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作:金子誠治

15_01. 西武の小樽運河エリア再開発計画が、小樽を根底から揺るがす。

 1982年(昭和57年)はこうして明けたが、年初は、全勢力が深く水面下での動きを続ける政治戦になってきていた。
 
 一方、そのような「政治戦」に突入した中、小樽運河を守る会の若者は仲間と集い、更に一般市民への小樽運河保存運動への訴えを着実に強化するために動く。

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 中一夫(北海道新聞販売所中新聞店専務)・松岡勤(民宿ぽんぽん船経営)らを先頭にチームをつくり、「小樽運河紙芝居」を作成し、今で言うゆるキャラ・「ニャン太キャラクター」を作りあげ、市内各所で紙芝居で小樽運河保存を訴える活動を開始した。
 地味だが、実に着実な小樽運河保存の啓蒙と宣伝活動だった。
 頭が下がる活動だった。
 保育所や幼稚園に紙芝居行脚にいく、そこには子供達だけがいるのではなかった。
 保育士や園長・先生、そして親がいた。
 子供ももちろんだが、そこが大事だった。

 運河埋立派経済人は、そんな活動をみすぼらしいと皮肉に言ってきた。
 それを頑張る若者達のスタイルが、彼らからみればいわゆるジーンズやコッパンにTシャツ姿、それにリアカーというのは貧相に見えていたのか。
 私は胸をはって応えたものだった。
  「若者達は、彼らの思いだけで、やっている。
   皮肉る皆さんは、こんな思いを抱いて活動したことがありますか?
   うらやましいでしょう、若者たちの思い。」
と。
 頷く人だけを、私は探していた。

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 さらに小樽運河を守る会は、6月、小樽市が道道臨港線計画の基礎データとして発表したパーソントリップ調査(道路交通量計測、1976年実施)に対抗した。
 小樽運河を守る会が独自の交通量調査を、排気ガスにまみれながら実施し、主要道々小樽臨港線の交通量総需要予測の検証をしていった。
 
 運河紙芝居も「手作り交通量調査」もこれまでなら無視され、市民の話題にもされなかった。
 その地道で献身的な活動に対して、運河埋立派の人々がそのみすぼらしさに悪口を投げた。
 が、運河埋立派がそのように口にすることで、逆に、彼らの活動が市民に届くようになっていた
 小樽運河保存運動が、攻勢的に進んでいることを示す現象だった。
 小樽運河保存運動を批判すればするほど、その話題になった小樽運河保存運動の活動が市内に広まっていった。
 集まったデータを小樽運河通信チラシで整理し報告することで、益々小樽運河保存運動サイドの真摯な活動が内実のあるものであることが知れ渡っていった。
 
 嵐の前の静けさの中で、小樽運河保存運動が着実に動いているということを世間に知らしめる、大事な活動だった。


15_02. 静かに、深く、町は蠢き始めていた。

 
1981年 昭和56年

 07月    西武流通グループ・堤清二代表、小樽来訪、運河を視察
      「運河と周辺の石造倉庫群は景観として魅力があり、大事にしなければならな
       い。 観光的な再開発に協力はおしまない。」
      と語る。

       (注:         この、
西武流通グループ・堤清二代表の運河視察を、何年後かに、まるで
        小樽運河を会場にしたポートフェスティバルを、堤オーナーが視察してい
        った
かのように、メディアで語る人が現れた。
        メディアが取材で聴き間違ったのか、         そのメディアにそう語った方がつい調子に乗ったか、劇的に味加減を付け         るためにありもしない事を語ってしまったか私はわからない。         が、そのような事実はない。         堤オーナーとまるで懇意であるかのように言わんがためにする作為なら、         笑うよりない。  
 09月16日 道小樽土木現業所,測量ミスにより取り下げていた「公有水面埋め立て申請」
      を再出願
 10月   市、「小樽市歴史的建造物及び景観地区の保全方針(案)」を策
 11月   西武流通グループの関口デザイン事務所・関口敏美社長が、小樽海陽亭で、
      菅原春雄小樽倉庫協会会長、川合一成小樽商工会議所解答、志村和雄小樽市長
      と会う。
      米国ボストンなどを手本にした古い石造倉庫を再利用した小樽運河地区再開発
      を提案。
 11月   関口敏美・関口デザイン事務所社長から
      「堤オーナーが菅原社長と会いたがっている」
      と聞いた菅原春雄小樽倉庫協会会長、東京池袋西部流通グループ本部で堤清二
      社長と会談。
       「西友とか西武百貨店など単体ではなく西武グループとして総合的
        な開発をしたい、道路計画はいつめどが立つのか?」
      と問われ、菅原氏は
       「誘客には道路が必要になる」
      と堤オーナーは考えていると受け取る。
      (注:2006年12月6日北海道新聞「運河論争20年あのとき私は」から)
 11月   小樽商工会議所会議所: 「小樽運河地区再特別委員会」を設置。菅原春雄・
      小樽倉庫協会会長が委員長に就任する。
 12月  「小樽運河とその周辺地区環境整備計画実施計画」市議会で了承
 
