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 冬の北運河

12_01.贔屓の引き倒し
 
 1979年(昭和54年)11月13日。
 小樽市市・都市計画審議会は、市が発注した北大工学部飯田助教授による「運河公園化構想」を「主要道々小樽臨港線計画」に組み込む「変更素案」を質疑打ち切りにした。
 翌14日、市議会総務・建設両委員会で保存派陳情四件を却け、道路推進派二件の陳情を強行採決した。

 小樽運河問題における市議会多数派の強行採決に次ぐ強行採決をみてきた私たちには、行政、市議会、道路促進派は、
  「真摯な論議は無用でこれからすべて小樽運河問題は強行採決で行く
という、市議会を自ら否定する数の論理だけという政党に映っていた。

 残る当年度の行政手続きは、12月の定例市議会本会議採決、という非常に緊迫した状況に突入する。 
 
 
12_02.共産党系団体の「小樽市運河問題調査審議会設置」直接請求


 1979年(昭和54年)11月22日、革新団体・おたる総行動実行委員会・代表金山信雄氏を会長とする
  『小樽運河条例をつくる直接請求の会
(以下、直接請求の会と略)が結成される。
 地方自治法にもとづく「小樽市運河問題調査審議会設置」を求めて、条例化するという署名運動の展開を決定した。

 この直接請求署名運動を取り組む際に、共産党小樽地区委員会とおたる総行動実行委から、小樽運河を守る会・峯山冨美会長に、
  ・直接請求の会の責任者の一人になり、
  ・小樽運河を守る会も共同歩調を取る
よう呼び掛けがあった。
 この討議をしようと地元の小樽運河保存派は、会議をセットした。

 会議に臨むと、驚いたことに、
   小樽運河を守る会・元事務局長・藤森茂男氏
の姿が、そこにあった。
 3年半ぶりの姿だった。 

 藤森茂男氏は、1976年(昭和52年)5月、健康上の理由で小樽運河を守る会事務局長を突然辞任され、その年末大晦日直前自ら経営される宣伝広告会社が倒産、更に脳溢血に数度襲われ闘病生活を強いられ、とても小樽運河を守る会会合に出られるような状況ではなかった。
 その小樽運河を守る会の全活動から三年余りも完全に離れていた藤森茂男氏が、何の予告もなく、もう席についておられた。
 共産党系労組団体と小樽運河保存運動派の間に座られていた。

 そして会議が始まると、なんと藤森茂男氏は、
  「直接請求の会」と小樽運河保存派が共同歩調をとる
よう、小樽運河を守る会や夢街に求めてくる事態が現出する。

 確かに小樽市議会をめぐる状況は、充分な審議なしの審議打ち切り、強行採決が連続し、一連の市議会多数派主導による議会運営に野党は手も足も出ない状態だった。
 しかし、この運河埋立強行路線は、彼等の余裕からきたものではなかった。
 その強行路線の裏には、
  ・ポートフェスティバルの成功
それに続く、
  ・東京小樽運河を愛する会結成、
  ・小樽運河を考える会・札幌、旭川の会の結成、

その4団体を加えた
  ・「小樽運河共同アピール」の全戸配布
等で、市民レベル、道民、国民レベルにまで「小樽運河問題」が広がり、総じて小樽運河保存運動の裾野は着実に拡大してきていた。
 それに、驚愕し、焦る、行政側の危機感からの強行突破路線であった。


12_02.ここに至っては・・・

 共産党と「直接請求の会」諸氏は
   「ここに至っては市民運動と政党との関係などを、とやかくいっている
    時期ではない。」
と、峯山冨美会長宅を訪ね、詰め寄りもしていたとは聞いていた。

