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小樽の『まち』の底流で若者たちが蠢き初めていた。

04_01. 小樽の『まち』の底流で、若者たちが蠢き初めていた。

 帰省し三年目。
 蕎麦屋の息子は、失ってはならないものをつくってしまった。
 第二の「栄光への脱出=エクソダス」構想は、完全に破綻した。
 失ってはならないもの、束縛されるもの・・・家族を、よりによって自らつくってしまった。
 が、それは「地生え」で生きる、ということの選択でもあった。
 
 吹っ切れたように蕎麦屋息子は、『まち』と絡もうとする。
 同じ静屋通りのスパゲティ店・叫児楼店主・佐々木一夫(興次郎)と合い計らい、市内の様々なジャンルの諸氏と面識を深め、語り合うようになり、意気投合していく。
 ガラス販売業、広告看板業、小樽博物館学芸員、小樽商大教授などの諸氏らが会員となり、佐々木と私が一番若手だった。

 その流れで、小樽の歴史的建造物をまず自分たち自身が知ろうと「小樽研究会」をつくる。

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 小樽商工会議所常議員メンバーが会員だったことで、色内通りの歴史的建造物を使用する小樽商工会議所二階会議室を借りることができた。
 市内全域の白地図を市役所から入手し、壁という壁に繋げて貼り付けた。
 それに、自分たちで調べた歴史的建造物を一件づつ落としていく作業をやり始める。
 小樽運河を守る会の小樽運河総合調査報告書の歴史的建造物データも拝借していった。
 皆が、その報告書を良く出来ていると感心したものだった。
 この小樽研究会の集まりは、一年ほど毎月集まっては作業をつづけていく。
 
 小樽商工会議所の定例の常議員会が開催される会議室の壁に、その地図が張ったままだった。
 そこに、少しづつ歴史的建造物のマークとそのデータが書き込まれていくわけだった。
 常議員会が毎回開催される前、出席の常議員諸氏がその地図を見ていると事務局が笑って教えてくれた。
 よくまあ「道道臨港線早期完成促進期成会」の事務局の兼ねる小樽商工会議所が、それを許し続けたものだと今になると思う。
 まだそのくらい、小樽商工会議所も大らかだった。
 それは、地図では「小樽運河にマーキングを入れていない」からでもあった。
 ただ、その地図を張り続けることで、小樽商工会議所常議員の諸氏に小樽の歴史的建造物の存在と、その豊富さを認識させよう、という狙いもあった。
 市内歴史的建造物の書籍など一冊もない時代だったから。
 臆病さと大胆さが同居するのが、若さだった。
 
 しかし、小樽の貴重な資源である歴史的建造物を再発見していく作業をする小樽研究会が、その歴史的近代化遺産であり産業遺産のチャンピオンである小樽運河に対してどういう態度をとるのかについては、当初は皆避ける雰囲気だった。
 が、やっと1年たって本音を語るようになり、それぞれの考え方が次第に鮮明になっていく。   
  「小樽運河の保存はいい、が、今の運動展開は下手で参加すべきではない。」
  「お客様商売に携わる者は、明確な態度を迫られるような運動に入るべきではない。」   
  「周囲からアカと呼ばれる運動に、商売人、とりわけ若い世代の商売人は入らないほうがい
   い。 」
というのが研究会の空気だった。

 それは、前述した1975年(昭和50年)の市長選挙を巡って「二期連続の行政マン出身市長ではなく民間人市長による大胆な行政」を志向する市内の四〇代前後の若手経済人たちの「民間経済人市長擁立」が、経済界重鎮たちの「保守分裂」の危機感から封じ込められてしまい、世代的な政治的敗北感と厭戦気分が、まだ四〇代の小樽研究会会員の中にも、色濃く反映されていた。
 
 が、一世代上の彼らと違い、その政治的敗北を知らない世代の私たちにとっては、「次は何か」とは無関係の認識運動を続ける「小樽研究会」は、いわゆるサロン以外の何ものでもなかった。
 私や佐々木一夫(興次郎)は、参加していても先への展望を模索しえない小樽研究会に次第に物足りなさを感じ、自分達自身でその模索をそれぞれ開始していく。

 佐々木一夫(興次郎)は、この時期、山口保や佐々木恒治らと関係が出来ていき、その影響もあってか小樽運河保存運動を担わねばならない、という意を強くしていく。
 小樽運河を守る会への参加を真剣に考え、私に賛否を問いただしてくる。
 いよいよ、佐々木と私二人の本格的関係構築のための第一関門が訪れた。
 
 初めて佐々木一夫(興次郎)と私が、本気で腹を割って語り合うときが来た。
 それは、結果として佐々木と対立してしまうこともありえた。
 それまでは、佐々木一夫とは、小樽運河を守る会の評価については深くは語らず避けていた。
 小樽では、食材を「漬けて、蓋をし、封印する」というのを「うるかす」という。
 私は佐々木一夫(興次郎)と小樽運河を守る会の評価の論議を避け、うるかし続けていた。
 なぜなら、小樽運河を守る会の評価は、「次は何か」がなくては語られなかったからだった。
 
04_02. 広範に市民的裾野を獲得し、それをバックにして道路促進派と対峙する新たな運動体を!

 二人は花園町の居酒屋にむかう。
 コアガリにあがり、酒や料理の注文も面倒とばかり、私は切り出した。
 小川原
 「『小樽運河を守る会』に参加するのは、かまわない。
  が、それで興次郎さんはどうするのか?
  せいぜい、運河保存署名運動ぐらいしか出来ておらず、それで生きな
  がらえる運動で満足できる興次郎さんじゃないだろうに。」

 佐々木:
 「あまりにも、小樽運河を守る会が停滞しているのをみてられません。」

 まるで興次郎の「興」は、任侠の「」の字だった。
 男ッ気と優しさの塊の興次郎だった。

 小川原
 「そうだ、何て言ったってこのソロバン勘定たかくオカミに逆らうなどとんでもな
  い町で、初めて市民運動を巻き起こした小樽運河を守る会だ。
  今低迷しているからといってそれを見放すなど、そもそも市民運動がすることじ
  ゃない。」

 佐々木:
 「だったら、学生運動経験がある小川原さんも参加すれば、『小樽運河を守る会』
  を変えようがあるんじゃないですか?」

 小川原
 「そうかな、山口さんや北大三人組が頑張ってくれていても、あの現状だぞ。」
 

 佐々木:
 「だから、そこに俺たちの手で、若者を小樽運河を守る会に参加させていくんです
  。」
 
 小川原
 「それも一理だ。
  が、あのさ、マイナス面しか市民には映っていない小樽運河を守る会運動じゃな
  いか。
  今の小樽運河を守る会に小樽の若者を参加させていく、などと簡単に言うけれ 
  ど、若者をどうやって魅了させるんだ。
  興次郎さんは何をもって、若者を小樽運河を守る会に組織していくと言うんだ?
  例えば、明治維新のときの薩長がかかげた錦の旗印みたいなものは、小樽運河を
  守る会では何なのだ?
  例えば、何を水戸黄門の印籠のように市民に掲げるんだ?
  興次郎さんが掲げる旗印は何なのかな。

