17_01. 道路建設見直し小樽運河百人委員会結成

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1983年昭和58年

  8月28日 小樽商工会議所川合一成会頭,正式に「埋め立ての見直しを」声明
  9月   小樽商工会議所にかってに連帯する会」を準備する花園銀座商店街の装飾品店経
      営・村上勝利社長・関建設・関和雄社長と接触。
  9月 6日 北海道新聞:
      「小樽商工会議所首脳と勝手に連帯する会(村上勝利・落希一郎・島崎寿雄代表
      幹事)、市内の商店主、レストラン経営者約40人)は、市内中心部3商店街で
      議所首脳の方針転換指示署名を集めたところ211店の店舗の内86%の店舗が署名
      スタッフを含め500名の署名を集める。
  9月12日 小樽運河百人委員会結成 


 ・・・町の底流の動きが一気に浮上し、潮流となって流れ始めていた。
 西武流通グループの小樽運河地区再開発への挙手表明の1981年末から、1983年(昭和58年)8月16日、北海道新聞に「小樽商工会議所正副四会頭、道路建設見直し方針転換」と報道される1年半。
 揺さぶられに揺さぶられてきた小樽の町は、ついに「運河保存」という奔流が流れる町になっていた。
 
 西武の小樽進出という報道に、鋭く反応したのは青年会議所だった。
 1年前の1982年(昭和57年)10月、小樽青年会議所の複数の幹部は、
   「内部に運河は残した方が良いとの声が強くなっている。」
   「青年会議所会員151人の半分以上、いや大半がそうなってきている。
と公然と新聞記者の取材に応えていた。
 正直、私が帰省した頃の青年会議所とは思えない情況が現出していた。

 わずか七年前は、1975年(昭和50年)の市長選挙での民間人市長擁立を政治的に潰されて以降、経済的締め付けを恐れ表立って街に向かう言葉を失ってきていた青年会議所だった。
 1979年(昭和54年)第1回ポートフェスティバルが成功裏に終わり保存派が攻勢的町に打って出始めても、青年会議所内で行われた運河問題意識調査でも
   「運河は残すべきという会員が半数を超えていた
のに、公表をしない青年会議所だった。
 1981年(昭和56年)西武流通グループが小樽運河地区再開発への挙手発言をするまで、
   「内部には道路促進と運河保存という二つの意見があり、青年会議所とし
    ては1つの立場を表明できないし、言うべきでもない。
としてきた青年会議所だった。
 それが、この変わりようだった
 
 第1回ポートフェスティバルが成功裏に終わって、青年会議所の月次例会にゲストスピーカーとして私が招かれた時だった。
   「小樽運河保存運動の『保存』という言葉への理解に大変誤解がある。
    そこには、本質的に『再生・再活用という意味』が込められている。
    それへの理解を得るために、運河という現場を使って、市民にとりわけ
    経済人に、そう、皆さんのような将来の町の経営者の皆さんにイメージ
    してもらおう、として開催してのがポートフェスティバルだったのだ。
と力説した。
 質問タイムになって、
   「運河保存や石造倉庫や歴史的建造物の再生・再活用で、儲かるのか?
    儲かる保証はあるのか?
という、実にストレートな質問を受けた。