 だが、「ここに至って」という判断を、私たちはしていなかった。
 何が、そもそも、「ここに至って」なのか、と。 
 小樽運河保存運動は、行政手続きの進捗に左右される運動ではなかった
 そもそも、行政手続きの進捗だけで判断していたら、小樽運河保存運動のその立ち上がりはあまりにも遅かった。
 行政手続きの進捗だけを見るなら、もはや異議申し立ては無理と、誰も小樽運河保存運動には参画しなかっただろう。
 小樽運河を守る会が立ち上がった1973年(昭和48年)のときでさえ、もう道々小樽臨港線工事は、今のメルヘン交差点と呼ばれる入船町五差路にまで既に進捗していたのだから。
 そのような市議会の進捗に左右される市民運動なら、この時点でとうに勝負はついていた。
 又、単純に市議会や行政に反発し、それに対しエキセントリックな「反市議会・反行政」の姿勢など、小樽運河保存運動は保持してはいなかった。
 当然、市議会・行政の動きを最重要視した。
 だからこそ、小樽運河保存運動は、市議会動向や市議会議決進捗にのみ束縛・拘束されたりする市民運動では「出だし」からなかった
 まだまだ、小樽運河保存運動は続く。
 遅まきながらではあっても、ポートフェスティバルの成功を端緒に、小樽運河保存派=アカとする保存運動の孤立化キャンペーンを吹き飛ばし、やっと市民運動へのまともなな理解が市内に醸成されてきていた。
 「知らしむべからず」という行政の市民に向かう姿勢に対して怒っていたからこそ、小樽運河を守る会運動は成立したのであった。
 議会の動向で市民意識が変わるなら、それは市民を逆に軽くあしらっている証拠でもあった。

 それなのに、
  「行政手続きの進捗局面ごとに、危機感と焦りから、特定政党とその傘下の
   労働団体との共闘関係
を形成するなど、とても私たちが採用できる路線ではなかった。
 それなら、
  「連続してさんざん強行採決をされてしまった後からの直接請求は、あまり
   にも遅れを取りすぎてはいないか」
と、市民から問いただされたらどうすのか、としていた。
 
 それは、
  「やっと地元市民の警戒心を解きほぐし、市民運動としての盛り上がりの
   端緒を再度切った小樽運河保存運動を、特定政党とその傘下の労組との
   共闘は、元の木阿弥の少数派に転落させるもの」
としか、私には理解できなかった。 
 今更、運動を小数派運動にみずから引きもどす路線を採用するなど、ありえなかった。

 そもそも、「直接請求」制度自身に問題があった。
  ・所定の署名数(選挙人名簿に記載された小樽市民の50分の1)が集まり、
  ・それを小樽市選挙管理委員会が選挙人の署名に相違ないかをチェックし、
  ・成立する署名数に到達していると認められても、
  ・直接請求の内容を審議する前に
  ・「小樽運河条例審議会」を設置するか否かの「入口」で、市議会本会議
   で採決
する
にすぎなかった。
 それを当時の状況に照らし合わせると、自民党以下道路促進路線の政党が市議会で多数派を握る以上、
  ・審議前の「入り口」で、明白に一発で否決される
、ということだった。

 例えば、自民党以下市議会多数派が数の論理だけでは、入り口で否決することが出来ない状況がつくられているのであれば、全市的に取り組むことを検討しても良かった。
 そもそも、そのような状況を全市的につくってもおらず、町を二分するような状況をつくらないままのただ直接請求というツールを使うだけでは、そもそも限界がある、ということだった。

 直接請求本来の目的である「小樽運河条例」の中身・内容を、市議会内で審議される展望は、皆無に近かった。
  ただ審議会を設置の有無という「入り口」で否決する側にまわった道路促進
  の政党を批判・非難すれば、
自らの政党・団体の正当性を宣伝できる、極め
  て
政党色の強い試み
を、私たちはする気は毛頭なかった。。
 市議会多数派の酷い行為と糾弾するだけしか意味しない路線などを取り立てて攻撃して何か成果があるのか、とした。
 それは、政党の論理であっても、市民運動の論理ではなかった。
  「汗水流して、雪や嵐の中を街中の家々を回って署名を求める活動を担って
   も、なおかつ
目的のはるか以前の段階、『入り口』で否決される事が明白
   という運動方針
は、政党党員や連携労組団体は担えても、折角の市民運動として盛り上がりの端緒を再度切った小樽運河保存派は、採用できなかった。
  「今の小樽運河保存派に、弾性疲労しか残さない
と判断せざるをえなかった。

 私の描く弾性疲労を残さない署名集めは、
  「圧倒的な小樽運河保存運動の高揚とその状況下でただ数の論理だけでは
   否決できないような圧力を市議会多数派へかけられ、市民の包囲網があ
   り、当然直接請求が成立する署名数が展望できる状況下
でなければ、そもそも方針化すべきでない、と判断していた。
 