  興次郎さんの店だってそうじゃないか。
  あの素晴らしいスタッフたちは興次郎さんの店づくりへの思いや興次郎さんの店
  づくりの夢や小樽の街への夢で、組織されていいスタッフに育っている。
  興次郎さんの店づくりへの思い、『まち』への思いでスタッフは組織されている
  んだろうが。
  だから、叫児楼があれだけ流行るんだ。

  人は、論理や義務感だけで参加するんじゃないだろう。
  「must」や「can」なんて言葉じゃ、若者は参加するかな。
  運動の担い手たちの人格や人間性や運動表現などに魅了されて参加する。
  興次郎さん自身そういう人間だろうに。
  まあ、何度か『小樽運河を守る会』の会議に参加してみたらいい。
  俺も何度か出たが山口さんや北大三人組には悪いが、折角誘っても若者はすぐそ
  の空気や雰囲気を敏感に察知し、一度会議に参加しただけで離れていく。」

  佐々木
  じゃぁぁ、じゃあですよ、小川原さんは『小樽運河を守る会』をあのまま放って
  おくって、言うんですか?
 
 
  小川原:
  あのさ、左翼用語を振りかざすのは散々してきたのでもうしたくないが、
    『別個に進んで、共に打つ』
  って、有名な言葉がある。
  一つの目的のために、一つの団体で進むのもいいが、目的が大きければ大きいほ
  どそんな単純に運動など進まない。
  様々な団体がその大きな変革に向かってそれぞれが得意な分野で運動展開して、
  ベクトルを1つにし、最終的にその目的を実現する、それもありじゃないか?
  
  佐々木:
  そういう話になると、何を言っているのかわかりません。
 

  小川原:
  俺の話、まだ聞いてくれるか?
 

 やはり、感覚的日本主義の佐々木一夫(興次郎)に、左翼用語はつうじなかった。
 帰省して久しぶりに、自分の考えの全面展開をすることになる。
 居酒屋のマスターがカウンター越しに笑って、大いにやれという顔をしてくれた。 

  小川原:
  私たちのすぐ上の世代のように、当時の民間人市長候補擁立での政治的敗北感
  で、厭戦気分からの処世訓じみた考えで言うのではない。
  今の小樽運河を守る会運動は、ポスター展や大運河展、運河総合調査中間報告
  書などをみても、優秀な北大大学院生が参加し、対案提起をする姿勢を保持し
  ていく、実に素晴らしい側面がある。  
  ましてや、桜陽高校の同窓会会長も務める小樽運河を守る会の峯山冨美会長は、
  敬虔なクリスチャンであり、それを知らない人はいない。
  だからこそ、運河埋立派がするような「アカの運動」とレッテルを貼られるよ
  うな筋合いじゃない。
  しかし、少数派運動に転落し、運動量が減少し、加えて運動展開の稚拙さで道
  路推進派に「アカの運動」と一方的に言わせてしまう主体的弱さが、厳しいか
  も知れないが小樽運河を守る会側にある。  
  実際は、共産党系はさしたる影響力を持ってはいないし、これまでの住民運動
  や消費者運動とは全く違う、大規模な歴史的環境の保存再生運動というジャン
  ルは、共産党もそれほど力を注ぐ対象とは位置づけていない。
  というか、彼らもこのような大規模な歴史的環境の保存再生運動をどう、自分
  たちの政党の路線に組み込むかと躊躇している。
  それくらい、今までにない市民運動だということだ。
 
  これまで学生運動で様々な住民運動をある程度経験してきたが、行政や経済界
  と対立する住民運動や市民運動を潰すのに一番手っ取り早い方法は、決まって
  いる。 
  村社会の色分けを利用した運動側の孤立化路線だ。  
  よそ者排除=村八分、そのための「アカ」というレッテルを貼る「色分け・カ
  ラーリング」だ。  
  それに、「出る杭は打つ」という村社会を真っ平らにし尖って出てくる奴をつ
  ぶす「平準化」の論理も同時に使う。  
  要は、小樽運河保存運動を孤立化させる「ためにする」キャンペーンだ。  
  完全に意図的で、かつ行政=オカミに逆らうものに対する保守層からする分断
  ・孤立化策であって、そこでは小樽運河を守る会には罪はない。
 
  しかし、小樽運河保存運動側からみた「主体的側面」としては、大きな問題が
  ある。  
  小樽運河を守る会自らの運動の組み立てのまずさがある。
  とりわけ少数派に転落した段階では、それを乗り越えるには、従来の運動展開
  に固執せず、どう現状を脱却するか、新しい路線をめぐって積極的論議をする
  空気・ムードを小樽運河を守る会内部につくらなきゃならない。
  だが、それが出来ていない。
  
  北大三人組の出した運河再生再活用プランや代替ルート案など貴重な提案やプ
  ランをどう市民の間に持ち込み、拡散していくかの手立てを立てようとしてい
  ない。
  運河再生再活用プランや代替ルート案をまず自分のものにして、それを市民に
  丁寧に語れる自分にしようともしていない。

  結論から言うと、運河保存の署名運動でただ自分たちは運動をやっていると自
  己満足し酩酊している有様にしか見えない。  
  あんなきっちりしたプランや提案を持ちながら、真摯に運河問題を考えようと
  する市民に、それが全く届けられていない。
  信じられないくらいの、宝の持ち腐れ状態だ。

  大学院生の制作だからと小樽運河を守る会の老齢会員や労組会員まで、それ
  を軽くみている。
  ひどいもんだよ。
  が、あのプランやルート案など、コンサルタントに発注したら軽く四〇〇万円、
  いやそれ以上払わにゃならん代物だ。  
  それを守る会内部で、勉強会も学習会も全くしていない。
  その運河再生再活用プランや代替ルート案など、真面目に論議していない。
  そんな状態で、「ただ小樽運河保存」という署名運動をやっている。
  俺も守る会の署名活動に参加した。
  それは、守る会会員が署名を募るときにどう市民に語って署名をもらっている
  かをチェックしたくて参加した。

  佐々木:
  あの花園商店街で格さんが署名活動に出て私もびっくりした。
  普段、署名運動しかしない小樽運河を守る会、と批判していた格さんが、署名
  に立ったのは小樽運河を守る会会員のチェックのためだったのですか?
  人が悪いです。