 質問者が中・高校と同期で、普段から道路促進派的物言いをする方だったので、質問に応えた。
 JCの知人たちは私がどんな応答をするのか、と見守っていてくれた。



  「今日は経営セミナーだったのでしょうか?
   私は高名な経営コンサルタントではなく、町の蕎麦屋の息子です。
   その蕎麦屋の息子が『儲かる』と言ったら、質問者は歴史的建造物
   を再活用したビジネスを取り組みのでしょうかね?
   ビジネスで成功し儲ける人は、黙ってやる。
   ライバルは少ない方が、成功する率も高いのだから。
   青年会議所会員も私も、いわゆる『将来の経営者』です。
   その経営者が経営セミナーでもない場で『儲かるのか』と聞く。
   ことほど左様に、小樽の町の斜陽は、町の経営的立場の私たちを
   これほど蝕み、経営的に鈍感にさせている。
   海外事例や倉敷のアイビースクエアの成功例を話してきました。
   でも、まず、皆さんがその事例を自分で情報収集することを奨め
   ます。
   アイビースクエアも成功したから評価されている。
   が、あれほどの大規模再活用を企画したとき経営者はリスクを覚
   悟したはずだ。
   取引銀行さえ応援されたかどうか、です。
   でも、当たると確信したはずです。
   そう、時代がもうそうなってきていたことを察知していた、ので
   す。
   出席されておられる青年会議所会員で、ビジネスで成功している
   方が沢山おられるから、聞いて見たらいい。
   『リスクはなかったのか、儲かる保証はあったのか』と。
   マーケットリサーチなど何度やっても、百%の成功の保証などな
   い。
   ビジネスには大小はあるものの、リスクが必ず伴うのは、ビジネ
   ス展開をしてきている皆さんなら理解できるだろう。 
   自らリスクを最小限にしてやってみることからしか始まらない。 
   経営者は、思いを明確にし、戦略をたて、その上で『儲かるか否
   か』を自分で判断し、先行的に投資することで成功を自らに引き
   寄せられる。
   そうでしょう?
   質問者には、貴方も自分の目と足で実際見に行かれたらと再度提
   案します。
   サンフランシスコの再開発事例でもいい、倉敷のアイビースクエ
   アに見に行かれてもいい、と提案します。
   蕎麦屋の私ですら新婚旅行で沖縄に行きたいというつれ合いをだ
   まして、倉敷アイビースクエアを見に行ったのですから。」
 
と、応えてあげた。
 会場のあちこちから失笑がもれた。
 同期には悪いことをしたが、私も若かった。
 これは、一人のかつての青年会議所会員の話であって、全体ではない。

 そのような青年会議所が、自ら実施した「歩こう・見よう・ふるさと小樽」スタンプラリーの成功で、実体験として
  「運河が観光あるいは商業的エリアとして人の賑わいを造れる空間」
という認識を新たにしてき、自信を深めていた。
 そこまで青年会議所はきていた。


 そして、青年会議所だけではなかった。 
 町の人から「山から町に降りてこない」と揶揄されていた小樽商科大学。
 しかし、その教官有志が1983年3月には、
  「道々小樽臨港線計画の棚上げと、運河と石造倉庫群を活かす方法を探れ
というアピールを公表していた。
 帰ってきて初めて町の人々と接触して参加した「小樽研究会」の篠崎恒夫教授が、そのアピールに率先して名を連ねていた。

 更に小樽商業高校の郷土研究部が、市内の全高校生を対象に小樽運河問題でのアンケート調査を実施していた。
 回答生徒数:2,167人、回答率:97%
 その結果、
 91%の生徒が「運河の幅半分に埋め立てられ、道路が計画されている」のを知っており、運河問題への関心の高さを示していた。
 運河の幅半分に埋め立てられ、道路計画が進められると観光客はどうなるか、という質問には
  (1)51%が「減る」、8%が「増える」、41%が「わからない」
 小樽との経済との関係では、
  (2)発展しない:35% 発展する:24%
 環境はどうなるか?
  (3)悪くなる:45% 良くなる:24%
 道路建設のために運河を幅半分に埋め立てられてしまえば、
  (4)観光客は減り
  (5)小樽の経済は発展せず
  (6)環境が逆に悪くなる
と考えているとまとめられた。
 
 小樽・夢の街づくり実行委員会が依拠する小樽の若者たち、その高校生の間でも小樽運河問題が大きく意識されていてきていた。
 その高校生が、卒業しポートフェスティバルに参加してくるわけだった。 

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 そして、過去7年間「運河保存」を「うるかし」続けてきたポートフェスティバル実行委員会(山川広晃委員長)が、小樽商工会議所首脳の方針転換を受け、8月24日夜、緊急総会を開催する。
 これまで実行委の若者全てが運河保存派ではなかったが、小樽商工会議所首脳と方針転換について支持決議あげることになる。
  「運河を核にまちづくりを」
  「ポートフェスティバルを運河周辺で継続させたい」
  「高度成長期に計画された規定方針は現状に合わない、小樽商工会議所の方
   針転換は勇気ある決断」
と第1回から第6回までの実行委員長が連名する「(小樽商工会議所首脳)の勇気ある決断を支援する緊急アピール」を採択し、28日市内パレードを実施した。

 

17_02. 百人員会創設への準備

 そして1982年(昭和57年)9月、西武・堤オーナーは、
   「運河を埋め立てるなら,運河地区再開発には協力できない
と発表。
 更に、翌1983年(昭和58年)1月、
   「地元意思の一本化が西武進出の前提条件
と発表した。
 それは、まるで菅原春雄小樽倉庫協会会長に堤オーナーが出会った当初、西武進出表明を道路建設に組み込むように利用されたことへの怒りの発露のように、次から次に繰り出されるパンチのようだった。

