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小樽夢の街づくり実行委員会発行ミニコミタウン誌・”ふぃぇすた小樽”

8_01.ふぃえすた小樽発刊し、夢街バザールを開催し、『まち』に打って出る
 
 ホームページやブログなどない時代だった。  
 夢街は、自分の言葉で自分の『まち』を語り、自らの小樽の新しいイメージを発信しようとし、それを市民に届けるためのツールづくりに挑戦した。

 第1の挑戦は、夢街の機関誌的存在である、 
   タウン誌「ふぃえすた小樽」
が発刊された。
 その編集部は、当初居酒屋「ホイホイハウス」に押しかけ間借りで、置かれた。
   A4サイズ、隔月刊、200円だった。
 「小樽80円紀行」、「小樽銭湯めぐり」などすべてが自分たち自身の企画だった。
 「小樽80円紀行」は、当時、市内のバス料金が80円で、スタッフがバスに乗り、降りたエリアの歴史や文化や住民気質、そしてランドマークの建物や歴史的建造物などを紹介し、自らが自分の街の『再発見』をしていく企画だった。

 「小樽銭湯めぐり」では、地域に親しまれている銭湯に行き入浴し、銭湯で語られる庶民の声を拾い、その銭湯があるエリアの歴史や銭湯にくる人々の醸し出すコミュニティこそが、まちづくりに大事であることをベースにしていた。
 その時々で、様々な市民が様々なテーマで記事を書いてくれた。
 そして、小樽運河情報がページを飾り、多くの建築や都市計画や環境保護などの専門家が喜んで寄稿してくれた。

 発行責任者・及川良樹(北海道中央バス勤務)。
 初代編集長・滝沢裕(NTT勤務)。
 二代目編集長・平田真由美(現・オープラン社長)。
 表紙デザインは、創刊号から最終号までスパゲティ店叫児楼に向かいの喫茶・マッチBOXの原田佳幸(現・サンテチェーロ店主)がいつも唸る表紙を描いてくれた。
 それに写真は、志佐公道(現・写真家)。

 以上のスタッフは、既に過去ではあるがそれが出版されていたので、氏名は本名で記載した。 
 YO(現・バー・オーナー)、S.N(現・レストラン店主)、S.I(旅行代理店勤務)、N.I(現・印刷会社社長)の各氏ら、夢街やポートフェスティバルスタッフが各号ごとに記者を担ってくれた。
 後半は、上記石井印刷社長・石井伸和の所有する古アパートの一室を編集室と占拠して発刊された。
 本当にその協力と労苦に感謝する。 

 少しでも安価に制作するためと、自らで何でも手がけるという夢街の基本姿勢である『手づくり』を追求した。
 集めた原稿を、印刷所に持ち込み「写植版下」でもらい、仕事を終わって疲れた身体で、版下原稿を割り付け台紙にカッターナイフと糊で切り貼りし、目を真っ赤にし、深夜まで頑張った。
 学生運動で同じ作業経験をしている私は、いつまでそんな過酷な作業を続けられるか、と心配もした。
 が、ツラサは当然あったが、彼らは小樽の若者の自らの声を市民に届けるということの意味合いの凄さに震え、陶酔し、頑張り続けてくれた。

 ふぃえすた小樽編集部、今の時代ならさしづめ「情報発信ワークグループ」と言えた。  
 今のようなウェブサイトやブログ、SNSなどの、手軽な情報発信ツールが皆無の時代だったが、それが逆に良かった。
 発刊した以上、売るためには夢街スタッフは購読を薦める。
 薦める際には、相手に「ふぃえすた小樽」の記事内容を紹介しなければならない。 
 そこに、市民に、購読者に語る言葉を持たねばならなかった。 
 そして、なぜ「ふぃえすた小樽」を発刊しているかを問われた
 語らねばならなかった。 
 そこで、自分たちの街への思いを語っている自分たちがいた。
 
