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 小樽運河を守る会発行フライヤー・ドーンデザイン研究所

16_01. 小樽商工会議所正副会頭たちの周到な準備

 1981年昭和56年、その前半は表面的には小樽運河保存運動は、深く静かに進行していた。
 西武グループの小樽運河エリア再開発をめぐって、小樽商工会議所会議所内に、そして小樽の経済人や商店主に、小樽の街の中に深く静かに分化が生まれてきていた。

 西武・堤オーナーと直接話し合える関係ができている川合一成・小樽商工会議所会頭(林屋製茶株式会社社長)。
 以前から、米・サンフランシスコやポートランドなど西海岸諸都市のウォーターフロント再開発を目の当たりにして来て、山口や私と常時話し合う関係になっていた大野友暢・小樽商工会議所副会頭(小樽作業衣株式会社社長)。
 
 かつて、藤森正章氏を民間市長候補擁立に動き、それは断念させられ、小樽運河を守る会設立時は会員で、青年会議所理事長時代の保存派集会で小樽運河保存を語り経済界重鎮から釘を刺されて以来の「隠れ保存派」だった、佐藤公亮・小樽商工会議所副会頭(かま栄株式会社社長)。
 
 しかし、建設土木業界代表の阿部暢・小樽商工会議所副会頭(阿部建設株式会社社長)だけは、道路促進期成会の建設土木業界の代表でもあり、苦しい立場なになることは、明らかだった。

 小樽運河保存運動に狂奔している息子がいる蕎麦屋・籔半に、経済界の重鎮はあまり客として来店されなかったが、阿部暢副会頭だけはよく家族全員を連れて蕎麦を食べに来てくれ、
  「小樽運河保存運動に狂奔している息子がいる蕎麦屋・籔半に
   こんなによく御来店頂いてありがとうございます。」
と席に挨拶に行くと、
  「蕎麦に運河保存とでも、書いてあるのか?
とつっけんどんにいってから、にやりと笑ってくれた。
 男気のある人だった。

 この正副四会頭が方針転換する環境は、着々と整ってきていた。
 運河埋立道路促進から「運河保存」へと転換することを、正副四会頭が意志一致する段階に、来ていたわけだった。

1981年昭和56年
  7月   :西武流通グループ・堤清二代表が、小樽来訪、小樽運河を視察し、
         「運河と周辺の石造倉庫群は景観として魅力があり、大事にしなければならな
          い。 観光的な再開発に協力はおしまない。
        と語る。

 11月   :西武流通グループの関口デザイン事務所・関口敏美社長が、小樽海陽亭で、菅原
        春雄小樽倉庫協会会長、川合一成小樽商工会議所解答、志村和雄小樽市長と会
        う。
        米国ボストンなどを手本にした古い石造倉庫を再利用した小樽運河地区再開発プ
        ラン・関口プランを提案する。 
        更に、関口敏美・関口デザイン事務所社長から、
         「堤オーナーが菅原社長と会いたがっている」
        と聞いた菅原春雄・小樽倉庫協会会長は、東京池袋西部流通グループ本部で堤清
        二社長と会談。
         「西友とか西武百貨店など単体ではなく西武グループとして総合的な開発をし
          たい、道路計画はいつめどが立つのか?」
        と問われ、菅原氏は
         「誘客には道路が必要になる」
        と堤オーナーは考えている、と受け取る。  
 
 12月25日:小樽商工会議所常議員会で川合一成会頭は、小樽運河地区を再開発するにあたっ
        て大手資本・西武にプランづくりの協力要請をすることを決定する。
        川合会頭は、西武経に再開発プランづくり要請は、
        「このままでは小樽は経済的にだめになる。運河と石造倉庫を目玉に観光開発を
         しようというものだ。
         地元資本では限界があるので、西武に協力を求めることになった。
         西武側でも理解してくれている。」
        とする、小樽経済の一層の低迷への危機意識だった。

 1982年昭和57年

 1月    :小樽商工会議所運河地区再開発特別委員会、米・ロスアンゼルスやサンフランシ
        スコのフィシャーマンズ・ワーフなど、歴史的景観を活かした観光先進地を視
        察、視察案内は関口デザイン事務所。


 3月12日 :関口デザイン事務所・関口敏美社長は、市議会予算特別委員会で小樽運河周辺再
        開発構想(関口プラン)を説明。
        小樽運河を半分埋め立てる飯田構想を前提に、ショッピング、レジャー、シーポ
        ート施設を配置網羅したプランだった。
        菅原春雄小樽倉庫協会会長は、市議会での着工後3年3ヶ月とする免許がおり、
         「西武受け入れのさいの、工事めどがきまった」
        と判断。 
 8月初旬   北海道西武・豊島博取締役開発部長以下、広戸企画室長・町村企画室担当ら北
        海道西武幹部、運河保存サイドと接触をも求め山口・小川原が蕎麦屋・籔半
        で面談
した。 

 8月26日 :西武の幹部が、菅原春雄小樽倉庫協会会長と小樽カントリークラブで密かに会
        う。 
        西武幹部は、
         「堤社長がは事業家であると同時に詩人辻井喬、文壇で文化遺産の破壊者と非
          難されて動揺。 事業家堤清二は道路を必要とし、詩人辻井喬は文化遺産の
          破壊者にはなりたくない。
        と言ってき、これを聞き、菅原春雄小樽倉庫協会会長は、
         「西武の進出はなくなった」
        と判断した。
 
 9月27日 :北海道西武の幹部は、
         「(西武全体の意向としては)運河の半分を埋めて、高速道路とも言える六車
          線の道路をつくれば、そこが(情報を求めて)人が集まる場所になるかどう
          かは、誰が考えてもわかるはずだ。 埋めることには疑問がある。」
         「手続きが、かなり強引に進められてきたということもわかった。埋立反対の
          市民運動がある中に乗り込むことは、西武の企業イメージ、理念にも反す
          る。」 