  小川原:
  署名運動を否定などするわけない。
  どういう語りをして署名を集めているのか、とその語る内容レベル、質を把握
  したかったんだ。
  で、絶句したよ。
  小樽運河残した後どうするのかと署名した市民に聞かれ、守る会の副会長がだ
  ぞ、
  「私たちは運河が残れるだけでいい、
   残ったあとの事は行政が考えること。」
  と、堂々と笑っていい、その市民は呆れ果て、その場をさっさと離れていった。
  そんな主張なら、署名運動に参加するべきではない、と言いたいくらいだ。 
  その聞いてきた市民には、北大グループが提案した
   「運河再生再活用プランや代替ルート案」
  を語ることが一番いいのに、それは絶対言わない。
  そんなレベルの主張では、市民に切り込むことなどど一ミリも出来ない。

  「運河再生再活用プランや代替ルート案」を道路促進派にも、中間派にも、保
  存派にも、つまり「市民に届ける」ことに小樽運河を守る会は全力を集中すべ
  きなのに、せいぜい街頭での署名活動で、「生き永らえる」だけだ。
  厳しすぎる言い方かもしれないが、小樽運河保存という目的達成のための手段
  である「署名活動」が、逆に目的化しているんだ。
  逆転し、署名活動をする「仲間性」で持ちこたえている、それが小樽運河を守
  る会の現状と言える。 
  だから、当然、市民に注目してもらうような新鮮な訴えや意識的宣伝活動をや
  られてない。  
  折角の貴重な宣伝材料がある、のにだ。
  なのに、それを市民に届ける活動量を、小樽運河を守る会ではそもそも担保で
  きないレベルになってしまっている。
  
  だから、当然市民は、小樽運河を守る会には魅力を感じ得ず、この『まち』
  を変えられるかもしれないという展望もみえず、市民は夢も展望も誰からも与
  えられていないで放り投げられているわけだ。  
  当然、小樽運河を守る会への参加は鈍くなり、結果全体的運動量が少なくなっ
  て、運河埋立道路建設派による色分けや平準化の論理を許し、孤立が更に孤立
  を生む悪循環に陥り、結果小樽運河を守る会の月次例会もサロン化してきてい
  る。
 
  佐々木:
  はい、つくづくそう思います。
  サロンは、小樽研究会で充分です。
  小川原:
  では、それをどうするか、だよな。 
  その脱却のため、リーダーシップを発揮することを小樽運河を守る会の高齢の
  主婦層に求めても可愛そうだし、商大の先生や高校の先生に求めても酷だろう。
  逆に、小樽運河を守る会を乗っ取りにきた、と言われるのが関の山だ。 
  小樽運河への思いの強さで、それで自動的にリーダーになれるという段階は、
  もうとっくに終わった。 

  要は、路線を提起できる能力の問題であり、新たな路線を企画立案できる能力
  が求められている。
  それを意識している高齢会員は、峰山さん以外にいない。
  そのリーダーシップ性のもとでの、市民的にアピール出来る、明るくさわやか
  で楽しい運動表現が必要だ。

  が、「楽しい運動表現」場面は峰山さんは似合わない、というか求めても酷だ
  し、無理だろう。
  だが、それがないと市内の新しい層、道路促進派が圧力をかけ、干したくても
  それが出来ない層、つまり世間のしがらみなどから自由な層=若い層=若者を
  引きつけ参加を促し、獲得することは出来ない。
  残念だが、どう考えても今の小樽運河を守る会運動では、無理がある。  

  それに、越崎宗一会長・藤森茂男事務局長の不在は、色分けへの「防波堤」が
  無くなったことを意味するわけだ。   
  藤森茂男事務局長は、退任理由を口にせず辞任した。  
  あんな情熱的な人が辞するのは、ただでも不景気な時代で札幌の大手宣伝広告
  会社が地域の小さな仕事さえ取りに来る時代で、経営自身が厳しいところにき
  て、地場の宣伝広告会社経営への政治的圧力がかかった、としか考えられない。  
  それを許してしまう、小樽運河を守る会運動の主体的、政治的弱さと脆さがも
  たらしたもの、とも言えないか。 

  小樽運河を守る会は全然主体的じゃない。
  わが小樽運河を守る会の創始者の事務局長を、埋立派の政治的圧力から守れな
  かった、辞任をさせてしまった、ということに忸怩たる思いを持つ人がいない
  運動体に、だれが安心して参加できるのか、と聞きたいくらいさ。
 
  例えば、興次郎さんの店は圧倒的不特定多数のそれも若い客層のお客様の支持
  と贔屓で繁盛している。 だから、例え地元経済界が圧力かけたくても、興次
  郎さんの客層まで掌握できるわけない。  
  皆、『まち』に積極的に絡み意見をもの申すなら、経営的圧力を受けない体質
  に転換しなきゃならんのだよ。
  とりわけ、保存派はだ。
  俺の蕎麦屋もそうだ。  
  出前や宴会など市内の会社などの利用にウェートを置いた経営体質だと、経営
  にかけられる圧力に当然弱い。 だから、そこに依拠しない不特定多数のお客
  様の「店売上」が主力になる蕎麦屋に転換したい、と俺も頑張っている。  

  膨大な消費者と遊び人が層としている札幌からお客さんを来店させる、魅力
  を持つ小樽らしい蕎麦屋だ。 
  そうすれば、宴会を干されたとしても、出前を干されたとしても、経営的に強
  い蕎麦屋になれるし、圧力受けてもそれを振り払える力を持つ。
  小樽運河を守る会の中での会議は、とても会員の商売にも目を配り配慮した目
  的意識的な運動になっていない。
  主婦層や芸術家や教員の労働組合の会員は、そんなことにそもそも関係ないわ
  けだ。 
  それでいて、「政治的圧力」を受けたなどと被害者面をし、他人事のように言
  う。 
  政治的圧力なんてそんな露骨な手段にでるのは、藤森茂男さんみたいリーダー
  にだけだ。
 
  佐々木:
  本当に悔しいです。
  そういう見方をしてこなかった自分にも悔しい。
 
  小川原:
  俺も同じさ、なんで藤森さんだけがあんな目にあう。
  それでいて、自分たちにはそんな政治的圧力などかからないと踏んで、安全
  圏から、まるで被害者面を装う、いやだな、そういうの。
  人のことはいい、例えば、籔半を例にとろう。
  比較的大きな会社などの宴会幹事さんが会社の宴会先を決めるとき、上司が了
  解しない店など選ばない。 
  それまでは蕎麦屋で宴会は珍しいと選んでいたが、どうやら息子は保存派のよ
  うだ、わが社の社長は道路促進派だから保存派の店での宴会などと知ったら、
  誰がこの店を選んだのかと気分悪くする、まずいわな。
  で、保存派でない店で宴会をとなる。
  いわゆる、自主規制だ
  それが、市役所や道路促進期成会の会社なら、当然そうなる。
  それをただ「政治的圧力」と一把一からげでいうのが、小樽運河を守る会のオ
  バさんたちや先生たちだ。
  が、そんな単純な話じゃないだろう。
  出る杭は打つっていうやつは、道路促進派の幹部がやるだけじゃない、一般
  市民が自主規制という名の村八分をやる、だからやっかいなんだ
 
