だがの乃10.『運河保存』を敢えて言わず、『うるかす』作戦の始動

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道々小樽臨港線完成前の冬の小樽運河

 第二期小樽運河保存運動の扉をこじ開けたポートフェスティバルは、
  「小樽運河保存
うるかし(漬けものを漬け、蓋をし、放っておくことから転じ、物事を決めないでおくことの意、小樽方言)続ける作戦を展開した。

 小樽・夢の街づくり実行委員会は、小樽運河保存問題に積極的に関わっていくことを確認していた。
 保存五団体と一緒になって、道路建設見直しや運河保存の陳情やアピールに、小樽・夢の街づくり実行委員会は名前を並べてはいた。
 が、ポートフェスティバル実行委は、態度を決めなかったというより敢えて「小樽運河保存」を、打ち出さなかった。
 ポートフェスティバル実行委員会は
  「若者による小樽のまちの『賑わいを甦らせる』イベント
とし、せいぜい、
  「運河をキーポイントにした『小樽まちづくり』イベント
としか、自らは言わなかった。
 
 小樽運河沿いの市道港線をポートフェスティバル会場として貸し出し(道路占有許可)を小樽市に申請するとき、
  「小樽運河を守る会もポートフェスティバル実行委に参加している。
   実質小樽運河保存派のイベントなのではないか?
と、必ず窓口の課長級職員から言われたものだった。
 が、ポートフェスティバル実行委としての私は、
  「小樽運河を守る会ブースも、3~400軒の素人出店ブースのうちの一軒で
   す。 
   私たちは、出店一軒一軒の思想信条は問いませんし、問えません。 
   小樽運河問題は関係ない、という出店も多いです。
   ことによると道路建設促進の意見を持つ方も、中にはいるでしょうし。」
と応えて笑みを浮かべてあげた。
 そこまで言うと、申請窓口の課長は苦虫を潰した顔をし、許可を出さざるを得なかった。

 だが、上記のような技術的で対行政交渉上の問題で、「小樽運河保存をポートフェスティバル実行委員長がいわない」という政治的対応をしたのではなかった。
 ポートフェスティバルのイベント的成功で舞い上がるわけにはいかなかった。
 やっと「小樽運河保存運動の第2期の扉をこじ開けた」段階だった。
 まだまだ当時18万人の人口で、保守:革新で選挙になれば接戦にはなっても決定的勝利は遠かった。
 いかに、貪欲に徹底的に小樽市民を小樽運河保存の側に獲得するのか、が問われていた。
 あらゆる住民運動でもそうであるように、その地域で運動が勝利するために、反対運動側「だけ」でなく「保守・中間層」を運動側に引きつけ参加させうるのか、「『オール小樽運河』を形成すること」抜きに運動展望はありえない、と思ってきた。
 
 マスコミ報道は、何とかポートフェスティバル実行委員長に「運河保存」のコメントを言わせようとしたが、私は頑として言わないでいた。
 そして、ポートフェスティバルは小樽の保守・中間層を引き寄せ獲得する、という壮大な戦いにチャレンジすることを決めたが故に、「小樽運河保存」コールを実行委員長自らが封印するのは、至極最もなことだ。
 なぜなら、
  「小樽市民の保守・中間層を引き寄せ獲得する。」
というとき、最初から「小樽運河保存」や「志村市政反対」など保守層を一気に離反させるような言動をそれも自らが行うとしたら、議論のとば口も開けず、マンガ的ですらあるから。
 しかし、
  「小樽運河保存」を言わないないポートフェスティバル実行委員長は、支持する対象ではない」
と言う人々が出てきもした。 革新側の人間や全共闘運動経験(どれくらいの経験かは敢えて言わない)や、マスコミ新聞記者に多かった。

 最初、その話を聞いたと、現に闘われている小樽の街で、どこまでまちづくりレベルが劣化し、感覚麻痺すればいいのか、と思ったものだった。
 最初から「小樽運河保存」を市民参加の必須条件とするならば、保守層や中間層との真摯な議論は成り立たず、その議論姿勢を排除したセクト主義的防衛的姿勢と言動であって、オール小樽を表現する運動など夢想であろう。
 私には、小樽市民の多様性を認めない、上から目線、権威主義、本家意識、村八分主義、最後通牒主義の典型にしか聞こえなかった。


 例えば、小樽運河を守る会ブースが、300軒の素人出店のなかの1軒でしかないのに、それをもってポートフェスティバルの道路占有許可申請をはねつけたら、どうなるかだった。
 新聞・TVが、それをどう書きどう報道するかを考えれば、それを押し通せる度胸は市の窓口にはなかった。
 市民が、市道を借りたいと申請を出して、それを市が貸し出すだけの手続きと位置づけただけだった。
 市民の基本的な権利の上での話だった。
 