1982年 昭和57年
 01月  「運河を守る市民連絡会議」設立。 
 01月   小樽商工会議所運河地区再開発特別委員会、米・ロスアンゼルスやサンフランシ
      スコのフィシャーマンズ・ワーフなど、歴史的景観を活かした観光先進地を視
      察。
 02月25日 小樽商工会議所常議員会で川合一成会頭は、小樽運河地区を再開発するにあたっ
      て大手資本・西武にプランづくりの協力要請をすることを決定する。
      川合会頭は、西武経に再開発プランづくり要請は、
       「このままでは小樽は経済的にだめになる。
        運河と石造倉庫を目玉に観光開発をしようというものだ。
        地元資本では限界があるので、西武に協力を求めることになっ
        た。
        西武側でも理解してくれている。」
      とする、小樽経済の一層の低迷への危機意識だった。
 
 03月12日 関口デザイン事務所・関口敏美社長は、市議会予算特別委員会で小樽運河周辺再
               開発構想(関口プラン)を説明。
      小樽運河を半分埋め立てる飯田構想を前提にショッピング、レジャー、シーポー
      ト施設を配置網羅したプラン。
 03月   市議会,埋め立てを決議。 
      小樽運河部分の工事期限を「着工後3年3ヶ月とする」免許が下る。 
      同月末,〈道道臨港線〉運河部までの2,350mの工事が完了。
 03月   菅原春雄小樽倉庫協会会長は、市議会での着工後3年3ヶ月とする免許がおり、
       「西武受け入れのさいの、工事めどがきまった
      と判断。
      (注:2006年12月6日北海道新聞「運河論争20年あのとき私は」から」 
 03月   市,「小樽市歴史的建造物等保全審議会条例」制定
 04月   北海道知事選で横路孝弘氏が当選、志村市政第3期スタート
 08月   北海道西武・豊島博取締役開発部長以下広戸企画室長・町村企画室担当ら北海道
      西武幹部、運河保存サイドと接触をも求め、山口・小川原が蕎麦屋・籔半で面談。   
 08月26日 市,公有水面埋め立て免許を国に再申請。 
      菅原春雄小樽倉庫協会会長が、西武の幹部と小樽カントリークラブで密かに会う。 
      西武幹部は、
       「堤社長がは事業家であると同時に詩人辻井喬、文壇で文化遺産の
        破壊者と非難されて動揺。 事業家堤清二は道路を必要とし、詩
        人辻井喬は文化遺産の破壊者にはなりたくない。」
      という。 
      これを聞き、菅原春雄小樽倉庫協会会長は
       「西武の進出はなくなった」
      と判断した。
      (注:2006年12月6日北海道新聞「運河論争20年あのとき私は」か
       ら)
 09月27日 朝日新聞: 北海道西武の幹部は、
       「(西武全体の意向としては)運河の半分を埋めて、高速道路とも
        言える六車線の道路をつくれば、そこが(情報を求めて)人が集
        まる場所になるかどうかは、誰が考えてもわかるはずだ。 
        埋めることには疑問がある。」
       「手続きが、かなり強引に進められてきたということもわかった。
        埋立反対の市民運動がある中に乗り込むことは、西武の企業イメ
        ージ、理念にも反する。」
 09月28日 運輸大臣により,公有水面埋め立てが免許される
 09月30日 西武流通グループ代表の堤清二氏,旭川で会見し、
       「小樽運河は全面保存してこそ価値がある」
       「運河を半分埋め立てて六車線道路を建設する現計画での協力は難
        しい。」
       「これまでは研究不足だった。経済的価値からいっても、小樽運河
        保存運動派残すべきだし、論争のある中へ西武が乗り込むこと
        は、企業イメージにも反する。」
       と公式に表明。
       更に、
       「運河を再開発するとすれば、全国から人の集まる場所にしてこそ
        西武の貢献度も認められる。『運河埋立の手を貸した』との批判
        は受けたくない。埋立は再考できないものだろうか。」
       と発言。