 売れなければ次号は発刊できず、買ってくれれば反応を知り、記事が褒められれば嬉しく、それが次の発刊に生きた。
 
 つまり、タウン誌といいながら小樽・夢の街づくり実行委員会の「機関誌」の役割を果たしていった。
 しかし、これを機関紙などと呼んだら、皆、素早く政治臭さを察知し、担わなかったし、売ろうとしなかっただろう。
 タウン誌としたので、皆が抵抗なくそれを担った。
 私とすれば、それで良かった。

 まだ全共闘運動や学生運動の残滓を引きずる友人達が沢山いた。
 その何人かが「どうせ小樽運河保存運動をやるなら、機関紙を出せよ、タウン誌などと曖昧で軟弱なものではなく。」
と、出会って批判をしてくれた。
 この手の手合いの干涸らびた発想に辟易していた。
 それに、機関紙という響きの持つ、堅苦しさはもうご免だった。
 問題は、掲載される夢街の主張だった。
 軽妙に行政や運河埋立派・経済界を批判し、真っ向から道々小樽臨港線計画を批判し、自らの代替え道路ルート案を掲載していた。
 新しいまちづくり市民運動構築のためのベースになる、『まち』の再発見、『まち』の価値を、その市井の人々を紹介していた。
 それが、タウン誌であれ、機関紙であれ、読まれれば、夢街の主張が市民や購読者に届けられれば、目的は達せられるのだった。
 読まれないでゴミとなってトイレットペーパーに交換される機関紙の悲哀など、ご免だった。(^^)
 
 小樽・夢の街づくり実行委員会とポートフェスティバルのスタッフの一人一人が、「「ふぃえすた小樽」を売るということで、
 「自分の言葉
を、持つことになった。
 「言葉という偉大な力」を、小樽・夢の街づくり実行委員会やポートフェスティバルのスタッフが身につけていった。

 

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夢街バザール第一回:於・国際ホテル2Fホール:写真・志佐公道

8_02.次に仕掛けたのが、「夢街市場・夢街バザール」だった。

 夢街が稼働を開始した。
 タウン誌・ふぃえすた発刊の次は、小樽旧国際ホテル2Fの市営プール入口前の円形広場を借りて、手作り作品をテーマにポートフェスティバルの出店(でみせ)よろしく、バザールを定期的に開催した。
 ポートフェスティバル実行委の出店部会スタッフが企画をたて、声掛けした。
 市内に、こんなに趣味で活動するサークルや個人がいるのか、と私などは驚いた。
 そして、そういうサークル・個人とネットワークを持つポートフェスティバル・夢街スタッフに驚かされた。
 今で言う、フリーマーケットと形は似ていたが全く違う運動的なマーケットだった。

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 市民の根底で今までと違う意識と触れることが出来た。
   「こういう作品をいつも展示し、即売会が開ける場を小樽運河
    
倉庫などでやれば小樽らしい、もっと賑わいをとりもどせる
と、ポートフェスティバルや夢街は勿論小樽運河を守る会でもない、普通の主婦や若い会社勤めの女性が、話しかけて来て、驚き感動したものだった。
 これが、山口がいい、私が言う、ポートフェスティバルや夢街の会議でよく言う
  「ダイナミズムの始まり
というやつだった。
  「主観が客観を動かし変えていく
プロセスを目の当たりにしていた。
 そこには
  「客観的にみ、検討したが、無理がある
という最初から逃げ腰ので、反対のための理由探しから、新しい市民意識の収集ムードが、生まれだしていた。 

 ポートフェスティバルが開催される前、しょぼくれた小樽運河保存運動、息絶え絶えの小樽運河を守る会といわれていた、町のムードが変わっていた。
 「あの小樽運河に賑わいを取り戻すきっかけを
  つくった若者達のポートフェスティバル
という評価が、時を経て雲散霧消するのではなく、その受け皿が確固としてありさえすれば、つまり夢街が次から次にまちづくり企画をたて実施していけば、こういう市民の声を拾えることが出来るのだ、と。
 
