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旧有幌石造倉庫群・昭和40年代後半・小樽博物館蔵

 帰ってきた実家・蕎麦屋・籔半も、小樽運河も街も呻いていた。

03_01.帰ってきた街・斜陽小樽で籔半も呻いていた

 1974年(昭和49年)秋に帰省した。
 帰省して喜んだのは両親以上に、三人兄弟の弟二人だった。
 とりわけすぐ下の弟は、私が帰省して一年もせず家を飛び出してしまった。
 弟の方が調理には向いていたし、板場で職人さんから気軽に調理を習いメニューも作れるほどだった。
 が、私と同じく蕎麦屋を継ぐなど全く考えていなかった。

 まず、七年間でぼろぼろになった身体を治すことと荒みにすさんでささくれ立った精神を癒やすことを、最優先するよりなかった。
 ほんの数軒さきの近所のお得意様に出前に行って戻ると倒れ込んでしまう私の身体の有様をみて、職人さんは舌を鳴らしてくれた。
 が、それに耐え、「慣らし運転」のような生活でじっくり体力を回復させながら、店や商売環境や小樽の街の状況を観察した。

 店は、知れば知るほど最悪の状況だった。
 駅前再開発の目玉、駅前第ビルにキーテナントとして入店する長崎屋のオープンは数ヶ月後だった。
 駅前の弊店は、後ろ半分が長崎屋工事で削られていたが、それでも営業はしていた。
 そして,静屋通りの新店舗との、二店舗態勢での営業だった。
 しかし、母の女将は駅前の店で、静屋通りの新店舗は職人さんとウェイトレス任せだった。
 父は蕎麦業界・飲食業界の組合団体の長を2〜3つ兼職し、まともに店にいなかった。
 数ヶ月後、駅前の店舗は駅前再開発事業最終段階で解体され、母と最も古くからいる女将と同じ年齢の板場女性スタッフ・通称オバサンが静屋通り籔半店舗にもどり、一店舗態勢になった。
 私が帰省したのはその頃だった。
 
 そうなっても、司令塔が不在だった。
 というか、父・女将・板長さんの三本の指令系統が、小店の蕎麦屋にあった。
 だから、運営システムとしては滅茶苦茶な有様だった。 
 父・女将・板長さんの各々三人が自分が司令塔だと思っていた。
 が、それは司令塔が「ない」ということだった。 
 現場スタッフは、それぞれ違う司令塔の存在に困惑し、勤務への緊張感は解体し、それが接客にまで大きく影響していた。
 これに、息子の私が加わると司令塔は4人となるわけだった。
 混乱の極地だった。
 だから、すぐスタッフに「私が司令塔になること」を強制するわけにはいかなかった。
 ハレーションは必須だったから、まずは「オニイチャン」という名の役職で市民権を得ればいい、とした。(^^) 

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 籔半三代目店舗1Fホール 

 新装なった籔半の店舗は、当時は再活用を意識し古い割烹料亭を蕎麦屋にリニューアルしたものだった。
 古い店をなんとか直し営業するのは普通にあるが、その時代としては、身びいきでなく父の店はその域を超えていた。
 ましてや「日乃出」という名の割烹料亭時代を利用し知っている小樽人は、その様変わりに驚いた。
 その当時としては、店主の「道楽」としかいえない造りではあった。

 一階ホールは、タモ材をふんだんに使い、客席テーブル同士の空間をたっぷりとった、白木の木目をコンセプトにした、外部の灯りを取り込むデザインで、統一されていた。
 これで、「蕎麦屋で一杯」の蕎麦屋酒メニューが揃っていて、ホールスタッフを揃えていれば評判をとれる店になっただろうと思われた。 
 自分が設計段階で関わっていたら、もう少し陰影の濃いデザインにと思う程、明るかった。
 店のデザインは、まあ合格点だったが、ソフトウェアとしてのメニュー構成は、ど田舎そのもだった。

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蕎麦屋藪半三代目店舗・石蔵

 接客接遇は、中途半端どころか無いに等しかった。
 そして、売上数字をみようと父に求めると、データが蓄積されておらずカンによる経営だった。
 しかし、敢えて、父の経営姿勢を非難しなかった。
 それで営々と商いをしてきていたのだから、今更言っても変わるわけではなかった。
 それをやるのは自分だ、と納得していた。
 まずは、一年間分のレジスター伝票を押し入れから引っ張り出し、総勘定元帳と照合しながら集計することから始めるよりなかった。
 
 芝工大生協で仕事が終わると事務所でタイムカードを押し、同じ学生運動仲間の先輩の奥さんが会計スタッフで勤務していた。
 その横に座り、生協活動のイロハを学び、雑談もたっぷりした。
 雑談の中には、彼女の仕事の会計のついての初歩などもあった。
 そこで、財務諸表の見方を興味本位で見ては聞き、振替伝票=複合仕分けの考え方を教えてもらい、単式簿記ではなく複式簿記の合理性などをそれとなく知識として得ていた。
 それが今になって生き、そのわずかな経験が活かされることになった。
 帳簿への拒否感がないだけでも良かった、といえる。

 父は、私が財務諸表を睨んでいるのを見て驚いていた。
 学生運動=デモという理解しかされていなかったのは当然だった。
 長引く学生ストライキで経営破綻し、執行部が逃げ出した大学生協を再建したプロセスで、財務諸表を見る目が自然に養われていた。
 大学生協が加盟する団体の多数派勢力が、自分たち以外の学生の手で芝工大生協が再建運営されるのを許してはおけず様々に陰険な手段で営業妨害をしてき、また大学理事会の指示で同じく体育会系学生も食堂にネズミの死骸を投げ込んだりする妨害行為がざらにあり、生協は交代で宿直をし妨害を防いだ。
 その宿直などに付き合い、時間をつぶすのに財務諸表は格好の材料だった。
 当時は、財務諸表に興味を示す学生活動家など逆に変人扱いする時代だった。(^^)
 
 「建築学科にいっていた息子が、財務諸表をみるとはな」
と父がにが笑いし、
 「学生運動していて助かったろう?」
と返す息子がいて、
 「何がどうなるか、わからんもんだねぇ」
と母が呆れて言ったものだった。

 新規開店営業しているわが蕎麦屋・籔半の、売上データの集計結果が出た。
 出前売上六割、店売上四割という、旧駅前店と変わらない「出前売上中心」の売上構成だった。
 一方、新店舗のトータルデザインは「店売上中心」を追求しており、売上げ実績とコンセプトが見事にバッティングしていた。
 戦後、荒廃した社会で、裸一貫で店を築くのが精一杯で、運が良くいい建築会社と遭遇しそれなりのデザインでリニューアル開業しても、その内装デザインと経営路線のミスマッチの典型の例が、実家の蕎麦屋にあった。
 長期計画を伴った経営路線、内装デザイン、メニュー構成や接客サービスが融合したトータルコーディネイトの時代に入っていたのにである。
 実は、地方都市では弊店だけでなく他の飲食業でも、まだまだこのミスマッチは枚挙にいとまがない時代だった。
 素晴らしい内装も、仏に魂を入れようとしない店主の質で、やがては店内にマンガ・週刊誌が繁殖し、ビールの空き箱が厨房から店内に侵入し、折角の素晴らしい空間が汚染され褪せていく。
 そういう飲食店をイヤと言うほど見せつけられてきた。
 そういう視点で、両親が汗と涙で築きあげた蕎麦屋をみていた。

 幸い、父の唯一の趣味・小盆栽が、店を引き締め、品格を表現していた。
 母のアンティック趣味の店内調度品が、気品を醸し出していた。
 ウェイトレスに言葉で説明しても通じなかったので、3日毎に変えられる父の小盆栽、母の店内調度品の気品を例にした。
 その父のそれだけは気位たかい小盆栽の質に、店内ディスプレィの総てを合わせるとし、まず店から週刊誌類を全部撤去し、客席ホールに備えるのはメニュー帳だけ、とした。
 新聞などはいいかと思ったが、まず極力シンプルにすることを徹底するため敢えてそうした。
 私が帰省した当日、店の暖簾をくぐった際、「週刊誌を折角読んんでいるのを邪魔された」という目つきや態度をしたホールスタッフは案の定、
  「蕎麦屋なのにスマしている
と反発したが、「自分が読みたいだけでしょうに」と、無視してあげた。 
 ミーティングを求めても応えないこのホールスタッフは、この衝突を契機に辞めてくれていた。
 女将(母)から、「でも、何か置いてもいいのでは」と意見が出て、文学少女の母が購読する雑誌「太陽」と「新聞」だけ置くのを認めた。
  「店の内装デザインに、調度品類など全てを合わせていく
という志向をスタッフ全員に徹底さえようと、辞めてくれたウェイトレススタッフが捨て台詞に吐いた「蕎麦屋なのにスマしている」を拝借し、
  「少しオスマシするウェイトレスによる接客
を路線とした。

 出前中心から店中心で勝負をかける新店舗づくり方針を父が貫徹したのは、建物だけだった。
 メニューづくりなどのソフトウェアでの方針は、ないに等しかった。
 それでも、二階座敷や石蔵での宴会を受けようと宴会メニューにチャレンジしていたのが、唯一積極的な路線だった。
 はっきりいうと、1階ホールは、「宝の持ち腐れ」状態だった。
 蕎麦技術はいい蕎麦職人さんが板場を仕切っていたが、新メニューや営業路線を積極的に自ら提案し実施するという訓練はされていなかった。
 そういう訓練がされないまま、店主が板場に不在では、よくて現状維持、すなわち馴れ合い=知らないうちの堕落が現出し、給与の面でもやる気をださせるレベルではなかった。
 小樽蕎麦商組合や調理師会や北海道麺類飲食業生活衛生同業組合の長を父は担っていた。
 が、それはスタッフには、関係ない話だった。
 その業界活動で、
   「いかにこの小樽の街をよくしていき、その町全体の底上げの結果、弊店の商い
    
も拡大する、そのために父のような存在と活動が重要で、必要なのだ。
と息子はスタッフに言えても、父本人が言うと自慢話に変わっていくわけだったから。

 女将(母)担当のホールスタッフも、そうだった。
 自らの接客でお客様に満足頂き、その満足加減で名前を自然にお覚えて頂き、自ら勤務する店を誇りに思うようになっていく、などという人材教育訓練はゼロだっった。
 ただの厨房カウンターからお客様のテーブルにメニューを運ぶだけの「運搬人」だった。
 勤務内容ではなく、勤務時間だけが全てでしかなかった。
 女将(母)の「居てくれればいい」的ホールスタッフの位置づけは、
   「いいホールスタッフはいないかね
と(教育もせずに)嘆くだけの、ないものねだりの人材確保路線だった。
 これで、売上をあげる事など全く無理で、新しい店舗とスタッフ体制の間にもの凄いギャップが存在していた。
 そして一層面倒なことは、様々な問題を抱えるスタッフではあったが、私が不在の七年間、それでも籔半を支えてきてくれた、ことだった。

 そんな蕎麦屋・籔半に、私は帰ってきた。
 消耗した体力を回復させながら、まずは蕎麦屋の「出前かつぎ」から始め、体力を取り戻し、スタッフと同じ仕事をすることで職人さんやホールスタッフとミーティング出来る環境にする、つまり籔半スタッフからの市民権を得ることから始める、と考えた。 
 経営方針確立は、その後だった。
 が、返ってくる反応は、  
  「蕎麦を打てる様にになってから、言いたい事を言え
と言う目線が、板場スタッフから跳ね返ってき、
  「ミーティングって残業代がつかないの、それなら勤務時間内に
という、ホールスタッフの捨て台詞が返ってきた。
 ミーティングという概念など、七〇年代前半(昭和五〇年前半)当時の地方の弊店のような小店、零細商店の小樽の蕎麦屋の経営者やスタッフにはなかった。
 農家の4男や5男で、子供の頃に来樽し、そば打ち技術一本で生きてきた職人さん。
 農村や漁村生まれで小樽に働きに出てきたが、男性関係でひどい目にあって蕎麦屋に逃げ込むように入店したホールスタッフさん。
 皆、外面の穏やかさと裏腹に、心はねじれ曲がり、精神はささくれ立ったままだった。
 辞めてくれたホールスタッフのように、勤務時間だけ拘束される的中年パートタイマーを採用していた。
 それに、接客業の宿命、心ないお客様が旅で落とされる「アカ」を体一杯に浴びて、ますます荒んでいた。

 自分がこれから依って立つ蕎麦屋・籔半は、そんな問題を抱えていた。
 両親の代での路線的限界一杯のところまで、籔半は来ていたわけだった。
 父は継ぐべき長男の最高のタイミングでの帰還に安堵し、一層組合・業界団体の活動に向かう。
 母は、やっと愚痴を聞いてもらえる相手が出来たと安心・安定し、それまでしたくても出来なかった趣味の刺し子やパッチワーク・キルト、そして念願の父との旅行に走った。
 両親を今更変えることにエネルギーを投入するのはもったいないと、スタッフとの関係構築に集中した。

 私が小学生時代に入店した板場を仕切る板長さんを、花園町のスナックに誘った。
 父は、自分の部下・職人と一対一で膝つき合わせるような飲み方は、苦手にしていた。 
 というか、そういうことをしてこなかった分、今更やれなかったという方が正しい。
 スナックでは、板長さんと店に関する話は全くしなかった。
 というか、待遇への不満や店の環境への不満は語れても、「では、どうしたらいいか」は語れないのだから。
 家庭の話、子供の話、釣りの話などをし、会話を盛り上がる。
 なにせ、私が小学校時代に入店し、ホールスタッフと所帯をもち、夫婦で勤務してくれていた。
 私は、スナックのママやホステスとバカを言って、座を盛り上げる飲み方をすぐ習得した(^^)。
 カウンターやボックスのお客様に、7年のブランクがあっても顔見知りを見つけると、
  「蕎麦屋のどら息子です、帰ってきました。
とおどけて挨拶をしまくった。
 そのスナック通いが数回続いた。
 そのうち、板長さんの態度が変わった。
 突然、「アニ」と私を呼んだ。職人さんの出身地・道南地域の方言で「兄さん、長男」という意味だった。
 板長さんは、一〇歳は上だった。
 「よせやい」と応えると、
 「いや、わかった。 
  アニを、経営者だと認める。
  俺には、あんなスナックで座を盛り上げたり、スナックのお客さんと冗談言いながら
  サービスする真似などできない。」
と。 板場のスタッフからの市民権獲得は、こうやって進んだが、ソバ打ちをすぐは許してくれない、これが職人さんの最後のこだわりだった。

 問題は、ホールスタッフだった。
 まず、パートさんはミーティングそのものに抵抗した。
 女将に頼み、ホールを一人でやってもらい(そのくらい暇な状態だった)夕方ミーティングをやった。
 「接客・おもてなし・接遇」という言葉そのものが通用しなかったし、理解する器でもなかった。 
 結局、順に新人若年スタッフを採用し、従来の中年パートさんと順次交代=離職して頂いた。
 この商売、親方や女将が歳を重ねると、つい自分と同じ年齢スタッフを雇いたがった。要は、若い新人スタッフを教育し成長させるための苦役を自ら背負うのは辛く、ただ楽をしたかっただけの話だった。 
 お客様は大事だといいながら、そのお客様の満足度は何で得るのかを頭では解ったつもりでも、身体でも心でも解っていなかっただけだった。
 このホールスタッフへの懸命の働きかけは、板場の若いスタッフに、といっても1〜2人だったが、ミーティングを拒否することは解雇に繋がると理解するのに、時間はかからなかった。
 紀伊国屋書店で接客サービスの本を探す。
 一般的なものしかなく、小店の飲食店向け接客サービス教本など書棚にならんでいなかった。
 基本的な本を数冊買って、トレッシングペーパーに鉛筆で「籔半版接客マニュアル」原稿を作り、青焼きで複写・製本し、マニュアルに基づくミーティングを開始した。
 しかし、安定したホールスタッフと出会い、成長してもらうのに結局4〜5年を要した。
 
 そして、新生・蕎麦屋籔半の店づくりを本気で考えるには、板場の職人さんの将来的独立開業も射程に入れ、司令塔を一本化し、ホールスタッフを常駐で指導する若女将役が必要だ、となるのは当然だった。
 が、それらを達成することは、自分が東京に戻る「第2の栄光への脱出」構想が、雲散霧消するわけだった。
 まだ、東京に未練のある私は、若女将獲得の決断などできようもなかった。

