9_01 「第一期」小樽運河保存運動の終焉と「第二期」の開始
 
 「第二期小樽運河保存運動」が、いよいよ始まった。
 1973年(昭和48年)冬に、「小樽運河を守る会」が結成されて五年を経ていた。
 そして、小樽運河を守る会とは全く別個の、
  新しい地元の若者たちのまちづくり市民運動団体である夢街
  まちづくりイベント・ポートフェスティバル
が誕生した。

 わずかだったか、長かったか、五年前だった。
 物流港湾都市として栄えた過去を未だに引きずる経済界は、自ら築きあげてきた小樽の政治決定構造を手放す気は毛頭ない中で、それにオカミ意識の強固な政治風土のこの町で、小樽の街では初めてと言っていい市民運動としての小樽運河保存運動がスタートした。
 当初、「かけがえのない先人達の遺産を守ろう」というスローガンの中に籠められた創設者たちの思いは、小樽で初めて生まれた小樽運河を守る会という市民運動団体を、政治に巻きこまれて潰させてはならないと、行政との話し会い路線を採用したのは当然だった。
 当時の、この国の戦後五五年体と未熟な野党・社共構造に巻きこまれない、つまり保守VS革新という政治対立構造に巻きこまれずオール小樽の市民運動確立路線を採用する
 それは、確かに賢明な判断だった。

 しかし、既に運河埋立道路建設の都市計画決定手続きは着々と進められていた。
 小樽運河を全面埋め立てする道々小樽臨港線・六車線道路建設工事は、既に小樽運河目前の小樽堺町有幌地区まで進捗した段階だった。
 創設されたばかりの小樽運河を守る会は、懸命に情宣活動をし、行政や議会に陳情要望活動を行ったが、行政手続きは次々に進み、市議会で強行採決されて来ていた。
 このように、運河埋立派と運河保存派の対立は、日に日に明確になっていく。
 当時の稲垣市政は次第に小樽運河保存運動派との話し合いを無視していく。
 その稲垣市政後半、運河埋立派は小樽運河保存運動と市民との分断策と孤立化策を進めていき、小樽運河を守る会の卓越した指導者は逝去され、又は政治的圧力を受けてさらに病に倒れ運動から去り、後継の事務局長代行らは行政とのボス交・談合路線に走り、実質的に罷免されていた。
 結果、小樽運河を守る会は会の内外から発生する混乱によって、遠心化と希薄化が次第に濃厚になって来ていた。
 結成当初、二〇〇〇人を数えた会員は幽霊会員化し、道路促進派による運河埋立・道路建設促進の要望と陳情団体である《道道臨港線早期完成促進期成会》結成は街の企業主・商店主の「踏み絵」強制装置となり、少なくない経済人が小樽運河を守る会から離脱し「隠れ保存派」化し、小樽運河を守る会は少数派運動に転落していった。
 
 「話し合いでのオール小樽の運河保存」の基本運動路線は、行政と運河埋立派の全面対決路線の前にもはや機能せず、破綻していた。
 にもかかわらず、
  「運河の『保存』だけを求めます。
   再生や再活用など訴えるのは一般市民として身の丈にあいません、
   「保存」後の様々なメンテナンスや維持経費も、それは行政が考えるべき
   で市民が考える課題ではありません。

という、誠に身勝手で無責任な主張が市民から認知されるなどと考える小樽運河を守る会内の傾向を抱えていた。
 そのような質の小樽運河保存運動では、とても全面対決に踏み込んだい埋立派と勝負にならなかった。

 このような質の第一期小樽運河保存運動では、行政・経済界の道路促進派は、勝負あったと当然思っていたし、運河埋立を阻止できず、このまま運河は歴史の中に消えていくのかと、小樽運河を守る会の良質な傾向は、運河を埋め立てて6車線道路を建設し、ただ通過されるがままの街となるのを良しとする、そんな小樽になっていいのかとし、いよいよ観光が「癒し」をテーマした時代の兆しが見えていて、レトロとノスタルジックを醸しだす先人達の産業遺産や歴史遺産をフル活用した、それもマスツーリズムではなく『生活の臭いにあふれた人の顔をした新しい観光』という切り口の、そういう『まちづくりを進めるキーポイントが小樽運河と周辺歴史的建造物ではないか』とした。
 
