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↑ 小樽夢の街づくり実行委員会の印半纏。

 上の画像は、私がデザインをまかされた小樽・夢の街づくり実行委員会の会員用印半纏。
 江戸の火消し半纏のデザインを貰い、しかし意味合いは逆に、沈滞した小樽に「火をつけよう」とした
 「夢」という字が決まらず、何度も新聞紙に書いたことか・・・・・。
 今なら書店に行けば、江戸文字・相撲文字・勘亭流等々、フォントサンプル集の本を買いコピーすれば、簡単にできる。
 そんな書籍もない時代だった。
 面倒を面倒と思わない、若さがあった。

07_01.『例三』の誕生

 ポートフェスティバルの収支決算も終わった。
 収支決算発表のなおらいは、若者のエネルギーの爆発で賑やかだった。
 何せ、野外イベントの宿命、一雨降れば、200万円(当時)の設営準備経費が、ポートフェスティバル2日間雨天であれば、無に帰すのだから。
 黒字で決算は締められた。
 歓声と拍手で乾杯に入った。
 自分たちで産み、成功で終わり、何より信じられない市民の来場があり、マスコミは大々的に取り上げ、やりきったという、そしてこの小樽の街を僅かだが動か素事が出来たという感動に酩酊した。 

 スタッフ間には、ポートフェスティバルをその年限りのイベントから、継続的なイベントにとする空気が漲っていて、ではそれをどう保障していく団体を生み出すのかという論議が既に話されていた。

 そんな中、山口保と佐々木一夫と私の「対面式」の場がやってきた。
  「小樽運河保存運動の勝敗は、街の活気を取り戻す、小樽の『まち』が元気に
   なる経済復興、小樽復興の経済抜きには考えられないという意見を、小樽運
   河を守る会で主張している唯一の人」
と佐々木一夫が紹介したがっていたのが、山口保だった。

 第一回ポートフェスティバル開催直前の「石造倉庫セミナー」で、その姿を垣間見た。
 おかっぱ頭で、一風変わったジーンズのツナギを着て開催準備作業をしていた。
 目がぎらつき、関西弁のようでそうではない方言で、写真の展示の位置を大きな声で指図をし、自ら動いていた。 
 同じ経験をしたもの同士の感覚で、彼が学生運動をノンセクトでやってきた匂いをすぐ私は嗅ぎ取った。 
 第1回ポートフェスティバル開催当日、本部テント前で軽い挨拶はしていた。
 第1回ポートフェスティバルの収支決算発表なおらいの場に私も参加したものの、大勢のスタッフの中で山口をはじめ、石塚雅明・柳田良造を紹介され、北海道新聞の川島記者を紹介され、とポートフェスティバルの主力メンバーを知るだけで精一杯だった。
 山口とじっくり話をするタイミングが双方作れなかった。

 どうせ、三人で話するなら、お互い喫茶店・スパゲティ店・日本蕎麦屋をやりながらの三人だから、奥さんの理解を得ないとやっていけないし、男同士だけでなく奥さんを入れた夫婦3組で、私のアパートでやろうと提案した。

 駅前第1ビルの市営改良住宅の、狭い2DKに、佐々木夫婦、山口夫婦が来てくれた。
 開始三〇分で男どもは完全に意気投合した。

 というか、山口と小川原の学生運動も含め、自分が何をやってきたのかということの過去の確認より、それ以上に普段考えていた小樽運河保存運動の今後の路線の話で、意気投合することになった。
 
 奥さんたち3人は、隣の部屋に移って女性同士の話になった。
 
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 山口保は、少数派運動からやっとダイナミックに進む若
 者のポートフェスティバルを成功に導いた自信に満ち
 あふれていた。しかし、これからその中心スタッフを、
 新しい若者のまちづくり運動団体に発展させていくか、
 その新しい運動団体をどう運営していくのか、その体制
 をどうつくるのかで、悩んでいた。



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  佐々木一夫は、潮サンバグループを組織したよう
 に、その実直さ、誠実さ、篤実さで若者から広く深い圧
 倒的な支持を受けていて、彼は、その新しい若者のまち
 づくり運動団体代表に持ってこいの存在だった。
 佐々木の話ぶりから、その代表を支えてくれる、路線・
 方針提起する書記長役が、山口保だ、と考えていた。



 しかし、なにぶん佐々木一夫には、いわゆる大衆運動経験がなかった。
 出来れば運動経験をもったもう一人が必要としていた。
 山口は、佐々木を支え、出来れば保守層に関係性を築ける存在を求めていた。
 山口は手宮には定着していたが、まだ居住年数は浅く、コミュニケーションの濃い小樽の『まち』では、まだ「よそ者」だった。

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 その役回りが、私・小川原格だった。
 父親はごりごりの保守で、なおかつ学生運動で自治会執行部や全共闘運動を徹底的にやってきて、教授会や理事会だけでなく生協運動などの組織というものを知っていた。 
 それと運動とを関連づけて運動の組立や調整をやってきた蕎麦屋の息子と二人が出会うことになったわけだった。
 山口にとっては、願ってもない話だった。


 これで、都市計画や建築の北大大学院グループの石塚雅明・柳田良造(のちに、森下満も加わる)の三氏を専門家NPO的存在とし、一体となればと考えた。
 路線提起は山口、それを小樽の街で適用させるための調整役の私、皆の先頭に立つ人柄の佐々木一夫、という役割分担が出来る、と。
 それに、地域に生きるその生き様を魅了させる小樽運河を守る会・峯山冨美会長の存在と、エネルギーに満ちあふれ小樽運河保存人口の裾野を拡大してくれる小樽・夢の街づくり実行委員会とポートフェスティバルという存在。
 小樽運河保存運動のキャストは揃いつつあった。
 