 表現の自由という憲法条項がある。
 役所や公務員は、その憲法を遵守する義務、つまり護憲義務がある。
 しかし、その役所が管轄する施設で「護憲」をテーマにした集会やシンポジウム開催で後援や開場使用を申し込むと、「政治的中立」という、全くまとを得ない理由で後援を断り、会場を貸し出さず、講師の思想信条を問題として貸し出さない、という時代になってしまった。

 まだ、小樽運河保存運動時代の方がまともな時代だった。
 横道にそれた。

 小樽運河保存運動全体にすれば、「ニュートラルなイベント」という「借りものの衣装」を、ポートフェスティバルは纏うことが大事だった。
 「小樽運河保存」をポートフェスティバルが公言しない、と言わせたくなるのが世の常だった。
 ある意味、それを狙った。
 ポートフェスティバル開催に多くの報道・TV各社が取材に来てくれ、必ず実行委員長に取材を求め、ポートフェスティバル実行委員長に「小樽運河保存を言わせよう」とやっきになった。
 しかし、充分に事前打ち合わせをしてあった。
  「ポートフェスティバルは、市民、とりわけ若者の小樽の『まち』への思いを
   発信する『チャンネル』であることが、第一の役割なのです。
と応えたものだった。
 第七回ポートフェスティバルまで「小樽運河保存」を論議はするものの、決定しないまま、うるかし続けた。
 よくマスコミは「小樽運河戦争」などという刺激的コピーを使った。

 しかし、街には昼間の顔と夜の顔がある。
 昼間、面頭向かって机をひっくり返す勢いで論争し合っても、夜、飲み屋のカウンターで肘寄せて並んで吞む世界があった。
 町を語り、人を語り、今を語り、未来を語る、そんな場がまちづくり市民運動には必要不可欠であり、そのいわゆる対話ムードを醸成することの方が「戦争」などより余程大事だった。
 
 そして、ポートフェスティバル実行委員会を、運河保存運動団体にする意味は誕生当初は意味がなかった。
 スタート当初は200軒、後半は400軒は参加する「ポートフェスティバル・素人出店」に参加する大人たちと小樽の若者達とが、ポートフェスティバルを語ることで町のあり様を語り、結果小樽運河問題も語り合える関係構築ができ、それが小樽運河保存運動の裾野を結果として拡大していく、そのチャンネル装置の役割を担うことを優先しなた。 
 そもそも、わざわざ一般市民に短兵急に「運河保存か否か」の踏み絵を踏ませる必要などなかった。
 まだまだ勝負のときではなかった。

 ポートフェスティバルの第五回目になると来場者は二〇万人に迫る勢いだった。
 これほどの人々の来場と運河に賑わいを取り戻せる、ということを現に実証しているのに、わざわざポートフェスティバル側から「道路建設か運河保存か」の踏み絵を強制して反感を買い、結果、道路促進派の側に追いやることこそ、無意味だった。
 広範な市民を「層として」町に登場させるには、そのような装置が、チャンネルが必要だった。
 行政は、それをやりたくてもやれなかった。
 小樽運河を守る会も、そうだった。

 そこが我々の狙い目であり、役割だった。


10_2.小樽青年会議所の街への登場

 
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 第一回ポートフェスティバルが開催された翌年の、1979年昭和54年6月には、小樽青年会議所が街のオリエンテーリング

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  「歩こう,見よう,小樽ふるさとへの路」スタンプラリー
を開催し,市民市外も含め約3,000人が参加するという大成功を収める。
 第二回ポートフェスティバルの終了した、同年9月、小樽青年会議所主催の
  「'79 市民シンポジウム:小樽その未来,よみがえれ潮騒の魂
が開催され、小樽青年会議所独自の8つの道路構想を提案される。
 そして、11月、小樽青年会議所主催
  「歩こう,見よう,小樽ふるさとへの路パートII
が開催され、市民約1,200人が参加する。

 このように、青年会議所も、小樽の『まち』の再発見事業に乗り出してくる。
  「歩こう,見よう,小樽ふるさとへの路
という小樽の再発見の道筋は、遠回りではあったが、当然小樽運河問題に必然的に行き着くことをも意味した。
 それを、市内に一定の発言権と位置を占める青年会議所が主催するということは、小樽運河保存派にとっても小樽運河保存の賛否の態度を青年会議所が今すぐ取ることへの期待以上に、冷静な小樽の街の将来を巡る論争を作り出してくれる、と言う意味で大きかった。