  運動の指導的立場の人はそういうレベルまで配慮する、そんな内実のある運動
  体に小樽運河を守る会はなっていないし、今のような茶話会体質になると転換
  は難しい。
  さらに、俺等の祖母の年代だ、俺等が言っても孫みたいものから言われて気分
  をわるくするだけで、反発しか生まない。 
  わずか4年くらいで、そこまで覚悟する運動体や指導部をつくるのはそう簡単
  じゃない、ってことだ。 
   
  ということで、色々な住民運動を過去みてきたが、一度少数派に転落した運動
  が再度立ち上がり盛り返すにはに、膨大なエネルギーと更に「今までにない新
  たな路線」が必要だ。  
  それを、小樽運河を守る会が打ち出せるのか、それを打ち出そうとする意欲が
  わが小樽運河を守る会にあるのか、だ。

  が、俺も数度小樽運河を守る会幹事会に出て、会議終了後も二次会にお付き合
  いしたが、正直「オバさんたちの茶話会」のレベルでしかない。 
  俺が出た会議では、なんと会議後の喫茶店に誘われて、まあ誘われるから失礼
  ないようにといくと、小樽運河を守る会のオバさんから会議に出ていた女性の
  隣に座らされ、よくよく話を聞くと「これって、お見合いじゃないか」って
  始末で。
  それが、小樽運河を守る会のオバサン達の「組織化」なんだから。
  そこに、小樽運河保存運動の方針や路線や理念など全くないんだ。 
 
  嫌いで言うんじゃない、冷静に客観的に見てそんなレベルだ。  
  今の月次例会に出てくる、わずか一四〜一五人の小樽運河を守る会会員を説得
  し、彼らが新しい路線を自ら主体的に打ち出していくように、俺たちの力を注
  ぎ込むのかな?
  そのようなやり甲斐のある団体なのだろうか?
  俺たちが思う方向に持っていけるか? 
  そこへエネルギーを集中するに値する組織なのか?

  越崎さん、藤森さん、豊富さんなどがその指導部だった頃なら、仕掛け甲斐が
  ある。
  が、それに代わる指導部は不在だし、山口さんや北大グループでは、皆若すぎ
  る。
  そもそも今の小樽運河を守る会の主立った会員が、我々の提案を会議で賛成し
  てくれたとしても、自らその路線でフットワーク良く市民の中に自ら入ってい
  く、その実践をやれるだろうか、疑問だな。

  佐々木:
  うぅぅんん、全く、無理です。
  小川原:
  ここからが本題だ。
  一つ目。  
  どうせやるなら、少数派に転落しながらも頑張ってきたが「孤立した小樽運河
  を守る会」を「下支え」しながら、別個に市内の若者同士が遠慮なく論議しな
  がら市民を巻き込んで進める運動体づくりが、とわれているんじゃないのか。

  市民にとって賞味期限が切れた運動体ではない、新しく新鮮な運動体をつく
  る。 
  村社会の色分けなどやろうにも出来ない、新しい広範な市民各層を巻き込んだ
  運動だ。
  村八分にし、町で干されない階層は、学生と若者と老齢の人々だ。
  会社を通したり、銀行を通したりしての政治的圧力とは無縁の人々だ。
  まず、それらの人々を新たな運動体によって、新たな第2期の小樽運河保存運
  動に獲得することから始めるんだ。 
  道路建設派が圧力をかけたくてもかけられない、とりわけ市民の若者を「新し
  い潮流・層」として小樽の街に登場させ、その圧力で行政や道路促進派と真正
  面から市民の前で保存か道路かで対峙する運動
が、求められている。 

  二つ目。  
  「今までにない新しい路線と運動体」は、今の小樽の斜陽のどん底から這い上
  がり再浮上するにはどうしたらいいのかという市民的視点にたって、明るく爽
  やかに表現するのでなければ、裾野の広い市民的支持は得られない。 
  これまでの小樽運河を守る会運動は、
  「沈滞しきった小樽のまちをどう再浮上させうるのか」 という問題は、
  治的すぎる

  と避けて語らずだった。
  ただ運河埋立派に潰されないように「先人達の遺産・小樽運河を残そう」 と言
  ってきただけだ。
  今の段階では、全く逆だと思う。
  沈滞しきった小樽の町にどう賑わいを取り戻し、再浮上させるのかという問題
  を真っ正面から語り、行政や経済界はそれをどうしようとしてきたのかこそを
  市民に問う。
 
  そして、考えてみればいい。  
  一方に、「沈滞する小樽の現状」があり、他方、北大グループの「保存・再生
  ・再活用」プランがある。  
  が、その現状とプランの間には、とんでもない距離が横たわっている。
  だから、市民には「絵に描いた餅」としか映らず、あまりにも非現実的にしか
  みえず、それで行政や経済界の「運河埋立・6車線道路建設」が、現実的な路
  線
として映ってしまう。
  結果、小樽運河保存運動は市民意識に食い込めない。
 
  つまり、一番大事な「沈滞する小樽の現状」から「北大院生の小樽運河再開発
  プラン」に向かう「途中の道筋と手立て」
だ。
  それを誰も言わないできた、わけだ。
  最小限の目標と最大限の目標はあっても、それを結びつける中間の目標は提出
  されてこなかったんだ。 
  そうなれば、市民は「ただの、なんでも」反対運動としか見ないし、見えない。
  市民にとっては、夢だけいうだけの小樽運河を守る会と映る。

  一方、保存をいう既成政党は、実現にむけた道筋などどうでもいい問題で、
  「最後まで埋立に反対したのは我々だ
  と言って、結果党員拡大出来ればいいだけなのだから。 
 
  ということは、「かけがえのない先人達の遺産を守ろう」という、激しい対立
  を予め避けた、あまりにも情緒すぎる運動ではもう何も生み出さず、状況に切
  り込めないところまで来てしまったということを、認めなければならないんだ。  
  すでに、もうこれほどまでに少数派運動に転落してしまったのだから。
  誰もそれを言わないなんておかしいじゃないか。  
  俺からすると、小樽運河を守る会の運動自身が、すでに少数派状態に麻痺し慣
  れてしまっている、運動内保守派になっている。 
  だから、運河埋立道路促進派を、厳密に冷静に厳しく批判するのではなく、た
  だ感情的に罵るだけのレベルになっている。 
  「ただ反対するための反対運動」というジレンマに落ち込んでいる。 