 とりわけ、山口とは、


  戦後民主主義とはいうものの、本当の市民社会が日本に根付いてきたのか
  間接民主主義という代議員制で、一体、市民自治は確立してきたのか
  それがそうでないが故に、
  市民、一人一人の自己決定権がないが故に、
  小樽運河保存運動のような本当の意味での市民参加の市民運動が必要にな
  るのだ。
  それを、この小樽という国の施策でできあがった官製都市の過去をもち、
  オカミ意識が濃厚で、経済界重鎮政治がまだまかり通っていて、
  長年の斜陽で『まち』への無感動と無感心が蔓延する小樽という『まち』で、
  それを試してみる。

となった。

 学生運動時代、トロツキストとかノンセクト・ラジカルと呼ばれた二人が、ルソー以来の「民主主義」を、わが町・小樽で実際に試すこととなった。 
 これに感覚的日本主義の佐々木一夫が加わって、三人でこれからの小樽まちづくり市民運動に打って出るわけだった。 

 とりわけ、山口と私は、大学生時代あの怒れる若者の運動・全共闘運動を経験してのひとつの理解があった。 
 山口は高校時代の民主青年同盟(民青)の活動と、2年の立命館大学の経験があり、私は7年半の芝浦工大の学生運動の経験があったし、私とはノンセクトラジカルと党派活動家の違いもあったが、互いにそれぞれの政治感覚はフォローし合えばいいとしていた。
 二人の共通のまちづくり市民運動への理解は、従来の社会運動や政治運動は、『要求の闘い』であったのに対して、小樽での闘いは、『主張の闘い』であっるということだった。
 「反対のための運動」ではなく、「何かを創造していく運動」という理解だった。 それをまとめて、
 「対案提起型市民運動
とした。
 サスティビラナルな、オルタナティブな、持続発展可能性あるまちづくり市民運動の萌芽だった。
 以降、どこでも佐々木一夫・山口保・私で出張っていくため、ポートフェスティバルのスタッフから「例の三人組」と呼ばれるようになり、略して、
  「例三
と呼ばれることになる。
 
 しかし、気があっただけで自然に三人組が出来たわけではなかった。
 山岳パーティで登攀に挑む際、最低単位は3人と言われてきた。 
 登攀ルートやビバークなどの決断の際、意見が2:1に割れたとしても、一人を孤立させるわけには行かない、という自制が働く最小単位が三人パーティだと言われていた。
 大げさではなく、そういう関係を三人は必要としていた。
 この街の大人たちからする実にあざとく陰険な分断工作を、跳ね返すためだった。
 更に、三人とも肩書きもなく、街でのポジションもなく、カネもなかった。
 しかし、一匹狼ではやっていけず、内外から投げつけられる誹謗中傷という石礫も三人が結束すれば凌げる、というわけだった。
 以降、小樽運河保存運動の終焉まで、様々にこの三人の関係に介入し崩そうとする動きが、硬軟両面にわたって外から試みられたが、しかし、絶対の信頼関係で、そのような挑発や陰湿な策謀を、跳ね返して今まできている。
 
 こうして、ポートフェスティバルから、やがて誕生する若者のまちづくり市民運動団体の創出が、三人の中で射程に入っていった。

  

07_02. その夢街は、「水取り山」で組織された。

 ポートフェスティバル第一回が無事終わった、1978年(昭和53年)秋のことだった。
 弊店・籔半の石蔵の二階座敷に、二〇代の若者達が集り深夜まで延々会議をしていた。  
 集まっていたのは、その夏初めて開催した、小樽運河周辺を会場にしたまちづくりイベントである、「ポートフェスティバル in おたる」を開催し、八万人もの来場者を得る成功をおさめた若者たちだった。  
 のちに「夢街の奴ら」と市内で呼ばれるようになる、若者達だった。

 新しい若者のまちづくり市民運動団体は、稲穂2丁目の番屋で集まった約三〇人の若者達で、その年の秋口結成された。
  「小樽・夢の街づくり実行委員会」(通称『夢街』)
と命名された。
 私の念願の『まちづくり』が冠についた団体名だった。
 会長に佐々木一夫、副会長に黒川氏と私が推された。
 山口まで「夢街」のポストにつくと、小樽運河を守る会の運営に不安が残り、小樽運河を守る会の高齢な会員が山口たちは小樽運河を守る会を捨てたという疑心暗鬼状態になる、という判断だった。
 小樽運河を守る会と夢街の連結役が、絶対必要だった。 
 私以外、全員ポートフェスティバル第1回の立ち上げからのスタッフだった。
 
 それを受けての会議だった。 
 そして、延々と話されていた議題は、
   自ら開催会場とした小樽運河を巡る保存運動に
   『夢街』とポートフェスティバルがどう係わるのか
というテーマだった。  

 ポートフェスティバルは、約40年経った今になって振り返れば、11年間の小樽運河保存運動史の中で、決定的なターニングポイントになったまちづくりイベントだったが、誕生間もない時期、まだ様々な思いの若者達で構成された集合体だった。
 まだ、アマルガムな「やわらかい塊」だった。

 それぞれ、ポートフェスティバル開催の一点でベクトルは定まっていたが、それぞれの感覚は違い、参加姿勢も様々で、一人一人の参加の「入射角」が違っていた。
 当然、小樽運河保存運動に対しては、態度も姿勢も一致して持ってはいなかった。  
 論争が空回りし、会議の場は個々バラバラに話を始めた頃合いを見て、若者達のシンクタンク的存在だった、北大大学院グループ三人組の一人・石塚雅明が訥々と語り出した。

