13. 全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
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↑ 全国町並みゼミリーフレット:タイトルロゴは私が書いた

13_01. 全国町並みゼミの開催

 1980年(昭和55年)、全国町並み保存連盟は
  「あたらしい町自慢の創造を
と題する「第3回全国町並みゼミ」を小樽と函館で開催した。

 町並み保存連盟に加入される全国の20以上の町並み保存団体と個人、そして全国各地の都市計画や建築の大学から研究者や研究室の若手研究者や学生が参加してくれた。
 市内100人、全国の町並みゼミ関係者250人、計350人の参加だった。
 
 町並み保存関係の書籍の著者や書籍で紹介されいる有名人が気さくに参加してくれるというのが、驚きであり、嬉しくもあった。
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1980/05/26 全国町並みゼミ 毎日新聞

 一方、全国から来樽された町並み保存運動関係者は、もっと驚いた。
 峯山冨美会長は、全国町並み保存連盟の定時総会には必ず出席し、全国の会員の前で小樽運河保存運動を語り支援を要請してきたので、皆さん顔見知りだった。
 が、ゼミを実務面で運営する地元実行委を構成するのが20代の若者(30歳代はほんの数名)だったことに、全国から参加した町並み保存連盟の会員が驚いた。
 その若者達に担われて、全国町並みゼミ小樽大会が開催されるということ自体に、参加者は驚いたようだった。
 それは、これまでの全国町並みゼミが開催される諸都市で、その町並み保存運動やまちづくり市民運動の担い手は、皆老齢の市民による運動であったからだった。
 そもそも、町並み保存運動を展開する『まち』の運動に、若者参加は限られていた。
 町並み保存運動を展開する『まち』の運動主体が、若者参加を希求していたが、仲々それは成功せず皆さん悩んでおられた。

 小樽でその信じられない若者の参加と懸命に受付等の役をこなす若者達をみて、その会場を駆け回る小樽の若者をつかまえては、質問の嵐を浴びせてきた。
 どうやると、若者がそんなに小樽運河保存運動に参加してくるのかと、会場のあちこちで逆ヒアリングされ続け、夢街や小樽運河を守る会の若者が戸惑うほどだった。

 小樽サイドが参考にしたいことを聞けずに困ったものだった。
 小樽のまちづくり市民運動を担う私たちは、まちづくり市民運動の猛者達が来樽されたと、宿泊施設の祝津・展望閣に押しかけ、廊下や階段に輪をつくり深夜まで様々に話し合って交歓をした。
 ここでも、なぜ小樽運河保存運動は若者で担われているのかの質問の嵐だった。
 これを通し、夢街やポートフェスティバルの名前は全国の先進的町並み保存運動団体に知れわたっていった。

 私は、この全国町並みゼミ小樽大会を通じ、広島県鞆の浦の同じく歴史的建造物群のある街中を貫通する道路建設に反対する運動と知り合うことになった。

 全国町並み保存連盟に関わる様々研究者や団体からの反応や意見、そしてこれからのネットワーク形成が出来ていった。 

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13_02.ゼミ小樽実行委員会での内部論争
 
 その町並みゼミ開催の半年前、小樽運河を守る会と小樽・夢の街づくり実行委員会をメインとする全国町並みゼミ小樽大会の「小樽実行委」が、立ち上がった。
 小樽運河を守る会若手と小樽・夢の街づくり実行委員会が一緒に合同チームを作り、準備に励んだ。
 峯山冨美会長は、そんな若者同士の連携を心から喜んだ。
 峯山会長の念願の小樽運河を守る会と夢街の合体・統一の姿を、その中に感じていたのであろう。
 が、現実は全くそれと正反対になっていくのを、まだこのスタート時には誰も知らなかった。
 
