18_01. 小樽市発行「広報おたる号外」の内容の欺瞞性

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1983小樽市広報おたる号外

 小樽市は10月15日「広報おたる号外」を全戸配布、小樽運河百人委員会アピールに対抗してきた。 
 タイトルは、
  「道々小樽臨港線代替えルートは不可能ー小樽運河百人委員会アピールに答える
で、
 (1)道々小樽臨港線には6車線が必要
 (2)市道港線の4車線には、幅30m(小樽運河百人委員会案では22m)が
    必要で、市道港線の現状からは不可能。
 (3)断行すれば、工事費増、倉庫や事務所の移転補償等で65億円の負担増

で「現実を無視した空論」と、一層激しい対応であった。
 そこには、「現時点での都市計画変更行政手続き上困難」というただ一点での頑なな姿勢しかなかった。
 しかし、その「広報おたる」が折り込まれた朝刊の市内版には、
  「小樽青年会議所,『運河全面保存』の態度を決め,要望書をまとめる。
という記事が掲載され、市役所幹部や道路促進期成会幹部に冷水をかけてくれた。

 更に、翌10月17日、小樽運河百人委員会の代表幹事は、
   結成(9/12)から当日までの約1ヶ月で、市の人口18万人の
   3分の1を越える、6万5千名の署名が集まった
と発表した。
 市行政と道路促進派の動きに、小樽運河百人委員会は一歩も引かないという姿勢を即取った。
 小樽運河百人委員会は、この広報おたる号外には、道路見直し一〇万人署名運動で応えていくと、一層署名活動に拍車がかかっていった。
 
 それにしても、その広報おたる号外の「道々小樽臨港線代替えルートは不可能ー小樽運河百人委員会アピールに答えるー」の内容はひどいものだった。

 広報おたるの内容たるや、専門知識を持たない市民を欺くためのものでしかなかった。
 百人委員会が、アピールで掲載した代替ルート案の要点は、
 (1)そもそも道々小樽臨港線の六車線の大前提である「市の道路交通予測量」が
   あまりにも過大すぎる、と指摘した。
   市は昭和51年パーソンリップ調査を根拠に、その市内横方向交通量の総量
   を11万台/日とし、そのうち道々小樽臨港線で5万台/日と想定、六車線
   が必要の根拠として来た。
   しかし、小樽運河を守る会が実施した交通量は
     1万5千台/日
   で、小樽臨港線の設計基準交通量の28%、2車線分しかない。

   昭和35年の人口19万五千人から減少し更に衰退傾向にも拘わらず、市の
   人口は昭和58年が18万人なのに、二年後の、
     昭和60年には20万7千人、
     昭和70年には22万5千人
   と恣意的に想定し、それを根拠に六車線が必要としている。
   しかし、現実は、想定の「逆」になっていた。
   つまり、6車線が本当に必要なのかという大前提が、すでに崩れていた。
   仮に、5万台/日でも、百人委員会アピールで提示している
     海側四車線+山側二車線
   で充分にさばけるわけだった。

   しかし、広報おたる号外では、「道々小樽臨港線には6車線が必要」と繰り
   返して言うだけである。
   我々は、ただ安直に市が頑迷だといっているのではない、
   「データに基づき見直しを」と再考を促しているだけである。

 (2) その小樽運河の海側の市道港線の4車線化という百人委員会アピール提案
   に対し、市は、
     「4車線道路の基準幅員は30mであり、百人委員会の22mでは不
      可能」
   としている。
   ところが、運河を埋め立てて六車線道路をとする道々小樽臨港線計画は、
     「市側案の六車線の幅員は30mとし、6車線道路の基準幅員40m」
   を全くに満たしていない。
   行政側計画が基準幅員を満たさないでおきながら、百人委員会側提案が基
   準幅員を満たさないと主張し、恥の上乗り的批判に終始している。
   百人委員会が提案した4車線22mとする幅員は、
     市が採用してきた旧基準に則ったもの
   で、充分妥当性がある。

 (3)広報おたる号外では、市道港線の四車線化は、
    「倉庫や事務所の移転補償等で65億円の負担で現実を無視した空論
   としている。 
    が、
    ・港湾機能が勝納埠頭にシフトして、市道港線を走る臨港鉄道はほぼ未
     使用状態で市道港線の四車線化で現在の港湾機能に影響は与えないこ
     とを市民は誰でもしっているし、逆に倉庫港湾運輸業界は四車線化で
     交通がスムースになり、恩恵を受ける。
    ・代替えルート変更で、道庁のヘドロ処理費用、浚渫工事費用などを市
     が負担しなければならず、それらを含めると65億円と数字をだして
     いる。
     これは、市が長らく下水道処理を放置してき、小樽運河の浄化を放置
     してきたことを抜きにし、あわよくば道々小樽臨港線工事の一環でそ
     れを道予算で処理できるという濡れ手に粟の損得勘定だけであり、こ
     れまでの水道行政責任を隠匿しようとする。

 「65億円という数字」だけを取り出し、強調することで、市民に対し代替ルートを選ぶか、65億円支払いを選ぶかという、品性のない恫喝に近い選択をせまり、これが公的機関の行政姿勢かとその逸脱振りに呆れてしまう、百人委員会アピールへの「真摯な反批判」とは、なっていない代物だった。。
 とても、データに基づく真摯な批判ではなく、意図的な道路建設誘導の広報おたるだった。
 データ無視、行政責任無視の居直りキャンペーンちらしのレベルでしかなかった。

 道々小樽臨港線建設と飯田構想で、小樽の将来像や運河地区再開発の展望はどうなるのか、どう引き寄せようとするのか、を語ろうともしない。
 ましてや小樽運河を埋め立てて六車線道路を建設した際は、西武流通グループの協力を得られないことへの言及もない
 そして広範な市民の声こそを掲載すべき「広報おたる」が、行政理事者の一方的な主張だけを掲載する、広報の私物化と非難されて当然のものだった。