  三つ目だ。 
  これまでの、小樽運河を守る会運動の限界をどう突破するかが問われている。  
  斜陽のどん底と自虐的になり、町に興味を失い、無感動になっている市民に、
  どう、なにを訴えるのか?  
  残念だが、どう逆立ちしたって物流港湾都市での再興ではない。  
  港湾業界・倉庫業界・運輸業界こそが、小樽を捨て石狩湾新港に雪崩を打って
  投資しているのだから。  
  だから、小樽の明日のための新たな切り口を提案しなければならない。  
  これだけの歴史的環境、歴史的建造物のあるノスタルジックな『まち』だ。  
  戦後の高成長に取り残されての結果だが、よくまあ、残ってくれたものだ。
  都会のワーカーホリックになった人々に癒しを与え、蘇生させる、「新しい
  観光
」という切り口で、街を元気にしていくという街の展望があっていい。 
  国鉄のディスカバージャパンキャンペーンが、文字通りそういう
   「新しい観光の到来
  を叫んでくれている。

  要は、今までの主張と、逆転して語ることだ。
 
  逆に、この町をどうしたら元気づけることができるのか、として語ることが先で
  なきゃならない。
  そこで初めて、町を元気づけ賑わいを取り戻す手法は何か、の論議に持ち込む。
  その手法の最もと小樽らしい表現こそが、もはや「物流港湾都市」はないことは
  明確で、
新しい観光の到来」に間に合った、観光開発ではないのか、と。
  そこで、初めて、日本に誇る規模の観光資源が未だある、それが小樽運河であり
  周辺石造倉庫倉庫群や歴史的建造物がそうであり、それの保存・再生・再活用こ
  そがある
  、
と言える。
  それを、染み入るように市民に伝えていく。   
  そのような街のこれからの有り様を、問題提起する運動でなければ、広範な市民
  の支持を得られないっていうことだ。

  そういう考え方の小樽運河を守る会会員っているのだろうか?    
  大運河展やポスター展をリードしているのは、北大グループだ。
  彼らの小樽運河再開発プランは確かに素晴らしい。
  地道な小樽運河調査に基づいていて最高だ。
  が、彼らは都市計画の面からしか提案しない。  
  彼らは真面目だから、「専門外の経済」については語ろうとしない、というか、
  彼らは真面目な研究者だ。
  だから専門外の経済を無責任に語れない。
  最もだ。 
  だが、俺たち市民は、例え稚拙でも「経済」を語り、市民が夢として持つべき
   「この町を元気にする手立て
  を語れる。  
  どういう『まち』にしたいのか、という夢を語れる。  

  では、その夢を自分たちの側に引き寄せるにはどうするのか?  
  夢を引き寄せるために、誰が小樽復興の経済施策としての小樽運河の保存再生
  を言うのか?  
  それを言うのが、小樽に住み未来も住み続ける俺たちじゃないのか。  
  色々な審議会やまともに勉強もしていない市議会議員に任せるんじゃなく、市
  民自らが喧々諤々論議し、それに議員を巻きこみ決める。  
  自己決定権、自決権ってぇ奴だよ。  
  でなきゃ、市民自治なんて嘘の看板でしかない。 
 
  自分がやらなきゃ誰がやる
  というやつだ。
 
 ・・・延々、一時間はしゃべったか。

 幸い、客は我々だけだった。
 居酒屋のマスターがカウンターの向こうで、椅子に座り私の話に耳を傾けてくれていた。
 佐々木一夫・興次郎の目算は狂った
  「興次郎さんが参加するなら、俺も小樽運河を守る会に参加するか」
という私の返事を、彼は待っていたに違いない。

 が、小樽運河を守る会への入会を積極的に賛成しないどころか、もっと大きな風呂敷を広げて「別の若い世代の新し運動体をつくるべき」を言う私に、彼は語る言葉はなく、意気消沈して帰っていった。
 いきなりは無理だったか、と私も反省し元気がなくなっていた。


 私の話に納得しない佐々木一夫(興次郎)は、その後、何度か小樽運河を守る会例会に出席している、という情報が入ってきた。
 私は、佐々木一夫(興次郎)に話すのは早すぎたのか、とため息をついていた。
 でも、言った私の思いは、本音だった。
 それを理解してくれる若者達がいないのであれば、この小樽という町は終わる、と思っていた。

 ・・・数週間後、結果は逆にでた。
 頭をかきかき、佐々木一夫が店にきた。 
  佐々木:
  
  ・・・そのとおりでした。   
  何人かは、同世代のいい若者はいるが、あの空気では『今までにない新しい路
  線』を模索し、論議する雰囲気じゃありませんでした。
  運河保存の署名活動を何日にやる、ってしか話さない。
  小樽運河保存派の『証し』と『操』をただ懸命にやって守っているだけです。

  やはり、何か別の運動体づくりをやったほうがいい。」
 
と、頭をかいて語る氏がいた。  

 佐々木一夫(興次郎)が、私の考えに賛同してくれた。
 私には、一人佐々木の賛成ではなかった。
 佐々木一夫(興次郎)が持つ、若者のネットワークがあった。
 

04_03. 辱的な潮祭参加拒絶事件、それが小樽運河保存運動の若者の登場を生んだ。

 そして、佐々木一夫(興次郎)はその「何か別の新たな運動体づくり」のために、動き始める。
 ターゲットは、小樽の夏の一大イベントの潮まつりだった。
 一方、山口保も小樽に漂着した頃、小樽運河を守る会事務局長の藤森茂男氏が経営する藤森看板店に、ヨーロッパでのペンキ塗装経験を活かしてアルバイトに行っていた。
 北大三人組と知り合い、事務局長・藤森茂男氏として知り合ったのが先か、アルバイト先社長として知り合いか、山口は記憶が曖昧だ。
 兎に角、藤森茂男氏と相通じ合うのに時間はかからなかった。

 その関係から、山口が「運河を会場にした若者のイベント」の相談をしていた。
 佐々木一夫が「何か別の新たな運動体づくり」と動き始めた頃と同時並行だった。 
 潮祭り自身が創設期のエネルギッシュな運営からマンネリ化を迎えていた。
 潮祭りはすでに1970年でピークを迎え、以降実行委は統制主義化、権威主義化し、閉鎖的な空気で澱んできていた。 
 小樽運河を守る会事務局長・藤森茂男氏は潮祭りの創設者でもあり、潮祭りの再活性化を希求しマンネリ化から脱却する梃子を若者の参加に求めていた。
 その藤森茂男氏の潮祭り再活性化案は、潮祭りの「若者バージョン」構想だった。
 が、運河を会場とするなら下手すると自分と同じような政治的圧力がかかる危険性があった。
 その藤森茂男氏の躊躇いを打ち破ったのが、佐々木だった。
 佐々木は、その小樽潮祭りが、小樽商工会議所や青年会議所傘下の会社や市内団体や町内会などの参加優先で、それに包摂されない様々な階層の市民の自由参加が限られ、結果若者の参加が少ない、ということに注目していた。
 叫児楼の店に集まる若者に声掛けし、潮祭りの華・潮練り込み(市内企業、団体、町内会などが各挺団毎に潮音頭で踊り練り歩く)に「若者挺団をつくり、潮祭りに参加しよう」とする。
 それを第一ステップにして、そこから「何か別の新たな運動体づくり」に向かう、とした。
 一方、山口と藤森茂男構想であった、潮祭り若者バージョンとしての港・運河会場でのイベント企画は思ったようには進展せず、佐々木が暖めていた潮ねりこみへの挺団参加企画に収斂していくことになる。