 会場を小樽医師会館ホール、全国各地からの参加者の宿泊施設は祝津・展望閣と決まったが、あとはなにもかにも手作りだった。
 出迎え送迎も、会場設営から横断幕や垂れ幕も、北大Gが作成した大会資料の印刷・作成もこの実行委チームが担った。

 そして、一番大事な町並みゼミ大会のシナリオ論議でだった。
 その、各分科会のテーマを論議しようとしたときだった。
 そこで問題が起きた。
 なんと「まちづくり」と言う言葉に、小樽運河を守る会若手の一部分から異議が出た。

  「保存・再生」までは良い。
   が、更に「再活用」を付け加えてまちづくり」をテーマにする
   のは勿論、その言葉自身を使用することには反対する」
 
と、小樽運河を守る会若手一部分から出た、のだった。
 
 小樽・夢の街づくり実行委員会の若者たちは、正直、面食らった。
 何を言っているのか、理解ができなかった。 
 今時、
   「保存、再生、再活用がセットでは駄目だ
という主張が、同じ小樽運河保存運動の側から、それも小樽運河を守る会の若手から出ることに、驚きだった。

 化石の論理と映った。

 かつて、まだ「夢街」やポートフェスティバルが誕生する前、小樽運河を守る会の会議で、山口保が、

  「守る=保存と叫ぶ段階は、もう終わった。
   これからは、
    『守る=保存・再生・再活用=小樽運河エリアの賑わいの復活
     =小樽経済の復興』
   まで市民に幅広く提案できる小樽運河を守る会に成長し
なければ
   ならない。
   物流港湾都市から『保存・再生・再活用=小樽運河エリアの賑わ
   いの復活=
小樽経済の復興』に転換するには、物流港湾産業に変
   わる産業を対案でださ
ねばならない。
   新たな小樽復興の経済施策の切り口に、
    『新しい観光をベースにしたまちづくり』
   として、打って出る小樽運河を守る会にならねばならない。」
 
と、熱く語り提案したとき、共産党市議や共産党系労組の会員から、

 「小樽経済の復興や観光施策などを、保存運動を推進する小樽運河を
  守る会
が打ち出すなど、とんでもない。
  それは、『資本の論理』であり、到底受け入れがたい。」
 
という反論に出会った。
 山口は絶句した。
 そのあまりの反論に、もう次を語る気力を失い、それ以上語るのを止めたという。
 その話を聞いた私は、
  『資本の論理』という名の『化石の論理』
と思ったものだった。

  山口は、このときの小樽運河を守る会会員たちと論議を進めて行くのに、とてつもない疲労感、消耗感を覚えた。
 それが、ポートフェスティバルと夢街結成へ、自身を走らせていったわけだった。

13_03. 戦後日本社会の縮図が、小樽運河保存運動を規定していた。
 
 「小樽経済の復興や観光施策などを打ち出すなど、それは、『資本の論理』で
  あり、小樽運河を守る会としては到底受け入れがたい。」

と、共産党市議や共産党系労組の会員が意見をした。

 このような志向は、文字通り戦後五五年体制、自民対社会党・共産党という対決構造の中で、蓄積されたものだった。
 圧倒的自民党多数派体制の中で、政府・自民党から出される施策が出てから批判はしても、自民党の施策に対する「対案」を自らが創造し、ぶつけることはなかった。
 自らの、政権運営能力や施策創造能力を鍛えるという発想は、これっぽっちもなかった。
 社会党や共産党に、誇るべき政策研究所や調査研究所やコンサルタント会社など、数えるほどしかなかった。
 彼我の差があまりにも大きすぎたためだった。
 そこから、野党は「反対のための反対路線」と批判され、「無責任野党」と批判されてきたが、むべなるかなだった。 
 小さな北の1地方都市の野党、社会党・共産党という野党も、完全にその体質に染まり汚染されていた。
 思考のスタートが「反対のための反対路線」であることを、本人達が気づかないでいた。
 政府・自民党・行政の施策を批判し、せいぜい改善策・修正案を引きずり出し、それをもって自らの野党としての立場を突き出し成果を誇れば、国・県・自治体レベルで、「野党としての位置」を占める事ができる、という発想でしかなかった。
 
