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↑北大大学院生グループによる道々小樽臨港線代替えルート案と大運河公園プラン

14_01. 運河保存大爆発の予兆の前の切なさ

 このポートフェスティバルというまちづくりイベントを登場させることに成功した、小樽運河保存運動は新たな領域に突入していった。

 地元の
  小樽運河を守る会
  小樽・夢の街づくり実行委員会
に加え、北大グループの地味な、しかし先見的工作によって、
  小樽運河を愛する会(東京)
  小樽運河問題を考える会(札幌)
  小樽運河問題を考える旭川の会
と、支援3団体が誕生し、以後、運河保存5団体での連携した運動となっていく。

 そして登場したポートフェスティバルは、以降、小樽・夢の街づくり実行委員会への人材供給装置や人材プール装置として、そして、何より、運河と周辺歴史的建造物を保存再生し再活用することで、小樽の街に賑わいと活気を取り戻し、経済的復興にとってキーポイントの小樽最大の観光資源であることを、開催するればするほど明らかにしていく、大プレゼンテーション装置になっていくのだった。

 それを運動面でどう刈り取っていくのかと、毎夜のように、山口、佐々木、小川原は集まった。
 ポートフェスティバル開催年に生まれた、長女の顔を見ることもない生活になっていった。
 毎夜会議で家にいない連れ合い達は、「まるで未亡人状態」といい、三人夫人で集まるようになり、自称「未亡人倶楽部」と口にし、あまりにもそれはとなって、
「ブラックウィドウ」と名付けたら、馬鹿にされた。

 例の三人のなかで、小樽運河保存運動のシナリオは次第に形づくられていった。
 地元小樽では、凍結的(博物館的)保存から再生再活用の動的保存への転換を図り新しいまちづくり市民運動として登場しきる中から、市民による「層としてのまちづくり運動」を組織化し、運河保存派と運河埋立派との真正面からの対峙状態を創出し、街を二分する小樽のまちづくり展望を引き寄せる大論議の街にしていくことに向けて、全主体的力量を投入していく、というシナリオとした。
 わずか1年半前、山口・佐々木の両夫婦と私のアパートで意気投合し、深夜まで語り合った構想の、実践的展開だった。

 土俵際の徳俵まで押し込まれ、土俵下に転落寸前の徳俵で踏みとどまった小樽運河保存運動の危機的状態から、やっと土俵中央にまでなんとか勝負を戻して、がっぷり四つ状態になるまで、盛り返してきている最中だった。
 行政・経済界VS保存運動というがっぷり四つに組んだ状態から、やっと小樽運河保存運動をさらに発展させるとば口が、形成されつつあった。

  「正直、よくまあ、あの危機的状態からここまで来た」
と山口の経営する小樽・手宮の喫茶メリーゴーランドで、朝方まで語りあった。
 空が白むまで話し合い、家路の途中の北運河の漁協(しゃ)の競りの終わった頃を見計らい店用食材に魚を買い、その足で小樽運河に向かい、朝焼けの艀の上で、三人でまだ話し合ったものだった。

 今、山口・佐々木・小川原の三人は、小樽の
   まちづくりのダイナミズム
のなかにいた。
 ポートフェスティバルという若者の手作りイベントで、夢街自身が、
   市民が蠢き、町が声を上げるダイナミズム
を、今まさに経験していた。
 山口と私が全共闘運動の前半期に経験した学生運動とは位相が違うダイナミズムではあったが、それを経験するのとしないとでは天地の差だった。
 そして、そのダイナミズムこそが人を変え、人を成長させ、町を変えていくと確信していた。
 だが、ポートフェスティバルで切り開かれたそれは、
   若者世代のダイナミズム
であり、それを
   大人の世代まで網羅され貫徹された全市的ダイナミズム
に、これからどうドラステッィクに発展させ得るのか、それが小樽運河保存運動の帰趨を決定する、と何度も反芻し咀嚼してた。
 そこまでどう持っていくか、が問われていた。
 結論は、簡単だった。
 が、それは、三人にとっては膨大な努力が要求されるし、自らの政治性が問われた。
 全政治的能力と政治的感覚、政治的感性が試されるわけだだった。
 酩酊出来る状態ではなかったが、ある種の予兆に打ち震わせられるものでもあった。

 第一期小樽運河保存運動と第二期小樽運河保存運動との決定的違いは、第一期が越崎宗一会長や藤森茂男事務局長のように卓越した個人が町中を走り回っての運動だった。
 が、第二期小樽運河保存運動は位相を異にした。
 名もなく肩書きもない、然るべき市民が、自ら然るべき社会的ベースを基にして、然るべき行動を起こしたからこそ、ここまできた。
 そして、第一期の膨大な成果の上に、自らがこじ開けたからこそ第二期の幕が開けられ、学者、研究者、建築家、作家など全国の著名人達が、小樽運河保存という全国版理事会のボードメンバーに名を連ねるようになり、それが国に向かって誠意ある対応を促した。
 まだ、北国の地方都市小樽では、それは仲々垣間見えはしていなかった。
 が、当然国の動きを待つのではなく、国が一定程度は動かざるを得なくなるように持って行くのだ、力んでいた。
 

14_02. その根拠は、時代の流れだった。

 大平内閣時代に国が打ち出した「地方の時代」という流れだ。
 国の官僚を反官僚気分で批判していても、地方現場では一ミリも意味はなかった。
 官僚の中にも、この「地方の時代」を真摯にどう切り開くのかと霞ヶ関の各部署で企画立案している官僚はいるのだ、とした。
 だから文部省一つとっても、文化庁が、神社仏閣名跡の文化財的保存から、日本の近代化に役割を果たした明治以降の産業遺産や遺構をどう活かすのかという志向も含め、町並み保存の概念を一層拡大し「歴史的建造物『群』指定」という法改正まで、してきたと規定した。
 まだ日本の地域・地方が、それほど実感をもって感じてはいなかった。
 が、それが地方の時代ってやつだった。

14_01_p_mouretsu 1960年末を象徴するTVCMの一つとして定番となっているのが、この丸善ガソリンのCMだ。
 
 高度成長時代のサラリーマンを形容する決まり文句として「モーレツ社員」という言葉があった。
 このモーレツという言葉をキャッチコピーに、老若男女を問わず、広く人口に膾炙した。

 ミニスカートのすそをひるがえして、タレント・小川ローザが
  「オー・モーレツ!」
 と、ふしぎなイントネーションで発声する。

 が、そのお色気だけでうけたのではなかった。
 うけたのは、
  一世を風靡していた「猛烈主義」を、どこかで茶化してしまう効用が、期せずしてそこにあった
 からだった。



 そして・・・、1969年昭和45年。
 
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 コピー機などの商品のアピールはまったくなく、ヒッピー姿の若者が「BEAUTIFUL」と書いた紙と花を持って銀座をふらふらと歩き、BGMはひたすら「ビューティフル」を繰り返すという、ある意味幻想的な映像が流れた。
 何だ?と更にCMが流れるのを待ち、早くCMタイムになるのを待ちかねた。

 富士ゼロックスのCMだった。

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 この、富士ゼロックスの
   「モーレツからビューティフルへ
が登場するのは1969年昭和45年だった。
 この時点で、すでに「猛烈主義の時代」は終わりを告げていた。

 60年代の「モーレツ」な高度経済成長時代から万博を経て、ひと息ついて
   自分を見つめ直したい
という当時の風潮を表していた。 
 その彼女たちに人気だったのは、木曽路で、妻籠の観光客は五年で一〇倍近くになったという話が伝播する。
 これを境に、飛騨高山や妻篭・馬篭の「町並み観光」が一躍クローズアップされていった。

 そして、旧国鉄が国鉄始まって以来の大キャンペーン、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを実施したのが、1970年(昭和46年)だった。

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 「DISCOVER JAPAN」と、キャッチフレーズである「美しい日本と私」のメインターゲットは若い女性だった。
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 当時創刊された二大女性誌『an・an』(マガジンハウス/70年3月創刊)と『non・no』(集英社/71年5月創刊)には、鉄道旅の紹介記事が多く掲載され、「アンノン族」が各地にあふれた。
 「若い女性」と「鉄道の旅」という一見対極にありそうなものを結びつけ、新たなスタイルとして全体的にイメージ戦略の色が濃いキャンペーンだった。

