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第2回ポートフェスティバル(1979年(s54)の私と
佐々木一夫・小樽夢の街づくり実行委員会会長 (右) 

01_01. はじめに 
    「 一人の人間をみるときは、私は階段をのぼって行って屋上に出、
     その上からあらためてのぞきこんでその人をみる。
     同じ水平面上でその人を見るより、別な面白さがある。 」
と、作家・司馬遼太郎がそのエッセイで語っている。
 司馬遼ほどの作家であれば、その「視点の高さ」は許されるのだろう。
 が、私にはこの「視点の高さ」こそが引っかかる。
 北の一地方都市の市井で生きる、たかが蕎麦屋されど蕎麦屋の私は、そんな柄にもない「高み」で「人と出来事」を視るような助平根性は持ち合わせていない。 
 というより、そもそも「水平面で見た視点こそより主体的である」と思い込んで生きてきた。

 北の一地方都市・小樽という街で四〇有余年前に勃興した『まちづくり市民運動』について、自身の備忘録代わりに綴っていく。
 まちづくり市民運動として11年間続いた「小樽運河保存運動」が終焉し、一〇年、二〇年、三〇年、そして四〇年という節目毎にそれは様々に語られ記されて来た。
 中には、
 「死人に口なし、天をして言わしむ」
をいいことに、時を隔てた取材に今更ながら喜々として酩酊したかのように虚々実々を語る方が少なくない。
 ものごとを語り書き記すということは、その人自身が
 「『出来事』への言説は、それが語られた瞬間その『出来事』を裏切っていく
という自覚を持つことであり、それを自覚できない方はするべきではない。
 ましてや、自身のポジショニングのために書き記されたものを読まされたり、摩訶不思議で身勝手な歴史観に基づき書き記される小樽運河保存運動を読まされたりは、たまったものではい。
 
 そもそも、市井の人々がひとつの大きな市民運動に参加する動機や要因、つまり「入射角」は当然一人一人違う。 
 ましてや、四〇数年という歳月は『記憶』を断層のようにずれさせ褶曲させ断裂させ崩落させつつ積み重なり、埃にまみれさせててしまう。 
 更に、かろうじて残ったとしても、その『記憶』は大きく時の流れの影響を受けざるを得ない。 
 プリズムで屈折されたかのように「反射角」がついて現れざるを得ない。
 つまり、その人の『記憶』というものは、「出来事そのものの強度」によって記憶されるかというと、そうではない。 
 『記憶』というものは、その『出来事』が「そのあと」の時間の経緯のなかで持つことになる
   「出来事の意味の強度」によって「選択」されていく
のだ、とつくづく思っている。
 小樽運河保存運動との関わりが濃ければ濃いほど、友に担った者の間ですら不思議なくらいに全く異なる記憶として選択されていく現実がある。

 だからこそ、今、四〇年の歳月を経て小樽運河保存運動に触れておこうとする。
 従って、共に運動を担った仲間たちの、「出来事そのものの強度による記憶」よりも「出来事の意味の強度によって選択された記憶」に、当然触れることになる。
 それは、その仲間達の「出来事の意味の強度」はもちろん、それに密接に関係する仲間たちの生き様にまで直接触れることを覚悟しなければならない。
 懸命に運動を担った人々の夫や妻、叔父伯母、子息子女が住んでおられるこの街で、小樽運河保存運動がどう担われ展開されてきたのかを「真摯に語る」ということは、同時に小樽運河保存運動以降四〇数年間で形成され継続されてきた人間関係が、殊によっては崩壊する切なさと辛さがある。
 
 が、2015年(平成27年)4月末で、私事にはなるが、「私の関わってきた一つの運動上の人間関係」に区切りがついた。
 さらに、小樽運河保存運動や小樽まちづくり市民運動の歴史のあまりの偽造や剽窃をみるにつけ、そろそろ、遠慮や配慮は棄てざるをえない。
 すでに齡七〇近くなってしまったのだから・・・。