 小樽の町の、踏みつぶされ抑えつけられて締まった固い大地に、鍬(くわ)が打ち込まれ、畑が掘り起こされ、土が鋤かれ、空気が充分土中の間を循環し、そこに
   「小樽商工会議所首脳の方針転換」
発表という、濃厚な有機肥料と水が与えられた。
 芽が出ないわけはなかった。

 それまで小樽運河地区再開発など言及しないでいた港湾・倉庫業界の道路促進派ですら、小樽の経済低迷と衰退の中で(現に、小樽が誇るゴム靴トップメーカーのミツウマが8月に倒産していた。)、西武の運河エリア再開発の意向を無視するわけにはいかなかった。
 それほど小樽の町は、志村市政の無策に憤り、とりわけ商工業者はあらたな経済再生施策に飢えていた。
 飢餓や飢饉に陥った人々の選ぶ道は「打ち壊し」しかなくなる。
 自分たちで創った道路建設締め付け基盤が、「西武進出」というドリルで打ち壊され崩壊しかねない危機感に襲われ、道路促進派はまずイニシアティブを握ろうとして西武進出の受け皿づくりをせざるを得ず、同時に運河港湾倉庫業界の利権を活かせる「運河埋立前提の小樽運河地区再開発」として、一枚噛んでいかざるを得なかった。
 つまり、港湾・倉庫業界の道路促進派は、道路促進と運河地区再開発の二兎を追うことを強制された。
 しかし、西武の運河地区大規模再開発は、不況にあえいでいた建設業界・土木業界にとって自社の将来に関わる問題、ビジネスの問題だ。
 同じく商工業業界は、運河地区再開発でかつてないビジネスチャンスが見えてきていた。
 息絶え絶えだった零細企業、零細商工業主はやっと巡ってきた商いへの光を感じた。
 そうなれば、道路建設促進期成会の踏み絵的圧力など絵空事になっていく。
 それは、道路促進派で町にはめてきた「タガ」を、逆に道路促進派自身が外してしまうことを意味した。
 今までタガをはめられていた市民、とりわけ商工業者の反応は鋭かった。
 道路促進派の「道々小樽臨港線建設促進期成会」 の中心団体だった小樽商工会議所、その首脳が運河保存への見直しという大転換をした。
 
 そして、自分たち商工業者の団体のトップが「方針転換」をした。
 タガははずれ、ついに頭を抑え続けてきた漬け物石が蓋ともども、いきなり消えてしまったわけだった。
 自分たちの団体のトップが運河保存を言うようになった。
 だったら、小樽商工会議所の会員が運河保存を言って何が悪い、今までは言えない状況を強制されたが、今は言える、いや今こそ言わなきゃならない、となっていくのは当たり前だった。
 そういう商店主、商工業者がついに現れた。

 北海道新聞市内版は、花園銀座街の商店主たちが自ら自発的に「小樽商工会議所首脳支持」の署名集めをし始めた、と報道した。
 
 小樽の町の全市民、全階層が、運河保存道路建設見直しで動き始めるその胎動だった。
  
 商店主は、頭上に覆い被さる重い漬け物石がなくなった
 山口は、早速、花園銀座商店街の装飾品店経営・村上勝利社長と接触する。

 村上勝利氏は、市内の商店主たちでグループを作り、中心商店街での小樽商工会議所首脳支持署名運動をやっていた。
 こういう時の山口のフットワークは、すばやくそして迫力があった。

 数日後、装飾品店経営・村上勝利社長と関建設・関和雄社長は、籔半のコアガリで山口・小川原とで面談する。
 
  村上氏は、札幌パルコ地下街で装飾品店をオープンし、経営が軌道に乗って今は花園銀座商店街で装飾品店を経営されて、それ以前は関東の日産自動車工場に勤務され、そこで労働運動を経験、政治的には自民党から離脱した河野洋平グループを支持してきたと、労組活動での自慢話を滔々とされた。
 神奈川の選挙区なら河野洋平の地盤であることは、間違いはなかった。
 が、私は、労使一体型労働運動の日本の一大拠点・日産自動車労組での活躍話は話半分で聞いていた。
 どこか深く考え語る、という匂いがなかった
 こういう方は私は得意でなく、一方、関建設・関和雄社長は木訥と語る方で主に関氏と私は話をしていた。
 富岡町で関建設という看板は見かけていた。
 建築業界でこのような運動をやって目をつけられ、仕事は干されないのかと聞くと、
  「我々のような零細の建設会社など、道路促進派は目もくれないから。
と、笑われて言った。
 こういう物言いの人が、私の好きなタイプだった。