 青春とは、内心、遅疑逡巡の塊だった。


03_02. そして、七年半ぶりに帰った小樽の街も呻いていた。
 
 実家の蕎麦屋は、売上減に呻いていた。 
  「高度成長期の繁盛をみせたかった」
というのが、女将である母の口癖にだった。
 経営努力の積み重ねではなく、景気がよくなるのを耐えて待つだけだった。
 駅前立地の有利さと高度成長期の記憶が、「経営努力とは忙しさに耐える」ことと勘違いさせていた。
 小樽で組を構える大工棟梁の長女に産まれ、安定した公務員とばかり思っていた夫に嫁ぎ、突然夫はデューダし、否応も泣く主婦から蕎麦屋の女将を強制されて耐えてきた母であり、三人の息子を育て上げた、かつての文学少女だった。
 蕎麦屋の女将は、1日二四時間の強制労働で、唯一の娯楽は就寝前の一杯しながらの読書だった。
 膨大な量の海外文学や日本の文学書が押し入れを占領していた。不思議なことに週刊誌類は目もくれなかった。
 ましてや、七年半、下宿の押し入れの上半分を埋める手紙を私に送り続けてきた母に、今更の経営方針批判はその蕎麦屋女将としての生き様を批判することしか、意味しなかった。
 帰省した頃、母は実家の両親との間で衝突していた。今で言えば「認知症」から引き起こされた案件で、親類兄弟姉妹から誤解を招き孤立して意気消沈していて、その話を何度も聞かされる役回りが私だった。
 そんな母に、漫画を読めと薦め、萩尾望都の「ポーの一族」や「11人いる」を薦めると、夢中になる可愛い母だった。

 内=籔半もそうだったが、外=街も呻いていた。
 戦後、経済的ポテンシャルが落ちた小樽では、
  「斜陽
という自虐的な言葉が居酒屋や銭湯で交わされていた。
 政治の中心から経済の中心に一極集中する札幌を嫉妬し恨む、怨嗟の語りが交わされていた。
 結果、まちへの自信喪失とまちへの無感動が充満していた。

 江戸末期からニシン漁で開けた小樽は、明治5年、北海道開拓使が北海道一〇カ年計画を立案し実施する。

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明治時代のまだ防波堤も埠頭もない貨物船で賑わう小樽港

 まだ、憲法もなく、議会もなく、明治国家の年間国家予算が総額4,000万円の時代にである。
 10カ年で1,000万円を国は北海道に投下し、北海道から税収や特産物売上も含めると更に1,000万円を加え、総額2,000万円で北海道開拓をという計画で、 富国強兵・殖産興業の拠点だった。
 最高時1年間で、国家財政の一割にあたる400万円/年が北海道に投下され、その半分200万円が、小樽に投下されたという。
 今日、日本の国家財政は約90兆円である。 
 時代を無視すると、その一割といえば、9兆円が北海道に、4,5兆円が小樽に投下されたことを意味した。
 日本海の荒波に洗われる寒村が、いきなり近代港湾都市に変貌していった。

 なぜ明治政府はそんな巨額を、北海道に、そして小樽に投下したのか。 
 小樽は、明治日本国家の内国植民地北海道の開発拠点都市だった。 
  ・当時のエネルギー、石炭積出港
    →幌内(現三笠市)や夕張の産炭地から鉄道で小樽港へ
    →内地の京浜工業地帯へ
  ・樺太(サハリン)航路・対ロシア交易
  ・道内開発地域の資材供給ベースキャンプ
  ・移民受入拠点
  ・農産物・水産物など物流港湾
という国家戦略・政策にもとづく、北海道の配電盤の役割の官製都市とも言えた。 

 明治の小樽のまちづくりには、明治国家から海外に派遣されて近代技術を取得した優秀な人材が惜しげなく投入され、最先端の土木建築技術が投入された。 
 商取引決済のための金融機関が続々開業し、今で言う北のウォール街が形成された。
 そのお陰で町の骨格が出来ていった。
 第一次大戦でヨーロッパが戦場になったとき、小樽の小豆取引市場がロンドン市場を動かすと謂われるまでに発展する。 
 札幌の原野を開き北海道開拓使が置かれたが、小樽の都市としての成長には及びもしなかった。
 しかし、その繁栄も第二次大戦までだった。 
 敗戦で小樽は激変した。 
  ・石炭積出港→石油へのエネルギー転換→石炭積出港の位置喪失
  ・樺太(サハリン)航路・対ロシア交易→航路の消滅→物流港湾機能の喪失
  ・道内開発の資材供給ベースキャンプ→政治の中心札幌が経済の中心に
  ・農産物・水産物物流機能→道内繊維シェア45%から5%へ転落
で、1961年(昭和36年)住友銀行が小樽を撤退、以降10年で協和、観業銀行、三和、第一、東京、三菱、富士と、当時18あった都市銀行各支店が小樽から撤退し、斜陽化は一挙に顕在する。.
 私の小中高校時代が、その斜陽が顕在化する時代だった。
 かつて南小樽駅から入船五差路(現・メルヘン交差点)のエリアは繊維問屋街と呼ばれていたが、その小樽の道内に占める繊維業のシェアは戦前の45%が5%以下に激減し、私が帰省した頃は、そのエリアの繊維会社の倒産が新聞に頻繁に掲載されていた。
  「 斜陽のそのまたどん底
と、市民は自虐的に呼んだのも宜なるかなだった。
 札幌の隆盛と小樽の没落に札幌を怨嗟する街に、なりはてていた。
 
 勿論、小樽経済界は指をくわえていたわけではなく、私が帰省する四年前の1970年(昭和45年)前後、小樽商工会議所会頭・木村円吉氏の牽引力で新日本海フェリーが就航する。 
 経済界も何とか物流港湾都市としての命を繋ぐ努力がなされていた。
 しかし、一度坂を転げ落ち始めた衰退の勢いを止めるには、山塊が海にせり出し、海にへばりつくような狭隘な地形の小樽は、もはや物流港湾都市としての将来は無理だった。
 広大な埠頭と更に広大なバックヤードを必要とする、ヒンターランドが要の近代港湾都市への再挑戦は、小樽の地政学上は至難の業だった。

 そのことは、逆に港湾業界、倉庫業界、運輸業界が一番知っていた。
 既に海続きの隣町・石狩町に、壮大な規模で掘削し造成される「石狩湾新港」へ先行投資し、実際進出していた。 
 小樽港の物流港湾港再興とする港湾関連業界の主張は、乱暴に言うと実は既得権益を少しでも守り、それを石狩湾新港進出へのバーター取引材料にするためでしかなかった。
 かつて、公害で揺れた三重県・四日市には、学生運動時代は何度も公害反対住民運動支援で行き、最近は「港まちづくりフォーラム」などでお呼ばれしてきた。
 その四日市港は、膨大な海面を埋立てて、年間数億トンもの荷揚げがあり、最新設備の埠頭とバックヤードを作り、そのいくつも造成された巨大な埠頭の一つが、小樽港の全埠頭を合わせた面積の数倍もあり、港を眼下できるタワー展望台から見て絶句したものだった。
 だが、徹底した港湾設備近代化は、人員合理化であり、その巨大な岸壁や港湾施設に港湾労働者の姿はごま粒ほどの数えるくらいで、夜の旧市街地の飲み屋街は閑散として、船員客目当ての海外からきた街娼も暇そうだった。
 フォーラムと交流会を終え、一人に夜の街を散策し立ち寄った居酒屋で、旧港湾時代の港湾労働者溢れる街を懐かしむ店主や客に、帰省した頃の小樽がダブった。
 それが、最新港湾都市の現実だった。 

 一方、小樽の港湾関連業界は「景観で飯が食えるか、道路こそパンだ」とし、臨海道路としての「道々小樽臨港線」建設促進を、会社・業界・労組一体となって主張していた。
 が、最新の近代港湾都市は人ッ気の全くないオートメーション設備・施設だらけの港であるのを「知らしむべからざる」とし、小樽の港湾関連業界はその現実を言ってはいなかった。 
 既に石狩湾新港に位置を奪われ始めていながら、立ち後れた物流港湾都市の再興など無理だった。

 小樽の街の将来像を引き寄せるには、その戦後の物流港湾都市としてのマイナスの歴史から自由な「市民」の登場を待つよりなかった。 
 それでも、小樽の経済的低迷から脱却しようと行政が選択した施策が、国鉄・小樽駅前を通過する国道5号線と駅前が交差するエリアの高利用化事業である
  「小樽駅前再開発ビル事業
と、もうひとつが近代港湾設備としては時代遅れになった小樽運河の埋立(公有水面埋立)と6車線道路建設という
  「主要道々小樽臨港線建設事業
で、飛躍的に成長する札幌とのネットワーク形成による小樽経済の浮揚策だった。

 必死の思いの施策ではあっただろう。
 どの地方都市もそのような、ハード主義に走っていた。
 しかし、申し訳ないが、この施策は全く小樽という街への理解の不在と、長期的基本計画不在の場当たり的な施策でしかなかった。
 経済界も行政も小樽発展の道筋や、どのような新産業をこの町で起業していくのかというベースがないまま、ただ「公共事業を取ってくる」ことで「シノギ」を得るだけの、実に寂しい路線しかなかった。
 そんな街で、そんな小樽で、そんな行政や経済界に「ちょっと待て」をかけた市民運動が立ち上がっていた。
 私が帰省した前後で、小樽で初めてといっていい市民運動である。
 その小樽運河保存運動が、最初の盛り上がりから下降していく最中だった。
 穏健な路線で始まったが、次第に行政や経済界との一体となった「運河埋立道路建設」促進路線との対立構造が際だってきて、その運動は厚い壁の前に次第に孤立化を深め、少数派運動に転落してきていた。

03_03. その道々小樽臨港線計画とは

 今の時代からみると、一言で言えば斜陽化を何とか脱却したい行政と地元経済界が、国と道からの公共事業を取ってきて何とか町の景気回復を図りたいという、当時高成長に取り残された日本の地方都市の大半が採用するハード優先主義の計画だった。
 安倍政権の目新しそうに言うトリクルダウンと同じで、公共事業の導入とそれから滴りおちるおこぼれの雫でもって街の経済を回したい、とする施策だった。
 それまでの小樽の基幹産業でもあった港湾・倉庫・運輸業界の衰退が、物流港湾都市としての位置を喪失することへ危機感であり、その業界への行政側の配慮は当然とされていた。
 物流港湾都市としての再興は、ソ連や中国そしてサハリンとの対岸貿易が復活することであったが、まだ米ソ(ソ連)対立時代でありその可能性はゼロに近かった。
 既に述べたとおり、小樽の地形的特徴で大規模物流港湾としての再浮上は、地政学的に不可能だった。
 であるが故に、行政も港湾業界も東隣に大規模開発される石狩湾新港に対し小樽市行政区画を分け与えるよう執拗に迫り、石狩町との間でものすごい軋轢を生んでいた。
 しかし、そのように利己的要求を通す力が小樽にはまだ残っていた。

 一方、港湾・倉庫・運輸業界はその石狩湾新港の小樽区へ資本投下し、小樽港周辺整備は日本海フェリー専用新埠頭の造成はしても、運河エリアなど旧港湾エリアの整備投資は必要最低限の投資しかせず、皆無に近かった。
 新たに造成した埠頭や埠頭基部は投下した工事費が膨大で結果、港湾関係者への分譲は他の港湾都市に比し高価で、分譲しようとしても企業進出はなく、苦し紛れにパチンコ屋に造成分譲土地を売却し市民から顰蹙を買う始末だった。
 更に、当時小樽市には都市規模にみあった下水処理場がなかった。
 およぞ横2.8km、幅40mの小樽運河に生活排水が小河川五本によって流れ込み、小樽運河へのヘドロの堆積は目が余るほどだった。
 小樽運河を、自然の下水道処理場としていた。

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小樽運河札幌側ヘドロ堆積

 上の画像は空き地でない。小樽運河の札幌側水面の堆積したヘドロと汚泥が水面にまで現れ、雑草生え放題の空き地化している姿だった。

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小樽運河水面から舳先を突き出す沈没船

 前写真と別角度から撮影した小樽運河の写真。小樽運河で沈没した沈船はひきあげられないまま、小樽運河水面から舳先を突き出したまま放置されていた。

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小樽運河中央橋付近の護岸崩壊

 石積みの小樽運河護岸は崩れに崩れ、そこに雑草が這え広がり、水面に顔をだしたヘドロにまで這い広がっていた。

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小樽運河北側に放置されたゴミ大量不法投棄

 小樽運河北側の崩れた護岸にできた空間。ゴミの大量不法投棄は平然と行われ、誰もそれを咎めていなかった。
 ヘドロから発生するメタンガスが、近隣の住環境を悪化させていた。
 
 このように、全く小樽運河環境整備を放置し、下水道処理施設の建設も放棄してきたことは棚上げし、小樽運河の悪化した環境を逆に理由にして、小樽運河を埋立て六車線道路建設をとしていた。
 既に札幌側から開始された道々小樽臨港線工事で、2,800mあった運河は1,100mにまで埋め立てられる計画が進捗していた。

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小樽市が1966年(昭和41年)事業化した道々小樽臨港線計画
斜線部分の小樽運河を埋め立てる計画

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小樽運河を守る会が対案として出した道々小樽臨港線代替ルート案。
赤色の案が最終代替え案

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小樽運河と沿線石造倉庫群景観

 しかし、その寂れ果てた小樽運河空間だったが、景観としては圧巻だった。
 自分の故郷ながら、
   「まだ日本にこんな町と風景が生き残っていたか
と感動させてくれた。

 湾曲した運河に沿って、同じ勾配の切妻屋根の軟石づくりの石造倉庫の連続する空間は、とりわけ小樽を訪れた都会人をして、都会のその喧噪を引きずる心を隔絶させてくれ、ノスタルジックな気分にさせ、日々の仕事に追われて荒む心を癒してくれる風景でもあった。
 当時の、高成長の表現「モーレツ社員」の時代が終わって、日本ゼロックス社のコピー、「モーレツからビューティフルへ」という気分にフィットする佇まいだった。
 何も説明しなくても小樽の町の栄枯盛衰をそれは語りかけてきた。
 頭の中をセピア色に染め抜き、ブルース的気分にさせる、そんな空間だった。

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冬の小樽運河

  冬も、この空間だった。

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 その小樽運河を、パリのセーヌ川のように、階段状になった親水空間にさせれたら、子供も膝下まで水と戯れることの出来る親水空間になったら、と思わずにはいられなかった。

 小樽運河周辺で働く人々が、昼休みや退社後に一休みしジョギングし、訪れる観光客が木陰の芝生で足を休め、そんな人と人が気軽に声掛け会話し、小樽人は小樽の町を自慢し、観光のお客さんも自分の町を自慢し合う街になれたら。
 小樽と全く無縁の、「俺の小樽」や「好きです札幌」というコピーを、狐などの同じデザインの転用で済ます、安直な安物キーホルダーなどを売りまくる低俗お土産買物観光など真っ平ご免だった。

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 石造倉庫は、ミュージアムやギャラリーやライブハウスやレストランに再活用されるだけはなく、ガラス工房や木彫工房、北海道の競走馬生産から発展した馬具生産に伴って商いをするバッグ等革工房などが並び、日本海沿岸の海の町の水産加工品や後志の朝取りの新鮮野菜や果物を綺麗に積み上げた露天マーケットで、小樽近隣の産物を知ってもらい買ってもらう。
 文字通り、
   住む者と訪れる者が交流し学び会う、人の顔をした観光の小樽運河空間
・・・。

 問題は、イマジネーションだった。
 そんなイマジネーションは、斜陽根性に汚染された大人たちからは生まれ得ず、斜陽根性から自由に育った若者からしか生まれ得なかった。

03_04. 小樽運河保存運動のはじまり
 
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余市方向からの小樽運河俯瞰・北海道新聞社

 主要道々小樽臨港線建設事業は、
 1966年(昭和41年)建設省告示2912号で都市計画決定し、翌年、
 1967年(昭和42年)札幌側から道路建設工事が着手される。
 1972年(昭和47年)小樽運河の埋め立て改訂港湾計画が決定した。

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1973年有幌倉庫群撤去工事・北海道新聞社

 いよいよ、1973年(昭和48年)春、小樽・有幌地区の石造倉群(現・メルヘン交差点から札幌側)が、道道臨港線工事の進捗につれて取り壊しが始まる。
 1966年の都市計画道路決定から7年かかって、「主要道々小樽臨港線道路建設」が、
   小樽の街にどのような影響を与えるのか
を、小樽市民ははじめて身をもって自分の目で知ることになる。

 1973年(昭和48年)、「小樽運河を守る会」の発起人会が結成され,第1回発起人会を開いた。 
 この時点でのメンバー24名。
 1973年12月、小樽市定例市議会に小樽運河を守る会は、初めて市・市議会に対し小樽運河保存陳情(陳情第161号)をし,趣旨説明を行った。
 1974年(昭和49年)2月1日、小樽運河を守る会第三回拡大発起人会を開催し、役員体制を,
 会  長・越崎宗一(郷土史家、食品卸会社経営)
 事務局長・藤森茂男(広告看板業)、
 宣伝部長・千葉七郎(画家)、
 組織部長・豊富智雄(北海道教職員組合小樽支部書記長、S48~S50同小樽支部長)、
 事業部長・米谷祐司(月刊おたる編集長)、
 財政部長・堀井俊男(堀井建商社長)
と決定する。 
 同じく、1974年(昭和49年)2月、小樽運河を守る会は市内の丸井今井デパートで
  「運河ポスター展」(21〜26日)
  「大運河展」(23〜26日)
を開催する。 
 1974年7月、小樽運河を守る会の動きに対応し、経済界は
  「道道臨港線早期完成促進期成会」
を結成し,臨港線の早期完成を陳情するが、12月市議会は〈臨港線〉建設促進の陳情を採択し、運河保存の陳情を不採択。小樽運河を守る会は「強行採決」として反発。
 1975年(昭和50年)2月、小樽運河を守る会は道議会に対し陳情、道議会は小樽運河を守る会の陳情を採択、但し路線変更を求める部分のみ継続審議扱いとする。
 この結果、主要道々小樽臨港線建設は
   管理者の北海道が保存陳情を採択し、地先の小樽市は保存陳情不採択
という、ねじれ現象をきたす。