 だから、

 『対案提起』という概念そのものが、全く欠如
していた。
 対案を立案することなど、そもそも能力的にもなく、発想すらなく、
 逆にそれをひた隠しにするための、便利で都合のいい言葉が、
   『資本の論理』
 だった。

 ・・・のだった。
 それでもって、相手を批判し恫喝するという政治スタイルだった。
 逆に「資本の論理に屈している」といわれる側は、自分が全否定されるわけだった。
 この国の人々も、そのような思考に汚染されていた。
 
 「対案提起」など頭になく、批判された政府・自治体・多数派の自民党こそが「修正案」を出すべきだ、という発想だった。
 小樽の斜陽化、経済的ポテンシャルの劇的衰退という歴史的推移の前に、自民党だけでなく「野党もそれを阻止することが出来なかった」というところからスタートすることはなかった。
 だから、
  「小樽運河を保存再生するならば、その財源をどう担保するか」
という意見に
  「それは、行政が考えること
と、何の躊躇いもなくあっけらかんという小樽運河を守る会を産んでいった。

 第一期小樽運河保存運動の破綻が、そこに凝縮されていた。

 市民自らの役割への自覚と責任を問いあうという発想は、しなかった。
 ただ、そのばつの悪さを、逆に一層行政と経済界への責任追及で誤魔化すだけだった。
 
 だから、全国町並みゼミ開催準備のため、小樽運河を守る会若手と「夢街」が分科会テーマ論議で、「夢街」が小樽の基幹産業である物流港湾都市から新たな産業基盤構築をしていく『まちづくり』を主張し、その切り口を「観光」に求めたとき、その意味合いの大きさに気づきもせず、ただ反射的に反応しただけだった。
 小樽運河を守る会内部に、とりわけ小樽運河を守る会若手にも、そういう五五年体制志向に汚染された人がいたことが明らかになった。 
 
  「小樽運河を保存再生する、その財源をどう担保するか
とするという問題の建て方こそが危険だとし、小樽運河を守る会はその説明責任から逃れるために、
  「それを考えるのも行政・経済界の責任。
   市民運動はそういうことに経験
不足だから言ってはならず、
   巻きこまれてしまえば自らの責任を問われ、
   市民運動自身が変質し堕落していく
という、責任回避を潔癖主義という借り物の衣装を着て、曖昧にするだけだった。

 そんな思考の人物が、小樽運河を守る会の若手にも出てきたわけだった。


13_04. 凍結的保存路線と動的保存路線の分岐が鮮明になっていく
 
 その筆頭格が、小樽運河を守る会副会長・北村聡司子氏の子息・北村哲男氏だった。
 氏は、小樽運河を守る会と小樽・夢の街づくり実行委員会が共同主催した
  「小樽運河研究講座」
をきっかけに、小樽運河を守る会に入会した、比較的新しい参加の世代の一人だった。
 夢街と小樽運河を守る会の若手では一番の年長者だった。
 全国町並みゼミで実行員会チームを作る前は、夢街のなかのメリーゴーランド派と呼ばれるスポットライトが当たらない作業を献身的に実践してくれる若者たちと一緒に「小樽運河研究講座」の各回のテープ起こしや講義録作成を担ってくれていた。
 北村哲男氏は、気の毒なことに子供の頃重病を煩い、病弱な上に、脚が不自由で、定職には仲々つけず、それでもというか、それゆえに、小樽運河を守る会活動に参加しはじめていた。
 実に、粘着質タイプで、批判されればされるほど執拗に論争を仕掛けてくる性向があり、夢街の若者が一番避けるタイプで、ポートフェスティバルの本部横に設置した小樽運河を守る会ブースにいた北村氏のそのような性癖の洗礼を受けた夢街は、苦手にし話を避けていた。