 実は小樽運河保存運動を想起するプロセスでは、過去の自分が新しい姿で浮かび上がってくる。
 想起の度に、異なる自分が生成されてしまい「これまで全くうかつにやり過ごしていた問題」の価値が、見えてくる。
 それが、これから「やり遂げなければならない事柄への予見」に繋がれば、良しとする。
 新たな未来を掴み出す瞬間を待ち構えて、何とか過去に目をむけ綴っていく。
 「われわれは後ずさりしながら未来に入っていく」(ポール・ヴァレリー )
だ。
 
 拙稿は、小樽のまちづくり市民運動にかろうじて間に合って参加できた、市井に生きる一人の蕎麦屋親爺の視点で、綴ることを基本とする備忘録だ。
 禄寿を越えた。
 透明感ある明晰さや理論的精緻さは、そもそも一介の蕎麦屋親爺にはとうてい無理だ。
 他人にではなく自分への誠実さ、それこそを拙稿の姿勢としたい、と思いたがっている。 
1985年(昭和60年)から現在まで
小川原格@小樽・籔半・蕎麦屋親爺
 

 

 01_02 もう散々やりつくして、いわゆる『運動』は真っ平ご免だった。

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 ・・・ブハブハ、しからば人間らしい人間とはどんな人間でありましょうかな。
 お答えはカンタンだと思いますが、念のために申し上げます。
 人間らしい人間とは、ネクタイを結び靴を履きはたまたナイフとフォークをつかう、
 それだけではござんせんぞ。
 人間らしい人間とは、
 ともにたたかう友だちをみつけ、ともにたたかう友だちを持っている人のこと
 なのではないでしょうかな。

 《1969.4.4 NHK「ひょっこりひょうたん島」初代大統領ドン・ガバ
  チョの犯罪人引き渡し協定締結を巡る国連加盟可否の国民投票時の
  演説抜粋 》 
 1969(昭和44)年、二〇歳になったばかりの埃っぽい春の夕方、埼玉県東大宮ののどかな田園地帯にいきなり造成され建った、芝浦工業大学・大宮校舎二号館の一室。
 延々と続く大学臨時措置法(大学立法)反対の各学科闘争委員会の集合体・全学闘争委員会(全学闘)会議をひとりを抜け出し、土がムキだしの広場の向かいにある学生相手の食堂で、食堂のおやじさんにTVチャンネルを変えてもらう。
 井上ひさし・山元護久作のNHK「ひょっこりひょうたん島」の最終回1,224回目を、ラーメン・ライスを食べながら視た。
 高校入学の1964年(昭和39年)春の第1回から視聴してきた、そのNHK「ひょっこりひょうたん島」の最終回を、見逃すわけにはいかなかった。
 「サンセイドジョウ」が「酸性土壌」であることを、登場人物の「ハカセ」から教えてもらい、それ以前のNHK人形劇番組「チロリン村とくるみの木」の牧歌的内容に辟易していた私は、子供扱いしない番組と惹かれ、以来のファンだった。
 食堂のおやじが「今時の大学生が、人形劇かよ」とあきれ顔だった。

 が、大人から何を言われても気にしない学生になっていた。
 「Don't Trust Over Thirty.」
が、とても魅惑的な言葉として頭の中で響きわたっていた。
 古い小学校の校舎の教室を細切れにした大学寮の4人部屋の自分のコーナーの本棚には、僅かな小遣いから買い、最初の10数ページで読むのを放棄した真っ白い装丁の「アデン・アラビア」(ポール・ニザン)が、一番高い棚にそれでもあった。
 「僕は二十歳だった。
  それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどと だれにも言わせまい。」
という、その一行と出会っただけで良し、とする私がいた。