 なにより、旅の目的地の候補は「とくに挙げられて」いなかった。
 ヤギが引く枯れ草を積んだ荷車に若い女の子がギターを手に乗っているシーン、
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 寺の本堂に女性が座っているシーンなどと、どこか幻想的な写真が使われ、撮影地の情報などはいっさい掲載されなかった。
 
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 学生運動で様々なチラシやビラを配り、それが無惨に学生たちに棄てられている大学の中庭をみて、どうやったら学生に棄てられないチラシやビラをつくる事ができるか、と唇を噛み悩んだものだった。
 新宿、渋谷、銀座の駅の壁の最先端のポスターを見て回り、フライヤー収集したものだった。
 それが、ところ変わって場面は小樽運河保存運動となって、蕎麦屋親爺の時代感覚を再度研ぎ澄まさせてくれた。

 そこで得た感覚が、小樽運河保存運動の展望を引き寄せる作業に、作用した。

 「何か新しい別個の運動体」が掲げる、運河と周辺歴史的建造物の保存・再生を担保する、小樽の街の新しい切り口は、何なのか
 「斜陽のどん底」が続き人口も減少し続けていた。
 そこでは、もはや物流港湾倉庫業でもなければ、倒産が連続し入船エリアが落ちぶれた繊維業でもなければ、水産業なのか・・・と問われていた。
 
 上記のTVCMやポスターがそれを示していた。
 五年で一〇倍となるような入り込みに成長した木曽路・妻籠の「町並み観光」こそが、小樽では、近代化遺産である小樽運河や歴史的建造物「群」の再活用による「新しい観光」の到来こそを示唆しているのではないかと受け止めた。
 
 時代は、
   ・モーレツからビューティフルへ、
   ・自分を見つめ直したい、
   ・「DISCOVER JAPAN」
   ・「美しい日本と私」
   ・飛騨高山や妻篭・馬篭の「町並み観光」クローズアップ、

 そして、
   ・地方の時代
とドラスティックに流れていた。
 そして、1975年(昭和50年)、遠い中東の戦争のあおりである第一次オイルショックで「低成長時代」、つまり、
  「戦後は終わった
といわれるようになる。

 この時代の流れを把握し読み切り、北海道で先取り(^^)すると、北の1地方都市でその「引き金」を引いたのが、小樽運河保存運動であり、ポートフェスティバルだった。

 勿論、越崎会長も藤森事務局長も卓越した牽引者だったが、峯山冨美会長はこの「地方の時代」という時代の流れを自らに取り込み、先取りしていたのが決定的に違っていた。
 小樽運河保存運動におけいて、60年代末から70年代の移行期の時代の空気を読む峯山冨美会長という存在だった。

 小樽運河保存への燃えるが如き情熱で、「全国町並みゼミ」大会参加者に熱っぽく語りかけ感動を巻き起こし、それでまちづくり運動を展開する全国各地の町に招かれては訴えてきたからこその「リアクション」が、小樽運河保存運動を
  全国区
に押し上げさせた。
 日本全国で巻き起こるまちづくり市民運動は、その地元に根ざすが故に「地域性の軛」から、仲々のがれられなかった。
 が、 その頑迷な地域行政、過去の物流港湾都市の再生に取り憑かれそこで形成された地域経済界重鎮政治に加え、斜陽都市での市民のまちづくりへの無感動と無関心という3つの壁に包囲された孤立した小樽運河保存運動は、最初から全国の町並み保存運動を意識せざるをえず、そこに支援を求める形で
  「地域性の軛」を振り捨て、「全国性」を意識し、だからこそ普遍性を獲得
   してきた
のだった。
 だから、峯山冨美会長全国行脚で、地元の小樽運河保存運動やポートフェスティバルが全国的に評価され、逆に峯山会長の情熱的列島行脚を支えているのがポートフェスティバルだという、相互依存・相互補完の関係だった。
 今の時代でいえば、峯山冨美会長は「歩く情報発信担当」であり、それで小樽運河保存運動は、北の一地方都市の市民運動でありながら、全国性と普遍性を獲得していくわけだった。
 
 私が、とりわけ佐々木一夫(興次郎)に言い続けてきた
  「何か別の新たしい市民が『層として』登場する運動
という意味は、もはや「古い弾性疲労したボタン」をいくら押し続けても回路はこの地方の時代に繋がらず、私たち自身が繋がる回路にある「新しいボタンを求め、見つけ、それを押す」という、いや、ボタンと配電盤と回路を自ら作るということだった。

 小樽運河を守る会が、市長や市役所幹部や経済界重鎮相手にいくら真摯に向かい合って具申しても相手にもしない構造を、リセットするボタンだった。
 小樽運河を守る会の凍結的保存で凝り固まる傾向を、リセットし初期化するボタンだった。
 そして峯山冨美会長は、ホームからアウェイという場で、全国の新しいボタンをみつけ押し続け、訴え続けてきていた。 
 彼女は、地元のボタンではなく全国のボタンを押し巡り歩いた。
 そして、全国が、
   こんなに騒いでる小樽の運河とは何だ
   そんなに大事なものなのか
と意識し始め、それが小樽の街に逆流し、今度は小樽市民がただの汚い運河を見直すという、イマジネーションの大転換をし始めた。
 ポートフェスティバルが、それの点火装置だった。

 署名や陳情で行政当局を相手にするより、味方を市民に求めるという当たり前の、しかし大事な転換だった。
 市民という広範に広がる裾野に働きかけ味方につける、そのためには街頭で語り署名を集めるだけではだめで、
  逆に市民を丸ごと小樽運河にきてもらい
  歴史的環境の宝庫の運河周辺を自分の目でみてもらい、
  そこに我々の夢を見せつける
 
ためには、明るい企画=イベント=現場を使ったプレゼンテーションがいいとなって、それを実践し、市民の約半分が自ら運河に足を運んでくれる町になってきていたのだった。
 
 ここまでやってきたのだった。

14_03. その予兆に震えながらも、せつなかった。

 勿論、そんな簡単にここまで来たわけではなかった。
 
 夢街の会議が終わっても、山口・佐々木・私の三人は居残り、何度も明け方まで話し合った。
 仲々結論はそう簡単に出なく、そうなると、
 
   「今度で駄目だったら俺はこの町から去るからな。
 
と、山口は自分が出す方針を三人で意思一致するためか、半分本気半分わざと政治技術で、そういう物言いをしがちになっていた。
 山口は語っているうちに、言葉に酔っていく性癖があった。

 優しい佐々木一夫・興次郎は黙って聞いていた。
 が、私は、これからの小樽運河保存運動が、私たち三人を徹底敵に細部まで試すことになると考えていた。この3人組の間にいわぬわだかまりをつくっては危険だと思い、ここで山口には一度言わねばならない、と腹を括り踏ん張った。

  「あのな、『今度で駄目だったら・・・』てぇのは、それほど厳し
   く俺たち三人の関係が試される、と言いたいのだろうに。
   なのに、山さんは三人で意思一致するのを求めるのじゃなく、俺
   たち二人に『小樽を去る』と半分本気の、しかし、聞きようによ
   っては、半分脅しの恫喝かけてきて、どうするんだ。
   山さんは、最近そういう物言いをしがちだな。
   だったら、俺も言わせてもらうが、いいかい?
   これからは、一人一人の物言いが試されるんだよ。

   山さんはいいよな。
   小樽を去る、って言えるから。

   俺は、親も居て、家族もあり、店もあり、僅かだが従業員もい
   る。
   俺は、そんな、小樽を去る、って安易に言えんのだわ。
   従業員の耳に入ったら、そんな店主ならこの店もいつまで続くか
   わからんから長居は無用と、他の店を探すわな。
   これから小樽運河保存運動で相手にする、会社経営者や商店主は
   、皆、俺とおなじだぜ。
   ポートフェスティバルや夢街の連中もこれから住宅ローンで家を
   購入し始める世代だぜ。
   この町が好きだから・・ってな。
 
