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1961年昭和36年の小樽花園銀座商店街。
現在の函館本線ガード下が、SLが走る踏切だった。
市内の商店主の誰もがこのエリアに店を出したがったほど、人出で賑わっていた。

02. 01. ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!

 小樽脱出という思いが、人工衛星のように脳内を周回軌道で回っていた。
 こみあがる欲求を全身に充満させ発酵させ熟成させ腐敗させる、それが小樽での私の高校三年までの、いわゆる青春だった。
 高校二年になって、進学か就職かの選択が迫っていた。
 進学組は、理系か文系か併合コースかの選択が迫り、私のウンザリ感は一層つのっていった。
 ときは、1965〜1967年、一九六〇年代後半だった。
 日ごと奔流のように物質的豊かさや利便性が増していく世の中で、自分の未熟な精神は縦横無尽に横道に入っていき、迷いに迷いまくっていた。
 とても時代の進捗に見合って成長しえない自らの貧しさに、焼けた鉄板の上で地団駄して足踏みするような焦燥感が、爆発寸前まで充満していた。
 身の回り全てに、皮肉で投げやりな視線を向ける、「義によって仏頂面する」スタイルをとろうと決め込んでも、前のめりに爪先だって足早に進もうとする、そんな高校生だった。

 そもそも、一七歳で理系か文系かなどという二者選択などありか、とせせら笑いながら迷いに迷う高校生だった。

 青春とは、意志薄弱と遅疑逡巡だった。

 

02_02. いわゆる団塊の世代、というやつだ
 
 そう、1948年(昭和23年)に生まれた。
 後に、旧通産省出身の小説家に一括りにされて「団塊の世代」と呼ばれるわけだが、真っ平ごめんだった。
 1964年(昭和39年)に、高校に入学した。

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 前年1963年(昭和38年)リリースの、突然イギリスから現れたビートルズの「please please me」が日本でも大ヒットした。
 「ビートルズ=不良の時代」で、小樽のレコード店で購入するとすぐ面が割れると、札幌のレコード店にまで、買いにいったものだった。
 青春とは、自らの小心を隠すこと
だった。
 高校三年間、ビートルズをとるか、フォークソングをとるのか、それともジャズか、R&Bかで喧々諤々。(^^)
 同年、わが家(蕎麦屋)にモノクロTVが初めて入り、ケネディ米大統領が射殺されたニュースが飛び込み、釘付けになった。
 英語版プレィボーイで垣間見る、光り輝くアメリカのイメージとは、大違いだった。
 世界とは、ときにグロテスクなまでに劇的であることを、それは告げていた。

 同じ年、東京オリンピックの最終日のマラソンでは、彫りの深い哲学者然としたエチオピアのマラソン・ランナーの顔をTVの前で二時間以上見せつけられ、やっと二位で国立競技場に入ってきた日本人ランナーが、追ってきた英国の若はげのランナーにいとも簡単に追い抜かれるシーンを見せつけられた。
  「精神主義で世界とは戦えない
、という現実をまざまざと見せつけられ。
 そして、オリンピックの閉会式でも驚かされた。
 会式は各国の選手団は統制の取れた入場行進だったが、会式は各国入り乱れ溢れるようにゲートから現れ入場した。
 先頭の日本の選手団の旗手を外国人選手が肩車してきた。
 服装も自由、踊り歩く自由、勝手に観客にアピールする自由、選手全てが自由だった。
 堅狂しい統制など笑い飛ばすかのような入場は、まさに「自由」を表現していた。
 何に向けていいかも知らない怒れる若者は、このグロテスクさと自由さを見せつけられ、魅了させられた。
 そして、こんな面妖な世界と自分がこれから付き合っていかねばならないことを、それとはなく意識化させられる時代だった。
 まだ民放TV局もあまりない時代、NHKを視聴するよりなかった。
 子供向け番組の人形劇・牧歌的な「チロリン村とくるみの木」に辟易していた。
 が、井上ひさしの名作「ひょっこりひょうたん島」が放映開始され、初っぱなから「サンセイドジョウ」が「酸性土壌」であることを、ひょっこりひょうたん島の「博士」から教えられ、子供を「大人扱いしてくれる」番組と、私は夢中になった。(^^)

 時代は、戦後20年と騒がれ始める時代だった。
 高校入学した1964年(昭和39年)は、芥川賞に柴田翔『されどわれらが日々』が選定され、トンキン湾事件で北爆がはじまり、ベトナム戦争は一層混迷していく年だった。
 日本人の海外観光渡航が自由化され(年1度、所持金500USドルまでの制限付き)、アメ車・初代フォード・マスタングが発売されてそのデザインとスタイルに夢中になった。

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 当時、美大生だった「大橋歩」が描くアイビー・スタイルの恐ろしく足の長い若者を題材にしたクレヨン画表紙の「平凡パンチ」が創刊され、自分の胴長を恨んだ。
kamuiden 漫画雑誌「ガロ」が創刊され白土三平漫画「カムイ伝」に夢中になり、ビートルズとマイルス・ディビスが来日した。
 「シャボン玉ホリディー」や「夢で逢いましょう」、そして「11PM」が視聴率を稼いでいた。

 そういう時代に大人になる準備を始めて、社会人になった途端の、1975(昭和50)年、遠い中東の戦争のあおり・第一次オイルショックで「低成長時代」、つまり、
  「戦後は終わった
という巡り合わせをし、そんな時代に未熟ながら精神形成をしてしまった世代である。
 
 勝手な世代的な括りなど、実はどうでもいい。

 たまたま「居合わせた」だけ、なのだ。
 ただ居合わせたが、時代という嵐につかまってしまった。
 雨具も傘もなく、びしょ濡れ、ずぶ濡れになった。
 が、びしょ濡れに濡れることを厭わなかった、だけなのだ。

 間違いないのは、戦後民主主義の落とし子であったこと。
 ホームルームで「多数決」概念を身につけ、勢いよくしゃべり声の大きいものが勝利することを覚えた。
 小中高を通してクラスメートは五五〜六〇人近くおり、小学校では体育館を細切れに仕切った即席の教室に詰め込まれ、それでも子どもの数は膨大で時間差の二部授業さえあった。
 10クラスはあり、総勢五〇〇人以上だった。
 そのせいか、いきおい騒がしく、自然と群れたがり、人数が多いが故にまとめ役がいないく、論議は空転するがそれを厭わず、結果ではなく達成感やプロセスを大事にしたがる、とよくいわれる世代なのである。
 
 戦後の高度経済成長時代の最中だった
 
02_03. ひ弱な子供だった
 
 小学生高学年から「脊椎側湾症」になり、鋼鉄板入り革製コルセットで腰から首まで締め付けられる、毎日プロテクターを身に纏う、という状態だった。
 中学に入学しても、体育授業は見学組となり、子供仲間からは野球の時だけキャッチャー要員で声がかかるという、子どもながら人の残酷さを味合わされて育った。
 身体を動かすことが取り柄の成長期に、この革製コルセットのおかげで小学生高学年から中学時代の写真に笑顔のものはあまりない。
 おかげで、中学時代は隣の席の女子生徒から「ネンチャクシツ」と言われ意味が解らず、帰宅し辞書で調べ「粘着質」と知り一層落ち込んだものだった。
 青春とは、無情と冷酷なのだった。

 健康な弟は、うらやましいくらい外に遊びに行き、自分は「家と店」が世界だった。
 室内でのプラモデル作りと小学生のくせに深夜放送のリスナー三昧の子供だった。
 両親はその虚弱体質の息子を哀れんでか、その当時としては高価な”世界少年少女文学全集”を買い与えてくれ、背表紙が革製の本があるのをそのとき初めて知った。
 自然、大人の世界を垣間見る機会が多くなった。
 父が、裸一貫で公務員から脱サラし、ホテル支配人を経由して蕎麦屋を開業したこと、
 銀行は地場の大手企業には融資をしても、小店には簡単に融資はしないこと、
 小店で日銭商売の蕎麦屋が銀行融資を得るには(開業当時のもり蕎麦の値段は25円だった)、日頃から銀行幹部の接待が全てであること、
 JRの前身・国鉄小樽駅前の一等地で商売は繁盛しても、店舗土地を当時としては大変な額で融資を受け取得し、その借金返済で資金繰りは火の車だったこと、
 籔半の土地建物の取得価格が駅前立地とはいえあまりに高価と、父の周囲は取得に反対したが、父は踏み切ったこと、
 資金を融通しあえる友人関係が大事なこと、
  「カネが全てではない、親友こそ宝だ、が、世の中の95%はカネで解決できる」
  「不動産の取得のタイミングは相手が売ると言ってくれた時こそ買い時なんだ。
   高い云々などとはたりは言うが、躊躇い購入のチャンスを失って、結果自己所
   有物件を得られず、一生苦労をする同業を一杯見てきた俺には、そんな判断は
   ゴミだった」
と、父親が酔って言うのを聞いて育った。
 これが、戦争で命拾いし、戦後裸一貫で商売を興した世代の発想だった。

 しかし、毎夜接待や宴席に出かける店主の不在をカバーする母は大変で、父が泥酔して深夜帰宅すると激しい夫婦げんかは毎晩だった。
 それはそうだった。 公務員の父と結婚し戦後の混乱のなかで安定した生活を過ごせるとばかり思っていた文学少女が、いきなり何の相談もなく亭主は蕎麦屋店主になり、自分は女将になるという運命を背負わされたのだから。
 毎晩泥酔し帰宅する父は、夫婦喧嘩の勢いで周囲にあたりちらそうとしても子供しかおらず、家具にあたり、TVは空を跳んだ。翌朝になると、直せもしないのに工具を出して修理している父の姿を、哀れんだ。
 以降、母の非難に泥酔し怒る父をなだめすかし寝かせつける役は、長男の私となる。
 夫婦喧嘩するのはどうでもよかったが、テレビを壊されては溜まらなかった・・・から。
 昼間の威厳ある父と、酔ってくだを巻くだらしない父の両面を、すなわち大人の両面を中学生で学んで育った。

 店の資金繰りで銀行融資の保証人になってくれた父の高校時代の先輩で酒類納品業者が酔って来店し、父が不在なのをいいことに手伝いをしていた中学生の私に「肩を揉め」と言い放った。
 母が顔を蒼白にし、しかし私は平然と揉んでやり、営業が終わって母が一人帳場で泣いていた。
 このときも、父は深夜泥酔し帰宅し、泣いて訴える母に父は立ち尽くした。
  「なんも、俺なんとも感じてない、うちの借金を助けてくれた人だから。」
といい、その夜は泥酔した父と泣く母の口論は、なかった。
 当の本人は、自然と大人を尊敬と侮蔑とが入り交じった目線で眺める、ひねた中学生になっていた。