       20年後の道新インタビューに、堤清二は、
       「菅原小樽倉庫協会会長と会ったとき、僕は道路を造ることと運河
        を埋めることが結びついていなかった
        手落ちです
        道路を作っても都市間競争で人を呼ぶ大事な資源を潰しちゃ意味
        がない。
        
されてしまった。」

       又、北海道西武・豊島博取締役開発部長は、
       「実は関口プランは、私が作成させた。
        再開発といっても絵がないとイメージがわかないということだっ
        た、西武本社の正式プランではなく、関口プランの内容にタッチ
        していない
        それまで豊島も、運河問題を知らないでいた。」
        (注:2006年12月6日北海道新聞「運河論争20年ーあのとき私は
         ーから)
       とインタビューに答えている。 
 11月   北海道4区選出箕輪登衆議院議員、地方博・小樽博を誘致。
      開催期間昭和59年6月〜8月と決定
 12月09日 運河のヘドロ固化工事,運河部分での工事がスタート
      旧小樽倉庫事務棟を再活用、喫茶「小樽倶楽部」オープン
 
1983年昭和58年
 01月   西武流通グループ・堤オーナー、昨年9月の
      「運河を埋め立てるなら,運河地区再開発には協力できない
      の記者会見発言に続き、
      「地元意思の一本化が西武進出の前提条件」(北海道新聞)
      と表明。


 西武流通グループ・堤清二・オーナーが動く

 1981年昭和56年から、とりわけ西武流通グループ・堤清二オーナーの動きは様々憶測を呼び、それぞれの利害関係者も加わり、話は尾ひれ葉ひれがついて語られていく事になる。
 
 西武流通グループの小樽への関わりに関する情報を私が得たのは、1981年(昭和56年)の第四回ポートフェスティバル(原田佳幸実行委員長)の寄付金集めで、奉加帳を持って街中を駆け回っているときだった。
 新聞記者氏からだった。
 近々、
  「西武流通グループの堤清二代表が小樽に来る
と、にやりと笑い教えてくれた。
 それは、一切記事にはされることはなかった。
 翌年、
  「昨年7月に、西武流通グループ・堤清二代表、運河と周辺の石造倉庫群を視察、
   景観として魅力があり、大事にしなければならない。
   観光的な再開発に協力はおしまない。」
    (1982年2月26日 朝日新聞)
と新聞報道される。

 これが、全市的に拡大し、「西武の小樽運河エリア再開発」を巡る道路促進派と運河保存派との綱引きの2年間の幕開けであった。 
 そして、4ヶ月後の1981年(昭和56年)11月初め、
  「西武流通グループの関口デザイン事務所・関口敏美社長が、小樽海陽亭で、
   菅原春雄小樽倉庫協会会長、川合一成小樽商工会議所解答、志村和雄小樽
   市長と会う。
   米国ボストンなどを手本にした古い石造倉庫を再利用した小樽運河地区再
   開発構想を提案した。」
というオフレコ情報を入手した。
 
 そして、ときをおかず同月に、
  「小樽商工会議所会議所内に
    『小樽運河地区再開発特別委員会
   が設置され、菅原春雄小樽倉庫協会会長・フタバ倉庫社長が委員長に就任」
と、北海道新聞市内版は報じた。
 西武小樽進出とは書かれず、関連づけもされていなかった。

 一般市民は、西武情報は知らされていなかった。
 情報に敏感な人や小樽運河保存運動関係者で西武進出問題を知っている者のみ、この小樽商工会議所の小樽運河地区再開発特別委員会設置は、唸って受け止められた。
 が、一般市民は単なる小樽商工会議所の1機関の設置と受け止められていた。

 私は、間髪いれない小樽運河地区再開発特別委員会設置と菅原春雄小樽倉庫協会会長・フタバ倉庫社長の委員長就任記事を、ある意味感心し、ある意味呆れ果てて読んでいた。
 その辺を、道々小樽臨港線が完成した1986年から20年たった、
  2006年12月5日からの北海道新聞8回連載記事「運河論争20年ーあのとき私はー」
  (本田良一記者)
の第4回目(12/8)の記事からみてみると、  