 「ただ直接請求が成立する署名数が確保できる」という条件だけで、あとの二つの条件は、まだ満たしている段階には全く到達していない現状だった。
 市民感情は、未だそこまでは来ていないというのが小樽運河保存派の一致した情勢判断だった。
 結局、そのような弾性疲労しか産まない方針を採用するということは、私からみればポートフェスティバルの開催や夢街結成や小樽運河保存共同アピール全戸配布を展開してきた小樽運河保存運動を、
  「まるで党的高みからみ、自分たちで動かせる駒・物理力としか見ていない
   立場で発想している」
としか、見えなかった。 

 そして、残念なことに直接請求の中心母体「おたる総行動実行委」は、彼等自身がいくら「一般的な市民労働者団体」だと叫んでも、その一般市民は文字通り
   一〇〇%共産党系の労働団体
と受けとめていた。
 「直接請求の会」に峯山会長が名を連ねるという事は、小数派運動からの脱却を目指してやってきたこれまでの運動の成果を、とりわけ藤森茂男氏が去って以降のこの三年半以上の小樽運河保存運動の苦闘の末の、やっとこじ開けた到達点を、
   自らドブにすてる事
、と私は判断した。

 更に、直接請求の署名数が、逆に
   行政側に小樽運河保存賛成の声の数的判断を与える事の得失
をも考えざるをえなかった。
 まだまだ、下手な署名数で行政側に埋め立て促進の数的根拠を与えるわけにはいかなかったのだった。
 

12_03.小樽運河を守る会・元事務局長・藤森茂男氏の突然の再登場

 私の気持ちは固まっていた。

 が、一番困ったのは、突然登場した藤森茂男氏と密接な人間関係をかつて構築していた人々だった。
 小樽運河保存運動結成当初から密接な人間関係を構築した、運動当初から頑張って来た小樽運河を守る会の人々であった。
 そして、運動当初から、小樽運河保存運動はあくまでも、
  「個人参加」
  「政治をもちこまない運動」
という主旨を貫くとした確認を、若手の小樽運河を守る会の会員に教え込んだ人こそが、藤森茂男氏その人だった。

 保存運動初期を全面的にリードした藤森茂男氏が、
 小樽政財界重鎮の政治的圧力で事務局長を辞任させられ、 
 1977年(昭和52年)病魔に犯されて、
 加えて、自らが経営する会社の倒産と更なる病魔に冒されて、
 やむをえず、運動から離脱しての1979年、三年半だった。
 
 その間、藤森茂男氏の三年半のブランクを埋めるための意見交換は、一度としてなかった
 藤森茂男氏からそのブランクを埋める作業に協力してくれ、と言われたら、皆、忙しさを押して跳んでいっただろう。
 しかし、そのような声掛けは私たちには、なされなかった。
 つまり、三年間のブランクを克服するための信頼関係再構築もされないままの、いきなりの「共産党系労組との共同行動」を要求されてきたわけだった。
 それまでの、小樽運河を守る会の会議にも、今回の会議の事前準備会議にも参加などされていなかった。
 そして、突然再登場し、全面的に共産党系労組団体との連動・提携を主張する・・・わけだった。

 藤森茂男氏が、戦線離脱前に主導し教示してきた、市民運動の基本的確認を全面転換するこの主張に、小樽運河を守る会の面々は色々苦慮し、推し量った。
 いたたまれず、藤森氏に、
  「個人参加と政治を持ち込まない市民運動と教えてくれたのは、藤森さん、
   アナタでははなかったのか
と、保存運動側の誰かが問い直すと、
  「俺に説教するのは、一〇年早い
という、実に感情的で、エキセントリックで、傲慢ともいえる物言いが氏から返ってきた。
 
 皆、驚愕した。 
 かつて、氏からこのような乱暴で突き放すような言辞な、誰も聞いたことはなかった。
 一体、藤森茂男氏の中で何が起きてしまったのか、と皆推し量った。
 
