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 飯田勝幸北大助教授による「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」

 
11_01.小樽運河保存派の攻勢は続いた・・

 小樽夢街とポートフェスティバルの攻勢は続いた。
 駅前国際ホテルの2階フロアー広場で、ポートフェスティバルで大好評だった素人出店の通年バージョン、「夢街市場」「夢街バザール」を開催する。

 さらには、ポートフェスティバルのバンド仲間が、「小樽救済ツアー」と称し、室蘭や苫小牧など親しいバンド仲間と相はからって、ロックバンドツアーを敢行し、他の町との連携を深めていった。
 こうして、小樽運河問題は、小樽運河を守る会だけの問題から
  「市民全体にとっての問題
へと、着実に発展していった。
 
 第一回ポートフェスティバルが終了して間もない7月下旬、市内を横断する国道五号線の沿線である稲北地区商店街の住民が
  《道道臨港線既定ルートに絶対反対する住民の会》
を結成する。
 このように、ポートフェスティバルの成功と小樽運河保存四団体の共同アピールに促されたかのように、市民の間での小樽運河問題は次第に裾野を拡大して行った。
 それまで、国道五号線沿いの長橋砂留めから余市に2車線で抜ける旧来の五号線ルートから完全に迂回した、6車線の道々小樽臨港線は砂留トンネルからルート新設した道路となる計画だった。
 国道5号線長橋十字街エリアは完全に取り残される、幹線道路沿いからただの生活道路沿いへ格下げされた。
 長橋地区沿線住民は怒り心頭に達した。
 自らの商圏が崩壊するわけだったから。
 彼ら、長橋地区沿線住民も道々小樽臨港線建設反対の狼煙を上げた。

 翌年の1979(昭和54)年3月には、東京の観光資源保護財団(ナショナルトラスト)が 
  『小樽運河と石造倉庫群』(観光資源調査報告7)
を刊行してくれた。
 小樽運河の歴史的価値とそれを磨くことでの新しいまちづくり提案だった。
 丸文書店に平積みされて販売された。

 夢街やポートフェスティバルが街に向かい、『まち』の中に「小樽運河保存問題」を持ち込んでいくのに、大変貴重なツールとなっていった。
 

10_02. 小樽市の主要道々小樽臨港線計画修正案

 1978(昭和53)年7月。
 第一回のポートフェスティバルが大成功に終わった、直後だった。 
 小樽市は、北海道大学・飯田勝幸助教授に、
  「小樽運河とその周辺地区環境整備構想
を依頼・発注した。
 それは、市議会でもひた隠しにされた。

 第一回ポートフェスティバルが開催される前は、小樽運河保存運動としての小樽運河を守る会を完全に孤立化させ、少数派市民運動に転落させ、市民との間の分断は成功し、小樽運河を守る会は終わったとしていた運河埋立派、とりわけ志村市政だった。
 それが、第一回ポートフェスティバルが開催された月の内に、修正案作製を北海道大学の飯田助教授に発注された。
 第一回ポートフェスティバルの成功が与えた影響が「如何に大だった」か。
 それを如実に示す、運河埋立修正案の作製依頼だった。
 運河埋立派の動揺と受けた衝撃が理解できる。
 
 が、その完成した「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」(通称、飯田構想)の中身はというと・・・・
 

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 北海道新聞社

 上の画像は、道々小樽臨港線工事前の小樽運河を余市側から俯瞰した写真。

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 それに飯田構想では、緑色の部分が6車線道路敷設したイメージとなる。
 
 半年を過ぎて、1979(昭和54)年1月、飯田勝幸北大助教授は
  「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」
の「中間報告案」、それを待っていた志村市長は、
 1979(昭和54)年2月、
  「小樽運河を守る会提出の代替ルート案を逐一検討したがいずれも実現困難」
とする発表をした。