 そのような攻勢的主張を今一度市民各層に届け、その市民各層を巻き込み、小樽運河保存運動を全面に登場させ、その市民の圧倒的支持を圧力とし、もう一度運河埋立派と真っ正面から対峙し論争を組織する、その基本路線を採用しないでは、突破口はなかった。
 ついに、少数派運動に転落した小樽運河を守る会主導による『第1期』小樽運河保存運動こそが、その攻勢的な主張を掲げる夢街の登場を促し、その主張を運河周辺の現場で提示するまちづくりイベント・ポートフェスティバルを誕生させた。
 ここに第一期小樽運河保存運動は、幕を下ろすことになった。

 市民を小樽運河問題に広範に巻き込み、市内外に小樽運河保存運動の裾野を拡大していく『第2期』小樽運河保存運動は、
  「小樽運河をキーポイントとするまちづくり市民運動
として展開すると宣言した。
 名もなければ肩書きもない、地場の若者たちによるポートフェスティバルと夢街の登場によって、その扉はついにこじ開けられたのだった。


9_02. 対立激化の中でこそ、街へ向かい、生きた知恵を使う
 
 しかし、喜んでなどいられなかった。
 もう翌年のポートフェスティバル第2回の開催を巡って、すでにポートフェスティバル実行委は試練に立たされていた。

 ポートフェスティバルの第1回目は、ある意味、道路促進派の油断をついての不意打ちで開催にこぎ着けられた。 
 もう壊滅寸前だと思っていた小樽運河保存運動が、どこから湧いて出て来たのかとする若者の手で蘇生された。
 ポートフェスティバルと夢街の登場と、それに続く「小樽運河共同アピール」での小樽運河保存4団体の登場、街への思いの表現と限りなく『まち』の将来像を求める若者達のひたむきさが、マスコミや報道による好意的記事やTV番組を生んでいた。

 道路促進派は衝撃を受けた。
 保存派は死んだふりをしていたか、と憤った。
 その牙城である小樽運河のお膝元の港湾業界や運輸業界では、徹底敵な締め付け強化の挙にでた。
 そのように憤った道路促進派のまっただ中での第2回のポートフェスティバルの開催は、実行委員会にありとあらゆる対応能力が要求された。
 とりわけ実行委員長には、その調整・説得工作が要求されていた。
 そして、その実行委員長は私にお鉢が回ってきていた。

 道路促進期成会の実質的トップは、フタバ倉庫会長・菅原春雄氏だった。
 港湾とそれに関連する業界は、氏にとって依って立つ基盤だった。
 その港湾業界や倉庫関係業界を、運河埋立派は締め上げた。
  「石造倉庫は、借りれられないようだ。
とする話が、ポートフェスティバル内部で不安げに語られていた。
 小樽運河の沿道、道道や市道は借りられるのか?
 艀は借りれられるのか?
 不安はポートフェスティバルを重苦しくさせていた。

 そして、いきなり労働運動側から、小樽運河保存運動に攻撃がなされた。
 樽労(地区労)大橋書記長(運輸労連出身)が、月刊「労働問題」という雑誌に寄稿した。
  「時代の役割を終えて周辺環境を悪化させる小樽運河を文化遺産として保存
   すると小樽運河保存派は言うが、『文化でメシは食えない』。

とし、 
  「長崎と神戸と小樽運河が日本の三大景観だ、なんていう学者がいるそうだ
   私は長崎と神戸に行っていない、が、小樽運河と並ぶなら、よほどその街は
   酷く汚い街なのだ、ということだ。
と。
 知性の片鱗もない発言だった。
 小樽労働運動のトップの文章に品性の欠片もなかった。
 曲がりなりにも、当時社会党は小樽運河保存を態度としていた。
 が、地区労書記長は
  「小樽運河保存は関係なく運河埋立道路建設で運輸関係労働者が
   食えるようになればいい」
の一点を露骨に主張した。
 小樽という街の有り様を憂うのではなく、自分たちの「物取り」だけを優先した。 
 確かに、物流港湾都市として小樽港は没落し港湾・運輸関係労働者の生活を圧迫していたのは理解できた。 
 が、街の将来とは無縁のところでの、ただ「賃上げや職場維持」だけの物取り主義労働運動とそれを見越した経営サイドの「労使癒着」路線の産物だった。
 これが、社会党・総評(地区労)の衰退の要因なのを、まだ気づこうとしない、いや気づいていたからこその組合官僚生存路線だった。 
 