   その山さんの今の物言いを聞いたら、皆、どう思うと思っている
   んだ。
   所詮、山口の覚悟はその程度か、普段は俺たちに格好良く迫って
   くるのに、所詮、その程度の小樽への関わり方だったか、ってな
   らんか?
   もう、二〇代の若者でもあるまい。
   言いたいことや怒りや思い、そして決意はわかるし、皆だって、
   同じ気持ちだ。
 
   気を許した仲間だからって、いうのが一番悪い。
   山さんは酩酊気分で余計に語ってしまうところがある。
   気を許した仲間に、疑心暗鬼がわき上がったらどうすんだ。
   今度、俺たちの前で又、同じような事言ったら、俺たちの関係は
   終わりだからな。
   はっきり言う。
   これからの小樽運河保存運動に残念ながら負けて、それで、山さ
   んが小樽を去っても、俺はこの小樽を見続けていく。
   それを一緒に見続けると言える奴とでないと、これからの一層厳
   しい、だからこそ正念場の小樽運河保存運動をスクラムを組み、
   担えるわけないだろうに。」
 
と、逆に凄んでしまう私がいた。
 山口は、以降、もう二度と今度で駄目だったら、俺はこの町から去るからな。的発言はしなくなった。
 山口の言いたい気持ちや気分はわかるが、それを聞く者がどう受け止めるのかを推し量るところが、弱かった。
 それが、無用の軋轢を生みかねなかった。
 
 が、それもこれも、小樽運河保存運動がこれから新たな、だからこそ今まで以上に厳しい段階にステップアップするからだった。
 誰がここまでくると予想したか?

 峯山会長が老体にむち打って全国行脚し押して回ったボタンで、全国に火がつき、ポートフェスティバルが押したボタンで小樽の街に火がついたわけだった。
 その峯山会長も、素晴らしい発想と優れた戦略を最初から持っているわけではなかった。
 暗闇を手探りし、飽くことなく、真摯に訴える姿勢が、人を動かし、戦略を立てる北大三人組を揺り動かし、私たちを突き動かし、そして、世論を動かした結果だった。
 地域で、ダイナミズムが生まれる条件は、二つである。
 手探りであがくほどの情熱と、そして経験や知識や洞察に裏打ちされた戦略の二つが必要だ。
 が、当初戦略がなくても情熱があればその情熱に刺激された人々の動きが、逆に戦略を打ち出せるように作用していく、それが市民運動の不均等複合発展の論理だった。
 その峯山会長が全国に巻き起こしてくれた波紋の広がりに、地元の小樽運河保存運動も応えなければならなかった。
 なぜなら、小樽が問題の震源地だったから。
 運河は、東京や札幌や旭川にあるのではなく、この、ここ小樽にあるからだった。

 今まで以上に、更にもっと市民を味方につけて、小樽運河問題が秘めている「地方の時代」の社会的テーマを、浮き彫りにし際立たせていく。
 小樽運河研究講座や全国町並みゼミなどの学びと交流で、交流しながら学んだのはそこだった。
 運動して、次々に状況を切り開いていくことで、主体的条件が客観的条件を産みだしていく、ってやつだった。


 そう、朝焼けの小樽運河の艀の上で反芻しながら、次の手をどう仕掛けるのかと唸っていた。
 若者世代だけのダイナミズムから大人の世代まで網羅した全市的ダイナミズム
をどう発展させるのか?
 頑ななトップを頂く行政にくさびを打って分化させる手立てと可能性はあるのか? それより、同じ地元に依って立つ経済界、自分の寄って立つ基盤である会社の将来的存立を賭ける経済界にこそくさびを打ち分化させる方が、行政を替えようとするよりてっとり早い、のではないか?
 しかし、そんな簡単には妙手は思いつかない。

 四つに組んだ相撲から今度はボクシングに場を変え、にらみ合いながらでジャブを打ち合い、ボディブローを打ち合う段階を、これから迎えようとしていた。
 
 ここで小樽・夢の街づくり実行委員会結成からの5年間を見てみると・・・
 
 1978年(昭和53年)から、1982年(昭和57年)にかけて五年間の動き

 【1978年 昭和53年
 05月25日 小樽運河を守る会総会,会長に峰山冨美氏を選出
 05月17日 道内の学者・文化人を中心に札幌で「小樽運河問題を考える会」が
       実質的に発足
 06月28日 北海道の環境を考える会(HABITAT)が、第1回石造倉庫セミナー
       を開催。 西山夘三、足達富士夫、梶田清尚の三氏が講演、出席者
       約300人)
 06月29日 小樽運河問題を考える会、『小樽運河問題を考える会ニュース』
       第1号を発行
 07月08日 第1回ポート・フェスティバル(渡辺真一郎委員長)開催,約8万人の人出。
       稲北地区商店街住民が「道道臨港線既定ルートに絶対反対する住民の会」結成
    市,飯田勝幸北海道大学建築工学科助教授に「小樽運河とその周辺地区環境整備
       構想」の作成を依頼
 
 08月13日 小樽夢の街づくり実行委員会、発足
 
 08月28日 余暇開発センター「都市開発と歴史的環境の調和を考える:小樽運河問題によせ
       て」と題する講演会開催され,伊藤延男,稲垣栄三,木原啓吉らの各氏が講演。
 
 09月   小樽運河問題を考える旭川の会、結成
 10月   小樽運河を愛する会(東京)、発足
       守る会,考える会,愛する会の三団体,文化庁,環境庁,建設省に運河保存を
       陳情
 11月01日 夢街、守る会、他保存3団体,共同で「アピール:よみがえれ小樽運河」
      (B4版, 2p.)を作成,全戸に配付
 11月16日 市,「運河と臨港線:その役割と小樽の将来展望」と題した『広報おたる』
       11月臨時号(A5版, 20pp.; 市土木部作成)を発行,全戸に配付
 12月   夢街,『ふぃえすた小樽』を創刊(以後,5年間で15号を刊行)
 12月   夢街、守る会、他3団体共催の「運河研究講座」第1期第1講が開催される
      (全10講)
 12月   夢街、「夢街バザール」第1回開催」国際ホテル2Fロビー
 
【1979年 昭和54年】
 01月   飯田勝幸北大助教授,「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」案を完成
 02月24日 志村市長,「守る会」提出の代案を逐一検討した上で,いずれも実現困難と
       する
 03月01日 観光資源保護財団『小樽運河と石造倉庫群』(観光資源調査報告7)が刊行さ
       れる
 03月28日 第87回国会参議院予算委員会第4分科会で小笠原貞子議員が質問に立ち,小樽
       運河保存問題に言及
 06月03日 小樽青年会議所,街のオリエンテーリング「歩こう,見よう,小樽ふるさと
       への路」を開催,市民,市外も含め約3,000人が参加
 06月29日 市が飯田勝幸北大助教授に委託して作成した
       「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」
       が市議会建設常任委員会で公表
 
 07月   市役所内関係部局で「小樽市歴史的建造物対策会議」を設置,歴史的建造物と
       歴史的都市景観の保全事業に着手
 07月   第2回ポートフェスティバル(小川原格委員長)来場者数10万人を軽く超え
       る。
 09月   小樽青年会議所主催「'79 市民シンポジウム:小樽その未来,よみがえれ潮騒の
       魂」が開催、小樽青年会議所は運河問題で独自の8つの道路構想を提案
 11月   小樽青年会議所,「歩こう,見よう,小樽ふるさとへの路パートII」を開催,市
       民約1,200人が参加
 
 11月14日 市議会総務・建設両委員会は、保存派四団体(守る会・考える会・総行動実行
       委・夢街)の陳情4件を不採択にし、逆に、道路建設促進の陳情2件を採択し
       委員会室は騒然としたまま終わる。
   