 私は、ポートフェスティバル第2回の委員長を引き受けたとき、藤森茂男氏の入船町の自宅に、その就任挨拶でお邪魔した。
 藤森茂男氏の会社倒産直前に連絡を受け、倒産差し押さえ前に、会社にあるポートフェスティバルが使えそうなコンパネや垂木などを持ち出させてもらった。
 会社倒産という大変なときに、私たち若者の小樽運河でのイベントに気配りしてくれる藤森茂男氏に感謝の言葉もなかったくらいだったから。
 室内でも切なそうにステッキをつかれ、それでも立ち上がり、部屋にあがるよう促してくれた。
 藤森茂男氏の身体具合を考え、三〇分くらいの挨拶と会話と思っていた。
 が、話が終わった時、時計は1時間半進んでいた。
 訥々と小樽の経済界の体質や『まち』の政治風土を語り、
 ポートフェスティバル委員長として配慮すべき諸点を諭すように語り、
 自らが小樽運河保存運動から去った事を悔しそうに口にされても、
 その事情を口にするのを最後まで言い淀んでおられた。
 篤実な人と印象深くしてお宅を後にした。

 その藤森茂男氏が、例え共産党市議や労組関係者が同席している手前とはいえ、そんな居丈高で傲慢ともいえる言葉を口にされた。
 小樽運河を守る会と夢街の私たちは、絶句した。

 「俺に説教するのは、一〇年早い
という台詞には、同志的、師弟的、相互承認と信頼し合う姿勢、そして3年半運動から召還していた間の若者達の奮闘への感謝などは、皆無だということだった。
 藤森茂男氏は、目線を最後まで私と合わせようとはしなかった。

 氏は、事務局長を辞任して以降の、少数派運動という困難性を突破し、以降の運動全般を担い抜くことを通して成長した、自らの後輩、いや弟子達である小樽運河を守る会若手を
  「承認しない
と言っているのも、同然だった。
 
 私は、腹に力を入れ、意見を表明した。

  「情勢分析がおたる総行動の皆さんとは全然ちがっている。
   未だ、小樽運河を守る会の路線、
    「個人参加」、
    「不偏不党」
   を全面的に変更し、一政党だけと共闘を組むような状況という認
   識は、私には全く持てない。
   折角、ポートフェスティバルの誕生と成功で、小樽運河を守る会
   =共産党=アカ=オカミに逆らう輩
という小樽運河保存運動への
   偏った見方から、保存運動はまともに市の将来を真剣に考え実行
   している、という見方に多くの市民が変わってきた。

   おたる総行動の方々には申し訳ないが、一般世間はあなた方を共
   産党系労組とみなしている。
   それは、致しないとしても、今回の直接請求は今採用すべき手法
   なのかと言う点で、大いに疑問がある。
   そもそも勝てるならまだしも、折角汗水垂らして直接請求成立の
   署名数をクリアしても、審議前の市議会本会議でものの数分で門
   前払いされるのが解っている手法を、なぜ取ろうとするのか。
 
   今、何を好きこのんで運動側に弾性疲労しか残さない直接請求を
   しなければならないのか、お話聞いても理解できない。
 
  やっと、まともに保存運動への市民評価が高まっているときに、
   一党一派とスクラムを組み、結果自ら孤立するのを再度招くよう
   なことを敢えてせよと言われるのも、理解できない。
 
   以上の疑問から、夢街としては、直接請求署名運動に加わること
   ができない。
   夢街の個人が参加することまでは、規制はしませんし、そんな政
   党のような拘束などそもそもありませんので。」

と、態度を明確にした。

 夢街を代表して私は、そう態度をはっきりさせた。
 山口や石塚、そして峯山会長以下小樽運河を守る会結成当初の会員は、藤森茂男氏と直接衝突するのは躊躇していると思ったからだった。
 彼らをフォローする役割と割り切らざるをえなかった。
 結局、山口・石塚両氏もその立場を取った。
 が、藤森茂男氏の事務局長時代を共にされた峯山会長以下の、小樽運河を守る会の当初からの会員である北村総司子・森本光子両副会長らは、苦しい立場に置かれた。
 小樽運河を守る会は、結局、悩んだすえ、
  「組織としては直接請求署名運動には関わらないが、
   個人としては署名運動を担う

