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小樽運河・石造倉庫扉

05.最初にイマジネーション・・・が、あった。

05_01.運河埋立「反対運動」ではなく、「対案提起型」市民運動
 
 そんなポートフェスティバル開催に怒濤のように向かう喧噪をよそに、
  「小樽運河保存運動は、どのような小樽という街の新しい都市像を求め、
   市民によって実践的かつ具体的に展開されるべきか
ということばかりを私は考えていた。
 日ごとに増えていく仲間で、ポートフェスティバルの準備は着実進む。
 それより、そのポートフェスティバルが終わったとき、
  「次はなにか
を、語れる自分になっていなければと焦り、思い込んでいた。
 
 正直なところ、まだ自店・蕎麦屋籔半の営業体制、とりわけ板場の人員体制は、私が店を空けられるほどには、整ってはいなかった。 
 新たな「質」を持った小樽運河保存運動の構築のためになどという理由で、ここで店を頻繁に空けるようでは、折角勝ち得たスタッフの信頼感を手放してしまう。

 更に、帰省する前から勤務していたスタッフが、私が目指す店づくり路線に付いていけなくなって退社した。
 佐々木一夫(興次郎)の経営するスパゲティ店・叫児楼のスタッフのように、店主と「店づくりの夢を共有できる」ようなスタッフが羨ましくてたまらなかった。
 そのスタッフづくりのため、新たに募集し採用し教育していかなければならなかった。

 まだ自由に動けない自分は、まだ名称も決まらない小樽運河での「イベント」開催準備は皆に任せ、自分は
  「新たな質をもった市民が『層として』街に登場し、
   その圧倒的支持を受けて小樽運河埋立推進の行政や経済界に対峙する、
   小樽運河保存をも包摂する
新たな対案提起型の市民運動
のイメージ戦略を求めて、全国の参考事例を探し求めた。

 学生運動で経験した地域住民運動としての反公害住民運動や反基地運動とは違う、
  「行政・経済界の施策へのアンチ・反対運動ではなく、
   自らが自分
の町で何かをつくっていく、街にむかってそれを提起をしていく
、そんな運動展開のイメージはどういうものか、と悩んでいた。
 
 今で言う、アンチからオルタナティブへというテーマだが、三〇数年前の時代にそれにぶつかっていた。
 もはや、ただアンチの、反対の立場表明だけの反対運動など真っ平御免だった。
 反対するなら対案をだせ、と市民レベルで問われるのは必然だった。
 ターゲットとする小樽運河や周辺の歴史的建造物群が占める面積は広大だった。
 小樽運河だけで幅40m、長さ2800mもあった。
 その小樽運河沿線沿いの歴史的建造物や石造倉庫公庫群も含めれば膨大な、あまりにも膨大な地区だった。
 歴史的建造物1棟の保存・再生のレベルではなかった。
 これらを、「先人達の残した貴重な遺産を残せ」と主張するなら、その財源はどうするかが問われる。 ましてや、痛みの激しい歴史的建造物や石造倉庫公庫群を保存しようとすればその修理、復元、再生の財源はどうするのか、と市民レベルで問われる。
 その保存後のメンテナンスや維持経費の財源が問われる。
 ここに真っ正面から挑戦しないで、ただ「小樽運河埋立反対」の立場表明運動では、小樽運河埋立推進の行政や経済界どころか、それにまだ結論を持っていない市民に食い込むなど不可能だった。

 そして、第一期小樽運河保存運動がもった限界、つまり、小樽運河を守る会が小樽運河保存を希求する市民の総意を代行して市と交渉・要望・陳情する代行主義的運動ではなく、「広汎な市民が主人公として登場する運動」のイメージが求められた。

 小樽の小さな書店ではだめと札幌の書店を巡り歩き、市民運動主導型の再開発事例の書籍などを探し求めていた。 
 しかし、反公害住民運動などの書籍は多々あり、「町並み保存」関係書籍はあっても、小樽運河と周辺石造倉庫などの広大な歴史的環境の群的保存・再生・再活用の事例等の書籍はまだ出版されていない状況だった。
 勿論、大学研究者間ではその種の参考書籍や研究報告書や論文などの資料は入手できたのかもしれないが、一般市民がそれを見いだすのは困難だった。

 学生時代、福島県大内(おおち)村の野外調査などにいき、その昔ながらの家並みが住民の手で現在まで営々維持されているのを垣間みてきた。
 住民自らが守り育て維持してきた町並み景観の素晴らしさが、そこにあった。
 神社仏閣などの文化財としての保護から「伝統的建造物『群』保存地区」という、建造物の単体保存から「群」としての保存に文部省が法改正をした、という話は北の1地方都市の小樽にも伝わってはきていた。 
 が、それが今後小樽運河のような巨大な規模にどのように適用されていくのかまでは見えなかった。  
 犬山市の明治村や札幌の北海道開拓の村のように、歴史的建造物を解体移築保存する手法は、歴史的建造物の老朽化や解体からは免れ得て、保存再生技術の伝承がなされるという、大事な意味合いを持つと理解できた。
 が、小樽運河と周辺石造倉庫倉庫群に、移築などの手法は物理的に考えられず、例え建造物単体でも
 「移設されてしまった跡だらけの街は、どう生きて行くのか
の解答にはならない、と唸っていた。 

 雑誌などで、サンフランシスコではデルモンテの缶詰製造の煉瓦造り工場を再活用したキャナリーというショッピングモールや、ギラデリ・チョコレート工場を再活用したショッピングセンター、埠頭を再活用したピア41など歴史的建造物や近代土木構造物が再生・再活用手法で再開発されて、当時のヒッピーやフラワームーブメントの流行もあいまって、新しい観光拠点となったことを知った。

 そんな手法が、日本のこの北の1地方都市で可能なのか、と唸っていた。
 小樽運河を守る会の北大大学院グループの石塚雅明や柳田良造氏の名前だけは聞いてが、この段階ではまだ会っていなかった。
 会っていれば、私の問題意識などに即解答を与えてくれたに違いない。
 が、まだ出会えていなかった。 
 これが運動のアヤで、出会えてなかったから懸命に自分で探した

 そんな私の悩みを佐々木一夫から聞きつけたのか、北大大学院の石塚雅明・柳田良造と同じ研究室の木原漵行氏が、突然尋ねて来てくれた。
 札幌で発刊されている「北海道読書新聞」に私の思いを投稿せよ、となった。
 学生運動でアジビラはイヤと言うほど書いてきたが、市民運動でそれも歴史的建造物の再生再活用などを書くなどとはと思う反面、蕎麦屋の若い衆でも街への思いはある、ということを発信するいい機会ではあると、引き受けた。 

 が、いざ書こうとして筆は止まる。

 この小樽運河問題を、
 「保存運動」や「埋立反対運動」
という言葉でこれまで括られてきたこと自体がそもそも市民理解を得られない運動にしているのではないか、という問題意識が浮上していた。

 学生運動で様々な政治的社会的な反対運動に参加し、それを担ってきた。
 その経験からも、もはや「何でも反対運動」という、逆批判の口実を与えるような運動は、もうこりごりだった。
 とりわけ、小樽運河保存運動の場合、
  「守る」=「反対」
  「保存」=「凍結的(博物館的)保存」
という、一般的な理解が小樽運河保存への市民の理解を阻害している、と考えた。

 「なんでも反対」の戦後五五年体制下での既成政党・野党の運動スタイルに、市民意識も汚染されていた。
 ただ野党としての立場上で与党の法案や施策に反対し、それへの対案を用意出来ないで皮相な対立で敗北し、それでも「政治的には勝利した」という厚顔さ、自らの不十分性への真摯な総括もできないような運動を担うなど、意味のない運動など毛頭する気はなかった。 
 小樽運河は、埋められたら終わりだった。
 その勝利か敗北かに、1ミリの曖昧さも最初から存在しなかった。