 だからか、中学時代からすでに教師を密かに軽んじていた。
 中学時代の少なくない教師たちは、サディスティックなまでの傲慢さと言葉の貧困さを大人の気取りで誤魔化す、とてもイヤな存在だった。
 近隣の会社や商店への出前が多かったが、キャバレーのショーガール控え室に出前をし、大人達の夜の姿を垣間見た。その中に、知っている教師の姿を見つけ、その酔いに任せたいぎたない姿を見てしまった中学生は、昼間の教師の気取りを徹頭徹尾嫌悪した。
 見られてしまった教師こそ大迷惑な話だった。
 が、青春とは非情なのだった。

 そんな中学生が、小樽では受験校の高校に入学した。 
 私はとんでもない勘違いをしていた。 
 父もその高校の出身で、父の時代の「バンカラ」さを幼い頃から刷り込まれ、それを信じて入学した。  
 しかし、入学直後いわゆる実力試験があり、一学年五三〇人で上位成績者の氏名が壁に張り出された。 
 その実力試験の結果をもとに、入学して初めて担任と個人面談があった。
 成績の良い順番に担任に呼ばれるのだ、と兄がいる同期生は言っていた。
 担任は、私が小中と病弱だったことを知っており、しかし、
  「どうだ、ラグビーをやらんか」
と奨めてくれた。
  「おや?」
と思った。
 今まで、格闘技に近いスポーツを病弱な私に奨めた大人はいなかった。
 チョットは違う大人か、と一瞬思った。
 が、その直後の言葉で、私のねじれは元に戻った。 
  「ラグビーはまず体力だ、それが備われば大学受験に耐えうる体をつくれる。」 
と。 
 結局大学受験が結論かと興ざめし、所詮高校の教師もこんなものかと即刻結論づけた。 
 青春とは、酷薄、無礼、薄情なのだった。

 高校三年間も、実にいけすかない教師が少なくなかった。
  「お前たちなぁ、今お前らはのうのうと授業を受けているが、今この瞬間ベトナムでは
   いたいけな子供たちが米軍に殺されているんだぞ。」
と授業の度に言い、最初は黙って聞いていたが何度もの説教じみた物言いに我慢しきれず、
  「だったら、先生は平和な日本で教師などしていないで、ベトナムに行って子供たちを 
   虐殺する米軍に抗議すればいい。
   ベトコンと一緒に米軍と闘えばいいべや。」
とつぶやき、それが教師に聞こえてしまい、お返しはその授業の残り時間終了まで
   「This is a pen」、「once more.」
を繰り替えさせられる、拷問しか招かなかった。
 日本共産党支持者の倫理社会の教師は、これまたベトナム反戦を授業で叫び、だったらと「This is a Pen」事件を否定的教訓とし、レポートのテーマに「レーニン」を選び、提出した。
 数日後、授業終了後教壇に呼ばれ、
   「ナンデ、レーニンを選んだのか?」
と聞かれ、マルクスは理論家だがレーニンは実践者だから、と一知半解の応えをし、
   「今度、放課後にゆっくり話さないか」
という粘る目線の誘いに「そのうち」と応え、その学期倫理社会の通信簿はなんと「5」で、あとは卒業するまで会うことを避け貫いた。
 
 要するに私の高校三年間は、「ここではないどこか」、「ここ以外ならどこでも」という気分を充満させる期間だった。
 二年になって私のウンザリ感は一層つのっていった。
 日ごと奔流のように物質的豊かさや利便性が増していく世の中。
 一方、自分の未熟な精神は縦横無尽に横道に入っていき迷いに迷い込むだけ。
 とてもそれに見合って成長しない貧しさ。
 自ら焼けた鉄板の上で地団駄し足踏みするような焦燥感が、爆発寸前まで充満していた。

 シニカルなスタイルをとろうとしながら、爪先だって足早に進もうとする高校生だった。

02_04. 栄光への脱出作戦
 
 当時の夢は、半年間も雪に覆われる北海道の一地方都市から脱出し、雪が積もらず冬が乾いている、自由で光り輝いていると見えたモダニズムの中心・東京への脱出だった。

 父が映画が好きでよく連れていってもらい、洋画・邦画なんでもこざれだった。
 しかし、父は忙しい店を抜け出すのに時間がかかり、映画館に向かう道では知人・友人・お得先と出会っては挨拶や会話をし、結局上映時間に間に合わず、当時の小樽の映画館は二本上映で、遅れてしまった映画をみるには、観たくない映画も一本観なければならない羽目になるのが、必ずだった。
 道を歩いても知人友人とすれ違わない町を、うらやんだ。
 今で言うと、それだけコミュニティの濃い町だったが、それが疎ましい若者だった。
 当時上映された「栄光への脱出・Exodus」のテーマミュージックが、大ヒットした。
 大学に行き東京でもう一度観ると、映画自身はイスラエル建国のプロパガンダ臭に辟易するような作品だった。が、高校生当時は理解は不十分で、ただサウンドトラックと題名に影響され、自分もこの北国の街から
  「栄光への脱出・エクソダス
をするのだ、と密かに思い込んでいた。

 青春とは、思い込みだった。

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昭和三〇年籔半初代店舗外観

 その時代の蕎麦屋は、それは劣悪な労働環境の塊みたい商売だった。
 朝8時の仕込みから最終到着列車時刻の午前1時過ぎまでの営業・勤務時間だった。
 それで、1シフトだった。
 休業日は、月に二〜三日しかなかった。
 そのような労働環境には、いわゆる「あぶれ者」の若者しか入店せず、女子スタッフも家族関係や男性関係で酷い目にあって逃げるようによその町から来樽し、とにかく「住み込み」という条件に唯一職を求め入店していた。
 そんな若者男女が二階建ての店舗の屋根裏に住み込んでいた。
 駅前立地ということで、流れ者の若者が一泊の宿を求め入店するのは、ざらだった。 
 翌朝、煎餅布団を質屋に持ち込み、僅かのカネで次の街に流れて行くことなど日常茶飯事だった。
 従業員の給料を盗み去る若い衆もざらで、給料支払日翌朝は、目を光らせている父が逃亡を阻止するため監視し、そんな若者を捕らえると盗まれた若い衆の財布などを捜す役を私が仰せつかり、結構発見したものだった。
 トイレ窓の外の庇が隠し場所のワンパターンだった。
 この経験が、後で活かされるとは夢にも思わなかった。
 
 このようなスタッフ環境、そして約一六時間労働、休日は月2回というのが当時の業界の実態で、当然蕎麦屋の跡継ぎなどまっぴらゴメンの世界だった。 
 蕎麦屋家業の後継になるなど、信じられない話に聞こえた。

 私が「栄光への脱出」を果たせ東京に出たと同時に、労働基準監督署の労災課長経験のあった父は小樽蕎麦商組合組合長に就任し、小樽蕎麦商組合労働保険事務組合を創り、従業員の労災事故補償や4の付く日の組合一斉定休日制、社会保険加入などを組合傘下のそば店に導入していった。
 が、蕎麦屋の息子にとってはもはや時遅しだった。 
 そんな実態の蕎麦屋稼業を継ぐなど、夢にも思わなかった。 
 逆に、なんとか「蕎麦屋を継がない」ための戦略的プロジェクトに挑戦していく。

 大学受験を文系・理系選択する高校2年時に、もっとも毛嫌いしたその「志望校コース選択」を逆手に取り「栄光への脱出・エクソダス」プロジェクトの実践のチャンスにと、企画・立案する作業に突入する。

 実家が蕎麦屋ということで、放課後街中に出た同期生は腹を空かし、五三〇名もいるので話をしたこともない同期生が、あたかも親友を装い私が高校から帰宅する前にもう店を訪れちゃっかり私の部屋でラーメンを馳走になる、という毎日だった。
 友人の中にはお調子者もいたので、私のマル秘プロジェクトは友人達にも「ひた隠し」しなければならなかった。
 一方、後継を口にはしないが、当然継いで欲しい父親は、文系の経営学や会計学などのある大学を選択するよう奨めてきた。 
 が、理系を選び、それを説得すれば、必然的に蕎麦屋は継がなくていいと決め打ちした。
 青春とは、単純、簡潔、実行だった。

 幸い、母方の祖父が大工の組を構える棟梁だった。 
 中央通りの小樽運河に面した大阪商船ビル(現・ホテルノルド)を施工した実績を誇りにしていた。 組の土場(作業場)は、旧ニューギンザデパート裏口の隣で、孫にとって遊び場所であり、北の誉酒造の創業者社長宅・豪邸・和光荘メンテ工事にはよく連れていってもらい、素晴らしい歴史的建造物が遊び場と探検場所になっていた。
 昭和30年代まではコンピュータなど勿論なく、建築図面の多くはトレーシングペーパーに直接製図され、ジアゾ複写機で複製され、それを「青図、黒図」と呼んだ。
 それを感光紙に焼くには、トレーシングペーパー原紙を感光紙の上に載せ、複写機に入れ感光させる作業が必要であり、露光程度は時間と照度で調整される。
 が、祖父は図面を感光させる複写機器など購入せず、図面と同じサイズの木箱をしっかり作り、底に羅紗を引き重ね、その上に感光紙、更に自ら書いたトレッシングペーパー図面、そしてガラス板を重ね、戸外に持ち出し日光で感光させ設計図を完成させていた。
 その作業を、よく学校帰りに手伝わされた。 
 太陽の動きにあわせ、日光に直角に図面を向けておく係だった。
 高校生になると、図面書きをする祖父の横で烏口(カラスグチ)などを砥石で研いだものだった。
 これがミソだった。
  「子どもの頃からそんな環境で育ったせいで、建築学科のある理系大学を選択するのは
   無理からぬところ」
というのが、高校生の考えた両親説得の「落としどころ」だった。
  組を構える大工棟梁の長女お嬢様だった母は、そもそも安定した公務員だというので父に嫁いだのだったが、好むと好まざると関係なく蕎麦屋の女将にならざるをえないできてしまったわけで、その母が一番先に陥落した。
 祖父も、子どもたちは家業を継がず、初孫の私が建築の大学を進路志望すると聞き、大喜びだった。
 父への包囲網はこうしてつくられ、外堀を埋めたつもりになり、勝負の時は刻一刻近づいていた。

 その頃も、父は深夜酔って帰宅し、母と相変わらず激しい夫婦喧嘩をし、暴れて収まりがつかず、止めに入った私とよく揉み合いになった。
 小中学時代はひ弱で体育も見学組だったが、高校3年になり家業の蕎麦屋の出前手伝いなどで身体も出来てきた私の腰が父の下腹に綺麗に入ったまま、無意識に勢いで私の腰は後ろに突き上げられ、いわゆる「払い腰」があまりにも綺麗にきまり、父はもんどうりうって布団の上に投げられた。
 父と母は一体何が起きたかと酔眼で目を白黒させ、私も・・同じく布団に投げ落としてしまった父を呆然として見下ろしていた。
 慌てて、その場を取り繕い、
   「いいから、大人しく寝ろよな」
と、その両親の寝室を逃げるように出た。
 以来それを契機に、父は酔って帰宅しても激しい夫婦喧嘩はしなくなり、私も仲裁に入ることはなくなった。
 逆に、父子の会話は少なくなっていった。
 だが、蕎麦屋の板場で出前に行く準備をする私を見る父の目は
   「あのひ弱で体育授業も中学まで見学組だった息子が、ラグビーに夢中になり、
    柔道の払い腰で父親を投げ飛ばせるまでに、成長したか」
、と語っていた。
 確かに、高校から帰宅し出前を手伝い、坂の多い街を自転車で「もり蕎麦20枚」をかつぎ出前配達するくらいまで、体力は付いてきていた。