 これも「運河保存のうるかし」作戦のひとつ、だった。
 実は、この「歩こう,見よう,小樽ふるさとへの路」オリエンテーリングは、小樽運河を守る会の若手・北大大学院グループが、以前から青年会議所にその企画を地道に働きかけてきた成果だった。
 まだまだ、
  感情的・情緒的で一致半解的な「埋立か保存か」という論議のレベル
があった。
 冷静に本当に街の将来を論議する「場」があまりにも少なかった。
 小樽運河保存派の主催する集会・会議には、どうしても保存を望む市民の参加が多く、道路促進派とのクールな論戦が成立しえないで来た。
 そのような場をセットできる存在としての青年会議所、街に一定の発言権と位置を占める存在の青年会議所を、小樽運河を守る会・北大大学院グループはターゲットに選んでいたわけだった。

 その青年会議所をどう動かすのかとして考えたのが、上記オリエンテーリング企画とそれを実施した上での公開シンポジウムであった。

 当時の小樽青年会議所の芳川理事長は、理解を示した。
 5年前の1975年(昭和50年)の市長戦における青年会議所OBの民間人市長擁立の動きが、当時の経済界重鎮から「保守分裂の危機、革新候補勝利の可能性、利敵行為」とされて、その立起が圧殺されてから、「羮に懲りて膾吹く」的に街の問題から青年経営者は退却していた。
 目をつけられ経済的締め付けを受けるのを、避けた。
 経済界重鎮政治がまかり通り、青年経営者は萎縮せざるをえなかった。
 
  「街を二分するよな問題に触れることは結局態度表明を迫られ、それは
   会社経営にそぐわず、ひいては青年会議所の性格にそぐわない
とする空気が醸し出され、いつの間にかそれが青年会議所の基本姿勢であるいう会員すらでてきていた。

 しかし、青年会議所もそれから5年が過ぎ、世代交代が進んでいた。
 五年前と比較にならないほど、街全体が小樽運河問題で揺れはじめているのに、青年会議所もそれから自由に存在出来るわけがなかった。

 「歩こう,見よう,小樽ふるさとへの路」オリエンテーリングは、一見「小樽の『まち』再発見」事業であり、そのような事業の展開であればハレーションは起きないで済む。
 更に、それが成功すれば青年会議所会員の意識の活性化と自信に繋がり、それまでタブー視されてきた『まち』を揺るがす問題への関わりも、抵抗感は薄まる、と踏んだ。
 小樽運河保存運動側も、それが実践されれば良しとした。
 その企画を丸ごと青年会議所に預けることで「小樽運河保存色」が出ず、青年会議所もイニシアティブをとれて都合が良かった。
 小樽運河を守る会・北大大学院グループの戦略の勝利だった。

 このことを通じ、小樽運河保存運動と青年会議所幹部の意見交換のパイプが北大大学院グループを仲介して成立した意味合いも大きい成果だった。
 吉川理事長は気さくな方で、多くの青年経済人が私たちと会うことすら逃げ腰だったが、氏は違った。
 個人的にも会える関係が出来ていくことに、たまらなく嬉しかったものだ。
 勿論、青年会議所内には道路促進派もいたわけで、そこは慎重に振る舞った。
 その吉川理事長に言ったことがある。
   「小樽運河研究講座をJCの主催でやってもらえませんか?
    そうすれば、私たちが主催する今では保存派市民しか参加しない現状を
    打破し、一般市民参加が増え、運河埋立派の方も参加し、真摯な論議が
    できると思うのです。」
 が、さすがに吉川理事長は首を振った。
   「もう、保存派の色が着きすぎていて、そこにJCがというわけにはいか
    ないなぁ。
    JCは、ポートフェスティバルと同じスタンスでないと動けない。」

 吉川理事長も、ポートフェスティバルがあえて小樽運河保存を言わないウルカシ戦術でやっているのを見て取っていた。
 その通りだった。
 小樽運河保存運動を進める意識が出し過ぎ、強すぎると敬遠される。
 何でも小樽運河保存運動サイドがやればいい、というものではなかった。
 
 このように、小樽運河問題を小樽の一大市政課題に浮上させていくことに、様々な手法をつかい、挑戦していった。 
 わずか2年前、息絶え絶えだった小樽運河を守る会による小樽運河保存運動は、甦りはじめ、その裾野を市内全域に拡大することになる。

 この項終わり

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                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ●前【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。