 そうではなく、行政の施策に対して市民からも対案を企画立案提起し、それを市民の前で広汎に論議し合う、
  「対案提起型市民運動
というジャンルこそを、この小樽の町の市民全体に行き渡らせなければ、孤立や少数派運動転落という状況を再度生むしかない、と思っていた。
 そのこと抜きに、小樽運河保存運動の展望はないとする私がいた。

 勿論、それは市民運動側だけの主体的問題だけではなかった。
 そもそも「対案を市民が提起できるだけの仕組み」を、国も都道府県も自治体も用意していなかったし、保障もしてこなかった。
 いまでこそ、
  ・情報公開
  ・パブリックコメント
  ・専門家NPO
など、一定程度の情報公開の場や対案提起の支援のシステムが少しは整備されつつあるが、昭和四〇年代から五〇年代にかけての小樽運河保存運動当時のこの国や地方自治体には、皆無に等しかった。
 文字通り、情報公開制度を求める運動の端緒が起き上がっていた段階だった。

 そもそも、『まち』の大事な施策を市民が知る手立てが保証されていない時代だった。
 小樽の一般市民が、主要道々小樽臨港線計画を知ろうとすると、小樽市役所まで出かけ、一階ロビーにある硝子ケースでカバーされた同計画書の閲覧許可をカウンターで求め、係員が厳かに鍵を持参し、硝子ケースを開けて「読ませてやる」というレベルだった。
 事業計画を理解できる市民向け概要版など勿論なかった。
 新聞折り込みで全戸配布はされたが、A3サイズの市広報一枚という代物でしかなかった。
 15センチ以上もある分厚い主要道々小樽臨港線計画ファイルを、その場で読んだものだった。
 コピーは禁止で、肝心の箇所は筆記するように、という始末だった。
 膨大な図面を筆記させる、とする行政だった。
 市民サイドの対案提起を「保障する」システムが、全くなかった。
  「知らしむべからざる
だった。
 その意味で、北大大学院グループの石塚雅明や柳田良造の大運河展や小樽運河総合調査中間報告書は、主要道々小樽臨港線のルート変更の代替案などをきっちり提起し、対案提起型運動を展開しよう、という姿勢に満ちあふれていた。
 が、如何せん、多くの小樽市民層に、それは未だ知られていなかったし、届いていなかった
 孤立化し少数派に転落し、折角の「対案」が市民には届けられておらず、運動主体が自らその対案を学習もせず、ましてやそれを市民に知らしめる宣伝の運動量は極めて不足していた。 

 今のようなIT社会ではなかった。  
 情報発信は、アナログだけだった。
 だからこそ、顔と顔をつきあわせてのナマの付き合いから始まり、個人から個人へ、グループへ、団体へ、層へと拡大発展し、最終局面で街を二分するほど小樽運河保存運動の大爆発が可能だった。 

 今のように、PCを駆使しパワーポイントでのプレゼンやITツールでの情報の拡散であったら、小樽運河保存運動は逆にそこまで広がったのか、ある意味難しかったとも思われる。

 
 05_02. 最初に、イマジネーション・・・があった

 悩んでいた。
 たしかに「保存」という言葉が持つ印象は、学術的には別として、一般世間では固定化した理解の限界があった。

 その「保存」の典型である、愛知県犬山市の「明治村」やそのころ整備された札幌・野幌北海道開拓の村のように、名建築や歴史的建造物を移築して復元・再現し、それを自治体が管理運営するような理解しか、得られていないかったと言っていいだろう。
 いわゆる、
  「保存」=「博物館的保存」=「凍結的保存」
という一般的認識をどう大胆に転換させうるのか、として問題は立ちはだかっていた。

 小樽市図書館に行っても事例集などない時代だった。
 仕事をさぼり、小樽商科大学図書館にも入れてもらい探したがなかった。
 そもそも神社仏閣の保存などはあっても、明治以降の近代の産業遺産や産業遺構への注目など、まだない時代、その単語もない時代だった。
 建築雑誌などで、海外の再活用事例が紹介される記事が貴重な時代だった。

 そんなある日、出前帰りに紀伊国屋書店で立ち読みしていて、法律雑誌「ジュリスト」の別冊を見つけた。 
 「住民運動裁判資料集」
のような名前で、その大半は反公害住民運動の裁判事例集だった。

 が、そのなかで道路建設反対運動側が訴えた裁判資料に 
  「まちづくり
という文字を見つけた。
 目が点になり、釘付けになり、食い入るように読んだ。 
  「これだ」
と、直感が背骨から脳髄を貫き、正直立ち読みしていて書籍を持つ手が打ち震えた。 

 まちづくり・・・、
 なにより、平仮名のもつ新鮮さが際だっていた。
 専門家の目線で公表される「都市計画」に対して、市民サイドが下からボトムアップし対置する概念としての「 まちづくり」という言葉は、別冊の安い紙に印刷されてはいたが、光り輝く文字だった。
 
 「都市計画」という言葉には、一種独特の胡散臭さが臭っていた。
 「都市計画」という言葉より、その当時の若者にとって「まちづくり」という言葉は、市民一人一人が『まち』に対し働きかけるという主体性に富み、堅苦しさや不自然さがない言葉だった。  
 主要道々小樽臨港線建設で露わになった、「都市計画」審議会や「都市計画」常任委員会などで審議されて、市民は全く介在できないまま小樽の街を弄くりまわされ激変させられる、そんな「都市計画」という言葉自身に不信感を抱いていた。 

 学生運動でなら、そもそも戦後の日本に真の「都市計画」など一度としてあったのか、と一知半解なアジテーションしていただろう。
 都市計画という言葉は、ハード優先主義のきな臭さやあざとさが臭い立っていたが、「まちづくり」という言葉には、歴史・産業・風俗・人・生活・文化の香りが匂い立っていた。
 「小樽まちづくり市民運動」と、何度も立ち読みしながら、呟いてみたものだった。

 北海道読書新聞記事のタイトルは、決まった。 
 極めて挑発的に、敢えて、 
  「歴史的環境《保存》からの決別」 
 とし、サブタイトルは、 
  「凍結的保存ではなく、歴史的建造物の動的保存・再生・再活用を
とし、「新たなまちづくり市民運動としての対案提起型市民運動」を展開することで、初めて小樽市民は自分たち一人一人の街の将来像を引き寄せられる、と書いた。 
 学生運動用語がまだちりばめられた稚拙な文章で、今となってはとても人にはみせられない代物だった。

 だが、論議して書くことで自分の頭の中の整理ができていく男だった。

 05_03. 相手は、「巨大な、あまりにも巨大なドブ」と呼ばれる「運河」だった。
 
 旧国鉄が、国鉄始まって以来の大キャンペーン、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを実施したのが、1970年(昭和46年)だった。

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ディスカバージャパンキャンペーン1970

 1970年(昭和46年)は、日本万国博覧会(大阪万博)が開催され、当初予想をはるかに上回る6,421万人が、わずか半年で来場した。
 日本全国から万博会場へ人が押し寄せた。
 人々の多くは鉄道を利用し、新幹線はもちろん各地で臨時列車が増発され、新型車両がつくられ、冷房車も増やされた。
 この大阪万博で味をしめた、しかし巨額の赤字経営に苦悩する旧国鉄が、万博の半年間で飛躍的に進歩した鉄道輸送力の継続的利用を図り、この国の人々に芽生えた「レジャー」希求をどう繋げていくかで、万博後の国鉄利用激減を回避できるとして、企画したのがその「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンだった。
 この過去に例のない大型観光キャンペーンに、当時の国鉄は総力をあげて取り組み、プロデュースは電通が担当する。