 こういう話だった・・・・、

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早稲田大学・吉阪研究室の
大火後の伊豆大島の水取り山プロジェクト企画書の表紙
提供:法政大学社会学研究室・堀川三郎教授

 伊豆大島の一番大きな町・元町が大火災(1965年)にあい壊滅的状態となり、政府は災害援助法を適用した。
 政府が災害直後の応急的な生活の支援策を提示しようとしたとき、島民が「いの一番」に望んだのは、そんな一方的な公的支援策なんかじゃなかった。

 ・・・そんな話が、石塚雅明がもの静かに訥々と話された。



 島民が皆で集まって話し合って出したのは、まず
  「自らの力で三原山の砂漠地帯に『水取り山』(=溜め池)を建設する
と、いうことだった。
 慢性的な水不足解消もあったが、住民が自力で建設する町民全体の「水とり山」 を作ること、それこそが、町民ががどんな復興策よりもまず望んだことだった。
 できあがる「水とり山」をまず町民自身がイメージし、それに向かって、皆で纏まることで自力で建設する。

  自らの力で 水とり山をつくる、
  それは、自らの地域を,自らの手でつくり上げてゆく哲学であっただろうし、
  そもそも水とり山という場がもつ根源的な力を再発見することであっただろうし、
  他人の手による復興策ではなく、島民の手になるまちづくり、だったのだ。

  そこにあるのは、
  機械力より、多くの雑多な人々の力であり,
  知識よりは知恵をつかい、
  速さよりは持続力であり、
  理性よりは情熱や思いだった。

 つまり、島民が「水とり山」という姿形に求めたものは、実は島民が纏まるためのシンボル性だった。
 政府や災害の専門家達は、伊豆大島の島民がそんな溜め池づくりを求めるなど、想像もしてなかった。
 一方、政府が支援してくれるというメニューにたかるんじゃなく、皆が今こそまとまることを優先した島民の潔さと凄さが、そこにあった。

 では、小樽の人にとってのこの伊豆大島の水とり山に匹敵するものってなんなんだろうか。
 小樽運河こそが小樽市民の「水とり山」、・・ではないか。
 それをポートフェスティバル自らが、明らかにしたんじゃ・・ないのか。
 機能面で時代遅れの港湾設備から近代的道路にするより、
 これからの小樽のまちづくりをしていく僕らの、小樽人の依って立つ根っこが、
  小樽の「水とり山」=小樽運河
なんじゃないのか・・・、と。


 なにせ、三〇年前に聞いた話。
 腐臭を放ち浮腫が生じアルコールの海を漂流する記憶は、引き出しの奥底に埃にまみれ褶曲山脈のように曲折し堆積してしまい、時たま耳にする言葉が記憶に地震を起こし、脈絡なく回路が繋がってしまう。

 が、とにかく、小川原的理解の「水とり山」とはそんな話だった。
 その場にいたポートフェスティバルの若者は皆、その「水とり山」の話に圧倒された。
 私も魅了された。 
 その「水とり山」の話だけは、久方振りに聞くめくるめく眩しさを秘めていた。
 ただ政府支援にたかるのではない、自分たちが今まとまるために必要なことこそが全て。
 ・・・同じだった。
 ただ反対のための反対運動ではない、
   運河周辺の保全と再生から小樽のまちづくり展望を引き寄せる、
   自分たちの発想と力による運動、「まちづくり」市民運動だ
と。
 そう考えれば、若者たちが自力で開催したポートフェスティバルが、当時の小樽の街に与えた影響を捉えかえすことができた、のだ。

 ようは、自分たちの位置を自覚できた。
 まちづくり市民運動は、地域や『まち』の市井の市民のよって担われる。隣の少年時代からの友人、親類、町内で仲の良い友人等々、日常顔を合わせる関係だった分、その人々で担われる市民運動が、自らら生活する『まち』で、県で、国でどういう位置を占めるのか、個別の課題運動なのか普遍的な運動なのか、という検証作業するのは大変だった。
 それが、


 機能面で時代遅れの港湾設備から、近代的道路になるより、
 これからの小樽のまちづくりをしていく僕らの、
 小樽人の依って立つ根っこが、小樽の
 「水とり山」=小樽運河
 「水とり山」=小樽運河
だ、という「水とり山」の話で、一発で夢街のスタッフに染み渡ったのだった。

 小樽運河保存運動への若者達の関わりは、ここから始まった。
 そして。私の小樽運河保存運動への関わりも、ここから始まったのだ。


7_03.夢街、小樽夢の街づくり実行委員会とは
 
 
 兎に角、一つの運動とそれを担った運動体のことを書くほど難しいことはない。
 なぜなら、その一人一人が係わりはじめたときのきっかけ=入射角度が、それぞれの数だけあるのだから。
 語り出したらきりがない。

 皆、その町の
 地べたで生きている若者であり
 その地べたの世界のしがらみから抜け出そうと悶々とし、
 一方、抜け出したとシニカルにはいうものの、現実は裏腹で最もそれに規定されている、
 そんな心優しき若者の運動体が「夢街」だった。
 加入手続きをするではない、
 辞める際も脱退届けを出すわけでもない。
 会計担当から会費徴収されて、自らが夢街だったことを自覚した。
 そんな手続きに拘束されない自由さと、
 その裏腹の責任との間での右往左往の運動体だった。
 