 しかし、実際はこのように運河の保存と再生の声が大きくなっても、道路建設の行政手続きは進捗し、ときには市議会での強行採決で進んでいった。
 市議会という土俵での運動であれば、その市議会議員構成からいっても自民党=道路促進派が多数派で、展望はなかった。  
  「そういう市議会の動きに左右されない
と宣したものの、空気は重くなり沈滞ムードがながれる。  

 何か、身体を動かし、目に見える結果を出すことで、その沈滞ムードや厭戦気分を打破しなければならなかた。 
 そういうときは、いつも現場=小樽運河に皆で出向き、艀の上で何をやるかと皆で思案した。  

8_03.小樽運河護岸に「小樽運河案内板」を設置する。

 そのひとつ。
 方針が出なく、皆で艀の上に輪を作り思案していた。
 小樽運河の護岸は崩れ、雑草が繁茂し、投棄されたゴミ袋まで覆うくらい生えていた。
 札幌の大学に通っている学生のY君が口にした。 
 自分たちで草刈りをし、小樽運河護岸に「小樽運河案内板」をつくり、設置しよう、と。
  「小樽運河保存をいう俺たちが、こんな酷い荒れ果てた環境を放ってお
   
いて、それで小樽運河保存、歴史的環境保全って、おかしくないか?
という、問題提起だった。
 皆が皆、顔を見合わし、頷いた。
  「そうだ、その通りだ、俺たちも見慣れて麻痺していたな。」
 皆が飛びつくようにその「小樽運河案内板」企画を賛同した。
   
 しかし、方針は出さずに、出された方針をなんでもマイナスにしか捉えられない人が必ずいる。  
  小樽運河を守る会の若手から、
 
 道や市が管理する小樽運河護岸に勝手に案内板を設置したら、その作業中に補導されるのではないか、
 スタッフの中には卒業を目の前にし就職活動をしている者がいる、
 その学生スタッフが警察に引っ張られたら卒業や就職に影響する、
 その責任を誰が取るのか
 
と。
 小樽運河を守る会の事務局次長に就いた北村哲男氏だった。
 延々論議が続いた。
 別な場所で小樽運河案内板を製作し、護岸に打ち込んでさっと逃げる、という急進主義戦術から、それを無責任と非難する意見もでた。
 そんな論議に関係なく、もう設計図面を描くものもいた。
 全員が1サイクル意見を言わないとおさまらないわけだった。
 
 誰かが(^^)、頃合いと口を切った。 
 
  「確かに運河周辺の案内板だけなら市や小樽土木現業所などナーバス
   になっているからなぁ。 
   が、運河周辺に捨てられる不法ゴミ投棄は目に余るんじゃないか?
   その不法ゴミ投棄防止を訴えながらの小樽運河案内板なら、環境美
   化のために若者がわざわざ私財で作った、となる。   
   それって、おもしろくないか?
   新聞は絶対書く。」 
 
と。  
 皆の目がキラリと光った。
 そもそも、それで官が問題にし「補導し撤去」などしたら、すぐさま新聞が報道し、小樽運河論争という火種に更に油を注いでくれる。
 行政サイドも、そんな自らが損をする行為をするものかだった。
 そんな計算することも出来ないレベルが、小樽運河を守る会事務局次長だった。 
 要は、山口や私などの夢街や小樽運河を守る会若手へのイニシアティヴに抵抗し、まるでスタッフを気にかけているのは誰かという姿勢を押し出して、それで自分の位置を築きたいだけの慎重論だった。
 夢街や小樽運河を守る会若手のエネルギーを理解していなかった。
 卒業間近の小樽運河案内板企画をだした学生が一瞬ぐらついて北村氏に振れた。
 すぐ戻ってくると、放っておいた。
 卒業間近の彼には参加させない方がいいと置いて、夢街や小樽運河を守る会若手は、実施・決行となった。
 若さだった。
 私とすれば、沈滞し陰鬱な夢街の空気を払拭できる、夢街らしい企画であれば良かったので、煽りに煽った。