 このような行政・道路建設派の市民無視の姿勢は、次第に小樽運河百人委員会の中に、市行政の再考という姿勢変更は無理で、
  ・市長退陣
  ・市長リコール
という政治テーマに取り組むことを促していく結果しか招かなくなっていくのは必然となっていく。

 

18_02. 市議会、道が、国が、小樽運河問題に巻きこまれていく。


 1983年昭和58年
  9月12日 小樽運河百人委員会設立。
        代表幹事に、
          峯山冨美(小樽運河を守る会会長)、
          佐々木一夫・興次郎(喫茶店経営)、
          村上勝利(アクセサリーショップ代表)、
          長谷川伸三(小樽商科大学教授)、
          松田惇二(元水産漁業会社役員)
        の、5人を選出。 
       ・百人委員会として街頭行動、街頭アピール、街頭放送を実施。
       ・運河保存の将来像を、青写真を新聞折り込みで市内全戸に配布する。
       ・これによって十万人署名を推進・集約する。
       ・市民大集会を開催し確認。
       ・それを道議会開会前に道知事会見を求め要望書を提出す 
  9月13日 百人委員会の署名運動拠点事務所を、小樽運河沿線の色内1丁目、開設
  9月22日 小樽商工会議所記者会見:
       「代替え道路を整備し、運河埋立を避けようとの考えに到った。国や道のトップ
        も理解を示し、協力するとの感触を得ている」
        と述べ、代替え道路の建設を改めて表明し、具体的建設プランを初めて示し
        た。
       「この感触は、これまでの運輸省・建設省、道などの関係機関から同会頭が直
        接、間接に得たもの」。 
       「山側二車線・海側市道港線四車線で既に小樽運河の手前まで完成している道
        々小樽臨港線の車の流れに支障はないし、その案は専門家の検討を経たもの」
        と表明。
  9月24日 小樽商工会議所正副4会頭の一人、阿部暢副会頭(阿部建設社長)が、会頭
        に副会頭の辞表を提出。
        阿部社長は、「小樽の将来展望にたった場合、運河全面保存によって観光開発
        を重視すべきという川合会頭の運河埋立見直しを支持してきた。
        しかし、8月25日小樽商工会議所評議員会で、「但し書き」条項で道路建設
        見直し見直し姿勢を会議所首脳は担保したが、  
         「道々小樽臨港線建設方針を堅持」
        するとして以降、消極的になっていた。」(毎日新聞) 
  9月26日 市内全戸に配布する「小樽運河一〇〇人委員会アピール」と「道路建設見直し
        一〇万人署名用紙完成
 10月15日 小樽市,百人委員会アピールに対抗して、広報おたる・号外を発行、全戸に配
        付
 10月15日 小樽青年会議所(JC)、運河全面保存の態度を決め、要望書をまとめる 
 10月17日 百人委員会、9/12の結成から当日までの約1ヶ月で.市の人口18万人の
        三分の一を越える6万5千名
の署名が集まったと発表。 
 10月25日 百人委員会,市の発行した『広報おたる号外』の内容に関して
        公開質問状を市長宛てに提出
 11月10日 百人委員会、小樽運河杭打ち工事開始を12日に控え、緊急集会を花園町天理
        教館で開催、約一二〇名の百人委員会関係、市民が参加。 
        この日までに百人委員会事務局に9万3千の署名が集約されたことを発表し、
        参加者の目の前に積まれて公開された。
 11月12日 運河部分の杭打工事に着手
 11月19日 百人委員会が市に九万八千の署名を携え市長面談を求めた。  が市長は予算
        調整会議で姿を現さず、林助役と平野大が面会に応じ、
         「埋立工事の中止と埋立の見直し」
        を求めた。  
   


 ・・・ついに小樽運河に杭打ち工事が始まった。
 ついに、11月12日、小樽運河の道路建設の地盤工事・杭打ち工事が開始し、その日のTVニュースでは、峯山会長の
  「やめて下さい
という悲痛な声が流れた。
 年末にかけて180〜200本の杭が打ち込まれていく予定だった。

 流石の峯山冨美会長も、
  「先が見えなく、険しく、難しい。
   市長は頑迷、知事も打開のイニシアティブを取ろうとしない。
   知事も揺れているのではないだろうか。
   私自身、元気を出したり、気落ちしたりの繰り返し。」
と胸の内をあかしていた。

18_03.  小樽運河百人委員会からの「ゆさぶり」策

 だが、その杭打ち工事開始前後、百人委員会サイドには横路知事周辺から願いとも訴えともとれる声が漏れて伝えられていた。

  「知事が埋立見直しを言明した場合、それが受け入れられるような状況を地元の
   小樽で作ってくれなければ、動きようがない。」 
  「保守の側の人たちの中から、保存の声が上がることは結構なこと。小樽商工会
   議所も運河保存というで、もっと強い姿勢を取ることはできないものなのか、
   財界にはそれだけの影響力があるのだから」  

 この知事周辺から漏れてくる考えにこそ、百人委員会の採るべき方針があった。
  「知事埋め立て見直し発言を受け入れる地元環境づくり
であり、
  「地元経済人が『もっと強い姿勢』を取る
だった。
 道知事による「埋立見直し発言」を引きずり出し、それに地元経済界、とりわけ保存に転換した小樽商工会議所首脳がもっと強い姿勢をとる、その環境づくりを誰がどう担うのか。
 それこそが百人委員会の役割だった。
 
 そのような環境を作るための「揺さぶり」策が問われていた。

 実は、百人委員会内部では、運河埋め立て見直し署名が一〇万人に達し、それを軸に志村市長に運河埋め立て再考を促しても、それに応えてくる気配は見えてこなかった。
 そうなった場合に、どのような方針を立てるのか、で内々で論議はしていた。 
 論議は、必然的に
   志村市長の政治姿勢を問わないと打開できない、
   市長退陣要求か市長リコールしかない

という話になっていく。 

 山口と私の間で、そのリコールに関し意識的に百人委員会の中心メンバーの前で敢えて「論争」にしていく。
 その論議を、百人委員会の中心メンバーに聞いてもらい、それで、それぞれの考えを整理してもらう、という手法だった。  

 「いずれリコール運動を覚悟しなければならない」
 
と山口は言い、私がそれに反論する形をとった。

 勢いで感覚的に言うのはいいけれど、リコールを簡単に考えている。 
 そもそもリコールをかけて成立したとき、リコールをかけた側が次の市長候補を用意していないと、無責任な話となる。  
 その候補を皆さんは考えているのか。
 そもそのその候補は、立候補を承諾するのか。
と問われる。
 
 そういう周到な準備のないままに、ただリコールを叫んでも、それはリコール成立の可能性を、逆に少なくする。  
 又、運河問題一本、一課題だけで、リコールをかけても成立するのか否かは、大変微妙なところではないか?
 
