の町会の役員と日常普段に懇意になり、町内の皆さんに可愛がれ、そこからの協力を得てはじめて今その成果が現実になっていたるのだ、とつくづく思った。
 
 表向き小樽運河埋立道路建設促進の建前の港湾倉庫会社も、
   長い付き合いのある地元の商店の依頼なら、何か逃げられる理由をつくり、
   艀を祭り会場に貸し出すのだ、という市井の人間関係
こそが、如実にそこに表れていた。
 このパターンがもっと拡大すれば、
   運河埋立側をして小樽運河保存運動に接近させるのは、さほど難し
   
いことではないという、運河埋立側(地元保守)への運動的迫り方
を、ポートフェスティバルの出店(でみせ)会場が事実でもって確信させてくれていた。

 問題は、そのいわゆる市内の保守と言われる人々との接触のきっかけをどう築くのかだった。
 今回はポートフェスティバルがそのチャンネルになったが、普段からそのような関係構築をどう形成するのかだった。
 山口保には彼の人間関係構築手法があり、蕎麦屋の息子にもそれなりの手法があった。
 それが核心的問題だなと考えながら、続々来場されるお客様の波を魅入った。

 倉庫会社は艀は勿論艀と道路を結ぶ歩み板にまで落下防止板までたててくれていた。
 昔ながらの紅白幕までかけてくれていた。
 お祭りと言えば、紅白幕という時代だった。
 その配慮が嬉しかった。
 そこで、紅白の幕をバックにフォークソングが歌われていた。
 これがフォーク広場か、と唸ったものだったが、ローカル色は満載ではあった。(^^)
 

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1978年ポートフェスティバルロック広場 写真;志佐公道 

 北海製罐倉庫前の、土が剥き出しの広場での手づくりロック・ステージ。
 客席側にステージが倒れないよう、実は、製罐倉庫壁に持たせかけるように組まれていた。(^^) 
 第一回目で、ビデ足場を組むのも素人だった。
 照明のオンオフも単純なスイッチ使用だった。
 ステージのライトは工事用のレフランプだった。
 もう、点いたり消えたりで「手づくり感」一杯どころか、すべて「本物の手づくり」だった(^^)

 大国屋・ニューギン・丸井の三デパート広告が、まぶしかった。
 この三デパート共同広告など、町の余程のイベントでなければ出してもらえない「広告世界」のひとつの格だった。
 この広告が出ているイベントは、市民に、そしてイベント関係者に承認された、とされていた。
 それが、第一回のポートフェスティバルにすでに登場していた。
 市内広告業界の世界を知っている人は、皆、驚いた。
 何かが動き、変わっていくときは、こういう現象が現れるのだった。
 この広告を取ってきたスタッフに乾杯、だった。

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1978年ポートフェスティバルロック広場 写真;志佐公道 

 今にも倒れそうな三段ビデ足場にPA機器とスタッフ。
 翩翻と翻る佐々木一夫が持参した旭日旗。

 こんな細い丸太の筋交いでステー取って良く倒れなかったなと、通算一七回のポートフェスティバルを経験すると、冷や汗がでる第一回の会場設営画像ではある。(^^)
 このPA用ビデ足場を組むのに、皆慣れていなく、汗だくで時間を要した。
 ステージからこのPAビデ足場に張られた電線が足場を引っ張り、おいおい倒れないかい、と心配になる。
 ポートフェスティバル現場の苦労は、担ったものしか知らない
 それを、後付けで何十年もたってからまるで自分も参加していたなどと語り書き記してくれても、誰も承認などしないのだ

 が、そんなことを構わず、次第に来場者が会場を一杯にしていく。
 人々が、鳴り響くサウンドに呼び寄せられたように、北海製罐倉庫横の広場・メインステージに流れ込んでくる。

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人並みに埋まる運河の一本海側の市道港線の出店会場 写真;志佐公道 
 
 小樽運河を全面埋立する案に対して、小樽運河を守る会が対案・代替ルートを何案か提案していた。
 その代替ルート案の一番手に小樽運河から一本海側の「市道港線」拡幅ルート案があったが、その市道港線(↑上の画像)も人並みに埋まっていた。
 作家・小林多喜二の「蟹工船」や「工場細胞」の舞台となった北海製罐倉庫や工場が、人並みに洗われるのをまるで喜んでいるように見えた。
 こんな賑わう港など、何十年ぶりだった。
 