 そして、夏のとある日、父は珍しくホルモン焼き屋に私一人を連れ出し、焼きながら、
  「鶏口となるも牛後となるなかれ、って言葉知っているか」
と来た。
 ついに、父から、・・・仕掛けてきた。
 戦いのゴングがなり、焼けるホルモンやカルビに神経を向けるのを放棄した。
  「あぁ、いつもトウサンは口にしているし、漢文でも習った」
とカルビが焼けるのを見守り応えると、
  「そうか、ならわかるな、理系で建築に進み、独立して建築会社を築くのは
   不可能ではない・・・が、まあ大抵は『牛後』だな、それでいいのか?」
と。
 巨人・大鵬・卵焼きと言われたくらいの時代だった。
 野球のような緩慢な試合運びでは老練な父に勝てないのは見えていた。
 が、体育の正規授業と全校総当たりラグビーフットボール大会で経験した、一瞬のうちに「攻守」がドラスティックに変わるベース展開は、老練な父にも通用する、と私は確信し勝負に出た。
 
  「トウサンも今は『鶏頭』だが、最初は『牛後』だっただろう」
と。 
 ビールを飲みかけた父の手がとまり、ホルモン焼き屋の親爺が炭をおこす団扇の手を止め、ニヤリと笑うのが目の端に見えた。
  「・・・ま、そう言われればそうだ・・な。」 
  「トウサン、そもそも17〜18歳で、何の職業に適しているかなんて決める
   のが、おかしい」
  「ははは、そう来たか、ま、それはそうだな。
   お前の言わんとするところは、わかった。
   だがな、何が正しく何が正しくないかがわからん時でも選択しなきゃならん
   のが、大人てぇやつだ。
   お前は、やっと大人の世界の入口に立っている。」
 認めながらも決して認めない、それが大人の世界だった。
 
  「トウサンだって、樽中出て獣医を目指し大学の筆記試験は合格したのに健康診
   断で引っかかり、それにやけくそになって満州に渡ったんだろ。
   満州大学経済学部通いながら満州国の公務員やって戦争にかり出されて、そう
   、招集ってやつだ、それでニューギニアにいき、米軍とより病気と飢餓と闘い
   、かろうじて生き残り、帰国した。
   戦後は労働基準監督署、そしてホテル支配人を経て、今蕎麦屋の店主になった。
   トウサンだって、蕎麦屋になるなど思いもよらなかったんだろう。 
   俺だって自分が何に向いているかなど、全くわからない。」
  「で、建築か?」
  「今はそうしか言えないだけ。獣医を目指した頃のトウサンが、今の俺だ。」

 ホルモン焼き屋のカウンターは、沈黙が流れ、TVの野球の歓声だけが妙に大きく流れていた。
 それまではジュースでホルモン焼きを食べていたが、父の目配せでホルモン焼き屋の親爺がビールグラスを私の前に置いて、父はビールを注いでくれ、アゴでグラスを持てと指し、ビールを注ぎ、一言言った。
  「乾杯だ、まあ・・・、やればいい」
 
 「乾杯」を「完敗」と聞き間違えたまま、乾杯した。
 父親の前では、初めて吞むビールだった。
 旨かった。
 そして、・・・勝った 。
 但し、この時点では・・・だった。
 本当の勝負は、7年後に訪れた。
 そして、一浪時代わざわざ私の様子を心配して来宅してくれた三年時担任も、今の成績なら合格だろうと言ってくれた。
 母の弟が岩手大学農芸化学の教授で、帰省していきなり私のカバンの中をチェックし、笑ってくれた。 その頃、世界史と日本史にしか興味なく、理系の教科書や参考書は机の上にしかなかった。 
 叔父は、私の目を見て何も言わないでいてくれた。
 都内の理工系では、その当時一番学費の安価な芝浦工業大学建築工学科に、入学した。 

 私にとっては、モダニズムと自由に光り輝くと思われた東京に、・・行ければよかった。 
 しかし・・・、結局、世の中は、
  「どこに行っても、住みにくい
という現実に、即入学して数ヶ月でぶつかる羽目になる。 
 
 
02_04. バリケード封鎖の校舎で受験
 
 私にとっては小樽運河保存運動は、二度目の大きな政治経験・大衆運動経験だった。
 一度目はというと、自分のような1948年(昭和23年)生まれが前後する層が大なり小なり経験した、
   「1968年(昭和43年)
をその開始とする、あの全世界の怒れる若者の運動であった。
 「全共闘」という学生運動が、それだった。
 
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芝工大全学闘第一次闘争,入試の前に会場下見で行った芝浦工大田町校舎はバリケード封鎖中。  

 入学試験の下見に訪れた大学は、3階の床高まで学生たちによってバリケード封鎖されて、その迷路のようなバリケードの通路を通り抜けて、試験会場を見た。
 このバリケードを学生たち自らで組み構築したことに驚きだった。
 しかし、自分がそのバリケードをこれから組む側になるなど、受験下見では露ほども考えなかった。

 二年生で、煙草・ハイライトを吸うようになり、その価格は八〇円だった。
 当時の私の街での蕎麦屋の「もり蕎麦」の価格は一枚70円、米一升が二〇〇円の時代だった。
 両親は、私への学費と生活費の仕送りのためには、どれだけその「もり蕎麦」を売らなければならないのか。
 最低でも4〜500枚の「もり蕎麦」を今まで以上に売らねばならないはずで、そんな苦労を両親にかけての大学生活では、学生運動などやっていられる余裕はない、と思っていた。
 日銭商いの蕎麦屋の発想が、門前の小僧で染みついていた。

 私が入学した前年、経営難を理由に大学側は授業料値上げを発表し、学生運動不毛の大学で史上初めて学生の抗議闘争が勃発し、入学試験阻止のバリケード封鎖がされ、しかし経理公開などを条件に入試前日ストライキ解除になっていた。
 寮に入った学生同士で、そんな大学状況への話し合いがあった。
  「こんな大学を正常化し健全な大学にするなど、所詮無理で徒労だ。 
   だったら、さっさと卒業し社会人になって自由に生きるだけじゃないか。
   大学だって所詮ビジネスなんだろう。
   赤字経営であれば、授業料値上げをするのは当然で、それに反対するなど子供の論理で
   しかない、」
という土建屋子息の寮生のいう言葉のほうが、もっともに聞こえたものだった。

 だが、このような田舎出の背伸びし大人びた意見の学生の想像を超えるほど、大学の内実はひどいものだった。
 「倫理的、道徳的」思考の学生の怒りに、火を付けるほどすさまじい経営オンリー路線だった。
 「収奪」という言葉を初めて知った。 
 体育系主力クラブは、学内で学生運動への警戒の監視通報機関であり、再度の学生運動の盛り上がりを暴力的対応で事前封殺するための行動隊・学内弾圧装置に、私立大学の学生親子収奪構造に組み込まれていた。
 学生服の黒は、一般学生を威圧するための黒だった。
 「暴力装置」という言葉が、体育会系クラブの学生服集団とイコールになる。

 後年、2010(平成22)年、ときの官房長官・仙谷由人が「自衛隊は暴力装置である」と答弁し、上下赤の勝負スタイルで登場した自民党の広告塔・丸川珠代参議院議員に追求されているのをTVで目の当たりにした。 
 東大経済学部出身の丸山珠代議員は、マックス・ウェーバー(断っておくが左翼ではない(^^))の「職業としての政治」で述べた
  「国家とは、ある一定の領域内部で・・・、正当な物理的暴力行使の独占を・・・要求する人間共同体である」
という定義を知らなかった。 
 社会学や政治学では全く一般的な知識の範疇であるにも関わらず、いやしくも政治のプロが近代国家についての最有力の定義を知らず、さらに生半可な知識と大衆へのおもねりによって政敵攻撃をする姿をそこにみた。
 自分が興味がなく知らないことは、知るに値しないという反知性主義をさらけ出した。
 
 その「大学内暴力装置」の体育会系クラブへの大学からの助成金総額は、各学科の実験設備購入費総額を遙かに越すもので、経理公開でそれを知ると、全学生・教員が唖然とするより自らの大学のレベルに恥ずかしさを感じるほどだった。
 外見だけ大学を装っていた。
 大学図書館に入って驚いた。
 専門書は教授たちが借りだしたまま数年返されておらず、一般書籍は高校図書館より貧相なレベルで、呆然として立ち尽くした。
  どの私立大学もそうだったが、入試要項記載では定員六〇名の学科が、実は二倍三倍の学生を入学させていたが、私の学科もその例に漏れず四〇名の定員など入試要項だけの世界で、一〇〇名以上の学生がいた。
 入学して始めての前期試験では、一般教養科目試験では一二〇名収容教室が溢れ、試験を受けられない学生が続出した。
 しかし、学生課職員も試験担当教官も、黙りこくり、ただにやけるだけの対応だった。
 一般教養科目の授業内容はというと、高一の教科書のレベル授業だった。
 化学実験は、高校の方が高度な実験設備と実験内容だった。
 あまりの低レベルさに、呆気にとられた。
 これでは、授業にでなくても試験は通る、と寮で覚えたての麻雀三昧の生活に溺れる。 

 全てが万事、この有様だった。
 マスプロ教育のグロテスクな姿がそこにあった。
 一年の前期試験結果は、私のようなものでも大半の科目で「優」を取り、逆に少しも嬉しくなかった。
 ある日、夏休み帰省する直前の授業が終わって、助手が近づいてきて、
  「このまま4年までいけば、大学院にいける」
と言って来て、
  「冗談じゃない、こんなレベルの大学の院などゴメンだ。
   あなたも他大学の院に行きたかったんじゃないのか」
と、啖呵を切ったものだった。
 私には、そんなレベルの大学の助手をしていること自体が、軽蔑の対象だった。
  「俺だって、○○大学の院を目指しているんだ。」
と、か細く答えてきた助手と、それ以来仲良くなった。