 佐々木一夫が潮祭りを知れば知るほど、当時の潮まつり実行委員会のあまりの統制主義と権威主義に驚き呆れ果てる。
 実は、前年、潮祭りの「練り込み」に、初めて「闇夜のカラス」という自主的な若者グループが挺団を編成し、真っ黒な浴衣で初参加し、その新鮮さに沿道からやんやの喝采を受けた。
 マンネリ化してきていた潮祭りが、新たなエネルギーを充填し一層市民参加を促進する予兆だった。
 にも関わらず、潮祭り実行委員会はそれを受け止める体質にはほど遠く硬直化し、その「闇夜のカラス」が示す可能性に気がつかなかった。
 「闇夜のカラス」グループが、前年に続き翌年の参加を表明しに潮祭り実行委にいった。 
 うさんくさい目で迎えられ、逆に、潮祭り公認浴衣の着用の強制新たな踊りは禁止で、実行委員会認可の潮音頭だけでまちを練り歩くスタイルの厳守を言い渡された。

 その話が市内の若者の間に広がった。
 どうも「自由参加は歓迎されてないようだ」という話が、若者の独自のネットワークで流される。
 ファッションセンスの豊かな若者の意識を汲み取ろうする姿勢の欠如性があった。
 それは、祭り本来のもつ自由さやアナーキーさに対する無理解でもあった。
 権威主義と統制主義だけだけで、「市民の祭り」を汲々としながら標榜するが故に年々市民との乖離が進み参加者が減少していく祭りに変質していた。
 1964年東京オリンピックの閉会式が見せた、各国の選手が、選手「団」としての纏まりを解き個々人として入り乱れあふれ出て入場した「自由」さこそが、祭り本来のエネルギーなのに。

 ここで小樽運河を守る会の山口保に相談する佐々木一夫の企画と山口保・藤森茂男氏の企画が合体する。
 独自挺団を編成し、ロングボデディのトラックにPA(音響設備器具)を積み込み、バンドも乗せ、潮まつり用に自作したロックをひっさげ、登場するたくらみがいよいよ実行に移されていった。
 今の「ヨサコイそーらん祭り」の挺団付きPA車両の、ハシリだった。
 そういう新しいエネルギーと若者の登場を待っていた藤森茂男氏の賛同を得た佐々木は、一気にその声掛けに駆け回る。
 そして、そのPAトラックに乗り込んだバンドのグループが編制された。
 第3回ポートフェスティバル実行委員長を担うことになる、岡部唯彦らが編成した「ビート・オン・ザ・ブーン」チームであり、引っさげた曲は「うしおサンバ」だった。
 その面々が、のちに、ポートフェスティバル実行委の各リーダーになる若者達だった。

 いよいよ、待ちに待った潮祭りの「練り込み」当日が来た。


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緑山手通り・旧幌内鉄道・手宮線踏切前のビートオンザブーントラック:写真・志佐公道

 潮祭り公認浴衣必着用・実行委員会認可の潮音頭だけでまちを練り歩くというスタイル固執路線、統制主義と権威主義の実行委員会は、幸い、若者バンド「ビート・オン・ザ・ブーン」グループを歯牙にもかけなく、「練り込み」の最後尾に付くことで参加を果たす。
 新しいスタイルで「潮サンバ」を引っさげた「ビート・オン・ザ・ブーン」という若者の登場は、沿道の観客の注目を浴びやんやの拍手を受け、「うしおサンバ」を歌い奏で、ノリにのって進んでいった。
 ・・・そして、事件はそのあと、勃発した。

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花銀通り,左文字書店前のビートオンザブーントラック:写真・志佐公道

 緑山の手通り、旧幌内鉄道・手宮線踏切前から出発した「ビート・オン・ザ・ブーン」のトラック挺団が数十メートル進んだだけで、最後尾挺団から「距離を置く」よう実行委から指示がくる。
 確かに、「ビート・オン・ザ・ブーン」の前を進む挺団は、その大音響に潮音頭のリズムで踊り練り込むのは調子を狂わされただろう。
 「ビート・オン・ザ・ブーン」トラックはスピードを落とし、ゆっくり進む。
 それが逆に沿道の市民からのやんやの喝采を浴び、逆に張り切らざるを得なくなる。
 だが、次第に最後尾挺団との距離は開かされていった。

 100メートル以上も前の挺団と距離ができていく。
 それでも、解散地の小樽公園花園グランドから踊り終わって帰ってくる、すれ違う市民からは、やんやの拍手と差し入れが運転席に届けられて、「ビート・オン・ザ・ブーン」トラック挺団は意気揚々進んでいった。

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 あとは、小樽公園花園グランドに設営されたステージで、最後の演奏をするのだ、と。
 数千人の全挺団の最後尾につく「ビート・オン・ザ・ブーン」のトラックが、解散地点の小樽花園グラウンドに到着するやいなや、入口でトラックの入場を認めない潮祭り実行委幹部の人垣があった。
 トラックの運転席に乗車していた藤森茂男氏は、そのまま潮祭り実行委の阻止線のような人垣をゆっくり押し分けて入るよう指示してくれた。 

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小樽公園グランドの潮祭り会場に入ったビートオンザブーントラック・写真:志佐公道

 が、その瞬間、トラックのPA(音響装置)の電源を切れという指示が実行委からきた。
 ・・・会場の全電源が一斉に消えていった。
 ひろい小樽公園花園グラウンドに設営されたステージに真っ暗で取り残されていく。 
 「ビート・オン・ザ・ブーン」の全員が何が起こったのか、と皆トラックの上で呆然とした。
 そして、電源は回復することは・・・永遠に無かった。
 そして、「真っ暗闇の中での屈辱の撤退」をせざるを得なかった。
 唯一救われたのは、当時の志村市長が「ビート・オン・ザ・ブーン」の若者達数人に、ステージ横で
  「君たちみたい若者の潮祭り参加こそが大事だ。」
と慰めてくれたことだけだった。 