 食堂のTVでは、・・・懸賞金1千万ドルがかかったダンディ保安官を、インターポールに引き渡すのが「ひょっこりひょうたん島」国連加盟の条件とされ、その加盟の可否を巡り住民投票が実施された。
 そして、島民の投票結果は、加盟「否決」だった。
 その際の、ひょっこりひょうたん島初代大統領演説が、冒頭の文章だった。
 その頃の私には、痺れるセリフだった。
 ドン・ガバチョ役の声優藤村有弘の明るい歌声だけが、食堂と私の頭の中で響いていた。
 爾来、
 キョウがだめならアシタにしましょ 
 アシタがだめならアサッテにしましょ 
 アサッテがだめならシアサッテにしましょ 
 どこまで行ってもアスがある
を、物まねで口ずさんでいた。
 そして、・・・四〇有余年が経った。

 旅は、終わったところから始めるしかない。


01_03 1974年・昭和49年に、帰省した。


 1月、  田中角栄首相が東南アジア歴訪に出発し、訪問先のタイ・バンコクで5000人の学生デモに包囲され、インドネシア・ジャカルタでは反日暴動に遭い、 シンガポールで日本赤軍がロイヤル・ダッチ・シェルの石油タンク爆破し、
 
 2月、  アメリカの新聞王の娘・パトリシア・ハースト誘拐事件がおき、「収容所列島」の作家・ソルジェニーツィンが国家反逆罪でソビエト連邦を国外追放され、
 
 3月、  ルバング島で小野田寛郎元少尉が発見され帰還し、
  
 4月、  カーネーション革命でポルトガルの独裁体制が崩壊し、デニーズ日本上陸1号店が横浜上大岡にオープンし、サーティワンアイスクリーム日本上陸1号店が東京目黒にオープンし、
 
 5月、  コンビニ・セブン-イレブンが東京都江東区に第1号店を出店し、ミスタードーナツ100号店がオープンし、インドが初の地下核実験を実施して核拡散は進み、アメリカの兄妹デュオ・カーペンターズの三度目の来日では武道館公演に約40万通の応募騒ぎとなり、
 
 7月、  ラーメンのどさん子がニューヨークに進出し、参議院議員選挙(七夕選挙)で、与野党間の議席差は7議席となり与野党伯仲状態に陥り、三木武夫副総理・福田赳夫蔵相が辞任し、
  
 8月、  米連邦議会下院ではニクソン大統領弾劾可決をし、ウォーターゲート事件でリチャード・ニクソン米大統領が辞任し、ソウルで朴大統領狙撃事件(文世光事件)が勃発し、三菱重工業本社で時限爆弾が爆発(三菱重工爆破事件)し、
  
 9月、  原子力船むつが放射線もれ事故をおこし、日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)し、
 
 10月、  テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が放映開始され、佐藤栄作元首相にノーベル平和賞が贈られ、中日が巨人のV10を阻止し20年ぶりセ・リーグ優勝し長嶋茂雄三塁手が引退し、文藝春秋誌上で立花隆「田中角栄研究・その金脈と人脈」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」により田中金脈問題がクローズアップされ、 このころから、田中辞任の空気が政界に拡がり、  

 11月、  フォード米大統領来日(アメリカの国家元首として初の来日)後、田中首相辞任を表明、 

 12月、  椎名裁定により、後継総裁に三木武夫が選ばれ田中内閣総辞職・三木内閣発足し、ハローキティが誕生し、有吉佐和子『複合汚染』を朝日新聞に連載され、日本消費者連盟発足し、コーヒー専門店ブーム始まった、1974年昭和49年。