となり、会議は終わった。

 全く、まだ完全に体調が戻っておられないのに、そそくさと共産党系労組と一緒に藤森茂男氏が会議場から帰っていった。
 藤森茂男氏のその背中は、残って私たちと個別に話し合うことを完全に拒否していた。
 
 藤森茂男氏は、いまだに自分には小樽運河を守る会前事務局長としての
  「権威と統率力
がある、と思われていたのであろうか。
 いや、その藤森茂男氏の思い込みに、共産党系が依拠して藤森茂男氏を会議に同伴したわけか。 
 3年半という時の流れが、一方で、藤森茂男氏を自己肥大化させ、他方、夢街など小樽運河保存運動の若者たちを政治的に訓練していた。
 私たちは結局、初心を貫徹した。
 個人として、直接請求の署名運動に関わるのは反対しないが、「小樽運河を守る会」や「夢街」としては、かかわらない、と。
 実に後味の悪い決断だったが、路線的には明確な決断だった。
 が、人間的な関係では重く切なくやるせない決断だった。
 
 それは、単に直接請求署名のための会議の終わりではなかった。
 それは、小樽運河保存運動がクリアしなければならない「大きな終わり」を意味した。
 第一期小樽運河保存運動で成立した人間関係の、政治的「決裂と精算」だった。
 小樽運河保存運動の初期からそれまで培われた人間関係の「終わり」だった。

 これ以降、私たちは、どう冷静に見ても残念ながら藤森茂男氏は、日本共産党が小樽運河保存運動におけるイニシアティブを巡る組織的介入の場面での、「ツール」的存在になってしまった。
 小樽運河保存運動の若い世代は、口にはしなかった。
 が、
  「藤森茂男氏は、共産党の党員になったのか?」
という言葉を口にするのだけは、かろうじて口にはしなかった。

 いずれにせよ、この直接請求の署名運動に、小樽運河を守る会と夢街は、会としては参加しなかった。
 峯山会長以下の小樽運河を守る会の初期からの面々は、個人として涙ぐましいほど一生懸命署名を献身的に集め回った。
 峯山冨美会長の人間性のなせる姿勢であり、頭が下がる思いだった。
 頑張り奮闘して、峯山冨美会長の意識が解放される活動であったなら、どれだけ良かったかと思う私だった。

 直接請求の結果は、必要な市内有権者数の50分の1を軽く上廻わる
   5万2百人以上
の署名数を、市選管に提出した。
 市選管チェックを受けてた結果、有効署名総数は、
   37,208人
の署名を獲得して、直接請求は成立した。
 が、翌1980年(昭和55年)2月召集された臨時市議会本会議の招集日のその日に、道路促進派の手で、この直接請求はものの数分で否決された
 門前払いだった。
 2ヶ月間、真冬の市内を駆け巡って集めた署名が、その日の内に開始から数分で否決される、という取り扱われ方だった。
 この市議会の姿勢は、非難されて当然であった。

 だが、私たちは「直接請求の会」と日本共産党系の運動の組み立て方も、建設的に批判しなければならない。
 一言で署名総数37,208人というが、その署名を集めるのに日本共産党関連団体は、そのもてる力の全てを動員してのものであった。
 日本共産党小樽選出道議会議員の得票数が12,000票前後であるから、
  彼等の組織票の3倍以上を越えた数字
と、言える。
 それだけ、市民の小樽運河問題への意識は、高まりつつあることを意味した。
 しかし、彼等はこの折角の37,208人の市民の署名を、市議会での小樽運河問題審議会設置条例の「数分での採決」だけにしか、使わなかった
 この37,208人の署名を集め回った人々を、以後の小樽運河保存運動に参画させることは、ついになかった。
 この37,208人直接請求署名を、彼等は全力で担いながら、市議会否決をもって捨ててしまった。
 この署名運動に関わった多くの市民は、決して日本共産党員だけではなかったであろう
 この署名運動に関わった市民の多くは、自分も小樽運河保存運動を担ったと意識されたことは明白だった。
 この37,208人の署名した人々を市議会採決だけで、決して放置しないで、採決以降にこそ組織化することこそ、直接請求署名を運動として展開する本来的意味あいであっただろう。
 但し、小樽運河保存運動において組織化するということは、現実には今蘇生した「小樽運河を守る会」に組織化する事小樽運河を守る会「会員」に加入してもらうことを意味する。
 