 このように、志村市政は、
  「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」(通称、飯田構想)
を着々と進め、同年2月、小樽市が飯田勝幸北大助教授に委託して策定作業作成が進められ、
  「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」
が、市議会建設常任委員会で初めて公表されることになる。

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飯田構想案の道々小樽臨港線断面図
 
 峯山冨美会長だけが、秘密裏に市役所が用意した車で庁舎に案内された。
 飯田構想のミニチュアモデルを見せられたという。
 当時の西尾章建築部長は、感心(?)して魅入る峯山冨美会長の様子をうかがい、全く手前勝手に、
   「峯山冨美会長はこの案で説得できる」
と安堵したと、後に取材で応えていた。
 全く、どこまでご都合主義的理解なのか、と。
 
11_03.飯田構想の中身

 小樽運河を守る会が設立総会にむけて作成した1974年(昭和49年)の「運動の手引き」での運動当初の対案として
  「小樽運河を守る会の道々小樽臨港線代替3ルート案」
を提案していた。
 
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小樽運河を守る会、道々小樽臨港線ルート代替え案
 
 更に、飯田構想が策定される段階では、小樽運河保存運動側は、市の交通量予測調査結果は過大な交通量に設定されており、保存派が実施した調査では2車線×2車線=4車線で充分の予測交通量であるとした。
 そうであるならば、運河をわざわざ埋める必要はなく、運河の海側を併行して走る「市道港線」を4車線に拡幅する代替ルート案を対案として市に要望していた。
 
 実際は、この飯田構想ではそれは一顧だにされなかったといっていい。
 飯田助教授の案は、
 (1)1966 年当初は、中央に10mの水路を残し、その両サイドに3車線×
    3車線の計6車線の道々小樽臨港線計画だった。
 (2)それを飯田助教授は、運河を幅20m残し、6車線を運河山側に併行
    して建設する
という案だった。

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 ただ市側当初案を、文字通りお役所仕事でただ振り替えただけの案としか、私たちには理解できなかった。
 僅かに緑地と予定した箇所を10mの水路と合わせて20m水路にするというだけの、足して2で割るレベルのものだった。
 
 志村市長がよく口にする、
 「ルートを変更すれば、いったん決まった国の計画は振り出しにもどり、
  いつ道路が出来るかわからなくなる。
とする国の行政への不安からの、全面的代替案「検討不要」が前提の飯田構想だった。

 飯田勝幸北大助教授の評判は聞いていたが、私はがっかりした
 イタリアのベニスの運河沿いの建築群を模したパースが「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」の概要版に付随していた。
 が、実際の飯田構想と比較すれば、付けられたそのベニスの絵が一層アワレに見えたものだった 。 

 「小樽運河全面保存と再活用」という視点からみると、残される小樽運河水面と山側歩道は完全に6車線分で30mもの幅で分断されていた。
 山側に将来配置されるであろう石造倉庫を再活用した商業施設等の利用客や市民が、どうやったら30mもの距離と信号と横断歩道だけで小樽運河水面に気軽に接近できるのか、と誰でも考えてしまう案だった。

 六車線道路で完全に小樽運河水面と市街地が分断されていた。
 40mから約20mに半減された小樽運河に設置される散策路は、落下防止の防護策で小樽運河水面と完全に分断され、とても「親水空間」と呼べる代物ではなかった。

 将来を有望視される北海道大学工学部建築工学科の飯田勝幸北大助教授は、大いにイタリアやフランスなどの運河や河の水際空間や親水空間を参考にされた、と言われたらしい。
 が、その構想のどこにも親水空間という概念のその片鱗すらないという案で、その言葉が信じられなかった。
 
 飯田勝幸北大助教授は、
  「運河に、新しい価値、機能、空間を創造した。
と自ら豪語されたと聞き、耳を疑ったものだった。


11_04.「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」(飯田構想)を了承すべきか、拒否すべきか