 続いて、道路建設促進派の締め付けは、港湾関係企業に波及してきた。
 前年、ポートフェスティバル会場として貸してくれた
  前野商店麻袋工場倉庫
は、第2回目の開催を前にして社長が「貸し出しを渋っている」とポートフェスティバルの会議で報告された。
 山口が、早速理由を伺いに行く。
 前野商店社長の顔に苦しそうな表情と「わかるだろう」という目を見て、それ以上何も言えず帰らざるを得なかった、と報告された。

 その情報は、ポートフェスティバルの会議に緊張感を走らせた。
 石造倉庫でのポートフェスティバルの企画は、何とか他の場所に振り返ることができた。
 しかし、
  艀(はしけ)会場は、ポートフェスティバルのシンボル的空間
だった。
 借りなければ、それの振り替えをというレベルの空間ではなかった。
 その艀も、第1回ポートフェスティバルでは、前野商店社長を通じ北日本倉庫港運株式会社所有の艀を借りて会場として利用できた。
 が、2回目のポートフェスティバルには、北日本倉庫港運株式会社も前野商店社長と同様の態度をとるのは予想できた。
 案の定、北日本倉庫株式会社はポートフェスティバル実行委と、そもそも会ってはくれなくなった

 全部の艀の所有会社に道路促進派からお触れが回っているという不安を持ちながら、しかし、艀(はしけ)を所有する他の港湾倉庫会社の協力を求めざるを得ないところに、ポートフェスティバルと夢街は追い詰められていた。
 実行委員長の責任が一挙に問われる事態となった。
 たまたま、弊店には艀を大量に所有する郵船海陸株式会社の社長と専務が毎日といっていいほどお昼にお蕎麦を食べに来て頂いて、顔見知りになっていた。
 意を決して、その専務を訪ねて艀の貸し出し協力をお願いした。
 けんもほろろに断られた。
  「お前ら、即運河問題などで断る、と思うのだろうがそうではない。
   万が一、艀から来場者が運河に落下する事故が発生したら何処が責任とるの
   か。
   オマエサン、溺死体みたことないだろう。
   艀と艀の間に落下し、揺れる艀同士に挟まれて助けたくても引揚らない事故
   など想定していないだろう。
   業界の人はそんな事故を見てきているんだ。
   北日本倉庫さんも、昨年はたかをくくって、少人数イベントと思い、貸し出
   した。
   が、あの来場者の数に驚いた。
   当然だ、万が一の事故発生には会社の責任問題になると考えてオマエサンた
   ちと会わなくなるのはな。
   企業の責任と若者主催イベント責任のレベルは、天地の差だ。
と突き放された。

 が、こうなっては、引き下がれない。
 それから、毎朝、専務を訪問し懇願することになる。
 しまいに、会社で門前払い状態になった。
 しかし、ポートフェスティバル開催は迫って来ていた。
 ポートフェスティバル会議や夢街会議にそんな話をすごすごと持ってなど帰れない状態になって行った。
 切羽詰まって、港湾業界がよく使うスナックに通い、専務と会う機会を待つことにする。
 スナックのママさんに事情を説明すると、笑ってビールを出してくれた。
 何度か空振りして、ついに待ち構える専務がスナックに入ってきて、カウンターに。

 "しつこいなぁ、だがしつこさで同情引いて勝とうなんて、俺には効かんからな。"

 "・・・・"
 "あのな、意地悪で言っているんじゃない。 
  出来ないものは出来ない、と言っているんだ。 
  俺の会社が断れない理由を、オマエが用意しないかぎりな。"
 
と言って、私のビール代も払ってくれて私を置いてさっさと帰ってしまわれる。
 優しく慰めてくれるママさん。

 " でも、専務も粋ねぇ、ちゃんと助け船出して。"
 " えぇ? 助け船ですか?"
 " もお、頭悪いわねぇ、『会社が断れない理由』って言ってくれたでしょうに。"
 "『会社が断れない理由』・・・、一体何なんでしょう。"
 