 確かに、道路見直し署名は一〇万人を越えた。 
 しかし、市長の姿勢を問うとなると、その一〇万人署名がストレートにリコール票となるかが、逆に私たちには問われる。 
 今の段階でのリコール表明をするのは、道路促進派を動揺させるというプレッシャー的に使う、アドバルーン的な意味合いで使用すべき、ジャブだ。 
 本当の勝負のリコールには、運河問題だけでなく他の様々な行政テーマで市長姿勢の頑迷さが徹底的に暴かれなければならないだろう。
 
 何とか、運河問題の決着を引っ張るにいいだけ引っ張る。
 来年の『小樽博』の結果が出るまで引っ張って行き、このままの盛り上がりに欠ける小樽開催なら、不成功に終わって赤字決算で終わる。
 つまり、様々な市政課題での志村市政への不満を一挙に組織するかたちでないと、リコールの確実性を市民にアピール出来ない。
 リコールの確実な成立の目算抜きでは、次期市長候補擁立も成功裏には行かない。

 今の段階で掲げるリコールは、完全にブラフだ。

 小樽運河保存運動を、小樽運河百人委員会運動を舐めきっている、国、道、西武、箕輪登代議士と代議士が所属する自民党田中派、道知事、社会党、自民党道連、港湾・倉庫・運輸業界の全部を、揺さぶり、あぶり出していく。
 そのために、
  『やむにやまれず、市民に残された手段はリコールしかない』
という流れにもっていく。」
 
と、話し合った。
 山口は、私がそういうのを待っていた。
 山口自身もその段階では、「ほのめかし」戦術だった。   
 11月段階では、そのくらい冷静に計算し市長退陣要求やリコールを考え、臨んでいた。 
 
 つまり、一〇万人署名にすらも再考姿勢を見せない志村市政、道路促進派へのジャブとして出されたものだった。  
 志村市政、道路促進派のみならず、西武、箕輪登代議士、道庁や国の省庁がそのリコール表明で、動揺し動かざるを得なくするために、揺さぶりをかけたわけだった。 

 案の定、道路見直し一〇万名署名の獲得という重さが相まって、
   道路促進派には「動揺と危機感」を抱かせる
ことになる。  
 更に、国・道も含め関係者の様々な対応策を引き出していくことなっていく。
 そして、
 百人委員会は、人口の過半数を越える道路みなおし署名をもって、市長に再考を求めた。
 が、聞き入れない場合には市長の退陣を求める。
 それでも駄目なら、リコール運動に取り組まざるを得ない、
と初めて「リコール」を言葉にする
 
 市長は相変わらず「埋立見直しはありえない」と言明していた。
 もはや、交渉で市長を翻意させるのは無理だった。
 
 しかし、市側幹部が 
  「どの程度工事をストップすれば、リコールを考え直してくれるのか」 
と漏らし、
  「リコール発動事態への進捗に苦慮している」
と漏れてくる。
 
 こうして、小樽の町は、運河問題とその今後を抱えながら、総選挙になだれ込み、表面的には政治休戦状態となっていく。

 しかし、小樽市にとっては更に頭の痛い問題が、年明けに控えていた。
 1984年昭和59年6月〜8月の地方博覧会・小樽博の開催問題だった。
 道庁サイドからは、  
  「博覧会を控えて小樽はこんな状態でいいのか。   
   リコールというのではなく、
   市長と話し合って解決するわけにはいかないものか」 
との意見も伝えられていた。 

 実は、「小樽博」を地元に持ってきたのは、直前に総選挙を控えた候補者、小樽選出衆議院議員・箕輪登代議士だった。
 小樽博が成功するとそれを地元に持ってきた自身の政治的成果となり、毎回厳しい選挙をかろうじてクリアしてきた選挙地盤強化になる、と思っていたのだろう。 
  「小樽博を持ってきたのは私だ。
と選挙戦で実績を主張できる、と踏んだ箕輪登代議士の誤算だった。

 その箕輪登氏も、まさか小樽博開催を誘致した1年前の1982年(昭和57年)段階では、
   小樽博自身が小樽運河保存を巡って政治的な位置に押し上げられる
とは思ってもみなかった。
 市長リコールで揺れている上に、小樽博の成功はあるのか、とそれを持ってきた箕輪登代議士自身が、その責任を問われはじめていた。

 箕輪登代議士は、是が非でも小樽博を成功させなければならなくなっていく。
 自爆、自縛だった。

18_04. 12月18日第37回衆議院総選挙と箕輪代議士

 1983年昭和58年、12月18日の第三七回衆議院選挙は、箕輪代議士は薄氷を踏む選挙となった。

 小樽が選挙区の北海道四区(当時は、旧中選挙区)は、横路知事後継と売り出す竹村泰子(無所属)、町村信孝(自由民主党)、斎藤実(公明党)、小林恒人(日本社会党)と四人の当選は確実視されていた。
 残る一議席を、小樽出身の箕輪登(自民党)と児玉健次(日本共産党)が激しく五位争いをし、自民党新人の佐藤静雄がその二人の争いの漁夫の利を得ようと、激しい戦いが繰り広げられていた。
 