 「DISCOVER JAPAN」と、キャッチフレーズである「美しい日本と私」のメインターゲットは若い女性で、当時創刊された二大女性誌『an・an』(マガジンハウス/70年3月創刊)と『non・no』(集英社/71年5月創刊)には、鉄道旅の紹介記事が多く掲載され、「アンノン族」が各地にあふれた。
 「若い女性」と「鉄道の旅」という一見対極にありそうなものを結びつけ、新たなスタイルとして全体的にイメージ戦略の色が濃いキャンペーンだった。

 なにより、旅の目的地の候補は「とくに挙げられて」いなかった。
 現在のJR各社の「デスティネーションキャンペーン」が、毎回はっきりと特定の地域をターゲットにしているのとは対照的で、ポスターにはヤギが引く枯れ草を積んだ荷車に若い女の子がギターを手に乗っているシーン、寺の本堂に女性が座っているシーンなどと、どこか幻想的な写真が使われ、撮影地の情報などはいっさい掲載されなかった。

 同じ70年につくられた富士ゼロックスのCMで「モーレツからビューティフルへ」というフレーズがあった。 
 商品のアピールはまったくなく、ヒッピー姿の若者が「BEAUTIFUL」と書いた紙と花を持って銀座をふらふらと歩き、BGMはひたすら「ビューティフル」を繰り返すという、ある意味こちらも幻想的な映像だった。

 60年代の「モーレツ」な高度経済成長時代から万博を経て、ひと息ついて自分を見つめ直したいという当時の風潮を表していた。 
 その彼女たちに人気だったのは、木曽路で、妻籠の観光客は五年で一〇倍近くになったという話が伝播する。
 これを境に、飛騨高山や妻篭・馬篭の「町並み観光」が一躍クローズアップされていった。

 そういう意味で、「ディスカバー・ジャパン」は、歴史的都市や、歴史的町並みを活かし歴史的建造物を活かしたまちづくりが、次第に関心を持たれていくという時代背景を受けてのキャンペーンだった。

 しかし、小樽運河保存運動は、そういう流れとは少し違っていた。
 そもそも、「小樽運河とその周辺石造倉庫群や歴史的建造物群」を保存し再活用・再利用するという、その
  「規模の大きさも含め、その持つ意味は重く巨大だった
と言える。 
 歴史的建造物とは言わないまでも貴重な建造物1棟であれば、いかに古びて老朽化していても磨けば光る。
 立派な建造物が空き家になっていても、それは目で見てわかる。
 これは色々な意味で大切だと指摘する人が出て訴えれば、市民認知や市民啓蒙は一定程度は進む。
 
 そのような単体の歴史的建築物の見直し運動や歴史的町並み観光に比して、小樽運河に着目した小樽運河保存運動がユニークだったのは、
  「まさに、それが巨大な、あまりにも巨大なドブだった
ことにあった。
 つまり、それはあまりにも
  「規模が大きすぎ、逆に対象化出来ず、気がつかないとそのまま埋もれて
   しまう空気みたいなもの
だった。
 だから、全国の都市にある運河が埋め立てられていった。
 水の都などと言われた都市の運河や堀割が埋め立てられていた。

 下水処理場がまだ小樽市にはなく、運河には5本の河川から生活排水が流れ込み、自然の下水処理場役を押しつけられ、結果ヘドロが溜まり、夏にはメタンガス臭がたち、環境を悪化させていた。
 事実、運河周辺は不法ゴミ投棄場所だった。 
 テレビや冷蔵庫はあたり前で、軽三輪自動車まで小樽運河に捨てられていた。 
 沈没した船さえ撤去されず、舳先が水面から顔をだしていた。 

 もはや時代の役割を終えて使われなく汚い、むしろこんなものは「街の恥」と言う人も少なくなかった。
 公園や駐車場にでもした方がいい、と言う市民もいた。

 更に、小樽運河保存運動を好意的にみる市民の中には、
  この落ちぶれた鄙びた小樽運河がいいという郷愁派
  汚れたヘドロ混じりの小樽運河の水面の色合いがいいという画家や写真家たち
がいて、
  その運河が埋め立てられ姿を消すの見守るだけに、生き甲斐を見いだしたいブルーズ的感覚
などなど、運河を見る人々もいたことはいた。
 そのブルース的生き方に引かれない・・・わけではなかった。
 が、こういう社会性のない生き方は自分に似合わないと、この傾向には私はあまり近づかなかった。

 ことほど左様に、小樽運河は建築物の単体保存運動とは違って、
  「住んでいてわかる、という規模
ではなかった。
 それは、固い言葉で言えば、小樽の隆盛時の物流港湾の発展の歴史やその港湾や物流産業に従事した人々の生活や文化を掘り下げる作業をしながら 自ら対象化しなければならなかった。
  「何故これが自分たちにとって大切か」という主体的捉え直し作業」
をしなければ
  「そもそも見えてこない」
ものだった。
 普段は、見えるようで見えていなかった。
 だから、最初にイマジネーションが求められる運動・・・だった。

 そもそも、日本各地の運河や堀はほぼ埋め立てられていた。
 戦後高度成長とスクラップ&ビルドで、臨海部や工業地帯にある運河は埋め立てられるか新たに掘削されて、様々に再構築され昔の面影は喪失した。
 更に、運河は物流倉庫群と一緒に港湾地区にあるわけで、市民の日常の生活とは物心両面で切り離されている結果、多くの町で「それを見つける」前に、その姿を消していった。
 激しい経済動向で運河などの港湾施設や物流倉庫は、大量消費時代の要請に応えるために近代化、大規模化をもとめられ、スクラップ&ビルドはもっとも激しく貫徹された。 
 そんな状態で、既得権益に敏感な港湾関係者も、市民に対しては「知らしむべからず」が都合が良かったわけだった。
 そういう時代的背景の中で小樽運河保存運動派は、
   深い洞察力が問われた。
   大切だということを読み取る、そのための深い直感力が問われた。
   要は、豊かなイマジネーションが必要であり、
   逆にそれが小樽運河
保存運動の大きな一つの特徴だった。
 
 実は、過去にそれを発見していた人たちは、いた。
 小樽運河保存運動が始まる前から、まだ観光が小樽で注目される以前から、毎年二〇〇万人の観光入り込みがあった。
 その中に、数多くの文化人がいた。
 文化人たちが、小樽運河を訪れていたのは、そのイマジネーションゆえであり、よそ者の目線だからこそ、その価値を深い直感力で見いだしていた。

 小樽運河というものに目を付けたこと自体が、それをそこに住み人々が注目した、ということが実に稀で、だからこそ特長的な運動だった。
 


05_04. もうひとつは、《保存》という語感=〈凍結的保存〉という一般的理解の壁、だった。


 
 小樽運河保存運動が勃興した1965年代(昭和40年代)のこの国では、「保存」とは、神社仏閣名跡を対象にする、という理解が一般的だった。

 しかし、いわゆる「町並み」に代表される、それまでの神社仏閣や名跡だけではなく、城下町・宿場町・門前町・寺内町・港町・農村・漁村などの庶民の生活と密着した伝統的建造物への保存の声が高まり、小樽運河を守る会が設立されて二年後の1975年(昭和50年)、町並み保存の全国的動きに文化庁は文化財保護法を改正し、「伝統的建造物群保存地区」選定制度を設け、やっと歴史的建造物の「単体保存から群的保存」として全国に働きかけるようになった。

 だが、あたらしい歴史的建造物『群』保存という概念と法制度は、一般的にそう早く認知され理解されてはいかない。まだまだ、いわゆる、愛知県犬山市の(財)明治村や北海道・開拓の村のような、貴重な歴史的建造物を自治体や財団が所有するその広大な敷地に移築・復元し、歴史的・教育的・文化的に保存するという理解が、一般的だった。  ほぼ、国や都道府県や自治体そして財団がそれを運営管理していく。
 いわゆる「博物館的」保存であったし、後に「動的保存」に対してその手法はやっと「凍結的保存」と呼ばれつようになった。
 が、幸か不幸か、小樽運河保存運動はこの国の歴史的建造物保存の転換期の狭間で誕生した。