まだ、20代の世間知らずは自宅に帰って考えるが答えが見つからない。 
で、また、そのスナックに通う。
 " で、答えは出まして?"
 " 恥ずかしいです、全く、わかりません。"
 " うふふ、大学では習わないわねぇ、実社会での「振る舞い」は。
  『会社って何には弱いか』ってこと、考えてごらんなさいよ。"
 " 何に弱いか・・・、税務署ですか?"
 " もう! 貴方のおそば屋さんで、頼まれたら断り切れないことってないの?"
 " 私のオヤジは外面いいから、何でもひきうけちゃいますねぇ。"
ママさんは、そんな会話に飽きてきて、
 " ね、おそば屋さんによく「社会奉仕」での協力依頼なんかこないの?"
 
と言って、戸締まりを始め、私は追い出され帰宅した。
 翌日、昼間、郵船海陸社長と専務が来店、蕎麦を召し上がってさっさと会計されて。 
 慌てて裏口から出て、車に乗り込もうとするお二人に挨拶すると、専務がぼそりと。
 ”諦めたか?”
 ”いえ!”
 " もう、そんな若者のイベントなんかやめて、『社会奉仕』でもやればいいんだ。"
と言って車に乗り、去って行った。

 ・・・「社会奉仕」という言葉を、スナックのママさんも、専務も言った。
 「社会奉仕」という言葉が頭の中で、鐘のように鳴り響いていた。
 鈍い頭がやっと回転し、ライトが灯った。
  「そうか、社会奉仕、社会奉仕だ。」
と、口に出して小躍りし板場に戻る私がいた。
 店が一段落して、山口に電話を入れる。
  「社会奉仕で、どこかの施設の子供達をポートフェスティバルの艀会場に招
   きたい。
   施設に口利きできる奴いるか?」
  「ああ、岡部が得意だな、でも、艀会場って、OKくれたのか?」
  「いや、そのOKもらうのに、招待する社会福祉施設が必要なんだ。」
 早速、岡部から連絡があって、施設側も招待されたら快く伺うと返答があったと。
 正式に艀の貸し出し願いを作成する。

  「普段、施設外に出かける機会の少ない社会福祉施設の子供達を、来る第2
   回ポートフェスティバルで開催される各イベントに招待することを企画致
   しました。
   ここに、社会福祉施設の子供たちに楽しんでもらう機会提供のため、御社
   におかれては社会奉仕の一環として、子供達が安心して参加でき休憩も取
   れる場として、御社所有艀をポートフェスティバル期間の二日間お貸し頂
   くようお願い致します。
 電話し、専務にアポを正式に取り、翌朝訪問する。
 門前払いもなく、真っ直ぐ専務の机に案内される。
  「なんだ、今度は別件で相談だって?」
  「社会奉仕への協力のお願いに参りました。」
 真っ直ぐ封筒を出す。
 フンと鼻を鳴らし、開封し目を通す。
 数分が何時間煮も感じた。息も吐かず答えを待つ。
 

  「フン、社会奉仕というなら致し方ないな。
   明日までに貸し出し許可証作っておくので、取りに来い。何艘だ?
  「で、出来れば、さ、三艘、いえ四艘を」
  「ナンダ、そんなに施設あるのか?」
  「はい、これから更に要望先の施設が出てくると思います。」
  「フン。」
 苦虫を潰したような専務の顔は、目だけが優しさに包まれていた。

 ・・・以降、小樽運河が埋め立てられて、ポートフェスティバルの開催会場が第3埠頭基部に移る第七回ポートフェスティバルまで、艀会場の艀は郵船海陸株式会社から無償で『艀」会場として提供され続けた。

 ポートフェスティバルが毎年施設の子供さんを招いたのは言うまでもない。
 艀を借りるのに社会奉仕を理由にする、というその利用主義に対するお詫びの気持ちを込めてだった。
 毎年、郵船海陸株式会社の艀の担当部署の社員さんが、開催当日前日には来場客落下防止の柵まで取り付け、艀と護岸の間を繋ぐ「あゆみ板」への落下防止柵までつけてくれて、貸し出してくれた。
 頭が下がる思いだった。