 9月30日 :西武流通グループ代表の堤清二氏,旭川で会見し、
         「小樽運河は全面保存してこそ価値がある」
         「運河を半分埋め立てて六車線道路を建設する現計画での協力は難しい。」
         「これまでは研究不足だった。経済的価値からいっても、小樽運河は残すべき
          だし、論争のある中へ西武が乗り込むことは、企業イメージにも反する。」
        と公式に表明。更に、
         「運河を再開発するとすれば、全国から人の集まる場所にしてこそ西武の貢献
          度も認められる。『運河埋立の手を貸した』との批判は受けたくない。
          埋立は再考できないものだろうか。」
        と発言。

 10月23日:小樽青年会議所複数幹部、
         「内部に運河は残した方が良いとの声が強くなっている。」
         「青年会議所会員151人の半分以上、いや大半がそうなってきている。」
        (朝日新聞)
 
 1983年昭和58年

 1月    :西武流通グループ・堤オーナー、昨年9月の
         「運河を埋め立てるなら,運河地区再開発には協力できない
        とする運河全面保存支持発言に続き、
         「地元意思の一本化が西武進出の前提条件
        (北海道新聞)と表明。

        20年後の2006年12月6日北海道新聞・「運河論争20年ーあのとき私はー」本
        田良一記者による、堤清二氏、豊島博氏のインタビューでは、
         「菅原小樽倉庫協会会長と会ったとき、僕は道路を造ることと運河を埋めるこ
          とが結びついていなかった。
          手落ちです。
          道路を作っても都市間競争で人を呼ぶ大事な資源を潰しちゃ意味がない。
          関口プランが西武の考えと誤解されてしまった。」

        北海道西武・豊島博取締役開発部長は、
         「実は関口プランは、私が作成させた。
          再開発といっても絵がないとイメージがわかないということだった、西武本
          社の正式プランではなく、関口プランの内容にタッチしていない。
          それまで豊島も運河問題を知らないでいた。
        と。



 ・・・1982年昭和57年8月26日、菅原春雄小樽倉庫協会会長が、西武の幹部と小樽カントリークラブで密かに会い、西武幹部は、
  「堤社長がは事業家であると同時に詩人辻井喬、文壇で文化遺産の破壊者と非
   難されて動揺。 事業家堤清二は道路を必要とし、詩人辻井喬は文化遺産の
   破壊者にはなりたくない。」
と言ってき、これを聞き、菅原春雄小樽倉庫協会会長は、
  「西武の進出はなくなった」
と判断して、西武関連情報を表の「場」から一切意識的に消していき、街中で芽生えていた西武小樽運河地区進出待望気運を、意図的に沈静化させていった。

 この菅原会長の「西武の進出はなくなった」とする当時の判断というものは、全く道路建設促進・運河埋立のためにする「やらせ」だった。
 それは、
  「道々小樽臨港線建設前提、つまり『運河埋立前提』の、西武進出が消えた
のであって、
  「運河『埋立抜きの小樽運河地区再開発」こそを西武が要望していたのを隠蔽するために、菅原会長がそう振る舞っていただけの話だった。
 ここが菅原春雄小樽倉庫協会会長の、フィクサーと呼ばれストーリーテラーと呼ばれる神髄だった。

 まるで、小樽運河再開発を表明した西武が、その表明を翻したという結論だけをいい、西武にすべての責任を押しつけ小樽運河地区再開発気運を沈静化させ、西武イニシアティブを阻止し、臨港地域の港湾倉庫業の既得権益イニシアティブを防衛するために、利用しただけだった。
  
 この菅原春雄小樽倉庫協会会長が、西武の幹部と小樽カントリークラブで密かに会う約一ヶ月前の8月初旬だった、と記憶するという。
 北海道西武幹部諸氏が、運河保存サイドと接触をも求めてきた。
 北海道西武・豊島博取締役開発部長以下広戸企画室長・町村企画室担当の諸氏だった。
 山口・小川原が、蕎麦屋・籔半で面談した。
 私たち二人は、西武の小樽運河進出を歓迎するが、道路主義・道々小樽臨港線建設前提=小樽運河埋立前提の西武進出再開発であるならば「拒否」せざるをえず、そうであるならば西武は、運河埋立の共犯者、文化の破壊者の烙印が押されることになると忠告した。
  (注:15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる→15_04. 北海道西武も動く。を参照)

 西武・豊島開発部長、広戸企画室長、町村企画担当の三人は
  「西武側の小樽運河保存運動への認識が不足していた
ことを、正直に言い、
  「関口プランも関口社長に任せっぱなし、本社はその作成にタッチしておら
   ず、単純に飯田構想を前提にしてつくったものである
と吐露した。

 結局、西武サイドは、私たち二人には結論を鮮明にせず、しかし今後の情報交歓を綿密にすることを確認し、帰って言った。
 その後、来樽された西武幹部は仲々態度を明らかにせず、山口は焦れて北海道西武に数度直談判に通った。
 
 小樽運河保存運動が終焉して数年後、ホンの数人の仲間だけで小樽運河保存運動を振り返りながら話し合っていると、


  この1982年夏から秋口の、
    西武グループと菅原春雄小樽倉庫協会会長の
    小樽運河再開発進出を巡る水面下の話し合い」
  が進捗し、しかし北海道西武側が小樽運河保存運動側に態度を鮮明に
  せず、何度か会ったがらちがあかず、「運河埋立・道路建設前提の西
  武小樽進出」という結論もありかという流れへの危機感から、山口
  は、
    「信頼しているマスコミの記者にそれをリーク」
  して、マスコミの取材攻勢に観念した西武グループが
   『小樽運河埋立・道路《前提》の西武の小樽運河再開発はない』
  と発表させることに成功した。
 