 そのような時代背景のもとで、それでも小樽運河と周辺石造倉庫群のような広大な規模の保存手法となると、それまでの凍結的保存手法への理解では完全に間に合わず、ましてや一般市民レベルでは一層理解するには時間を要することだった。
 だから、小樽運河を守る会の一部にあった「ただ残ればいい」とする主張は、極めて無責任ではあるれど、一般的な理解に基づく主張と小樽市民には受け止められざるを得なかった。
 少数派運動に転落し、唯一の活動が署名活動となり、
  「只残ればいいと言うが、残すにもメンテなどの維持費や人件費がかかるわけ
   でしょう。
   それは、この斜陽で財政が困窮している小樽市が、営々と継続してやれるこ
   とは可能なのですか?」
という、署名を求められた市民の真摯な質問に、
  「保存した後、どう維持していくかを思案するのは行政の役割です。
   市民がそこまで考えるのは無理で、そこまで一市民の私たちに求められても
   困ります」
と、スマして応えている小樽運河を守る会の会員がいたものだった。

 あまりの返答に、私は唖然となって絶句し、その市民と小樽運河を守る会の当該会員の間に割って入り、自分がオルタナティブに、対案提起的にその市民に応えたものだった。
 極めて、稚拙で無責任きわまりない返答を平然とする小樽運河を守る会の「一傾向」の水準だった。

 第一期小樽運河保存運動の限界は、このようなレベルの会員を産んでしまっていたことに、あきらからだった
 全く北大OBグループの提案を読み合わせし、学習会をしていなかった。
 いや、当時の小樽運河を守る会をはじめとする小樽運河保存運動の主体のレベルは、市民向けに配布された藤森茂男事務局の精魂こめた、
  「小樽運河保存運動の手引き」
という小冊子さえ、読み込み、自分自身の理解のために翻訳し自らの言葉とするレベルに到達していないレベルだった。 
 ましてや、小樽運河総合調査報告書・中間報告書を読み合わせし、守る会内部で学習会や討論を組織していなかった。
 そして真剣に興味を持ち読破し、それを自分の言葉で語るようになるのは、一定の訓練を要した。
 それには、守る会内部の学習会や討論が絶対必要だった。
 が、結局それは個人的作業とされて組織的に取り組まれてはいなかった。

 小樽運河と道路建設に関しては、都市計画や土木工学に取り組まねばならなかった。 
 専門用語のふんだんに溢れるページを開くと我々でもひるむほどだった。
 それから逃げると、自らの言葉で運河を語れない自分がいた。

 更に、遅れた意識がそれへの理解を妨げた。
 遅れた意識からすれば、都市計画も『まちづくり』も同じだった
 そんな膨大な小樽運河再開発や街の経済への言及など、考えもしなかった。
 自分たちはアマチュアであり、それは本来専門家に任せるべきで、市民は身の丈でできること、すなわち「小樽運河が残ればいいという原点でぶれない」こと、と考えた。
 居直りの論理でしかなかった。
 困難性への挑戦を最初から放棄していた。 
 「何をどうすれば小樽運河が残るのか」という発想には、接近さえしなかった。
 「それは行政が考えること」とすれば、実に楽だった。
 
 企画立案や対案提起など、行政は素人発想と頭から無視すると不信感に固まっていた。
 それは、一定程度は理解できる。
 が、それを自分たちの努力不在の合理化に使用していた。
 完全に誤っていた。
 確かに、行政や運河埋立派は市民運動側の企画立案や対案提起を無視する。
 が、彼らよりもっと大事な相手である「市民」にこそ向かい合い、それを提起することであるのを、理解しようとしなかった。
  「小樽運河だけ残ればいい
とする全く小児病的思考は、第一期小樽運河保存運動の中に色濃く存在していた。

 この小樽運河を守る会の中にもあるどうしようもなく如何ともしがたいレベル、主体の側の〈保存〉の低次元の中身を突破しなければ、広汎な市民を小樽運河保存運動の側に獲得するなど到底適わなかった。
 小樽運河と周辺石造倉庫群のような広大な規模の保存というテーマは、それまでの凍結的保存手法では全く通じ得ず、凍結的保存手法とは一歩も二歩も飛躍した発想の転換と志向が求められていたのに、それにはとても太刀打ちできない、いや挑戦しようともしない、このレベルの会員が小樽運河を守る会幹事会にいるのだった。

 帰ってきた小樽にあった小樽運河保存運動を知るようになって一番驚いたことがあった。
 町の置かれた深刻な現実である「斜陽のどん底のそのまたどん底」という小樽の経済的ポテンシャルの衰退に対する言及が、全くなされていなかった。
 それこそが、第一期小樽運河保存運動の決定的限界だ、と映った。
 小樽の経済的ポテンシャルの衰退の現実を前にし、「それを乗り越えて、どういう町にしたいのか」ということを、突き出しえない限界をもった市民運動があった。
 「斜陽」という小樽の経済的ポテンシャルの衰退からの再浮上という愁眉の課題と全く無縁なところで、そうでなくても困難さを突きつける「広大な小樽運河と周辺石造倉庫群の保存と再生を」を空しく叫んでいた。
 それれは、小樽運河保存運動は退場を迫られて当然だった。

 そもそも「町の現状と絡みもしないまちづくり市民運動」などやる意味は一ミリもないし、ありえなかった。
 小樽の斜陽化を前にしてそれから逃れない小樽市民は、例え専門家に言わせれば稚拙といわれようと「この町をどのように、元気にするのかという手立て」を提出するべきであった。
 しかし、小樽運河を守る会運動は小樽の経済的復活をどうするかを、絶対語ろうとしなかった。
 あの大変専門的な小樽運河地区再開発プランを提案していた北大グループですら、経済的復興の視点の提案をしようとはしていなかった。
 経済の専門家ではなく建築や都市計画専門の自分たちが「経済」を語るのを責任上潔し良しとしない、真面目で責任感が強かった。
 
 しかし、「まちづくり」市民運動を口にし、小樽復興の経済的視点くらいを例え専門家でなくても語らないでは、何の「まちづくり」市民運動なのか。
 「まちづくり」市民運動を築こうとするとき、緻密な政策まで語らずとも小樽復興の経済的視点を提起するのに、ひるむわけにはいかないのが市民運動の常道だった。
 町の置かれたシビアな「斜陽」という小樽の経済的ポテンシャルの衰退からの浮上と、全く無縁に小樽運河保存を語るのか?
 斜陽・小樽の経済的復活と賑わいを取り戻すためにこそ、小樽運河保存再生再活用を基軸にし、観光をひとつの切り口にした小樽のまちづくりでその夢を自分たちの側に引き寄せる。
 そう主張する権利とそれを実現しようとする義務が、小樽にこれまで住み、これからも住み続ける市民にこそ問われていた。

 そこで問われる小樽運河周辺の歴史的建造物に適用される保存の手法は、従来のような博物館的で凍結的な保存ではない。
 再活用のためにはコントロールされたある程度の動的変化をも取り込んだ保存再生手法と発想を取り入れる主体の問題だった。
 それで初めて民間企業が資本投下しての再活用も前提にした新たな提案ができる。
 そしてその手法こそが、沈滞した小樽に対し、市内外の品位ある企業の進出を促し活気を再度漲らせる道と、提起できるのだった。
  
 これは後に、
  「凍結的保存」と「動的保存」
という形で対比され、小樽運河保存運動内部に対立を生み、分裂を招く遠因にもなる。

 勿論、素晴らしい歴史的建造物を心ない事業者が再生はしたものの、みるも無残に俗化した観光施設として使う危険性は充分あった。
 それを行政が法的に規制するのにも、限度がある。
 逆に、だからこそ市民運動がそのコントロールと監視役を担わねば保証できないものでもあった。
 それは、ある意味、営々と続く官民協働によるまちづくり運動への立候補でもあった。
 永続的まちづくり市民運動、だった。

 
05_05. 古い革袋(都市)に、新しい酒(活気ある新しい中身)をそそぐ!
 