 
 この市議会の傍聴を、夢街は初めて経験する。
 議運委員会が頻繁に開催され、委員会は何度も中断する。
 小樽運河を守る会の古参会員は、その中断の合間に、ぞろぞろと共産党市議団控え室にお茶を飲みに行こうとする。
 TV各社や報道各社、そして各政党関係や一般市民傍聴者が、それを見ているのにである。 
 そういう振る舞いが、小樽運河を守る会=共産党=アカとレッテル貼りを許す、ということを気がつかないのか、と私は呆れかえる。 
 自民党市議に近しい夢街スタッフに、自民党市議団控え室に水を飲みたいと出入りしてもらい、労組参加のスタッフには社会党市議団室に出入りしてもらい、夢街は特定政党を支持していない、様々なスタッフがいる、と見せつける。
 更に、夢街のスタッフに落語をするスタッフがいて、中断した委員会の空気を和らげるのに一席やらんかと持ちかけ、委員会壇上で落語をしてもらう。 
 「何がはじまったか」と、小樽運河を守る会会員も共産党控え室に行くのを止め、逆に委員会室から廊下に笑い声が響き、自民党控え室から市議達が何事かと覗きにくる。 
 委員会室は、つかの間、各政党市議や傍聴人や市理事者の笑いに包まれ、険悪でとがった空気が和らいだ。  
 自民党市議団長老の中畑議員が  
  「神聖な議場なのに、お前か、こんなことさせるのは」 
と聞いて来、「空気が悪いから」と応えると、  
  「まあ、いいわ」
と、笑って横で落語を聞いていた。  
 私自身は、市議会委員会論議が「茶番だ」と言いたかったのだが、そこまでは言わなかった。 
 
 兎に角、こんなことまでして小樽運河保存運動が共産党系でないとアピールしなければならないほど、小樽運河を守る会の古参会員の政治的感覚は、鈍感というか麻痺していたのだった。  
 市議会が閉会して数日後開かれた小樽運河を守る会幹事会で、  


  「今後市議会傍聴で委員会が中断したとき、小樽運河を守る会幹部は政党控
   え室に休憩を取りに行くなどの、安易で政治的緊張感のない行動は慎んで
   もらいたい。 
   個人がどの政党を支持するかを云々する気は毛頭ない。 
   が、小樽運河を守る会幹部が衆目の中で出入りすると、まるで小樽運河を
   守る会自身がその政党を支持している、とあらぬ誤解を与え、反保存運動
   キャンペーンを利することになる。 
   陳情を紹介してくれた政党へのお礼挨拶は、傍聴とは別の日にやって頂き
   たい。」

と、夢街代表として釘を刺す。
 共産党市議が苦虫を潰したように、顔をゆがめていた。

 市議会が混乱のうちに埋め立て派の陳情を採択し、保存派陳情を不採択されたその日の夜、花園町の酒亭すえおかで山口と私で呑んでいると、ほぼ客が帰った深夜、市長が一人で来店、私たち二人がいるのに気がつき帰ろうとするが女将が席に座らせる。 
 覚悟した市長は杯を傾けながら  

  「市民はひどい市長というのだろうな。 
   しかし、議会が決定し一度部下に号令をかけた市長としては翻せ
   ないのわかってくれるか?   
   お前さんは戦後世代、俺は戦中世代で海軍。   
   部下に命令し、それを翻していたら戦場現場は混乱し敗北すると
   いう生き方をしてきた。   
   一度部下に出した命令を翻すなど考えられん。  
   ましてや今俺は行政の長だ、そんな議会決定された事業を翻すな
   ど『行政の根幹に関わる』んだよ。」 
 
と語った。 
 山口と私は答えなければならなかった。 

  「君子豹変す、です。こんな市民参加でもう一度小樽運河地区をど
   うしていくかを論議できる、最高の機会を市長は目の前にしてる
   のじゃないですか。」  
 

  「時代は変わる、過去に決定したことに固執するのじゃなく、町は
   生き物なのだから、時代の変化を鋭く嗅ぎ分け、見直す。   
   それは大変かもしれないが、『そういうたてまえ』に呪縛されて
   いちゃ、これからこの町で生きていこうとする私たちはそれも引
   きずらされるわけですか。」 
 
と応える私たちがいた。
 
 市長は静かに笑って酒を飲み干し、帰っていった。

 
 11月22日 《小樽運河条例をつくる直接請求の会》が結成され,直接請求署名運を開始
 12月21日 第4回小樽定例市議会,道路建設促進の陳情2件を採択。
 
【1980年 昭和55年】
 01月25日 《小樽運河条例をつくる直接請求の会》,市に小樽運河問題調査審議会条例
       制定を求める住民直接請求5万200名以上の署名を集め、有効署名
       総数37,208人(市選管発表)で、直接請求が成立する。
 02月06日 小樽運河問題調査審議会条例制定を求める住民直接請求,臨時市議会で開会
       後数分で否決。
 05月24日 全国町並み保存連盟,「あたらしい町自慢の創造を」と題する「第3回全国町
       並みゼミ」を小樽で開催,全国から20以上の地域・保存団体、350人が
       参加。
 07月   第3回ポートフェスティバル開催(岡部唯彦実行委員長)15万人以上の
       来場を得る。
 08月   市,「小樽市の歴史的建造物及び景観地区に関する調査」を地域計画建築研
       究所に依頼し,調査がスタート。
 08月07日 小樽市都市計画審議会,臨港線計画変更原案(=「小樽運河とその周辺地区
       環境整備構想」)を,「環境の保全整備については,十分かつ慎重に配慮す
       ることを要望する」との付帯意見を付して承認
 08月29日 道都市計画地方審議会,異例の挙手による採決で「小樽運河とその周辺地区
       環境整備構想」)答申
 09月   「小樽運河を守る市民集会」開催
 09月   「小樽運河を考える東京集会」開催
 10月   道々小樽臨港線第3工区の内300mが,改めて事業認可(立岩線〜緑山手線)
 
   

14_5. 保存派攻勢の三年間から持久戦に!

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 こうして、ポートフェスティバルを境に、小樽運河保存運動は地元の小樽運河を守る会・夢街に加え、北大グループの目的意識的工作によって小樽運河を愛する会(東京)を始め札幌、旭川の支援団体が誕生し、市内外の裾野を拡大し、五団体での連携した運動となっていく。
 
 一方、行政は、1980年(昭和55年)5月の、全国町並みゼミが終了した翌月、小樽市は小樽市都市計画審議会を開催し、臨港線計画変更原案(=「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」=飯田構想)を,
  「環境の保全整備については,十分かつ慎重に配慮することを要望する」
との付帯意見を付して承認してしまう。
 更に、同月、北海道・都市計画地方審議会は、異例の挙手による採決で、
  「小樽運河とその周辺地区環境整備構想」
を答申してしまう。
 そして1980年(昭和55年)末、小樽市は第3工区(立岩線〜緑山手線)の内300mを,改めて事業認可する。

 道路促進派と運河保存が、ジャブとボディブロウを出し合い、小樽運河保存問題は、一進一退の攻防は続いていく。
 しかし、行政手続きの進捗に小樽運河保存派が追い込まれてきているのも事実だったし、運動内部に手詰まり感、焦燥感がつのり、次第に小樽運河保存派の意識を蝕んでいた。 
 年が明けた、1981年(昭和56年)1月、そのような小樽運河保存の攻防の最中、小樽運河を守る会と夢街は、旧小樽倉庫(現・小樽運河プラザ)の現地保存を求める要望書を市長に手渡し、一方、市は「小樽市歴史的建造物及び景観地区調査報告書」を完成させ、志村市長は旧小樽倉庫を保存するため用地買収することを検討中と表明する。

 ジャブとボディブロウの応酬が続いていた。
 水面下で激流が流れていた。

【1981年 昭和56年
 05月   道小樽土木現業所から市に「公有水面埋め立て申請」提出され、住民縦覧開
       始「公有水面埋め立て申請」、縦覧者31名,意見書2,091通
 06月24日 「公有水面埋め立て申請」書類に測量ミスと捏造があることが判明、市側
       も認め、申請を取り下げる。
 09月16日 道小樽土木現業所,測量ミスにより取り下げていた「公有水面埋め立て申請」
       再出願へ
 09月   小樽商工会議所副会頭・大野友暢氏、小樽運河保存運動サイドと初接触 
 