と、得意そうに話してきた。

  「あの頃、西武マターは極めてマル秘事項で、それは大野友暢副会
   頭や川合会頭了承の上での、リークなのだろう。
 
と、私が聞くと、

  「俺個人の判断で、やった。」
 
と、「自身の判断でのリーク」という点にこだわった。
 同席する仲間も、なぜそのような反応をするのかと驚き、鼻白んだものだった。

 ・・・そして、小樽商工会議所会議所正副4会頭の潜行作戦が進み、大転換の意思一致確認作業が進んでいく。
 小樽は、次の展開はどうなるのか、まだにらみ合いは続くなか、4月の統一地方選になだれ込んでいく。

 
小樽運河を守る会発行フライヤー・ドーンデザイン研究所



Save our Canal (LQ)
小樽運河を守る会;発行フライヤー;ドーンデザイン研究所

16_02. 状況を「流れ」で読む。

 小樽運河保存運動は、一〇年目を迎えていた。

 苦しく切ない局面に何度もぶつかり、もう駄目かという場面を何度もクリアしてきた。
 1970年代のオイルショックで、この国は高度成長から低成長時代に突入しており、国家予算が縮小され、その煽りで道々小樽臨港線事業予算が滞り、一気に運河埋立工事にならないで、済んだ。
 道々小樽臨港線埋め立て工事の入り口、公有水面(運河)埋立申請での測量ミスで数ヶ月手続きは遅れ、それだけでも小樽運河保存運動は息つき運動体制を整える余裕を与えられもした。
 贔屓の引き倒し的支援に、苦慮もした。
 そして、正直、多くの失敗を重ねてきた。
 焦りからのものもあれば、気の緩みのものもあれば、油断からのものも多々あった。
 結果論ではあるが、この小樽運河保存運動の最高揚を前に、してはならない失敗もあった。

 だが、考えてもみて欲しい。
 小樽運河保存運動を牽引する会員は、中高年女性と若者だった。
 道路促進派の政治的圧力と経済的締め付けから自由なのは、そう、中高年女性と若者だったし、それは生き残るためにやむを得なかった。
 四〇〜五〇代の地場の経営者や商店主は、経済界重鎮政治決定構造に組み込まれ、それに抗する様々な取り組みは政治的圧力で圧殺されて、経済的締め付けの前には心情では運河保存であって態度表明出来ず「隠れ保存派」としてしか存在しえないでいた。
 
 そのような情況で、市役所や小樽商工会議所などの道路促進側情報を入手するのは実に困難を極めた。
 今日のような情報公開制度などない時代で、事業計画の縦覧などはコピーも許されない、市民として知る術も奪われていた。
 
 小樽運河保存運動は、そんな時代に闘いを挑んだ。
 当然、政治判断や政治決断をする際の情報収集は極めて乏しいものだった。
 もっぱら、小樽運河保存運動の中心メンバーの個人的関係や商売上の関係からの情報収集、そして新聞記者の取材から得た情報提供に頼らざるをえなかった。
 収集された個人的情報や商売上からの情報は、商売上の利害関係や個人的感情をクリーニングしなければならず、チェックするフィルターを通す処理をしないとうかつに採用できなかった。
 マッチポンプ的振る舞いをされる方の情報などは、なおさら慎重でなければならなかった。
 そのうえで初めて、情勢分析が出来、我々の位置と役割を導き出させた。
 
 しかし、かろうじて垣間見えたり、ガードの隙間からわずかに漏れてくる情報でそれをするのはたまらない苦労だった。
 西武の小樽運河地区再開発での進出計画という事態と、それが小樽という町と小樽運河保存運動に与える実に政治的に微妙で慎重さが求められるような情報の収集は、並な苦労ではなかった。

 確かに、小樽商工会議所副会頭の大野友暢氏と情報共有する関係の端緒にはついていた。
 が、百戦錬磨で慎重な氏は伝えるべき情報の範囲とレベルと深度をしっかり考慮しての提供だった。
 我々との情報共有は、強固な信頼関係が構築される度合いに応じてされていく段階だった。 
 
 知るべきでない情報は、知らない方がいい。
 知り得た重要な情報は、必ずその裏を複数から取る。
 伝聞情報は、それも可能な限り複数人から裏を取る。
 人は自分たちが有利になる情報を求めたがるものだが、大野友暢副会頭はそういう情報を一番危険視し、その情報の内容の精査を必ずする人だった。
 情報漏洩を警戒し、4会頭同士自身、合うのも人目を避け、札幌で会う日々だった。
 

 町の四番打者がネクストサークルで、打者に投げるボールに合わせて素振りを始めていた。
 氏は、西武の小樽進出の次の段階、つまり小樽商工会議所正副四会頭の方針転換という最大の工作を隠密裏に進めていたのだから。

 そして小樽運河保存運動は、入ってくる情報の少なさと制限下で、
 ・いま西武進出と運河保存を巡る「様々な流動化をどうみるか」。
 ・そのなかで、道路建設派と運河保存派(隠れ保存派を含め)の彼我の力
  関係をどう評価するか。
 ・そのような状況把握を、運河保存派全体がどれだけ共通に理解し、共有
  できるか。
と試されていた。

 西武流通グループの堤オーナーの昨年9月30日の
  「運河を埋め立てるなら,運河地区再開発には協力できない」
とする運河保全面支持とも言える発言の後、暫く西武の動向は伝えられなかった。
 が、同じく西武・堤オーナーの本年1月の
  「地元意思の一本化が西武進出の前提条件」
という追い打ち的アドバルーンは、私には、

 (1)川合会頭と堤オーナーの連携が継続強化している。
    それは同時に、菅原社長と堤オーナーの接触は薄くなっていることを意
    味した。
 (2)この堤発言の意味は、
     「道路建設の見直しが小樽運河地区再開発にとっての絶対条件」
    となって、地元経済人に受け止められはじめられている。
    これを機に急速に経済人をして運河保存に一層傾斜させていく趨勢が
    加速する。
 (3)これが、さらに小樽商工会議所首脳の方針転換工作をしやすくし、又
    、小樽商工会議所会員の説得の根拠となっていく。
と、理解しようとしていた。