 
 1979年(昭和54年)2月21日、飯田助教授は大型の構想模型での説明と発表のためには、通常開催される本庁委員会室では手狭で、会場を市民会館会議室に写し、市議会建設常任委員会を開催し、飯田構想の「中間報告」がその場で発表された。
 その日、建設常任委員会終了後、峯山冨美会長だけが市民会館に招かれ、市の幹部から模型を見せられ、簡単な説明をうけた。
 
 峯山会長からすると、それでも昭和48年の保存運動開始時以降からの市の問答無用姿勢に遭遇し続け、「知らしむべからざる」という姿勢に遭遇し続けてきた。
 その市が一転し、修正案を作成し、会長に市議会建設常任委員会と前後して提示たという点では、評価した。
  「よくここまでやって頂いた。
   そのご苦労には、ありがたく感謝申し上げます。」
という、儀礼をつくした発言をされた。

 あろうことか、市側はそれで峰山会長は「小樽運河とその周辺地区環境整備構想(飯田構想)」を了解してくれる、と受け取った。

 同24日に、小樽運河保存派は初めて市側からの説明を受けた。
 しかし、この2月24日以前にも以後にも、飯田勝幸北大助教授とその研究室スタッフは、一度として小樽運河を守る会や小樽・夢の街づくり実行委員会に正式にヒアリングをしたことはなかった。
 いわゆる、小樽運河保存運動の主体には事前ヒアリングは一切なかった
 今の時代なら信じられないことだろう。
 まったく、運河保存を求める小樽運河を守る会や小樽夢の街づくり実行委員会にヒアリングもしない、市民の意見を聞き取りもせずの市民不在構想作成だった。

 この飯田構想は、所詮小樽市だけと調整がなされ、完成し、公表された、一方的なものだった。
  「さあ、どうだ、この構想を吞め」
というオカミ意識丸出しの姿勢だった。
 あわよくば、全面屈服し丸呑みするか、逆にこの「飯田構想」で小樽運河保存運動側が賛成・反対で論争が起こり分裂に到り、盛り上がる小樽運河保存運動が衰退してくれるのを期待する案でしかなかった。

 市内の新聞各社とTV各局は色めき立った。
 小樽運河を守る会や夢街がその「小樽運河とその周辺地区環境整備構想(飯田構想)」を正式に会議を設定し論議する前から、取材が押し寄せた。

 小樽運河を守る会も夢街も正式会議にかけた。
 これで妥協すべきだ、という意見は出たことは出たが、圧倒的に少数であった。

 私は言った。
  「小樽運河を守る会の運動、そしてポートフェスティバルと共同アピールか
   ら始まる昨今の小樽運河保存運動の裾野の拡大で、一応はここまで行政は
   譲るとする案を出してきた。
   ここまで妥協した案を引きずりださせたのは、ある意味運動側が頑張って
   来た成果と言える。
   まず、峯山冨美会長以下の小樽運河を守る会の面々と、わが夢街とポート
   フェスティバルのみんなの頑張った成果だ。」
 
と、ここまで言うと、夢街の皆は怪訝な顔をした。 
 小川原は、ここで妥協しこの飯田構想を承認し呑むというのか?、と。
 この夢街・ ポートフェスティバルのスタッフの怪訝な顔を見て、山口も佐々木も、そして私も、安心した。
 大半が、この飯田構想は飲めないと思うから、怪訝な顔をしたのだった。
 私は続けた、
  「しかし、これは足して2である案で、小樽運河保存とりわけ再生再活用も
   含めた『まちづくり』思想は、全くない
   天下の北大の先生の制作になるというが、信じられない。
   飯田助教授は発注者の市側の要望を組み込む圧力で、こんな絵になったの
   だろう。
   百歩譲っても、運河沿線の石造倉庫群をどう活用するのか、どのような商
   業施設や宿泊施設、公共施設を配置するのかもない、六車線道路ありきの
   「大道路主義」の代物でしかない。
   ここまで小樽市や道路促進派に妥協案を出させた理由は、小樽運河保存運
   動が様々な代替案をつくり、対案提起型市民運動で全面保存を唱ってやっ
   てきたからで、それが唯一の理由だ。
   最初から妥協しようとしていたら、この飯田構想さえ検討されることはな
   かっただろう。
   と言うことは、この飯田構想で妥協するのではなく、更に全面保存と再活
   用を訴えるまちづくり市民運動を一層拡大発展させ、この飯田構想以上の
   構想を引きずり出す、代替ルートと保存・再生・再活用を再々度行政が構
   想として再提案せざるを得ない状況に、もっていく。
   そのようなまちづくり市民運動を、今後も怯むことなく展開すべきだ。」
と。