 一人一人が夢街であり、「こいつの夢街」と「あいつの夢街」でそれぞれやりたいことは違っていた。
 が、違っていることを、大事にした
 「それって、夢街に似合ってねぇって
という一言で、前夜まで散々論議して打ち出され、確認された提案が、歯牙にもかけられず打ち捨てられて、翻され無視されることに、頭を抱える例三がいた。
 が、佐々木一夫にその皆の考えや気持ちを聞いて、
  理解ができる小川原と、理解しようはとする山口
がいた。
 この辺が、山口と私の違いではあった。 

 ポートフェスティバル第一回が成功裏に終わり、収支決算も黒字で終わり、なおらいは歓声の嵐の中で終わった。
 夏も終わり、《叫児楼》キャンプを海岸でした。
 そこにポートフェスティバルの面々も皆参加し、缶ビール片手にたき火の炎を魅入りながら、それぞれが胸の内を吐露した。


 「何で、大学祭に毛の生えたような稚拙なイベントに、8万人もの来場者
  があったのか」
 
 「ポートフェスティバル実行委自身の力だけで、そこまではならんかった」
 
 「若者のイベントという判官贔屓はあっただろうが、やはり小樽運河とい
  う存在、小樽運河と周辺の石造倉庫や歴史的建造物が醸し出す最高の空
  間に惹かれて来たんじゃないか。
  小樽運河のようなロケーションなんてないからな。」
 
 「廃れ荒廃したとはいえ、小樽運河はまだ小樽の人の存在証明みたいなも
  の、小樽人たるパスポートじゃないか。」
 
 「ポートフェスティバルみたいな空間が一年中あれば、町はもっと賑わい、
  俺たちみたい若者の働き口も多くなるのじゃないのか。」
 
 「このままでは、運河が埋め立てられる、その会場がなくなる。」
 
 「まだ、遅くない、小樽運河が新しい賑わいづくりの拠点になるような、
  単なる道路建設反対運動ではない、まちづくり案を提案するイベントに
  したい。 
  来年もポートフェスティバルを開催し、それを市民に訴えていくべや。」 
 
 「だったら、今年のポートフェスティバルのような準備不足はだめだ、
  今から来年のポートフェスティバルを準備する必要がある。」
 

 ・・・こうして、ポートフェスティバル実行委の中心スタッフで組織される
   「小樽・夢の街づくり実行委員会」
が生まれた。
 ・・・しかし、ポートフェスティバルの開催は全員の共通した問題意識だったが、小樽運河保存は仲々意識化されなかった。

 話は長くなったが、それの突破口「水とり山」だった。
 小樽運河こそ、小樽人の水取り山だ、と。

 そして、夢街は以降次々に小樽のまちに打って出た。
 夢街の若者はそれを、
  「小樽という町とSEXするんだ」
と真面目に呼んだ。
 自分たちが動けば、町も人もそれに合わせて声を上げるようになる、と。
 言い得て妙ではあり、しかし年長の例三としては、あまり大きい声では言えないフレーズではあった。(^^)

 この「水取り山」のエピソードは、実は、勘違いの「贈り物」だった。
 
 1978年(昭和53年)に生まれた「小樽・夢の街づくり実行委員会」を魅了し、理念的柱になった伊豆大島の大火とその復興を巡る「水取り山エピソード」。
 法政大学社会学研究室・堀川三郎教授は、1984年以来営々小樽運河保存運動を研究テーマとされ、「データで語る」をモットーに膨大な数の小樽関係者へのヒアリングを続けてこられ、とりわけ小樽・夢の街づくり実行委員会の立ち上げの背景となった、私の言う「水取り山」のエピソードを実際現地調査までされた。
 夢街結成以来、三二年を経過していた。
 2010年と2011年二度にわたって実際伊豆大島に行き、「水取り山」のエピソード」が小樽で語られている内容通りなのかどうかを、わざわざ現地調査をし検証して頂いた。
 伊豆大島大火は1965年だった。
 その13年後の1978年に遠く北海道の小樽の地で石塚雅明によって語られ、そしてそれから更に32年が経っていた。
 大島大火からは、45年を経ての現地調査だった。
 フィールドワークを徹底し、「データを持って語ることが総て」という氏の真摯な調査・研究姿勢に頭が下がる思いだった。
 しかし、その伊豆大島での献身的調査を経た結果は、当時、私や小樽・夢の街づくり実行委員会が魅了されたような話とは、かなり違っていた。
 45年の年月を遡る調査だ、氏のような真摯な調査をされても、「水取り山」のエピソード」の片鱗も手応えなかったのだった。

 それを聞き、私はその調査結果には少々がっかりした。
 が、それならそれで一層面白いとも思えた。
 この「水取り山エピソード」を巡る夢街設立ストーリーは、大変申し訳なく無責任に聞こえるであろろうが、自分自身としては実におもしろいと思わずにはいられない。
 伊豆大島の大火とその復興を巡る「水取り山エピソード」は、これからも追跡調査され、その真実の姿が明らかにされることだろう。
 まったく、そのような話ではなかったと結論づけられるかもしれない。

 が、「水取り山エピソード」による小樽・夢街立ち上げのストリーは、変わらない。

 それに小樽・夢街の若者たちが組織されたのは確かであり、私がその当事者の一人であり、私自身も間違いなく「水取り山エピソード」に獲得され、組織されたことに変わりようはないわけだから。


 「島民が「水とり山」という姿形に求めたものは、実は島民が纏まるためのシンボル性だった。
 政府が支援してくれるという災害支援メニューにたかるのではなく、島民の皆が今こそまとまることを優先し、「水取り山」の復活と建設を選ぶ、島民の凄さがそこにある。
 機能面で時代遅れの港湾設備から近代的道路になるより、これからの小樽のまちづくりをしていく僕らの依って立つ根っこが、
  小樽の「水とり山」=小樽運河
なんじゃないのか・・・、と。」
という、手前勝手な「大いなる勘違い・大誤解」が、小樽・夢の街づくり実行委員会の路線・理念を産み、小樽運河保存運動の第二期の扉をこじ開けた事実だけは変わらないのである。