 これは夜はもっと来る、と確信する。
 大家倉庫前から小樽倉庫に向かうが、もう自転車漕いでは行けない人並み。

 突然、小樽倉庫前の小樽運河に係留したビアホール会場となっている艀のテーブル席から、
  「おい、籔半!」
という声がかかる。
 その艀のビアホールには、米谷祐司(月刊おたる主宰)と堀井俊男(堀井建商社長)のお二人がいた。
 一年前に、小樽運河総合調査団編成を巡り小樽運河を守る会の会議にその編成妥協案を一切かけず、市側の少人数調査団編成を呑んだことで小樽運河を守る会を紛糾させ、結果、小樽運河を守る会・事務局長代行と財政部長の役を去ったお二人が、もうビールをかなり呑んだのか、酔眼で叫んで手を振って私を呼んでいた。

 当時、小樽には経済界長老をトップに頂く選挙マシーン団体が、二つ三つあった。
 「円(まどか)会」や「小樽・実業親和会」などだった。
 それぞれ衆議院議員である寿原正一代議士と箕輪登代議士の選挙マシーンだった。 
 その会では、どんな小樽経済界の重鎮でも自らの会社を破綻させ倒産させたら、年齢順で座る席の末席に、つまりそれら社長より若い会員の下座につく、それが不文律だった。
 私の父は「小樽・実業親和会」に加わっていた。
 この会は各会社の後継者・子息も会員とし、親子丸抱えで面倒を見るかわりの忠誠を求められるというシステムで、私も帰省し、何度か父によって無理矢理出席させられていた。
 この「小樽・実業親和会」に前述の米谷祐司(月刊おたる主宰)氏も堀井俊男氏も会員で、面識を得ていた。
  「なんだ、籔半のどら息子もポートフェスティバルのスタッフなのか?」
と、いかにも文句があるかのような言いようだった。
 もう酔いが回って、目が据わっていた。
 相手にするのは面倒と、
  「ビールを差し入れにきたんですよ。若者たちへの応援です。」
ととぼけると、安心したように
  「そうか、俺等も小樽運河を守る会なの知っているか?」
と、艀のビアホールの入り口近くの目立つところに陣取り、わざと周囲に聞こえるように大声を出して言っていた。
 まるで、知らない市民がその場を通るとき、両氏がポートフェスティバルをあたかも仕切っている、と思わせたいだけの振る舞いだった。
 まるで、私をわかっていなかったので、酔っ払っているのいいことに、小樽運河を守る会の設立当初の苦労話をしてきた。
 笑ってしまうホラ話で、いかに当時の経済界から米谷・堀井の両氏が様々な圧力を受けながらも小樽運河を守る会を運営してきたか、という自慢話だった。
 さらに、一年前に小樽運河を守る会・事務局長代行と財政部長職を解任されたことを持ち出し、それが峯山冨美会長や山口ら若手会員の陰謀である、と滔々と語った。
 「へぇ、木村円吉会頭や山本勉社長など経済界の圧力って本当にあったのですか。」
と何も知らないふりで聞くと、
 「俺たち二人がどれだけ苦労したか。
  小樽運河を守る会は、俺たちの経済界への働きかけがあったから今まで存続できた。
  もう、俺たちが去った小樽運河を守る会は終わりだ。」
 「藤森茂男事務局長が随分頑張られたのに。」
 「ばか、アイツはやり過ぎただけだ。
  マチが実際は誰が動かしているかを頭でわかっても体でわかっていなかった。
  だから、今は会社さえ失った。」
 「へぇ、やっぱり干されたわけですか。」
 「あのな、そんな市民にばれるよう干し方すると思うか。
  裏を見るんだ。」
 「でも、このポートフェスティバルみたい若者の登場で、小樽運河保存運動も生き返るでしょうに。」
 「だからだ、お前は小樽運河を守る会などに入るな、商売に専念しろ。」
 「へぇ、普段は商売だけの井の中の蛙になるな、って言う米谷さんらしくない。
  このポートフェスティバルの若者みたく、自分の生きていく街を元気にしたいって最高じゃないですか。化けますよ、このイベント。」
 堀井氏が次第に真顔になっていき、米谷氏は蕎麦屋の馬鹿息子と侮っていた私からやんわり反撃され、ますます支離滅裂な話になっていく。
 「おまえなぁ、小樽運河を守る会前事務局長がどうなったかくらい聞いているだろう。
  調子に乗って市民運動などでチョロチョロするな、お前のためだ。」
と酔眼でにらみつけてきた。
 もう、そのような二人に愛想つかし、
  「しかしですねぇ、皮肉なものですねぇ。」
  「なんだ? 何が皮肉なんだ?」
  「だって、そうでしょうに。
   昨年の潮祭りの解散会場で、練り込みの最終挺団が着いた途端、どなたか
   会場の全電源をわざと落として、真っ暗闇の中を、今、このポートフェス
   ティバルを動かす若者たちを屈辱の中で撤収させた。
   それへの怒りで若者達は、このポートフェスティバルを準備し、今日こう
   やって、花咲かせた。
   その全電源を落とした人、だれなんでしょうね?
   今となっては感謝の挨拶したいですよね。
   ポートフェスティバルの産みの親・・、ですわ。
   米谷社長、その電源落とした方、どなただかご存じで?」