 が、それをどうわかりやすく運動的に市民に表現しようか、と悩んでいた。
 シンプルで一発で市民の琴線に触れるフレーズが欲しかった。

 学生運動では、仏教、神道、キリスト教、そして新興宗教などあらゆる宗教関係者と論争をしてきた。
 クリスチャンとの論争では、必要上時間をみつけては聖書も読んだものだった。
 デモで逮捕された留置所には、聖書はつきものだった。 
 寮の自室の書棚には、マルクスやレーニンやトロツキーの著書の横に新約・旧約聖書が並んでいるのを見て、仲間たちは笑ったものだった。
 笑わば笑えだった。
 
 思い出したのは、聖書のマタイによる福音書の中にあった、妙に気に入ったフレーズだった。 
  「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。
   そんなことをすれば、革袋は破れ、
   ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。
   新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
   そうすれば、両方とも長もちする。」
      マタイによる福音書 第9章17節 新共同訳(c)日本聖書協会 
 つまり、イエスがヨハネの弟子に言いたかったことは、
  「私はこれまでにない『新しい命』を携えている。
   だから、『古い観念』に縛られる必要はない」
という含意のあるフレーズを借用し、更にイエスには申し訳ないが、意味合いは全く逆転するけれど、
  「古い革袋に、新しい酒を」 
というフレーズを造語した。 つまり、
  「古い革袋(都市)に、新しい酒(活気ある新しい中身)を」 
と、使用させてもらった。
 
 佐々木一夫(興次郎)は、いたくそのフレーズを気に入ってくれ、私以上にその言葉を以後使うようになっていった。
 後に結成する小樽・夢の街づくり実行委員会の機関誌的役割をするミニコミ誌「ふぇすた・小樽」夢街結成宣言にこの「古い革袋(都市)に、新しい酒(活気ある新しい中身)を」 と組み込んだ。

 峯山冨美・小樽運河を守る会会長はその小樽・夢の街づくり実行委員会結成宣言を読み、 
  「全共闘経験のあるあなたが、なぜ、聖書の中の言葉など知っているの?」 
と、流石に気づかれ鋭く聞いてきて、 
  「学生時代、クリスチャンになろうと思いましてね」 
と応え、キリスト教を笑いのたねにするな、と峯山さんにこっぴどく叱られたものだった。

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小樽運河石造倉庫倉庫群

 こうして、次第に自分の中で、新しい小樽運河保存運動のイメージは形成されていった。
 討論し、論争し、自分の頭の中で整理され、組み立てられいく、そういう私だった。

 実際は、私がいうところの「新しい小樽運河保存運動」イメージは、目立たないがそれまでの守る会の様々なリーフレットで書かれ、提案されてきていた。
 要は、リーフレットの読み方の視点の問題だった。
 が、それは多くの市民に届けられず、当然市民の目に触れられず、更に小樽運河保存運動側がそこにこそ力点をおいて大胆に提唱する、ということもなかった。
 小樽運河保存運動の会員の中で比較的若い部分は、市民にそれを提唱していたが、小樽運河を守る会総体として主張することには、全く成功していなかった。
 だからこそ、
 「何か別の新しい運動体」は、それこそを前面に押し出し大胆に主張する運動でなければならなかった。

 今は老朽化し寂れ果てメタンガスで住環境が悪化している小樽運河と周辺石造倉庫群。
 倉庫の一つくらいは資金さえあればコピーは可能ても、大地から這い出るように並び立つ小樽運河沿いの石造倉庫「群」は、その積み重なった時の流れと蓄積でもう二度とコピーも出来ない、小樽だけにしか存し得ないオンリーワンだった。

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パリ・セーヌ川
 小樽運河は永年のヘドロ蓄積とメタンガス発生で周辺生活環境を劣悪にさせていた。
 がそれを、故意に大きく取り上げ、もって運河埋立道路建設の理由に道路推進派はしていた。
 本末転倒の話だった。 
 小樽運河に、5本の生活排水河川が流れ込むが故のヘドロ蓄積とメタンガス発生だった。
 上下水行政の不在で、放置した小樽運河を自然の沈砂地にし、浄化させてきた結果だった。
 下水道処理施設を建設すれば、ヘドロ蓄積とメタンガス発生は抑制出来る。
 そして6車線道路のルートを海側に変更し、崩れ果てた小樽運河護岸はパリのセーヌ川のように護岸から小樽運河の水際まで階段状にし子供達でも安心して膝下までの水と戯れることが出来る親水空間エリアとする。
 石造倉庫群の各棟では、文化ホールや美術館や文学館は勿論、コミュニティーセンターなどを配置し、小樽の街の生活の匂いの満ちあふれる様々な産品を並べる。
 港町独特の魚料理レストランや後志の水産や農産物を使った料理店などが軒を連ねる。
 小樽のすぐ隣の後志の農産物・水産物・地場産品を、綺麗にディスプレィした露天マーッケトで販売する。
 小樽運河と周辺石造倉庫群を、そんなエリアにしたら・・・とした。

 世界から「ノーキョー」観光と笑われる、傍若無人な団体観光やバス観光でない、
 市民や小樽運河近隣の会社員や住民こそが、まずそれを享受し、
 そして、観光で訪れる人々がそういう市民や街の有り様と触れあい交流し、
 互いの町を誇り自慢しあい、
 新しい生活の匂い溢れる観光エリアにすることで、
 物流港湾都市から、新しい「人の顔をした歴史的観光の小樽」が始まる
のだ、と。

 そう、写真のサンフランシスコのギラルディチョコレート工場を再活用したショッピングモールなどを、配置したら・・・・

 後述する第一回ポートフェスティバルの一週間前、1978年6月28日に開催された「歴史的環境」をテーマにした石造倉庫セミナーで、京大西山卯三先生が私がイメージするように、マスツーリズに対置した観光を「世直し観光」と提起したのを知ることになる。
 が、当時の反体制気分にはマッチしても、小樽という街で市民を相手にする市民運動として
 「世直し観光
は、使用に耐える言葉ではなかった。(^^)

 こうして自分の中で小樽運河保存運動と再生・再活用のイメージが次第に固まっていった。
 

05_06. 20万円なら安いもの

 自分の小樽運河保存運動展開のイメージを高めている頃、佐々木一夫たちの小樽運河でのまちづくりイベントの用意は、着々と進んでいた。
 堺町のライブハウス《メリーズ・フィッシュ・マーケット》は、実行委スタッフ四〇〜五〇人が常時集い作業する拠点となり、準備作業は大わらわで進んでいた。

 若者達の小樽運河周辺でのイベントのタイトルが決まった。
   ポートフェスティバル・イン・オタル
だった。
 後で、わざと、スタッフの前で、
  「ナンデ、ポートフェスティバルという名称なんだ、筋から言うと
   《小樽運河大祭》って漢字で行くべきじゃなかったのか?」
と、山口保に命名の由来を皆に聞こえるように尋ねると、
  「うん、そうしたかったがな、それじゃモロムキだしで保存派の祭
   りという印象が強すぎるだろうに。
   小樽運河保存運動の裾野を広めるためにもなる祭りなのだから、
   少し薄めて誰でも参加出来るイベントでなきゃな。
   それで、気軽さも狙い、カタカナ名にしたので賛成した。」
 これが、学生運動で運動を組み立ててきた経験をもつものの思考と感覚で、私は小躍りし拍手したものだった。
 サブタイトルは、
  「手作りの文化・水辺・我が『まち』小樽
と、まちへの感動を失いまちへの自信を喪失している市民に、何をキーワードにし、自分たちの街の将来像を引き寄せるのかと、静かに訴えるものだった。