 1975年(昭和50年)4月、小樽市長に志村和雄氏が初当選(3期12年、1987年まで)。
 革新側は、小樽運河を守る会組織部長でもある社会党・北教組・豊富智雄氏が立候補、票差は8,085票の大接戦だった。
 文部省は「文化財保護法の一部改正」により,
  「伝統的建造物群保存地区制度
が新設される。
 「小樽運河と石造倉庫群」のような近代化遺産の「群」保存再活用が、国の施策となる。
 1975年(昭和50年)6月、小樽運河を守る会は設立総会を開き正式に発足、会員数1,200人。
 後に2000人を越える会員
が参加する。
 同年8月から、市理事者と小樽運河を守る会代表による,第1回懇談会開催。
 「話し合いによる解決」を目指して,以後1976(昭和51)年9月まで計7回開催される。
 翌1976年(昭和51年)、北大建築科OBらによる「運河再利用計画展」が小樽市内のデパートで開催される。
 が、1976年(昭和52年)5月に、小樽運河を守る会の実質指導者である
   事務局長・藤森茂男氏が「病気」を理由に突然退任
してしまう。
 小樽運河を守る会は、大揺れに揺れる。
 急遽、事務局長代行に事業部長・米谷祐司氏(月間おたる主宰)を選ぶが、小樽運河を守る会には動揺が広まる。
 1973年(昭和48年)12月にスタートし、翌年1974年(昭和49年)2月の発起人会で事務局長に就任し、わずか1年半で藤森茂男事務局長は会から去ってしまう。

 小樽運河を守る会は、この藤森茂男氏の奔走がなければ誕生することはなかった。
 藤森茂男氏は、小樽潮陵高校から東京の多摩美大に進学し帰樽、当時小樽堺町で看板制作や店内装飾等の宣伝広告会社を社長の兄と営み、小樽の既存の3つの夏祭りを一つに合体させた小樽潮祭り実行委員会の役員もされていた。

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昭和30年代の有幌石造倉庫群

 その藤森茂男氏の会社のすぐ傍の、有幌地区の石造倉庫群約30棟が取り壊し直前であることを北海タイムスが報じたのが1972年(昭和47年)の6月で、翌1973年(昭和48年)にかけてその有幌石造倉庫群は解体されてしまう。

 運河沿いの石造倉庫群は明治二十年代の建築であるのに較べ、有幌地区の石造倉庫は日露戦争後の明治末期から大正年代、小樽が絶頂の頃の建築が多かった。
 観光資源保護財団(日本ナショナルトラスト)報告書(S54年3月発刊)では
   「運河沿いの石造倉庫が線的な分布をしめしているのにくらべ、
    有幌地区の石造倉庫は狭い道路を挟み面的な拡がりをみせてい
    た。
    この密実な石の町並みは、市民の間ではどことなく大陸的な印象
    を与える空間として意識されたいた。」
と書かれている。 
 私も、中学生の頃自転車でよく町中を巡り、この有幌地区に行き当たり、見上げる石蔵倉庫の石造りの壁面に圧倒され、昼なお暗くあまりの不気味さにあわててその有幌エリアを抜け出すほどだった。
 小樽の港湾物流が激減し、結果荷役作業員の姿が見えないという現実を、まだ認識できない子供だった。
 兎に角、この有幌地区の石造倉庫群の解体で、
  小樽市民は「道々小樽臨港線」建設が小樽の『まち』に
  どのような激変をもたらすのか、を初めて知る
ことになる。
 藤森茂男氏はもっとも鋭く反応し、小樽運河を守る会結成に走らせた。
 以降、文化庁への相談や全国まちづくり先進都市視察などに奔走し、小樽運河保存運動の先頭に立ち、内には小樽運河保存の理論学習を呼びかけ、外には道路建設ルートの代替案提示から市議会・道議会への陳情と活躍してき、小樽運河を守る会の若手を育成してきた事務局長・藤森茂男氏だった。
 その藤森茂男氏の運動からの離脱は、市行政との対立が深まっていき衰退傾向の小樽運河を守る会運動に大きな影を落としていくことになる。

 その小樽運河を守る会から去った藤森茂男氏の会社は、その年の年末大晦日直前の29日倒産する。
 倒産数日前、藤森茂男氏本人から、

  「近日中に倒産する。
   倒産したら債権者が、カネめのものを全て運び出す。
   その前に、皆が計画している運河イベントで使える資材を
   今夜の内に運び出せ。
 
と、連絡があり、若い連中に声掛けし、トラックでコンパネなどの資材を、その4年後の第3回ポートフェスティバルの実行委員長の実家の空き地に秘密裏に搬入させてもらった。
 気づかれたら大変だった。
 そして、大変な量のコンパネや垂木だった。 
 だが、それ以上に、自社倒産という大変な事態の中でも、新たに誕生する若者イベントのことを気にかけてくれ、気遣ってくれる藤森茂男氏に、その日運搬作業を終えた若者達は、何と言葉をかけていいかわからなかった。

 それ以降、藤森茂男氏自身は脳溢血で倒れられ、更に2度も脳溢血で倒れる。
 何故、藤森茂男氏にだけこんな目に遭うのか。
  「神はいるのか」
と呻いたものだった。

03_05. 小樽運河を守る会事務局長・藤森茂男氏

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在りし日の藤森茂男・小樽運河を守る会初代事務局長・藤森五月氏所蔵

 1986年(昭和61年)、道々小樽臨港線建設が完成し、運河散策路が整備されて二〇年ということで、北海道新聞小樽市内版は2006年12月5日から8回シリーズで、
 「運河運河論争20年ーあの時私はー:本田良一記者」
を連載した。
 その、シリーズ第1回(2006年12月5日)が、藤森茂男夫人・藤森茂子氏へのインタビューだった。
 初めて藤森茂男氏の「事務局長辞任の顛末」を夫人は語った。
 以下、その抜粋を紹介する。
「辞任直前のことだ。
 藤森茂男は自宅に戻るとボロボロと涙を流した。
 台所にいた妻の茂子が『どうしたか』と声をかけると、藤森茂男は、
 『北海ホテルに呼び出されていくと、何人かの経済人に囲まれ、
  小樽運河を守る会事務局長を辞めないと、家業の看板店の仕
  事が難しくなる、銀行も融資をしなくなる、ここで即答せよ
 と迫られた。
 「主人は辞める」と応えたそうです。
 『オレも頑張ってきたけれど、会社のこと言われてはどうにも
  ならない。
 と言って、私も泣いてしまって」。と。 

 小樽運河を守る会創設メンバーのひとりである米谷祐司氏(月刊小樽主宰)は、自分が「藤森茂男氏、堀井俊男氏(堀井建商社長)を運動に引き込んだ。」としている。  
 が、堀井俊男氏の記憶は全く逆だ。

 ・・・抜粋ここまで。

 まず、この記者の8回のインタビューは、実に貴重である。
 小樽のような小さな町で、まだ関係者が健在であり、「言えないこと」は多々ある中で、それをインタビューで、引き出している。
 一方、残念なことは、既に逝去された藤森茂男氏の生前の言及という「伝聞情報」であり、夫人の証言とはいえ本人=藤森茂男氏からの直接インタビューではなく、それを検証することが出来ないのが残念だ。

 状況証拠は、ないわけでは、ない。
 私は、ポートフェスティバル第2回実行委員長に就くことになって、まずは報告とその挨拶にと、脳溢血で倒れ療養中の藤森茂男氏を、入船町の自宅に訪ねた。
 山口を誘ったが、なぜかついてはこず、一人で訪れた。
 病状から玄関で挨拶だけと思ってお邪魔したが、お宅には藤森茂男氏一人だけで、自室に招かれた。

 熱く小樽運河保存運動や小樽運河を守る会運動を、脳溢血の後遺症の不自由な身体でありながら、語ってくれた。
 あっという間に二時間がすぎた。
 病状からあまり長時間の話は氏の身体にさわるとハラハラしたが、夢中で話し合っていた。 
 さすがにもうお宅を辞そうと席を立とうとしたところ、少し落ち着かれたか、お疲れになったか、藤森茂男氏は、鈍い光を放つ目で最後に一言、
 「運動は長くなる。
  運動をやるのはいいが、大事な商売の手を抜いちゃならない。
  世間など、いい加減なもので、もてはやされちゃならない。
  運動を継続するためにこそ、商売は人並み以上にしっかりや
  るんだ。
  運動をやる奴は、自分の商売を少しでも調子悪くすると、
  そこをつけ込まれるぞ。」

といってくれた。
   私を見つめる藤森茂男氏の目は、もうそれ以上言う意志はないことが察せられ、私も聞き返そうとはしなかった。
 後遺症で不自由な脚で玄関まで送ってくれ、玄関先で、
  「俺のように、事業を失敗しちゃだめだぞ。」
といい、私は頷き、お宅を辞した。

 当時、私は三〇歳になったばかりだった。
 藤森茂男氏は、まだそんな若者に事務局長辞任に追い込まれた一部始終を話すのを当然躊躇い、前述の言葉を言うのが精一杯だったのだろう。
 若者達の運動参加を喜びつつ、小樽の街の旧構造とそこからくる圧力や商売への影響まで心配をされる、そんな藤森茂男氏だった。
  
 その北海道新聞「運河運河論争20年ーあの時私はー」(本田良一記者)の、藤森茂子夫人インタビューで明らかになった事は、それは1976年(昭和52年)5月、小樽運河を守る会事務局長を辞任した藤森茂男氏が、決して夫人以外に口外しなかった話だった。
 それは、当時市内で噂された
  「小樽経済界重鎮からの藤森茂男氏の商売への政治的圧力による保存運動からの離脱」
が、推測ではなかったということだ。

 仮に、藤森茂男氏が、経済界重鎮の政治的圧力の前に屈せざるを得ないことを、当時の会員に報告しようとしたとき、藤森茂男氏の脳裏にどのようなことが浮かぶだろうか。
 その許しがたい政治的圧力と屈辱的選択を、藤森茂男氏が縷々説明し表明したとして、当時の会員が本当に理解してくれるか、と氏は思い悩んだことだろう。
 小樽運河保存運動のリーダーというそれまでの評価を、自ら打ち捨てる行為を選択せざるを得ない、はらわたの煮えくりかえる辛さと切なさがありながら、 氏としては、それを小樽運河を守る会で語ることで、「経済界重鎮が商売を人質にし政治的圧力をかけてくる」と他の会員に恐怖感を与え、会内部に政治的萎縮を蔓延させるような事態を生むことだけは、絶対避けなければならなかっただろう。
 ましてや、当時の小樽運河を守る会は、画家・写真家・教員、そして若者や主婦や大学生などで構成され、民間経済人や商店主の姿は既になく、商いをしながらもオカミに逆らう小樽運河保存運動を担うことの苦しさや切なさの本当の意味を、それらの階層の会員にあっては、頭では理解できても、内実の切なさや苦しさは真に理解してくれるるだろうか、と氏には映っていたであろう。
 そして、二〇代後半から三〇代の若者で、まだ小樽の町に社会的に確固とした基盤を持って登場しきれてはいない若者たちから、氏の強制された選択への理解を得られるのか、そのような現実がありながら後を託せるのか、と氏は様々に思い悩んだに違いない。
 兎に角、私たちはそのときあまりにも若すぎた。 
 そして、熟慮の末、藤森茂男事務局長氏は「沈黙でもって臨む」よりなかった。

 もし、あのとき、その話をしてくれていたらなどの「たら」「れば」などを言っても意味がない。 そのような、「たら・れば」は、そのときの藤森茂男氏の切ないまでの悔しさと葛藤を、逆に汚すことになるだけだ。
 加えて、藤森茂男事務局長氏は、守る会事務局長辞任の前後から体調を悪化させていた。
 病は身体だけでなく精神も萎えさせる。
 さらに時代の激流のなかで従来の地域広告看板業界は極めて厳しい経営環境だった。
 病の身体と精神では、それへの対処は極めて困難で、自社の経営不振は一層進行し、それがまた巡り巡って病の進行を更に加速させたであろう。
 そのとき、事務局長辞任をさせた小樽政財界重鎮は、藤森茂男事務局長氏の会社の経営危機へは、何の支援もしなかった。 
 その屈辱的な選択までして守ろうとした自らの会社は、破綻寸前だった。
 精神的に意欲は萎えていていき、もはや攻勢的考えは持ち得なかったに違いない。
 地方都市でせいぜい町を牛耳っていると思っている政財界(?)人は、このように一人の人間を政治的にそして物理的に圧殺することを、平気でやる存在だった。

 そして、である。
 その藤森茂男氏の夫人は、藤間流の名取りで小樽うしお祭りになくてはならない「うしお踊り」全体のお師匠であり、一方経済界重鎮たちは潮祭りでは実行委の幹部だった。
 そんな自分の夫を苦しめ、小樽運河を守る会事務局長を辞任させ、にもかかわらず夫の会社の経営危機にわずかの支援もしなかった経済界重鎮たちと、潮祭りの様々な場面で顔を合わせねばならず、公衆の面前では平然と笑顔をつくらねばならない夫人だった。
 生活と家計を一手に引き受け、女手ひとつで子供たちを育てなければならない藤森茂男氏夫人のその当時の心の内など、私には想像を絶する。
 
 にもかかわらずである。
 同・北海道新聞「運河運河論争20年ーあの時私はー」の二回目のインタビューで、月刊おたる主宰の米谷祐司氏(元・小樽運河を守る会事務局長代行)が、
 「小樽運河を守る会創設メンバーのひとりである米谷祐司氏(月刊小
  樽主宰)は、自分が藤森茂男氏、堀井俊男氏(堀井建商社長)を、
  (小樽運河保存)運動に引き込んだ。

と取材に応えている。
 しかし、記者は、
 「が、堀井俊男氏の記憶は全く逆だ。」
と、否定ではなく『全く逆だ』とする。

 米谷氏はこのように記者に語りながら、以下のような質問が返ってくることを想定しなかったようだ。
 そもそも、米谷祐司氏が藤森茂男氏を運動に引き込んだとするなら、地元政財界重鎮が藤森茂男事務局長に対し「商売を人質」にとって政治的圧力をかけ、事務局長辞任を無理矢理迫ったそのとき、その米谷祐司氏はそれに対しどう振る舞ったのか?、と。
 饒舌な米谷氏は一切それには沈黙し、語らないし、聞いた事はない。
 米谷氏が藤森茂男氏を小樽運河保存運動に引き込んだという「強い関係」があったなら、そのような政治的圧力を藤森茂男氏が受けたのであれば、放っておけないのが普通だ。
 米谷氏は、その藤森茂男氏を経済界重鎮から「何とか守ろう」としたのか、否か?
 