  1981年11月  
   「関口敏美・関口デザイン事務所社長から堤オーナーが会いたがっている
    と聞いた菅原春雄小樽倉庫協会会長は、東京池袋西部流通グループ本部
    で堤清二社長と会談し、堤清二社長は、
     『西友とか西武百貨店など単体ではなく西武グループとして総合的な
      開発をしたい。』
  、更に、堤清二社長は、
     『道路計画はいつめどが立つのか?』
  と問い、菅原氏は
     『堤オーナーは、誘客には道路が必要になると考えている
  と受け取った。」
  と20年後のインタビューにこたえている。

  1981年11月 
  小樽商工会議所会議所内に「小樽運河地区再開発特別委員会」を設置。
  菅原春雄小樽倉庫協会会長が委員長に就任。
  同記事で、菅原春雄小樽倉庫協会会長は、
    「(西武の)受け入れ体制を作った。
と、インタビューに応えている。

 両インタビューとも20年後のものである。
 私は、菅原春雄小樽倉庫協会会長が上京し、西武・堤オーナーと面談していたという情報を、当時は持っていなかった。
 しかし、関口デザイン事務所・関口敏美社長から小樽運河再開発、いわゆる「関口プラン」を小樽・海陽亭で市長・会頭と一緒に提示されただけで、菅原春雄小樽倉庫協会会長は即「小樽運河地区再開発特別委員会」を小樽商工会議所内に設け、更にその委員長に自らが就くという、電光石火の早技に唸った。

 菅原氏は、六車線道路の道々小樽臨港線建設で港湾倉庫業界のとしての権益を得るだけではモノ足りず、それに西武の運河地区再開発も加われば更にその権益価値は高まると、機を見るに敏で、二兎を追うシフトをつくったわけだった。

15_04. 北海道西武も動く。

 時おかず、山口から連絡があった。
  「北海道西武幹部と会う」
となり、山口と私とで、北海道西武幹部との初顔合わせをする。
 こういうときは、蕎麦屋であることがよかった。
 一般のお客様の出入りする店内とは別棟の石蔵座敷は、格好の場所だった。
 誰が来店するかわからない施設でなど面談したら、一発で市内に広まり、そんな危険は犯せなかった。
 北海道西武から、豊島博取締役開発部長以下、広戸企画室長と町村企画室員の三人がわざわざ来店された。
 挨拶をすると、市民運動を上から目線で見るのでは無く、又、天下の西武と威張るわけではなく、好感をもった。
 私は、北海道西武側が根本的なところで「小樽運河保存運動」を理解し把握していないとし、10年目になる小樽運河保存運動の簡単な流れを語り、とりわけ堤代表の「小樽運河地区再開発」発言を巡る複雑な現況を、とりわけ道路促進派の「道路も西武小樽進出も」とする姿勢の背景を簡単にレクチャーした。
 それをうけて、山口は鋭く持論を展開した。
  「札幌という大消費地をすぐそばにもつ小樽の有利さを考えれば、これから
   は物流港湾から歴史的環境を活かした『観光』であるのは、時代の空気や
   文化をビジネスにまで昇華した西武ですから、理解できるでしょう。
   小樽は戦後の高成長に乗り遅れ、運河や多くの歴史的建造物がお荷物扱い
   され、まったく放置されてきました。
   しかし、これらに新しい価値と機能を備えれば、時代が出番をうながして
   くれる。
   それが、僕らい言う『まちづくり』なのです。
   お荷物であり古い役割の終わった小樽運河や石造倉庫群が、港湾施設から
   文化施設に、つまり港湾装置を観光・文化装置に変えるということです。
   本州になくて、北海道のこの小樽に群であるものそれは、近代以前と近代
   後の差、近代化遺産です。
   本州各地には近代以前は大事にされて大量にあるのに逆にスクラップアン
   ドビルドで近代化遺産が大量に失われてしまいました。
   が、この北海道小樽にはその失われた近代があり、観光や文化の切り口で
   はそれが実に新鮮に映る。
   ただ、磨きをかけなきゃだめです。
   関口プランがボストンを参考にしましたが、現在に甦らせる手法はこの国
   では極めて少ない。
   小川原が小樽運河保存運動をレクチャーしたように、あの汚い小樽運河を
   原風景だといってそのまま残すんじゃないし、現代に甦らせ、自分たちの
   働く場を作り、町を活気づける、それが僕らのいう『まちづくり』です。
   物流港湾都市として港湾設備は大いにこの町を潤わせてくれました。
   今度はその港湾施設を観光・文化施設で潤う町にする。
   時代は、モータリゼーションで六車線道路という「大道路思考」です。
   そして、僕らは道路を否定などしてません
   これから大都市札幌、おそらく二〇〇万人口圏に間違いなくなる。
   その、人口圏から人を誘うのに道路は当然必要です。
   でも、その札幌と「連携と競争」をする折角の武器・資源・小樽運河を潰
   してまで六車線の大道路をつくらなくても、小樽運河の一本海側と現在の
   国道の拡幅工事でさばける交通量なのです。
   市が発表したデータは随分鉛筆を舐めている。
   『折角の資源、文化を破壊してまで』西武には出てきて欲しくありません。
   堤オーナーに、是非私たちの気持ちをお伝え下さい。」