 まちづくり市民運動を展開する際、町中で真二つに意見が割れている中では、相対立する側への交渉を最初から諦めがちになるが、そうではなかった。
 会社の市内での立場を充分配慮しながら、それでもなお、どういう名目があれば協力を得られるかとして考え動くことが、つくづく大事だと思い知らされた。
 小賢しい知識などではなく、思いに裏打ちされた人本来の「知恵」で向かい合うことの大事さだった。 
 そしてもっと重要なのは、運河埋立と運河保存の対立など無関係に、それでも社会は回っていることを、学んだことだった。

 この経験は早速教訓化されていく。
 若者のイベントに似合わないこの様々な政治的配慮は、イベントの中身でも貫徹された。

 広大なポートフェスティバルの第一回開催会場の大容量の電気配線工事は、電柱にトランスを新規に設置しなければならない工事で、いくら若者に手作りイベントだといってもプロの電気工事会社に請け負ってもらわねばならなかった。
 山口保の手宮《メリーゴーランド》の町内の越前電気株式会社の社長が、若者の心意気にほだされ、有り難いことに開催のために請け負ってくれた。 

 但し、同社は小樽市指定入札権のある電気工事会社だった。
 ポートフェスティバルの会場電気設営工事を第一回同様、第二回目も請け負ってくれると言ってくれてはいたものの、不意打ち的第一回開催とは違い、道路促進派もポートフェスティバル開催に関係する会社等を完全にマーク・チェックし、ポートフェスティバル以降の電気工事発注や入札で影響を与え、やろうと思えば干すことも出来ると判断した。
 電気配線工事を請け負ってくれるのは嬉しく有り難いが、それでぬか喜びし越前電気にそんな迷惑はかけられない。
 そんなポートフェスティバルの若者の危惧を、越前さんは笑って捌いてくれた。
  「越前電気一社でなく、電気工事業組合青年部で請け負えばいいべや
とあっさり応えてくれた。
 越前電気一社受注ではなく、小樽の電気工事業組合青年部で電気工事を請けることで、一社請負ではなく電気工事組合傘下の各会社の売上アップのビジネスだ、と後に締め付けがあったとしても言い抜ける用意をしてくれていた。
 不景気のどん底で建設関連工事が少なく、付属する電気工事受注も激減しているなかで、少しでも売上が欲しいという電気工事業界の「経営の論理」を全面に出し、黙って札幌の電気工事業者に市内の工事を取られるの指をくわえて見れというのか、と逆にタンカを切れ、道路促進派もポートフェスティバルの電気工事を請け負ったことをもって干すことなど出来ず、それが一社でなく業界組合で請け負ったとなれば万全だった。
 皆、大人の知恵を学んでいった。

 酒類の販売も同様だった。
 酒類の販売は免許を持つ酒販店でなければならなかった。
 これも山口保が電気工事と同じく手宮の三浦酒店の店主に頼み込み、第一回は請け負ってくれることになった。
 第二回は、第一回以上に酒販用テントが増加する予定だった。
 ここでも同じく三浦酒店の一社請負でなく、市内酒販組合青年部が請け負い、組合傘下の各酒販店に出店してもらうことで、一社請け負いで特定の酒販店が道路建設促進派からのマークされないように出来、市内の酒販店の出店の手はずを組んでくれていた。
 このような政治的配慮は、逆に電気工事会社や酒販店から感謝された。
 何せ自社・自店の売上につながるわけで、ポートフェスティバル実行委が小樽を元気づけるためのイベントという看板に偽りはないと好感で迎えられる要因となり、逆に運河問題に真摯な姿勢で向かってくれる関係構築にも役だっていった。
 小樽運河保存派の若者達も結構やるじゃないか、と。

 前年の第1回ポートフェスティバルでは、市道や道道の道路占有許可申請(道路を借りる申請)は、前年の交渉担当だった大谷勝俊・笠井実両氏の頑張りが生きていて、逆に拍子抜けするほどスムースにいった。
 何度か申請手続きにそれぞれ役所にいったが、窓口の係が事務的に対応してくれたが、上司がたまに出てくると少々やり合いがあった。
 兎に角、黙って何も言わず許可するするのが我慢できないという係長、課長クラスによく見られた。