 二人はいきなり身を起こし、私を睨みつけてきた。
  「やっぱり、あなたたちですね。
とは口に出しては言わず、少しにらみ合って、私はそそくさとその場を去った。
 堀井社長が追いかけて来、
  「一度ゆっくり話さないか、今日はヨーサンは酔っている。」
  「はい、いつでも。」 

 越崎宗一会長・藤森茂男事務局長の去った小樽運河を守る会執行部をある意味簒奪し、それで小樽運河を守る会を掌握しているとして町でのポジショニングに利用し、更に行政とのボス交・談合路線に走り、責任を追及されて小樽運河を守る会を去った二人だった。
 それを、ポートフェスティバルのビアホール会場に陣取り、あたかも自分らがこのポートフェスティバルの指導部だと装い、他人のふんどしで相撲を取る大人たちの哀れな姿が、そこにあった。

 祭りには、光と陰がつきものだった。 
 市役所の幹部もその席に来て、なにやら米谷氏とひそひそ話をしていて。
 彼らもポートフェスティバルが気になってしかたない様子だった。

 
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艀の舳先から小樽運河沿いの出店を見る。
1978ポートフェスティバル第一回艀会場写真;志佐公道 

 人並みは益々多くなっていく。
 北海製罐倉庫前のロック広場から大音響で発せられるサウンドが中心市街地の上を走り抜けていく。
 旭山展望台の三角山や天狗山の山腹に反響し合い、住宅街の人々をポートフェスティバル会場に行けと叩き起こしているかのように街中を響き渡っている・・・ようだった。
 今の時代なら、騒音妨害だと市民からクレームがくるだろう。
 が、まだそういうことにはのどかな時代だった。
 17年、17回、このポートフェスティバルは連続開催されていく事になるが、そんな騒音妨害クレームなど一件もなく、市民も小樽の町を元気にしてくれる若者たちのポートフェスティバルを認めてくれていたのだった。 

 普段は港湾労働者と関係車両がたまに行き交うだけの小樽運河周辺の路上が人であふれかえっている。
 港が、小樽運河が、石造倉庫群が、市民と一体となっている。
 そんなに、小樽運河が市民と近しくなったことは初めてだった。
 過去、港で開催された潮祭りでも、このようなシーンはなかった。
 
 小樽運河を巡る問題が、このポートフェスティバルをして市民の問題として広がって行くであろう予感に打ち震える。

 
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来場客で賑わう素人出店 写真;志佐公道 

 路上を利用した素人出店が、見る間に人並みで溢れていく。
  「素人出店(でみせ)」
と当時はそう呼んでいた。
 祭りのテキ屋・香具師がプロなら、私たちはアマチュアだ、とアマチュアリズムを全面に押し出していた。
 が、香具師のやることを市内の若者がやることに、どんな反応を市民がするかと思っていたが、市民は神社の例大祭のアブナイ香具師の出店より安心安全だ、と好感をもってくれた。