  ・・・私は、その1974年(昭和49年)秋に、7年半の東京生活を終え、小樽に帰省した。  

01_04 二六歳だった。  

 1968年(昭和43年)から1974年(昭和49年)の七年半の、いわゆる東京生活だった。  
 唯一の財産は、チッキで送ったダンボール一〇数箱の書籍だけだった。
  
 履き古したスニーカーとジーンズ。
 それだけは、思い入れて買って着古しすぎ、さすがに色も抜けたギンガムチェックのワークシャツ。
 歴戦で活躍しすり切れ鈎裂きだらけの、だからなおさら愛おしいジージャンにキャップを目深に被り、もやは習慣となったグラサンで顔を隠し(^^)、身一つの姿だった。
 まだ学生運動の習慣で、後ろを気にしながら(^^)JR北海道の前身・旧国鉄小樽駅のホームに降りたった私だった。

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小樽駅ロビー天井の羅針盤  

 小樽駅の改札を出て見上げたロビーの大天井には、七年半前と同じく巨大な羅針盤があった。  
 前日まで住んでいた東京では、その国電の駅舎の貧相さと思わず比較してしまう習性になっていた。 
 学生時代、冬の山手線のホームに立ち,都会特有の身を切り骨を刺すビル風の吹きさらしに震えながら、  
  「東京は大いなる田舎だ。   
   俺の故郷の小樽駅は、乗客にこんな寒い思いなどさせない建築だ。
   待合いからホームまで地下通路でむすばれているんだぜ」
と,仲間に自慢し東京の安普請の駅に毒づいたものだった.  
 当時付き合ってた友人は、そんな私をせせら笑い、黙って東京駅まで連れて行ってくれ  
  「どう?」
と皮肉っぽい目線を、投げかけてきて。  
 私は、そんな彼女の目線などもう眼中になく、広い東京駅の構内を夢中で首が折れるのではというほど、見上げ見回していた  

 小樽駅は、小樽人にとってあまりにも当たり前すぎる建築で,出発するときは発車時間が気になり,到着すると家路を急ぎ,この素晴らしい駅舎建築を味わうことはあまりない.  
 が、ホームや構内を巡ると唸る。  
 一度、是非小樽駅を探索するのをお薦めする.  
 海に向かって大きく取った明かり取りの開口部。
 シンメトリーに6列の開口部があけられ、外から見ると建物そのものの威圧感をやわらげている。
 小樽
運河観光が爆発した当時に、その開口部の内部にその頃売り出し始めたガラス製ランプを飾り付けたため,逆に残念なことにこれほどの大きな明かり取りの開口部が、内部からは目立たなくなってしまっている.
 しかし、このJR小樽駅の建物のすばらしさはそれを補う余裕を内包していて、そのランプという後で身に付けた衣装をも、光らせてくれる。  
 夜,灯がともされたランプで迎えられ送られるのもいい、が,夕暮れの薄暮の空をバックにし灯された淡いランプの灯が、これまたいい。  

 そのガラス製ランプが縦に並ぶ開口部を見上げて、視線を天井にまで這わせる。  
 渋い焦げ茶の梁とベージュの天井が、旅で高ぶる気分に落ち着きをあたえてくれる。  
 創建当初は天井にも明かり取りの開口部があり、大ホールロビーに日光を取り込んでいたらしいが、冬の降雪と積雪でか、今はその開口部は塞がれてしまっている。  
 建築家の明かりへの思いを打ち砕く、当時の北海道小樽の降雪量だったのだろう。  
 現在の技術で天窓を設置をしても、雪とすがもりに悩まされるのだから、小樽駅舎創建当時なら、無理もない。  
 その塞がれた明かり取りの開口部を塞ぐために取り付けられたのであろうか、羅針盤が実にシンプルなデザインでロビーの旅人を見おろしていた。  
 この羅針盤で、乗降客は一発で東西南北を把握する。  
 出入り口に向かい、10時方向が北である。  
 大きなブラウンの梁で三つに仕切られたその天井に羅針盤が9個設置され、互い違いにライトが設けられている.  
 大ロビーホールから見上げると、この建築を設計した建築家の旅立つものや到着した旅人への思いが伝わる。
 1934年(昭和9年)竣工のこの駅舎の羅針盤を見上げ、幾多の人々が市内の各エリアに向かったことか。  
 それを見上げながら、駅ロビーから外に出る。