   
 そして、1981年5月、いよいよ北海道庁の道路部門機関・小樽土木現業所は、小樽市に道々小樽臨港線建設のための小樽運河埋立工事の第一段階、「公有水面(小樽運河)埋め立て申請」を提出し、その提出書類の住民縦覧が開始されるに至る。
 最終的には、縦覧者31名,意見書2,091通が出される。
 行政手続きに左右されない市民運動なのだと言ってきて、しかしいよいよ小樽運河に手を付けられる手続きが始まることは、小樽運河保存運動の意識を大きく萎縮させ、いよいよ駄目かとあきらめ感が醸成されはじめていく。
 重苦しい空気が小樽運河保存運動の会議でも充満しはじめる。
 
 そんな折、とんでもない事実が現出する
 同年6月小樽土木現業所が小樽市に申請した「公有水面埋め立て」書類に
  「測量ミス
があることを、共産党が市議会で指摘し、紛糾することになる。
 そして、ついに小樽土木現業所はそれを認め、出願を取り下げた
 再度の出願を目指す、という事態が現出する。
  「測量ミスなんて、そんな事があるのか」
と私も正直うめき、そして行政手続きが遅延することに安堵した。
 後でわかったことだったが、その日本共産党に公有水面埋立出願書類に「測量ミス」がある情報を指摘し提供したのは、港町小樽で永年小樽港をテーマに研究してきた、1市民だった。
 小樽には、日本の防波堤の創始者・廣井勇の業績を研究する民間の研究者や会が実に多かった。 廣井勇の銅像建立をと市民が運動した際、驚くほどの市民の浄財が寄せられ、これが港町として培われ蓄積した市民の歴史観だとしみじみ思ったものだった。
 港町として培われ蓄積した市民の思いが、皮肉なことに行政にとって、物流港湾都市として発展してきた小樽の市井の港湾研究家の手によって
  「待った」
をかけられたわけだった。
 道から当時小樽土木現業所(現・小樽建設管理部)に道々小樽臨港線建設のために赴任された道路課長は、
  「港町は、やはりおそろしい。いや、小樽って街はおそろしい。
と唸ったものだった。
 この国では、重要港湾は国か都道府県が管理し、小規模港湾は市町村が管理する。
 しかし、北海道だけは道庁は港湾を管理していない珍しい例だった。
 だから、道職員に港湾管理の経験をもつ職員は少ないのだという。
 前述の小樽土木現業所道路課長は、小樽に赴任されたときから蕎麦屋の息子に接近してきて、色々飲み語りあったものだった。
 「小樽土木現業所赴任の際、仲間から言われ、親しい同僚と『水盃』を交わしてきた。
  小樽はアブナイ町、粛々と進捗しているかに見えて、いつも最後の土壇場でひっくりかえされるから、ゆめゆめ油断するな、重々注意して仕事をするようにと言われてきた。」
と、冗談ながらに言ってくれたものだったが、即洗礼を市井の人から受けたわけだった。
 そういう歴史に、小樽運河保存運動はここで助けられたことになる。
 
 いずれにせよ、公有水面埋立出願は取り下げられて、行政手続きの進捗は足踏みすることになり、その分小樽運河保存運動にとって戦線を整える時間を与えてくれる天佑となった。

 しかし、行政手続きの進捗は足踏みしても、小樽運河保存運動にとって事態を大きく打開する手立てはないに等しかった。

 1981年(昭和56年)9月、道・小樽土木現業所は、測量ミスにより取り下げていた「公有水面埋め立て申請」を再出願する。
 その前にも拘わらず、小樽市議会は
  「小樽運河とその周辺地区環境整備計画実施計画」
を了承する。

14_06. 小樽商工会議所・大野友暢副会頭、保存派と初めて接触


 このような、表面では「測量ミス」によって取り下げられた「公有水面埋立再申請」が、道・小樽土木現業所から市に再提出され小樽運河保存運動には、行政手続きの進捗に対する焦りが生まれ始めていた。
 峯山冨美会長の焦燥感は見ていて気の毒なほど顕れていた。

 しかし、小樽の町の水面下では猛烈な動きが実は動いていた。
 小樽商工会議所で底流がごうごうと音を立てて流れていた。
 小樽商工会議所は、道々小樽臨港線道路建設促進期成会の中心で、各経済団体のまとめ役だった。
 その小樽商工会議所の副会頭、小樽作業衣株式会社社長の大野友暢氏が、突然手宮の山口保の経営する喫茶メリーゴーランドにこれから尋ねてこられると、山口本人から電話が入る。
 慎重に対応するには山口一人では無理、蕎麦屋息子も参加せよ、ということだった。
 私もメリーゴーランドに向かう。
 向かうタクシーの中で考える。
 あらかじめ電話でアポをいれてきた。
 入船町にある会社の社長が、ふらりと手宮の喫茶店に立ち寄る、ってわけじゃない。
 道路建設促進期成会や小樽商工会議所の幹部、それも副会頭が小樽運河保存運動サイドと初めて、会議の場などではなく、プライベートで接触してきた。
 当然、なにかある。
 
 小樽商工会議所副会頭で小樽作業衣株式会社社長の大野友暢氏には、一度面識を頂いてた。
 二年前の1979年(昭和54年)の統一地方選挙で志村市政2期目の市長選挙があった。
 前年、ポートフェスティバルが開催され、小樽・夢の街づくり実行委員会が誕生した。
 街の中にそれまで聞き慣れなかった
  『まちづくり』
と言う言葉が夢街によって登場し、新鮮みを持って浸透していった。
 驚いたことに、その統一地方選で、市議選もあわせて全立候補者が、選挙カーや立ち会い演説でその『まちづくり』と言う言葉を使い出した。
 本来ならそれは歓迎すべきところだった。
 夢街の何人かが、さも『まちづくり』という言葉を運河埋立政党が使うのは面白くないと言って来た。
 私は、単なる「保存」から、『まちづくり』に市民意識が組織されることを歓迎こそすれ、『まちづくり』と言う言葉を使用するのに反対するのはセクト主義だと笑った。

 しかし、酒亭Sの女将から、『まちづくり』はあなた達夢街の言葉だ、政党が勝手に使うなら、小樽運河保存も言うべきだ、それは言わないで『まちづくり』を言わせていいのか、と言ってこられた。

 が、この統一地方選で、小樽運河保存運動問題が埋没しかねない空気があった。
 おそらく志村市政が2期目も継続される結果となる。
 しかし、その志村市長候補に投票される票には、小樽運河問題に対して保存・再生・再活用を求める市民の票が含まれていることは明白だった。
 それを明言し、当然当選する勢いにブレーキをかけるのも、小樽運河保存運動が選挙戦に埋もれてしまうのを防げるか、となり、一発かますか、となった。

 各市長、市議選対がどういう顔ぶれで担われているのかを知っておくのも大事だ、と相成った。
 社会党、共産党、公明党と各選対事務所を訪れた。
 小樽・夢の街づくり実行委員会は、市議・道議・市長候補を出す政党に、


 「『まちづくり』は小樽・夢の街づくり実行委員会の主張した言葉で、
  安易に使って頂きたくない。
  今まで、各会派・政党から一度も『まちづくり』という主張を聞いた
  ことはなく、まして、選挙の時だけの都合のいい使用は、当選目当て
  の露骨な利用主義であり、遠慮して頂きたくない。」

と要望に回った。
 全政党は、その要望を素直に受け容れた。
 共産党すら受け入れた。
 皆、根性がなかった、面倒をさけた、そんなことで揉めてマスコミに取り上げられるのを避けた。 別に『まちづくり』を商標登録しているわけでもなく、著作権など適用外なのに、避けるという一点で了承する政党の弱腰に呆れた。
 
 拍子抜けする思いで、最後に志村市長候補選挙対策本部を訪問した。
 そのとき対応に出た方が、志村市長選対幹事長だった大野友暢氏だった。
 実に理路整然と応対してきた。