 私が入った一般学生用の寮は、大学敷地に以前から建っていた古い小学校の校舎を買いたたいたもので、二段ベッドを設置しただけの教室に四〜六人を収容し、管理人が目を光らせ、寮でも学内でも三人以上集まると集会とみなされ、すべて許可制という始末で、学生監視管理体制だけは裕福な女子大生が住む「女子学生会館」かと、呆れたものだった。
 一方、スポーツ入学した体育会系学生は、特別設えの寮に入居し、授業には全く顔を出さなくても単位は保証され、更に生活費すら支給され、いざ学内で学生運動が持ち上がるときには大学当局側の学生運動弾圧の実力行動部隊の役割とカネも、与えられていた。
 それは、日大を筆頭に体育会系学生による一元的大学支配が貫徹する、一皮むくと暴力装置むき出しの、有名大学を目指す経営路線目いっぱいの私立大学の現実だった。

 当然、反発心がわき上がる。
 学生運動に参加する気など毛頭なかった。
 二〇〇人はいる寮生の親しい仲間と計らい、大学学生課と寮管理人に「麻雀で四人集まる」とわざと毎日何組も許可申請を出し続け、一ヶ月後、学生課も管理人もその手続き申請の多さに悲鳴をあげ、以降麻雀に限り四人の集まりは許可制から外す事態となった。
 「麻雀禁止、勉学を」と許可を出さなければいいのだが、静まっている学生運動という火に油を注ぐ結果になっては、と判断したのだろう。
 麻雀四人の集まりの許可制廃止は、3人麻雀で2卓、4人麻雀で2卓という理由付けで、6人、8人と一つの部屋に学生が集まることを意味した。
 麻雀を装い大学に対しどう戦いを挑むか、の話し合いをしていた。

 こうして前時代的寮管理規定のその一角を、食い破っていった。
 大学が雇った寮管理人は、この空気を敏感に読み取り、それまでの強圧的な管理姿勢から手のひらを返すように転換し、それまでの権威主義的態度をいち早く脱ぎ棄て寮生にすり寄るようになる。
 実家から送ってきた干物・身欠きニシンなどを小分けにして他の部屋の寮生達にも分け、寮管理人室にも持って行くと、管理人夫婦は嬉々として部屋に招き入れてくれ、安焼酎で一杯やりながら大学校舎建築工事の警備をしていて管理人になったと聞かされ、寮の管理人室の住居を追い出されたら行くところがない、と泣きつかれた。
 「だったら、全学闘がイニシアティブをとる寮生委員会と上手くやっていくよりな
  い。
  皆、いさましいことを言うけれど、自分たちで電話当番(ピンク電話一台しかな
  かった)や入浴用ボイラーを沸かすなんてこと、交代でやりたくない。
  そもそも、ボイラー免許など持っている学生などいないのだから。
  だらか、そこを突けば寮生委員会も出て行けとは、言わない。 
  しかし、今までの規則一点張りは、大学には内密にし、止めてしまえばいい。」
と。
 こうして、寮内の集会の自由などは寮内に限って拡大していった。

 と、ある日、寮にいた同学年の全学闘争委員会(=全学闘)の友人が、
  「おまえのやり方は、改良主義だ。
   管理人を追放し、寮の管理を学生が握るべきだ。
   自主管理だ!
   お前も全学闘に入れ。」
と、批判しながら学生運動に勧誘してきた。
 別の学科だが優秀な学生で、寮生を取りまとめる真面目ないい男だった。
 この手の活動家は真面目なだけにウィークポイントも多々あった。
 笑って、応えてあげた。
  「改良主語か革命主義かなど、俺知らん。
   3人集まれば集会というがんじがらめの寮管理を全学闘や自治会も放置し
   てきただろうが! 
   抗議もせず、何もそれに対処もしないで、それを食い破った学生を、今に
   なって改良主義などと非難するのが、全学闘か?
   (彼も全学闘のなかでそう問題提起していたのを聞いていたので言った
    までで、逆に彼がそういう私に反駁できるわけがない、と踏んでいた。)
   寮の自主管理はかまわない、が、管理人がそれで解雇されるのか、どこに
   も行く当てのない高齢の夫婦だぜ。
   それを路頭に迷わせるのが、学生運動なのか?
   (皆、お坊ちゃんで結構それに悩んでいて、一方、勇ましい自主管理も口
    にしないと示しがつかない中で、悩んでいた。)
   そんな全学闘に、なぜ俺が入らねばならんの?」
と、頭は良くなく理論論議は大の苦手だったが、論争の決着は理論だけでなかった。

 全学闘争委員会や自治会に入り活動家になる気など、これっぽっちもなかった。
 それより、毎日曜日は、あこがれの都内にいき散策する方が、魅力的だった。
 というかカネもなく、散策しか出来なかった。
 神田の書店街がお茶の水駅から近いことを知るまで、神田駅から歩く田舎者だった。
 新宿の紀伊国屋書店にいき、書籍の量の凄さや広さに驚愕した。
 徐々に同じ学科に友人が出来ていった。
 皆、この大学の現実に不満を持ちながら渋々授業に出ている、真面目な田舎出の人のいい連中だった。
 まだ、私も建築の夢は捨てきれず、外国語授業だけは専門誌を読む能力をつけるためと出ていた。 そして、そのような仲間で「建築家の犯罪性を追求する建築家のタマゴの会」などというグループをつくり、校舎の全く使われていないゼミ室を借用し、たむろするようになる。
 その仲間の紹介で、土方バイトをしては、東京散策の資金にしていた。
 パチンコもその頃覚え、少しは稼ぐようにもなっていた。

 入学した秋、入学前の学生ストライキで大学側が約束した経理公開に関し、自治会・全学闘が会計事務所に監査をさせた結果が出た。
 赤字経営は真っ赤な嘘で、10億円以上もの黒字経営であり、それを問いただす学生大会が予定された。
 大学当局側の指示で学生大会などを混乱させ流会に持ち込もうとする体育会系学生には、皆闘争意識を燃え上がらせたが、共産党青年組織・民青と共産党系教授までが「授業を受ける権利と大学正常化」を叫び体育会学生と一緒になり「学生大会を開催させない」と校舎入り口で阻止線を張る姿に驚かされた。
 政党とは言うこととやることが真逆であることを、ここで知った。
 経理公開を大学側に問いただす学生大会が、体育会系クラブに生活費援助まで資金供与しその種の経費がなんと大学の全研究費より多いことが暴露され、大衆団交に切り替わった。
 初めて私も大衆団交というものに参加する。

 一般教養取得年度の二年生までは埼玉県大宮校舎、3〜4年は東京港区芝浦の田町校舎で授業を受けるわけで、私は埼玉の大宮校舎の学内寮に居住していたため、田町校舎に行くなど滅多になく、田町の3〜4年の「建築工学科闘争委員会」の部屋に行くのも、初めてだった。
 1年生当時、外出用の服と言えば学生服しかなくそれを着て建築工学科闘争委員会に行くと、学生服=体育会系学生が乱入したと勘違いされ取り囲まれる始末で、まだ牧歌的空気があった。
 大学側は、学費値上げ分を返還する旨発表せざるを得ず、大学の民主化項目を実施するため全学協議会を設置するとその場しのぎの確約し、学生側を宥めるため一時リベラル派執行部の教授会を誕生する。
 しかし、私立大学は理事会が全権限を持っており、教授会は国立大学のような権限は与えられていらず、教職員組合さえなかった。

 全学闘争委員会は大学側に勝った勢いで、1968年10月21日国際反戦デーと1969年1月18-19日の東大安田闘争に向かう。
 多くの友人たちが参加し、前者は「騒乱罪」が適用になり、同じ学科の仲間が次々芋づる式に事後逮捕されていった。 毎日、誰それがアパートや下宿や実家で事後逮捕された、というニュースが学内で話されていく。
 学科クラス討論をリードするリーダーが、いなくなった。
 自然「建築家の犯罪性を追求する建築家のタマゴの会」のメンバーがその役になり、私もいつの間にかクラス討論の進行役をし、気がつくと全学闘争委員会の会議に出るようになっていた。

 「はまり」への序曲だった。
 
02_05. 全共闘運動と、たまたま巡り合っただけだった。

 全共闘運動への参加は、要はたまたまそういう「巡り合わせ」だったにすぎない。
 今の若い世代が、
  「よくまああんな過激なことに参加していったものですね」
と、全共闘の話を聞いてくる場面が、帰樽した当事あったものだった。
 申し訳ないが、全共闘に参加していく当時の学生達が、何かしら高邁な思想に裏打ちされて参加していったわけではない。
 阪神淡路大震災や3.11東北大震災や雪害にボランティア支援に行った若者たちと、全共闘運動に参加していった若者たちと、何らかわりはなかったのである。
 青年特有の、高校生時代の「義によって仏頂面する」というスタイルの延長の、実に倫理的で道徳的な学生たち、若者たちだった。
 何かにつかまれたかのように、ハマッテしまい、びしょ濡れに濡れてしまっただけなのだ。
 ただ、びしょ濡れに濡れてしまうことを、全く厭わなかった。

 が、背景はあった。
 「もはや戦後ではない」という、時代の転換点に来ていた。
 転換点特有の混乱とねじれが、もっとも敏感な学生達に影響を与えていた。
 政治・経済だけでなく、文化や風俗でも転換点にきていた。
 ビートルズが象徴していた。
 音楽だけではなく、ファッションなど自分を取り巻くあらゆる文化など、ライフスタイルにたいする若者の感性が劇的に変わった。
 入学した一年目、学内では体育会系ではないのに自分も含め詰め襟の学生服姿が歩き回っていたが、大学二年目には当事流行のヒッピー・ファッションの洗礼も受け、Tシャツにジーンズになり、少し余裕のある学生はアイビー・スタイルで決め、今とそうかわらないファッションになっていた。 
 勿論、圧倒的に長髪だったが、それは反体制気分もあったが散髪代の倹約の結果でもあった。

 全共闘運動、それは日本、アメリカ、ヨーロッパへと爆発的な速さで国際化した。
 各国間で互いに反響し誘発しあいながら、反戦平和から学制改革要求、そして大学占拠へと一気にエスカレートしていった運動だった。
 確かに、それは個々の部分的不満から生まれて爆発しあった。
 が、完全にあたらしい、世界共通の性格を持ちあっていた。
 世界が到達した新しい現状から発し、必然的に社会の全構造と社会体制全体を問題にしていくのは、ある種必然だった。
 この世界的な学生運動の拡大とエスカレートの激しさは、当の学生達に知らしめていた。
 何か新しい雄大な時代への予感にふるえながら目覚まされることを待ち受けている若者が、世界中いたるところにいると。
 そして自分たちの周囲にも、だれもの回りにもいることを明らかにした、と感じさせられた。

 戦後、到達したすさまじいまでの工業化と生産関係があった。
 さらにそれを出発点として、今後それこそ天文学的加速度で爆発的に発展する趨勢を、学生たちはみてとった。
 ところが、それに反比例して、いよいよ卑小化しアナクロニズム化した社会関係があった。
 そこからくる社会全体の矛盾が生み出すアンバランスは、若者にとっては耐え難いものに映っていた。 
 その年代は、日本における高度成長の最頂点的時代であった。
 が、その一方で、どこをむいても貴重な人間の能力とエネルギーの膨大な浪費があった。 
 そして、そこには雄大なアイディアもなければ、魂を勇躍させる崇高な理想もなかった。
 偽善をオブラートで包んだ馬鹿げきった社会に、若者は胸がむかついていた。