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 小樽の秋特有の港と荒天の海。
 防波堤を走る大波、「うさぎが走る」と古老は言う  。
 この「うさぎが走る」ほどの大波で荒れる天候の海でないと、海底のシャコの巣が壊れてず、荒れる海を待ちに待ってシャコ漁の漁師はこの荒波を押して船を出航させ、巣から出て来たシャコを網で獲るのだ、と子供の頃教わったのを思い出した。
 秋シャコの旨さがわかったら大人だ、とも。
 東京では思い出しもしなかったのに、そんなことを駅前から港と荒波を見て急に思い出すのが、おかしかった。

 目の前を横断する国道5号線と交差する縦の線である中央通りのまっすぐ先に、小樽港と防波堤が見える。  
 7年半を経ても、小樽港が誇る産業遺産・防波堤と波だけは、変わらない。  
 その景色を見て、「帰省した」と実感したものだった。  
 この駅から港が見える風景は、帰省した翌年の1975年(昭和50年)、駅前再開発ビル間を繋ぐ横断歩道橋の新設で、観る者の目線を塞いでしまった。  
 2011年(平成23年)に、三六年振りにその横断歩道橋は撤去され、JR小樽駅から港がまっすぐ見えるその風景は、甦った。  
 いまだ、駅前周辺の国道五号線に2つの横断歩道橋があり、その撤去はなっていない。 
 そして、駅ロビーから一歩外に歩を進めて駅前広場をみて、しみじみつぶやいた。
   「金魚鉢にさえ緑の藻を入れるだろうに
と。
 藻の揺らめいていない金魚鉢など考えられない、が小樽の駅前広場はそれである。
 金魚の往来に不便だろうとし藻を引き抜いて棄ててしまったようなものだった。
 このバス停とタクシー乗り場しかない、侘びしさだけの機能主義の広場は、昭和三〇年代以後の日本社会を覆っている宗教的価値観であり、この日本中をのし歩いている怪物が小樽のまちから駅前広場の緑を奪い、更にこれからか小樽運河を奪ってこの街をただの埃っぽい街にしてしまおうとしているのか(すでに駅前を通る国道五号線沿線がそうなように)、と肩を落とす風景だった。
 おそらくこの宗教が擬制の論理を積み重ね、行き着くところまで行ったのが列島改造論なのだ。
 もっとも、この宗教といっても高度の哲学大系や総合性や人間の暮らしにみずみずしさを与えるものを持っていないが故に余程野蛮なレベルの宗教でしかなかった。
 小樽駅前広場・・・が、そうだった。
 ここにも、落とし前はまだついていないものがまだまだある。

 実家の蕎麦屋は、国道5号線を挟んで小樽駅の正面に位置していた。  
 かつて小樽駅前広場にかろうじてあった緑地は消失し、アスファルトのバス乗り場に代わり、駅前から緑は一切消えていた。  
 なんという造りをする駅前再開発か、と唸った。
 駅前の国道に沿った歩道に植樹された樹木も、激しい交通量と排ガスでか育ちも悪く葉もまばらで、一層貧相さを醸し出していた。  
 緑・自然・人という概念は1ミリもない、貧相な駅前再開発発想が露呈していた。  
  「がさいな。」  
 いきなり、「かっこうわるい、安普請」という意の
小樽弁の言葉が口からでて、自分が驚いた。    