 倶知安を選挙地盤とする自民党新人の佐藤静雄候補は演説でも
  「小樽運河保存
を叫んでおり、何度も百人委員会関係者を訪れて支持を訴えてきたが、百人委員会は不偏不党と断った。
 横路知事後継と売り出す竹村泰子(無所属・社会党系)は、
  「知事は小樽運河を守ります。」
と叫んでいた。
 横路道政を支える日本社会党候補・小林恒人も小樽運河保存を言わなければならなかった。
 公明党がもっとも苦しい立場におかれ、自民党と野党の間に挟まれ苛まされる。

 開票日、TV選挙速報に釘付けになった。
 上位四人の当選など関係なかった。
 第五位、誰に当確が打たれるか、と深夜までTVの前に釘付けになった。
 選挙結果は、辛うじて箕輪登氏が最下位当選(114,980票)した。
 が、次点の共産党・児玉健次候補と五千票の差の僅差しかなかった。
 
  当 竹村泰子 無所属 (革新系) 新 185,161票 19.3%
  当 町村信孝 自由民主党   新 171,814票 17.9%
  当 斎藤実  公明党     前 150,502票 15.7%
  当 小林恒人 日本社会党   前 140,623票 14.7%
  当 箕輪登  自由民主党   前 114,980票 12.0%
    児玉健次 日本共産党   新 109,206票 11.4%
    佐藤静雄 自由民主党   新  87,377票  9.1%

 激しい選挙戦が終わって挨拶回りをする箕輪登氏は、経済界要人の後援者のところで、
  「リコールで、革新市政ともなれば小樽にとってもマイナスだ。
と、必死に訴えたという。 
  「革新市政の可能性」を持ち出さざるを得ないほど、自身の地盤は動揺しており、それを危惧するだけだった。
  「とにかく地元で波乱を起こしてくれるな
と、開票日の翌日選挙事務所に当選祝いで駆けつける後援者や支援者に、そう言う箕輪代議士の自分勝手さに、呆れかえった顔をして帰る支持者が多かった、と初当選前からの支持者で飲食業界の票のとりまとめをやっていた父は、選挙事務所から帰ってきて、困った顔をしていた。

 そして、意外なことを私に言った。
  「手を汚してでも運河問題を何とかしたい、って気は先生にはないな。
と。
 私は、
  「地元選出自民党議員として、逃げること出来んよ。
   この調子じゃ、道路促進派と運河保存派の間で股裂き状態になるな。
   代議士自身が、運河問題に確固たるものを持ってないから。
と言ってあげた。
 苦笑いする父がいた。 
 
 そして、この頃山口と私は大野副会頭の仲介で川合一成会頭の自宅に人目を避けて話し会いにいく関係になっていた。
 多忙で、アポの時間にお宅に伺っても会頭を待つことが多かった。
 その間、川合一成会頭夫人とよく会話した。
 夫人は第2回ポートフェスティバルから素人出店(でみせ)に出店されていて、ポートフェスティバルを大変評価されていて、話は弾んだ。
 そして夫人は言った。
  「夫は『蛇』です。」
  「は?」
  「蛇イコール執念深いと言われますが、そういう意味ではなく一度決めたら絶対曲げませんし、ぶれません、そういう意味で信念のある『蛇』です。」
 我々に、道路建設と運河保存とで拮抗する小樽商工会議所の中で、会頭の方針転換はぶれないから安心しろ、というサインだった。
 夫人は、富山県砺波運輸を再建し、上場企業に育てあげ、衆議院に打って出た綿貫民輔代議士の妹だった。
 小樽運河保存運動が高揚を迎えたとき、綿貫代議士は自民党田中派に所属していた。
 箕輪登代議士も自民党田中派だった。 
 これから国を動かすよう働きかけなければならない段階にきていて、自民党ネットワークを複数用意している会頭に、感心したものだった。
  

18_04. 小樽運河百委員会、国に向かう 

 正月三が日が終わり、松が取れない内から小樽運河百人委員会は集まった。  
 
 実は、正月三が日が過ぎた頃、東京で西武流通グループの堤清二オーナーが年末年始挨拶に合わせて、小樽運河問題で動いていると小樽商工会議所首脳から聞かされた。 
 堤代表が、高校の先輩後輩関係で懇意の水野清建設大臣に「小樽運河は全面保存すべきだ」と働きかけた結果、
   水野建設大臣が埋立を主張する市側の真意をただそうとなった
という情報が入っていた。
 すぐ、市側も埋立の事情説明を国側にしておく必要に駆られ、志村市長上京となる。  
 
 なんと志村市長は、
   1月10日前後、
   1月12〜13日、
   1月20日前後、
と慌ただしく一ヶ月に3度も上京した。
 とりわけ1月12日は、市長周辺も「予定外」というほどで、箕輪登代議士とともに水野建設大臣に会っていた。 
 この志村市長の上京と水野建設大臣への面会情報は、小樽運河百人委員会側に逐一入っていた。 
 
 「まず動いたのは志村市長」
か、と会議の中で考えていた。
 百人委員会の「 やむなくリコールも考えざるを得ない」とする揺さぶり作戦は、総選挙が終わって、いよいよあらゆる勢力を様々は思惑をもって動かしていっていた。
 当然、志村市長の運河埋立前提の陳情に対抗し、
   小樽運河百人委員会側も両大臣に陳情に行くべき
とスタンバイした。 
 年末、道知事が、志村市長と川合会頭を呼び、道々小樽臨港線工事中止を持ちかける、という情報が小樽運河保存運動サイドに入る。



   道サイドは、
   「年末まで杭打ち工事は進めるが、以後はその杭を水面下5mに
    打ち込み
沈め、運河の地盤強化にしてしまえば全面保存に支障
    
ない」
という考えだ。
 

 という情報が、年末に百人委員会サイドに入ったが、知事はまだ動いていなかった。
 ここまで来たら、国にも道にも、
   揺さぶるにいいだけ、揺さぶりをかけ続けなければならない
という顔を、山口以下百人委員会の中心メンバーは、皆していた。 