 米谷氏は地域タウン誌「月刊おたる」主宰であり、地元経済界に徹底的に密着し依拠しないではその発刊の継続は困難であっただろう。 
 堀井氏も地元大手建設会社から独立開業したばかりであり、地元経済界に密着し依拠しないではそのその建設会社の経営と発展は困難であっただろう。
 その米谷・堀井の両氏からすれば、小樽運河を守る会の要望が全て行政から跳ね返されてしまう段階に突入し、行政や運河埋立派経済界との否応もない「全面対決」に入って行かざるを得ない局面に移行するのは目に見えており、それでは自分たちのポジションが危機になると、避けたかった。

 何故なら、行政と経済界と小樽運河を守る会構造のなかで立ち位置を占めて、自分らのポジションを少しでも高みでキープする、それが両氏のスタンスだったから。
 米谷氏や堀井氏にとっては、小樽運河を守る会の穏健な『要請・陳情』を路線とするからこその、小樽運河を守る会への参加と役員就任でありポジショニングだった。
 小樽運河保存運動が、対市交渉で全面対決に入るとなれば、行政と小樽運河を守る会の交渉の中に位置することは不可能になるわけだった。
 その米谷・堀井両氏の路線と姿勢は、すぐ小樽運河を守る会で露わになる。
 藤森茂男氏の事務局長辞任を受けて、小樽運河を守る会は当時の役員体制上、事業部長の米谷氏を事務局長代行とし、米谷氏自身も進んで対市役所交渉役を買ってでた。
 しかし、その対市役所交渉=小樽運河総合調査のための準備委員会で「調査団編制」を巡り、小樽運河を守る会の会議には一切諮らず、市側の主張する調査団編制で良しとする、いわゆるボス交渉をし、結果小樽運河を守る会を紛糾させてしまった。
 結局、米谷・堀井両氏は守る会会員の最後の踏ん張りと抵抗を見誤り、会員からその責任を問われる結果を招き、ポジションを占めようとした小樽運河を守る会自身から去らざるを得なくなってしまった。
 ただ、それは逆に地元経済界と「曲がりなりにも繋がりのある人材」が小樽運河を守る会から完全に失われることを意味した。
 が、逆に両氏が去ったが故に小樽運河を守る会は、少数派転落を決定的にしたが、かろうじて生き残ることが出来たのだった。
 小樽運河を守る会は「操」だけは守ったのだった。

 これが、市民運動の予測不能の複合的な発展の「アヤ」なのだ。
 だが、道々小樽臨港線工事完成から二〇年を経ると、自分に都合の悪い事実には一切蓋をして、あたかも小樽運河を守る会における自分の評価を今更ながら高めようとし、
 「問うに落ちず語るに落ちる
に好例の人物が登場してくるのだ。

 帰省して、三年などすぐたっていった。
 私はこのような実に小樽らしいというか、町のおどろおどろしい有り様を見続けていた。
 父は自民党員以上に選挙で自民党候補を応援し、保守陣営の選挙の実働部隊の方々が来店されては、様々な話をしていく。
 その話は私に筒抜け状態で、小樽の政治地図の把握と理解は進んでいった。

 小樽運河保存運動の現実は、一層厳しくなっていた。
 オカミ意識の濃厚な小樽で、運河保存運動を創設・運営し徹底的に政治的圧力から小樽運河保存運動を守ろうとされてきたその藤森茂男氏本人が、もっとも一番にその犠牲者になるという、アイロニカルな事態だった。
 越崎宗一会長の経営する食品卸問屋がどれだけ厳しい経営環境だったのか当時の私には不明だったが、倒産を苦に逝去された。
 車の両輪だった、小樽運河を守る会の会長・事務局長を失い、事業部長と財政部長は画策しすぎて居られなくなり、小樽運河を守る会役員体制も崩壊していた。
 それが、地元小樽の市民やとりわけ商工業経営者をして、
  「オカミのやることに反対しても、しょうがないじゃないか」
  「保存はしたいと思うが、運動の表面に立ちたくはない」
となり、その空気に拍車をかけたことは、間違いない。
 一般市民が、小樽運河保存運動に接近することを大きく阻害させていった。
 

 私の目からすると、藤森茂男氏事務局長辞任に至る小樽運河保存運動の推移は、1973年(昭和48年)から1976年(昭和52年)までの約四年間、精一杯展開されたがもはや『路線的限界』一杯展開されて、壁にぶち当たってしまった、と映っていた。

 この4年の小樽運河保存運動は「小樽運河を守る会」を産み出し、そして終わりを告げられていた。

03_06. その後の小樽運河保存運動の推移
 
 整理しよう。

1973年(昭和48年)12月 小樽運河を守る会の発起人会が発足する。
1974年(昭和49年)04月守る会》,市内の今井デパートで「運河ポスター展」、「大運河
             展」を開催
1975年(昭和50年)03月 小樽運河を守る会は道議会に対し陳情、道議会は小樽運河を守る会
             の陳情を採択、但し路線変更を求める部分のみ継続審議扱いとする。
             この結果、主要道々小樽臨港線建設は管理者の北海道者の北海道が保
             存陳情を採択し、地先の小樽市は保存陳情不採択という、ねじれ現象
             をきたす。
1975年(昭和50年)04月 小樽市長選挙告示,前市助役の志村和雄氏と《守る会》組織部長の
             豊富智雄氏が立候補、志村和雄氏が初当選(3期12年、1987年
             まで)。豊富氏との票差は8,085票の大激戦。
1975年(昭和50年)06月 守る会は設立総会を開き正式に発足、会員数一二〇〇人。後に二,〇
             〇〇人を越える会員に発展する。
1976年(昭和51年)05月 小樽運河を守る会の実質指導者である事務局長・藤森茂男氏が「病
             気」を理由に突然、退任してしまう。
1976年(昭和51年)07月 北大建築科OBらによる「運河再利用計画展」,小樽市内のデパート
             で開催される。
1976年(昭和51年)10月 越崎宗一・小樽運河を守る会会長の経営する食品卸会社が経営破綻
             し、越崎宗一氏は急逝(自殺)される。

 
 小樽運河を守る会事務局長と会長の両巨頭の喪失と、動揺する小樽運河を守る会を見て取った小樽市は、そのタイミングを見計らい、「総合調査準備委員会=三人委員会」を開催し、守る会側委員である米谷祐司・事務局長代行が、守る会での会議承認を経ないで市理事者と総合調査団編成を「市側提案」で合意しようした。
 小樽運河を守る会は、その米谷氏のボス交渉で、紛糾する。
 1976年(昭和52年)12月、小樽運河を守る会の会議に一切諮らず、市側と小樽運河総合調査団編成の「市側提案合意」を独断でしようとした責任を追求された米谷祐司氏は、責任を追及され事務局長を退任せざるを得ず、小樽運河を守る会・会計・堀井俊男氏とともに小樽運河を守る会から去った。
 創設以来の会長と事務局長を失った小樽運河を守る会の内部が混乱し、遠心化と分散化の進行に更に拍車がかかり、小樽運河を守る会は存亡の危機的状態となる。

 1977年1月、小樽運河を守る会は、代表幹事制を導入し、松本忠治氏(小樽商科大学教授)と峯山冨美氏(主婦)を選出し、懸命に立て直しを図る。

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1978年、小樽運河中央橋上で峯山冨美・小樽運河を守る会会長:写真・志佐公道

 小樽運河を守る会の混乱で延びに延びたが、同年6月「三人委員会」は再開されるも平行線をたどり、小樽運河を守る会は「約七〇名からなる総合調査団メンバー案」を市に提出 、市はそれを無視し、「運河関係総合調査委員会」を小樽運河を守る会抜きで発足させる。
 
 以降、小樽市は小樽運河を守る会からの再三の懇談会再開要求に応じなくなる。
 市議会において「運河埋め立てを前提とした」市独自の記録保存調査を行う旨を回答し、小樽運河を守る会を突き放す。
 これに対し、小樽運河を守る会は『小樽運河総合調査報告書:中間報告』を編集・公表し、小樽運河と周辺石造倉庫群の保存と再活用のための主要道々小樽臨港線のルート変更等の代替案、対案提起をしていく。
 志村市政は、それを鼻で笑うかのように完全無視を貫く。

 すでに1974年7月発足の、小樽臨港線整備促進期成会をいよいよフル稼働させながら、小樽運河埋立派は市内民間経済人の加入勧誘をしながら、「運河埋立道路建設促進の踏み絵」を強制していった。
 志村市長は、市長当選からそれまでは、まがりなりにも市民対話を言い小樽運河を守る会との対話路線を進めてきた。 そして、1977年(昭和52年)秋、ここに至ってその対話路線を捨て去り、強行突破路線に転換したわけだった。

 道路促進派は、決断した。
 小樽運河を守る会創設の会長逝去と事務局長の離脱、そして後任事務局長代行と財政部長の小樽運河を守る会からの実質解任という小樽運河保存運動の内部混乱と会員の分散化を見て取り、小樽運河保存運動側への攻勢的な孤立化策を採用する。
 
 全面対決路線による小樽運河保存運動との最終決着に打って出てきたわけだった。

 しかし、小樽運河を守る会は、そのような攻勢をかける志村市政と運河埋立派に対して、有効な運動的対応をする体力と余力は、残っていなかった。
 小樽運河保存運動は、このような行政との「話し会い」路線による要望と、それを完全に無視し運河埋立を前提とした道々小樽臨港線建設に邁進する志村市政・運河埋立道路建設促進派という構造のなかで「ほぼ勝負あった」とする状態に陥っていた。

 この時期は、同じ通りにスパゲティ店「叫児楼」をオープンさせた佐々木一夫(ニックネーム・興次郎)と私が知り合い、肝胆相照らす関係になっていく頃だった。
 やがて、二人の間では、当時の小樽運河を守る会による小樽運河保存運動を巡る評価を巡って論議が行われていく。

 
03_07. 創生期の小樽運河保存運動の終焉と、それが内包していた矛盾
 
 このように、当初は「かけがえのない先人達の遺産をまもろう」とする穏便な姿勢での市側との話し合い路線は、彼我の両サイドから破綻を突きつけられていた。

 行政&経済界の運河埋立派と小樽運河を守る会の交渉は、運河埋立の行政手続きが進捗する度合いに比例し、好むと好まざるに関係なく小樽運河を巡る
   全面的対立
へと、客観的にも主体的にも発展してしまう。
 新たな運動方針を立てられない中で、運河埋立派の全面的攻勢と守る会執行部の崩壊で、小樽運河を守る会は孤立化し、立ち尽くし、ただただ少数派運動に転落していった。
 
 この行政・経済界と小樽運河保存運動の真正面から対立は、小樽運河を守る会から、市内経済人を一気に去らせる結果を生む。  
 当時、自民党VS社会党という五五年体制下で、市内経済人の大方は保守陣営・志村市長後援会や自民党国会議員・道議会議員・市議会議員の後援会幹部だったのだから。

 小樽市史上初めて勃興した市民運動としての小樽運河保存運動は、予想される行政・経済界からの政治的圧力に抗し、誕生したての「小樽運河を守る会」を防衛し生きのびらせるために、スタート時の「かけがえのない先人達の遺産を守ろう」という情緒的なスローガンを採用し、基本路線は穏健的話し会い路線=署名・陳情による道路計画変更要望路線を採用した。
 しかし、誕生から4年、志村市政と埋立派との真っ正面からの対決路線に遭遇し、たじろぎ立ち尽くす小樽運河を守る会だった。
 市長選挙戦での民間人市長候補擁立さえも、経済界重鎮に圧殺され、機を見るに敏な、経済人・商工業業会員は、まちへの関心から全面撤退していき、まちへの無感動の世界に閉じこもる、負の遺産を負ってしまっていた。
 更に、商工会議所を中心にした37の経済団体・町内会によって構成される「小樽臨港線整備促進期成会」への参加の強制は、市内商店主や経営者に対するの運河埋立道路建設促進の踏み絵として作用した。
 街でのポジションや商売上の配慮から、経済人・商工業業者の小樽運河保存運動の接近の術は一層閉ざされていった。
 「小樽運河保存に賛成するものは、オカミに逆らうアカだ。」
という時代的にもあまりにも程度の低い孤立化キャンペーンが、ムラ社会の平準化の論理やカラーリング社会の悪弊も加わり、市民の小樽運河保存運動への接近を困難なものにしていた。

 ここに至って、小樽運河保存運動はその第一期が終焉したのだった。

 この「第一期」とは、単純に年度を追っての時の経過によるものではない。
 それは、この時期の小樽運河保存運動が採用した基本運動路線の限界が露呈し、破綻したからこその、終焉だった。
  運河保存の署名→市への計画変更要望→道議会・市議会への陳情
という異議申し立てスタイルを採用した守る会の基本運動路線の限界と破綻、それが小樽運河保存運動の主体に何を客観的に突きつけていたのかを気づこうとはしない守る会の限界と破綻が故の、終焉だった。
 行政・経済界の運河埋立道路建設促進という分厚い壁にぶち当たり、その前で立ち尽くすだけの、採用してきた基本運動路線が既に退場を宣告されていたことに無自覚であることが、それまでの小樽運河保存運動の終焉を突きつけていた。

 市と経済界の小樽の街の個性や将来性抜きの公共工事導入一本槍路線の小樽運河埋立・道路建設派とその市民意識を無視した強行突破・全面対決姿勢は、厳しく批判されてしかるべきだ。
 が、ここまでの小樽運河を守る会の採用した「陳情要望型であり、代行主義の運動路線」では、もはや全面対決姿勢をとる市経済界の運河埋立派に全く対応できない「限界」に突き当たっていた。
 それを突破出来ずに立ち尽くし、自らが少数派運動に転落していくのを呆けてみているだけの、小樽運河保存運動の混迷から脱却できない主体的問題があった。

 確かに「かけがえのない先人達の遺産を守ろう」とする呼びかけは、多くの市民を小樽運河を守る会運動へ参加を促し、小樽運河を守る会を発足させ、一時的とはいえ二〇〇〇名近い会員を得るまでに発展した。
 小樽というオカミ意識の強い町で、そこまで運動を発展させえたのは、越崎宗一会長や藤森茂男事務局長の卓越したリードと献身的活動によるところ、大だった。
 しかし、小樽運河を守る会の採用した
   「運河保存の署名→計画変更要望→道・市議会陳情
というスタイルは、「運河埋立の断固さ」に跳ね返される限界を予め持っていたし、全面対決に入った際のそれを突破する展望を切り開けない、路線的欠如を予め内包していた。
 そこでは、市民一人一人に語るべき言葉を小樽運河を守る会は持てないでいた。

 しかし、それは、特殊小樽的限界であったのだろうか?
 そうではない。
 この国の戦後の社会運動の持つ脆弱性によるものでもあった。
 前述の「運河保存の署名→計画変更要望→道・市議会陳情」の「運河保存」を、道路建設反対や工場建設反対や大型商業施設進出反対に置き換えれば、明白であった。
 公害反対、公害企業進出反対、基地建設反対、軍事演習場反対、米軍基地反対に置き換えれば明白であった。
 市民・県民・国民の総意を、政党が彼らに代わって代行して、市・県・国など行政に要望・陳情し、各級レベル議会に陳情し否決されて敗北していく、という戦後民主主義社会で何度も見てきた戦後政治社会体制下での限界、自民党VS社会党の55年体制下での限界だった。

 それの小樽的表現であった。
 北の一地方都市の市民運動もそれから自由ではなかったのだ。
 「小樽運河保存の市民的総意を、小樽運河を守る会が市民に代わって『代行』して行政に要望し陳情する」という運動スタイルの限界一杯を展開した。

 一方、行政側の視点から見てみると、強行採決を繰り返しながらも、一応名目的には議会制民主主義という旗の下で「行政手続き」を積み重ねてきたとする経緯故に、もやは如何ともし難いのだというであろう。
 この意味を詳細にみてこう。
 それまで、議会で進捗した行政的手続きを「白紙にもどす」ことなど、地方自治体行政世界では国や道の予算決定・執行を覆すことを意味し、国・道に予算編成・執行権を握られ首根っこを抑え込まれていた地方自治体にとっては、その「国・道との継続的関係を維持する行政の根幹」に触れることを意味した。
 そのような行為を1地方自治体がすれば、どのようなしっぺ返しが国や道からくるのかと考えるだけで、彼らは恐怖し考える事から逃亡した。
 当時の一般的自治体の有り様として、受け入れられるものではなかった。
 そして、そもそも行政手続きを積み重ねてきた事業であるにも拘わらず、既存政党をパスして、市議会決定をも省みず、新たに登場した「市民運動」によって、それが変更され中断されることなど、本来あってはならないことだった。

 つまり、それが意味することは、それほどまでに小樽運河保存運動の立ち上がりは遅かった、ということでもあった。
  勿論、今の時代からみると、まだ情報公開も一般的でない、パブリックコメントなどもない、形骸化した審議会での密室的進行にすべてを委ねざるを得ない時代だった。
 ましてや、斜陽のどん底で小樽の街の全てに無感動になり、市政にまったく興味を失ってしまっていた市民の民力の衰退が、その根拠だった。
 道々小樽臨港線計画がどんなものであり、それが小樽の街にどのような影響をあたえるかを、市民は全くもって知る手立てを持ち得なかった。
 そのような中で、かろうじて小樽運河を守る会が立ち上がった、と言えた。
 
 だからこそ、小樽運河を守る会による小樽運河保存運動鎮圧のための様々な政治的圧力から「小樽運河を守る会を守り維持して行く」とし、熟慮し採用された「かけがえのない先人達の遺産を守ろう」とする情緒的穏健的話し会い路線であったわけだったが、逆に4年を経ると小樽運河保存運動を束縛してしまっていた。
 それが、この4年間の小樽運河保存運動が明らかにしてしまったことだった。

 その道路計画変更のための
  運河保存の署名→計画変更要望→陳情
という、既に進捗した行政手続きへの異議申し立て路線は、精一杯闘われ限界にぶつかり、以降の運動展望を切り開くことは極めて困難だった。
 そのような「行政手続きの進捗」や、「国・道との継続的関係という行政の根幹」とする、行政だけではない、経済界や一般市民のレベルにまで取りついている「縛り」を、解き放つための展望と路線・方針を小樽運河を守る会が「提起出来うるのか」という、極めて主体的問題にいよいよぶつかっていた。
 その小樽の街の旧構造に起因する、行政や経済界や市民を拘束している「縛り」を、どのように、どこから解放するのかが問われていた。

 こういうときは、真実は細部に宿るとして、それまでの運動を検証するだけだった。
 まず、小樽運河を守る会が言うところの
   「保存という言葉の意味合い、中身」
の検証だった。


 
03_08. 小樽運河保存の『中身』が、決定的に問われていた。

 小樽運河保存運動の主体に問われていたのは、
  「小樽運河保存とは、どういうイメージなのか
という問題だった。
 その保存のイメージ、保存の中身を語らずには、小樽運河保存運動をそもそも訴えられない。 
 そして、現実にそれをどう語ってきたのか、が決定的であった。