 「まちづくり」と言う言葉に、その北村哲男氏から異議が出た。

   「保存・再生」まではいいが、「再活用」を付け加えることに
    、そして、そこから
「まちづくり」に発展することは危険だ
 
と、北村哲男氏から異議が出たのだった。

 実は、その意見は、北村哲男氏の母親であり小樽運河を守る会副会長の北村 聡司子氏の持論だった。
 小樽運河を守る会の運河保存街頭署名で、署名した市民から、

  「あなた達は『保存』をいうが、その保存だけでも大変な維持費が
   かかる。
   『保存』を提案するあなた達は、その問題をどうクリアしようと
   考えていますか?
   まずは、『保存』を提案するのだから、あなた達が考えないとな
   らない問題ではないでしょうか?」


という実に真摯な質問に、小樽運河を守る会副会長の北村 聡司子氏は、

  「そう考えることこそ、危険なのです。
   私たちは一般市民で、そのような保存の維持費や修繕の経費など
   考えるのは市民の身の丈にあわないことです。
   それを考えるのは行政です。
   行政こそが考えるべきなのです。
   だから、私たちは『保存』しか言いませんし、求めません。」
 
とあまりにもあっけらかんと応え、署名した市民を絶句させていた。
 それを横で聞いていた私も、絶句した。
 慌てて、その署名された市民と北村 聡司子氏との間に割って入り、「再生・再活用」をいい、それを保証するのが「新しい観光を切り口にしたまちづくり」だ、と説明し、署名された市民も頷き、納得されて帰られた。

 小樽運河保存運動は、歴史的環境や歴史的建造物の「保存と再生」までを言うべきで、「再活用」は「まちづくりや都市計画」に繋がるプロの仕事であり、それを素人の市民から言うのは、駄目だという。

   市民こそが「まちづくりや都市計画」に挑まないできたからこそ
   、日本の町並みは崩壊してきたし、スクラップ&ビルドを許し、
   日本の町並み景観の破壊を許してしまってきたという、反省はま
   ったくなかった。
   今、そのことこそ、自分の街で問われているのに、
    「まちづくり」
   を考えることが危険だとし、それを拒むことで良しとした。
   自身が、自立した市民の誕生を妨害していた。


 その母親の北村 聡司子氏の意見と全く同調した子息だった。
 「化石の論理」と映り、小樽・夢の街づくり実行委員会は驚いた。
 「何を考えているのか」と小樽運河を守る会若手の一傾向としての北村氏の顔を皆見やっていた。

 小樽運河を守る会の北村哲男氏たちの主張の要点は、

  「まちづくりはいわゆる『都市計画』に通じ、そんな大それた世界
   に入ることに市民運動としては限界がある。
   小樽市民は、小樽運河だけが保存できればいいのであって、沿線
   再開発を意味する「再生・再活用」まで運動的に主張するのは、
   市民運動から逸脱している。」
 
  「あの寂れた小樽運河と石造倉庫群が小樽の『原風景』なのじゃな
   いか。夢街もそういっているではないか。
   小樽運河のあの水の色合いだって、皆はヘドロ色だとか臭いとか
   いうが、絵的には、最高の原風景を醸し出している。
   それもこれも全てが、小樽運河なのだ。」
 
  「君たち夢街は『保存・再生』までいうのであればいいが、『再活
   用』まで主張し、観光での活性化まで、いう。
   あの、小樽運河が日本中至る所にあるようなお土産観光地になる
   なんて、果たしていいのか。
   だから、運動としては『小樽運河を残すだけ』と、ただ一点
   『保存』にだけ全てのエネルギーを投入すべきで、『まちづくり
   』や『再生・再活用・再開発』などと、我々市民運動の手に負え
   ない大きな課題、とりわけビジネスになればドロドロの世界に入
   ってしまうだけだ。
   それはかえって運動的に危険だ。」