 とある、小樽の経済人の奥さんはフランス・パリの「ノミの市」みたい、とこの素人出店に大感激してくれた。
 第5~6回目のポートフェスティバルから出店にでてき、翌年のポートフェスティバルから、旦那さんに内緒でつばの広い帽子で顔を隠し、娘さんと押し入れの場所ふさぎのお歳暮・お中元の頂き物を素人出店で売り、その売上全額をポートフェスティバル実行委に寄付してくれることになる。
 とんでもない高級ウィスキーや食器などが並び、彼女が誰だか知っているお客はその顔を見て納得して買っていた。
 小樽商工会議所会頭の奥さんと娘さんだった。
 これが、イベントの持つ良さだった。
 肩書きや社会的立場は、若者主宰の祭り会場には無縁だった。
 ポートフェスティバルに協力してくれた人、その一点でこそ来賓とした。

 夜は夜で人並みは途切れるところか、益々人並みで揺れていく。

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1978年ポートフェスティバル夜景1写真;志佐公道 
煌々と出店の灯りが連なる、大家倉庫前と竜宮橋のポートフェスティバル会場。

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1978年ポートフェスティバル夜景2 写真;志佐公道 
 小樽運河の対岸からの見た小樽倉庫と出店会場。
 素人出店の裸電球の灯りが、運河沿いの歴史的建造物を闇夜に浮かび上がらせていた。
 水面に映る小樽倉庫をほれぼれと魅入っていた。
 小樽の若者たちはすごいことをしでかしてくれた、と感激していた。
 のちに、新たな夏のイベント・サマーフェスティバルで実施されることになる市内の歴史的建造物の「ライトアップ」のイメージが、このポートフェスティバルの素人出店で生まれていた。

 上の写真とこの写真をポストカードにして資金源の一助にした。

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写真;志佐公道 
 
 煌々とライトのもとで、素人出店と来場者が値段交渉やひやかしで賑わう。
 
 ・・・これだった。
 人と人が出会い、交わる空間が、そう小樽運河なのだ、と。

 近代港湾設備としては時代の役割を終えたお荷物だと言われてきた小樽運河が、視点を変えただけでこれだけの賑わいが生まれる空間になれるわけだった。
 わが街・小樽の、これからの時代に失ってはならない貴重な資源なのだ。
 そうと声を大にして叫ばなくても、ポートフェスティバルそのものが、そうアピールしていた。
 それまで、ただ帳簿上ではマイナス資産でしかなかった小樽運河が、
  「有能な経営者であれば、俺たちはこれからの小樽の可能性を
   秘めに秘めたプラス資産として使えるのだよ。わかったか!」
と言っているようだった。
 あの、あまりにも巨大なドブを、「磨けば光る」と感覚的に捉えた小樽運河保存運動やポートフェスティバルの若者たちの
  「イマジネーションの勝利
・・・だった。
 それを、ただ構想として口で言うだけじゃなかったところが決定的だった。
 若者のエネルギーで実際に
  やってみせ、実現させ、見せつけた
、まさにその日がポートフェスティバルだった。

 会議で、ただ小樽運河埋立派を罵り、小樽運河を守る会からやむを得ず離脱した商工業主を蛇蝎のよう批判する時間があるなら、こういうことにエネルギーを燃やすべきなのだった。

 今の時代のパソコン・パワーポイントでの
   スクリーン上でのプレゼンテーション
ではなく、直接現場のありとあらゆる資源を使っての、
   ナマの現場を使ったプレゼンテーション
だった。
 その現場の真実と迫力の勝利だった。
 「小樽運河がいかなる存在なのかというリアリティ」を、百万べんの演説で語るより、一度で見せつけてくれた。