  「いつから、『まちづくり』という言葉は、小樽・夢の街づくり実行委員会
   の専売特許になったのか?」
 
と、笑って切りかえしてきた。
 それまで回った政党とはまったく違った対応に、一瞬怯んだが、
  「言葉を安易に使って頂きたくないだけです。
   『まちづくり』という言葉は、町並み保存などの市民団体が営々と苦労し
   た中から作り上げられてきた言葉です。
   当然、その言葉のなかに、市民が一人一人が街の将来を展望し、それに責
   任を持つという意味がこめられてます。
   こと小樽では、それは小樽運河を安易に埋め立てるのではなく別の手法が、
   つまり保存・再生・再活用が込められた意が含まれます。
   これまでも志村市長候補が使用してきた言葉ならまだしも、突然選挙にな
   って使用するのは政治的利用主義と顰蹙を買われても致し方ないので、遠
   慮して頂きたいのです。
   小樽市議会の全会派が以上の観点を踏まえて『まちづくり』という概念を
   理解した上で使用するのであれば、私たちも大歓迎致します。」
と踏ん張って応えると、大野友暢氏は笑って了解をした。
 選対幹部が周囲で同じく笑って見てくれていた。 
  「貴方が、蕎麦屋籔半さんの息子さんか。」
と、最後に帰る私に言ってくれたものだった。
 まだ、若かった。
  「蕎麦屋の息子の顔を覚えたぞ」
と圧力をかけてきたかのように聞こえ、しかし、
  「今日、幸いに面識を頂いて光栄です。」
と、何とかやり返した。
 その後、大野友暢氏と会うことはなかった。
 
 が、1980年(昭和56年)の、ポートフェスティバルの第3回目が開催された頃から、市内の衣料品店の店頭に、シルクスクリーン印刷の小樽運河を絵柄にしたTシャツが売り出されるようになった。
 都通りやサンモール商店街の複数の衣料品店がそのTシャツを店頭に飾り販売していた。
 小樽運河保存運動内部でも話題になった。 
 何処がこれを製作しているのかを馴染みの衣料品店の店主に聞くと
 「小樽作業衣株式会社から仕入れている。」
と。
 夢街の若者は、
 「小樽作業衣株式会社の社長は、小樽商工会議所の副会頭で、道路促進期成会
  の幹部じゃないか。
  そんな人が小樽運河で金儲けなんておかしい。」
となったが、
 「単価も安いし、利益も少ないだろうに。
  が、小樽運河がビジネスになる、とやったわけだろう。
  道路促進派の会社が小樽運河がビジネスになるってやるっておもしろい。
  経済界が、運河がカネになるって思うのは、保存に向かうという少しは可能
  性としてあるし、少なくとも埋立でいいのか、という気分をつくる。 
  俺は大いに歓迎していいんじゃないかと思う。
  少し見守ろう。」
と、話を納めたことがあった。

 その大野友暢氏が、山口保と会いたいと言って来た。
 
 メリーゴーランドに着いた。
 もう、大野友暢氏は先に来店していて山口保と和気藹々話をしていた。
 そのときは、大野友暢氏もいきなり
  「道路建設を見直し、小樽運河保存を」
とは言わなかった。
 が、しかし、小樽作業衣株式会社は、なんとLeeやリーバイスやペンドルトンなどアメリカのジーンズメーカーやアウトドアファッションなどブランドの北海道総代理店契約を取っていた。
 その契約更新に、大野友暢氏はポートランドやサンフランシスコなどを毎年訪れていた。
 氏は、ウォーターフロント再開発の実例を目の当たりにしてきていた。
 我々は小樽運河研究講座のスライドでしかみてない、そのナマの姿を見てきていた。
 ギラデリ・チョコレート工場のショッピングセンター再活用や、ザ・キャナリー、フィッシャーマンズ・ワーフ、ピア39など古い港湾施設の再生再活用で大変な賑わいを取り戻しているのを目の当たりにしてきたことを、山口や私に話された。
 山口は、
  「小樽商工会議所や道路促進期成会の方々は経済人でしょう。
   だったら、せいせい今は坪12万円が道路作って、坪20万になるのを取る
   か、運河と石造倉庫群を一体で残し倉庫などの再活用がなったら、坪50
   万以上になる。(注:小樽運河観光が爆発した頃は坪400万円になった) 
   そこに経済人として目を付けないのは、本当におかしい。
   サンフランシスコのウォーターフロント再開発をナマで見てきた大野さん
   こそが、小樽商工会議所で声を大にして言うべきです。」
と、小樽商工会議所会員をたきつけるべきと言い放った。
 大野さんは
  「保存派ってそんなことをいうのか」
とおもしろがっている。
 大野さんが小樽運河を守る会の凍結的保存、すなわち
  「保存するだけ、あとは関係ない」
という傾向と最初に接触しないで済んで良かった、と安堵した。
 次から次に話題が広がった。
 若者の文化や流行論議にも。
 そして帰えられた。
 
 完全なシグナルだった。
 少なくとも、志村市政はさておき、経済界は運河埋立道路建設一辺倒ではない、と言うことを最低限私たちに伝えに来たのだった。
 が、公有水面埋立申請歳出眼のこの時期に、わざわざメリーゴーランドの山口に会いに来るということは、もっと深い意味があるのではないか、と山口と額を寄せ合った。

 ここから、小樽運河保存派と大野友暢氏との関係が始まった。
 以降、大野友暢氏と頻繁に話し合う関係になっていった。

 そして、1981年(昭和56年)も押し迫った年末近く、その大野副会頭から驚くべき情報がオフレコで伝えられる。
  「西武流通グループの関口デザイン事務所・関口敏美社長が、小樽海陽亭で
   、菅原春雄小樽倉庫協会会長、川合一成小樽商工会議所解答、志村和雄小
   樽市長と会った。
   米国ボストンなどを手本にした古い石造倉庫などを再利用した小樽運河地
   区再開発を提案した。」
という大野副会頭情報に、山口も私も色めき立った。

  「堤清二なのか、堤義明なのか、それとも西武流通グループと国土
   計画両方なのか?」
 
と問う我々に大野副会頭は前者だ、と。 

 小樽運河保存運動が終焉し、道々小樽臨港線が完成し運河の散策路が完成した1986年(昭和61年)から20年を経て、2006年(平成18年)北海道新聞は「運河論争20年ーあのとき私は」8回シリーズに、この小樽海陽亭での会合に出席された菅原春雄元フタバ倉庫社長がシリーズ四回目のインタビューに答えている。
   (菅原春雄小樽倉庫協会会長に堤清二オーナーが合いたい、と関口敏美
   社長が伝えて来、東京池袋西部流通グループ本部で堤清二社長と会談し、
   堤オーナーは)、

    「西友とか西武百貨店など単体ではなく西武グループとして総
     合的な開発ををしたい。」
    「道路計画はいつめどが立つのか?」
 
   と訪ねてきた。
   それをうけて、菅原春雄小樽倉庫協会会長は、
    「誘客には道路が必要になる」
   と堤社長は考えている、と受け取った。」
とインタビューに答えている。
 更に、同インタビューで菅原春雄氏は、

   「(そこで)小樽商工会議所会議所内に『小樽運河地区再開発特
    別委員会』を設置、菅原春雄社長が委員長に就任、西武受け入
    れ体制を作った。」
 
とも語っている。

 勿論、当時、このような菅原春雄氏の動きは川合小樽商工会議所会頭や大野友宣副会頭から伺ったことはない。
 そもそも、道路促進派のトップだった菅原春雄氏の動向は秘密裏に行われていて当然だし、なおかつ巧みな政略を駆使してその位置を占めていた氏の20年以上を経ての発言を検証するすべもない。
 この辺は、眉につば付けて聞かねばならないし、週刊誌的情報に踊らされるわけにもいかない。
 今は、菅原春雄・元小樽倉庫協会会長が20年を経てのインタビューにそう答えているというレベルにとどめておこう。
 いずれにせよ、

  「西武流通グループの関口デザイン事務所・関口敏美社長が、小樽
   海陽亭で、
   菅原春雄小樽倉庫協会会長、
   川合一成小樽商工会議所会頭、
   志村和雄小樽市長
   と会った。
   米国ボストンなどを手本にした古い石造倉庫などを再利用した小
   樽運河地区再開発を提案した。」
 