 あの、手宮・メリーゴーランドに突然来訪された大野友暢副会長に話した内容だった。
 西武・豊島開発部長、広戸企画室長、町村企画担当の三人は
  「西武側の小樽運河保存運動への認識が不足していた」
ことを、正直に認め、
  「関口プランも関口社長に任せっぱなし、本社はその作成にタッチしておら
   ず、単純に飯田構想を前提にしてつくったものである」
ことも、それとなく吐露した。
 小樽商工会議所会議所内の動きに関しては、口にしなかった。
 ただ、これからも緊密に情報交換をしていくとなった。
 北海道西武幹部との第一回戦は、そうして終わった。

 私は西武流通グループが運河再開発に挙手をしたこと自体より、それが、
   「どう小樽という町に影響をを与えるか」
のほうが、大事だった。
 西武の小樽運河再開発挙手という波紋が、いやがおうでも
   「小樽商工会議所内の道路促進派と道路見直し派(隠れ保存派)の
    政治分化を促進する

という点で、大きい意味を持つと思った。
 要は、西武の小樽運河再開発と進出を巡って、
   「道路促進派と道路見直し派の綱引き」
が始まることが、暗示されているという理解だった。

15_05. 西武進出の噂が市内の拡大していった。

 それに小樽運河保存運動は、どう絡んでいけるのかと考えていた。
 小樽運河保存運動は、西武の小樽進出にどう対処するのかこそを唸っていた。

 当時、小樽運河保存運動にポートフェスティバルを通じて新たに参加してきた、石井伸和氏(石井印刷株式会社社長)が来店し、


  「同友会でも話題になっています。
   菅原社長は道路促進派の陰の帝王的存在の人なのに、
    『小樽運河地区再開発特別委員会』
   をいきなり小樽商工会議所内につくり、その委員長におさまる。
   運河地区再開発ということは運河保存があってのことでしょう。
   それなのに道路促進派のトップが、その委員会のトップに就く。
   わけわからないです。」
 
と、聞いてきた。

  「あのな、『小樽運河地区再開発』って言葉にだまされるな。
   すんごく、わかりやすくなっただけだわ。
   表に出ず潜ってばかりの人がついに表に現れ、動くとなった
   けで、本気モードだ。
   彼の言語では、
     『(道路建設を前提にした)小樽運河地区再開発
   てぇ意味で使っているわけだわ。
   それが、ありの世界なんだよ。
   保存運動側の言葉と同じ言葉を使うのは、彼には大事なことなんだ。」

   「小樽運河保存派だって、別に道路建設を否定したことはない。
   運河エリアの再開発にとって、モータリゼーションの時代だぜ、
   道路は必要なんだ。
   ただ、運河や歴史的環境のど真ん中を破壊し貫く六車線の大道路
   主義
じゃない、だから代替ルート案を出している。
   一方、運河埋立派は六車線道路で運河地区を貫いて小樽運河地区
   というより港湾地区再開発
を進めたいって、わけだわな。
   彼にすれば、小樽運河地区なんて言葉は、港湾地区の代わりに使
   っているだけだ。
   でなければ、何もなく『小樽運河地区再開発特別委員会』を、得
   意でない『日当たりのいい』、会議所内に組織してまで、委員長
   に納まるなんて理由ないだろう。」
 
と惚ける。


  「西武が、運河再開発に手を挙げたという噂は?」
 
 
 石井氏も一歩も引かないで、突っ込んでくる。
  「ほう、耳が早いな。もう噂になっているのか?」
  「知っているのでしょう?」
  「でも、まだ確証は得ていない。というか、西武であれ、丸井であれ、どう
   いう再開発をするのかが問題なだけだ。
   あまり西武、西武で振り回されたら小樽運河保存運動が泣くぜ。
   西武進出騒動で浮かれるのは、早すぎる。」
   「そうですが、だったら菅原社長の狙いは?」
 どうやっても、私の考えを聞かないと帰らないつもりらしい。