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新たに設置された小樽運河案内板

 そして、手作り小樽運河案内板が、草を刈られた運河護岸に立てられた。
 「小樽運河をきれいにしましょう
がメインだったが、その下に、歴史的建造物を配置した運河エリアのシュールなマップがデザインされ、運河や歴史的建造物の紹介文章が書かれていた。 
 結局、小樽運河保存運動が決着するまで、設置した「小樽運河案内板」は撤去されることはなかった。
 一瞬ぐらついて慎重論にブレた学生は、その後戻って来た。
 
 必ず、小樽運河という現場が、艀のうえが、次の行動方針を導き出す「場」であった。

8_04.小樽運河保存運動はじまって以来の、まちづくり団体の共同行動
 
 ポートフェスティバルの成功と夢街の誕生を契機に、小樽運河保存運動は息を吹き返し、花が一挙に開花する。
 ポートフェスティバル第一回が終わって一ヶ月がすぎた1978年(昭和53年)8月28日には、朝日新聞が余暇開発センターと共同で
  「都市開発と歴史的環境の調和を考える:小樽運河問題によせて」
と題する講演会、通称筑波会議が開催され、伊藤延男,稲垣栄三,木原啓吉らの各氏がつくば市で、講演会に講師で登場する。
 小樽でも、朝日新聞小樽支社が小樽版筑波会議を市民会館で開催し、
  佐橋滋氏「歴史的投資」
と題する講演に唸った。
 
 更に、
  9月、《小樽運河問題を考える旭川の会》結成され、
  10月、《小樽運河を愛する会》(東京)が発足する。
 
 そして、満を持してこれら市外団体とも連携した行動に打って出る。

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小樽運河共同アピール
 ( ↑ クリックすると拡大画像が開きます。) 

 今読み返しても、今の小樽にそのまま適用される内容をもつ。
 夢街結成直後の昭和53年11月。  
 市内全域に配布した
  「よみがえれ小樽運河ー保存と再生を求める共同アピール
フライヤーだ。
  小樽運河を守る会
  小樽運河を愛する会(東京)
  小樽運河問題を考える会(札幌)
  小樽・夢の街づくり実行委員会
の四団体が、
  「初めて統一したチラシ
を配布した。

 この共同アピール配布は、夢街と小樽運河を守る会が班を作って、市内全戸に一軒一軒配り歩いた。  
 皆は全戸配布の力仕事をやりきり、しかし終了すると二度としたくないと悲鳴を上げた。
 が、この共同アピールは小樽のまちに、3つの意味で大きなインパクトを与えた。

 その第1は、ポートフェスティバルの成功で、少数派運動に追い込まれた「小樽運河を守る会」が息を吹き返したことだった。 
 そのことによって、それまでの小樽運河を守る会活動で関係性を築いてきた成果、東京と札幌に小樽運河保存の支援団体が正式に立ち上がり、夢街と小樽運河を守る会に加えて、それ以降4団体として共同歩調をとることになった。

 第2は、夢街の機動力が、小樽運河保存運動のそれまでにない「運動量」を保障するという実績をアピールした意味だった。 
 小樽運河保存運動の孤立化に成功した、と慢心していた道路促進派は驚愕した。 
 つまり、これから小樽運河保存運動派は、
  「自分たちの主張を全市民に届ける
ことが出来る、ということを事実で示したのだった。
 少数派運動としてしか映らなかった小樽運河保存運動が、全市的市民運動へ拡大させると宣言することを意味したわけだった。

 第3に、共同アピールの中に初めて、
  「小樽復興の経済学
という見出しが登場したことだった。
 小樽経済のポテンシャルをあげ、
 まちの元気を取り戻す、
 そのために小樽運河保存と再生が必要なのだ、

という主張を市民に、家庭に直接届けたことだった。
 つまり、「反対のための反対運動」ではなく、「対案提起の運動」であると高らかに宣言した。
 道路促進派が「アカの運動」というレッテルを張ってきたが、ポートフェスティバルの成功はそれを一撃で粉砕してしまった。
 共産党系がそんな主張やイベントを開催するわけがなかったからである。
 小樽運河を守る会のほんの10数人の会議で、
  「観光を新たな『まち』の発展の切り口として
   小樽を元気づける路線と打ちだそう
と若い会員が提案した。 
 が、帰ってきた反応は、
  「観光などを言うのは、『資本の論理』そのものだ。
という、教員の会員からのものだった。
 ・・・化石の論理、だった。
 