 この滑稽なまでにアナクロ化した、暴力以外に何の権威もない体制を、もっと簡単明瞭に合理的に創り直したら、生産力と文化は横へも縦へも未来へもそれこそ爆発的に奔流し出すだろう。
 はっきり意識されないまでも、毎日目撃する現実に支えられた予感が、当時の学生の意識の中に芽生えていた。
 
 ことに、ものすごいスピードで発展する最先端の学問に、明日の世界を垣間みることのできるのが学生たちだった。
 自分でも想像することが出来ないルネサンスを内に感じながら、心を躍らせるものといってはひとかけらもない、退屈で卑小な現実の前に、なぜ無惨に即頭しなければならないかと、憤っていた。
 そして、こんなばかげた状態をいつまで存続させるのかという、小さな小人の世界とくだらなさにうんざりし、大きく背伸びしそのちっぽけな世界をぶち壊さないではいられない、ガリヴァーの衝動を感じていた。

 内容と規模からいっても、高校時代に世界史で習った古代のアレキサンドリアやボローニャの大学のような国際的な豊かさをもった大学でなければ、そしてそこで鍛えられた知識と才能をフルに生かすことのできる、それにマッチした雄大で健康な社会ではなくては、伸び伸びと息をすることも生きることもできない、という気分があった。

 プチ・ブルとかインテリとか馬鹿にされた学生達の反乱だった。
 経済学者や大学教員をはじめとする社会から白眼視されてきた学生達の反乱は、大仰に「賃労働と資本」とか「疎外された労働」というマルクス主義言語や語彙を干涸らびさせ一面的な意味だけで片づけていた、すこぶる想像力の枯れた学者や理論家たちの頭には、理解を越えた無縁の謎だったのである。

 さらに、この学生たちの存在は、体制が違うとされた共産圏と言われた勢力圏でも、登場した。 
 チェコ・プラハの民主化では「人間の顔をした社会主義」という言葉が発せられていた。
 共産圏といわれた国家の人たちの口から発せられたこの奇妙な言葉が、まるではじめて聞くように非常に新鮮に全世界に伝播していった。
 この矛盾した言葉は、共産圏とよばれる世界の生活がどんなに非人間的なものであったかを、全世界に露呈した。 
 当事の学生の目には、ソ連とその官僚達は、
  「貧しくみじめなロシアを社会主義に引き上げることができなかったので、
   逆に社会主義をロシアの悲惨さにまで引きずりおろした。」
としか見えなかった。 
 そして、この泥まみれに汚された社会主義のイメージをするどく告発したのが、チェコの若者達でだった

 貪るように、マルクス主義書籍を読み、高校時代に受験で学んだ世界史や日本史や倫理社会などで得た知識が、干涸らびた皮を脱ぎ捨てて現れ出てくる快感に、セクシーさを感じるほどだった。
  「世界を獲得する」
  「世界観を、自らに構築する」
などという言葉に酔いしれた。

 しかし、内心は学生運動活動家などになることへの怖れも、ないわけではなかった。
 前向きではなく、後ろ向きで後ずさりすることで、おそるおそる前に進んだものだった。
  「われわれは後ずさりしながら未来に入っていく・・」ポール・ヴァレリー

 ・・・しかし、その全世界を席巻した学生運動は、挫折した。
 とりわけ、日本では悪無限的な憎悪の増幅しか意味しない「内部ゲバルト(内ゲバ)」という悲惨で凄惨な堕落的結果として。

02_06. 内部ゲバルトと全共闘運動の敗北

 この学生運動や新左翼系労働運動に内ゲバが持ち込まれる伏線が、日本赤軍と連合赤軍だった。
 彼らは、社会の根底から世の中を変革するための地道な作業に挑戦するのではなく、華々しい街頭闘争の戦術急進化の延長に政府打倒を夢見てしまった。
 信じられないくらいに性急で、あきれるほど稚拙な若者だった。
 彼等は、地道で確実な成果を生むクラス討論や職場討論という「現場での活動」をいつまでやればいいのか、という焦燥感にとりつかれ、そのような現場活動を放棄した。
 必然的に、内部だけでの論争の虜なっていった。
 自らが依って立つ基盤の大学の学生や職場の仲間でその論議は検証されず、結果なお一層孤立し、小グループで固まってしまった。
 大学や職場活動の放棄の、挙げ句の果ての帰結は、決まっていた。
 彼らは自らの主張にこの国の人々を獲得する、という原則の道を歩むのを放棄した。
 私は「ここではないどこか」としてモダニズムの中心東京に向かったが、彼らは「ここにはいられないからどこかに」とアラブや北朝鮮に行ってしまった。
 どこに行っても「ここではないどこか」は見つけられないのに・・である。

 そんな小グループの中でも主導権争奪はあり、イニシアティブを取るため行動の急進化を必要とし、戦術の急進化は結局武器の急進化に行き着いてしまった。
 手段が目的化していった
 言葉は、その主導権を維持するためのツールになりはて、共産主義・社会主義理論や毛沢東主義を都合よく利用・簒奪した。
 「借り物の衣装」を身に纏うだけだった。
 自らの内容を高め止揚していく作業の遠大さに立ち尽くし、それを放棄した。
 いわゆる、共産主義や社会主義のレベルに自らを引き上げようとするのではなく、共産主義や社会主義を彼らのレベルに引きずり落とした・・だけだった。  
 厳しい言い方かもしれないが、「気分は革命家」に過ぎなかった。 

 結果、小グループ内の反対派や躊躇派の意見を汲み取り論破するのではなく、「総括」という名の内部テロ・リンチ・粛正で、異見の否定どころか肉体そのものの抹殺にまで行き着く。 
 ただ、この時点では、かろうじて内部ゲバルトは、自らの小グループ内にとめおかれていた。
 が、比較的勢力のある党派がライバル党派との指導権争奪戦に、あろうことか内部ゲバルト路線を採用してしまった。
 そして連合赤軍の拉致・リンチという行為の異常性がそうであるように、最初は戦闘能力を奪うという段階から自らを制御できなくさせていき、一度生命を奪ってからはもう歯止めは効かなくなった。 
 報復戦となり、恐怖を憎悪に転化し、憎悪が憎悪を一層増幅・加速させ、自ら泥沼に墜ちていった。
 その帰結はあきらかだった。
 それらの内ゲバ党派は対象を対立党派だけでなく一般にも拡大していった。
 それは学生運動では、大学内の恐怖支配の始まりであり、当然のごとく普通の学生は学生運動そのものから離反する。
 健全な道徳観や倫理観や不条理への怒りで学生運動に参加していきながら、同じ陣営の側から生命を絶たれてしまうような学生運動に参加するものなど、いるわけがなかった。
 
 しかし、大学当局、とりわけ私立大学の経営陣にとって、内ゲバは実に好都合だった。
 体育会学生という学内一元支配の暴力装置に代わって、新たな暴力装置である政治セクトが加わっただけだった。
 そして・・、燃え上がった全国学生運動は、汚辱にまみれて沈静化していった。
 どの大学も登校時学生証チェック体制が引かれ、一見平穏な擬制の正常化となっていった。
 広範な学生大衆に依って立つ自律的学生運動は、自ら依って立つ基盤を投げ捨ててしまった結果だった。

 内ゲバ党派は、私が在学していた芝工大学生運動をその内ゲバ戦に巻き込もうと、様々な挑発をしてきた。
 しかし、ある意味民青(民主青年同盟・日本共産党指導下の青年組織)より徹底的にクラス討論に依拠した学生運動が、芝工大学生運動の特徴だった。
 他大学の内ゲバ党派が芝工大学生運動の指導権を取ろうと実力部隊で構内で襲いかかってきても、一般学生はもとより体育会系学生までが一体となってそれを撃退する、全国でもまれに見る、希有の大学だった。 
 よく少数の全共闘活動家が、いきなりバリケードをつくりストライキを叫び、その実、バリケードの中に自らをおかず、通称「吹き抜けバリケード・吹き抜けストライキ」をしたことをもって、あなたかも全共闘運動全般を非難する同世代の人々がいる。
 が、それは、そういうレベルの全共闘運動しか成立しなかった、その大学の不幸であり悲劇でしかない。
 
 が、常に芝工大学生運動は、現場のクラス討論に基礎をおいた。 
 飽く無くクラス討論を持続し、クラス決議を一つずつ積み重ね、全学学生大会を開催し、公然と政治課題でも学内課題でもストライキをうつ、学生運動だった。 
 そして、それを学生だけの世界に限定しなかった。 
 旧態依然とした理事会構造の中で、大学に存在できないで来た教職員組合の誕生を助けた。
 非民主的理事会から、良識派理事会を誕生させた。
 利益至上主義大学生協が学生の長期ストライキの煽りを受け破綻すると自ら再建したばかりか、地域生協誕生まで芝工大学生運動が支え抜く、関東の単科大学生協でトップの運営業績を挙げる生協に成長させていた。
 そのような運動展開をした。
 芝工大が、その歴史で初めて学生運動がおこり、大黒字であったのに経営不振と偽って授業料値上げをし、史上初めてのバリケードストライキで経理公開を勝ち取り、理事会統制下にあった御用教授会から当たり前の教授会を誕生させた芝工大学生運動だった。
 
 が、どれだけの学生や教職員が被害、いや弾圧をうけたことか。

02_07. 芝工大経営陣の最後の巻き返しと学生達の反抗

 全国に拡大した大学紛争に業を煮やした政府は、大学臨時措置法を成立させた。
 全国の大学で、ガードマン導入による日常的検問ロックアウト体制と機動隊の常時出動態勢が、政府公認となった。
 芝工大でも、それを好機と判断しそれまで位置を占められないでいた利益追求路線の理事者が、巻き返しをはかってきた。 
 前時代的理事者と校友会(OB会)が、彼らの復活を狙い動き始めた。

 理事会による教授会の再度の掌握を画策し、まずは最大の阻害物である学生運動を叩く路線を採用した。
 自治会執行部を狙い撃ちして、学長監禁罪というでっち上げの罪状で警察に学生を売り、構内が不穏として学内に本物の右翼暴力団が偽装したガードマン会社を導入し、登校時の検問態勢を突然引いた。
 自治会・全学闘学生を強制排除し、入校させない暴挙にでてきた。
 数少ない女子学生や女子職員に、ボディチェックを名目に痴漢同様の行為をした。
 教授会に理事会ロボットの教授を学長として送り込み、成立した教職員組合を否定した。