 が、彼等は37,208人署名を市議会にむけた、「小樽運河問題審議会設置条例の「採決にのみ」の限られたものとしてしか位置づけなかった。
 この37,208人の署名した人々に呼びかけ、「小樽運河問題審議会設置条例否決を許さない」集会を開催し、更に次の課題は何かを提示し、小樽運河を守る会に入会を要請する、ことも・・・なかった。
  彼らの党にその担い手の人々を囲い込んだ
のかどうか、私は生憎そこまでは知らない。

 もし、私が共産党系労組団体の指導部であれば、その3万7千の署名の人々を、小樽運河を守る会に入会してもらい、その圧倒的加入数を背景に小樽運河を守る会役員体制と執行部の再編成を要請し、その小樽運河を守る会役員会体制を強化し、そこで彼らのイニシアティブを確立する、としただろう。
 そういう度胸と決意を、わが共産党系労組団体は持ち合わせていなかった。
 持ち合わせていなくて安堵した。
 要は、指導権を握るという小樽運河保存運動への責任感はなかったのだった。
 だから、私は、共産党系労組団体は「政治的利用主義」だと思うし、「政党による引き回し」であり、「議会主義」だと思う。

 最も最初から小樽運河保存運動に参加してきた政党であり、小樽運河埋め立てを主張する労組や労組幹部を抱え込む社会党小樽総支部が陳情などで紹介政党になることさえ逃げるのに比し、小樽の共産党はそれを積極的に引き受けてきた。
 この共産党が、名を捨てて実を取る路線を採らないのが本当に不思議であった。

 この政党と関係労組等のこの時期の小樽運河保存運動への関わりは、まだ
  「贔屓の引き倒し
というレベルで、すんでいた。
 しかし、これから更に5年後の、1983年(昭和58年)から1984年(昭和59年)の小樽運河保存運動の最高揚期に、この政党の完全な「主導権争奪のための」小樽運河を守る会と小樽運河百人委員会人での振る舞いは、とても「贔屓の引き倒し」のレベルではなく、まるで私たちを敵対勢力と位置づけて襲いかかってくるようであった。
 申し訳ないが、私はいくら日本共産党をこのように批判するからといって、敵対などするつもりはないし、そのような振る舞いなどしない。
 小樽運河保存運動の最高揚期時の彼らの振るまいだけは、忘れようがないだけである。

 革新団体・おたる総行動実行委員会・代表金山信雄氏を会長とする『小樽運河条例をつくる直接請求の会』は、市役所で記者会見し、小樽運河問題調査委員会設置条例を否決したことを強く抗議し、そして直接請求署名運動は・・・終わった。
 
 

12_04. もう一つの贔屓の引き倒し
    ー小樽運河を愛する会会長・夏堀正元氏の場合ー
 
 いずれにしても、直接請求をめぐる日本共産党の姿勢は、以上であった。

 しかし、もうひとつ「市外からの『贔屓の引き倒し』」には、これまた困ったものであった。
 この藤森茂男氏と同じ主張をする傾向が、小樽運河保存運動の支援団体からも出てきた。
   小樽運河を愛する会(東京)・夏堀正元会長
だった。
 氏は、突然、月刊雑誌の「宝石別冊」誌や「中央公論」誌上で、この直接請求に対する小樽運河を守る会や、とりわけ小樽・夢の街づくり実行委員会に対して、
  「共産党と一緒に動かないなどという時期は過ぎた。
と、地元の運動を突然批判してくれた。
 

  「市民運動は政治ではないが、
   とくに地方では政治の壁にぶつからざるをえない時がおおい。
   そのときオレは政治が嫌いだといって逃げだすのが利口というべ
   きか、間違っているというべきか、じっくり考えて欲しい。 
   市民運動はお祭騒ぎではないという事も。」
 
とも。

 「市民運動はお祭騒ぎではない」は、あきらかに、前述の「小樽運河問題調査審議会直接請求」への小樽夢の街づくり実行委員会とポートフェスティバルの関わり方をさしての批判であったのは、明白だった。
 中央公論誌上では、私は実名で非難を受けた。
 光栄の至りだった。