という事だけは、当時大野副会頭だけではなく、複数の方々から情報として入ってきたことだけは間違いない。
 年末近くの繁忙期に入ってきた情報、それも大変配慮しなければならない情報で、明確になってから峯山会長には報告しようと確認し、山口と私の二人だけのオフレコ情報にとどめておいた。
 いずれにせよ、西武流通グループがボストンウォーターフロント再開発をモデルに、小樽運河再開発に積極的になっている、ことだけは間違いのないことと確認し、1981年は暮れ、小樽運河保存運動の大爆発の前兆の1982年(昭和57年)を迎える事になる。


【1981年 昭和56年】
 09月16日 道小樽土木現業所,測量ミスにより取り下げていた「公有水面埋め立て申請」
       を再出願
 10月   市、「小樽市歴史的建造物及び景観地区の保全方針(案)」を策定
 11月   西武流通グループの関口デザイン事務所・関口敏美社長が、小樽海陽亭で、
       菅原春雄小樽倉庫協会会長、川合一成小樽商工会議所解答、志村
       和雄小樽市長と会う。
       米国ボストンなどを手本にした古い石造倉庫を再利用した小樽運
河地区再
       開発を提案。
 11月   関口敏美・関口デザイン事務所社長から「堤オーナーが菅原社長と会いたが
       っている」と聞いた菅原春雄小樽倉庫協会会長、東京池袋西部流
通グルー
       プ本部で堤清二社長と会談。
       「西友とか西武百貨店など単体ではなく西武グループとして総合
的な開発
       をしたい、道路計画はいつめどが立つのか?」
       と問われ、菅原氏は
       「誘客には道路が必要になる」
       と堤オーナーは考えている、と受け取る。
 11月   早速、菅原氏は、小樽商工会議所会議所内に「小樽運河地区再開発特別委員
       会」を設置、自らが、委員長に就任し、
      「西武受け入れ体制をつくる。」
 
 12月   小樽運河とその周辺地区環境整備計画実施計画」市議会で了承
 
【1982年 昭和57年】
 01月   「運河を守る市民連絡会議」設立。
 01月   小樽商工会議所運河地区再開発特別委員会、米・ロスアンゼルスやサンフラ
       ンシスコのフィシャーマンズ・ワーフなど、歴史的景観を活か
       した観光先進地を視察した。
 
 

14_07. 「運河を守る市民連絡会議」設立という、今更ながら特定政党との連携

   
 1982年(昭和57年)の松が取れて、いきなり、
   「サンモール一番街の喫茶店で、翌日開かれる会議に来て欲しい。」
と峯山会長から電話が入った。
 即、山口に電話をいれると、既に知っていて、怒っていた。

   「今更、共産党系労組主体の「運河を守る市民連絡会議」を共産
    党系のおたる・総行動を軸につくるのに、峯山さんが断り切れ
    ず参加するというんだ。俺は反対した。
    が、峯山さんも今の膠着状態を何とか脱したいという思いと焦
    りもあって、執拗な総行動執行部に自宅まで押しかけられ断り
    切れなかった、ようだ。
    俺は反対だから、行かん。」
 
といい、電話は切られた。

   「峯山さん一人に行かせるわけにはいかんだろうに。」
 

と言いかけて、切られた電話の受話器を見つめるよりなかった。
 当日、店を抜け出して喫茶店にいく。
 「市民連絡会議という大仰な名称の会議が喫茶店かよ」と独りごちながら入って席について絶句した。
 小樽運河を守る会からは峯山会長と森本副会長の二人、あとは共産党市議とおたる総行動労組金山委員長、櫛引全動労委員長以下数人の労組関係者だった。
 今日の会議は、どういう趣旨かと聞くと、
  「運河を守る市民連絡会議の結成式だ。」
と。
  「ほう、こんな小さなサテンで、こんな人数なのに、広範に小樽市民を組織する連絡組織の結成式なのですか?」
というと、
  「まあまあ、そんな堅苦しく考えないで、小樽運河保存運動と労働団体の連絡・情報共有を一層強化する会議と考えてくれればいいんだから。」
 奥さんが共産党市議で高校教師の方がなれなれしそうに言ってきた。
 腹の中で
  「そうだろう、狙いは別だろうに」
と思いながら、

  「労働団体だったら、樽労や全道労協(注:社会党系)にも声かけ
   なければならないんじゃないでしょうか?
   声掛けはしておられないのでしょう?
   今日の集まり具合なら、まだまだです。
   まずは『運河問題労働団体連絡会議の準備会」レベルからのスタ
   ートでいいでしょう。
   それなら、小樽運河を守る会は運河問題の当事者であるので、そ
   もそも新しくつくられる『運河問題労働団体連絡会議」には、小
   樽運河保存で色々協力をお願いする立場となる。
   ということは、この会議に小樽運河を守る会が名を連ねるなど、
   労働団体さんには失礼で、そもそも労働団体の自主性からもおか
   しいです。
   勿論、夢街には事前声掛けもありませんでした。
   今日は、私は峯山会長に呼ばれてきているだけで、何の判断もつ
   きかねます。
   今のお話を伺い、小樽運河を守る会も名を連ねるべきでないと考
   えますから、当然、私どもの夢街もこれから話し会いますが、ほ
   ぼ参加はしないと判断されて結構ですので。」
 
 空気は当然白けたし、冷めた珈琲もまずかった。
 峯山冨美会長の顔を伺うと膠着した状況の打開を出来ない焦燥感と消耗感、何とか手立てをとする切望感に憔悴されていた。
 それに、共産党系市議や労組執行部からの夜討ち朝駆けの執拗な勧誘に負けてのこと、と理解ぜざるを得なかった。
 そんな峯山会長に、

  「東京や札幌、旭川の運河保存団体との関係はどうなるのか」
  「この三団体もその「運河を守る市民連絡会議」結成に賛成してい
   るのか」
 
と、問いただすのも嫌みになるし、それを共産党系の人達の目の前でやる気は毛頭無く、そもそも何か言う気力もわかなかった。

 何の魅力も展望も切り開くことが出来ず、その意思もない、ただ共産党色をぷんぷん漂わせる人たちと、席を一緒にするのもはばかれた。
 山口同様、全くそのような団体立ち上げに、夢街は興味も持たなかった。
 運動内部に、政治的配慮をしなければならない団体を、これから大事な時期に抱え込むような余裕も状況下でもなかった。
 全く人の良い峯山会長は、共産党サイドの狙いを推し量っていなかった。
 普段は大変慎重な人なのに、余裕をなくし、何かしなければという焦りが先走っての、結果だった。

  「
今年はいよいよ北海道知事選挙ですよねぇ。
   皆さんも忙しくなるのでしょう?
   皆さんも忙しくなるのでしょう?
 
とスマして言うと、峯山会長がハッと顔を上げ、私を見た。
 今気づくなんて遅すぎる、と峯山さんに私は笑みを返してあげた。

 「運河を守る市民連絡会議」など「ためにする組織」だった。
 要は、その年の春の統一地方選で、北海道知事選に立候補する横路衆議院議員の、知事当選を前提にした共産党側の「反横路」シフトの一環で、その器を保存運動内に作ろうとする魂胆としかみてとれなかった。

 横路議員が知事選に当選すれば、衆議院時代国会本会議で「小樽運河保存」として質問にたった実績から、道々小樽臨港線工事の管理責任者・道知事としてどう振る舞うのかという、小樽運河保存運動にとって極めて政治的に大事な局面になるわけだった。

 小樽運河保存運動サイドは、横路孝弘知事の衆議院議員時代の国会質問から当然小樽運河保存の側に立ってくれる、と大いに期待するであろうことは予測できた。
 が、知事と衆議院議員とは、全く違うわけだった。
 
 日の丸掲揚問題や幌延・放射能廃棄物地層処分場問題に加え、北電泊原発問題や日高横断道建設という北海道議会運営上の大問題が目白押しであり、更に加えて小樽運河保存問題は横路孝弘知事の喉に刺さった小骨になる、と私は見ていた。
 共産党は、当然自民等以上の反横路路線を鮮明にするだろうし、それが小樽運河保存運動に持ち込まれる、と大変面倒なことになる。