9_03.ポートフェスティバルの素人出店

 テキ屋、つまり香具師との交渉だけは、想定外の事態だった。
 前年第1回で、「素人出店(しろうとでみせ)」と名付けたことが、逆に自分たちを縛ってしまい、問題を面倒にしていた。
 前年のポートフェスティバルでは、運河沿道の一般市民による出店が大変人気をはくした。
 古物商などは、プロが出店した。
 が、あとは手作り手芸などの作品を出展したり、家庭のタンスや棚の場所塞ぎの品々を並べたりと大賑わいだった。
 第2回のポートフェスティバルは、その素人出店が前年以上に参加数が拡大し、300軒近くの申し込みが見込まれた。

 しかし、前年の第1回は、何軒出てくれるかまったく予想は立たなかった
 どれだけ出店数があるか、開催前は軒数が読めなく、実行委は頭を抱えた。
 会場が寂しかったらサエないとなり、山口が担当になって、これまた手宮の町内会幹部の紹介で、小樽のテキ屋の元締め、テキ屋組合「両国」組の秋川親分に出店を依頼した経緯があった。
 秋川親分は素人がそんな祭りを開催すると舐めてかかり、申し訳程度のテキ屋組合傘下の組合員を出店させた。
 が、流石のテキ屋組合も第1回のポートフェスティバルの来場者に度肝を抜かれた。
 第二回目はメンツにかけて出店する気持ちでいた。

 が、ポートフェスティバル自身はそのネーミング「素人出店」にこだわり始めていた。
 それだけ大評価を受けたのは、プロのテキ屋や香具師が参加しない出店だったからだ、となった。
 純粋、全て素人、つまり一般市民だけの出店でやろう、という路線を突っ走る。

 しかし、実行委員長としては、第1回目は協力を依頼しながら第2回目は出店を断りに行くという交渉をする役回りを押しつけられた。
  秋川親分は
  「昨年はテキ屋組合も突然の申し込みで万全でなかった、
   今年は全傘下のテキ屋を集め出店するつもりだ
と息巻いた。
 そもそも古いテキ屋組合である「両国」組は、新興勢力に押され気味だった。
 ポートフェスティバルのように八万人も来場者がくる祭りの出店を取り仕切れないという事態は、新興勢力が更に攻勢的になることを意味し、秋川親分も引くに引けなかった。
 ましてや、覚醒剤事件で刑務所に入所しその間にテキ屋組合は一層弱体化していたから、意地でもポートフェスティバルに出店すると息巻いた。
 何度も秋川親分の自宅に伺っては、出店遠慮願い行脚だった。

 業を煮やした秋川親分は、若い衆を引き連れ蕎麦屋の昼時に蕎麦を食べに来て、お客様にガンを飛ばし、ウェイトレスのヒップを触りと嫌がらせの挙に出た。
 頭が痛くなったが、学生運動気質で警察にヘルプを求めるのもイヤだった。
 翌日、平然と秋川親分のお宅に山口と私で何度目かのお邪魔をし、私は弊店の来店の御礼をし、ポートフェスティバルへの出店遠慮を、再々度敢然と繰り返した。
 蕎麦屋への嫌がらせについては何も抗議もしないことを見てとったか、又、それを繰り返して警察沙汰になるのも弱体化した両国には困るわけで、ついに若頭級の組員が責任もって対処すると親分にことわり、水天宮の坂道でお互いどうしたらメンツが立つかの、やっと本格的調整になった。
 結果、ポートフェスティバルの出店会場の各ブロックの四つの角地に、両国組傘下のテキ屋(わた飴屋やお焼き屋など)を出すことでポートフェスティバルの「出店は両国組が仕切っている」と他のテキ屋組合が来ても言い訳できるようにする、となった。
 ポートフェスティバル側は、テキ屋風衣装ではなく一般市民の服装で出でもらう条件をだし、双方手打ちをする。
 200軒を軽く越える出店出展数で、四角四店が三カ所あっても12店で一割にも満たないということで「影響はさほどない」と山口も私も、手を打った。
 こうして、一般市民だけのポートフェスティバル素人出店へのテキ屋の出店問題も、片を付けられた。
 ポートフェスティバルの素人出店部会では、12店と言えば一割弱で5%超えだとスタッフから怒られたが、部会長が了解してくれた。