 夢街やポートフェスティバルに、手紙やファックスや電話などで、
  事前に意見してきた
わけでもなかった。
 いきなりだった。

 現地運動主体と支援団体という当たり前の関係、
  「互いを認め合い尊重しあいながら論議を進めて行くという信頼関係」
に乗っ取った姿勢とは、1ミリも受け止められなかった。
 大人の取る態度ではなかった。
 幸い、小樽でこの両雑誌に掲載された夏堀正元氏の批判文を呼んだ方が少なかったことだけを、かろうじて安堵した。
 
 私が理解するに、夏堀氏にとっては、
  「政治とは、『今頃になって』特定政党と一緒に運動する」
ことらしいが、もうしわけないが小説家大先生の夏堀正元氏に敢えて言えば
  「地元小樽の小樽運河保存運動は、日々、毎日、全てが政治
であることを、理解されていないだけの話だった。

 夢街とポートフェスティバルは、氏に言われるまでもなく政治を回避する気など毛頭なく、常に政治的に考え、対処することを日々強制させられていた。
 
 その一環として、この共産党系労組主導の「直接請求署名運動」が、どう「政治的」効果を生むのかを「政治的」に見極めようとした。
 夏堀正元氏にとっては、共産党系労組団体と共闘組むことだけが「政治」らしいが、小樽運河保存運動下の小樽の街の政治は、そんな軽く、狭く、浅くはないのである。

 小樽運河保存運動の発展のためには、かつての自らの運動の教師であり運動の創設者であった人とも「政治的」に袂を分かっても、「個人参加」と「政治をもちこまない運動」として担い抜くと、政治的に決めていた

 小樽運河を守る会の副会長らは蛇蝎のごとく裏切り者扱いされ、他方、私たちは「隠れ保存派」と位置づけた街の経済人たちとの内密の接触を地道に押し進め、ポートフェスティバルの寄付金募集に名を借りて、街の政財界重鎮に正々堂々面談を求め毎回2時間近く小樽の街の将来像を巡って論議し、現役青年経営者の青年会議所執行部とも様々に接触するという、極めて政治的な活動をする日々であった。

 学生運動経験から、学生運動をやっ竹井軒のある市役所の労働組合・市職労(自治労)活動家を通じ、当時の総評傘下の北教組や全逓などの組合執行部とも接触をし、連合の前身・地区労の大橋書記長にみられる運輸労連系の反小樽運河保存運動姿勢に関して色々情報を集めもした。
 それらの活動から知り合いになっていくが、街であって、街の様々な集会やフォーラムなどで会っても、互いにそしらぬ顔をし続けていた。
 申し訳ないが、ただの蕎麦屋の息子の顔をしながら、そのような政治的活動をもしていた。

 夏堀正元氏のいう、直接請求という1テーマでの共闘も政治ではあったが、それを拒否したからといって、地元小樽の私たちにはそれ以外にまだまだ多くの政治がはばけるほどあり、それを担い抜いていた。

 わが夏堀正元「愛する会」会長は、この一連の事態を充分ヒアリングした上で、前述の両月刊雑誌上での批判をされるなら、私たちも真摯に受け止めたが、残念ながらそうではなかった。 
 勿論、東京におられる小説家には、小樽運河保存運動をめぐる地元小樽の情勢、地元の運動主体の強弱や道路派の状況分析、市民の運河保存に対する意識度合いなどの分析は、無理というものだろう。
 そして、わざわざ小樽まで足を運んだ、と主張されるかもしれない。
 しかし、運河保存四団体の「小樽運河共同アピール」配布前後に来樽されて、我々と「一度だけ」、ホンの数時間、それも歓迎の「宴席」で、話されただけだった。
 早稲田政経学部をでて、小説家デビューを果たされるまで北海道新聞社など記者経験をされて、わが夏堀正元氏は街の状況を遠く離れた東京で、性格に分析把握する能力があられたのであろうが、所詮私たちにはそれだけであった。