 正直、何処まで村上氏と組んで進んでいけるか、という一抹の不安は、会った時から浮上した。
 確かに、山口の鋭い政治的嗅覚通り、
   新たな保守層を登場させて、
   広範さを運動に表現すること
が問われていたし、それには全く異議はなかった。
 しかし、あまりにも小樽運河保存運動の歴史と蓄積から無縁であったことへの不安だった。 
 
 そして、村上勝利氏は、市内の商店主たちでグループを作り、小樽商工会議所会議所首脳と勝手に連帯する会を組織し、中心商店街での小樽商工会議所首脳支持署名運動をやり、211店の店舗の内86%の店舗が署名、各商店の従業員スタッフを含め500名の署名を集める目途もたった、といってきた。
 小樽内では「時の人」だった。 
 人物評価は、ひとまず置いた。
 山口はこの「時の人」となった村上氏を獲得しようと、のめり込むように話していた。

 こういう商工業主の登場こそが、この局面の小樽の町では大事だった。
 正式に、「小樽商工会議所首脳に勝手に連帯する会」を準備する商店主としての勝手連づくりを山口・小川原も評価して、それをより広範なオール小樽の運動体にしていくために継続的に連携をしていこう、と確認しあった。

 村上・関の両氏は帰られ、山口と二人だけで話し合った。
 「お前の不安は、理解出来る。
  だが、今はその不安も、一緒に肩組んで政治的信頼関係を築いて解消してい
  くよりないべや。
  出会いはそんなもんだ、不安はそのプロセスで解消されていけばいい。」
と。
 確かにその点では、そうだった。
  「人は変わる、変わらない俺たちがめずらしいんだ。
   それを頭に入れて付き合っていこう。」
と言うよりなかった。
 しかし、臨時編制の関係が一番最高潮時にかぎって壊れることをさんざん学生運動で経験してきた私は、100%頷けないでいた。
 自分自身が、そういう学生運動経験にいつまでも規定されていてはならない、と自分に言いきかせてもいた。

  今は、文字通り、保守層を巻き込んだオール小樽の「建設見直し(運河保存)」市民運動団体、小樽運河一〇〇人委員会の創出を目指すだけだった。

 ・・・町の人々の反応が、今までと違っていた。
  ・保守層を巻き込んだ、オール小樽市民を網羅する運動団体を立ち上げる。
  ・道々小樽臨港線「建設見直し」十万人署名運動を展開する。
と喫茶・小樽倶楽部で山口・佐々木一夫と三人で確認しあい、それを小樽運河を守る会と小樽・夢の街づくり実行委員会に方針として議題にかけて、共通の理解を得ていよいよ、動きだした。

 商店街の、この人が、あの店主が、とおもうような方々が、「小樽商工会議所首脳に勝手に連帯する会」に参加してきていた。
 山口と、「これがダイナミズムってぇやつだな。」と頷きあった。
 佐々木一夫が、
  「山さんやタダシさんがいうダイナミズムって、やっとわかった気がする。
と横で言っていた。
  「若者達のダイナミズムから、大人を巻きこんだダイナミズムてぇ奴だよ。
と、言っている私がいた。
 
  小樽運河を守る会、小樽・夢の街づくり実行委員会は、「小樽運河百人委員会」への参加を訴えて、町の中に打って出る。
 峯山会長はじめ山口以下、全員が「小樽運河百人委員会」への声がけに町を猛烈に走り回る。
 この人が、この方が「小樽運河百人委員会」に名を連ねていった。

 一方、小樽運河を巡る小樽の街の情況は、渦を巻くように動いて行く。
 すでに、小樽運河に大量に蓄積されたヘドロ固化工事は、進捗していた。
 そして、小樽運河の地盤工事杭打ち工事が11月に着手される。 
 年末までに200本近い杭が打ち込まれる予定だった。
   杭打ち工事開始:11月12日予定
 一方、横路知事道政は、
   11月道議会は、次年度昭和59年度予算編成
という時期だった。

 自民党から予算編成審議で運河問題を人質に取られる可能性は大だった。 
 運河の工事の途中ストップか、59年度予算か、と言うきわどい勝負が待っていた。
 そして12月18日には、第37回衆議院議員総選挙があった。
 11月道議会、12月選挙告示に合わせ、小樽運河百人委員会の署名の目途をたたせ、その署名数をぶつけて行く戦術だった。