 が、回を追う毎に、素人出店は出店数が増え、最盛期は四〇〇店以上となる。
 両国組は
  「出店が四〇〇店を超える祭り、それも二〇万人以上も来場者がくる祭は、
   北海道神宮例大祭しかない。
   ポートフェスティバルの出店数は、全道第二位だ。
   北海道神宮例大祭が「大旗」で、ポートフェスティバルは「中旗」だ。
   『小旗』の祭なら今まででいいが、『中旗』の祭で、四つ角だけでは小
   樽のテキ屋組合のメンツが立たない。
   どうしてくれるんだ。」
と、すごんできた。
 調整役の若頭も、秋川親分の「両国組」に愛想を尽かし去っていた。
 又、蕎麦屋に若い衆を客として送り込み嫌がらせをしてき、ついに私も警察頼りはイヤだというメンツを棄てた。
 警察署暴力団担当部署に相談にいき、いわゆるマル暴担当課長から叱られはしたが即動いてくれて、以降ポートフェスティバルとテキ屋組合の接触はなくなり、一〇〇%素人出店になった。

 しかし、私は実はこの「素人出店」でのテキ屋排除を後悔し続けた
 時代は、小樽でも古い「テキ屋道」(アマテラスが天の岩戸に姿を隠したとき、何とか外に姿を出させようと料理を並べ踊り賑やかにして、アマテラスの興味を引いたという神話で、店を出したのがテキ屋道の原初だとする)を信奉するテキ屋組合と、暴走族を傘下に納めテキ屋を単なるシノギの一つと割り切る新興暴力団とのせめぎ合いの時代に加え、山口組の北海道進出という流れがあった。
 道警は山口組進出に対し暴力団対策を強化し、とりわけフェリー港はその監視重要対象で、その港町の暴力団壊滅作戦を展開していた。
 現に、山口組員がフェリーで小樽に大挙上陸し、市内の飲食店で大宴会をし、その飲食店前は大量の警察官が配置されるという事態が何度か起きていた。

 小樽警察署のマル暴はしたたかで、ポートフェスティバルの素人出店を参考にした。
 全道の祭り会場から暴力団テキ屋を排除するためのモデルケースにした。
 テキ屋組合には、本当に商いとしてテキ屋だけをやる組員もいれば、覚醒剤や大麻などを売り暴力団傘下でシノギとしてやる組員もおり、千差万別だった。
 が、この結果は、いわゆる健全なテキ屋も含めテキ屋全てが祭りから排除されていった。
 しかし、祭りは、光と影があっての祭りだというのが私の持論だった。
 祭とは、妖しく怪しい危しさが匂い、暗闇のなかに浮かぶサーカステントやお化け屋敷の灯りや、ジンタが響きチンドンと三味線の「美しき天然」が流れないとならない。
  「いいかい、あの出店のお兄ちゃんみてごらん、
   あのお兄ちゃんは悪い仲間に入ってしまい、
   1年に数度しか、住吉さんや龍宮さんのお祭りのときしか自分の街に帰っ
   てこれなくなったんだよ。
   そんな風になるのはいやでしょ! 
   だから悪い仲間に入っちゃ駄目よ。」
という、親から子供への説教は素人出店では無くなってしまった。
 悪い事例があっての説教だし、その怪しく怪しく危やしい雰囲気が祭独特の猥雑さを秘め、それが祭自身のエネルギーとなった。
 神社の祭りが素人出店ばかりになり、当てくじだけの店が増えていき、健全という名の下、つまらなくなってしまったのを忸怩たる思いで今でもいる。
 いつか、健全テキ屋組合が大量に出店してくれる一大イベントを再度起こしたい、と夢見ている。


 ・・・いずれにせよ、こういう気骨のある商店や零細企業や市井で生きる人々と知り合い、その下支えと生きていく知恵があってこそ、ポートフェスティバルは成立し、開催の回を積み重ねて行くことになった。



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 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。