 西武流通グループの堤清二代表の斡旋で、1/17、百人委員会は代表幹事の峯山・村上両氏ら七人が水野建設大臣、田川自治大臣への陳情がきまった。  
 同日、小樽商工会議所首脳も百人委員会と表面的には別に、水野建設大臣、田川自治大臣に陳情に向かった。

 1984年(昭和59年)1月17日、午前に小樽商工会議所の川合会頭、大野・佐藤副会頭が水野建設大臣と約1時間も面会できた。
 分刻みの大臣が、1時間も会談した。
 大臣:(1/12)市長と箕輪代議士が着た時は


   『運河問題で地元に問題は無く、地元政財界あげて道路建設を希望している』
    ということだったが、どうなのか?
と聞いて来、小樽商工会議所首脳は、今の小樽の実情を説明し、運河埋立を避ける代替ルート案を説明した。
 建設大臣は、そこで直接横路道知事に電話をかけた。
 

  大臣:小樽商工会議所の方がきているが、この前来た市長の話とは違う。
     道としてはどうなのか。
  知事:窓口の担当部署以外は小樽運河は保存すべきだ、と言う考え。
     運河に6車線道路は必要ないと考えている。
     情勢は変わった。
  大臣:それなら、知事に任せるから市や会議所側と話し合ってまとめて
     ほしい。
となった。
 大臣室に建設省幹部も呼ばれる。
 代替ルート案には「技術的に可能」と幹部は答え、
  大臣:運河埋立は地元からの手続き積み上げてきたもので、建設省とし
     て埋め立てようとしているわけではない。
     既に工事が杭打ちの段階に進んでいることから、変更するという
     のなら早いほうがいい。
と結論づけた。
 このほか、建設省陳情では、
 ・長橋バイパス建設問題
 ・運河埋立見直しの場合の、それまでの建設工事費の問題
が、話題になった。

 小樽市内の長橋地区の国道五号線(2車線)の頻繁の交通渋滞を解消のため昭和49年に長橋バイパス建設計画があり、事業認可され予算もついたが住民の反対で行き詰まり、昭和56年に改めて都市計画決定し、昭和58年から家屋の立ち退きが始まっていた。 
 完成はかなり先だったが、運河を埋め立てて札幌側から伸びる道々小樽臨港線と稲北交差点でドッキングする計画だった。
 要は、行政側からは小樽市内の交通体系整備上、一体のものとされていた。
 だから、


 「道々小樽臨港線建設が運河目前まできたからこそ国も長橋バイパスに予算をつけた。
  それを運河埋立を避け道々小樽臨港線建設を変更すると、長橋バイパス建設に支障が生じる。」
道々小樽臨港線建設推進の理由にしていた。
 運河埋立を反対するには、ここへの明確な反論が必要だった。
 建設大臣は、


 「長橋バイパスは運河問題と関係ない。
  埋めてを見直しても長橋バイパス建設予算をつけないというようなことは
  しない。」
と答えた。
 また、運河埋立見直しの場合の、それまでの建設工事費の問題に関しては、


 「(道々小樽臨港線建設事業は、国が三分の二・道が三分の一負担)の予算
  の返還の有無については、この段階でまだ仮定の性格の問題、曖昧な点が
  あるが、見直しが遅れるとすでに使った予算の返還を求めることもあるか
  もしれない。
  が、今、ストップすれば、そうしたことはない。
 
と明言した。
  
 会議所首脳三人は、このあと田川誠一自治大臣に会った。


  大臣:小樽運河のことは知っている、あれは残すべきだ、ヘドロが溜ま
     ったままにしているのは行政の怠慢だ。
と受け止める姿勢を示した。
 この後、両大臣は百人委員会の峯山・村上代表幹事ら七人の陳情を相次いでうける。
 
 国も昭和59年度の予算編成の山場の時期であるにも関わらず、建設大臣、自治大臣とも20分の面談をし、両大臣の対応は小樽商工会議所首脳への対応と同じ内容だった。
 ただ、9万8千の道路建設見直し署名に水野建設、田川自治の両大臣は驚きの表情を浮かべていた。
 一方、一月に三度上京し陳情した志村市長は、記者に対して、 
  市長: 保存派の陳情もあったが、国としては運河問題は地元の問題とす
     る態度で、埋立を見直すとか、道々小樽臨港線建設の予算をつけ
     ないというような考えは国にはない。
     (運河を埋め立てての)道々小樽臨港線建設は大丈夫と思う。
としか記者には答えなかった。
 
 そして志村市長は建設省から9万8千の署名用紙のコピーを取り寄せ、選挙人名簿との照合を指示する。
 そのため10人の職員の加えて10人のアルバイトを採用し月末から照合作業をするとした。
 
 ついに道知事・市長・会頭が東京で会談する。
 そして1月20日志村市長はこの1月で3度目の上京をする。
 大蔵原案内示を受け復活折衝陳情のため、陳情に上京。
 同じく陳情に上京した横路知事知事、それに小樽商工会議所会頭川合一成氏が都内で会談する。
 会談では知事は
  「何とか合意できないだろうか」
とすると、市長は
  「規定方針通り進める」
とし、会頭は
  「運河は残し、道路は別ルートにできないか、他都市にないユニークな再開発をしたい」
と語り、平行線のまま。
 知事は、市長に
  「運河問題でさまざまなことは起こり、道ではあなたのことを心配している。
私も泥を被る
   つもりだから、何かいい方法はないですか」
と「泥を被る」という言葉を2〜3度繰り返し、
  「私がこういうのも建設相の意向を受けてのこと」
と市長の返事を促した。 
 志村市長は困惑した表情を浮かべたまま応えず。 
 