 とりわけ、昨年1982年昭和57年9月30日、そして翌年1983年昭和58年年1月の西武・堤代表の記者会見での発言はそうだった。
 商工会議所首脳が小樽商工会議所内での多数派工作をしやすくするために、西武グループが「地元意思の一本化前提」発言までして、小樽側を揺さぶり働きかけてきた。
 
 しかし、情況はありとあらゆるものが刻一刻水面下で動いていた。
 隙間から何とか垣間見える情報を入手しても、どのように評価するかは大変困難だった。
 そして、市民運動としての小樽運河保存運動の独特の論理があった。
 状況分析や状況把握だけでは士気を高めることはそもそも無理がある。
 その状況分析から、何か具体的方を針立て、それを実践していないと、運動自身がエネルギーを失ってしまうわけだった。
 確かに、行政のパーソントリップ調査に対抗する小樽運河を守る会の手作り道路交通量調査や中一夫をリーダーに小樽運河を守る会と夢街の若者たちの「小樽運河紙芝居・ニャンタの冒険シリーズ」市中行脚は、されていた。
 が、啓蒙運動やデータ取得の活動ではアピール力は小さい。
 市民運動としての小樽運河保存運動は、道路建設派との緊張関係を持ち対峙し続けていないと、成立しなかった。

16_03. 現状の手詰まり感を打破する狙いが仇に。


 しかし、山口・石塚両氏の危機感は、私以上に強かった。
 
 とりわけ、西武グループの関口デザイン事務所がつくったとされる「関口プランー運河再開発プラン」の詳細が、市民には未公表だった。
 3月12日の市議会予算特別委員会であきらかにされたが、それでも委員市議と行政理事者に限られ、公表されていなかった。
 
 小樽商工会議所の事務局すら詳細は「会頭預かり」案件で、口を閉ざしていた。
 要は、小樽市・経済界トップなど1部の人間しか知り得ていなかった。
 
 不用意に公表するのを警戒する関口事務所や西武、そして公表すると「運動埋立から運河保存への大きな流れ」をつくりかねないという道路派の危機感も加わっての、情報統制だった。
 詳細が公表されなければ検討言及もできない市民。

 それらも含め、これから「道路促進派と運河保存派の綱引き」がどう始まり進捗するのかという点で、小樽運河保存運動側は悩み、手詰まり感、焦燥感を募らせていた。
 それが、1983年3月、「小樽市歴史的建造物保存条例制定と市が買収を決定した旧小樽倉庫再生再活用」の会議での、小樽運河を守る会企画部長・石塚雅明氏「私見」を表明してしまったのだった
 
 運動内部の微妙な状況把握や理解の相違、そもそもその私見を何故今表明するのかと言う点での、小樽運河保存運動側の意思一致の準備の中途半端さが、露呈してしまった。

 西武の小樽運河地区再開発問題とタイミングを一にした、
  「小樽市歴史的建造物等保全審議会」設置
と、
  「小樽市歴史的建造物保存条例制定」
と、その具体的実践事例となる
  「旧小樽倉庫再生再活用
が、運河埋立派と行政にとっては「目の上のたんこぶ」となっていた。
 
 一方、小樽運河保存運動は、この「小樽市歴史的建造物保存条例制定」とその具体的実践事例となる「旧小樽倉庫再生再活用」というテーマでもって、全く持って成立してこなかった行政と小樽運河保存運動側との「話し合い」の場の確保、行政との交渉の再開を果たそうとした。。

 残った全長1500mの小樽運河の丁度中心的位置にある「旧・小樽倉庫」を小樽市は歴史的建造物として保存再生し再活用するとなり、小樽運河保存運動はそのランドマークとしての「旧・小樽倉庫」の重要性を鑑み、その再活用策を北大グループが中心となって何度も集まり検討してきた。
 その小樽運河保存運動派の案「小樽クラフトセンター構想」を市側に提起する会議だった。
 
 現在は、南側半分が「小樽観光運河物産プラザ」、北側半分が「小樽市博物館・運河館」、中央に小樽観光協会事務所がある。
 が、小樽運河保存運動側の構想は、簡単にいうと、 全敷地建物を小樽観光のこれからの戦略的位置を想定し、様々なデザイン工房(ガラス工房やキャンドル工房、革製品工房など)やクラフト工房を市内・道内から誘致し、新しい観光小樽に貢献する、様々な文化芸術創造の技術蓄積とクラフトマン育成をしながら、体験観光施設拠点にする案だった。
 市側は、半分を市立博物館、半分を小樽後志観光物産プラザとする案だった。
 会議は、市側と小樽運河保存運動派の案が提示され、市側は小樽運河保存運動提案を参考にするといい、終了をしようとした。
 
 そこで、石塚雅明・小樽運河を守る会企画部長が、「個人の意見」として、
  「運河をどうしても埋めるなら、運河の海側を2車線だけ
と発言してしまった。
 
 石塚・山口は、西武・堤オーナーが「小樽運河埋立前提の再開発はない」と記者会見し、町全体に様子見モードが生まれている現状を、つまり、
  「現状の手詰まり感を打破する狙い」
で、いきなり発言した。
 しかし、この案は小樽運河を守る会内部や夢街、そして愛する会はじめ運河保存支援団体にもオーソライズされていなかった。
 地元小樽の2団体の中でも、「現状の手詰まり感を打破する狙い」としての『小樽運河保存運動側からの仕掛け』という意志一致もなかった。


  「市は6車線を計画、一方小樽運河を守る会を初め小樽運河保存運動
   側は代替ルートに市道港線を4車線化で間に合うとしてきた。
   ここに至っても、どうしても市が6車線にこだわるなら、2車線は
   運河海側を埋め立てつくる、そうすれば、運河山側の石造倉庫群と
   小樽運河の一体性は何とか保てる
 