 東京・札幌・旭川の小樽運河保存団体の意見もきかねばならなかったので、態度表明には到らなかった。
 そして、マスコミは取材攻勢をかけ続けてきた。
 

10_05.「小樽運河とその周辺地区環境整備構想(飯田構想)を呑め」と言う圧力

 私がもっとも信頼している新聞社の小樽支局長が来店された。
 即、山口にも声かけると、同席した。
 支社長は・・・・

  「ここが大事だ。
   この飯田構想は、小樽運河保存運動が頑張りに頑張ってきて得た成
   果で
あり、ここまでの案を引きずり出したのは、小樽運河保存運動
   の勝利だ。
   ここで矛を収めて了承し、小樽運河保存運動として、
   勝利宣言をすべきだ。

 
と言って来た。
 私も山口も唸った。

  「ほぉぉ、山さん、昔、俺たち学生運動では、実際は敗北したのに
   、政治的には勝利したなんて、言い訳がましくいったもんだった
   よなぁ。
   政治的大勝利だ、なんてアジテーションしたもんだよな。
   でも、もう二度と他人も、そして自身もそんな言いくるめる主張
   など、絶対しないと思って、小樽運河保存運動保存運動をここま
   でやってきたんじゃなかったか。

 
 そして・・・、

  「それが、余暇開発センターと共同で「都市開発と歴史的環境の調和
   を考える:小樽運河問題によせて」と題する講演会、通称「筑波会
   議」を開催し伊藤延男,稲垣栄三,木原啓吉らの各氏が講演した
   フォーラムを主催した貴社の考えか?
   小樽でも小樽版筑波会議を市民会館で開催し、通産省(現・経済
   産業省)事務次官・佐橋滋の「歴史価値・歴史的投資」と題する
   講演で、俺たちを唸らせた新聞社なのですか?
   
と突き放した。 
 支社長は、

  「小樽運河保存問題は、もはや政治だ。
   行政も道路促進期成会側も飯田構想は最終的妥協案だとする認識
   で、一致
している。
   運動の論理だけで単純に決めるのは子供だ。
   これを拒否すれば、今まで以上の全面戦争になり、保存派への締
   め付けも
今までになく厳しくなるだろう。
とも言ってくれた。
  「子供かどうかなど、どうでもいい。
   小樽運河保存運動は、全面保存と再活用でここまできた。
   小樽運河問題が政治に入ったという意味は理解できる。
   だったら、政治で語ろう。
   最大限の要求を妥協しないでここまで来たから、飯田構想を引き
   ずり出せ
られた。
   例え、この飯田構想を吞まないで運動を続けても、行政と道路促
   進派はこ
の飯田構想を市議会にかけ、承認し、これで実施してい
   くのだろう。

   ということは、私たちが飯田構想を吞んでも吞まんでも、そうす
   るわけだ。
   だったら、今、吞んで妥協するのがいいのか?
   申し訳ないが、小樽運河保存運動側が、この飯田構想を拒否して
   も、政治的に失うものはないでしょう。

   その妥協を、貴方は勝利と呼ぶのか?