 以降数回知事と市長の話し会いはあったが、知事の説得に市長が気色ばむ場面もあった。

 一方、9万8千人の署名用を選挙人名簿と照合するという事態に、百人委員会は勿論だが全マスコミが批判をする事態になっていく。
 当初は、市側の署名への選挙人名簿照合に激しく抗議すると逆に「署名に自信ないのか」と逆キャンペーンを張られると静観姿勢でのぞんでいた。
 しかし、あまりの市の物々しさに態度を硬化していく。
 そもそも10万人署名は「道路建設見直し」の声をどう行政に表現するかとして「署名」という形をとっただけだった。
 従って、家庭や企業まわりで署名頂く際は押印もして頂いたが街頭での署名はサインだけというスタイルで、その趣旨から未成年も当然可とし、あるいは本人にその意思があれば家族の代筆もOKとし、市内の街頭署名では近隣の町の住民や札幌市民が署名してもらうのを厭わなかった。
 更に、道々小樽臨港線の事業主体は「北海道」であり、署名は道に向けてのものとアナウンスしての活動で、それを道サイドの了承を得て、建設大臣に提出していた。

  「そもそも、市に提出した段階ではなく、法的手続き(ex.直接請求)によらない
   署名を厳密に照合する点検するのはプライバシー侵害だ。」
と百人委員会は強く反発していった。
  「完全に権力者の振る舞いだ、やはりリコールしかない。
とする意見が、百人委員会のなかで多数になっていく。

18_05. 自民党道連の反転攻勢・巻き返し


 これまで自民党と運河埋め立て道路促進派を形成したた公明党道本の野村光雄本部長が
  「運河は埋め立てと決まっているが、9万8千という埋め立て反対署名は無視
   できない。
   市長リコールの動きもあり、改めて関係者の意見を聞き,党としての態度を
   決めたい」
と、埋め立て見直しに動く気配を見せる。

 このような事態に、自民党道連は危機感を深めていった
 水野建設相や田川自治相の発言が市内を駆け巡る。
 それが道内政党に逆流し、建設相らの発言や考え方は
  「保存派に理解を示した
と受けとれられてくる。
 運河問題は保存派が攻勢になっている、とする市民的理解が広がっていく。

 自民党道連は、予断を許さない情勢に入った。
  久田恭弘・自民党道連広報委員長・小樽選出
  石山直行・自民党道連幹事長代行・留萌選出
は、即刻上京する。 
 1/23水野建設相に会い、道連の考えを説明、自民党道代議士会にも臨み支援を求めた。
 道連幹部のこの動きは、保存派や知事の一連の動きを察知し,道連役員会で
  「今更事業を見直すことはあり得ない話。
   道連としてきちんと見解を表明するべき」
との判断。
 久田道議は
  「それまで知事は、慎重に審議した現計画は最善のモノと議会答弁している、そ
   れで自民党道連は運河問題は大ごとにはならないと判断していたが、1月のこ
   の知事の動きは『違うじゃないか』となった」
と。 
 自民党道連幹事長代行・石山直行氏らは、水野建設大臣に、
  「道々小樽臨港線建設は市議会、道議会も認め、現に工事に着手している。
   小樽が混乱しているわけではない、大臣としては道政に介入されることはない
   と思うが、計上している算通り進めて欲しい」
と要請。
 大臣は、

  「わかった」
 
とした上で、
  「(道の事業だから)知事が決めること、ここへ持ち込まれても困る」
 
 更に、志村市長後援会長が川合小樽商工会議所会頭という関係に触れ、 

  「小樽はどうなっているんだ、こんなところは他にない」
 
といい、当惑した様子。 
 石山道議らは国鉄赤字線問題対策の代議士会でも運河問題を説明、同党本部の藤尾正行政調会長、金丸信総務会長にも趣旨を伝えるよう工作する。

 1月27日、小樽市と百人委員会は会談を持つ。

 ところが、志村市長は昭和54年度小樽市予算編成会議で出席せず、林正大助役、平野大秘書課長が応対し、市の再考姿勢は示されず、物別れに終わる。
 百人委員会は
  「近く、志村市長リコールのための『準備委員会』を設立する。
と声明を発表する。

 百人委員会の中で話が持たれていた。
 リコール準備員会としたのは、志村市長は昨年春地方選で三選されているため、地方自治法でリコールは「当選から1年後」にしか出来ず、それは1984年昭和59年4月以降になるということにもあった。
 さらに、自民党道連の反転攻勢と国、とりわけ建設大臣への陳情という名の政治的圧力、その二日前の1月25日に開催された、小樽商工会議所常議員会でのこの自民党道連と連動した道路促進派、菅原春雄・運河地区再開発特別委員会長や木村円吉・前会頭らの巻き返し工作に対し、百人委員会人はどう対処するか、と話し会いは深夜まで続いた。
 
 知事がいよいよ直接仲介に動き出す、という局面だった。
 建設大臣、自治大臣、自民党道連、道知事サイドと、ありとあらゆる政治勢力が表舞台に登ってきていた。
 その上での百人委員会側からの更なる揺さぶり策が、
  「リコール準備委員会」
設立発言だった 。

 その二日前の1月25日の小樽商工会議所常議員会の議題は、昨年の正副四会頭の方針転換後の常議員会で、決着つかないままの昨年8月常議員会確認である、
  「道路建設の立場は堅持する。
   ただし、確実な予算が伴い、行政とのコンセンサスが得られる代替の道路案があれば、
   検討するのにやぶさかでない。
との条件を付した「但し書き」条項を巡る問題だった。
 この小樽商工会議所の「埋立見直し」の余地を残す条件部分を、道路促進派は外すことを目論んだ。
 道路促進派、菅原春雄・運河地区再開発特別委員会長や木村円吉・前会頭ら、港湾倉庫業界重鎮はこの「但し書き」条項を外し、
  「会議所は道路促進で一本化している。」 
として、国・道に対して地元一本化の証を立てなければならなかったのである。
 しかし、道路促進派の思惑を察知した川合一成会頭は常議員会を欠席し、結論を出させない対応をする。 
 運河埋立道路促進派の動きは、見直しのプレッシャーを強く受けていた市側を支えるためであった。 
 以降、虚々実々の動きが道路促進派、運河保存派で展開される。