 まっすぐ実家に帰るのは、   
  「まるで《敗残兵》だな。」
と、自嘲気味に呟き、実家には向かわず、駅から中央通りを下り、運河に足を伸ばす。

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  ヘドロと沈船が水面から顔を出す荒廃した小樽運河
 
 
 かつてウグイを釣り、ときには泳いだ運河。  
 その小樽運河は、市内を流れ下る五本の河川から流れ込む生活排水で汚れに汚れ、ヘドロが堆積し、それが運河水面に顔を出している始末で、そこにカモメが羽を休めていた。  
 当時は、下水道処理場がなかった故だった。  
 更に、運河護岸の石積みの路肩という路肩は崩れに崩れ、雑草が繁茂し、運河水面に顔を出すヘドロにまでその根を伸ばしていた。  
 ありとあらゆるゴミが至る所に捨てられ、大量ゴミ不法投棄の場となっている有り様だった。   
 それを誰も咎めず、気にもしていなかった。  
 老朽化し水没した沈船(沈没船をそう呼んだ)の舳先が、寂しそうに運河の水面から顔をだしていた。  
 小樽を離れて7年半を経て、「沈船」という言葉が素直に頭に浮上することに、もう驚きもしなかったが、ヘドロを浚渫する力も、沈船を引き上げる力も、小樽港と小樽の街は失っていたのに驚いている自分がいた。  
 半年間雪に埋もれる小樽からモダニズムに光り輝く乾いた大地の東京と思い込み勇んで向かった七年半前にはありえない、小樽斜陽の典型の姿だった。  

 小樽運河は、従来の海岸線に沿って海を埋め立てて水路として作られた。  
 だから、運河に沿った道は、従来の岸辺なりに湾曲していた
 航空写真で小樽港を真上から撮影した写真が、港湾関係機関のカレンダーに使用されている。
 そのカレンダーを見て、
  「これほど、港湾を造成するまえの自然の海岸線がわかる港は、もう日本には数少ない。
   小樽港を含め2〜3しかない。」
と感心した、港湾関係者がいたほどだ。
 
 その湾曲した道なりに歩を進めれば進めるほど、眼前の景色は次々に変って行き、七年半前のかつては見慣れた風景なはずだったが、歩を進める度合いに応じてどういう景色があらわれるのかというわくわく感が生まれ、それが歩く疲れを感じさせないでくれた。
 札幌の、整然と交差するビル街の道路のように一直線で、いつになったら目的地に着くのかという精神的不安と疲労などとは、無縁の運河だった。  
  「自然は、直線を嫌う」  
 イギリスのナショナルトラスト管理の有名な風景庭園・シェフィールドガーデンのコンセプトに通じるものが、小樽運河にあった。  

 その運河にそって、何の装飾もない、美しい勾配屋根をもつ切妻の石造倉庫の何十棟の連続が、「群」としてまだそこにあった。  
  「勾配は美しい
ということを思い出させてくれた。

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  小樽運河北側石造倉庫群  
 
 それは、
   まるで大地の地中からそのまま生え出た、  
   近代工業が生産する建築には絶対ない、  
   ブルドーザーの力では造れない、  
   コンクリートミキサー車の力でも造れない、  
   クレーン車で鉄骨材を釣り上げても出来上がらない、  
   機械力といったものに一切頼らない、  
   機械ではなく、全て人の手で築いたのだ  


 ・・と、かのウィリアム・モリスならそう表現したかのように、そびえ立っていた。  
 七年半の東京生活で、まみれにまみれた垢のベールがかかった眼に、セピア色に染まったような小樽運河沿いの石造倉庫群の連続する蔵並みが、染み入ってきた。  スクラップ&ビルドを免れた石造倉庫たちだった。  
 明治・大正・昭和の大繁栄や沖仲仕の挙げるダミ声に溢れかえり、そして奈落に落ちるような戦後の斜陽と、その時々の空気を吸い込み、しみ込んだ石造倉庫の小樽軟石に、  
  「帰ってきたか?    
   疲れているいるようだが、これから小樽でどう生きていくつもりだ」
と語りかけられ気持ちになった。  
 いきなり、  
  「帰ってきた小樽から、わが街・小樽か
とひとりごちし、以来・・今の私がある。  