 私はそんな事件を知らず、お客様でてんやわんやの蕎麦屋の板場で奮闘中だった。
 実は、私は潮祭りの「練り込み」へのPAトラックでの参加に、あまり意義をみいだせないでいた。
 既存の街の実力者たちが仕切る実行委に若者の声や振る舞いが反映されるなどそもそも無理で、排除されるのがオチと思っていた。
 そもそも、守る会で運河総合調査を巡って藤森茂男氏の後任に就いた事務局長代行が市役所とボス交渉し、市側提案を小樽運河を守る会会議にかけず了承した責任を追及されされ、守る会から追われるように去らざるを得なかった、その当人たちが、潮祭り実行委員会でハバをきかせていた。
 だから、そもそも山口保など小樽運河を守る会に繋がる若者バンドの練り込み参加を許すわけがないと踏んでいた。
 実に大人げなく、江戸の敵を長崎でをやられてしまうと唇を噛んだものだった。
 参加を拒否され、ふてり腐って帰ってくるだろう、と。
 その結果、小樽の若者達に「うしお祭りに対する怒り」は組織出来ても、それが小樽運河保存運動の「何か別の新たな運動体」に繋がり発展するなど、とても想定することはできなかった

 が、この真っ暗闇の中で勝手に解散せよという扱い、すなわちこの
   潮祭り「真っ暗闇の中での屈辱の撤退」事件
   潮祭り全電源焼失事件
が、道路建設促進派にとってとんでもない結果を産んでしまうのを、当時は私は勿論、誰も気がつかなかった。
 私のように、
 「小樽ではないどこか、ここではない何処か」
ではなく、
 「この小樽でこそ、面白おかしく生き生きと生きて行きたい
と蠢く若者達の間に充満していたガスに、この事件が点火してしまったのだった。

 「ビート・オン・ザ・ブーン」の佐々木一夫・渡辺真一郎・岡部唯彦などが、堺町のライブハウス「メリーズ・フィッシュ・マーケット」に集合し、怒りの反省会となる。
 残りのスタッフも三々五々集まる。
 当然山口保も参加する。 
 そして、
 「排除の論理がまかり通るうしお祭りであるなら、
  自分たちの手で、市民一人一人が自由に参加できる祭を生みだそう
という、一大プロジェクトが堺町のライブハウスで誕生する。

 潮祭りは、数年前港の埠頭会場で来場者が岸壁から海面に落下する事故が発生し、以降丘の上の小樽花園公園グラウンドをメイン会場としていた。 
 若者達は排除されたことへの反抗気分も手伝い、
 「港町・小樽の最大の夏祭りの会場こそ、港でやるべきだ
と主張し、当然自分たちが開催するイベント会場は
  「港、小樽運河周辺
と、開催会場を決めることになる。 

 道路か保存かで揺れる場である小樽運河を開催場所にすることに、若者達に躊躇いがなかったわけではないが、小樽で生まれ育った若者達にとっては、釣りをし遊びまわった空間でもあったし、港や岸壁や小樽運河は
 「小樽人が小樽人たるパスポート
と言える空間であることを共有していた。
 まだ、アイデンティティなどという舌を噛みそうな言葉は、登場していない時代だった。 
 しかし、山口保は「してやったり」の気持ちだっただろう。
 小樽運河保存運動的には、「会場は、ナントか小樽運河で」と皆を説得しようと思案していたわけだったが、その思案などは意味がなかった。
 若者達の方が、山口などの運動経験者を乗り越えていた
 市民運動の不均等・複合的発展とは、このように机上の思案など吹き飛ばし、ドラスティックかつダイナミズムで動く。
 開催場所は、「小樽運河周辺」と、スムースに決まっていった。 

 皆の最初の思いは、自分たちで運河周辺で野外ライブコンサートをやることだった。
 が、論議が進むと様々な企画が提案されていく。
 ライブをやるなら、飲み物販売も必要でしょや、
 飲み物販売するなら、ビアホールもやりたいべや、
 ライブだけのイベントなら、参加は若者に限定されてしまうしょや、
 だったら、祭りの香具師がやるような「出店(でみせ)」を素人がやったら面白いんじゃないかい、
 てぇことは、小樽運河沿いの道路・市道港線を借りて、そこでの素人出店がいい、
 道路借りるなら、だったら、艀(はしけ)も借りて、会場にしたい、
 だったら、石造倉庫も借りて、会場として使いたい
 ・・・溢れるようにやりたい企画が次々に、会議にかけられていった。
 企画が次の企画を生んでいった。
 そこには、自分たちの『まち』小樽で、自分たちの手で「何かが始まる」という予兆に震える若者達がいた
 が、行動力や情熱は溢れるほど漲り、若者独特のネットワークに裏打ちされて、「自分たちの手で、自由に作れる祭」に打ち震えるほどの未来への予感を抱いたが、若者達自身はその実現のために、
 「街に向かって発信する言葉、語る言葉
を持ち合わせていないことに、気がつく。
 とりわけ、若者の間だけに通用する言葉だけでなく、
 「街の大人たちと共有できる言葉
を持つ必要があった。
 ここが大事だった。
 社会性を追求し、大人に通用する若者の言葉を持とうとした。

 この若者達の思いと悩みをみてとった山口保は、ここぞとばかり、小樽運河を守る会企画部長になった北大院生石塚雅明と柳田良造らをこのグループに仲間入りさせる。
 この北大大学院生グループは、精緻な小樽運河地域の再開発プランや主要道々小樽臨港線ルートの代替案の作成や、小樽運河総合調査中間報告書の作成など、充分街の大人達に通用する提案ができる構想力と言葉を持っていた。
 小樽運河保存運動を大学院の研究テーマにするのだから、当然と小樽に部屋を借り住んでもいた。
 が、いかんせんまだよそ者で、小樽運河を守る会では意見や提案をできても、市民の間に持ち込み、町ぐるみの論議を起こす活動力と広大な裾野の市民を相手にする展開力を持ち合わせていなかった。
 そしてこの北大グループは、したたかだった。
 少数派運動に転落した小樽運河を守る会運動の抜本的転換を、全国の事例の中に求め、探し、発見していた。
 長崎市の長崎川の流域に数多く残る石橋(眼鏡橋)の保存再生のために市民を巻きこむイベント「中島川祭り」が着実に市民の賛同を得て、祭り期間中賑わいを醸しだし、それが眼鏡橋保存・再生に結び着いて行く事例がそうだった
 もう一つは、大阪中之島の中之島祭りだった。
 中之島にある様々な歴史的建造物の保存再生への支持を求め、市民的裾野を拡大するために立ち上げた「中之島祭り」の成功事例だった。
 この二つの事例から、小樽運河とその周辺石造倉庫群や歴史的建造物の素晴らしい空間をつかったイベント開催で小樽運河保存運動の裾野を拡大していこう、と戦略を練っていた。