 という、局面打開策だった。
 それでも、出席していた小樽運河を守る会・中一夫氏は
  「よく考えた案」
と思いながら、市側の反応を待ったという。
 ところが、反応は、自陣営の小樽運河保存運動派から出てしまった。
 小樽運河を守る会に新しく参加してき、中氏がリーダーの「小樽運河紙芝居」活動に懸命に参加している、どちらかと言えばマイナー主義の色合いの濃い、真面目な青年・松岡勤(民宿ポンポン船経営)が、突然の提案に猛反発した。

  「小樽運河を守る会は運河を守るためにある。
   埋め立てるという発想が、小樽運河を守る会にあること自体がおか
   しい
と、市側が居る場で石塚や山口にいてもたっても居られず噛みついた。
 
 それは噛みつくのは当然だった。
  「現状の手詰まり感を打破する狙い」
などという政治的な駆け引きとは事前に知らされず、そもそも政治的駆け引きなど大人の汚い世界での話で、絶対拒否のまじめな青年だった。
 無理もなかった。
 プライベートな場での相手側の様子見と牽制をかねたような話の世界であれば、あとでプライベーな席、酒宴での話、と惚けることもお互いあり得た。
 が、少なくとも小樽運河を守る会と小樽市の公的な会議の「場」で、するべき話ではなかった。
 とりわけ、若い訓練されていない会員がいる場で、口にすべきではなかった。
 会議終了後、「相談がある」と2〜3人の市幹部に投げかけ、場所を変えてごく少人数やるべきであるのは、山口や石塚も承知していた。
 が、そう声掛けしても逃げられる、という判断のほうが強かった。
 
 その会議の数日後、山口と小川原でその会議発言を巡って論争になった。
  「現状の手詰まり感を打破する狙いだったのだ。」
と言い訳する山口に、

  「そういう判断を、否定しているんじゃない。
   それはそれで正しいとはいわないが、そう判断することがあって
   も、不思議じゃない。
   しかし、真面目さを生き甲斐にするような小樽運河を守る会の若
   者が出席している前で、事前根回しもなく、彼らにどう影響をも
   たらすか考えず、口にするのは決定的間違いだ。
   小樽運河を守る会のリーダーが、例え手詰まり感の打破のための
   様子見でといっても、部分的埋め立てを保存側から切り出すのな
   ら、会議終了後、「相談がある」と投げかけ、場所を変えて、廊
   下の片隅の立ち話で、ごく少人数やる
べきなのは、常識中の常識
   だ。
   
それですぐ乗ってくるか、後日市側から真意を聞いてくるかで、
   良しとする話だ。

   そもそも、内部でしていない話だ。
   内部論議をしてこなかったのも、
    『内部に疑心暗鬼を生み出す危険な行為』
   と判断してた、からだろうに。
   そういう話を、切り出す場は別にある。

   そして、それを石塚氏に言わせたのもまずかった。
   百歩譲って山口が言っていたら、都市計画の素人の発言ですん
   だ。
   都市計画を専門にする、小樽運河を守る会の専門家的存在の彼に
   語らせれば、それは『私見』にはならないだろう。」
 
と、政治技術を使うなら事前の意志一致が最低の条件だと、山口に対して迫った。
 山口は、市側に仕掛けた発言で市側を揺さぶられず、逆に小樽運河を守る会側へのマイナスの影響しか与えなかったことに、反論してはこなかった。

 しかし、もう言ってしまったことで遅かった。
  「一度口にした言葉は馬車で追いかけても追いつかない」
だった。

 
 数日後、その松岡勤が、会議に出席していなかった私を訪ねてき、彼からする一部始終を話してくれた。
 その彼の怒りと芽生えた不信感を解こうと懸命に説得した。
 説得したのが・・・いけなかった。
 彼と一緒に、その石塚発言に怒れば、良かった。
 それが、のちの説得に繋がることだった。
 しかし、彼には若さ故の頑なさもあり、私の説得が彼には効かなかったのを、1年後に臍を噛む事になる。
 彼はもともとマイナー主義的発想であり、真面目な青年であった。
 それが故に、石塚雅明・山口保という小樽運河を守る会のリーダー、そしてその二人を認め頼る峯山冨美会長、そして説得しようとした夢街の私にまで、「不信感」を芽生えさせてしまった。
 残念だが、してはならない失敗をしてしまった。
 まだこれからも悔しいが、同じように失敗を経験することになる。
 その時々の、それも激しく渦巻く情勢直前の、「状況把握と理解の相違」を埋める作業ほど、難しいものはない。
 最後は、それぞれの政治的感覚・政治的感性のレベルまで行き着くのだから。

 要は、私は学生運動での学生は勿論、教員や職員、生協職員、夜間部勤労学生の全構成員を網羅した大衆運動のダイナミズム経験から、
   情勢把握は、「流れ」で読む
としてきたが、膠着状態になったとき、その情勢把握が困難になっていく。

 その切なさが、11年の小樽運河保存運動でもっとも如実に表れていたのがこの時期だった。

16_04.小樽商工会議所トップの道路建設運河埋立方針転換工作は続く。
 

1983年 昭和58年

   6月   川合一成小樽商工会議所会頭が、佐藤副会頭に対し
       「阿部暢(とおる)副会頭・阿部建設社長
      を「道路建設から方針転換する」ようを説得依頼をする。
 