 モノは、最初から「価値がある」のではなく、そのモノを評価し意識したと同時に「価値」が生まれる。
 それを、交易の原初「沈黙交易」というと、学生運動で経済を知らないとならないと読んだ経済の本に、確か記してあった。
 そのモノを評価した主体が現れ出て来て、初めてモノが価値をもち存在する。
 不要で意味をもたないとし、そのモノを誰かに贈った人の段階では「価値」はなく、そのモノを贈られ受け取った人にとって意味合いがあるとなって、初めて「価値」が生まれる。
 
 「水取り山エピソード」とは、そのような「モノ」の典型だった。
 受け取り贈られた私たちにとって、光り輝く価値あるモノとなった。
 例え、それが「大いなる勘違い、大いなる誤解」であっても。

 「水取り山エピソード」は、ただ話されただけなら、普通なら聞き流されただろう。
 が、どういう路線を作り上げるのかと悩み模索している最中に、その話がいきなり光り輝き、思いの原初となり、理念として昇華された。
 伊豆大島の復興をめぐる「水取り山エピソード」という、まちづくりへの「大いなる誤解」こそが、その夢街会議に参加していた若者たちを魅了し、少数派運動に転落した小樽運河保存運動を甦らせる第二期の小樽運河保存運動として新たな進捗をさせる原動力になったわけだった。

 不思議なことに、北大三人組と呼ばれた石塚雅明氏がその水とり山の話を夢街の面々にしてくれたと私は記憶していた。
 堀川三郎教授の氏へのヒアリングでは、その記憶がないと応えたという。
 が、私はそうではなく、その水とり山の話を早稲田大学・吉阪研究室にいた柳田良造氏から聞き、吉阪研究室の大島プロジェクトの取り組みイメージを夢街で「つい、語ってしまったのだ」と思っている。(^^)
 いずれにしても、そんな水とり山プロジェクトの話は、北大三人組からしか入ってくるわけはなかった。
 
 ・・・その意味では、大変いい加減で無責任という誹りを免れ得ない事例かもしれないが、だから小樽運河保存運動は実におもしろい、としか言いようがないのである。

 
7_03.峯山冨美・小樽運河を守る会会長との出会い。 
 
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小樽運河を守る会第二代会長・峯山冨美氏


 ポートフェスティバルの成功に、少数派運動に転落し自信を喪失していた「小樽運河を守る会」が、蘇生手術を受けたように蘇りはじめた。
  「少数派に転落した小樽運河を守る会を下支えするような、
   別個の新しい市民的裾野拡大を目指した若者に運動体」

という佐々木一夫との話のイメージ戦略が、ここでも実現していった。
 しかし、このポートフェスティバルの成功と登場に勢いづいた小樽運河を守る会は、勢いづき過ぎてポートフェスティバル側にあらぬ働きかけをしてくるようになった。
 いわゆる、
  「小樽運河を守る会とポートフェスティバルと小樽夢の街づくり実行委員会との合流・合
   体
提案だった。

 呆れた話だった。
 夢街はさておいて、ポートフェスティバルと小樽運河を守る会の合体など、市民運動展開を全く理解していなかった。
 ポートフェスティバル全体は、まだ小樽運河保存問題に統一的立場やスタッフの確認などできていない、逆に、そここそが良さなのに合体の対象に考えてしまうわけだった。
 全く運動論を理解しない提案だった。
 自分たちのバンドがステージに立ちたいから参加する若者も多かった。
 彼らと話をしてみればすぐわかることだった。
 そのようなレベルにいきなり「合体論」を持ち込んで、受け入れられるとでも思っているのか、だった。
 小樽運河沿線でイベントを開催するから、小樽運河保存だと都合良く考えているだけの話だった。

 大衆運動を経験していない老齢の婦人達が主軸だった小樽運河を守る会に、運動論など念頭にはなかった。 
 小樽運河問題がある小樽にとって、「若者の手になる全く新たな小樽運河保存運動の誕生」という市民や小樽運河埋立派に与えるインパクトを考慮していなかった。
 「オカミに逆らう赤に利用された小樽運河を守る会」イメージから、小樽運河を守る会自身を解放させ、小樽運河保存運動を新鮮なテーマとして再度浮上させうる装置として、ポートフェスティバルが登場した。

 そのような状況認識や状況把握など無縁なところでの、「ただ運動は一つにまとまるべきだ」的な正義の旗を振りかざす域を脱し得ないでの、合体・統一提案だった。
 ここには、分断と孤立化に包囲されてきた小樽運河を守る会の孤独感からくる焦燥感による合体・統一での運動の強化という焦りがあることは理解できた。

 が、何故、若者たちが小樽運河を守る会ではなくて、
   ポートフェスティバルと小樽夢の街づくり実行委員会
を別個に作らざるを得なかったのかを、全く理解しようとはしていなかった。
 まだ二十代の若者が多数で、高校生まで参加するポートフェスティバルの参加条件に小樽運河保存もとめれば、それは「踏み絵」に近いとされてしまうのをわからない小樽運河を守る会だった。
 小樽運河保存という「正しいことをしている意識」が強すぎ、それが一種の他者に対する「優越的踏み絵」を強制していることに、小樽運河を守る会は気づかないでいた。