   市民が自分たちのまちづくりに自己決定権を持たねばならんのに
   、彼我の
力関係だけで選ぶのが政治なのか?
   それが大人の政治なら、運動など最初から
しない方が良かったん
   じゃないか?
   飯田構想を巡って、行政や道路促進期成会側と保存団体で共同の
   テーブル
について論議も交わさないで、これを吞めっていうのは
   、経済界重鎮政治
決定構造をそのままにするってわけで、市民社
   会や市民自治を問いかける
運動だとした新聞社が、それで勝利と
   社説で書くつもりですか。



 新聞社支局長は、天を仰ぎ帰っていった。
 花園町の酒亭Sの女将からも、呼び出しがかかり行く。


     「ここで妥協せよ
 

とは女将は用心して言わなかったが、女将には珍しく奥歯に物の挟まった言い方をしてきた。
  自分の気持ちをストレートにすぐいわず、
 

     「 峯山会長は、ぶれてません。
 

といい、自分の考えはわざと言わないで酒を呑み殺す。
 妥協を進める方がいいのか、妥協を拒否せよという方がいいのか、迷っている女将がいた。 
 おそらく、市や経済界の顧客から保存派が同案を吞むように説得してくれ、と阿吽の呼吸で頼まれていても不思議ではなかった。

    「女将さん、飯田構想を吞んで小樽の『まち』には何が残るんでし
   ょうかねぇ」

 
と、逆に女将に聞く私がいた。
 女将も、答えられなかった。

 それから1週間、夢街例三チームは、各新聞社小樽支局を一升瓶を持って夜討ちしてまわる。
 まず、マスコミを敵に回さない、という配慮だった。
 とことん話し合って、
  「飯田構想拒否はやむを得ない」
ということを、記者と共有しないとならなかった。

 一番最初に、飯田構想を吞むべきと奨めてきた前述の新聞社支局長を夜討ちし、私たちの拒否を賛成するようになってくれた。

 正式に、保存四団体は
  「小樽運河とその周辺地区環境整備構想(飯田構想)反対
を表明する。
 夢街のミニコミタウン誌である「ふぃえすた小樽」(1979.04)で、美唄高校から異動された駒木定正氏・小樽工業高校教諭(建築、現北海道職業能力大学校教授・小樽市景観審議会会長)が「飯田構想」批判を掲載する。

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 長いものには巻かれろ的な教師が多い中、北海道の建築界に隠然たる力を未だに持つ北大閥。
 その北大建築工学科で将来を有望視される助教授の構想を公然と批判する。
 若い私達はその毅然とした駒木先生の姿勢に感動すら覚えた。
 が、当時駒木先生が置かれた立場をどれほど理解していたか・・・。
 
 行政と道路促進派以外に、小樽運河保存派の「飯田構想拒否」を問題ありとする市民は少なかった。
 正直、安堵した。

 しかし、当然この飯田構想拒否はさらに激しい対立を生んでいくことを覚悟しなければならなかった。

 その年、1979(昭和54)年11月、第四回小樽市議会第四回の総務・建設の両委員会は、保存派4団体(小樽運河を守る会,小樽運河問題を考える会,おたる総行動実行委,夢街)の保存陳情4件を不採択し、道路建設促進の陳情2件を強行採決する。
 
 小樽運河保存四団体は、翌年の春に
  「全国町並み保存連盟
の大会である、全国町並みゼミを小樽に招聘することを決め、全国各都市のまちづくり市民運動の総結集で、小樽市の運河埋立堅持路線と対峙することを決定した。
 
 そして、師走も押し迫った11月末、市内に
  『小樽運河条例をつくる直接請求の会
が結成され,署名活動を開始する。

 共産党主導の、共産党系労働団体が呼びかけたものだった。
 政党がやることを云々しても意味がなかった。
 どう公平に考えても党利党略が透けてみえた。
 それ自身に対して「夢街」が取る態度は自ずから決まっていた。
 
 しかし、この共産党系労組団体が仕掛けてきた直接請求論議をする会議で、運河保存派にとって衝撃的な事態に遭遇する

  この項終わり


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                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。