 戦後の自社対決、55年体制下での万年野党の少数派根性だった。
 『まち』の経済政策など全く用意しないで、重箱の隅をつつくだけで存在できた化石だった。
 小樽運河保存運動派が4団体となり、全市民を相手にし、市民を巻き込むにはそれを語らないでは存在意味がなかった。

 この共同アピール以降、観光とまちづくりは小樽運河保存運動の大きな主張になっていく。 
 小樽運河保存運動が新たな攻勢的路線を獲得したことを意味した。 
 そして、これまで小樽運河を守る会だけを相手にし、「アカ」のレッテルを貼り、それで孤立化させる対応でよかった道路促進派は、根本的に対応を変えることを強制されることになる。
 ただ、小樽運河を守る会を相手にすればよく、小樽運河を守る会からの交渉要望を無視してきた段階から、無視すればまた「共同アピール」の第二弾、第三弾のチラシ・リーフレットが市民に全戸配布されるという段階、つまり
  小樽市民の目を意識した対応
を道路促進派はせまられることになった。
 運河埋め立て道路促進派は、ポートフェスティバルの登場で、それまでの小樽運河を守る会の運動パターンとは全く違う存在を相手にすることになり、虚を突かれた。

8_04. 外には市民意識を揺り動かし、内には小樽運河講座で主体の力量を蓄えながら・・・
 
 夢街は、ミニコミタウン紙「ふぃえすた小樽」の発刊や共同アピール全戸配布だけでこと足れりとする、わけではなかった。

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小樽運河研究講座第一回開催ポスター

 小樽運河保存派4団体主催で、夢街と小樽運河を守る会が事務局を担い、
   三期20数回
開催された「小樽運河研究講座」が開始された。
 
 小樽運河保存運動は、単なる道路建設反対のための運動ではなかった。  
 確かに、それは小樽運河を埋め立てて道路建設をするということから端を発した。
 が、それは日本全国で展開される「地方都市計画」とはなんだったのかを、鋭く問わざるをえなくなっていく。 
 
 だからこそ、「まちづくり」という言葉が対置された。  
 残念ながら、小樽運河保存運動内部にある「凍結保存」派は、

  ・日本の「都市計画のありよう」などという身の丈にあわない世
   界に入らない。
  ・まして、都市とはなんぞや、市民自治とはなんぞやなどは、論
   外。
  ・小樽運河埋立を阻止する、がすべて。
  ・「まちづくり」などに意識を向けると、運動が散漫になる。
 
とし、結局11年の運動でも、そこに踏み込もうとはしなかったのだが。 
 
 市民には、運河埋め立て道路建設のための都市計画であり、
 都市の将来像なき、「他都市並みの変化を」という名の破壊であることを問い、
 それを強行に推し進める市議会には、市民自治・市民の自己決定権を鋭く問うた。  
 勿論、行政や経済界だけを問うただけではなかった。  
 日本に市民社会はあるのか、
 市民民主主義は根付いているのかを問い、
 その「町や地域で生きる」という自分たち市民自身をも、問うた。  

 市民が小樽という町の将来像を自ら持つことヌキにまちづくり市民運動は継続しないし、その将来像を獲得するためには自ら学ばねばならなかった。  
 ということで、外に保存と再生を問いかけながら、その自らの内の啓蒙の場がとわれていた。
 それを「小樽運河研究講座」として開催した。

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小樽運河研究講座風景

 全国から若手の都市計画や道路の研究家・専門家、放送界・文化人・哲学者などあらゆる伝手を使い講師に招いた。
 第一回は、倉本聰・守分寿男両氏が
  「文化でメシが食えるか
をテーマに語ってくれた。
 港湾倉庫業界を筆頭とする経済界の論理、それと一体となった物取り主義の地区労書記長(運輸労連)を意識して、
  「文化で生きていく街・小樽になる。」
と、対置して、開催された。
 「わだばぁ、ゴッホになる」か、と私は唸り呟き聞いていた。
 「小樽ばぁ文化で生きていく街になる」ってか、と。