 懸案のポートフェスティバルの会場も、委員長・渡邊真一郎と会場設営総監督の大谷勝敏が小樽土木現業所(道)、小樽市建設部、小樽市港湾部、消防署、警察と交渉をし、五官庁は共同のテーブルについた。
 両氏の頑張りが、五官庁会議を作らせた。
 市役所関係だけの会議なら、サボタージュされる可能性があったが、小樽土木現業所(道)や警察(道)も入る、とそういうわけにはいかなかった。
 それが功を奏した。
 許可申請は随分「うるかされた」が、二人の頑張りで最終的に道道、市道の貸し出しを了解してくれた。
 小樽運河を守る会として活動してきた山口保や北大Gの石塚や柳田が申請にいくと、市役所にはすでに面も割れていて、即「小樽運河を守る会イベント」視されて、許可がおりるかどうかわからないと配慮しての、二人の活躍だった。

 山口保は、手宮人脈をつかって小樽の香具師の元締めである両国組の秋川親分の自宅を訪ね、運河会場の出店(でみせ)の出店を依頼しに、何度も足を運んだものだった。
 素人による出店だけでは小樽運河沿線を店で埋められない、という初回開催の不安からだった。
 が、これが二回目の開催では逆に大きな問題となっていくのだが、そのときは誰も二回目開催など頭になかった。

 蕎麦屋・籔半にも、頻繁に佐々木一夫を始め多くのスタッフが顔を出すようになる。
 そんな私とポートフェスティバルのスタッフの出入りに怒るかと思った父は、何も言わず見守っていた。
 母はといえば、二階座敷や蔵座敷の客席を会議で使いながら蕎麦のひとつも注文もせず、延々深夜まで勝手放題に使用するくせに、電気代、暖房料、お茶代ももらえないのか、と嘆いた。
 石蔵二階座敷をポートフェスティバルが常時占拠するくらい、弊店の宴会予約は激減していた。
 母は不景気だからと宴席減少を諦めていたが、父も私も、もう蕎麦屋・籔半は、
  「小樽運河保存派の若者のアジト(agitating point:隠れ家)
と運河埋立派に伝わり、宴会幹事さんも道路建設促進期成会に加入する会社上司の手前、宴会予約は入れなくなってきているのに、気がついていた。
 が、そんな母の嘆きをよそに、父はニヤニヤしてポートフェスティバルのスタッフが訪ねてくるのを見ていた。
 地元の若者と息子の関係が強まれば強まるほど、
  「蕎麦屋をやめて東京に戻るという息子の夢が、親が諦めさせるのではなく
   息子が自分で潰していく」
とほくそ笑んでいる父の顔がそこにあった。
 どこまでも計算尽くの父だった。
 これが、大人の発想だった。

 ポートフェスティバル準備の段階は、資金集めの段階に来ていた。
 NTT小樽の、弊店から出前をよく取ってくれている職員もポートフェスティバル実行委に参加しており、得意客という立場を利用し広告取りに来店し、そのあとトドメを差しに佐々木一夫が来店し、父が応対した。
 月見橋に掲げるコンパネ半分サイズの看板広告が一番高い値段で、なんと父はその一枚20万円の広告をだしてやると、佐々木一夫に宣言した。

 泡を食ったの私だった。
 おそらく佐々木一夫も、その価格の広告を出してくれるとは思っていなかった。
 また、その価格帯は当時市内にあった大国屋・丸井・ニューギンザの3デパート共同の広告枠で、それを蕎麦屋・籔半が一店で出すと言ってくるのだから、彼は私の父に感激した。
 しかし、籔半の宣伝広告費予算枠は、すでに目一杯支出していた。 
 その当時、蕎麦屋の営業規模で一本二〇万の広告代などありえなかった。
 佐々木一夫は喜び勇んで跳ねるように帰っていった。
 その彼を横目で見送り、私は、
  「ポートフェスティバルに賛同してくれるのは有り難いが、一体何のつも
   りだ?」
と問いかけると、父はニヤリと笑い、
  「フン、20万など・・・安いもんだ。」
と言い残し、茶の間にあがっていった。
 父にしてみれば、息子へのトドメの一撃だった。
 東京に戻る夢を、結婚させることでほぼ諦めさせたものの、それでも手をゆるめず、今度は息子の友人達の関係性を深めさせ、蕎麦屋の息子が小樽でこそ生きていかざるをえなくする、そのための投資なら「二〇万円など安いもの」というわけだった。
 
 店を継がせ籔半を存続させるためなら利用できるものは何でも利用する、第二次大戦のニューギニア戦線で米軍と戦うというより伝染病や食糧不足との闘いを生き抜き、インドネシアでオランダの捕虜となり、やっと小樽に生還し、荒廃した戦後社会を街の底辺で営々と築き生き抜いてきた、そんな世代の哲学からする発想と手法だった。
  「きったねぇなぁ」
と、独りごちるしかなかった。
 

05_07.『まち』に『ねじれ』構造が生まれていく。
 
 そんな父は、ゴリゴリの自民党支持者だった。
 一方、私の弟も兄の影響を受けて、学生運動に参加していった。
 その弟の結婚祝賀会で、両家を代表して御礼の挨拶を父がした。
  「 お国のために・・色々やってきた息子ではございますが・・・
とやって、弟が学生運動をやっている事を知っていた出席者は、皆、噴き出した。
 しかし、これは学生運動をやる息子に対する親・戦中派世代の、精一杯の理解の仕方だった。
 そうとしか、戦争体験の世代は理解しようがなかったわけだった。
 長男だけでなく次男も学生運動に参加していくその姿を見た父が、息子達の行動をどう理解すればいいのか、として自分の中で得た結論が、
  《お国のため・・・》
だった。
 そういう理解の仕方をする父を祝賀会場で見ながら、私は何となく胸が熱くなり誇りに思ったものだった。
 自分自身で懸命に息子を理解しようとする父の姿勢が、たまらなくよかった。

 父は自民党員ではなかったが、自民党・道議会議員(小樽選出)の後援会長もしていた。
 当然、後援会では自民党小樽支部として語り合う。
 息子が、小樽運河保存運動に参加した話など、一晩で広がる街だった。 
 街に広まって欲しい話など花園町の飲み屋で口にすれば、一晩で広がるほど、ある意味コミュニティの濃い街だった。 
 蕎麦屋・籔半の帰ってきたドラ息子が、ポートフェスティバルに加わり、その若者達が籔半を根城にしている話が出たとき、父は敢然と言い放った、という。

 「息子や弊店に集まってくる若者達のやっているのは《小樽運河を守る会》では
  ない。 
  ポートフェスティバルという、小樽の街を元気づけようとする、自分たちの街
  を愛する、純粋な若者たちの動きだ。 
  偏見をもって対応したら、自民党の道議や市議の支持基盤など掘り崩される。
  そういう若者たちを支持者にできないから、自民党の選挙が苦しくなる一方な
  んだ。」 
と述べて、会議参加者は皆目を白黒させたという。

 選挙に絡め小樽運河保存運動への籔半親子の接近にもの申そうとした後援会会員や誰にも文句を言わせないよう応える父だった。
 道路が必要だとし、小樽運河保存は口にしていなかった父だった。
 が、もうすぐ道路建設見直しに転換していくのは、明白だった。
 アメリカやヨーロッパのウォーターフロント開発や再開発の資料などを、店の二階の住まいの茶の間に、わざと忘れたように置いていき、父の目に触れるようにする息子だった。
 父子の政治戦はまだ続いていた。