 学生達も、総反抗の準備に入った。
 その理事会との前哨戦は、入学式で自治会執行部から新入生に挨拶をさせよとした入学式ガイダンスへの押しかけだった。 単純な学内デモだったが、そのデモ隊にガードマンがヌンチャクや鉄パイプで襲いかかった、
 ガードマンの襲撃であるのに、それに抗議して教職員とのもみ合いとなったのを理由に、GWのこどもの日にそのデモに参加した私は、下宿で事後逮捕された。
 それが、全学を揺るがす理事者VS自治会・全学闘の、その後2年有余に渡る全学を揺るがす闘争の合図となった。
 久しぶりに下宿に帰ったGWの後半の五月四日の夜、溜まった洗濯物を洗いに洗い(コインランドリーなどない時代で、下宿の裏庭の屋外に洗濯機があり、北海道出身の私は面白がった)、下宿のオバサンや下宿生で徹夜麻雀をし、明け方近く、着の身着の儘で、部屋で横になった直後、埼玉県警の刑事が下宿にきた。
 下宿周囲の路地という路地が制服警官とパトカーで封鎖されていた、と後に近所の喫茶店の店主から聞いたが、店主はそれで逮捕されたのが私だとは露ほども知らないでいた。
 下宿のオバサンが刑事さんが来ていると怪訝な顔で部屋の私を起こし、私もとっさに窓を開けそれを見て、観念した。
 下宿のオバサンは「大事な方から預かった息子さんです」と私と刑事の間に入り刑事にすがりついて泣いて、逮捕を免れようと懇願してくれた。
 下宿の友人達が、そのオバサンの世話をしてくれた。
 下宿の四畳半の部屋の家宅捜索が執行され、立会人は当然誰もいず、その場で逮捕された私が立ち会うよりなかった。
 
 問題があった。
 前夜下宿に帰り、着たままだったブレザーの内ポケットに芝工大自治会の預金通帳と印鑑が入ったままだった。
 これも証拠物件として押収されたら、自治会活動は資金源が絶たれる。
 狭い四畳半に、後から加わった若い刑事も含め三人が徹底的に家宅捜査をしている姿を見ながら、
  「家宅捜査の間、珈琲いれていいか? もうしばらく珈琲味わえないし。」
と刑事にいい、刑事も廊下には下宿生や下宿のオバサンがいるので無碍にできず許すと、豆を曳きながらどう切り抜けるか、必死に考えた。
 故郷の実家での小学生時代、心ないスタッフが同僚の給料を給料日に勝手に拝借し、父から捜索を命じられその給料袋をトイレのひさしの上から発見した事件を思いだした。
 試すよりなかった。
  「トイレにいきたい、大だ。」
といい、若い刑事が腰縄をかけ下宿の共同便所の戸から腰縄だけは出し逃亡できないよう掴んだ状態で、トイレに入る。 
 ポケットから袋に入った通帳と印鑑を取り出し、予備のトイレットペーパーのビニール袋で二重三重に包み、トイレの天井近くの水タンクの蓋をあけ、その内部に隠した。
  「まだか?」
と、若い刑事が居丈高に権威を振りかざしトイレの板戸越しに催促し、
  「お前さんがいると思うと、流石の俺でも思いっきり出来んのだよ。」
と大声でいい、廊下にいる下宿生が吹き出した。
 
 トイレから出て若い刑事がトイレの中を点検し、何もないと上司の刑事に報告するのを聞き安堵し、あとは家宅捜査のなか珈琲を飲んで終わるのを待つ。
 家宅捜索を終えて埼玉県警にパトカーで向かい、拘留期間中県下の警察署をたらい回しされ、取り調べを受けた。 
 埼玉の学生活動家の間では「オトシの○松」と異名をとる課長刑事がいやらしい陰険な取り調べをしたが、完全黙秘をしきった。
 指と指の間に鉛筆を挟み上から拳固で叩き、痛みと恫喝と懐柔の両面の取り調べだった。
 自治会執行部のメンツにかけて完全黙秘をしなければと意気込んでいた私には、一般学生のように授業の心配などなく、何と完全黙秘は簡単にできることか、と23日間を完黙した。
 逮捕三日後、接見に来た弁護士に「下宿のトイレの水タンクに隠した通帳と印鑑」の件を告げ、自治会執行部の親友に連絡し回収するように、と伝えた。
 一番困ったのは、大学入学時の保証人になってくれた埼玉県在住の叔父が警察署に接見にきてくれたときだった。
  「俺は完全黙秘で氏名も認めていない。氏名不詳の俺は、この人を親類とは認めない。」
というと、叔父からいきなり拳固を受けてしまった。
 苦笑いし、
  「オジサン、申し訳ないが、逮捕されたとはいえ被疑者にも立場があるんだ。」
というと、刑事は笑って取調室に伯父と二人だけにしてくれた。
 当然会話を別室で聞かれていたのだけれど。
 伯父が声を潜め、
  「娘が埼玉ベ平連に入っていて、明日、果物を差し入れに来る。何か欲しいものは?」
  「○○屋の鰻丼、駄目だったらカツ丼」
と、埼玉県大宮市で有名な鰻料理屋の名前を出すと、また、拳固を張られた。
 GWとはいえまだ留置所は寒く、股引や衣類の差し入れは助かったが、大柄の体格の叔父でだぶつくのを我慢した。 
 従姉妹の差し入れてくれたイチゴが、美味かった。
 私は、初逮捕で幸い起訴を免れ、23日振りに釈放され、警察からの連絡で小樽から迎えに来た父と伯父に拉致され、下宿にむかった。
 刑事のあとは、家族帝国主義かと唸った。
 伯父は、父に翌日小樽に連れ帰れ、と主張した。
 正しかった、それが学生運動から隔離する最良の方法だった。
 私と同時に逮捕された後輩の2名の学生は、釈放後即遠く県外の親類の家に隔離されたのだから。
 私は、伯父には通用しないが、父の「男気」にかけた。
  「逮捕期間、弁護活動をしてくれた仲間に会い礼をいい、自治会執行部としての責任上
   事後の処理を終えたら、小樽に帰る。
   これをしないと男が廃る」
と主張し、父がその息子の言葉を思案すると、伯父は天を仰ぎ、父に委ねて帰ってくれた。
 二人、四畳半の下宿部屋に残り語り合い、それでも仲々首を振らない父と一緒に、田町校舎に行った。
 大学構内は、私他三名の学生の逮捕に抗議する怒れる学生集会、クラス討論の嵐が巻き起こっていた。
 大学の中庭に入るとすぐ仲間か駆け寄ってき、囲まれ、その場で集会になった。
 父は首を振り、私のアジテーションを聞き、諦め羽田に向かった。
 追いかけて、帰る父に詫びた。
  「とにかく、落ち着いたら一度帰って来い、母が心配している。」
と。
 頷いたものの、帰れるわけがなかった。
 翌日、埼玉県大宮校舎に行くと、田町校舎より騒然としており、私を「奪還」したと集会が開催され、皆にめちゃくちゃにされた。
 付き合っていた女子学生が寄って来、意味深な笑みを浮かべてきた。
 逮捕前、洗濯はしてあった。
 が、たまりに溜まって放置されて黄ばみがつき、洗濯してもその黄ばみはとれず、漂白剤など使用する時代でもなく、洗濯した大量の下着が部屋中にはりめぐらせた洗濯紐からぶら下がったままだったのを思い出した。
 彼女から、私の部屋の整理をしたと聞かされ、部屋中の全てを見られてしまったことを悟った。
  「なんだよ。」
と憮然とするよりない、私がいた。
 
 そして釈放された夜の会議で、その日から四日目に、全学生七〇〇〇名の大学で、昼間部・夜間部・短大部学生がストライキを打ち、数千名がそのままガードマンを実力で学外に実力で追放する集会と行動が予定されていたのを知る。
 23日間拘留され釈放されて、四日目で又逮捕されるわけだった。
 23日間のブランクで、大学の状況に追いつく暇さえなかった。

 その4日後、一千名以上の学生が田町校舎に集まり、ヘルメットに覆面タオル、角材、竹材、ゴーグルに殺虫剤バルサンで完全武装した行動隊二〇〇名が、ヌンチャクや鉄パイプで武装する右翼・ガードマンを追い詰め、引きずり出し、完全にガードマンを学外に放逐した。
 勝利集会をしている最中に機動隊が大学を包囲した。
 一〜二年生は、暴力的検問と学生活動家や一般学生の見境なしに暴力行為をしてきたガードマンを逮捕しにきたかと勘違いし拍手した。
 が、その機動隊が集会をしている学生に襲いかかってきた。
 やっとガードマンを追放した96名の学生たちが、その場で逮捕された。
 私は間一髪、中庭から校舎の別棟の地下食堂に逃げ込み逮捕を免れた。
 包帯だらけで助けを借りないと動けないガードマンが、新鋭のガードマンと交代し、再び検問態勢が惹かれた。
 しかし、かつてのように学生活動家と一般学生と見境なく検問の際に振るった暴行はなくなった。
 一般学生が、
  「また、皆で学外に追放されたいのか」
と、ガードマンに言えるようになっていたからだった。
 それでも、表面的には検問態勢が引かれて、理事会は学生や教職員を鎮圧したと思った。

 私と一緒にそれまで運動をリードしてきた自治会・全学闘執行部が次々と事後逮捕された。
 執行部は私も含めて後輩2〜3名となり、以降、その後輩は大宮校舎に張り付き、私は田町校舎と大宮校舎のほぼ毎日往復で、芝工大学生運動の全面的立て直しに奔走する。
 昼は96名の逮捕者の救援活動や打撃を受けた自治会・全学闘の再建のための会議また会議の連続だった。
 夕方から夜は、起訴された学生の保釈金・約四〇〇万円の手当や弁護士との打ち合わせ、教授会・教職員組合との秘密会議と一人三役、四役に奔走した。
 大学に入るには、再び検問と見張りをするガードマンが私だけは検問を通過させず暴行してき、仲間や親しい教職員が開けてくれる校舎の窓から学内に入構し、大宮校舎の学生寮は右翼体育会学生が木刀を持って見張り巡回している中を、同じく寮生仲間が開けた窓から寮に入り、マークされていない学生の部屋をアジトにして会議を組織していた。
 拘置所に入っている仲間に激励の面会に行くときが、一緒についてきた彼女とのデートだった。
 切ない二ヶ月が過ぎた。
 釈放された自治会全学闘の学生が運動に次第に復帰し、自治会・全学闘体制を再構築し、ついに半年後、傷を癒やした学生達は、再び立ち上がる。
 教職員組合は裁判訴訟で大学理事会相手に自らの地位保全を訴え、教授会は文部省に訴えた。
 しかし、教授会も教職員組合も自らの地位は守ろうとしたが、学生たちの地位を守ろうとはしなかった。
 学生たちは、彼らに幻想をもたず、彼らの陣形をも逆に利用し、再度学生はガードマンを実力で放逐した。
 その戦いの場は、今度は大宮校舎を選んで田町校舎のガードマンも動員されるよう挑発行為をし、招き寄せて広大なキャンパスを縦横無尽に利用し、教室や教員室や研究室に逃げ込むガードマンを殺虫剤バルサンでいぶりだしては実力行動でガードマンを叩きのめした。 
 今度も機動隊の導入があったが、広大なキャンパスの無数にある林の中に指揮者ごとに学生は退却し、一人も逮捕者をださない戦術で成功した。