 P箱を脚にし、コンパネ1枚だけのスペースの素人出店、その一枚一枚、いや一軒一軒が、今で言うビジネスモデルだった。
 小樽運河を保存・再生し、石造倉庫群を再活用し、周辺の歴史的建造物を再活用し、安物土産観光施設ではなく、その地域に根ざした文化施設や地元産品のお店が入居したら、小樽運河とその沿線は再び賑わいを取り戻し、町に元気を取り戻すという、直接現場のありとあらゆる資源を使っての、
   ビジネスモデル、プレゼンテーション
だったのだ。

 艀会場は、どの広場も来場するお客さんで満杯だった。
 艀ビアホール会場は、艀を改造し、水上レストランにどうか、とアピールしていた。
 前野麻袋倉庫の落語寄席も満員お礼で、漏れてくる笑いが出店が並ぶ路上に響き渡って更にお客様を招いていた。
 賑わいの持つ力が増幅されていっていた。
 昔、小樽市役所の幹部だった方がお孫さんの手を引いて、ポートフェスティバル出店を冷やかしながら笑顔で歩いていた。 
 今のポストや立場を離れて一個の人間になれば、この小樽ならではの空間が賑わうことに思わず笑顔が浮かぶのだった。

 これが見たかった。
 これを見たくて、若者がやってくれた。

 専門的学問的建築学的価値が素晴らしいから・・残す、のではなかった。
 その街に、生きてきて、これからも生きていく、その街に住んでいく人々にとって何よりも大事な空間なのだから、もっと大事にしよう、と訴えていた。
 市がやろう、経済界がやろうって言うからではなくて、この小樽運河という「場」がいいんだという一人一人の市民に
  「まだ、間に合う、今もう一度考えよう
と、とポートフェスティバルは、語っていた。

 主要道々小樽臨港線建設計画の前に事業完成した小樽駅前再開発事業。
 駅前を走る国道5号線の家並みは激変した。
 老朽化していたが、味があり、小樽らしい雰囲気が漲っていた家並みが消え、マッチ箱のように無個性な家並みが出現した。 
 一体、この家並みは何処の町なのだ、と絶句した。
 その家並みを見る人々の本来持つ感性が、試された。
 老朽家屋の家並みの防火・防災上頭を悩めていた消防職員が安堵するのはある意味理解できる。
 新たな固定資産税という市税が増えるのを喜ぶ市財政部職員であれば、ある意味理解できる。
 が、それと町の個性やアイデンティティを喪失することとを引き替えにできるのか、という市民論議は一切なされないまま、解体された五号線の家並みだった。
 全く無個性の、日本のどこにでもあるような、
  「顔と表情のない通り」
  「正体不明通り」
  「金太郎飴通り」
だった。
 それにもかかわらず、もっとも小樽らしい、それをみればすぐ「小樽だ」とわかる、
  「小樽人をして小樽人たらしめるパスポート
のような、まだ磨き光らせれば甦る小樽運河をためらいなく埋める・・・。
 それに、声高にただ反対を叫ぶのではなく、
   古き革袋に 新しい酒を、
   古き小樽運河に 新しい活気ある中身を
と、対案提起型市民運動の実践の姿が、ポートフェスティバルだった。

  「ローカルからグローバルに」
という言葉がまだ登場するはるか前だった。だが、ポートフェスティバルは、更に先取りし、
  「ローカルこそグルーバルだ」
とする小樽発信の
  「新ローカリズム宣言」
だったのだ。

 初開催で、8万人の来場を得るポートフェスティバルの2日間だった。
 しかし、ポートフェスティバル・スタッフは、来場者が引いた2日目の深夜からの勝負だった。
 広大な会場の撤去・後片付け・清掃が待っていた。
 港湾事業者の施設の地先を会場としたので、路上に釘一本でも残して、営業車両や運送トラックなどがパンクし事故発生などさせてはならなかった。
 翌、月曜日からの港湾関連企業の営業に迷惑をかけられなかった。
 もし、それでパンク事故などあったら、翌年以降、道道や市道や地先を借りる事は不可能になる。
 