 小樽運河保存を口にすれば、運河だけにとどまらなかった。
 その小樽運河と一体となった運河沿いの歴史的建造物である周辺の石造倉庫群や建築群を捨象するなど出来るわけはない。
 その小樽運河エリアの規模を考えれば、保存の規模は圧倒的な広大さをもつ。
 その運河の沿線に林立する歴史的建造物から工場施設までの巨大なボリュームがある。
 そしてその広さとボリュームをバックにした歴史的環境という質量があった。

 それは、当時の「保存」の一般概念を越えるものだった。 
 当時の歴史的建造物の保存とは日本の近代化以前の神社・仏閣・名跡などの保存を意味し、また、建物単体の保存が一般通念、常識だった。
 が、小樽運河とその周辺石造倉庫群や歴史的建造物を含めた広大なエリアを対象とする「保存」など、それまで有り様もなかった。
 小樽運河だけで、長さ2.8km、幅40m。
 それだけで約11.2ha、約11,2万平米、約3.4万坪である。
 その「沿線」を同じ幅員とすると、倍の約23ha、23万平米、約7万坪・・・の「保存」なのである。
 当時、運動を巡って様々に思い悩み、酔いに任せて自虐的に言ったものだった。
 巨大な、あまりにも巨大なドブの保存なんだ、と。
 
 しかし、時代は「地方の時代」と言われるようになり、歴史的町並みが再評価され、妻篭や馬篭などがディスカバー・ジャパンキャンペーンで若者が訪れる観光地として脚光を浴び始め、日本全国の「小京都」が注目を集める時代になっていた。
 歴史的建造物単体ではなく、町並みや歴史的建造物「群」として価値を再認識していく時代のとば口にきていた。
 しかし、北の1地方都市にまでその時代の波は未だ届いておらず、ましてや数万坪の小樽運河エリアの「保存」などは、保存ではなく「再開発」の世界だった。
 しかし、その時代の「再開発イメージ」は、マッチ箱のような、ここはどこの街なのかと唸る、金太郎飴のような画一的なの町並みを新たに作り出して行く、個性ある都市と正反対のイメージでしかなく、「再開発」という言葉は行政とゼネコンと経済界が嬉々として使う言葉の印象を免れ得なかった。
 だから、市民運動が「保存」をと言った途端、その保存手法はどうイメージされるのかが問われた。
 
 更に、小林多喜二が「蟹工船」や「工場細胞」で舞台にした北海製罐工場を筆頭に、小樽運河沿いの石造倉庫群は寂れ果ててはいたが、現に民間企業の手で使用され、稼働していた。
 これを
 「小樽運河とその周辺の建物屋不動産は個人・法人が所有していても、歴史的に形成された景観としての『町並み』は、所有者も含めた町の人々皆のもの
と、小樽運河保存運動は主張した。
 実に哲学的、原理的で本質的な攻勢的主張であったが、しかし情緒的でもあった。 
 実際の運河周辺の歴史的建造物などの所有者と話すときは、情緒的なレベルで語ることは出来たけれども、哲学的、原理的な話など聞いてもらえはしなかった。
 「所有権」という資本主義の根幹に触れる論議と受け止められてしまう危険があった。
 大事な自らの資産である石造倉庫など小樽運河沿線の建造物の所有者には、そのような情緒的説得だけでは消化不良を起こす。

 だからこそ、所有権という問題を逆から言ったらどうか、と唸っていた。

  「運河という景観は周辺の歴史的建造物と相まって形成されている。
   一体となった保存と「再活用」が出来れば、今の資産価値は格段に高まる。
   だからこそ、運河を埋め立てないで、更に運河や沿線の歴史的建造物に磨
   きをかけて、市内外から我も我もと出店希望が出てくるような
    保存と再活用
   が問われている。
   所有者の皆さんだって、自分の資産価値があがるのは歓迎でしょう。
   埋め立てて6車線道路が出来て、それはある程度今よりは資産価値はあが
   るでしょう、でも、運河エリアが保存・再活用の場になったら、そんなレ
   ベルのアップだと思いますか?」

 ・・・ここまで話をし、聞いてくれると、運河沿線の石造倉庫や歴史的建造物の所有者も腕を組んで考えながら話に乗ってきてくれた。
 
 だからこそ、「どういう保存イメージか」は、実に根源的で小樽運河保存運動にとって切実な問題だった。
 「歴史的に形成された景観としての『町並み』は、
  所有者も含めた町の人々皆のもの」
という主張は実にラジカル(根源的)ではあるが、そのラジカルな主張だけで運動を構築出来るわけではない。
 安易に語れば、所有権を否定するのか、やはり小樽運河保存運動は共産主義かとなりかねない危うさがあった。誰もまともにとりあげなくても、それは噂話で運河埋立派のキャンペーンに利用されかねなかった。
 
 小樽運河保存運動第一期の牽引者・藤森茂男事務局長氏なら、
   それをどう語っていたのか
と、過去の小樽運河を守る会の様々な出版物やチラシなどの資料を片っ端から読みふけった。

 それまでの、小樽運河を守る会の主張は、とりわけ藤森茂男氏元事務局長が就任当初から主張したフジモリイズムとも言うべき主張は、氏がほぼ一人で編集し発刊した
 「小樽運河保存運動の手引き:1974
に、端的に表現されている。
 その『手引き』の「(二)小樽運河を守る会の精神」の項には、

「・・・(中略)思想・信条・職業・年齢・性別の違いを問わず『運河』とのかかわりあいや認識の有無、あるいは再開発の方法のいかんを問わず、ただ一点『かけがいのない運河を残す!』そのことだけに気持ちを寄せる、すべての市民の個人的な立場での参加を呼びかけます。」

「『運河』を残そうとする市民の心には、やはり懐古的な情緒の面が少なからずあることは事実です。いや、ほとんどといっていいでしょう。 何とも言えず『運河』はいい、埋め立てられるのはかわいそうだ・・・・、これは理屈を越えたものです。
 (中略)
 私たちの運動は、この『小樽っ子の郷土愛、その一人一人の心の底にひそむエネルギーを原点としている』といえます。」
 

 この第一項の文言の行間にあるものは、徹頭徹尾「政党政治による市民運動の引き回しや運動圧殺」への正当な警戒感である。
 しかし、それは逆に行政や経済界重鎮の市民運動潰しを避けようとするあまり、少々臭いほどの情緒を強調していた。
 藤森茂男事務局長の主張は、
  (健全で穏健な)「文化的市民運動である
と同じ手引きで規定した。
 埋立派への安心感を組織しようとするあまり、そもそもスタートから市民運動の発展性に枠をはめかねない問題を内包していた。
 
 要は、
   運河を埋め立てる道路計画の変更のための
    → 運河保存の署名
     → 市へ計画変更の要望 
      → 市議会への、計画変更の陳情
       → それを担うのは小樽運河を守る会
という、保存を願う市民の総意を小樽運河を守る会が代行する文化的市民運動」だ、とした。

 この「手引き」では、藤森茂男事務局長氏が言う「文化的市民運動」の概念はどういうものか、書かれてはいない。 
 敢えて言うならば、市民運動の冒頭に「文化的」と加えた意味こそが、ミソであり、肝心だったのだろう。
 つまり、小樽運河保存運動は、「文化的市民運動」であって、そこでは政党や労働組合のような政治的問題や社会的問題に発展していくような運動ではない、とすることで、行政や経済界に安心を与え、安全を担保しようとした。

 そこには、
  「一人一人の市民こそが主人公で、
   その市民の総ぐるみ参加による
   自由奔放な論議と市民的表現を内包する、
   まだ姿を明確にしていないけれど、
   新しい巨大な層としての市民運動

への発展に、「文化的市民運動」という言葉で枠をはめかねない、別な意味で極めて政治的な路線でもあった。
 
 戦後日本の様々な運動で露呈した、一般市民を運動の主人公として登場させえず、政党や諸団体による指導と統制の下の「代行主義的運動展開」に押しとどめてしまう運動スタイルが、小樽運河保存運動第一期の牽引者だった藤森茂男事務局長氏も、重くのしかかっていたと見て取れる。

 確かに「僅か4年」の小樽運河保存運動であった。
 結成された小樽運河を守る会は、当然だったが予め大衆運動展開をベテラン政党党員のようには、政治的に訓練はされれていなかった。
 当然、路線を意識的に捉まえようとする政治的意識は希薄だった。
 ましてや、路線転換などということなど、当然意識化されようもなかった。
 混乱し立ち尽くす小樽運河を守る会が、路線的には退場宣告をうけているのだと気づかないことこそが、危機的だった。
 だからこそ、少数派運動への転落と役員会体制の崩壊という危機的な事態の前でも、新たな路線を求めもせず、提起もしえない、ただこぢんまり身を寄せ合い、唯一運河保存署名活動で運動をすることで重苦しい空気を何とか払拭する団体になっていた。
 ある意味、やむを得ない、生き延びるための取りあえずの路線だった。

 本来であれば、その隘路を突破する進路を提起するのは、政党でなければならないはずだった。
 ・・・が、そのような存在はなかった。
 
 当時の小樽運河保存運動には政党では、唯一日本共産党系の市議会議員や教員が数人、小樽運河を守る会・幹事会に出ていた。
 が、この事態に、守る会牽引者不在をフォローし、運動のイニシアティブを握ろうとする積極的関わりは、呆れるほど薄かった。
 小樽運河保存運動は、町並み保存運動と当時呼ばれ、のちに「まちづくり市民運動」と呼ばれるようになるわけだが、日本共産党にとってはそのような市民運動はこれまで出会ったことのない全く新しい市民運動だった。
 当然日本共産党の運動マニュアルにも、党の路線にも位置づけられていないジャンルだった。 
 既に勃興していた反公害の住民運動でもなければ、反基地住民運動でもない、全く新たなジャンルの市民運動だった。
 自らの党の運動路線に、それを組み入れ、構築し、政治的に位置づけようとする積極的発想は期待出来ない、あらゆる運動を党員獲得運動に収斂させ、それでもって各級地方自治体の議会議席獲得に収斂させる、議会主義政党に変質していた。
 であるが故に、小樽の場合でも、日本共産党は市議会議員や共産党系教員を小樽運河を守る会に参加させながら、実に消極的関わりに終始していた。
 ここに、地方党員をただ消費し、消耗させる党中央しかなかったのだ。
 そして、社会党や公明党、自民党は、この日本共産党以上に、鈍感だった。
 
 戦後民主主義の社会運動の限界が、小樽の市民運動、小樽運河保存運動を規定し、縛り上げ、その中での表現でしかなかったわけだった。
 だから、市民も、とりわけ小樽運河を守る会自身も、自分の街で突然現れた小樽運河保存運動をどのように受け止め、主体的に位置づけるのか、が問われた。
 日本の戦後民主主義の限界に規定されている小樽運河保存運動を、どうそのクビキから解放し発展させうるのかとして、
  政治的に、社会的に,文化的に
問われてしまっていたのだった。
 
 当然、このような小樽運河を守る会の状況に、小樽運河保存を願いながら心ならずも運動参加出来ない、運河保存を表明できない商工業者も、多々いた。
 それらは、純正の運河埋立派ではなく、いやいや道路促進期成会に名前は連ねていた商工業者でもあった。
 逆に、道路促進期成会側の踏み絵的勧誘に遭遇し、小樽運河を守る会から離れ、いやいや道路促進期成会に名前は連ねていたが、小樽運河保存を願っている商工業者もいた。
 保存側は、全体としてはそのような会員を、
  「隠れ保存派
と位置づけた。
 実に、正しい姿勢だった。
 小樽のような小さな街の運動展開で、少数派市民運動を強制された街で、そもそも「様々な中間派」を、わざわざ運河埋立派に押しやる意味は、1ミリもなかった。
 
 しかし、現実は違った。
 小樽運河を守る会の組織状況はどんなかと、その温度を探るため様子見に小樽運河を守る会幹事会に参加してみた。
 私は、出席した会員がどういうレベルの論議をするのか、じっと話を聞き続けた。
 小樽運河を守る会のその幹事会会合では、高校教師の会員らが小樽運河を守る会から去った経済人や商工業者会員を、
  「あいつは、運河埋立派に寝返った。
と、切り捨てるような言い方をして、その決めつけに同意を求めている姿があった。
 それを得意げに言うのに驚いた。

 そこから、どういう論議をするのかと見守った。
 峯山冨美会長ただひとりが、首を横に振っていた
 その姿を見て、少しは安心したものだった。
 敬虔なプロテスタントの峯山冨美会長の存在意義、存在感がそこにもあった。
 そもそも小樽運河保存を巡る中間派とは、
  「保存運動への消極的理解派であり、積極的理解の一歩手前
という市民運動の論理こそが、守勢にまわったときにも、いやそれだからこそ忘れてはならない姿勢だった。

 が、老齢の婦人会員たちや労働運動や文化団体運動の会員たちは、何と若者たちより性急で、諭す役ではなく煽る役で逆転していた。
 何故、彼らは小樽運河保存運動から去らざるを得なかったのか、小樽運河を守る会がそのような事態の続出を許さざるを得ないのは何が問題なのか、と自己切開するのは辛く切なく、その去った商工業者を蛇蝎のように言うだけだった。
 それだけで、会議に初参加した私は白けてしまったものだった。

 お年寄りの茶話会やサロンならそれでもいい。
 が、市民運動の担い手であり、小樽運河を守る会の幹事会というのだから、中心メンバーがこんな気分と体質では、とても商工業者の店主らはその空気にいたたまれなかっただろうし、安心して参加も出来ず、「隠れ保存派」になる理由がよく解った。
 去って行く商工業者に比して、自分たちは小樽運河保存を諦めないという「断固性」だけを優位性として区別することで自己満足する姿。
 そうしか見えなかった。
 政党党員やその関係者がその区別化で酩酊し自己満足するのは、勝手だった。
 が、市民運動がそれに満足すれば、敗北しか意味しなかった。
 行政や経済界の運河埋立派との対決で彼らだけをみるあまり、本来もっとも意識しなければならない膨大な市民の存在を見ていなかった。

 そもそも小樽のような官製都市で、商品を右から左に流し利ざやを稼ぐソロバン勘定色が濃い物流港湾都市で、市民を相手にするのであれば、
  いわゆる保守層を運動側に引きつけないでは、勝利の展望などありえない
ということを、どう運動面で実践し表現するのかが問われた。
 保守層一般とは、まだ運河保存を巡って分化が出来ていない層であり、小樽運河保存運動の味方になる可能性を秘めた存在だった。
 小樽運河保存運動が、声を届けていない層だった。

 全共闘運動での経験だった。
 様々な住民運動現地に行って反対運動を担う住民のお宅に宿泊させてもらった。
 仏壇に天皇皇后の写真があるのを見て、しみじみ保守の人々の強さを身をもって知らされる経験をしてきていた。
 例えば、自らが営々と開拓してきた土地を空港建設のために一片の紙で収用され立ち退かざるを得ないところに追い詰められて、打ち込まれた工事用の杭に鉄鎖で身体を縛り抵抗する三里塚反対同盟のお宅に止めて貰った。
 集会の翌日は、その表情も穏やかな好々爺で早朝から農作業に出ていく。
 その農作業を手伝いながら、しみじみ高邁な思想や保守革新などの政治的立場があるから強いのではなく、地域に生き生活するからこその強さであることを思い知らされた。
 反原発運動で、原発誘致阻止に成功してきたところは、保守層が反原発運動を中心で担ったからこそなのを、とことん知らされていた。
 小樽という町全体を、いわゆる保守層全体を巻き込んで、町を二分するくらいの運動に発展させうるのかが、小樽運河保存運動の勝利の展望だった。
 現状の小樽運河保存運動にとって、それはあまりにも風呂敷を広げる話としか理解されないと思い、口にはしなかったが。

 この小樽運河を守る会の幹事会には、その回も含め二〜三度出席した。
 一回だけの参加で小樽運河を守る会の政治的レベルを決めつける気持ちは毛頭なかったからだ。
 小樽運河を守る会幹事会会議が終了し、高齢女性が多いことから喫茶店で雑談をする。
 その雑談でこそ小樽運河を守る会幹事会会員の本音を聞けると参加すると、三度目のその喫茶店で後に副会長になる女性会員が妙齢の女性を連れてき、私の向かいの席に座らせた。
 その彼女も初参加なのか会議では口は開かなかった。
 彼女の育ちや家族構成や経歴を滔々とその小樽運河を守る会女性会員は私に語ってきた。
 まだまだ世間に疎い私は、それが実質「お見合い」であるのにやっと気がついた。
 苦笑いした。
 これが、小樽運河を守る会高齢女性会員のオルグ、勧誘、組織化だった。
 お見合いの世話役であり、それが成功すれば完全にその世話役会員のグループに自動的に入ることになる、市井の世界の多数派工作(^^)でもあった。
 小樽運河保存の理念や路線や方針での会員の勧誘獲得では・・・なかった。

 この有り様では、とてもこれまでの小樽運河を守る会運動の検証や、運動路線の限界や、新たな展望を設定し、それにむけて運動の質をどうグレードアップするのか、などという論議は持たれようもなかった。
 その茶店雑談に付き合ってくれた若い会員は、その現状を恥ずかしそうな表情を浮かべながら私に詫びるような目線を向けてくれ、峯山冨美会長はといえば、その高齢女性会員のお見合いセットに憮然とした表情を浮かべ、会長に責任はないにもかかわらず私に詫びてくるのが、救いだった。