 そして、小樽運河問題がクローズアップすればするほど、小樽運河を守る会や小樽運河保存運動との調整に横路陣営・社会党関係幹部が接近してくるのは共産党も予測でき、それを牽制する意味合いもこの「運河を守る市民連絡会議」は持っていた。

 そして、この共産党市議と共産党系労組幹部は知らなかったが、とどめ的には、西武流通グループの運河再開発への挙手があった。
 これで、道路促進派の牙城・小樽商工会議所が大きく流動する展望が垣間見えてきたのに、特定政党、それも小樽運河を守る会が孤立化させられていく一つの要因だった共産党系しか集まらない『運河問題労働団体連絡会議」などを、小樽運河を守る会が一緒になってつくるというのだから困ってしまった。
 確かに、西武運河再開発という内容の詳細は見えていなかった。
 2ヶ月後の3月12日の市議会予算特別委員会で、西武流通グループのデザイン会社・関口事務所がプレゼンするまで、市議会議員も詳細はわからず、会議所もその詳細公表は抑えていた。

 しかし、年を越す前にこの西武の運河再開発への受け皿として、小樽商工会議所会議所内に「運河地区再開発特別委員会」が設置され、菅原春雄・小樽倉庫協会会長が委員長に就いていた。
 そして、その「運河地区再開発特別委員会」が会議所幹部も加わり、米・ロスアンジェルスとサンフランシスコの歴史的建造物再活用事例を視察に行くことが決まっていた。

 
14_08. 細い流れが、河になって流れていた。
 
 それなのに、今が苦しく切ないからと言って、共産党とそれを支持する共産党系労働文化団体だけで、市内向けの「市民」を冠にしたニワカ「連絡会議」創設をナント峯山会長が承諾してしまった。
 苦い胆汁をを飲み込む思いで、喫茶店を後にした。
 
 後で峯山会長から電話が入った。
 事前に相談しなかったことを詫びてきた。
 遅かったが、それを責めても、もっと遅すぎた。

  「兎に角、共産党だけなく、どのような政党からの働きかけに関し
   て、事前に夢街の私に相談をしてください。
   もう、小樽運河を守る会だけの時代じゃありません。
   各地の運河保存団体との関係がそれで変にならないよう、会長は
   慎重にも慎重をきす義務がありますから。
   執拗だったら、保存五団体とも相談しなけれなばりません、とい
   うのが一番いいうるかし方ですよ」
 
と、言うより言葉はなかった。
 峯山冨美会長のその時の焦燥感と後悔の精神状況で、大野副会頭からもたらされた西武関係の情報を伝えるには躊躇する私たちだった。
 
 この「運河を守る市民連絡会議」の立ち上げを承認してしまった結果、後々後悔をすることになるのだった。
 

14_09. 小樽運河問題に、西武が浮上

 
 当時の小樽商工会議所会頭・川合一成氏は、小樽の古いお茶問屋を総合食材販売会社に発展させた林屋製茶社長だった。
 その林屋製茶は、札幌パルコの進出前のその当該地に自社所有店舗を構えており、パルコ進出の際、川合氏はその札幌パルコの取締役に就任していた。
 その縁で、西武流通グループ総帥の堤清二氏とも懇意で、小樽運河再開発に西武の堤清二は興味をもっている、とかねがね言ってはいた。

 その当時、西武とパルコは日本の新しいファッションや風俗、消費文化を発信するトップランナーだった。 
 その西武・堤清二が小樽運河に注目し、小樽商工会議所会頭・市長・倉庫業界と小樽運河を巡って話し合ったとは・・・・。

 川合会頭もそれまで道路促進派であったが、西武・堤清二氏の小樽運河への注目を知り、保存・再生・再活用に心を動かされていく時期だった。

 既に、堤清二は西武グループの関口デザイン事務所に、小樽運河の再生と再活用のイメージパースを作成させていた。
 西武・堤清二の小樽運河への注目も驚いたが、小樽運河保存運動側からみると小樽商工会議所は一枚岩ではなく、なんとそれも会頭や副会頭が道路促進派から保存再生派に転換する可能性があることに、もっと驚いたものだった。

 行政は無理でも、経済界に小樽運河保存問題での政治分化の手立てはないものか、と唸っていた私には、現にそれが始まっているのだ、と認識を新たにし張り切った。
 1982年(昭和57年)の前半は、このような水面下の動きに、若い三〇歳代の山口や私が懸命に小樽運河保存運動の展望をかけ、運動の組み立てを考えていくという時期だった。

 一方、1982年(昭和57年)3月、市議会は小樽運河埋め立てを決議し、同月末,道道臨港線工事は札幌方向からの運河部までの2,350mの工事が完了した。
 そして、1982年(昭和57年)4月の統一地方選で、北海道知事選挙は予想通り社会党の論客の横路孝弘が知事に当選した。
 小樽運河保存運動は、この横路道政の誕生と同時に新しい局面を迎えることになった。

 横路知事は衆議院議員時代、国会で小樽運河保存を訴える国会質疑をしていた。 
 このことは、運河埋立道路建設促進路線を突き走る小樽市行政にとって、歓迎できないわけだった。
 と同時、その横路道政を支える革新側、とりわけ社会党と全道労協など労働組合側に、北海道議会運営で社会的・政治的責任が求められることを意味した。
 何でも反対野党政治では、北海道議会運営は出来ないわけだから。 

 日の丸掲揚、幌延放射能廃棄物処理場建設の大問題を抱える横路道政には、更に小樽運河問題が横路知事の喉に突き刺さる小骨の存在になることが予想された。
 衆議院議員時代の小樽運河保存の立場と、道々小樽臨港線を管轄する北海道知事の立場との間で齟齬を生じては、道議会で立ち往生することを意味した。
 ここから、社会党・北教組は、横路道政防衛のために小樽運河保存運動に全面的に接近せざるを得なくなるのは目に見えていた。

 一方で、西武流通グループの登場。
 他方で、小樽商工会議所の執行部の分化。
 その中で横路道政との関わり。
 それは、文字通り小樽運河保存運動は「政治戦」に突入していくことを意味した。
 山口保・三四歳、私・三三歳という若さでの政治戦、総力戦となっていく。
 が、あまりにも駒不足は否めなかった。
 
 1982年(昭和57年)8月、北海道・小樽土木現業所が、測量ミスで取り下げた「公有水面埋め立て」再申請を受理した小樽市は、国に「公有水面埋立」を出願する。 
 これに対し、
 1982年(昭和57年)9月、西武流通グループ代表の堤清二は、旭川で会見し

  「運河を埋め立てるなら,運河地区再開発には協力できない」
 
と発言。 
 同じく9月末、運輸大臣により,公有水面埋め立てが免許され、
 同じく12月、道は運河のヘドロ固化工事にいよいよ着手し,運河部分での工事がついにスタートすることになる。

 小樽運河問題は、ここに、
 ・建設省
 ・横路道政
 ・西武流通グループ
 ・小樽商工会議所執行部
 ・道路建設堅持促進期成会
 ・小樽運河保存派に接近する社会党
 ・対抗する自民党と共産党
という、文字通り、国・道・市・西武・自民党・社会党・共産党という、政治構造に突入する。
 かつて小樽運河を愛する会・夏堀正元会長が言った、
  「ここに至っては、政治はイヤだと言っていられない状況」
とする、政治=共産党オンリーという極めて稚拙で視野狭窄なレベルではなく、小樽運河保存運動自らの力で、あらゆる政治的課題を引き寄せてしまうことになる。

 残念なことに、夏堀正元会長があれほど共同戦線を組めと推奨した共産党は、そこに位置してはいなかった。
 極めてセクト主義的な「反横路」道政、「反・横路知事」姿勢を濃厚にしてくだけだった。
 結果、彼等は、自らの党と関係労組団体が置いてけぼり状況になったことで、苦悩することになる。


 
     この項終わり



 ●次
【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ●現【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ●前【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。