 夢街に小樽運河を守る会との合体・統一提案をもっていけば
  「それって、夢街に似合わないって
の感覚的一言で片付けられ、夢街も小樽運河保存を担うという折角の討論の積み重ねで得た到達点をチャラにしてしまい、逆に好スタートを切った夢街の突撃力に水をかけてしまう論議になりかねなかった。

 ましてや、第一期小樽運河保存運動の限界を、
 小樽運河保存運動と小樽運河埋立派との全面対立に至った情勢化で、
   基本方針、基本路線、展望を引き出す努力もなく、
   ただ自己満足的運河保存署名だけしかやれない
現状を、小樽運河を守る会自身が突破できるのか、という本質的問題があった。
 それに挑戦しないで、量的拡大にヨダレをたらす姿勢の小樽運河を守る会との合体など夢街・ポートフェスティバルに何の意味合いもなかった。
 譲って、そういう小樽運河を守る会を脱皮してからの合体論であれば、まだ話として聞く意味はあるが、とても現状では意味はなかった。
 小樽運河を守る会内で「保存とは何か」のイメージすら、統一した見解を持てず、まとまっていなかった。
  「私たちは、運河保存『だけ』を、行政や市議会に求めるだけです。
   保存のあとの再生や再活用は、市民運動の身の丈にあわない。
   それは行政こそがやるべきことなのです

などとする、署名活動で「保存の中身、内容、展望」を求める市民を全く意識しない、それに応えず上記の最後通牒的応答で、市民の極めてシンプルな疑問を結果的に拒否する、市民運動的には無責任なレベルの会員が、大手を振っている小樽運河を守る会だった。
 実際この主張をされる方は、小樽運河を守る会の副会長に就任するのだった。

 健全な意識の夢街や更に小樽運河保存でまとまっているわけではない大衆運動団体としてのポートフェスティバル実行委を、このような小樽運河を守る会に放り投げ込むような合体論など、笑止千万な話だった。
 それは、小樽運河を守る会こそが、自分たちの置かれた位置をクールに理解していない、第一期小樽運河保存運動の限界の残滓の姿、証拠だった。
 やっとポートフェスティバルと夢街の登場で、小樽運河保存運動は「アカだ」とする「ためにする」レッテルを、剥がし始めたばかり、だった。
 にも関わらずの「合流・合体」は、この夢街・ポートフェスティバルの準備の一年の苦労を元の木阿弥にすることしか意味しなかった。

 小樽運河を守る会の中のどの傾向・部分がそういうこと言っているのか、想像はついた。 ポートフェスティバルで当日スタッフをみているのに、話をしてみればわかるのに、ただ頭で考えての合体・統一論だった。
 ただ、「量として」しか、夢街・ポートフェスティバルをみているに過ぎないと笑った。
 合体や統一という言葉を実際に試みたこともなく、観念的にしか考えない方が一番始末におえないわけだった。
 そんな話が、小樽運河を守る会側から出ていたが、放っておいた。
 そもそも、峯山冨美・小樽運河を守る会会長から正式に申し込まれているわけでもない話に、反応するわけにもいかなかった。
 山口のほうから、一切その話は私にしてこなかった。
 山口も「検討する必要もない」としているに違いない、わけだった。 

 とある日、小樽運河を守る会会長の峯山冨美さんから葉書が届いた。
  「一度、ゆっくり話し合いたい。」
との要請だった。
 話す内容は「合流・合体論」に決まっていた。
 ご自宅に電話をし、いつでもと返事をすると、翌日早速来店された。

 二人だけでの、初めての面談だった。
 ポートフェスティバルの成功を喜んでくれた。
 つくられるべき地場の若者の手になる「全く別個の新しい運動体」構想の話を山口などから聞いていたのか、それを笑みを浮かべ喜びながら、でも、目は鋭かった。
  「やっと、あのように多くの市民に小樽運河にきてもらえ、運河保存署名にも列
   を作って頂いて、多くの市民や市外のお客様にも署名を頂きました。
   素晴らしいイベントでした。
   それに、ポートフェスティバルの本部テントの横に小樽運河を守る会のテント
   を並べてくれてありがとう、感謝してます。」
と。
  「峯山さん、失礼ですが子供さんは?」
  「えぇ、いないの」
  「じゃあ、これで夢街とポートという孫が出来ました。」
  「ほんと、そうですね。」
  「子供さんは峯山ご夫妻には授からなかったけれど、私らは峯山さんの孫みたい
   なもので、小樽運河を守る会からみれば、やっと息子が出来たわけですよ。
   親や祖父母を支えるのは、息子・孫としては当然ですから。」
とかわすと、

  「何を言いたくて来たのか、解っているのね。」
 
と。
  「まあ、でも山さんは何と言ってましたか?」
  「無理だって。」
  「私も、というか、無理とかいうレベルの話ではそもそもないと私は考えます。
   そもそも、合体・合流などしちゃ駄目なんです。」
  「そうなの?
   テンでばらばらに道路促進派に立ち向かうより一つになって立ち向かっていか
   ないと。行政や業界の力は、道路促進派の力は、それはそれは大変強いの
   よ。」
  「だからです。
   今の『小樽運河を守る会』は、ためにするアカのレッテルをどうやっても単独
   で跳ね返す力はなく、孤立化策と分断策の前に、少数派を強制されてきた。
   今回のポートフェスティバルで、やっとそういう小樽運河を守る会を市民から
   分断し孤立化させてきた道路推進派の陰険な対保存運動策をやっと破り、真剣
   に小樽運河を残そうとする市民運動であることを宣伝でき、市民から理解を得
   られる取っ掛かりを作れました。」
  「本当にありがとう。」
 