 しかし、猛烈に日数が足りなかった。
 でもやりきらねばならなかった。
   1983年(昭和58年)9月12日。
 これを「小樽運河百人委員会」設立総会に設定し、そこに全力を挙げて突進していった。

71_03. 道路建設見直し小樽運河百人委員会結成と十万人署名運動

 その当日、北海道新聞小樽支社ホールに、それまで声がけして委員就任表明をして頂いた市民が集まった。
 商店主、医師、教員、会社役員、大学教官、牧師、僧侶、会社員、画家、版画家、主婦、個人の約80人の委員、そしてこれまで小樽運河保存運動を担ってきた小樽運河を守る会・小樽・夢の街づくり実行委員会の会員が集まる。

 五人の代表幹事を選出する。
  ・峯山冨美(小樽運河を守る会会長)
  ・佐々木一夫・興次郎(喫茶店経営)
  ・村上勝利(アクセサリーショップ代表)
  ・長谷川伸三(小樽商科大学教授)
  ・松田惇二(元水産漁業会社役員)
の五氏が選ばれた。
 
 挨拶に立った、代表幹事は、
 長谷川小樽商大教授:
 「この段階になって大学教官たちも小樽運河保存の重要性を認識しだした。」
 佐々木一夫小樽・夢の街づくり実行委員会会長
 「我々にとり運河を語るということは自分自身を語ることであり、運河を残す
  と言うことは町の将来に希望を託して行けると言うことです」
と挨拶し、早速、八〇人の委員から様々に意見が出た。
  ・百人委員会として街頭行動、街頭アピール、街頭放送を実施。
  ・運河保存の将来像を、青写真を新聞折り込みで市内全戸に配布する。
  ・これによって十万人署名を推進し、おそくとも10月中旬に集約し、市民
   大集会を開催し確認、それを10月下旬市長、知事に会見を求め要望書を
   提出する。
となった。

 締めは峯山冨美小樽運河を守る会会長。
  「小樽の将来のために、なんとかもう一度志村市長に考え直していただきた
   い。」
と結んだ。


一〇万八千人の道路建設見直し署名数

 翌、1983年(昭和58年)9月13日。
 運河沿いを走る市道港線に面した、色内町1丁目の古い木造の一軒家を「小樽運河百人委員会」の事務所に借りる事ができた。
 今までなら保存派に建物を貸し出してくれるなど信じられないことが起きた。
 早速、電話(0134-32-0971)が設置された。
 
 顔見知りのこれまで小樽運河保存運動を担ってきた人、そして小樽運河百人委員会の委員に就いてくれた人、そして全く新しい、それまで知ったことのない顔の人人人で「小樽運河百人委員会」事務所は人いきれだけでも、熱っぽい。
 3面の壁にゼンリンの小樽市内各エリアの地図が全面に張られ、市内全域をローラー作戦で署名を集めに歩く班編制を、山口が大声を出して相談している。

 次から次に事務所開きと気遣って頂いた、差入れの食料や清涼飲料が届けられる。
 全く知らない顔の一般市民が玄関ドアを開けて、
  「百人委員会の事務所ってこちらですか?
と入ってき、
  「署名用紙を10枚下さい、私もいても立ってもいられないので、ご近所の
   署名を集めてきます。
と。
 皆、拍手で迎え事務所の椅子に案内する。
 これから約2ヶ月、こういうシーンが百人委員会事務所で繰り広げられていった。

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 小樽運河百人委員会事務所の奥のデスクには、署名活動に是非必要となって、結成総会でも提案された
  「河保存の将来像を、青写真を新聞折り込みで市内全戸に配布する。」
の版下原稿が早速作成されてあった。
  「小樽運河百人委員会アピール
   ー運河は小樽をよみがえらせるー
   運河保存と道路建設は両立可能
という見出しが躍り、版下の中央にはカラーで運河を埋め立てないで再開発されたイラストが配置されていた。
 そして、右下の道路建設代替ルート案とその断面図に目がとまった。

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小樽運河百人委員会提案の道路断面図

 どうしても6車線道路をという大道路主義の小樽市行政に対して、運河を埋め立てなくても6車線分をキープ出来るとし、かつ、10年小樽運河保存運動を懸命に担ってきた小樽運河を守る会会員らにとっては運河埋立ではないので賛同を得られる案だった。
 かろうじて運河景観を何とか維持しようとする、将来行政がいう交通量が予測通りでなく少なければ山側2車線を廃止し親水空間として再々度見直せる可能性を残した案だった。