 以来、倉本聰氏に面識を頂き、今でも交誼をいただいている。 
 
 以降、多くの若い研究者の日頃の調査・研究が、小樽運河保存運動というまちづくり市民運動の現に闘われている現場・小樽で発表され、それを小樽運河保存運動派が自らの言葉で翻訳し、市民との会話の場で活かされるとなった。
 そんな自らの研究が市民運動現場で活かされるならと、皆さん、手弁当で駆けつけていただいた。
 
 私は、海外の再開発事例の発表に目を奪われた。

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サンフランシスコ・ピア39

 サンフランシスコのゴールデンゲートウェイセンターの港の倉庫群の再開発の事例が紹介された。
 ウォーターフロントを回遊でき、24時間都市となり、終日多くの人々が集まると聞き唖然とした。
 不要になった港湾施設を修復した先駆的再開発地区では、ジラデリー・スクウェア、ザ・キャナリー、フィッシャーマンズ・ワーフ、ピア39が、世界中から若者を集める新しい名所となっていると聞き目を剥いた。

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ボストン・クィンシーマーケット

 ボストンのクインシー・マーケットやファニュエルホール・マーケットフレイス地区は、港の倉庫群をショッピング街に修復した事例だった。
 唸りつづけた。

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ロンドン・コベントガーデン

 ボルチモアのウォーターフロント開発は三〇年計画だと聞き、呻いた。  
 ロンドンの都心のコベントガーデン地区の青果市場跡を市場のイメージを活かし、広場と文化・商業・業務、周辺の住宅が一体化し再開発し、新しい名所となり、

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セントキャサリンドッグ

 セント・キャサリン・ドックとドック・ヤード地区の造船所跡地で、港の雰囲気を残し、商業・貿易センター等の業務、周囲の住宅からなる歴史を活かしたまちづくりなど・・・。
 それらをスライドで見せつけられ、その印象を目に焼き付いた。
 
 最新の研究者たちの、スライドを駆使した、世界の歴史的建造物の再活用事例やウォーターフロント開発事例を知識として得て、夢街やポートフェスティバルはそれを小樽弁に翻訳し、講座で学んだ事例を小樽運河地区に当てはめ、即、町中で語る材料の根拠、武器にしていった。 

 小樽市の都市計画課や建築課や土木課や港湾部と一緒に、このような研究講座を夢街と合同の研究会やシンポジウムを開催出来ないことに、悔しくてたまらなかった。
 単なる道路建設としてしか小樽運河問題をみない、その行政のレベルが情けなかった。
 なぜ、ここまで市民意識が盛り上がる気配を見せているのに、これをうまく逆手にとって、道や国に
  「港と小樽運河と中心市街地を一体となって再開発し
   歴史的環境を活かした『まち』の支援策を導入する」

ように働きかけるような政治力を使わないのか、展望を切り開こうとしないのか、と。

 都市計画課の若い市の職員が、マスクで顔を隠し、この小樽運河研究講座に一人二人参加しているのを、ため息を漏らし見ていた私がいた。

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小樽運河研究講座講義録

 各講義の講義録は、皆で夜集まりテープ起こしをし、手書きでそれを印刷製本した。  
 この講義録づくり作業そのもので、一人一人の夢街と小樽運河を守る会のメンバーの頭脳に、講演内容が染みこみ刻み込まれていったのだった。 

 今の時代ならワークショップと呼ばれた活動だったろう。
 夢街・ポートフェスティバルスタッフは、このような研究・学習に仲々参加はしてくれなく、頭を痛めたものだったが。

 しかし、この運河研究講座で培われた全国の研究者や講師陣とのネットワークが、小樽運河保存運動を全国性ある運動展開に発展させるのに大きく寄与していった。 
 
  この項終わり

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 ●前【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。