   「そもそも、小樽運河を守る会は創設から今まで『保存』は、

   ってきたが、『再活用』や『まちづくり』や
『観光』などは言っ
   て
はこなかった。
   それを言い出したのは夢街であって、小樽運河を守る会ではない
   のだ。」

   「だから、全国町並みゼミでもテーマに『まちづくり』をいう
   のは、反対だ。」
 
という主張だった。
 唯一、賛成できるのは、
  「小樽運河や周辺石造倉庫群が、安物低俗土産観光施設になるようなこと
   があってはならない」
という点だけは、同じく賛成だったが、後はとてもこれからの小樽運河保存運動に、その運河をキーポイントにした小樽の『まちづくり』には全く通用するものではなかった。
 
 夢街は一斉に反論した。 

  「小樽運河『保存』だけを主張したら、どう保存するのかと市民か
   ら問われるがその保存の中身については、小樽運河を守る会はど
   う応えるのか?」
 
と夢街のメンバーが、次々に北村哲男氏に聞いた。

 「どう残すかなど『保存』の中身を、市民運動が判断する必要ない。
  行政が保存を決め、行政が手当すればいい。
  市民運動に、そこまでの責任はない。」
 
と、北村氏から即答で返ってきた。
 
 実にシンプルな発想、既成政党の対案ぬきの反対運動路線と同じだった。
 夢街メンバーは続けた。

  「その主張で、街や市民の中に入っていけるか? 
   ポートフェスティバルや夢街は市内の商店街や商店に『ふぃえす
   た小樽』の販売を頼みにいき、我々の未熟な言葉だけど商店主な
   どに、小樽運河を残し、再生し再活用しようと話を聞いてもらい
   、署名ももらう。
   小樽運河を守る会はそんな主張で、一軒一軒商店街や商店主周り
   をし、署名してもらえるか?
    『無責任な運動だな』
   と、一言で門前払いを食う。

   それは、今の日本の労働運動の物取り主義運動と、似てる。
   だから、ポートフェスティバル以前の小樽運河を守る会運動はそ
   の傾向が強く、結局市民を組織できず、少数派を強制させられて
   きた。
   まちの将来やまちが元気を取り戻すこと抜きには小樽運河も残せ
   ないのに、『ただ残せ』と駄々こねている風にしか聞こえんよ。
   一般市民からすると。」
 

  「正直、そんな主張を今もする、それも小樽運河を守る会の一部
   だとして
も主張すること自身、驚き信じられず、がっかりした。
   昨年末、市議会は運河埋立道路建設を強行採決したのを、もう忘
   れたのか
   それなのに、『行政が保存手法を決めるべき』などとは、現実離
   れも甚だ
しい。
   小樽運河を守る会って、そんな観念的な夢物語を話しているの
   か。」


  「『まちづくり』というのは、永年の町並み保存運動から今日まで
   続いてき
た様々な市民運動がやっと至った到達点なのを、わかっ
   てない。 
   何故、文部省が「歴史的建築物群」という「群」指定を組み込ん
   だ法を改
正してまでやったのか。 
   それは、単なる単体保存や博物館的保存では保存そのものすら出
   来ない、
ぶつかっている問題を打開できないから、改正したのじ
   ゃないか。
   国だから、再活用という民間ビジネスにまでは言及できない。
   が、歴史的建造物の「群」としての保存の背景には『再活用』と
   いう手法
をとらないとならないとする、時代を切り開けと暗に呼
   びかけての法改正
という理解が保存運動側にも拍手で迎えられて
   いる。」
 