  「ハハハ、どうやっても帰らない気か?
   菅原氏は、
   西武の運河エリア再開発の受け皿づくりをし、
   イニシアティブは運河埋立派の自分が握っているとし、
   あわせて運河エリア再開発に当然一枚噛むことを意識している、
   とみていいだろうな。
   道路建設派にとっても西武の運河再開発は、反対する事じゃない。
   西武進出を、逆に道路建設促進のために一層利用しよう、という腹だろう。
   だがな、今は、西武の運河再開発だけに焦点がいっている。
   しかしだ、俺たちの狙いである、
     「西武運河再開発→運河保存→道路建設見直し
   という構造には、まだなっていないわけだ。
   ここが、彼我の力関係、アヤなところだ。
   あちらさんは、そうなってもらっては困るからこそ、『小樽運河地区再開発特
   別委員会』委員長になった、と見るべきだろう。
   自分が受け皿をつくり、その長に納まり、西武サイドの代弁者になって、西武
   が『道路建設抜き』運河保存に回らぬよう
、西武サイドの発言を道路促進派の
   有利になるよう『小樽運河地区再開発特別委員会』の委員長がルートを一本に
   し(独占し)翻訳する、って腹づもりだろう。
   だから、裏世界の方が表にわざわざ登場したわけだ。
   ということは、西武サイドが、運河再開発のために『今の大道路主義の道路計
   画=道々小樽臨港線は無用だ
』とは、まだ明確な態度に到っていない、ともい
   えるわけだ。

   運河エリアの再開発は、当然港湾倉庫業界の利権と密接に絡む話だ。 
   それを指をくわえて見ているわけはない。
   で、横からそれに絡んでこようという者をはね除け、手強いのは囲い込むため
   、自分の主導権のある「小樽運河地区再開発特別委員会」をつくる。
   いまから上手にそれを担保した、ってわけだろう。

   しかし、それは、道路促進派にとっても実に危険な賭だ。 
   これだけ大規模の再開発に建設業界・土木業界だって黙っているわけにはいか
   ん、自社の将来に関わる問題、ビジネスの問題だ。
   それに、これまで小樽の政治を左右してきた、経済界重鎮たちも姿を消しつつ
   ある。 
   大ビジネスチャンスだから、道々小樽臨港線道路建設促進期成会の圧力など、
   構っていられなく、気にしていられなくなる。
   つまり、今までの道路促進派による「タガ」は効かなくなる。
   そうでなくても小樽経済の状態はひどい衰退なのだから。
   印刷業界だってそうだろう、西武が再開発するならその関連の印刷ビジネスは膨
   大なものになり、当然ビジネスチャンスと判断するし、参入のための工夫をし
   ようと考える。
   それが、経営者の当然の発想だ。
   これは、さすがに菅原社長でも、止められるわけはない
   自社利益のために参入は大いにあるとなれば、いままでのような交通整理を黙
   って受けるわけにはいかなくらい、今の小樽の経済状態はひどい。 

   自ら港湾・倉庫業界の利害、道路促進派の利害の調整という位置を確保するた
   めに自分のイニシアで町にはめてきた「タガ」を、逆に西武の小樽運河進出
   表明で、自分でタガを緩めてしまった。
   そうだろうが、再開発された西武の運河エリアの施設に、小樽だけじゃない、
   札幌圏から参入したい事業体が押し寄せてくる。
   それを、何処まで計算できているかな。
   タガをはめようとする側は、タガをはめられる側の気持ちをわからない。
   密室政治は得意中の得意でも、町をあげての市民運動には手が出ない。
 