 帰省して三年の小樽では、少数派運動に転落し呻きのたうつ小樽運河保存運動の姿がそこにあった。


03_09. その小樽に、動きがないわけではなかった。
 
 しかし、このような小樽の街でも、底流には新しい流れが浮上しては消えていた。
 小樽運河を守る会幹事会に数回参加し、そこから新しい展望は切り開かれないと判断せざるを得なかった。
 申し訳ないが、小樽運河を守る会は峯山冨美会長がいてくれれば良しとし、小樽運河保存運動のシンボル的存在であれば良しとした。
 そして、小樽運河を守る会以外の市民の動向に注目していく。

 私が帰省した翌年の1975年(昭和50年)、市長選挙を巡って市内で動きが出て来ていた。
 それまでの稲垣市長も助役出身だったが、小樽市助役の志村常雄氏が次期市長後継候補とされていた。
 このような市役所出身者の連続擁立では小樽の長期衰退を止めることが出来ないとし、藤森茂男・小樽運河を守る会の兄・広告宣伝会社社長・藤森正章氏を「民間人市長」候補として擁立する動きがあり、1974年(昭和49年)10月、正式立起表明をする。
 正章氏は、昭和40年度小樽青年会議所理事長を務め、立候補表明当時は小樽商工会議所議員を務めており、青年会議所の同期や後輩会員から人望があつかった。
 弟の藤森茂男氏と違い、兄の正章氏はどちらかというと「運河埋立派」で、その点では道路促進派の支持を得られる、と支持者たちは踏んでいた。

 しかし、それは保守陣営の分裂選挙となることを意味した。
 結果、経済界重鎮らは「分裂選挙は革新市長誕生を意味する」と深刻な危機感を持つ。
 猛烈な圧力がかかり、民間人市長候補擁立は無残にも消え敗北する結果になる。
 実際、志村市長の初当選した選挙は、対立候補の北教組小樽支部の書記長で、小樽運河を守る会組織部長の豊富智雄氏が健闘し、8,000票差という激戦の末の当選だった。
 その意味では、経済界重鎮の危機感は当たっていた。
 それまで掌握していた『まち』の政治決定構造の死守と言う点では、経済界重鎮の危機感による結束が、勝っていた。
 
 だが、市内の四〇代前後の経済人のこの「民間人市長候補擁立の政治的敗北」は、深刻な傷を小樽の『まち』に負わせることになった。
 この民間人市長候補擁立とその政治的敗北は、以降中堅経済人・商工業者たちを完全に萎縮させ、まちへの関わりから全面撤退する気分を醸成し、『まち』への無感動・諦観を蔓延させた。
 ここに、
  「若者が残せといい、年寄りが壊せという小樽運河
というコピーが、新聞に掲載される理由があった。
 本来町を動かしていく壮年世代がいない、と暗に語っていた。
 ただでも行政側と対立を深める小樽運河保存運動への、地元商工業者の参加の道は閉ざされていたのだ。
 町への無感動(アパシー)や町の自信喪失の蔓延として、汚染されていた。
 まだ、小樽経済界重鎮によるまちの政治決定構造が生きている時代だった。
 この中堅経済人・商工業者たちの小樽運河保存運動への不参加が、11年後の最後の決定的局面で小樽運河保存運動の弱さとして表現されるのを私たちは深刻には捉まえていなかった。

 このような経緯を経て、小樽運河保存運動の中心・藤森茂男事務局長が政治的圧力を受け事務局長を退任させられ、更に越崎宗一会長の会社の経営破綻と急逝という事態が、小樽運河保存運動に襲いかかったわけだった。
 小樽運河保存運動への政治的締め付けと孤立化という事態は、市内に即流布し、小樽運河を守る会への一般市民の参加の道は、更に大きく阻害され閉ざされていく。

 前述した小樽運河を守る会の老齢の婦人たちは、街の当時の有り様と無縁なところで、そして小樽運河を守る会の新たな路線の確立に挑戦する目的意識は皆無で、ただ感情で立ち向かっているだけだった。
 展望をこじ開け、引き寄せる路線論議などが小樽運河を守る会から出てくる、とは期待など出来ないわけだった。

 そして、その運河埋立道路建設路線と運河保存再生路線の対立は、もはや
  「運河埋立か、運河保存か
という単純二項対立状態から、
 ・どんな町、どんな小樽をめざすのか、
 ・都市政策や都市とはなにか、
 ・市民の自己決定権や市民自治とは何か、
 ・そもそも、市民社会とはなんなのか、
 ・そこで生きていくとは、どういうことか、
とする、新たなレベルに発展していかざるをえなかった。
 それは、市民運動・住民運動の発展の当然の帰結だった。

 藤森茂男事務局長が育ててきた若者たちや北大大学院の院生たちが、その問題意識にもっとも近い存在だった。
 そこに踏み込む覚悟は、個人にはあってもまだ組織化されておらず、運動として表現し踏み込むための方針とその路線でもって小樽運河を守る会で主導権を体現する主体的グループは、未だなかった。
 小樽運河を守る会運動が押しつぶされないためには対立を極力さけながらも、一方現実には一層鮮明で明確な運河埋立派との対立構造に必然的に入って行く『ねじれ』構造が、次第に小樽運河を守る会の中で大きくなっていき、矛盾を内包しながら行き着くところまで行くよりなくなっていた。
 
 加えて、事務局長辞任・会長逝去と守る会の運動路線の破綻が丁度重なっていたことも、問題の所在をぼやかしてしまっていた。
 敢えて言うと、事務局長辞任と会長逝去のショックに揺さぶられて、運動路線の破綻に真っ正面から立ち向かえないで居たことが、危機を一層深刻にさせていた。

 以上が意味するのは、第一期小樽運河保存運動路線を乗り越えていく、

  「小樽運河保存に心を寄せる市民こそを『層』として街に登場させるために、
   小樽運河保存の内実を巡る論議を広範な市民で展開する空気を町に醸成し、
   その『層』としての市民の登場を背景にし、
   それこそを唯一の武器・圧力にし、
   行政や運河埋立道路建設促進派に、真っ向から対案提起し、
   それへの市民の賛否を問い、
   市民総ぐるみの運河論戦を組織する運動


に、攻め入る方針しかなかった。

 しかし、小樽運河保存運動には、肝心の市民が不在だった。
 ほんの二〇数人の小樽運河を守る会が、単独丸裸で心ある市民の代行者となり、行政と折衝する路線の破綻しかなかった。
 このように小樽運河保存運動は、もはや
  『その破綻した基本運動路線を乗り越える新しい質をもった、新しい担い手
が、客観的に求められていた。
 
 事務局長が強制的に辞任させられ、会長の会社破綻と急逝という衝撃的事態が、
  その本質的で主体的な問題を隠してしまっていた
のだった。

 1974年(昭和49年)前後の小樽の街の彼我は、このような状況であった。

 そして、山口や佐々木や私がIターン、Uターンして小樽に住み着き、商売を始め、この町での生き方を模索し、一方、このような状況を冷静に見守り危機的状況克服していく準備が小樽運河を守る会に参加していた北海道大学の建築や都市計画の院生たちによって進められ、底流で蠢いていた
 
 そのような小樽運河を守る会結成初期の高揚から孤立化のプロセスに、「市民」は介在していなかったと前述した。
 ということは、戦いの場に市民は登場していないのだから、まだ市民は敗北していない、ということとした。
 幸いに、小樽運河を守る会は、峯山冨美氏を会長に頂き、話し合い路線という名のボス交渉傾向や談合路線傾向は小樽運河を守る会を去り、少数派運動にはなったが保存路線を堅持した。
 次の小樽運河保存運動は、その生き延びた小樽運河を守る会に加えて、新たな担い手の層、とりわけ政治的圧力や社会的ポジショニングから全く自由で、敗北というマイナスの歴史を持たない層、つまり
  『まだ小樽運河保存運動に介在してこなかった、
   とりわけ街の若者の獲得と市民的裾野の拡大
であるとした。
 その若者達が、小樽運河保存運動の目的意識的な主体になりうるか、として問われることになった。
 それこそが、「第二期小樽運河保存運動」の準備だった。


03_10. 新たな担い手の登場
 
 北の鄙びたセピア色の街・小樽は、平穏に見えた。
 が、その深層でマグマは動き始めていた。

 1974年(昭和49年)、小樽市手宮の錦町にこれから小樽運河を守る会・ポートフェスティバル・小樽・夢の街づくり実行委員会の牽引役となる山口保が、喫茶メリーゴーランドを開業した。
 同年に、弊店蕎麦屋・籔半は駅前から稲穂町・静屋通りの「割烹日乃出」を購入し、再活用し移転開業し、秋に長男・小川原格が、帰省する。
 翌1975年(昭和50年)5月、籔半の並びの稲穂町・静屋通りに、旧奥村質店石蔵を再活用した呑み食べ処《叫児楼》を、佐々木一夫が、オープンさせる。
 更に翌1976年(昭和51年)、山口保を小樽に漂着させるきっかけとなった友人、佐々木恒治が、堺町の古民家を再活用させたライブハウス《メリーズ・フィッシュ・マーケット》をオープンさせる。
 メリゴーランド・山口保、メリーズフィッシュマーケット・佐々木恒治の両氏は、ともに京都・立命館大学の友人同士だった。
 先に佐々木恒治が来樽し、 山口は大学中退してヨーロッパを歴訪し、次はカナダ・アラスカにと、まずは渡米する前にもう一度日本を見て回ろうと、友人・佐々木恒治を訪ねて小樽に来、小樽という街に魅了されて住み着いてしまう。
 叫児楼をオープンさせた佐々木一夫も、フランスに留学した姉をたよりヨーロッパ行脚をし、観る風景に既視感を猛烈に感じながら帰国、それは故郷・小樽の風景だったと気がつき、札幌のスパゲッティ店で腕を磨き、満を持して小樽の石造倉庫を再活用したスパゲッティ店を開業する。

 山口は、手宮のメリーゴーランドを拠点に、その手作りの喫茶店に引かれて来店する若者グループのリーダーとなり、フォークソングのミニライブコンサートを開催し、小樽運河保存運動の北大大学院の小樽運河を守る会会員である石塚雅明、柳田良三(のちに、森下満も加わる)らが接近してき、自分より若い院生が小樽運河を守る会運動の戦略的運動路線を語るのに触発され、小樽運河を守る会に入会した。
 自分の店に集まる若者をも誘い、地道な運河保存署名活動や会議に参加していく。
 のちに、ポートフェスティバルでは「メリーゴーランド派」と呼ばれる、スポットライトがあたらなくても地道な活動を献身的に担う若者グループの代名詞になっていく。
 K.N氏、Y.A氏、M.S氏、M.K氏などがそうであった。
 更に、山口は手宮・錦町の町内会に積極的に参加し、手宮での市民権を着実に得ていく活動もして行く。

 一方、佐々木一夫は、開業した叫児楼が市内の若者のたまり場となるなかで、かつてヨーロッパ行脚で見てきた歴史的建造物や歴史的環境を活かした賑わいある街を小樽にアナロジーし、そんな街を志向し、仲間を求め合う。
 1977年(昭和52年)、開業した叫児楼の経営が軌道にのり、佐々木一夫(興次郎)は自らの有り余るエネルギーを、どう解き放つのかで蠢いていた。
 骨董品収集が好きで出入りする骨董屋で、同じ趣味の山口保と出会い、更に山口保を通じ堺町にライブハウス・メリーズ・フイッシュ・マーケットをオープンさせた佐々木恒治と知り合い、意気投合し会う。

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 こうして、佐々木は若者のタウン誌「雑歩」を佐々木恒治と発刊しながら、スパゲッティ店店主だけでなく小樽の若者達の声を集約する軸的存在になっていく。

 そんな感覚の佐々木一夫に、同じ町内の蕎麦屋・籔半の息子・小川原格が興味を持ち、接近し始める。
 小川原格は、佐々木一夫の小樽の街や歴史や町並みへの思いの強さに、学生運動を通じて出会った若者たちとは全く違う、その感覚に新鮮さを感じ付き合いを深めていった。

 やがて、山口保と小川原格は、その佐々木一夫を通じ出会うことになる。

03_11.蕎麦屋の息子の本格再稼働
 
 そんな小樽の若者たちがマグマのように街のなかで蠢き始めた時期、私は体力づくりと蕎麦屋の出前担ぎの若い衆から仕事を始め、店づくりに挑戦していた。
 次第に体力が戻り、自転車での出前の腕もあがり、
  出前配達最高記録       :もり蕎麦53枚、
  出前中にひっくり返した最高記録:もり蕎麦43枚
とまでになり、帰省した頃とは比較にならない健康を次第に回復していく。

 1975年(昭和50年)、駅前再開発のメイン・駅前第2ビルが長崎屋をキーテナントとして開業し、あたらし物好きの小樽市民は雲霞のごとく長崎屋に吸い込まれるように来訪していた。
 長崎屋の全国各店舗の中で小樽店は、坪単価売上第一位の成績をあげ続け、小樽支店長には長崎屋本体から幹部クラスが赴任される店舗に成長していく。
 しかし、二〇mも離れていない籔半へのお客様の入り具合は、駅前で営業していたようには、即回復しなかった。
 長崎屋のテナントに地権者として入居したライバル蕎麦屋に、客足は流れていた。 

 来店されたお客様が息子と侮って、
  「お前のオヤジはバカだ。
   折角地権者として長崎屋の地下に入居できたのに。
   今入居していれば大もうけしただろうに、商機を見誤ったな。
   息子のお前にはマイナス・スタートだが、いい経験をすることになる。
と、説教口調で言ってき、
  「あはは、そりゃあれだけの器のビルです、オープン効果なければ何のため
   に建てたかわからんでしょう。
   でも、父の手がけたこの割烹料理屋を再活用した蕎麦屋が流行る時代が、
   間違いなく、もう、すぐそこまでやってきてますのでね。
   焦りませんよ。
と応えてあげて、そのお客様は「父が父なら、息子も息子だ」とあきれ顔をされ、帰られたものだった。 
 帳場で、そんなお客様と息子の会話を聞いて女将は、
  「お父さん、見誤ったのかねぇ。
   時代を先取りしすぎたのかねぇ、
   小樽の街では、早すぎた造りなのかねぇ。
と、ため息をついたものだった。

 女将である母は、「屋根があって地面に立ってなきゃ蕎麦屋でない」と、私が父に進言したことを知らなかった。
 一方、社長・女将間でのは、経営方針立案やもっとも大事なその共有化、そしてそれへ向けてのスタッフの意識の活性化と共通理解などの組織化などは、全く無縁だった。
 それは、夫である店主こそが考えることだと母である女将は、した。
 私は、
  「ナンモ、親爺は見誤ったわけじゃないし、時代を先取りするてぇことは
   蕎麦屋の世界でも、大事なことだ。
   ただ、それを受け止め実践するような店主とスタッフの一体感が、残念
   ながらまだ籔半に出来ていない。 
   建物としての籔半はどこに出してもひけはとらないけれど、この建物を
   フルに活かす中身づくりが、全く出来ていないんだ。
   仏つくって魂いれず、ってぇのが今の段階だな。
   問題は、その魂づくりなんだ。
と、母と語り合いながら、自分にも言い聞かしていた。 

 実際、蕎麦屋の息子としては「ここは思案しどころ」だった。
 移転開業した籔半の営業成績を「三年」で旧店舗時代のラインに戻し、東京に戻るというプランは、否応もなく修正せざるを得ない状況だった。
 長く続く小樽の沈滞化と経済ポテンシャルの衰退に苦吟していた街にとって、長崎屋オープンは久方ぶりの明るいニュースで、そのオープン効果の大爆発は当然だった。
 どの開業した長崎屋に、体張って蕎麦屋の方から客の分捕り合い合戦を挑むなど無謀だったし、挑みようもなかった。
 まず、「来客を主とする店づくり」はじっくり構え、それが軌道に乗るまでは従来の出前売上をこれまで以上に伸ばすという、「戦略的持久戦」に持ち込むよりない、と結論づけた。
 無闇やたらと、危機感から個店が攻勢的路線を冒険的に採用するのは危険だった。
 そして戦略的持久戦の終わりは、思ったより早く訪れた。