 そうでなくても、小樽運河問題で港湾関連各社は道々小樽臨港線建設期成会に加盟しているし、彼らに「後始末の悪いポートフェスティバル」と非難をされる口実を与えてはならなかった。
 夜が明け白む朝4〜5時まで、撤去部隊のトラックが戻っては又出て行くを繰り返し、清掃部隊が小樽運河周辺を一斉に掃除し、ゴミを一括して集約する作業を夢中でしていた。
 くたくたに疲れ果てていた。
 開催当日前からの準備作業、開催二日間、そして徹夜撤去清掃作業で全員フラフラだった。 
 結局、翌日の港湾関係会社の営業に支障がない片付けと清掃を終えたが、すべての資材を撤去するのに1週間以上かかり、それを最後までやり抜いたスタッフがいてくれた。

 みなの心の中は達成感と満足感が、軽々と爽やかな風となって吹き渡っていた。

 
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ポートフェスティバル終了後の集合 写真;志佐公道

 ポートフェスティバル終了後の撤去・片付け・清掃作業が終了し、晴れ晴れとして集合写真をとる (↑写真は、第4回・原田佳幸委員長と左隣が私、そしてわがポートフェスティバルスタッフ)のが、以降ポートフェスティバルの慣例になっていった。
 
06_02. 虚を突かれた道路促進派
 
 考えてみると、皮肉な話だった。
 このポートフェスティバル誕生ほど、皮肉な話はなかった。

 小樽の官民一体となった夏の一大イベント・おたる潮まつり。
 その小樽潮まつり実行委員会の役員には、運河埋立道路建設促進期成会の行政と経済人重鎮や幹部がずらりと並んでいた。
 しかし、その潮まつり実行委が、市内の若者グループの潮まつりのメーンイベント「ねりこみ」参加を、嫌がらせに近い形で強制排除した。

 それが、若者達の怒りに火をつけた。
 排除されるなら、「自分たちの手で新たな手作りの祭り」をと一気呵成に走らせた。
 その結果のポートフェスティバルだった。
 そしてどの開催の結果、
  ・それまでになかった小樽市民の小樽運河地区へ自ら足を運び、保存運動側
   がいう小樽運河周辺の歴史的環境を自分の目で見ることにつながった。

  ・先人達が築き残してくれた小樽隆盛の頃の港に思いをはせ、それがただ保
   存だけではなく再生・再活用したら
、市内どころか市外・本州から観光で
   お客様を呼び、賑わいを取り戻せるのではないか

という若者たちの主張に耳を傾ける機運を醸成した。
 
 そして、ポートフェスティバルの実行委本部の横に、意識的に出店(でみせ)参加者の一つという扱いで、小樽運河を守る会ブースを設けた。
 来場されるお客様に、小樽運河を守る会はそれまでの様々な資料を運動のリーフレットを、運動の手引きなどを配布出来、小樽運河保存運動保存署名は膨大な数を集めることが出来た。
 孤立化し存続も危ぶまれた小樽運河保存運動としての小樽運河を守る会そのものを、生き返えらせてしまう役割りを果たした。

 そんなポートフェスティバルを誕生させてしまったのだった。

 歴史の皮肉な結果であるポートフェスティバルの成功を目の当たりにし、運河埋立道路建設促進期成会の行政と経済人は、絶句することになる 。 
 前年の潮まつりの「練り込み」で、「潮サンバ」トラックチームの最後尾挺団が解散地点の小樽花園公園グランドに到着したとき、「会場の全電源を落せ」と命じた役員こそが、
  「ポートフェスティバルを生んでくれた、産みの親」
だった。  

 おそらく、運河総合調査団編成を巡って市役所とボス交をし、それを小樽運河を守る会会議で責任を追及され、結局小樽運河を守る会・事務局長と財政部長を解任させられて会を去った方々が、「江戸の敵を長崎で」とその意趣返しでやった解散地点・花園グラウンドの「全電源切断」。
 彼らは、してやったりと溜飲を下げたのであろうが、一年後、再び倍どころ数倍になってお返しをされ、苦虫を噛む思いをさせられた。

 そして、全電源消失の張本人が、なんと
  「小樽運河保存運動の第2期
の幕ををこじ開けてくれたのだった。

 彼らはその初開催まで、ポートフェスティバルなど気にもしなかった。
 それこそ、ポートフェスティバル開催を知っていた道路建設派たちは、せいぜい大学祭に毛の生えた、しょぼいレベルのイベントとタカをくくっていた。