 これまで、小樽運河保存運動側は、3つの代替ルート案を対案提起してきた。

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小樽運河保存運動代替ルート案
 
 そして、小樽運河保存運動は自身で実施した道路交通量予測を発表し、市が根拠とした道路交通雨量予測や過大に通行量を予測しているとし、小樽運河保の更に海側の市道港線の四車線化で充分交通量はさばけ、運河埋立をする必要はないと主張してきた。
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小樽運河保存運動派交通量予測
 
 それを小樽運河百人委員会アピール案は、大きく踏み込んだ。
 あくまで「対案提起」を試み続けた。
 行政と道路促進派のメンツを立てながら、運河埋立を避けることは可能だ、と主張した。 
 そういう断面図だった。

 正直、その小樽運河百人委員会案を出すのを迷った。
 が、市民の支持、とりわけ保守層にとって、ただ行政の施策に「反対するための反対運動」と映らぬようにして、如何に埋立前提の道路計画を見直させるかと訴えるものだった。
 西武の運河地区再活、小樽商工会議所首脳の方針転換、そこから始まる小樽市民の層としてのまちづくりへの登場という10年の小樽運河保存運動の結果を表現する断面図だった。
 市民運動としての小樽運河保存運動の発展の姿がそこにあった。

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 1983小樽市広報おたる

 しかし、一〇万人署名運動が推進される中で、10月15日小樽運河百人委員会アピールに対し同様サイズの「広報おたる号外」を全戸配布で対抗し、
 (1)道々小樽臨港線には6車線が必要
 (2)市道港線の4車線には幅30m(小樽運河百人委員会案では22m)が必要で、市道港線の現状からは不可能。
 (3)断行すれば、工事費増、倉庫や事務所の移転補償等で65億円の負担増
で「現実を無視した空論」と一層激しい対応であった。

 そこには、現時点での都市計画変更行政手続き上困難という、ただ一点での頑なな姿勢しかなかった。
 小樽運河百人委員会はこの広報おたる号外には、道路見直し一〇万人署名運動で応えていくと、一層署名活動に拍車がかかっていった。

 署名活動を終えたローラー作戦のスタッフが夜小樽運河百人委員会事務所に帰ってくる。

 「ご主人が市役所の方のお宅に飛び込んじゃって!
  でも、奥さんが自分や家族の分まで書いてくれたの!」
 「俺は、ごりごりの道路促進派の社長の経営する会社に勤務する人の家に入っ
  てしまって。 
  でも、ご主人も丁度帰宅していて、なんとご主人も奥さんも署名してく
  れたぞ。」

 「一見おっかない商店の店主におそるおそる署名をお願いしたところ、『俺は
  今までこの種の署名はしたことがない』と言ったけれど、自分だけでなく家
  族や店員にも署名を奨めてくれた。 」

 こんなエピソードの話に花が咲く事務所になっていた。

 各班ごと、各エリアごとの署名獲得数の棒グラフが壁に張り出され、皆その棒グラフに触発されて、署名用紙のボードを肩から提げて事務所から出発していった。
 お年寄りが、前回事務所を訪れ署名用紙を10枚以上も持って帰り、その署名用紙全て署名を頂いて、更に今度は20枚も持参して帰っていくのに、事務所スタッフや居合わせたスタッフは頭が下がる思いで見送る。
 商店街のお店のご主人が、お店で入店されるお客様に署名を求め、署名用紙を埋めて更に空白の署名用紙を求めてくる。
 署名をお願いするときに渡す「小樽運河百人委員会アピール」の枚数が足りるのかとなり、山口は「小樽運河百人委員会アピール」増刷の価格交渉を印刷屋と掛け合っていた。
 その印刷費を賄うのは、これまた市民へのカンパ要請だった。

 「小樽運河百人委員会」スタッフが、町をローラー作戦で署名集めに回っていることが町で話題になっていく。
 「もう、署名したよ。」
という言葉が、挨拶代わりの言葉になっていった。
 
 皆、10月までに、いや9月12日の「小樽運河百人委員会」結成から1ヶ月後の10月12日までに一〇万人署名数を達成すると燃え上がっていた。
 
 小樽運河沿線の道々小樽臨港線沿いにある「小樽運河百人委員会」事務所の灯りは深夜まで煌々と点っていた。



       この項終わり



 ●次
 ●現【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ●前【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ● 【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。