  「峯山さんにお礼をいわれるような他人行儀な関係じゃないのです。
   このポートフェスティバルで、小樽運河保存運動は何を得たのか、何を成果と
   して得たのかをクールに見る必要があります。
   成功に浮ついちゃならんのですよ。 
   つまり、ポートフェスティバルや小樽夢の街づくり実行委員会は、わずか一年
   でここまできただけです、まだまだ「できたてほやほや」の運動体です。
   全体が小樽運河を残せ、という点で固まっているわけでもないのです。
   そこに、合体論をだしたらどういう反応がでるか、予想できますでしょう。
   ですから、温かい目で見て欲しいです。」
 
  「でも、小樽運河を守る会の皆さんは、なんとか夢街やポートフェスティバルは
   小樽運河を守る会と一緒になれないのか、合流できないのかと願っているの
   よ 。
   だって、個々ばらばらでは勿論、ひとつに纏まってても大変な相手なのよ、道
   路促進派は!」
 
 堂々巡りに入り始めていた。 
 
  「はい、それは充分理解しているつもりです。」
  「じゃあ、なぜ合流・合体してくれないの?」
  「あはは、峯山さん、この五年の小樽運河を守る会で随分苦労されたのには頭が
   下がります。
   一番苦労されたのは、オカミに逆らう運動、つまり小樽運河を守る会はアカの
   運動だっていう孤立化キャンペーンに苦労されたでしょう?」
  「はい、それは、もう。私はプロテクタントなのに。」
  「ははは、それがいい例です。
   アカとレッテル貼られて『自分たちはアカじゃない』と言い返しても、もう遅
   い。
   でもですね、自分たちではない他人や別の団体が、『小樽運河を守る会はアカ
   の運動なんかじゃない』と言った方が、一番第三者に説得性と効き目がありま
   すよね。
   今回のポートフェスティバルでのように、小樽運河を守る会は政党に振り回さ
   れるような団体じゃない、不偏不党のただの市民の運動体なんです、とポー
   トフェスティバルの若者達と並んで訴えることで、そんな市民と小樽運河を守
   る会との分断を謀り「ためにする」孤立化キャンペーンに負けないで、やって
   いける。
   小樽運河を守る会がずぅっと悩んでき、突破できないできた埋立派のキャンペ
   ーンを、
   小樽運河を守る会は、ポートフェスティバル本部のそばで並ぶことで、一発
   で吹き飛ばし
たのではないですか?
   ポートフェスティバルという現場で、それが実証されたのです。」 
 
  「うぅ〜〜んん、そうねぇ。」
 
  「でしょう? 興次郎さんや山さんと話しているんです、『別個に進んで共に撃
   つ』路線だ、と。
   だから、別に合流や合体なんていう意味もない。
   峯山さんは、腹の中で、最初から夢街やポートフェスティバルは小樽運河を守
   る会の青年部なんだ、と思ってくれていればいいのです。」
  「小樽運河を守る会青年部?」
  「はい、それに、小樽運河を守る会の上質な若手会員は皆ポートフェスティバル
   の各部会で役割りを担ってくれてます、その彼らからは小樽運河を守る会とポ
   ートフェスティバルの合流・合体なんて話は全くでないでしょうに。
   彼らは、わかっているのです。
   そんなの無理だって。
   それを知らない小樽運河を守る会の会員さんが合体を言われる。
   あの峯山さんがポートフェスティバルの二日間でナマで見たポートフェスティ
   バルスタッフの感覚って、年かさの世代が上からもの申してハイって聞くよう
   な感覚じゃない。 
   もし、今、私が小樽運河を守る会との合流・合体をポートフェスティバルやそ
   の中心部分の連中に言ったとしましょう? 
   即、『最初から企んでいたのか』、『小樽運河を守る会によるポートフェステ
   ィバルの政治的利用、政治的引き回しだ』となって、折角の結集軸が壊れてし
   まいます。
   古い話になります。
   ビキニ環礁原水爆実験反対運動が、原水禁と原水協の分裂に発展し、折角、
   東京世田谷の割烹着の主婦たちの行動力から始まって一挙に全国民的な水爆実
   験反対運動に成長したのに、
    『あらゆる国の原水爆実験反対』
   と
    『社会主義国の核は防衛的できれいな核だ』
   とする、実に皮相で消耗な、社会党と共産党の対立が原水爆実験反対の国民運
   動の場に持ち込まれたことが引き金になって一挙に衰退してしまった。
   同じ結果しかうまない、と思います。」 
  「そんなに、小樽運河を守る会へのアンチの気分があるの?」 
  「小樽運河を守る会にというより、長年キャンペーンされたアンチ共産党意識、
   村八分意識、色分け意識に若いもの達だって、大なり小なり染まっているんじ
   ゃないですか? 
   市議会陳情だって、誕生当初は豊富さんがいて、社共両党の紹介陳情でしたが
    、今は共産党一本でしょう。 そうやって、ねちっこく小樽運河を守る会=
   共産党=アカという刷り込みを市民にしているわけですから。」 
 