      小樽運河を守る会、中一夫氏『中くんジャーナル』創刊
 
  6月28日 市が〈道道臨港線〉計画の基礎データとしている1976年実施パーソントリップ調
      査に対抗し,小樽運河を守る会が独自の交通量調査を実施
  7月中旬 北海道商工会議所連合会全道大会釧路大会への出席のため、夜行寝台列車の中で佐
      藤副会頭は阿部副会頭に「道路建設から方針転換』を再度説得。
      小樽建設事業協会長でもある阿部副会頭は、その立場から迷うが、最後に方針転換
      を了解する。
  8月06日 正副4会頭全員が「道路建設から方針転換」で意思一致できた川合一成は、三副
      会頭と専務理事で小樽市長を訪問。
      志村市長に「計画を転換、運河全面保存」を打診。
      志村市長拒否。 
      4正副会頭は市長面談後、前・小樽商工会議所会頭・木村円吉氏ら数人の会議所
      重鎮、更に衆議院議員・箕輪登氏に同様に打診。
       木村円吉氏:「いやぁ、さすがに若い人は考え方が違う」
      と返すだけが精一杯、皮肉のこもった返答だった。
       小樽選出衆議院議員・箕輪登氏:
             「過去、運河保存を市長に言ったことがあるが、市長が強硬なの
              でサジを投げた。」
 
8月16日  北海道新聞、小樽商工会議所正副4会頭道路建設」見直し方針転換のスクープ
 
 

 16_04.「小樽商工会議所正副4会頭道路建設見直し方針転換」のスクープは?

 川合会頭ら正副4会頭は、小樽での会議はすぐ漏れ情報が飛び交うと、頻繁に札幌まで行って会合を持つ。
 しかし、それでも小樽市行政がこの四会頭の動きを察知する。
 道々小樽臨港線建設促進期成会の実質的リーダーの菅原春雄(フタバ倉庫社長)氏と相計らい、小樽商工会議所正副4会頭の運河埋立見直しを阻止しようと工作をはじめる。
 しかし、小樽商工会議所正副4会頭の結束は思った以上に強かった。
 これ以上待つと、小樽商工会議所内部が運河埋立見直しで固まっていくのを許すだけだった。
 敢えて、まだ固まらないうちに4会頭の運河埋立見直しの動きを外部に漏らし、それで会議所内の動揺・紛糾をつくり、建設促進期成会の菅原春雄のイニシアティブで再度運河埋立路線に戻させよう、と企む。

 一方、小樽商工会議所正副4会頭は意志が固まったと、8月6日に志村市長を四人と専務理事で訪れ、
  「運河保存は時代の要請、埋立の見直しと全面保存の道を探って」
と要請をする。
 その申し入れを受けた行政や菅原春雄氏ら経済界重鎮らは、報道にリークした。
 
 1983年(昭和58年)8月16日、
  商工会議所会頭,「埋め立ての見直しを」
と北海道新聞が報道する。
 
 「小樽商工会議所首脳、運河保存に転換」のニュースが大きな波紋となって市内外に広まる。
 ついに、勝負のときを小樽運河保存運動は迎える。


16_05. 小樽商工会議所を巡って、熾烈な闘いが始まった。


 1970年代、遠い中東の戦争のあおりを受けた石油ショックでこの国の高成長は終わり低成長時代を迎え、政府予算編成が縮小されて、建設省の工事予算がつかないことで道々小樽臨港線事業は中断し、小樽運河保存運動サイドは運動展開準備をする猶予を与えられた。

 相手側の公有水面(小樽運河)埋立申請が行政によって出願されたが、測量ミスと図面の数字の誤記入が発見され「公有水面埋め立て」出願が取り下げになり、再出眼手続きが遅延し、その間を小樽運河保存運動は利用でき運動の組み立ての再整理を準備もできた。

 運動展望を切り開けないと何度頭を垂れたものだったか。
 
 しかし、ついに道路建設促進の牙城と市民はみていた小樽商工会議所の、それも正副四会頭が方針転換し、運河埋立を見直すとなった。
 私がいってきた、 四番打者の登場、だった。

 そして道路促進派は、徹頭徹尾、市民を愚弄していた。
 彼らは小樽商工会議所会議所という世界で、「道路建設促進・運河埋立路線」を相変わらず多数派工作で再度確立し、乗り切ろうとした。 
 彼らには、それしか手はなかった。
 彼らは、正副四会頭の方針転換が小樽商工会議所内部に与える影響だけしか見ていなかった。
 しかし、正副四会頭の方針転換は一〇年の耐えに耐えて展開してきた小樽運河保存運動の歴史的蓄積の上にあった。
 それが、小樽運河保存運動全体に、そして決定的には小樽市民にどのような規模の影響を与えるかを軽視した、というか推し量れなかった。

 密室政治と政治的圧力での多数派工作しかしてこなかった彼らの萎縮し凝り固まった思考では、市民の反応を推し量るという世界は理解を越える世界だった。
 いよいよ、市民総ぐるみの小樽運河保存運動の「大高揚」の2年の幕があいた。

 正副四会頭はその方針転換が小樽商工会議所に与える影響を考慮し、当然、極秘裏に方針転換を進めてきた分、小樽商工会議所内部での論争を経て決着を付けなければならない。
 
 1年前の3月、西武流通グループ堤オーナーの小樽運河再開発への西武再度の挙手があきらかになったときに、小樽運河保存派が小樽商工会議所会議所を巡って「道路建設促進派」と「道路建設見直し派」の綱引きが始まればとする期待を込めた展望の、その実現だった。

 道々小樽臨港線建設と西武の再開発進出の二兎を追った菅原春雄小樽倉庫協会会長の目算は、堤オーナー自身の昨年1982年昭和57年の9月30日
  「運河を埋め立てるなら運河地区再開発には協力できない」記者会見
で大きく外れた。
 そして、この年1月更に
  「地元意思の一本化が西武進出の前提条件
という、追い打ち的アドバルーンにトドメをさされていた。