  「小樽運河を守る会運動が、一時少数派に転落したのは、そういう
   縮こまった
発想だからだと思う。
   今の小樽運河保存運動の高揚は、ただ『かけがいのない遺産を守
   ろう』と
言い続けてきた小樽運河を守る会運動の限界を、ポート
   フェスティバルが、
   『小樽運河を保存し、周辺の歴史的環境を再生・再活用し、賑わ
    いを小樽運河
に取り戻し、それを推し進め小樽経済を復興させ
    よう』
   という、市民自らが参加する『まちづくり』という新しい視点を
   提案したか
らこぞ、迎えられた。
   そして、ただ語るだけではなく、ポートフェスティバルでそれを
   実際見せ
て市民や行政や民間企業人に『ただ運河を残すだけ』と
   いう主張から、保
存再生の手法、再活用抜きに保存再生が無理と
   する主張を具体的にイメー
ジできるところまでもってきたから、
   今のように市民的裾野が広まってき
た。
   そして、『小樽運河を守る会』が蘇生したのも、それが契機だっ
   たのじゃないか。 
   しかし、今その到達点を捨てて、又小樽運河を守る会の初期のよ
   うに「保
存」だけをいう運動に「先祖返り」し、「閉じこもる」
   というのか? 
   それを、全国の町並み保存運動を担っている人たちの前で言うの
   かな。」
 

  「確かに、検討してきて、新しい小樽の『まちづくり』の切り口に
   『観光』
をと夢街は言っている。 
   一方、心ない観光事業者による土産観光に流れる危険性は否定出
   来ない。 
   だからこそ、『まちづくり』市民運動は、永続的に進めないとな
   らない。
   例え、このまま小樽運河が残っても、心ない観光業者が石造倉庫
   をとんで
もない使い方する可能性だってある。
   つまり、市民が自分の町の将来について自己決定権を持つような
   市民自治
がこの小樽まちづくり市民運動を経て形成され、根付か
   ないとならない。
   小樽運河を守る会は、その勇気と決断力はあるのかな?
   ただ残ればいいでは、市民としての責任回避路線にしか映らな
   い。
   市役所や都市計画審議会で、もし保存派が意見開陳する機会があ
   って、そ
んなこといったら、笑われるだけじゃないか?」
 
 とどめは私だった。

  「北村さん、小樽運河を守る会の創立当初から様々に運河保存を訴
   える陳情や
要望をだし、小樽運河を守る会ニュースなどで
     『守るってことはどういうことか』
   として論陣を張ってきたことは、知っていて欲しい。
 
   その主張は、藤森茂夫前事務局長が、ほぼその文章作成を担われ
   た。
   その中で、
    『ただ運河を残すだけを小樽運河を守る会は言っているので
     はない。
     運河沿線に『大運河公園』をつくり、その周囲に歴史的建
     造物を再活用して配置し、倉敷アイビースクエアのような
     若者ツーリストをターゲットにした宿泊施設などを配置し
     賑わいを取り戻す
   と、はっきり記載している。
    これって、聞いたことあるでしょうに。
    夢街やポートフェスティバルが言っている『まちづくり』じ
   ゃないのかな。
    明確に、藤森茂男前事務局長は、『まちづくり』志向だった
   のだよ。そして『観光』もそこに入っている。
    ただ、小樽運河を守る会結成当時は 、『まちづくり』という言
   葉がまだ登場していなかった。 
保存運動でも、まだ使われてい
   ない時代だっただけ、のことだよ。
   小樽運河を守る会の「保存の思想」には、
『まちづくり』や、
   『再活用』が、予め組み込まれていたんだよ。
    北村さんは、小樽運河を守る会が『保存』だけをいい、『再活
   用』など
は言ってきたことはない、と言われる。
    それはまったく、でたらめだ。
    それは、実に一方的な主張で、俺からすると今までの小樽運河
   を守る会
が、様々な場で主張してきたことを翻す発言だ。 
    それは、懸命に少数派から脱却しようと頑張ってきた小樽運河
   を守る会
の人たちが必死で言い続け、訴えてきた路線を、今にな
   って棄てることだ。
    それでいいのかな?
    小樽運河を守る会の、これまでの資料は、副会長・北村聡司子
   さんが沢
山持っているはずだ。
    もう一度、町並みゼミ前に読み返すことを奨めるよ。」 
 