 他大学では学生たちを暴力で恐怖支配してきたガードマンではあったが、都合二度も実力で放逐されたガードマンは恐怖し、以降大学に姿を現さず、自治会・全学闘の学生の下校時を狙って学外で散発的テロを試みるだけで、それにも防衛隊を組織すると、消えていった。
 教職員組合は訴訟に勝利し、文部省さえもあまりの独善的大学運営に対し「理事会活動停止命令」を出さざるを得なく、全理事が退任させられ、文部省から理事会監督担当官が派遣され、民主的理事会構成になり、教授会からも理事会ロボットの教授は退任させられた。
 芝工大教職員・学生の「総ぐるみ」での勝利した運動だった。
 
 吹き荒れるがごとく燎原の火のように全国に拡大した大学闘争がやがて鎮圧されていっても、芝工大学生運動はこのように1968年から1972年まで五年有余にわたって、連続し継続した。
 
 しかし、内ゲバを理由に主だった大学は機動隊常駐体制となり、学生運動は鎮圧されていった。
 内ゲバ反対を高々と掲げた芝工大学生運動が、一大学で孤立したままで生き抜いて行くことは、無理だった。 
 そう、連帯のかけ声は、誠実と純粋を信じた若者達に痛ましい孤絶を呼び込んでいった
 あらゆるものからの自由と解放は、どこにも到達し得ない新たな隘路を出現させてしまった

 滅多に帰らない下宿に帰り、押し入れを開けるとその上半分を占領していたのは7年の歳月で母から届いた手紙封筒の山だった。
 激烈な戦いで、精神だけでなく、肉体もボロボロになっていた。
 深夜、田町校舎の寮で突然激痛に襲われ、廊下を転げ回り、救急車で運ばれた。
 担ぎ込まれた救急病院は若いインターンの医者で、「胃穿孔」と診断しすぐ開腹手術をと告げた。
 モルヒネ打って痛みを止めて、その診断が正しいかどうか一晩様子を見よう、と患者の自分がいい、自信のなかったインターンは「あなたの責任ですよ」と、病室からでていった。
 翌朝、友人に付き添われて駆け込んだ総合病院の診断は、「十二指腸潰瘍」だった。
 が、即、入院だった。
 原因は、乱れに乱れた生活と栄養失調の影響で、十二指腸潰瘍を誘発し、その潰瘍に食べた食材の破片がひっかかり、胃けいれんを誘発した、と。
 親元から離れた一人暮らしの学生の栄養補給のために入院だった。 
 その病院を退院して、3ヶ月後、再び高熱が出て同じく寮でダウン。
 都内の病院では仲間が来ておちおち入院生活できないと、友人の両親宅で療養させてもらい、さらに神奈川の病院に転院・隔離された。
 診断は、またも栄養失調と今度は胃潰瘍だった。
 あわせて、三ヶ月も入院する始末だった。
 医者が「今時、栄養失調患者など珍しい」と、患者の私は無視し、インターンを集合させ症状の説明をしてくれたものだった。 
 幸い若さだけはまだあり、十二指腸内壁と胃の内壁の細胞分裂を促す注射治療が施された。 
 栄養を取るにいいだけ取れとの医者の指示で、インターンや看護婦をそそのかし、病院の裏山の畑から野菜を拝借し、漁港市場から魚介類をインターンに買ってこさせ、当直宿舎で病院関係者と呑み食べ、栄養をつけたものだった。

 そんな1972年(昭和47年)、連合赤軍の浅間山荘籠城事件が、その入院中に起きた。
 1960年代後半からの全国的学生運動が、いよいよ崩壊していく「終わりの始まり」だった。
 退院日は、心が晴れてはいなかった。
 
 
02_06. 防衛庁と小樽駅前再開発と父と私・・・

 退院し、元の生活にもどったある日、大学の自治会室の電話がなった。
 大学の交換手は珍しそうに「防衛庁」からの電話だと告げ、電話を受けた自治会室は騒然となった。
 そして、なんと電話の主は、私を名指して電話に出るように言ってきた。
 電話にでると、逆に待たされ、代わって出た声が・・・だった。
 故郷の地元選出衆議院議員が防衛政務次官に就任していて、父はその政務次官の地元選挙区後援会の飲食業界票の取りまとめ幹部だった。
  「今、先生のところに地元の駅前再開発法適用の是非を問いに来ている。」
との電話で話してき、その政務次官が電話を父から取りあげ、
  「親爺さんいくら説明しても一歩も引かんので、すぐ迎えに来てくれ」
との電話だった。
 防衛庁に向かう電車の中で、父が言う故郷・小樽の今を考えた。

 故郷小樽は、高度成長に取り残されて、呻いていた。
 父には内緒で、母に申し込ませ北海道新聞小樽版を東京で購読していた。
 一週間遅れだったが、小樽の報道を読んでいた。
 日本の基幹エネルギー産業だった石炭産業は、戦後エネルギー転換で石油に大転換し、戦中までの石炭積出港として栄えた故郷・小樽港の位置は戦後消滅していた。
 また、樺太(サハリン)航路を失い、国際貿易港としての位置も失い、結果、戦後物流港湾都市機能も壊滅してきていた。
 北海道の中央・札幌が政治だけではなく経済の中心となり、小樽は坂を転げ落ちるように経済的ポテンシャルを一挙に失い、高度成長に乗り遅れ、斜陽の一途をたどっていた。
 
 その故郷・小樽の行政と経済界の起死回生策が、近代港湾施設としては時代の役割を終えた、人手での貨物の搬出入という「小樽運河」を全面埋め立てし、六車線道路建設でもって札幌とネットワークを強化し、経済的浮揚を再度図るという「主要道々小樽臨港線建設計画」であり、小樽駅前の高度利用化を図る「小樽駅前再開発ビル計画」の2本柱だった。
 そして、私の父が戦後裸一貫で膨大な借金をし蕎麦屋を営み、私だけでなく弟二人も育て上げたその蕎麦屋は、小樽再浮上の二本柱のひとつである小樽駅前再開発ビル事業で駅前に新たに出来る新商業ビルの地下街移転を促されていた。
 私が大学2年の秋、開業時の借金も完済の目途が見えてきた矢先に隣家からの出火で蕎麦屋と住宅部分は全焼した。
 それから5年、歯を食いしばって再建を果たし借金を返済し、総ての借金の完済目前だった。
 これに更に、地権者優先とはいえ長崎屋がキーテナントの商業ビル地下街への入店という「強制」にやり切れなさを感じ、父は怒っていたわけだった。
 ・・・無理もなかった。

 そんなことを思い浮かべながら、市ヶ谷の防衛庁に到着した。 
 天パ、長髪、Tシャツ、ジーンズとジージャン姿の私は、着いた防衛庁ゲートで自衛官に入庁させてもらえず、すったもんだする。
 私の到着が遅いと様子見にきた政務次官秘書官が私を庁内に入れてくれ、学生運動活動家がなんと政務次官室に招き入れられた。
 防衛政務次官室で、父は分厚い15センチはある「駅前再開発法」の法律書や資料を振りかざし、地権者優先入居では足りず、さらに優遇せよと政務次官の代議士に訴えていた。
 父がシラフでこうなったら止めようがない、と私は傍観していた。
 しかし、父の矛先は、私にも来た。
  「おまえ、三里塚で立ち退きを強制される農民を支援しているんだろう。
   親のためだ、小樽にお前達の全共闘を動員し、市役所にデモかけてくれ」
と矛先が変わり、防衛政務次官の前で息子を叱咤してくれた。
  「あのなぁ、親爺さん、三里塚は政府と対峙している。小樽はなぁ。市役所かぁ。」
  「何を言うか、戦争する相手に、政府と市役所の違いなどあるものか
 ・・戦争経験世代の父は、常に正しかった。

 しかし、防衛政務次官は、地元後援会幹部の息子が全共闘活動家であることはそれまでつゆ知らず、その活動家を防衛庁に、それも政務次官室に入れてしまったことに、目を白黒させていた。
 この小樽出身の防衛政務次官だった自民党代議士とは、のちに小樽運河保存運動を巡って渡り合うことになり、更に代議士は晩年イラクPKO派遣反対運動を果敢に闘うわけだった。
 さらに、政界を引退した造営政務次官はイラクPKO派遣反対で脚光を浴びたが、当時はそれを知るよしもなかった。
 ひとまず、防衛政務次官室から父の腕を取り退室し、ホテルに戻って話しあった。
 それまで・・・勘当状態だったのにである。

 要は、小樽駅前の新しく建設される新商業ビルの地下街に入ることはもう従わざるを得ず、問題は地権者の優先入居という条件では父は不満で、父が納得する移転保障費を市役所は提示せよ、ということだった。
  「あのなぁ、親爺さん、国の予算を配分されて市役所がやる公共事業というやつは、
   その移転に伴う補償費は、ルールで決まっている。
   民間資本がやる事業での立ち退きなら『ごね得』はありえるが、公共事業では正
   面突破は無理だな。
   そもそも、もっと金額提示を引き出すために俺にデモせいってか?
   最初から金スジ目当ての親爺さんと、最初から立ち退き拒否の空港建設反対とは
   全然違うだろうに。」
と、唸り呟く私がいた。