 意を決したように峯山会長は言って来た。
  「小川原さんも?」 
 やっと、打ち解けて来はじめていた。 
 
  「山さんや私は、学生運動で鍛えられてそんな低次元なキャンペーンに乗りませ
   ん。 
   が、運河保存を快く思わない人々が尾ひれはひれつけて言うのに、材料を与え
   てきてしまった小樽運河を守る会の弱さは、否めないでしょう。」 
  「陳情紹介依頼を小樽運河を守る会が社会党にしても、いい顔しないこともある
   のよ、豊冨さんがいてくれたときはそんなことなかったのに。」 
  「ははは、政党だからと一把ひとからげでみても駄目です。
   豊冨さんは北教組です、今の書記長は地区労・運輸労連出です。
   社会党と強い関係である、その運輸労連が道路促進の急先鋒だからです。
   社会党も小樽運河保存で一本化しているわけではないのです。 
   その時々の力関係であそこはブレます、現に地区労の書記長は運輸労連で道路
   促進派じゃないですか、「運河保存じゃ、パンもくえない」って全く今の時代
   感覚さえ持ち得ないで、露骨な物取り主義的発言をする方です。何も不思議じ
   ゃないです。
   でも、私ならそれでも執拗に社会党にも公明党にも陳情紹介依頼をして、逃が
   しませんけれど。」 
  「そして、これからは失礼なことを言いますが、ご気分壊さないでください。
   今の小樽運河を守る会の基本運動路線は、もう全面対決に入ったこの段階では
   組み立てなおさねばないでしょう。
   ただ、保存署名を延々繰り返すだけの方針で、小樽運河を守る会自身が持ちま
   すか?
   市民の『保存はいいけど、残した後はどうするのか』という質問に、それは
   行政のやること、市民の私たちにいわれても困る」なんて対応をする小樽運河
   を守る会会員ですよ。
   今の会員さん自身、自分たちが変わらねばならないと思っておられますか?
   そう思っておられるなら、合体論を真面目な話とうかがえますが、全くそれに
   自分自身を変えることは大変です、でもそれに手も触れないでの合体は、夢街
   やポートフェスティバルの合体で、ただ量的拡大をはかりたいだけの、本末転
   倒の話ではないですか?」
 
 峯山会長は、私の話を聞いて考えていた。 
 言い過ぎたか、と少し後悔した。
 
  「もぉぉ、ポートフェスティバルと小樽運河を守る会の合体・合流はこの際置き
   ます。 
   小川原さんが、小樽運河を守る会に入ってやってくれると助かります。」 
  「何度か小樽運河を守る会幹事会に顔を出しているじゃないですか。」 
  「でも、出席してくれたのはホンの数度、それにこんな話はしてくれません
   よ。」 
  「ははは、だって幹事会の帰りに喫茶店にさそわれたら、いきなり『お見合い
   』させられるような会議はねぇ、流石に行けませんよ。」 
  「まあ、Kさんね。だから困るのよ、悪気があってすんじゃないのでしょう
   が。」 
  「あはは、だから峯山さんは皆から愛される。
   悪気はなくても、意図的ですね」
 
 峯山冨美会長の目が鋭くなってきた。
 
  「あの『お見合い』を進められ、もし結婚でもしたらもうKさんには頭があがら
   ない、もし意見がこれから対立したときのために、それを計算されていると思
   われませんか?」 
  「ええ?」 
  「私は、そういう風に考える人間です。
   あのKさんのお見合い路線は、小樽運河を守る会会員拡大に名を借りた、Kさ
   ん主導権のための多数派工作でしかありません。」
 

 ついに言ってしまった。
 峯山冨美会長もそのくらい考えていた。
 それを指摘されて、峯山冨美会長は唸った。 

  「小川原さん、お見通しなのね、驚きました。」
  「あのですね、全共闘運動ってただ街頭で機動隊と格闘したり、大学でバリケー
   ド組んだりを面白がってやっているような見方される方が多い。
   しかし、七千人の大学で教職員も含めて二千人のデモをするような大学は滅多
   にありません。 
   峯山会長さんに支援いただいた「戸村選挙」などもやるわけです。
   それは日常普段に様々な目立たない活動があって初めて成立するのです。 
   当然、大学にも自民党から共産党、そして新左翼セクトがいる。 それを調整
   し、ひとつにまとめ上げるなど結構大変です、力わざも必要ですが、人を見
   る目も大事です。
   山さんを夢街やポートフェスティバルで会長や副会長の肩書きをつけなかっ
   たのも、山さんは小樽運河を守る会で峯山会長のサポートをずっとやってもら
   うための措置です。
   考えていないようで、根っこの処は考えているつもりです。」
  「わかりました。」
  「峯山会長、いいですね、私はあの小樽運河を守る会幹事会を何度か出席させて
   頂いて、峯山会長のご苦労が本当に心底わかりました。
   申し訳ありませんが、私たちは今はまだ小樽運河を守る会青年部です。
   その代わり、何でも、いつでも、遠慮なく言って下さい。
   峯山冨美会長の様々な悩み、私なりに推測しております。
   私も、興次郎さんも、小樽運河を守る会青年部であり、峯山会長の孫です。
   これは本当の気持ちです。
   いつでも電話でちょっと来いをかけてください。」 
 

  ・・・それから、暫く様々に話し会い、峯山さんは帰られた。
   
 しかし、以降、暫くは出会う度にこの合体・統一論がぶり返されて、私はそのときだけは逃げ回ったものだった。
 峯山会長は、さるものだった。
 小樽運河を守る会の会員が同席したときだけの、小樽運河を守る会会員を意識しての、その合体の訴えだった。(^^)
 合体論をいい、それが進まないのに不満を持つ会員の前での演技だった。

 やるなぁ、と関心した。
 敬虔なプロテスタントが、政治技術を使いこなしていた(^^)
 そんな峯山冨美会長に安心したものだった。
 
 まさか、齢六〇歳で小樽運河を守る会会長に就任して苦労される峯山会長をつっけんどんに拒否するなどできなかった。
 峯山会長の私に対する、初めて本気の「面とおし」だった。
 私がどんな人間なのかのテストは、クリアしたわけだった。

  この項終わり

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                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。