 菅原春雄小樽倉庫協会会長を信奉する経済人のなかに、氏の利益誘導と政治調整力への信頼に疑問符がつけられた瞬間であった。
 以降、それへの不信気分が醸成されていた。
 更に、小樽商工会議所四会頭の方針転換が会議所の決定になるということは、菅原春雄氏自身の小樽における政治的位置が大きく失墜することを意味し、当然菅原春雄小樽倉庫協会会長も引き下がれなかった。

 志村市政とそれを支えて来た自民党小樽支部も、大きく動揺した。
 小樽商工会議所内部の問題と洞ヶ峠を決められるような情況ではなかった。
 なぜなら、この年の1983年昭和58年12月18日には、総選挙があった。
 小樽が属する北海道4区に立候補する、公認をえられない保守そして新人は票を求めて運河保存に走る可能性は極めて高かった。
 そして、その情況は毎回苦しい選挙をする「現職の一層の危機」を意味した。。 
 
 自民党と関係の強い公明党も、総選挙を目前にして経済界が割れ、市民が運河保存を求めれば求めるほど自民党と距離を置かなければ、自らの選挙が不安だった。
 志村市政が、最も依拠してきた自民党小樽支部の票田が、志村行政への不満も相まって小樽運河問題で大きく割れることを意味した。

 こうして、小樽商工会議所会議所の動向を巡って、小樽の全政治と社会の構造が大きく揺らぐことを意味したのだった。
 報道にリークされて招集される
   小樽商工会議所緊急常議員会
が焦点となり、市民、マスコミが注視することになる。

 1983年8月16日、小樽商工会議所会議所・川合会頭は、翌日17日に緊急常喜委員会を開催し、経緯説明と協力を訴える予定を固めると同時に、会議所主要メンバーへ個別に事情説明を開始する。
 
 同8月16日  小樽市長:「埋立中止の考えはない。」
とコメントし、
  前小樽商工会議所会頭・木村円吉氏:
       「小樽商工会議所内で正式に諮って道路建設を決めた以上、個人的
        意見としか思えない。 
        道路の必要性は依然として変わらないのだから」
とし、
  小樽商工会議所運河再開発特別委員会長・菅原春雄氏:
       「運河の全面保存の考えに異論はないが、問題は別ルートが確保で
        きるか否かにかかっている。」
とした。 
 前小樽観光協会副会長・田辺順氏(千秋庵会長):
       「急いで運河を埋めるべきではない。ルートはもっと別な所に考え
        た方がいい。 だから会議所首脳の方針転換は歓迎すべきこと
        だ。」
と街の主要団体の前・現トップがそれぞれコメントを出した。 
 
 そして、8月17日、小樽商工会議所緊急常議委員会
   「小樽運河を全面保存して観光開発など図るため、運河を埋め立てて建設
    する現在の道々小樽臨港線の代替ルートを探りたい。」
と、川合一成会頭は表明。
 会議所常議員会は、紛糾し会議を持ち越すことになる。
 8月23日小樽青年会議所OBらで構成される「小樽市民会議(伊藤一郎会長)は、
   「運河埋立再検討の方向で論議を進める方針を固める。」
 8月24日市内花園銀座街のアクセサリー店経営・村上勝利氏、
   「小樽再生のため運河を核に観光・文化開発をすべきだ。そのため小樽商
    工会議所に勝手に連帯する。」
   と表明し、集めた署名の1部約350人分と規定道路計画再検討を訴える
   アピールを市役所に提出する。
 市内商店主の初めての反応だった。
 
  ポートフェスティバル第6回実行委委員会(山川広晃委員長)は、同24日夜、緊急総会開催。
 これまで実行委の若者全てが運河保存派ではなかったが、小樽商工会議所首脳の方針転換について支持決議。
  「運河を核にまちづくりを」
  「ポートフェスティバルを運河周辺で継続させたい」
  「高度成長期に計画された規定方針は現状に合わない、
   小樽商工会議所の方針転換は勇気ある決断」
と支援アピールを採択し、28日市内パレードを決定する。
   
 
 1983年8月24日ポートフェスティバル緊急総会

 
 8月25日、17日に紛糾した小樽商工会議所緊急常議委員会が再開された。
 執行部への批判の急先鋒は、小樽倉庫協会会長・菅原春雄社長だった。
   「現実問題として全面保存を可能とさせる代替ルートを国は認めるとは考
    えられない。もし計画変更を求めれば、国と小樽の関係悪化し,小樽の
    今後のためにならない。」
とし、道路促進派も譲らず、一方、転換を評価する委員も半数近くいて、会議所は割れて決着はつかず、最終的に、
   「道路建設の立場は堅持する。ただし、確実な予算が伴い、行政とのコン
    センサスが得られる代替の道路案があれば、検討するのにやぶさかでな
    い。」
との条件を付した統一見解で、川合一成会頭は方針転換姿勢を堅持する。

 以降、これが「但し書き」条項と呼ばれ、この削除を巡って小樽商工会議所内で
 の道路促進派と道路見直し派のせめぎ合いが、ことある毎に展開していく。 

16_06. 小樽運河保存運動のトドメの仕掛け

 山口・小川原で、佐々木一夫が店長をする旧小樽倉庫の事務棟を再活用した
  「小樽倶楽部
に閉店後集まり、いよいよ勝負をかける時がきた、と論議する。

 仁木に拠点を構えるクラフト&牧畜集団・アリスファームが、小樽市と賃貸契約を結んでオープンした喫茶・小樽倶楽部(現在は、賃貸契約は終了、別の経営者で店名だけは継続している。)。
 アリスファームは市役所と賃貸契約をしたが、仁木の拠点を創ったばかりで飲食調理や経営は初めてで、知り合った山口の仲介で佐々木・小川原と三人が運営方法でアリスファームと話し合った。
 小樽運河のヘドロ処理工事は始まると人の通りはなおさら少なくなる。
 が、しかし、小樽運河のランドマークとも言える場所で、その喫茶レストランの経営が上手く行かなくなるのは、折角ポートフェスティバルで「賑わい」を作り出してきてのに、肝心の時期にマイナスイメージになる、との判断で会ったわけだった。
 幸い佐々木一夫・興次郎が経営するスパゲティ店「叫児楼」は大繁盛し、スタッフにも恵まれていて、佐々木一夫が叫児楼から抜けても経営に影響はなかった。
 三人は話し合い、喫茶レストラン部門の店長を佐々木一夫・興次郎がし、アリスファームのクラフトグッズの販売も含め、全体会計を私がやる事になった。