 だが、彼らはそのような「まちづくりイベント」開催を追求しても、それを当時の孤立した小樽運河を守る会に提案するか否かでは、おそらく逡巡していたのだろう。
 要は、それを誰がやるのか、だった。
 小樽運河を守る会に提案し、そもそも理解がえられるのかだった。
  ・小樽運河を守る会主催では、なぜだめなのか?
  ・何故、もっと市民各層による主催でなければいけないのか、 
  ・結局、その『まちづくり』イベントに北大Gは鞍替えし、守る会から去るつもりか?
という、少数派に転落し、若者のようなフットワークは勿論なく、萎縮した防御意識からくる消耗な反応だけが返ってくるのを予想し、ためらっていたに違いない。
 そこに山口を通して若者グループの方から、「小樽運河周辺での若者の手作りイベント」の話が持ち込まれたのだから、守る会からの予想される反応を気にかける必要はなくなった。 
 「相談されたからアドバイスしてあげた」と言える、と。
 これが市民運動の面妖さだった。
 運動主体の身内への配慮に次ぐ配慮を求められるのが市民運動の切なさだった。
 
 だが、ここに、
 一方は行動力や情熱は溢れるほど漲り活動力やフットワークはあるが街への発信力を持ち合わせていない潮サンバグループから発展した地元の若者群、
 他方、街への発信力と戦略展望を提案できてもそれを実現する市民的裾野と手立てを持てないでいた小樽運河保存運動の若者グループ、
 この両者が「糾える縄のごとく」一つにに合流することになる。
 
 文字通り、「糾える縄」のような出会いだった。
 たった二〇数人で行政や経済界など道路促進派と対峙し、その間に市民は介在しておらず、少数派運動に転落していた小樽運河保存運動にとって、遅れてきた若者達が合流し一気に運動の最先端を担う
  「市民運動の不均等で複合的な展開と発展」
の典型的な姿が、小樽の街で形になって表れた瞬間だった。
 学生運動でもそのような経験を目の当たりにしてきた山口と私は、それが運動のダイナミズムだ、と良く語ったものだった。

 一気に爆発的に若者のネットワークは活かされ、バンド仲間や学校仲間など若者が結集し始める。
 当時は、インターネットやツイッターなどSNS、スマホなどは皆無だったが、喫茶店が若者のたまり場だった。
 当然、バンドグループは若者相手の喫茶店や居酒屋をたまり場にしていた。 
 そしてその時代、街にライブハウスは数少なく、バンドの若者は練習を重ねても手頃な価格で借りられるライブハウスやコンサート会場を、小樽で確保することは難しかった。
 自分たちで会場・ステージづくりをすれば、日頃の練習の成果を思いっきり爆発させられるという「誘い」は、若者達には密の味、麻薬のようにたちまち広がっていく。

 確かに、その「結集の質は?」と問うと、小樽運河保存を掲げる若者の運動とまではとてもいかないものだった。
 が、山口保も北大大学院グループも、そして私も、一つの確信を持っていた。
 運動感覚と言って良かった。
 エネルギッシュな若者達の「層としての参加」は、一点に立ち止まることは出来ず、必ず「次は何か」を求めざるを得ない、という確信があった。
 ここでも、「市民運動の不均等で複合的な展開と発展」だった。

 このイベントを港と小樽運河地区で開催する以上、当然、祭り会場となる小樽運河の「道路か保存・再生・再活用か」を巡る「街の問題」に関わって行かざるをえなかった。
 石塚や柳田らの、専門用語を極力使わず、優しい言葉で語ることのできる能力が若者達の心をつかめば、量から質の転換・飛躍は難しいことではない、と踏んだわけだった。

 佐々木一夫から小樽運河で若者のイベントプロジェクトの話を聞き、私も勿論賛成した。
 うしお祭り練り込みへのうしおサンバグループの参加と、それへのうしお祭り実行委の陰湿で大人げない嫌がらせ対応が、このような展開になるとは想定外だった。
 が、それが面白くたまらなかった
 自ら主体的に動くことで、客観情勢に働きかけて突き動かし、主体的展望を引き寄せていく、という運動論だった。
 佐々木一夫・興次郎に「何か別の新しい運動体」構想を語って、一年も経っていなかった。 
 それが机上の空論ではなく、ドラスティックな展開をしていくわけだった。
 これが、市民運動のダイナミズムだった。
 そのダイナミズムを生んだのが、『まち』への思いだった。
 そして、そのイベントの若者の結集軸が、佐々木一夫だった。
 運動参加のきっかけは小樽運河保存でなくてもよかった、運動参加への人々一人一人の入射角など十人十色だ。
 保存再生再活用に向かい、積極的に前向きで小樽運河保存運動に入るのか、
 保存再生再活用には回れ右しても、しかし後ずさりながら小樽運河保存運動に入るのか。
 そのスタート時の差は、大差ない。
 「様々な意識が集まり一緒に悩み汗をかく」からこそ、1つのベクトルとなって「量から質へ」転換していく可能性を秘めている、と。

 そして、若者達が結集し始めた。
 若者といっても、既存の団体や市内企業の子息が主流の青年会議所の会員などの参加は、極めて少なかった。 
 多くは、そのような既存団体に包摂されない、名もなく肩書きもない、少し反体制気分がある若者たちだった。

 イベントの組み立て方は、いわゆる大学祭のノリでどんどん進んでいった。
 次々にイメージが出され、それにはどんな人材が必要かとなり、声掛けが進んでいく。
 バンドのステージを組むには、作業は皆がやるにしても指示をするプロの大工やとび職がどうしても必要だとなると、即そのコネを探す。
 広大なイベント会場に必要な大容量の電気配線、ビアホールなど酒販には免許をもっている会社の参加が必要、・・・となれば山口保が、手宮の町内会の幹部に相談にいく。

 次々と必要なスタッフの勧誘が、開始されていった。
 どの時代も、そして今の時代も、大人たちは決まって「今の若者は・・・」という言辞を吐く。
 要は、若者達と共有出来る言葉を持ち得ないだけだった
 しかも、一把ひとからげに見た方が自分らが楽なだけだった。
 が、どの時代の若者も、何と言われようが若者独特の感性で何かを求めていた。
 古くは三無主義だ、新人類だ、共通1次世代だ、ちょっと前はKYだ、草食系だ、そして今はゆとり世代だ、と若者を指してそう勝手にステロタイプに評するわけだった。
 だが、その彼らが大人達を尻目に、阪神淡路大震災に、東北地方雪害に、3.11東北大震災にボランティア参加していく姿を私たちは目の当たりにする。
 小樽運河保存運動の時代も同じだった。
 要は、若者が登場する、登場できる「チャンネル」がそれまでないだけだった。
 この小樽運河周辺での若者達の手作りのイベントそのものが、その「チャンネルの役割」を果たしていくことになるのだった。