 現実に、長崎屋開業2年を経ると、長崎屋から地下テナントが撤退するという事態が現出したし、予想来店者数を得られず売上がキープ出来ないと見て取って撤退するテナントも出てきた。
 長崎屋テナントに入った方がよかったのに、という母やスタッフのコンプレックスを、「ひとの不幸は蜜の味」を逆利用し、「端からみると良く見えるもんだ」と自分の店への誇りの再組織と意識転換に使わせてもらった。
 事実、長崎屋オープン時は、テナントも周辺商店も開業効果に酔っていた。
 長崎屋小樽出店は、近隣商店街に多大な影響を与えると長崎屋進出に抵抗していた都通り商店街組合の執行部と幹部達だった。
 しかし、長崎屋がオープンすると、都通り商店街組合執行部と幹部達がテナント入居している実態が露わになり、私は、
 「これが、小樽なんだ
と、天を仰いだものだった。
 これは、時代を下って平成10年前後、小樽築港地区へのMYCAL小樽進出反対運動でも現出した。
 激しい反対運動にもかかわらず、いよいよMYCAL小樽開業となったとき、市民はその中心3商店街組合執行部や幹部が、MYCAL小樽にテナント出店している姿を見せつけられた。
 これが、「商店街は町の顔」と叫び、MYCAL小樽進出反対を訴え署名運動などを市民に呼びかけ抵抗した、中心3商店街振興組合幹部の現実だった。
 商業者を守らないと小樽商工会議所からの脱退運動までした中心3商店街振興組合幹部と街で出会うと睨みつけたものだった。
 結局、どう言い訳しようと、反対運動の圧力を自店の出店契約条件闘争に利用する、中心3商店街幹部たちの姿だった。
 商いには確かに「したたかさ」は必要だ。
 とはいえ、そこにある本音と建前の使い分けというレベルを超えた、助平根性とあざとさには呆れるしかなかった。
 商店街青年部の若者たちと何度も話し合いを持っていた。
 ある日、そのことを話題にした。
 行政やMYCAL小樽や小樽商工会議所には敵対意識丸出しの青年達が、自らの内部に巣くう、いかんともしがたい体質を猛省する部分は、不在だった。
 反対運動の最初から、個店としてのテナント入居にはもの申さないと決めていた、と返事が来て、絶句した。
 MYCAL小樽進出反対運動と個店経営を極めて都合良く切り離していた。 
 助平根性と商人道とをはき違えていた。
 「商店街は町の顔」ととってつけたような言葉だけが、虚ろだった。 
 このような商店街執行部や幹部を生み出す商店街が、自ら「商店街は町の顔」という厚顔さを恥じいり、自分たちの親を乗り越える新しい世代の新しい商店主が登場しなければ、小樽の商店街の復活の展望はないと笑うよりなかった。
 
 私は、このような町のありようをじっくり見ながら、籔半の「店づくり」路線を確定しなければならなかった。
 一番実績があり、拡大の根拠を出せる「出前売上」を拡大するために、「出前予約取り」を実施していく。 
 出前の電話注文がくるのをただ待つのではなく、蕎麦屋の側から逆に予約を頂きに回るという、実に単純な発想の実践だった。
 普通の会社がやる営業活動を、蕎麦屋の出前担ぎがやるだけだった。
 朝の仕込みが済み、暖簾を出す直前の10時台の腹ごしらえの時間に、近所の会社を自転車で周り、「昼食のそばの出前を予約で頂ければ、そのお客様には配達を『優先』してお届けする」と宣伝し、出前予約を取って歩く。
 勿論、普段でもお昼時は出前注文が電話で殺到し、優先加減が巧く行かないこともないではなかったが、「最優先で持ってきました」と言い続け、届けていた。
 文字通り、「蕎麦屋のただ今、紺屋のあさって」だった。
 お客様は、本当かといいながら予約をしてくれた。
 しかし、それが功を奏し、出前売上は見る間に順調に伸びた。
 それに根拠を得て、その路線を拡大していく。

 市内の蕎麦屋では初めての、「年越し蕎麦予約注文取り」をアルバイトを雇い、クリスマスのケーキ販売が終わった日から、一挙に中心部に年越し蕎麦予約取りに打って出た。
 勢い余って、ライバルの蕎麦屋の縄張りにまで出張って実施した。
 蕎麦屋の組合長の店が縄張り荒らしをするのだから、組合会議で父は苦しい立場に追いやられたが、
  「正当な商行為、各蕎麦屋の縄張りなど、手前勝手な主張」
  「他店の蕎麦屋も籔半のように営業をして、切磋琢磨するべきなんだ。」
  「競争があってこそ、蕎麦屋も元気になる。」
と、平然と応える息子に、父は苦笑いした。
 それまで実施してこなかったシステムであったから、いきなり成績が伸びるのは当然だった。
 他の蕎麦屋も籔半の好きなようにはさせないと、事前の年越し蕎麦予約を取り始め、この「年越し蕎麦予約取り」が、蕎麦屋全体の営業活動スタイルとなっていくのを、私は逆に喜んだ。
 いずれ付き合っていかねばならない蕎麦屋の息子同士の競争あっての関係構築に結び着いていくはずだった。
 逆に弊店にとっては、年越し蕎麦予約取りが年末年始の宴会予約取りに結び着く効果もでていた。 
 が、それは蕎麦屋の息子だから出来る技で、出前として入店した若い衆にそれをやらせようとして、抵抗に出会う。 
 何事も一度に解決するのを、避けた。
 学生運動での経験で、耐えること、我慢することを身につけていた。
 「泣くな、笑うな、理解せよ
と、嘯く私がいた。

 学生アルバイトが意気揚々と年越し蕎麦予約を取ってきたことを報告し、それを苦虫をつぶしたかのように見て見ぬ振りをする正スタッフ。
 しかし、それを毎年実施することで、予約取りに挑戦する正スタッフと去って行く正スタッフと、自然に振るいわけが進んで行った。
 「年越し蕎麦予約取り」を例年続けるスタイルにしていき、長崎屋開業から二年が過ぎた1977年(昭和52年)には、長崎屋を出入りするお客様の周辺歩行者動線の流れの中に籔半も入り、来店客も着実に増加していき、目標の「旧店舗時代の売上」を果たした。
 いよいよ、出前中心から店舗来客を主軸にする「店づくり」路線が、問われる段階になってきた。

 店のホールスタッフも、若い子に切り替えるのに三年かかった。
 蕎麦屋のウェイトレスを募集しても、低賃金で仲々いいスタッフは面接にも来ず、たまに面接に来てくれる子は眼鏡には叶わず、いいウェイトレス・スタッフに出会うのは一〇人に一人くらいで、結果3年を要した。
 それでも、チャレンジして内容豊富になった接遇マニュアルを読み合わせるミーティングが定着していき、出前スタッフ・ホールスタッフの採用権限は父母から私が掌握し、来店客接遇を基本にする体質を店に作っていった。

 ホールスタッフのトップに積極的なスタッフを配置することが出来ると若いスタッフ教育は一層進んでいった。
 板場スタッフは、日々技術研鑽に励み1年経過すると自分がどれだけ成長したかを自己確認できるが、開店準備から閉店まで毎日同じルーティンワークのホールスタッフは自分が1年経過しどれだけ成長したかは検証できないでいた。
 そこで、ホールスタッフにネームカードを胸に付けさせた。
 小店の蕎麦屋では、ネームカードなど概念はまだない時代だった。
 が、お客様が、気持ちのいい接遇をしてくれるホールスタッフの名前を覚えられ、声掛けし、お褒め頂く、それがホールスタッフが自分で成長を感じられる一番の秤となっていった。
 見る間にホーススタッフが綺麗になっていくのを、小躍りして喜んだものだった。

 三年目の決算を締めた5月、会計事務所から届いた決算報告を聞くと父は満足そうに笑みを浮かべ、予約注文取りの若い衆に着せるために発注・新調した私のデザインによる籔半の印袢纏を着物の上に粋に羽織って、
  「売上、史上最高額だ
と花園町のクラブに私を連れて乗り込んだものだった。 
 その店のボトルの残り具合を盗み見し、数日後こっそり板長と若い衆を引き連れそのクラブで、新しくキープしたボトルを同じ残り具合にするまで、呑みまくったものだった。
 板長や若い衆にすれば、クラブなど初めてで気後れしながら、うれしがった。


03_12. 失ってはならないものを作ってしまう


 このように店の勢いを次第に取り戻していく息子の仕事ぶりに満足していた父だが、そこはさる者で、一枚も二枚も上手だった。

 私は、「蕎麦屋・籔半の業績が回復したら東京に戻る」という父への宣言を撤回はしていなかった。
 父はそれを阻止する作戦を、深く静かに潜行し実施していた。
 同業者の娘さんに、それとなく来店して頂いて引き合わせても息子はなびく様子を見せなかった。
 当の息子は、蕎麦屋と小樽運河保存運動でそれどころではなかっただけだったのだが。
 母には弱い息子だったのを計算し、母に見合い相手を探すよう父は指示をだしていた。
 父は全道の蕎麦屋・飲食店の経営者団体である北海道麺類飲食業生活衛生同業組合の副理事長を務め、そのネットワークから年頃の娘さんのいる蕎麦屋とは一層懇意にしていて、いきなりよその町の蕎麦屋の父母娘が、それも娘さんは振り袖姿に着飾って来店し、まるで父がその蕎麦屋店主を私に紹介する形で娘さんの前に座らせる、「偽装強制見合い」が頻繁だった。
 父に、
  「いい加減にしてくれよな。体のいい『見合い』じゃねぇか。
   それも、同業の娘さんなんて、真っ平ごめんだ。
   同業の娘さんなどを結婚相手にするなんて功罪両方あり、自分の親のやり方を刷り込まれ
   てくる。
   それでは、大胆な店づくりなんぞ出来ゃしねえから、蕎麦屋がどんどん元気なくなって
   きたんじゃねぇか。
   そもそも、見合いなんて『合法的人身売買』なんだからな。」
とうそぶく、まだ学生運動気質の抜けない私がいた。

 しかし、蛙の面にションベンで親は手をゆるめなかった。
 そして、1977年(昭和52年)春。
 今度は母に頼まれ、会うだけでいいからと見合い話が持ち込まれる。 
 母と庁立高女時代の友人の娘さんだ、ときた。
 母と母の友人の顔もあった。
 大げさな見合いではなく喫茶店で珈琲程度で済ます感じならと、こちらは「消化試合」気分で臨むことになると、計算したのが間違いだった。

 しかし、なんと父はもう駅前に建設中の「国際ホテル」の竣工スケジュールまで事前に調べ、11月オープン後、即の結婚祝賀会をそのお見合い話と同時に申し込んでいた。
 まだ会ってもいない段階で、結婚祝賀会会場を仮り押さえする。
 ・・・そういう父だった。
 その話に流石に呆れた母から私に漏れるようにわざと母に話し、父は完全にプレッシャーを息子にかけてきた。
 私と父の、政治戦が開始した。

 私も怒ったが、それ以上にホテル側は大騒ぎになった。
 ホテルの宴会支配人が蕎麦を食べに来て、目で私に合図をしてきた。
 席に行き聞いてみて、笑ってしまった。
 同ホテル竣工第一号の結婚祝賀パーティは、同ホテル社長の長男と決まっていた。 
 その長男とは、高校同期でよく遊んだものだった。
 その結婚祝賀パーティ第二号が、北海道全調理師会小樽支部長の長男、つまり私の結婚祝賀パーティとなるわけで、ホテルとしては面倒な結婚祝賀パーティが開業間際に2つもあることを意味した。

 普通の会社務めの人にはわからない世界がある。 
 北海道全調理師会の小樽支部長の跡取り息子の結婚祝賀パーティとなると、和・洋・中華・蕎麦・鮨など市内外・全道の北海道全調理師会の幹部が、そのパーティに出席することを意味する。
 小樽の調理師会の各部会の幹部としては、1ホテルの結婚祝賀パーティの料理というレベルではなく、小樽の和洋中華寿司麺の業界はあんなものかと言われてはならない、面子がかかった料理を出さねばならなくなる。
 ホテルの総料理長は勿論、小樽の調理師会の幹部がホテルの調理場を仕切り、料理もホテル経営者の認可など無縁の、価格どがえしの調理となるわけだった。
 というよりも、当時のホテルの総料理長は、経営者と同等の資格と権威ある存在の時代で、料理長がゴーを出せば経営者も口を挟みにくかった。
 小樽の調理師会に協力しなければ、和・洋・中華・蕎麦・鮨の団体のパーティは入らず、調理スタッフの補充もままならなくなる、そんな世界だった。
 ホテルの厨房スタッフも、自分たちの師匠クラスが厨房に出入りするのだから、上下関係の厳しい調理人世界としては、それは大変なことを意味するわけだった。

 そんな事が裏で進行していることを知らされても、帰ってきたドラ息子には如何ともしがたかった。
 そんなこなの騒ぎのなか、ついに、同ホテル地下の喫茶で、相手と私は会う。 
 なんと、六歳も歳下の娘さんだった。
 学生運動でも六歳後輩の学生を運動に誘い込むのに、年齢差を感じていたのにである。
 銀行の小樽支店に勤務し、高校卒業と銀行入社するまでの春休みの間だけ弊店でアルバイトをしてくれた娘さんで、母はその頃から目を付けていた。
 私が帰省してから、母はその彼女に定期預金を作ってやると弊店に呼び出し、それとなく客席で私に紹介をしていた・・・、娘さんだった。 
 蕎麦屋は夫婦して、くわせものだった。

 母親の見合い作戦の周到さに内心呆れながら、顔には出さず彼女と話をした。
 何せ、私が学生運動に参加していった大学1年のとき、彼女はまだ中学に入学したばかりという年齢差に、絶句した。 
 かろうじて、共通の話題は音楽くらいだった。 
 吉田たくろうや泉谷しげるや因幡晃などでは話は何とか成立するが、ユーミンにはお手上げだった。 
 R&Bやロックやジャズは通じなかったし、逆にゴーゴーなどダンスは、私の方がお手上げだった。
 頃合いかと意を決し、学生運動の話を彼女にした。  
 その頃、全共闘運動とはもう呼ばれなくなり、代わりに「過激派学生」と呼ばれる時代に入っていて、それで見合い相手が昔は過激派学生だったと聞けば、本人も親御さんも怯み逃げ、この話は当然壊れると踏んでのことだった。

 しかし、彼女は何とその話に夢中になって頷いてきた。
 ・・・誤算のはじまりだった。

 彼女の親御さんは、実直を絵に描いたような人で、会社を経営していたが乗っ取られそれからが苦労の始まりで、結果彼女は大学へ進学したかったがそれは適わず、高校を卒業後銀行に就職したが、それでも大学生活と東京に憧れていた。
 モダニズムに輝く東京に憧れを持つ彼女の気持ちは痛いほど解るというシンクロが私の中に起きるが、それは押し殺さないとと腹に力を入れ直したものだっ
 大学で好き勝手に乱暴に生きてきた私の話をしたが、効果は全く逆で、目を輝かせて聞いてきた。
 お見合いで、まさか学生運動理論を展開するつもりはハナからなく、様々な学生生活や東京生活などの話を、面白おかしく話してしまった。
 サービス精神が仇になり、結果、運の尽きだった。
 ・・・事前リサーチ不足だった。
 あまりにも無垢で、銀行生活五年目でもまだ大学生活にあこがれをもち、何の偏見もなく学生運動をしまくってきた私の話を面白がる相手とは、

 ・・・「想定外」だった。

 珈琲呑んで適当なところで席を立つプランは破綻し、根は嫌いでなかった私はサービス精神を更に出して、喫茶店から他の店に移り、深夜まで語り合った。
 結果的には、彼女を自分という男にオルグしている私が・・・いた。

 丁度この年、北海道で参議院選挙にアイヌ民族の一人が立候補し、その選対をやっている友人から頼まれて、選対の手伝いをする羽目になっていた。 
 選挙運動事前準備、告示が近づくと、定休日は札幌の選対事務所に出ずっぱりとなり、彼女のことは頭から失念していた。
 と、告示日直前に母から、 
  「お相手さん、会ってから一ヶ月も立つのに音沙汰がない、と言って来ている。
   お見合いしてから一回もデートに誘ってくれていないと言われて、私恥ずかしかった。
   どうするかは別として、一度くらいデートし失礼を詫びしなさい。」
ときた。
 最初は珈琲程度でいいから、一度くらいのデートになってきていた。
 次第に包囲網は狭められていくのを、感じざるをえなかった。

 しかし、次の定休日は、選挙告示日前日で、文字通り選挙戦突入だった。
 唸り、しかし、彼女に電話し、会社終わった時間に喫茶店で会うアポをとり、当日は朝から札幌の選対事務所で選挙カーの看板づくりをし、無事完成し気がつくともう夕方5時をすぎ、慌てて電車で小樽に帰ろうとしたが、まだエアポート列車などない時代、約束時間から2時間遅れの帰樽になった。
 もう相手は、怒って待っていないだろう。 
 これで終わった、と電車の中で気持ちを整理した。
 小樽に着き、ホルモン焼きで一杯と思ったが、一応待ち合わせの喫茶店に行く。
 ・・・約束の時間から2時間経っても彼女はいた。
 あわてて席に座って、おそるおそる彼女と目を合わせると、その目には光るものがあった。

 策を弄する男は、こういうシンプルな場面にはからきし弱い。

 手にまだこびりついている選挙カー看板づくりで付いた乾いたペンキを剥がしながら詫び、どこの店に食事に行くかを思案しながら、この娘さんが連れ合いになるのかという危険な思いと、失ってはいけないものを手に入れてしまったらもう2度と冒険は出来なくなるという危機感と、二つが頭の仲で交差していた。
 が、実際は決着はもう付いていた。
 完全敗北だった。
 学生運動の中で女性に対して出来ていた、後頭部に確固として存在していた白く冷めたクールな塊が、すでに溶解している自分がいた。