 爾来、石蔵倉庫の前に独りで立ち尽くすと、必ずその小樽軟石は語りかけてくるのだった。  

 あの、小中高を過ごしたわが小樽の街。  
 あの喧噪と荒々しい港湾荷役の小樽港の姿は、もうなかった。  
 当時の小中学生の世界には、自分たちの遊び回るテリトリーがあり、隣町の子供たちのテリトリーに侵入するには、子どもなりに徒党を組んで中央突破するよりなかった。  隣町の子供たちもそれを待ち構えており、突破出来なければ拉致され囲まれて罵倒され、夕方まで解放されなかった。  
 しかし、小樽運河周辺だけはこのテリトリーがなかった。  
 というか、荒くれの沖仲士の大人の世界では子どものテリトリー争いなど通用せず、皆大人しく遊ばなければ小樽運河周辺に近づくことは許されなかった。  

 そんな小樽運河を二〇歳をとうに過ぎて、巡り歩く。  
 外観のボロさとは全く裏腹にどことなく「ハイカラさ」を秘めた、甲板の下が居住空間になっている、船尾から煙突が出ているのですぐ他の艀(はしけ)と判別できた大型艀を探すが、見つからなかった。  
 小学生の友人の父親が陸(おか)では立派な個人住宅に住んでいたが、艀を個人所有しており、一度艀の下の居住空間に入れてもらったことがあった。   
 日中の仕事中は、にっかぼっかズボンに縄でベルト替わりにしばり、シャツ姿にタオルの鉢巻き姿で艀を操船するオジサンが、仕事は休みなのかブレザー姿でコーンパイプで煙草をくゆらし、ジョニ黒ウィスキーやジャック・ダニエル(大学に行ってその名を初めて知ったのだが)を、ショットグラスで昼間から呑んでいた。
 棚には海外のウィスキーや洋モクや葉巻の箱が並んでいた。  
 友人が私を紹介してくれた。  
 「蕎麦屋の息子か」
と、まるで蝿蚊でも見るように無視してくれた。  
 小学生が、とても体をはれる相手ではなかった。  
 艀の下の陰影が濃密な、敗れた壁穴から陽が数条の光となり差し込むだけの薄暗い空間だったが、その空間とオジサンが醸し出す空気で、ここは海外の国々に繋がっていると思ったものだった。  

 その大型艀の姿は、もう小樽運河にはなかった。  
 港は、変わっていた。  
 大型艀がなくなって海外とも繋がらなくなった、ハイカラさの喪失した小樽の港があった。    

 小樽運河沿いの道と平行に一本山側を走る「色内(いろない)通り」と、旧国鉄小樽駅から真っ直ぐ港まで街を貫く「中央通り」が交際する一角に、なんと「国際街」という見事なまでに名前負けした古びた木造長屋があり、「わすれな草」というジャズ喫茶がまだ営業していた。  
 中を覗き、席に着き、珈琲をたのんだ。  
 ひのって反り返るドアに、一枚のポスターが貼ってあった。

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 「かけがえのない遺産を台無しにしないために」 と訴えるポスターだった。
  
 小樽運河沿いの石造倉庫群の立面図だけ。  
 小樽運河や石蔵倉庫保存を、声高く酔ったようには・・訴えてはいない。  
 シックで、渋いポスターだった。  
 こんな洒落たポスターをつくる市民運動が、帰ってきた小樽にあるのかと半分嬉しくなった。 

 しかし、そのポスターは駅から小樽運河まで歩いてきて、他では一枚も見かけなかった。  
 どうせ、しょぼくれた少数派市民運動だろう、と苦い珈琲を飲む。  
 七年半も学生運動や住民運動、消費者運動をやってき帰ってきた小樽で、いわゆる  
  「運動で苦労するのは、もう沢山だ。」
と嘯く私がいた。  

 そして、その私が、この街で小樽運河保存運動に人一倍関わることになろうとは、まだ想像だにしていなかった。

 兎に角、わが街・小樽に帰ってきたのだった。

 ●次【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!