 開催翌日の新聞で、ポートフェスティバルの成功を知り驚愕する。
 当時、人口一八万人で、なんと八万人の人並みが小樽運河周辺をそぞろ歩き、各イベント会場を巡り歩いたのだった。
 TV・マスコミが競って報道してくれた。 
 道路建設促進期成会側は、全くもってポートフェスティバル実行委の詳細を知らなかった。
 どこからか降って沸いてきたような、若者によるまちづくりイベントの誕生だった。
 二〇〇人もの若者が、ポートフェスティバルの揃いのTシャツを着、全てを取り仕切った。
 香具師のまねをし、出店を取り仕切った。
 艀が、ビアホールやフォーク・ロック・ジャズ会場になり、北海製缶倉庫広場がメインステージになった。
 おまけに、小樽運河を守る会のテントがポートフェスティバル実行委本部の隣に設けられ小樽運河保存運動署名を訴え来場の人々が並んで署名している姿を報告され呻いたことだろう。
 息絶え絶えの小樽運河を守る会自身が、その来場者に驚喜し、再生されてしまっていた。
 孤立化に成功し、完全に市民と分断させ、壊滅寸前が目の前だった小樽運河を守る会が蘇生してしまったわけだった。 

 道路建設促進期成会側は、一体誰が首謀者かと情報を集めた。
 しかし、今まで町の様々な会合やイベントに名を連ねる人物を発見できず、特定も出来ず、ため息をついた。 
 せいぜい誰それの息子らしいとまではわかったが、その一人一人を特定できなかった。 
 これまでは、小樽運河保存運動のリーダーに政治的圧力をかけ、運動全体を孤立化させることで、鎮圧できたと思い込んでいた。  
 小樽運河総合調査の調査団編成を巡って対立し、それを理由に以降小樽運河を守る会からの話し会い交渉の要望を、一切無視してきた。
 それで、小樽運河を守る会と小樽運河保存運動は「じり貧」になると踏んでいた。 
  
 しかし、全く新たな若者の登場に、道路促進派はどう対処していいのかと困惑した。
 そして、それまでの彼らの概念にない相手、若者が登場した。 
 名もなく、肩書きもなく、今まで街に登場したことのない二〇代の若者に、政治的圧力をかけようにも、術はなかった。  
 その若者を孤立化しようにも、対処のしようもない。  
 ヒドラのようにその触手を伸ばし、自己増殖していく若者を見ながら、道路促進派の経済界重鎮はどう対処してよいのか、立ち尽くすよりなかった。

 何よりも道路促進派が頭を抱えたのは、今まで道路促進派に従うよりなかった大人達の中に、小樽の町への無感動症候群に陥って大人たちの中に、若者からぶつけられた「古き良き革袋(都市)に新しき酒(人と賑わい)を」というまちづくり提案を、そしてポートフェスティバルの若者が現に賑わいづくりを実証したことに、頷く大人達が出てきたことだった。
 
 今の時代のようにパソコンを使いプレゼンツールを使いスクリーンに映し行うプレゼンテーションではなく、 
 「小樽運河の現場そのものを使ったプレゼンテーション
の迫力が、一般市民を、大人達をポートフェスティバルに注目させた。
 
 「何も自分たちでしない行政より、よほど若者たちの方が真剣だ。
 「あんなポートフェスティバルを、市の協力もなく若者たちだけやった。
 「商店街もあのポートフェスティバルの人手で賑わった。
という、判官贔屓も含め、ポートフェスティバルへの評価はうなぎ登りになっていく。

 そして、小樽運河保存運動は、このポートフェスティバルの成功をエポックとし、息絶え絶えの少数派運動から多数派獲得運動に大きく舵を切っていくことになる。
 市民運動の独特の
  「不均等で複合的な発展の法則」
が、ここ小樽でまさに実証されようとしていたのである。

 「何か別の新しい若者のよる運動体」
とたった一年前、佐々木一夫・興次郎と居酒屋のこあがりでした話が、現実の姿となって現れたのであった。

 この項終わり

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                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。