 北村哲男氏やそれに同調する小樽運河を守る会の若手傾向は、声が小さくなっていく。
 
 町並みゼミを前にして、ここで小樽運河保存運動の若手が分裂などしておれなかった、と当時は思った。
 ここで更に頑張り、決着をつけるべきだった、のかもしれない。
 この「保存」限定主義という意見を持つ者や、『まちづくり』を否定し、あまつさえ「歴史的建造物の再活用」まで否定するような傾向は、小樽運河保存運動から去ってもらうべきだったのかもしれない。
 そうすれば、将来、保存運動に害を与えないで済んだのかもしれない。
 全共闘運動のように、論破されたことを認めさせ、夢街の考えを承認するように迫り、承認できなければ、全国町並みゼミ実行委から去ってもらう、と追い込むのは可能だった。
 が、当時は、分裂を決意するには無理があった。
 やっと少数派運動から浮上したばかりだった。
 保存派分裂など、道路促進派をただ喜ばせるだけだった。

  「今は、町並みゼミの各分科会のテーマの話をしている。
   これからの新しい町並み保存運動のキーワードは何かとして論議
   を醸し出
すのに、制約はないはずだろう。 
   すでに『まちづくり』は小樽だけでなく、全国で使われる言葉に
   なってき
ているし、全国町並み保存連盟にしても違和感もハレー
   ションもない。
   逆に、今みたいな論議を全国の仲間の前で聞いてもらい、参加者
   から意見
をもらえばいいんじゃないかい。」
 
と、論議を打ち切り、具体的準備作業に話を変えた。

 私自身は、そんな恥ずかしい主張などとても全国の先進的まちづくり市民運動の担い手の前で開陳するなど出来るわけがない、と判断してのことだった。
 しかし、この論議は、町並みゼミ開催準備の佳境になるまで、断続しながら続いた。
 

13_05. 路線論争の衣装をきたイニシアティブ争いだった。

 
 始末がわるいのは、論破され反論できなくても、自らの主張を再検討し再構築しようとするのではない、小樽運河を守る会の1傾向の体質だった。
 悪いことに、この小樽運河を守る会の1傾向のリーダー的存在が、夢街の誰よりも年長に加え、小樽運河を守る会副会長の子息、北村哲男氏であることだった。

 あまり、対立を対立として発展させていくわけにも行かなかった。
 学生運動なら徹底的に学生の前で論争をし、参加した学生全員の前で決着をつけられ、かつ論破された側は更に理論を懸命に高める作業をし、それが無理と判断すれば、論破した側に参加していったものだった。
 しかし、相手が悪かった、悪すぎた。
 いわゆる、論争の当たり前のルールを知らなかった。
 
 この「小樽運河を守る会若手の1傾向」のリーダー・北村哲男氏は、政治的訓練が未経験だった。
 それまで、市内ではビリヤードの名手で通っていた。 
 小樽では向かうところ敵なしで、東京に出てビリヤードのチャンピオンに数年挑戦し、夢果たせず帰省された人だった。
 幼少から病弱で脚部が不自由だから、仲々定職に就くことが出来ず、性格はかなり変わっていた。
 論争で自分が負けることは認め難い性格だった。
 前述の論争の場は、それほど多い人数ではなかった。
 が、小樽運河を守る会と夢街の若い世代が参加する場で、全面的に論破されたが故に、引くに引けず、感情的になって、深く陰湿な世界に入っていく。