18_06. 調整役としての箕輪登代議士の登場


 逃げ腰で、自らの手を汚さず、とにかく地元は平穏でいてほしいとする箕輪登衆議院議員(自民党田中派・小樽選出)が、否応もなく表舞台に立たされることになる。

 1月29日、箕輪登代議士の花園町の事務所で小樽の政財界のトップ会談が隠密裏に開催された。
 出席者は、箕輪登氏に、
 ・志村和雄・小樽市長
 ・山吹政一・自民党小樽支部長
 ・山本 勉・小樽商工会議所議員会長 
 ・川合一成・小樽商工会議所会頭
 ・大野友暢・小樽商工会議所副会頭
 ・佐藤公亮・小樽商工会議所副会頭
の七人だった。
 会談は非公開だったが、それをかぎつけた新聞記者が会談後、箕輪代議士にコメントを求めた。
  「小樽の政財界の対立を解消するために、私は調停者の立場で臨んだ。
と内容は明かさなかった。
 1月29日、2月7日、2月12日と、このトップ会談は続く。

 この会談のために動いたのは、横路道知事だった。
 道議会では 自民党道連の激しい巻き返しと執拗な知事サイドへの政治的圧力や工作が続き、「建設大臣らの考えは保存派に理解をしめしていた」という理解が地元小樽や道議会では広がっており、その一方で公明党道本・野村光雄本部長の「運河埋立見直し」発言で揺れていた。
 百人委員会の
  「近々『リコール準備委員会』の設立表明
も知事サイドには当然入っていた。
 知事としても予断を許さない情勢にあった。 

 1984年(昭和59年)1月31日、横路道知事は月末の記者会見に臨んだ。
  「情勢が変わってきている。 
   地元選出の箕輪氏に地元の合意を図るよう要請している。」 
と発言した。 
 更に、知事は
 
  「大蔵原案内示を受け復活折衝陳情のため、志村市長は1/20陳情に上京。
   同じく陳情に上京した横路知事知事、それに小樽商工会議所会頭川合一成氏
   の三人で都内で会談した。
 
と、当初内密にとした1月20日の三者合意にも拘わらず公表し、それをもって

  「箕輪登氏の調定役の登場のお膳立て、流れを知事こそがつくった」
 
とアピールする、政治家・横路の点数稼ぎ記者会見だった。
 
 1月20日以降の自民党道連の執拗で強硬な巻き返し工作を知事にしてきており、もはや知事サイドは

  「秘密にする必要もない」
 
と判断し公表したといった。
 が、敢えていう必要はない話だった。

 (1)埋立見直しは、自民党道連の方針転換を意味する。
 (2)それをさせるには、次期道連会長候補である箕輪氏の影響力を借りるよりない。
 (3)そのためには、箕輪氏に運河保存問題の「花」を持たせる
 
との判断が、知事サイドにあったからだった。
 結果として、埋立見直しとなれば「花」は誰でもよいとする小樽商工会議所サイドの感触、建設相、建設官僚、自治相の感触も含め、箕輪氏で埋め立て派を抑えられないかとする期待が知事サイドに漠然とあった。
 しかし、漠然は所詮漠然でしかない。
 
 知事が考える箕輪登氏への「花」など、いわゆる箕輪氏を「小樽の身内」とみる道路促進派は、まったくその様な知事の思惑など無視し、逆に箕輪氏の選挙基盤の弱さをついて埋立・道路促進で圧力をかける、だけだった。
 調定や「花」どころか、せいぜい「板挟み」が箕輪登氏には関の山だった。
 知事サイドの完全な誤算だった。

 結果的に、知事の働きかけで開催された小樽政財界のトップ会談は、その後計三回ほど開催されたが、肝心の運河問題では平行線で終わった。
 
 各回毎にトップ会談の情報は百人委員会人側に入ったが、結局箕輪登氏は
  「調停者」
の役回りは無理だった。
 箕輪登氏がしたことと言ったら、通産省事業「コミュニティーマート事業」を地元小樽に導入するという提案するだけ、結局自分が昨年持ち込んだ「小樽博」開催を成功させるために、市と会議所を握手させたいだけ、だった。
 箕輪登氏は、結局この三回の小樽政財界トップ会談で、最初は道路促進派と運河保存派の双方の意見を聞き調定役振りを見せたものの、以降は志村市長を牽制する一方運河保存派を説得するという振る舞いに終始する。
 市長については、

  「市長が頑固だから運河問題が今のようになっている。普通は後援会会長(川合
   一成小樽商工会議所会頭)が言うことには耳を傾けるものだが、もっと会頭と
   話し合うべきではないか」
 
と言い、その上で会議所側への説得に回る。

  「 会頭らの言うことはわかる。
   しかし、運河埋立とその工事手続きや工事がここまで来ていてはもう
   遅い。
   市長が考えを変えない限り、どうにもならない、会頭らが矛を収めて
   くれないか。
   (水野建設大臣や横路知事は)よけいなことをしてくれた。」
 
という始末だった。 
 
 2月1日、公明党道本部,埋め立て推進路線を変更し,運河全面保存へ方針転換することを決定する。
 
 2月2日、自民党道連は、公明党道本の小樽運河保存運動全面保存決定に対抗し、運河埋め立て・道路建設方針を堅持することを再確認と発表し、小樽市議員会長の高橋靖茂市議(自民党)が自民党道連役員会に市長を伴い、陳情する。
 更に、志村市長を議員会に呼び対応策を協議していた。
 10万人署名の選挙人名簿との照合もマスコミにまで悪評を買いながら、やめる気配するらなかった。

 結局、国も道も期待した地元小樽選出の自民党代議士・箕輪登氏の調定役はまったく役に立たないで終わった。
 第三回最終回の2月12日、小樽政財界トップ会談を終わるにあたり、箕輪氏は、

  「道に考えがあるなら、知事が小樽市にボールを投げるべきだ。」
  「運河問題は行政の問題であり、行政の対応に期待する。
   行政の問題に、私がどうこう言う筋合いのものでない。」
 