 その彼女が、今の女将だった。
 その女将が十数年後、年頃になった三人娘にむかって、
  「あのね、今付き合っている彼氏に惚れたら駄目。
   彼氏の方が貴女たちに惚れる、彼氏に自分を惚れさせるようにね、
   持って行くのよ。
   惚れられるのが女の一番の幸せなのよ。」
と。

 あの喫茶店での涙はなんだったのか・・・。


03_13. 栄光への脱出・エクソダス 2nd の破綻


 1977年(昭和52年)11月12日。
 私が東京に再び戻る、「栄光への脱出・エクソダス2」プロジェクトの破綻宣告の日がついにきた。

 本州の方は信じられないだろうが、北海道の結婚祝賀会は派手だった。
 東京時代に臨んだ友人の普通の結婚祝賀会は、親類縁者遭わせて100人を切る程度だった。 北海道のような会費制祝賀会ではなくお祝儀制が普通で、最低で三万円は包まねばならず、結婚祝賀会が月に二度もあると万歳した。

 しかし、わが父は、張り切った。
 ホテルの大宴会場に四〇〇人近い披露宴となり、しかし私が呼べる友人知人は1テーブルたった一〇人だけだった。
 もうこの時点で、私は自分の結婚式ではないと腹をくくっていた。
 結婚祝賀披露宴は、私と連れ合いの結婚祝賀というより、蕎麦屋籔半二代目襲名披露イベントだった。

 そんな結婚祝賀会に、学生運動時代の仲間を呼べるわけもなかった。
 学生運動を続けていて、カネもないし、親御さんも賛成せず、町内会館で仕出し料理で質素だったが心のこもる祝賀会をやってき、それを取り仕切ってきた私だった。
 北海道の大人数の派手な結婚祝賀会に、そんな仲間を呼べるわけがなかった。

 が、人一倍世話になり迷惑をかけっぱなしだった下宿の小母さんだけは招き、その隣の席が佐々木一夫で、残り八人は在樽の友人だった。
 佐々木は当時はまだ珍しいヨーロッパ仕立てのタキシードに蝶ネクタイで座っていた。

 一方祝賀会会場の、国際ホテルの調理場は戦争状態だった。
 披露宴の数時間前から、道内各地の和・洋・中華料理・寿司等々の各調理師会の幹部が続々到着し、結婚式用礼服を脱ぎ白衣に着替え、宴会支配人は人は目をつり上げながらホテル厨房に案内するというのだから、ホテルスタッフの緊張は可哀想なくらいだった。
 そして、北海道全調理師会の和・洋・中華料理・寿司の各幹部が、調理場を陣取り仕切っていたのだった。
 結婚式で待機する両家に総支配人が挨拶にきた。
 父とはにこやかに挨拶をし、私が「調理師会支部長の息子の結婚式などコリゴリでしょう」と耳元で囁くと、頷きあわてて顔を横に振って汗をふいていた。
 もう、準備段階から、自分の結婚祝賀会とは1ミリも思えなかった。
 出席者リストの大半が父の友人と飲食関係各団体の幹部連だった。
 連れ合いのお客様は、全体の一〇分の一でしかなかった。
 わが方の来賓の四分の三は、私の知らない人だった。
 父は、市内の飲食関係の来賓の商売に迷惑をかけたくないと、祝賀会開始は午後七時と案内した。 
 その開始時間でも、父と言い争った。
 市外から来られる方の帰りのアクセス時間を考慮したら、午後六時の開始がいいと意見したが、一切無視だった。
 ホテルの宴会支配人と打ち合わせで、
  「見合いをする前に、ホテルを予約する父です。」
と告げ、宴会支配人は絶句した。
  「新郎新婦が両家の親に花束を贈呈なんていやだ、と父言ってませんか?」
  「はい、少々困ってます。新郎新婦様には失礼ですが、あれが祝賀会の流れの最後の盛り上が
   りをつくるのですから。」
  「あはは、今まで人に言えない苦労をしながら育てた息子と娘だ、花束なんぞでチャラにされ
   たら叶わん、って言ってるでしょうねぇ。」
  「はい、そ、その通りです。何とかなりませんかねぇ。」

 北海道洞爺湖温泉の1,2を争うホテルから引き抜かれてきた宴会支配人で、観光宿泊業界の情報に詳しく、無碍にするわけにいかなかった。
  「うぅぅむ、そうですね、新婦が気持ちを込めて手編みしたケープとマフラーを手渡すって
   のどうです? 
   まさか、手編みのマフラーとケープをイヤがるわけに行かないしょ。 
   息子三人で女っ気ない家庭だったから、そういう《娘》になる新婦の手編みマフラーなんて
   、父親は弱いでしょうが。」
  「いいです、いいです、それで行きましょう。
   あとはそれをMCにストリーつくらせられます、いいですなぁ。」
なんて打ち合わせが、否応も泣く続いたものだった。
 結婚披露宴の1ヶ月前、「ちょっと」来いと父に連れられ、なんと銀行にむかった。
  「お前の結婚式費用を銀行から借りる。
   だからお前が融資申し込み者だ。
   俺が保証人になってやる。」
と。 
 東京では、当時の大卒初任給は7〜8万円の時代だったが、私の生協での給料は結構の額だった。
 その給料は、学生運動仲間の飲み食いにほぼ消えていくのが通例だったが。
 それが帰省して初めてもらった月給は、何と5万円だった。
  「確かに売上が悪いのは理解しているつもりだが、これでは一時代前の大卒初任給以下だ。」
と抗議すると、
  「お前、大学を除籍処分された高卒のくせに、何が大学出の初任給を言えるんだ。」
と痛いところを突いてきた。
 用意万端して私のクレームを待ち受けていた。
  「親の家に住んで、食事もしているし、自由に酒は飲める。
   住宅代・水光費差し引いたらそれだけで充分だ。
   サラリーマンが奥さんからもらう小遣いがそのくらいだ、
   居候に給料出すんだ、文句あっか?」
と、一喝だった。
  「居候かよ。」
と、学生運動でさんざんやった大衆団交を父にやるわけにはいかんなと独りごち、ふてる私がいた。
 だから、銀行に向かう途上で、
  「俺の給料金額を銀行で言うの、社長として恥ずかしくないかい?
   とても返済能力無しで、融資は無理だわ。」
  「だから、保証人の父が判を押すだけだ。」
 ・・・こんな父だった。

 が、父の銀行に申し込んだ融資金額が半端でなかった。
 異議を申したてようとしたら、いきなり父に足を踏まれた。
 ふてって、もう何も言わなかった。
 融資手続きすべて完了したところで、支店長の前で、
  「いいか、ちゃんと返済していくんだぞ。 
   給料からさっ引くからな。
   結婚資金くらい普段からためておかんから借りなきゃならんのだからな。」
と、他人事のように言う父と、支店長の作り笑いを交互に見ていた。
 銀行からでて、
  「ったく、俺の結婚披露宴費用に紛れ込ませて、店の運転資金まで調達かよ!」
  「経営者は、なんでも利用する。」
と、柳に風の父だった。
 これが、私の帰省して初めての銀行融資手続き第1号だった。

 連れ合いはサラリーマンの娘さんで、飲食という世界は何もかにもが初めてだった。
 板場の職人さんの奥さんがウェイトレスで勤務していたが、連れ合いがくるという理由で身を引いてもらった。
 接客の司令塔を、女将(母)、板場職人さんの奥さん、連れ合いと3本もできたら折角接遇改善を進めてきたのが崩壊すると判断し、
  「これからは、連れ合いがホールすべてを仕切る」
と、彼女にもスタッフにも覚悟させるわけだった。

 新婦はそんな地獄が待っているとは、結婚披露宴では露とも知らずにいた。
 披露宴では二人とも、折角の北海道全調理師会の飲食の親分の指示で提供される料理を一切口に出来なかった。
 箸を付ける間もなく来賓に酒を注がれて、目の前の料理がうらめしかった。
 小樽の芸者さん総ざらえの祝舞の演舞に続き、わざわざ東京からきてくれた昔芸者さんだった下宿の小母さんの祝舞に涙した。
 この下宿の小母さんは下宿生に「大事な息子さんを親御さんから預かるのだから、無事、卒業したら芸者さんを呼んでご馳走する」と言ってくれていたが、私がお世話になっている間一〇人近い下宿生で卒業する下宿生は、一人もいなく、芸者さんを挙げての宴会はやってもらえなかった。 
 その下宿の小母さんが東京から来てくれ祝舞を披露してくれるたのだから、感極まった。
 祝宴は、やはり午後10時を回って終わった。
 午後10時を回る結婚祝賀会など、以降今まで経験したことなかった。
 後志各地や全道各地から出席いただいたお客様には大変ご迷惑をかけたが、すべて仕切った父に免じてお許し頂きますと、お見送り際に平謝りした。
 結局、見合いから結婚祝賀会まで謝り放しの私だった。
 しかし・・・、私にはもっと問題があった。
 連れ合いに隠していることがあった。

 断っておくが、ゲイではない。
 連れ合いに事前に新婚旅行で行きたいところは、などと聞いたのが失敗だった。
 対等な夫婦関係は確かに結構な話だが、イニシアティブ抜きの民主主義など意味は無く、意見をくみ取るのにも善し悪しがあり、リーダシップこそが肝心だったのに、しっぱいしてしまった。
 わが連れ合い候補は、当時のOLらしく丁度オープンした「沖縄・万座ビーチ」と答えが返ってきた。
 よりによって、沖縄・・・、それもはやりの万座ビーチ・・・。
 目が点になった。
 わが連れ合い候補の目は遠く沖縄の満座ビーチを夢見ていて。

 こちとらは、学生運動で何年も沖縄本土復帰闘争のデモをしてきた。
 まだ復帰前の沖縄にはパスポートが必要で、東京晴海埠頭の入管事務所で渡航申請をしても、全共闘・新左翼学生と思われる申請者は本人調査をし、学生活動家とわかると申請が受理されなかった。
 何度申請してもパスポートは許可されなく、地団駄踏んだ。
 その沖縄・・・である。
 その沖縄に、なんと新婚旅行で行くなど、どんな顔して沖縄の地を俺は踏めばいいのかと言いかけて、学生運動とは無縁だった連れ合いの「世界は二人のため」とでも言いたげな笑顔の顔を見て、口を閉ざしたものだった。
 それで、言いそびれて直前まできてしまった。
 私のプランは、
  「岡山県・倉敷市の倉敷紡績・クラボウの旧煉瓦工場跡を最新のホテル・宿泊施設に再利用
   ・再活用した倉敷アイビースクエアを訪ねる」
と宣言できないでいた。
 学生運動仲間の結婚式は、資金不足で新婚旅行などは無理で、それでも東京周辺の行楽地へ行くのがせいぜいだった。
 そんな友人達のことを考えると、北海道から中国地方への新婚旅行を自分がするなど自身がしんじられなかった。
 が、小樽運河保存運動に接近してきていた私は、この機会を逃したらという欲望の方が勝っていた。
 私の当時の理解では、日本で初めて近代化遺産・産業遺産の建築物を、観光宿泊施設に大規模保存・再活用し成功している事例、と映っていた。
 小樽運河を守る会をやむを得ず去らねばならなかった、それまでの牽引役・小樽運河を守る会事務局長・藤森茂男氏が、精魂込めて制作した「小樽運河保存運動の手引き」でも、小樽運河保存を訴える活用策にこの「倉敷アイビースクェア」は小樽運河保存運動運動が目指すモデルと紹介していた。
 クラボウ(旧倉敷紡績)の大原財閥が、倉敷川沿岸の歴史的環境を保存再生した町並み保存をしていて、それも見たかった。
 蕎麦屋家業は、代を譲るまで旅行などは無理だったので、ここは贅沢など無視した。
 意を決し、連れ合いにそれ言った。
 てっきりもう沖縄、万座ビーチ、白い鳴き砂の上で愛の睦言を交わすのを夢みていた笑顔は、凍りついた。
 が、勝負だった。
  「米子→松江→萩→津和野→山口→倉敷と、今流行の中国地方の小京都を巡る新婚旅行だ。
   これからの小樽に、これらの町の成功例を見て、それで『まちづくり』や『籔半の店づく
   り』に活かしたい。
   絶対、俺たち二人に貴重な経験となる。」

 彼女は、結婚式直前でついに仕方なく折れてくれた。
 でも、千歳空港を立った飛行機の中の二人には、沈黙のベールがかかっていた。
 これは、伊丹離婚かという空気だった。
 が、訪ねる『まち』の素晴らしさを機内で必死に語り続け、伊丹空港に着く頃には、もはや連れ合いの気分ももち直していた。
  「 YS11,プロペラ機なのね、沖縄ならジェット旅客機だったはず」
といいながら、彼女は前夜の結婚披露祝賀会の疲れから、シートで寝息を立て始める。
 新婚旅行初日の夜は、イヤがおうにも頑張らざるをえないな、とシートに身体を沈める、私だった。

 米子の宿が巨大でつまらない和風ホテルで、幻滅した。
 萩は雨だったが観光バスは遠慮し、二人で自由に松陰旧宅から萩城址の町並みを見学した。
 毛利家では毎年正月行事に、
  「江戸攻めの準備はあいなりましたでしょうか」
と殿様に伺いを立てる儀式を徳川200年続けた話など、沖縄行を勝手に変えたのだから全日程で必死のガイド役を務めた。
 司馬遼の「龍馬がいく」の受け売りに過ぎなかったのだが。
 萩・津和野は、中国地方で当時1番人気の「小京都」観光地だった。
 連れ合いは、満足してくれた。
 が、開業直後の旅館を宿に取ったが、部屋中に貼り付けた新デザインの津和野和紙のクササに辟易し、津和野イメージを逆に損なうと、新しい観光地の店づくりの難しさを学んだ。
 山口市も雨で、しかし公園などは露に濡れいい雰囲気で、和風旅館だけでは新婦さんが可哀想と旅行代理店が山口市ではホテルをとっていたが、やはり、ホテルはつまらなかった。
 ただただ、倉敷が楽しみだった。
 それまでに連れ合いの機嫌はなおり、沖縄にはいずれ連れて行くと担保をとられたが、上機嫌になり、倉敷の町並みの美観地区、古い商家を再活用した「旅館くらしき」の風情をたのしみ、いよいよアイビースクエアに。
  「これが、小樽運河保存運動でめざしているモデルなのね」
  「建物は思想だ、っていう典型だな。」
と、連れ合いもその瀟洒で抑え気味のデザインにすっかり感激してくれた。
 「瀟洒」という言葉の響きが好きだった。
 急遽、倉敷一泊予定を二泊にした程だった。

 私がどんな蕎麦屋の店づくりをしたいのか、連れ合いに自然に伝わっていくのがよかった。
 旅館くらしきも、アイビースクエアも、素晴らしかった。
 近代化遺産、歴史的建造物をこう再活用できるのかと写真を撮りまくり、帰ってから連れ合いを全然撮していない、と叱られた。
 しかし、倉敷川沿いの観光施設の林立に、デザインは美観地区指定で整ってはいるものの、観光土産店占領の町並みに興ざめもした。
 その街の生活の匂いのしない観光土産店の町並みは、気持ちが晴れなかった。
 観光土産を売るだけの美観地区かい?
と。
 泊まった「旅館くらしき」の女将が部屋に挨拶にきて、話の中で嘆いていた。
 「街のみなさんが来られなくなってしまった。 
  司馬遼太郎先生が原稿書きでよく宿泊してくれたが、観光爆発し敬遠されたのが寂しい」
と。
 観光地の光と影が、絶頂期の倉敷にあった

 そして、その倉敷はというと、その観光最高期、900万人/年を越える観光入り込みを得る観光都市として、全国ブランドになる。
 が、その後、本州四国を結ぶ連絡橋が完成し交通網の流れは一変し、倉敷観光は一挙に400万人/年に半減し、落ち込むことになる。 
 美観地区と駅を挟んで対象の位置に、「東洋のチボリ公園」を大規模造成開業した。
 小さな町で、二つも町の軸を造る無謀な事業で、後年日本商工会議所観光大会で訪れたときに懇親会会場はその「東洋のチボリ公園」だった。
 閑散とし、撤退したテナントを見せつけられて会場にむかった。
 もう破綻は見えていて、数年後事実破綻した。
 半減する観光入り込みに焦り、まちづくり思想のない、人寄せパンダ的ハード優先の商業施設建設が、かつて全国ブランドの倉敷で実施され、結果破綻した。
 後年、わが町小樽も、市内の既存全商業施設の総床面積と同規模の、当時はこの国で最大の複合商業施設・MYCAL小樽を誘致し、そういう意味で倉敷が踏んだ轍を性懲りもなく進めようとする「まちづくり」思想のないハード優先に、呆れ果て反対した。
 今倉敷は、そのどん底から這い上がるために、観光事業者だけの観光から市民総ぐるみの観光へを合い言葉に、各家庭の屏風・絵画などのお宝を「市」の立つ日に各戸の玄関先に飾り、それを自由に見て街巡りをして頂く、という着実な観光にチャレンジしている。

 兎に角、伊丹離婚だけは避けられた新婚旅行だった。
 そして、最後に問われていたのは、倉敷アイビースクエアが先駆的に提示している、
 「保存の中身、内実」
 「まちづくりの思想」
だった。