 その氏は、全国町並みゼミ開催の翌年、親御さんの自宅を民宿に改築した。
 民宿「上昇」と名付けた。
 その民宿「上昇」が、「小樽運河研究講座」の報告書編集の活動の場になって、小樽運河を守る会若手や夢街若手が集うようなっていく。
  「小樽運河研究講座」の報告書づくりを名目に、「運河が残るだけでいい」
   派=凍結的保存派の「草刈り場」にしようと」
としていた。
 私たちは、「小樽運河研究講座」の報告書づくりに行くな、とは言えなかった。
 言ってしまったとたん、自分たちが汚れると思っていた。

 その民宿「上昇」での会議に誘われた夢街スタッフがいた。
 そこで話される内容に居たたまれず、呆れ果てて帰ってき、我慢出来ず私に話を聞いてくれ、と来た。
 その会議では、小樽運河を守る会や小樽・夢の街づくり実行委員会の主要スタッフのリストがつくられ、なんと「運河保存派」と「まちづくり派」という分類・仕分けがされていたという。
 「運河保存派」には○印、「まちづくり派」には×印を付ける作業をしていたという。
 「小樽運河研究講座」の報告書づくりに参加した女性知り合い、北村氏は結婚されていた。 その奥さんも、その「運河保存派」と「まちづくり派」という分類・仕分けをしていたという。
 洗脳されていっていた。
 その仲間は、呆れ果て、
  「今日のこの会議の皆さんから見ると私は『運河保存派』と『まちづくり
   派』のどちらにみえるのですか

と言い捨て、席を立ってきたわけだった。
  「良かったな、これで今日からきみも『まちづくり』派だわ。」
と冗談をいい、笑って誤魔化すよりなかった。 

 小樽運河保存運動が小樽の町で受けていた
  「ムラ社会の村八分、カラーリング、平準化の論理
を、保存派が保存運動内部にそれを持ち込むという、悲惨な路線だった。 
  結局、論争では勝負にならず、人間のもっとも根源的心根である嫉妬、僻み、やっかみを、陰湿に組織し仲間増やしをし続けていた。 

 この対立を知るものは
  「路線を巡るもの
として、綺麗な形で整理しがちだ。
 が、真実はそんな高尚なものではなかった。
 その本質は、
  「明確な路線もうち捨てた、保存運動内ポジション取り
というレベルのものでしかなかった。

 自分の保存運動内部でのポジションを得たく、『凍結的保存』と『動的保存(再生再活用・まちづくり)』の対立を煽り、利用するだけだった。
 無内容な「対立のための対立」を組織化し、それをもって自分のポジションとイニシアティブを求めるという、人間の品位・品格の問題だった。
 だから、『凍結的保存』路線を論破されても、いや論破されること自身は全く問題にしない傾向で、だから始末が悪かった。
 
 しかし、それでは保存運動内での論争を組織しえず、私たちはこの小樽運河を守る会若手の1傾向を以降、『凍結保存派』と位置づけ、一方、私たち自身は自らを『まちづくり派』と自称することで、便宜上論議を整理せざるを得なかった。
 
 山口などは、論破したのだからもう相手にしない、とした。
 私も、論破したのだからそれ以上追い込むな、とした。
 その傾向への対処が、結果的には優しすぎた。

 実際の小樽運河保存運動のダイナミズムは、そのような小樽運河を守る会の無内容な一傾向を無視し、展開されていった。
 しかし、僅か数年後、小樽運河保存運動の最高揚のときに、運動のイニシアティブを巡る政党介入時にこの無内容な「対立のための対立」を心情とする『凍結保存派』が体よく政党に利用されてしまうのを、未熟にも私たちは想定していなかった。

 このような問題は、論議ですべて解決しようがなかったし、それぞれが若く、落ち着いて冷静な論議を組織するのが、困難だった。
 自分の年齢の若さを、このときもうらめしく思ったものだった。

 結局、この凍結保存派は、小樽運河保存運動が敗北して以降、一度も小樽のまちづくり市民運動の場面には登場せず、その姿を消していき、二度と登場することはなかった。


     この項終わり




 ●次
【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ●現【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ●前【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。