   俺たちは、運河が小樽を活気づけ賑わいを取り戻すキーポイントだ、と言っ
   てきた。
   もっと俗に言うと、「それはビジネスチャンスだ」と言ったわけだろう。
   今までは、所詮喫茶店主や蕎麦屋や北大院生という黄色いくちばし連中の話と
   しか聞かなかった企業や事業体からすれば、調整役が暗にビジネスチャンスだ
   とばかり、自分で泳ぎ始めたわけだから、そりゃ目の色変わるわな。
   これは時代の役割りを終えたお荷物の運河だと言ってきたのに、今度は大ビジ
   ネスになる、と俺たちでなくて街を裏で動かしてきた調整役が言い始めた
って
   わけだからな。
   面白いべや。
   今まで自分の頭を押さえつけていた漬け物石がちょっとずれて、軽くなるって
   わけじゃないか。
   今までにないことなんじゃないか?
   だから、小樽運河保存運動内で北海道中小企業家同友会ルートで小樽の経済界
   と接触できるお前さんの動きが大事なんだ。
   おもしろいよな。
   蕎麦屋の息子や印刷屋の息子や喫茶店店主が経済界と相撲取るってことになる
   んだから。
   これからの小樽運河保存運動はそういうビジネス絡みなんてレベルではなく、
   ビジネスそのものを巡って展開される。
   もう、運河埋立派と運河保存派の対立から、港湾倉庫業と物流・物販・食材・
   繊維・商業など港湾倉庫業以外の全市内事業体との対立に発展していくかもし
   れない。
   小樽商工会議所の会員がこの西武進出問題でどう変化がでてくるか、いや、
   どう変化させるかを、内部で注視し関わっていくかだ。
   おまえさんは、そのトップバッターだ。
   トップバッターは、バントヒット、スクイズヒット、振り逃げでいい。
   出塁することだ。
   危険はおかさなくていい。
   まだ、4番打者の出番じゃない、そして4番打者は俺らじゃない。
   4番打者は、これから思わぬ形で出てくる、いや、出てこざるを得ない。
   それを促進した点火剤が、西武の運河再開発発言だ。
   今は、それ以上でも以下でもない、という段階だ。

   小樽運河保存運動は、市民に向けて発信し裾野を拡大しようとしてきた。
   これからの段階は、もっと目的意識的な経済界への働きかけと工作を、小樽商
   工会議所や同友会にしていかねば、遅れをとる。
   ものすごい、今までにない「政治的綱引き合戦」=「全市的綱引き合戦」にな
   る。
   市民向け小樽運河保存の発信チャンネル・ポートフェスティバル、そして経済
   界へ深く静かに働きかける夢街、って2つの分野をやりきる。
   それと、市民へは今何が街で起きているかを、一層発信しなければならない。
   そんな新しい段階の小樽運河保存運動への突入だ。
   問題はこれからの道路促進派の中心、小樽商工会議所内の空気の変化だ。
   ハッキリしているのは、決着は小樽でしかつかないってことだ。」


 少々、西武の運河再開発の動きに舞い上がり気味の石井氏には、
  「西武の運河再開発に、もろ手で浮かれてはだめだ。」
と、私は言いたかった。

 西武問題では、意識を西武にじゃなく逆に市内に向けて集中し、
  「小樽商工会議所内がこの西武問題で、どのような動きがでてくるのか、
   誰がどう動き始めるのか、それこそに意識を向けて我々の次の布石を考
   える」
と言いたかった。

 泳いでいて自分の周りを背びれを見せて周回するサメより、潜って姿を見せないサメのほうが、より危険だと漁師はいう。
 身を隠していたサメが、ついに姿を現してしまった。
 裏でやられたら勝ち目はないが、表でなら勝負は出来る。
 勝負の時が来た、とサメは思っているわけだから、こちらは、小魚の有利さで、フットワークで、どの戦場で打って出るかを選べる有利さがある、と自分に言いきかせていた。

15_06. 堤オーナの発言を、我田引水の解釈し利用する。
 

 しかし、西武の小樽運河の再開発というニュースは、とりわけ小樽運河保存運動側には、自己流理解に陥らせるほどショックを与えた事は間違いなかった。

 いずれにせよ、2006年12月5日から8回シリーズの北海道新聞「運河論争20年ーあのとき私はー」での、堤オーナーと菅原氏の話し会いの記事(第4回目)を読めば読むほど、

  「道路促進派の陰の調整役として君臨してきた菅原社長は、終始一貫『道路建設促進』の
   ために、堤オーナーの発言を意図的に道路促進派に都合良く我田引水の解釈し利用して
   くれた。」
と、いわざるを得ない
 同記事で、堤清二オーナーは、
  「菅原小樽倉庫協会会長と会ったとき、僕は道路を造ることと運河を埋めることが結びつ
   いていなかった。
   手落ちです。
   道路を作っても都市間競争で人を呼ぶ大事な資源を潰しちゃ意味がない。
   関口プランが西武の考えと誤解されてしまった。」
といい、北海道西部・豊島博取締役開発部長は、
  「実は関口プランは、私が作成させた。
   再開発といっても絵がないとイメージがわかないということだった、
   これは西武本社の正式プランではなく、関口プランの内容にタッチしていない。
   それまで豊島も、運河問題を知らないでいた。」
といい、とりわけ堤オーナーは「手落ち」という表現を使い語っている。