 小樽運河を守る会ではなく「ポートフェスティバルである」という主張で、父が自民党道議後援会会議で言い放ったということは、実に政治的に大事なことだった。
 それは、親が子を擁護するという単純なことではなかった。
 狙っていたポートフェスティバルの町への登場の仕方の効果が、着実に現れていた。
 つまりアカとレッテルを張られる小樽運河を守る会ではなく、若者の街を思うイベント・ポートフェスティバルという市民的理解の拡大は、自分の親とはいえ着実に効いてきていると、今度は私がほくそ笑む番だった。

 弊店親子のように、息子はポートフェスティバルスタッフだ、と公言する市民は少なかった。
 実は、父が会長の自民党道議の後援会には、他にも息子がポートフェスティバルスタッフに参加する親がいた。
 その親は、父のフレーズを以後借用し、同様に言って歩いていた。
 会社の部下にポートフェスティバルスタッフがいたその上司も、父と同様のフレーズを言うようになっていた。
 その会社は道々小樽臨港線建設促進期成会の幹事会社として名を連ねていた。

 こうして、ポートフェスティバル開催以降、自民党小樽支部の底辺や周辺では
 「父は自民党、息子はポートフェスティバル
という、
  街をあげての「ねじれ」構造
が生じ、『まち』はそれを抱え込むようになっていかざるを得なくなっていった。
 
 狙っていたことが、着実に進んでいく感触に私は嬉々とした。

 小樽のような古い政治決定構造をもつ町で、膨大な保守層を『まちづくり』市民運動側に獲得しなければ、その市民運動の勝利の展望は切り開かれなかった。
 多くの住民運動や市民運動の事例がそれを示していた。
 日本全国の反公害住民運動や原発立地反対運動で、住民運動・市民運動が勝利したケースの決定的要因は、何をもって保守というかはこの際置くが、保守が住民運動側として全面にたった場合だった
 学生運動の経験は、それを私に刻み込んでいた。
 しかし、学生運動のようになんでも短兵急に進めるのは、無理な相談だった。
 当面の目標は、
  小樽運河問題を、『まち』の大きなテーマとして浮上させ、
  市民論議を醸し出し、保守層の中に分解・分化を促していく
ことだった。
 ただ街頭で、自らの主張を叫ぶだけで達成できるわけがなかった。
 全共闘運動の自己陶酔型アジテーションには懲りていた。

 このように、一般家庭レベルで、『まち』の底辺レベルで、親と子や兄弟姉妹の間で、会社の休憩時間や休憩室で、ポートフェスティバルが話題になっていく
 そして、居酒屋や焼き鳥屋やスナックのカウンターで、勤め帰りの会社員がポートフェスティバルを話題にし、拡散していった。
 小樽の若者達の間で、ポートフェスティバル実行委のスタッフになるか否かが、話題になっていた。
 それが狙いであり、肝心のポイントだった。

 街全体の雰囲気を、ポートフェスティバルに組織していくことは、少々遠回りだが市民が小樽運河問題を意識化していくことであり、それこその仕掛けが「ポートフェスティバル」だった。
 それが、小樽運河保存運動の裾野を拡大し、結果、小樽運河を守る会の裾野を拡大発展していくことに繋がるわけだった。
 別個に進んで共に打つの実践だった。

 こういう地味な展開こそが『まち』の底流を動かしていく、と確信していた。
 そこに市民的裾野の拡大に賭ける小樽運河保存運動の展望が大きくかかっていた。 
 経済界重鎮政治の色濃い、ソロバン勘定の高い『まち』で
  「ねじれ」
がつくられていく、これほど痛快なことはなく、ほくそ笑む私がいた。

 「ねじれ」という言葉は大好きだった。
 「真っ直ぐ」だとか、「1直線」だとかいう言葉は、大嫌いな男になっていた。
 市民運動とは真っ直ぐで純粋であるというような見方を、笑っていた。
 真っ直ぐだと「ちょいと曲げてみる」、
 真っ平らだと「ちょっとデコボコにしてみる」、
 のっぺらぼうだと「ちょいと穴をあけてみる」、
という感覚が、大好きな男になっていた。

 つまり、「風通しがいい」っていう状態を創りたい、と思っていた。
 通りを楽に抵抗なく吹き抜ける風ではなく、曲がりくねった路地の奥まで入り込み、苦労して入り込んだ路地から抜け出てきながら、さらりと通り抜けたと装う風がいい。 
 真っ平らな面をただ通り抜けるのはどんな風でも出来るわけで、吹き抜けましたと威張る風など当たり前で面白くなく、義務感だけで吹く風など野暮で、面倒あったけれどその面倒さを厭わないでしかし軽く吹き抜けてきたように振る舞う風、その分吹く勢いは削がれているけれど弱みを見せずに吹いて来てくれる、そんな風がたまらなくいい。
 
 この感覚がないと、『まち』で生きていくということをやりきれないと思う私がいた。
 『まち』に自分を合わせて生きるのではなく、自分に『まち』をあわせて行こうとする生き方が出来ないか、と思い始めていた。

 それこそが、峯山会長がよく口にする『まち』で生きる、ということと同じだった。 
 
 
05_08. ポートフェスティバル開催準備は、街の中に「ねじれ」構造を再生産し拡大していった。
 
 正式名称が、ポートフェスティバルと決まり、資金源づくりに奔走していく。
 経営破綻した繊維会社からタダ同然の5〜10円価格でTシャツとタオルを購入し、それにシルクスクリーン印刷で「ポートフェスティバル」と染め、それを1000〜1500円で販売し、資金源とした。
 若者達は、資金源確保のため会社の終わったあと夢中で訪問販売までし、市内を巡り歩く姿を警官に咎められ補導され、本署までもらい下げに実行委員会の年配者が駆けつける、という事態が結構起きていた。
 皆、自らでイベントを立ち上げることに夢中になった。
 あたえられたイベントにただ参加するのではなく、イベントそのものを自分たちで立ち上げ運営していく、というぞくぞくする快感に酩酊していた

 開催日は、スタッフの大工・大谷勝敏氏が、工事経験からもっとも雨にあたることの少ない、7月初旬の土日の2日間に決定した。
 出店部会、ロック部会、艀(はしけ)部会、ビアホール部会・・と部会が次々立ち上がり、部長が決まっていっき、スタッフが増えていく。

 スタッフが次々に増えていくことに感心して見ていた。
 が、同時に問題が浮上した。
 スタッフの多くが、市内の会社勤めの親を持つ地元の若者たち、なのは当然だった。
 実行委員会の年配者(といっても、皆20代後半)は、
  「道路促進派の会社に勤める親を持つスタッフ」
  「道路促進派の会社に勤めるスタッフ」
という問題に、どう対処するか、と悩んだ。
 
  「道路促進派が、当然イベント開催当日視察にくる。
   ポートフェスティバルスタッフの勤務する会社の上司が会場にきて部下が
   スタッフだと知ったら、どう出てくるか?
   道路促進派の会社に務める親の子供がポートフェスティバルスタッフに参
   加していると解ったら、親が締め付けられないか。
   とりわけ、親御さんが市役所勤務で、その子息がポートフェスティバルス
   タッフだとしたら、親御さんは苦しい立場に追いやられるのではないか。」
と悩んだ訳だった。
 悩んだ末の結果は、 
  「そういう親御さんを持つスタッフは、運河埋立派の会社に勤務するスタッ
   フは、開催前日までの活動だけで、開催当日は現場に顔をださない、それ
   を守れるならスタッフだ。」
とした。
 
 若者らしくない、決断だった。
 が、そこまでやる必要があるのか、という反発は表向きでなかった。
 スタッフを、スタッフの親御さんを守るためだった。
 が、運悪く市役所幹部の父親や道々小樽臨港線建設促進期成会幹事会社に勤務する父親を持ったスタッフは、涙した。
 実行委員会も苦しかったが、「スタッフとスタッフの親御さんを守る」という一点で若者の執行部はつらぬいた。
 