 実は、アリスファームは仁木町に進出するのを西武流通グループが応援していた。
 小樽市も西武流通グループとの関係を築きたくアリスファームに貸したのだった。 その「小樽倶楽部」の運営・経営を小樽運河保存運動派がやるとなってオープンした。
 実に小樽的ねじれの最たるものだった。 
 その「小樽倶楽部」で、小樽運河保存運動の最後の攻防戦の方針を決める。
 その歴史的皮肉、アヤと言えた。
 北大大学院を卒業した石塚と柳田は札幌に「石塚・柳田建築計画事務所」を構えていて、その喫茶・小樽倶楽部の内装デザインを依頼すると、
  「実に小樽的だな。
と、呆れて笑って言ってくれた。

 その「小樽倶楽部」で、深夜まで山口・佐々木・小川原の例三会議は続いた。
 こういうときのパターンで、山口は積極的情勢分析をし、私は敢えてマイナス材料を洗い出し、論議する。
 クールな話し合いは、早く結論を出し三人で確認し意思一致することに焦る山口の声が大きくなり、ヒートアップして大論争になった。
 そうやって、方針が決まっていく。

 保守層を巻き込んだ、
  ・全保存派勢力を結集するする市民運動団体を立ち上げる
  ・道々小樽臨港線「建設見直し」十万人署名運動
  ・署名運動の事務所を早急に確保する
に突入し、その署名結果を志村市政にぶつけ、勝負をかける、と計る。

 小樽運河を守る会をはじめ保存派四団体の「保存」運動から、市民各界各層を網羅し、とりわけ今まで声を上げられなかった保守をも運動に参加しやすくするための新たな運動団体「小樽運河百人委員会」を立ち上げる。
 そして小樽運河「保存」という主張より、誰もが署名できる「道路建設見直し」を全面に打ち出し、署名運動に取りかかる。
 益々、道路建設に意固地になる行政と市議会なので「直接請求」という門前払いされることがわかりきった、署名期限も制約のある署名運動をイメージしなかった。
 成立するか否かに意識が取られる直接請求署名ではなく、より広範で自由で、小樽商工会議所の方針転換を支援する署名運動、それが逆に総選挙を控え道路促進派にプレッシャーになる署名数市長選挙投票数や地元衆議院議員の得票数を超える、当時一八万人の人口で過半数となる「一〇万人署名」を目標にする、ことと確認する。

 一方、北教組からの小樽運河保存運動への接触がいよいよ始まっていた。
 上記の運動を展開しながら、
  ・知事サイド・社会党・全道労協との連絡体制、
  ・小樽商工会議所首脳との連絡体制、
  ・地元自民党・保守の隠れ保存派との連絡体制
を、整理し再構築する。

 この体制で、ひとつ宿題になった。
 それは、
  ・百人委員会運動に主力を注ぐため手薄になる小樽運河を守る会運営対策
であり、更に、
  ・唯一、小樽運河を守る会にしか足場ない「反横路道政」を鮮明にする共産党への対策
だった。
 山口と論争の一つもそれだった。

 私も、問題点を逐一挙げることは出来たが、それを賄うにはあまりにも人材・人員不足で無理があった。
 道知事室サイド・社会党・全道労協対策、小樽商工会議所との緊密な体制づくり、小樽商工会議所会議所の方針転換で猛烈な反撃をしてくる自民党・保守陣営対策と、どれも小樽運河保存運動が初めて経験する世界に突入するわけだった。
 三人だけでも手は足りなかった。
 対策などというけれど、そのような複雑で日々刻々変化する状況に、小樽運河保存運動が、とりわけ山口と佐々木と私が振り回されないように強固な信頼関係を今まで以上に成立させること自身が問われるわけなのだから。

 山口が、情況に取り付かれたように突進すること、それで情況を切り開いていくことは目に見えていた。
 山口はその突進力とフットワークのすばらしさは長所であり、それを天性の政治的嗅覚で人間関係を成立させて邁進する男だった。
 しかし、反面そこで発生する様々な人間の機微・心模様を推し量ることは、苦手なのが短所だった。
 それを佐々木一夫と私とでフォローするよりなかった。

 小樽運河を守る会運営対策は、北大グループや中一夫を初めとする若手グループにやってもらうよりなく、それを山口がフォローすると確認されても不安であった。
 が、どうしようもなかった。
 やりきるよりなかった。

 一周遅れのトップランナーと位置づけて10年やってきて、気がつくと周回遅れを取り戻しトップを走っているわけだった。
 でも、真っ直ぐ前を向き勇んで一歩を踏み込む山口と、回れ右して後ろ向きになって「後ろ退る」ことで、一緒に進む私がいた。
 どちらも、ベクトルは一緒、前には一緒に進む、わけだった(^^)

 知事サイドから、 
  「事態は結構むずかしい。
   知事は多くの期待を受けながら北電泊原発建設を事実上承認した。
   自然保護団体の反対がある日高横断道建設も自ら動かずチェックしない姿勢。
   知事サイドは
    『既にもうレールが引かれてしまっていてどうにも出来ない』
  といい、それが支持者の幻滅感を与えていることは知事も否めず、それで
    「せめて、小樽運河だけは。
  とする気持ちは知事にも強い。 」
と情報が入る。

 道議会運営で少数与党の横路道政の問題点が、もう浮上していた。

     この項終わり



 ●次
【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ●現【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ●前【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。