 要は、簡単だった。
 わが夏堀正元氏には、あらかじめ夏堀正元的「市民運動と政党のあり方」論を強固にお持ちで、それ以外の市民運動の展開は逸脱した市民運動とみておられたに違いない。 
 このような観念的姿勢は、若い頃、左翼的書籍を中途半端にかじった人によくみられる傾向であった。 
 私はこのような傾向の人を、学生運動を通じて大勢見てきた。
 複雑な問題を勝手に単純化するまでは許せるが、独断的に断定する竹村健一をかの佐高信は「断定芸者」と規定したが、その例に近いく「断定小説家」はご免だった。
 現実の中に自分を置いて自らの思考を組み立てるのではなく、自分の積み重ねてきた思考に無理矢理現実を会わせようとする、そういう人々だった。
 複雑化する運動に「単純な答」などありえないのであり、単純明快な答とは一見カッコイイようにみえて「危険な答」である事が多い。
 特定政党との関わりを極力排除することによってのみ、小樽運河保存運動の存立基盤は保たれているのに、氏は日本共産党との共闘を「いますぐせよと断定する」のであった。
 とても、新しい若者による市民運動に接近する志向はなかったし、それを理解しようともしないで、もの申すだけではお付き合いも出来かねた。

 氏は、後年「文芸春秋別冊」に小樽運河保存運動を題材にした短編小説を書かれた。 その中で、東京の小樽運河保存の集会に小樽から駆けつけた峯山会長等の小樽運河を守る会会員を指して
  「八割がた足どりも鈍い中年女性
と、年齢からすれば当然のことを、罵倒する事だけは忘れなかった
 結局、氏は市民運動や住民運動生成の構造やその課程や推移に関し、全く理解しようとしない「八割がた思考回路が萎縮した初老男性」である事を、小樽運河保存運動に関わってしまったことで自己暴露された。
 
 古くは、ビキニ環礁原水爆実験反対運動から始まる反核運動、そして水俣の反公害住民運動以降展開された全国の反公害住民運動や平和運動、そして今日の反原発住民運動、消費者運動やエコロジー運動等の先頭にたつ人びとの圧倒的多くが、中年から初老でしかも女性達である事実を、氏は自身の頭の中で「これは、本来あってはならない運動だ」と否定されていたのであろう。 
 
 その夏堀正元氏と比較することさえ失礼な話だが、札幌の小樽運河問題を考える会、小樽運河問題を考える旭川の会の各代表をされていた、小笠原克氏や高野斗志美氏両氏の小樽運河保存運動に向かう姿勢とでは、天地の開きがあった。 
 小樽運河を愛する会の東京事務局を務める若い建築家の諸氏には、小樽現地と支援の東京の調整で随分迷惑をかけたことは、今でも申し訳なくかつ有り難く思う。
 
 が、夏堀正元氏のような方が、いくら東京の小樽運河を愛する会・会長に就いたからといって、あたかも支援をしてやっているという横柄な姿勢で地元に対し一方的意見を誌上に公表しても、地元の若者たちは素直に聞くほど「柔な精神」だけは「政治的」にもちあわせていなかったのは、気の毒としか言いようがない。

 原稿用紙のうえでの反体制・反行政気分を売り物にし、遠く東京から安全な距離をキープし、地元の工作を一顧だにせず、運河埋立派を「文化破壊者」とレッテル貼りしなじり、対立構造だけを煽られる方と、日々生きることを問われる地場で、小樽運河保存を勝ち取るために政治的かつ社会的に立ち振る舞わねばならない我々との間に、あまりにも深い深淵があった。
 
 そして、小樽運河保存運動が終焉して、数年後に再び驚いた。
 アサヒグラフの巻末に、毎号掲載される有名人の夕食風景とメニューを紹介するコーナーに、わが夏堀政元氏が登場していた。
 和服姿に、仰々しく食卓に白木の三宝まで用意しそれに漆器酒器を置き、得意満面に写真におさまっている、成り上がり丸出し氏の姿があった。
 日本ペンクラブ理事に就いて「功成り名を遂げた」と錯覚している、しかし人間的厚みも品位・品格も皆無の、自己肥大しただけの小説家の姿だった。

 こうやって嬉々として写真に納まって喜んでいるほうが害にはならんわな、とつぶやき、アサヒグラフからそのページだけを破り取り、ゴミ箱に棄てる私がいた。
 
    この項終わり

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 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
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 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。