 自分の発言をいいように我田引水する小樽倉庫協会会長に、天下の堤オーナーが手玉にとられ利用されたという悔しさが、行間にあふれているように感じる。

 菅原春雄社長は、同記事で、
  「西武の幹部と、小樽カントリークラブで密かに会う。 西武の幹部は、堤社長がは事業
   家であると同時に詩人辻井喬、文壇で文化遺産の破壊者と非難されて動揺している。 
   事業家・堤清二は道路を必要とし、詩人・辻井喬は文化遺産の破壊者にはなりたくな
   い。」
とまで、当時の西武の幹部に言わせ、これを聞いた菅原春雄社長は
  「西武の進出はなくなった
と判断した、と取材に応えている。

 流石、20年を経ても、インタビューを自分の狙いところに持って行かせる、そのストーリーテラー振りはさえていた。
 六車線道路が運河を貫く道路ありきの、西武進出がなくなった。
 が、歴史的環境の運河を避けての道路建設による西武の運河再開発は可能であることを西武側が要望していることを、語らない
わけだから。

 それから半年後、同年9月30日に、来道中の西武流通グループ代表・堤清二氏が旭川で会見し、
  「運河を埋め立てるなら,運河地区再開発には協力できない
と発言した。
 その裏には、「道路を作っても都市間競争で人を呼ぶ大事な資源を潰しちゃ意味がない」としながら、自らの「手落ち」を招く結果になった話し会いの相手の菅原春雄小樽倉庫協会会長へ一矢を報いる、そんな気持ちではなかったか。
 さすがの西武流通グループ代表の堤清二オーナーも、小樽運河保存運動を巡る道路促進派と保存派の激しい対立を理解するのには、半年年近くかかったわけだった。

 1982年が明け、やっと松が取れて、来店してくれた峯山会長に西武の話をした。
  「我々も確証をもって話を会長に報告したかったので、年末に情報が入っ
   てチェックするのに今までかかりました。」
と言うと、
  「ごめんなさい、こういう動きがあるのに私は「運河を守る市民連絡会議」
   などを。」
  「いやぁ、あのときの会長の切ない気持ちは痛いほどわかりますよ。」
  「山口さんには随分叱られたわ。」
  「そりゃ、誰か、峯山冨美会長を叱る役は、必要です。」
  「この西武の堤さんの問題は、これからどう動いていくの?」
  「小樽商工会議所がこれで『道路促進派と道路見直し派』で分化し、綱引き
   が始まっていく、と思いたいです。」
  「そうですよ。」
  「ここまで来ましたからね。
   これから水面下で大きく動いていくし、それを私たちは小樽商工会議所の
   当事者ではありませんが、『道路見直し派』形成に、側面支援する。
   今までの小樽運河を守る会や夢街の外に向かった活動は当然続けていかね
   ばなりませんが、水面下の動きを促進する、表面には現れない、難しい工
   作が必要となっていく、と思います。」
  「たのみますよ。」
  「それに、四月の道知事選を巡って小樽運河保存運動にも『横路支持派と反 
   横路派』の綱引きがありうるか、と。」
  「でも、社会党や社会党系労組は小樽運河を守る会には、いないから。」 
  「ははは、運河問題が横路道政にとっての試金石化し、クローズアップされ 
   るのは間違いない。
   そうなると、当然接近してくるのも間違いないと睨んでます。」
  「そういうのが、一番いやなのよねぇ。」 
  「ははは、峯山会長は、ど〜んと座っていてくれればいいのです。 
   殿様がいて、侍は頑張れるんです。
   峯山さんがバックにいて、私たちも動けます。
   おそらく、これからは北海道知事室や道レベル、国レベルで、小樽運河保
   存運動サイドへの様々な接触を求めてくる。
   その時は、峯山会長の出番です。
   私たちはまだ三〇代初め。
   嘗められますのでね、そのいうときは合図しますので、殿様に出て貰いま
   す。」
  「そうやって、人をくすぐってばかり。」 

 峯山冨美会長は帰っていかれた。
 でも、あの 「運河を守る市民連絡会議」のときの焦燥感の色は、もう峯山さんには消えていた。
 いつもの冷静さを取り戻した峯山冨美会長さんを玄関で見送った。

 が、頭の中は唸っている私がいた。

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     この項終わり



 ●次
【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ●現【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ●前【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。