 幸い数々の大衆団交を開催してきて、事態の進行の切替は得意だった。
 興奮した父を落ち着かせるために、考えに考え、都内の「地下街」視察を提案した。 
 敢えて、流行っていない、完成時から時が経ち廃れはじめている地下街商店街を見せて歩いた。
 学生運動で都内を駆け巡っていて、そんな地下街を多数知っていた。
 大手デパートがキーテナントに出店するならまだしも、長崎屋レベルが出店する商業施設規模なら、小樽では初めての大規模地下街ではあってもいずれ廃れてしまう、ということを父に理解させたかった。
 武蔵小山商店街や戸越商店街を歩かせ、キーテナントがなくても賑わう商店街があることを見せて歩いた。
 そのあと、都内の有名そば店を数軒吞み食べ歩き、最後は新橋の居酒屋に入る。
  「あのなぁ、親爺さん、地権者で優先入居とはいえ、結局商業施設のテナン
   トと独立店舗の違いは、地権者だから家賃を払わないで済むだけの話。
   共益費や販促費はテナントと同じく負担せにゃならず、そもそも銀行融資
   の際の担保は設備だけにしか適用ならない。
   せいぜいあるのは、営業権だけだぜ。
   そもそも、テナント出店は本拠を持っていて初めて功を奏するし成立する
   のであって、テナント店舗のみはキーテナントが元気なくなったら終わり
   だ。
   テナント出店て奴は、初期投資を回収して利益を出さなくなったらさっさ
   と撤退するくらいでないと、逆に経営本体をおびやかす。
   見てみればいい、東京で百年、二百年蕎麦屋の暖簾を誇っている名店蕎麦
   屋は皆地面の上に立って屋根がある。
   オヤジさんは、地権者権利を売ってその売却資金で小樽駅周辺に空いてい
   る店舗・土地物件を購入し、まず本店をしっかり建設・運営し、余力が出
   たらテナント出店すればいいんじゃないか?」
と、言って・・・しまった。
 つい、父親が必死で悩む姿をみせつけられて、言ってしまった。
 我が家には格言があった。
  「一度口にした言葉は、馬車で追いかけても追いつきゃしない。
というもので、それをふと思い出し、口にしたことを後悔した。
 父は、学生運動ばかりやっていると思った息子が「担保価値、抵当権、テナント」などという言葉を口にするのに驚いていた。
  「トウサン、学生運動はいろいろなことを教えてくれるんだ。
   生きた勉強が出来る『場』だ。」
というと、父は流石にそれには応えず、息子の前で、
  「地面の上に立って屋根があるのが蕎麦屋か、なるほどな。」
と、それまで親子で巡った「神田・籔」や「まつや」など日本の蕎麦屋の名店を頭に浮かべているのか、遠くを見る目をしていた。
 その父の、遠くを見る目をみて、やってしまったと後悔した。
 が、もう遅く、後はしこたま父子で吞みホテルに送り、翌日父は小樽に帰っていった。

 一ヶ月後、母から電話がかかり、
  「お父さんは、やはり東京に行って良かったみたい。
   地権者の権利を売り払い、長崎屋から20メートル離れた空き屋の割烹料亭跡を購
   入し、それを全面改装して蕎麦屋にする、と決めたわ。」
という電話だった。
 父が、その案が長男からのアドバイスだ、とは母親に告げてはいないのに、少々不安すら感じたものだった。
 小樽駅前に開業予定の商業施設にテナント入居するライバルの蕎麦屋が、長崎屋開業後のオープン効果で流行り、わずか二〇メートルの位置に転居開業する父の蕎麦屋が流行らなかったら、ちょっとまずいことになる、と不安になった。

 父が、割烹料亭を買い取りそれを再活用する建築工事の請負会社に選んだのは、東京の飲食店専門建設会社だった。 
 籔半の建設工事が着工されて工事が進んだ最中、世の中を襲ったのがオイル・ショックだった。
 その建設会社が、オイルショックの連鎖倒産にあい破綻する。
 実家は、大騒ぎになったことだろう。 
 ここでもわが父は、逆に持ち前のファイトを爆発させる。
 破綻したその飲食店専門建設会社を立ち直させるための、北海道での新たな建設工事受注に建設会社社長や専務と奔走し、なんと数件の受注を成功させ、それで中断した蕎麦屋籔半の建設工事も再開させるという離れ業をさせる。
 その飲食店専門建設会社と意気投合した仲になっていたとはいえ、とても真似出来る技ではなかった。
 学生運動での無茶な活動と違い、商売での荒技の違いを見せつけてくれる父だった。

02_07. みちみちて行き、空しく帰る、だった。

 私は、それまでの六年の激烈な学生運動でもう体力的に限界がきていた。
 皆が私の最悪の健康状態を考慮し、再建した芝浦工大生協の組織宣伝部に正職員として入社するよう計らってくれ、春から勤務をし始めていた。
 学生運動とは違う世界に入り、そこで位置を作るために懸命だった。
 生協は、大学と賃貸料や水光費の無償化交渉の真っ最中で、大学当局と様々な交渉をしてきた私のネットワークに期待してくれた。
 学生での大衆団交での大学当局を鋭く追求する側から、今度は、その大学当局とビジネス交渉をする役回りになっていた。
 しかし、一度落ちた体力は仲々戻らない。
 そもそも、小中学時代は体育見学組であり、高校時代に健康を取り戻し蕎麦屋の出前でつけた体力も、6年間の滅茶苦茶な学生運動生活で使い果たしていた。
 生協会議で積極的提案をしても、朝起きれず遅刻・欠勤する。
 提案の良さではなく、勤務姿勢で評価される当たり前の労働現場の現実に、学生運動のリーダーの権威など通ぜず、悔しさと情けなさに打ちのめされてもいた。
 欠勤しないため大学近くの寮に泊まり込むと、逆に深夜まで学生自治会などの討論に付き合わされ、体力はますます低下する。
 悪循環に陥っていた。
 父から蕎麦屋の新規移転開業披露への出席を求めてきたが、必死な生協勤務と折り合いはつかず、披露パーティ出席を断ったほど、生協でのポジショニングに必死だった。

 そして、半年、珍しく父から現金書留封筒が下宿に届いた。
 中には一枚の便せんが入っていた。
  「店を見に来い」
と、短く書いた便せん一枚に、エアのチケット代が入っていた。
 実家に電話をし、弟に様子を聞こうとすると、弟からボディブローの一撃がきた。
  「兄貴はいいよな、東京だから。 
   俺たち弟二人のどちらかが後を継がされてしまう
と。
 結局、生協に休みを取り、帰省した。
 小樽に着き、国鉄小樽駅の向かいに長崎屋をキーテナントとする駅前第1ビルが九分通り完成し、駅前にあった店舗は後ろ半分が削られながら営業していた。
 新装なった店舗にむかった。

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籔半三代目店舗

 木造二階建ての旧「日乃出」という割烹料亭を、今で言う再活用した風情のある蕎麦屋があった。
 玄関を真ん中に配置したのは、気に入らなかった。

 資金不足と建設工事会社の破綻と再建などあり、土台基礎廻りをいじらなかったため、店の玄関が三段の石段を上がらねばならず、地面と同じ高さでないのがスムースな来客動線になっていない。
 グランドラインからのストレートな誘客がないのはまずかった。 
 かつての割烹料理屋の土台基礎周りをいじらなかったためで、庶民が気安く入れる蕎麦屋とミスマッチして残念だった。

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籔半三代目店舗1fホール

 ひいき目でいうのではなく、石蔵が内部に取り込まれた内装でもあって、東京など都会にあったなら人気店になれる可能性を秘めていた。
 シックな白木を意識した意匠で、店内や二階座敷や石蔵など旧割烹料亭の内部部材をそのまま活かした蕎麦屋が、北国の一地方都市の小樽でビジネスとして成立するのか、それを提案した張本人としては、複雑だった。
 これで、「メニュー構成とストーリー性と接客接遇」が備われば、と新規移転開業の籔半を見上げながら思ったものだった。
 
 が、店づくりの総路線が中途半端で、接客担当スタッフの意識的教育は全く貫徹されていなかった。
 というか、発注した建設会社の倒産と再生をかろうじてクリアし内外装工事をやりきるのに精一杯で、肝心のスタッフ教育やメニュー構成にまで、意識が行ってなかった。
 トータルプロデュースやコーディネーターなどいない時代だった。 
 両親も頑張ってはいたが、その当時の地方都市によくみられる店づくりの限界・・でもあった。

 昼すぎなのに客足は早くも切れていて、お客様の入店位置とホールスタッフの待機位置が離れすぎていて、玄関戸が開いた気配にスタッフは、そもそも意識を集中していなかく、客の来店に気がつかないわけだった。
 若い衆とウェイトレスが、客席テーブル席に座り週刊誌を読みながら迎えてくれる、という始末だった。
 私を息子とは知らず、ウェイトレスは笑顔もなく投げやりな口調で、
  「何にします」
と、週刊誌を読むのを邪魔されたとばかりに、無愛想にオーダーを聞いてくる。
 メニュー帳から選ぶ仕草し、席に着く。
 帳場にいるはずの女将・母はおらず空席で、板場を覗くと若い衆が一人客席からみえるだけ、活気は全くなかった。
 と、板場の奥から出て来た、私が中学正時代から板場で働いてくれていた古くからのオバサンスタッフが、
  「お兄ちゃん!」
と叫び、二階にいる両親に内線で知らせ、早速二階から両親・弟らが降りてき、二階に案内された。
  「息子なら息子と最初から言えばいいのに
と、舌を鳴らし言っているウェイトレスの言葉を背にうけて。
 母が「あんなウェイトレスでもいないと困るのよ」と言い訳しながら、一緒に階段を昇ったものだった。

 その夜、花園町の飲み屋街で父子で話し合った。
 理系を選択しての大学進学をめぐって父と勝負して、七年が立っていた
  「店、見たろう?
   我ながらいい店だ、と思っている。
   が、まだ小樽には早すぎた店なのかもしれない。
   小樽人はあたらしもの好きで、長崎屋旋風はこれからオープンと同時に盛り上
   がり続けるだろう。
   ウチも、何とか盛り返したい。」
と。 更に、
  「世間は俺はバカだ、と笑ってくれている。
   長崎屋地下街に入らないで商機を失った、と。
   だが、お前が言った『地面の上に立って、屋根がある』ってぇのが蕎麦屋だ、
   と、できあがってみて、初めてそうだと思っている。
   後悔はしてない。 」
とも。
 父の、
  「後悔はしてない
の言葉は実に重く、覚悟を決めざるを得なかった。

  「『鶏頭』になるってことか。」
という私がいて、父は吞もうとした水割りのグラスを止めた。
  「但し、まだ東京でやり残したこともある。
   三年で元の勢いに戻す、そしたら東京に戻る。
   それで、いいかい?」
 ・・・今度は、ウィスキーで乾杯した。

 生まれて初めての往復飛行機の帰省だった。
 それまでは、学生運動をしていて勘当状態だったが、帰省すると向かい入れてはくれる。
 が、当然電車代は一切出してもらえず、東京・小樽間の鈍行乗車券は当時七,〇〇〇円の時代だった。
 小樽に着くと実家には足を向けず、真っ直ぐ小樽駅中央通りのパチンコ屋に入り、東京より台の釘は甘く定量にすると約7,000円で、閉店ギリギリまで頑張り定量二回を勝ち取り、それで帰りの電車切符を買い、「これで両親と喧嘩になっても東京には帰られる」と保険をかけ、それから実家に帰ったものだった。
 それが、今回はエアで東京に帰る。
 機内で考えた。
 この7年の東京生活も、結局親爺の「手のひらの上だったな」、と。

 生協に、来春で一度小樽に帰らせてもらい身体を治したいと相談し、了解を得る。
 しかし、ボロボロの身体は次の年の春までもたなかった。
 生協を初秋に退職し、帰省すること決めた。

 下宿の裏庭で、七年半の間、母から届いた手紙と封筒、北海道新聞の山を一日がかりで燃やした。
 50人近くその下宿から巣立ったが、「人一倍迷惑かけた下宿生の筆頭だ」、と残る下宿生から食堂でのお別れ会で賞賛を受け、東京を去った。