 しかし、これは後々大きな意味をもつ。
 私の父の自民党小樽支部での振る舞いに象徴される、
  「親は自民党=道路促進派、子供はポートスタッフ=保存派
という「ねじれ」現象が、市民の間に、市内に拡大していくことを意味したからだった。
 更に、保守系の親をもつポートフェスティバルスタッフから、親が参加する道路促進期成会側の情報が、小樽運河保存運動派に入るようになってきた。
 港湾・倉庫関係に勤務する親を持つスタッフからの、親の商売を通じた情報ほど貴重な情報はなかった。
 とんでもない情報さえ入手したこともあった。
 小樽の若者が、層としてまちづくりに参加してくるからこその、ポートフェスティバルという装置の登場での、小樽運河保存運動の裾野の拡大だからこその、この結果だった。
 
 ほんの二〇数人くらいしか例会に集まらない、孤立し萎縮し、その裏返しで隠れ保存派を罵倒し溜飲をさげる小樽運河を守る会の茶話会的ムードを引きずったいては、この効果は得られなかった。
 署名活動で街に向かっただけでは収集することができない保守陣営の情報を、ポートフェスティバルの若者たちが持ち寄ったわけだった。

 ポートフェスティバルは街の中に「ねじれ」現象を様々に拡大再生産していった。


05_09. 小樽の下町・手宮の、商店や会社の気骨で可能になった石造倉庫セミナーと艀会場
 
 更に、ポートフェスティバルで小樽運河沿いの石造倉庫一棟丸ごと借り、そして小樽運河に浮かぶ艀(はしけ)も借りられることになったのも、スタッフを元気づけた。

 ハビタ(北海道の環境を考える会)という札幌で建設会社や設計事務所に勤務する若手建築家のグループが、小樽運河を守る会の北大大学院グループ石塚雅明・柳田良造・森下満の三人組の紹介で、小樽運河保存問題を学術的に考えるとセミナーを開催してくれることになる。
 いまでこそハビタと言う言葉は一般的言葉となっているし、元々は1967年(昭和42年)モントリオール五輪での選手村用に作られた集合住宅《 Habitat 67 》で一躍有名になったが、「生息地」を意味するハビタット(Habitat)から、自ら命名したグループだった。

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1978年石造倉庫セミナー

 ハビタは、「歴史的環境」をテーマにし、
  西山卯三(京都大学名誉教授、)、足達富士夫(北海道大学教授)、
  越野武(北海道大学助教授)
の三氏を講師に招いた。

 ポートフェスティバルの一週間前、1978年6月28日、セミナー会場として前野商店麻袋工場倉庫2Fで開催した。

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1978石造倉庫セミナーポスター

 この前野商店麻袋工場倉庫を、翌月のポートフェスティバルでも貸りられることになった。↓

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大家倉庫(左)と前野商店麻袋工場

 更に、この前野商店社長の好意で、ポートフェスティバル当日北日本倉庫港運株式会社所有の艀(はしけ)も借りられることになる。

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 昭和50年小樽運河に停泊する艀(はしけ)

 このように、次から次に会場確保は決まっていった。

 それは、山口保が経営する喫茶《メリーゴーランド》が、小樽の下町である手宮地区にあったことも、大事な要因だった。
 山口はポートフェスティバル開催のために、同じ町内で普段からよそ者視しないで家族づきあいしてくれ可愛がってくれる、三浦酒店や越前電気の店主に何かと相談しにいく。

 この一風変わった雰囲気で、(本当は岐阜弁なのだが北海道の人間には関西弁と岐阜弁の細かい違いなど判別できない)関西弁風で、小樽の街の良さ、歴史的建造物の良さ、小樽運河の景観のすばらしさを普段からまくし立てる山口のポートフェスティバル企画を聞いて、相談に乗っている内にのめり込み、心意気はポートフェスティバルスタッフになってくれていた。
 
 広大な小樽運河周辺をイベント会場にするには電気配線工事が絶対必要で、その電気工事を越前電気さんが引き受けてくれる。
 会場でアルコール飲料を販売するには免許を持った酒店が必要で、そのアルコール飲料出店は三浦酒店が引き受けてくれる。
 小樽運河保存運動に関係すると道路建設推進派に目をつけられるのを構わず協力してくれる手宮の下町の商店主の気っ風と気骨に山口以下ポートフェスティバルスタッフは感激する。
 ポートフェスティバルにビアホールを出してくれる手宮・三浦商店の主人の口添えで前野麻袋社長の石造倉庫を借りる事が可能となり、その前野麻袋社長の口添えで北日本倉庫港運株式会社所有の艀(はしけ)も借りられることになる。
 
 ポートフェスティバルの倉庫会場や艀会場は、小樽の下町の手宮から実質始まったのだった。 
 若者達の思いにかられての、好々爺の社長や店主の好意の賜だった。

 まだ、道路促進派はこのような若者のイベント準備の進捗に、気がつかないでいた。
 市道をポートフェスティバル会場として借りるため、小樽市には道路占有許可申請をしていたので、小樽市側から道路促進派にポートフェスティバル開催の情報は入っていただろうが、そもそもたかをくくっていた。
 潮祭りの全市一丸となっての実行委員会の規模からみても、「ガキ」の実行委員会、大学祭に毛が生えた程度、と見くびった。
 小樽運河保存運動の中心・小樽運河を守る会を完全にがたがたにさせ、少数派市民運動に落とし込めて、勝負あったと自負していた。

 運河保存を全面に打ち出さなかったことも、ここで功を奏した。
 それまで名前の知れている小樽運河を守る会関係者の名前は、一切申請書類に記載しなかったことも、目くらましだった。
 だから、ポートフェスティバルが「小樽運河問題の今後にどのような影響をもたらすか」については、完全に軽視していたと言ってよかった。

 潮祭りの練り込みの解散地点・花園グランドに、≪ビート・オン・ザブーン≫のトラック部隊が着くやいなや、待ち構えていて全会場の電源を落とし、真っ暗闇で彼らに悔し涙の撤収をさせた。
 江戸の敵を長崎でとほくそ笑んだ陰湿きわまりない行為をした潮祭り実行委役員だった。
 その「潮祭り全電源消失事件」の実行犯こそが、ポートフェスティバルを産んでくれた。
 そう気づいた実行犯氏は、とても、行政や道路促進期成会幹部で構成される潮祭り実行委でそのことは言えず、口をチャックで閉じざるを得なかった。 
 自らの卑劣・稚拙・陰湿な行為が、数倍、数十倍になって自分に跳ね返ってきたわけだった。
 道路促進派の甘さと油断と間隙を突いての開催だった、ともいえる。

 竜宮橋と月見橋の交差する海側、北海道製缶倉庫前の空き地がロックステージ会場となる。 
 慣れない鋼管と垂木と番線でステージを作り、ビデ足場を組み照明用タワーをつくる。  
 「シノ」や「ラチェット」などを与えられても、どう扱うのか途方に暮れる若者達だった。

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ポートフェスティバル会場づくり

 学生運動でさんざんバリケードづくりで扱ってきた道具だった。
 その番線の締め方などを手取り足取り教えたものだった。  
 事務仕事勤務のスタッフなど、なぜ蕎麦屋がそんなこと知っているのかと不思議な顔をし、”大人は何でも知っているんだ”と応えている私が居た。

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ポートフェスティバル会場づくり・パイプ椅子調達

 各会場で使うパイプ椅子は、スタッフがそれぞれの出身高校や大学から借りて調達した。 
 トラック運転免許持つスタッフが搬送してきて、膨大な椅子を会場に降ろしていくが、あまりの数に呆然とするスタッフ達がいた。

 こうして、ポートフェスティバル開催準備は、喧噪のなか、若者達の様々思いと汗と涙まみれで進んでいった。

 この項終わり

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                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。