とコメントをして終わった。

 これが、小樽選出の衆議院議員のコメントだった。
 知事は散々ボールを小樽市に投げ、行政だけの問題では解決の糸口もないので、トップ会談がセットされたのに。
 トップ会談を主宰した政治家とは信じられない発言で、調定役としては平行線で終わったことへの、対外的に言い訳にすぎなかった。

 1回目のトップ会談が終わった直後の1月31日、箕輪氏は青年会議所の7〜8人の幹部を事務所に呼び、

  「運河という素材を『まちづくり』に生かさなければならないのだ
   が、市にはその適応力がない。これは運河問題にとどまらない。
   小樽が分裂し、騒ぎになるのは困る。」
 
と、自らの選挙地盤の弱さを訴えをしていた。
 同じく2月3日には、百人委員会の代表と面談し、
 
  「道々小樽臨港線を建設する運河問題は道の事業なのだから、
   リコールを市長にむけるのはおかしい。」
 
という、子供のだだっ子のような論理で、百人委員会を説得しようとした。

 そして、この箕輪登調定役の市内政財界トップ会議の三回の間に、衆議院議員・箕輪登氏の地元秘書のトップ・高田美實氏(不動産業)が籔半に来店し、父と二階座敷で内密で話をし、帰っていった。 
 
 店が終わると、父から呼ばれる。
  「箕輪先生が、お前と運河問題で話し合いたいと言って来ている。
   明日夜、先生の事務所に俺が付きそって行く。」
と。
 ついに、箕輪登代議士から、蕎麦屋の息子にも直でお声がかかったわけだった。

 学生時代、防衛政務次官時に次官室に父を迎えに行って対面して以来だった。 
 第三回目の市内政財界トップ会議前に、いよいよ詰めの段階で、それにむけた情報収集に、私を使おうということか、と腹をくくった。
 
 翌日、父と行くと、広い応接間に箕輪氏、地元秘書・高田氏、中畑市議以下自民党小樽支部役員四〜五名が箕輪氏を中心に座り、応接テーブルを挟んで、わざわざ距離をとって私ら父子が対面で座るようセットされていた。 
 私は、「今日は、父が私の紹介者だ」
と言わんばかりに、わざとその中間の椅子を父に奨め移させた。 
 高田氏がそれを見て笑った。

  「こんな距離感なら話が見えません。近づいていいですか?」
 
とやんわり言うと、中畑市議がにやりと笑いながらにらみ返してき、最初からあまり刺激しない方がいいかと、その場に座る。
 

  「太平洋の両岸で、話すというのですか?」

と、言ったが皆さんにはその意味が通じなかった。

 これはまともな話にはならん、まともな話を求めてないな、と判断して逆に楽になった。
 学生運動で、大学理事長が学生運動指導部をこうやってわざと理事長室で距離をつくり、上下関係を誇示しようとした。 
 にじみ出る権威や風格・品格がない人物が、こういう姑息なテクニックを使うものだった。
 今でもまだそういう方がいる。 
 そういう際は、止めるのを無視し、椅子を抱え上げてすぐ傍におろし、近間で向かい合って話をするようにしている。
 学生運動で逮捕されたときの刑事二名組での取り調べを経験していた。
 「おどし役」と「泣き落とし役」との役割を二名で分けてやるのと同じで、箕輪登代議士が蕎麦屋の息子だと軽く見て抑圧的権威的に出て保存運動サイドの人的情報を求めてき、高田氏が説得口調でそれに応えるよう、誘うというスタイルだった。

 口を切った箕輪登氏の質問は、峰山冨美会長以外の保存派の中心メンバーを特定したくて聞いてくる、というあまりにも低レベルの質問に終始した。
 JCや後援会の息子たちなどを集めれば収集出来る、情報だった。
 そのレベルのことで呼ぶということは、情報収集が問題ではなく、要は圧力がけが目的でしかなかった。
 そのため、秘密めいた空気で複数の人間を周囲に配置し、

  「俺が、大臣や知事に依頼されているのでな、それで来てもらった。
   そこですべてがきまるのであって、市民運動で決まるなどと思う
   な。」
 
と。
 内心笑ってしまった。
  「どのくらいの覚悟と、準備と、
   その落としどころを百人委員会は考えているのか
などを探るための話ではなく、まったく私をなめきった質問でしかなかった。

 語れば語るほど、箕輪登氏がしてくる話は益々レベルが落ちていく。
 田中首相の自宅に出入りできるのを威張り、まるで田中派の重鎮のように誇大に話をしてくる。 
 権威づけにする話のレベルが酷かった。 
 着ているネーム入りYシャツを見せ、「これは川合会頭が毎年持ってくる」と自慢し、川合会頭より自分が上だと誇示する。 
 副会頭たちも保存運動側では威張っているだろうが「彼らも俺にはぺこぺこするんだ。」といい放つ。
 私が怯めばそれで良し、逆に私が怒れば正副会頭らとどのくらいの密接な関係性なのかが判断できるという目の、高田氏だった。
 だから、そんな箕輪氏の話をさえぎらなかった。

 代議士が、さぞや慌てた9.8万の署名数を集めた十万人署名運動の仲間の中で、蕎麦屋の息子が一定の位置を占めている決めかねており、百人委員会サイドの運動組み立てに裏で参加しているとも知らずの、嘗めてくれる態度だった。
 全く保存運動情報の収集能力がないことが、逆に知れた。
 そして、蕎麦屋の息子の人となりを全く調べていなかった。
 高田氏や中畑氏が出してくる名前も、新聞等で既に出ている百人委員会の代表幹事の名前くらいで、「そこまで知っているのか」というような質問もなく、安堵したくらいだった。

 要は、高田氏や中旗氏は半分は私と突っ込んだ話をしたくて私を呼んだが、箕輪代議士は深く考えないでいてくれた。
 一度だけ、私が「人の名前を出さない」と判断した高田氏が、質問を変え、

  「保存運動はどの程度で妥協できるのか、しようと考えているのか」
 
という鋭い質問をしてき、いよいよ腹を割って話すかと思った途端、箕輪代議士が横からつまらない自己顕示話の口を出してくれ、高田氏の鋭い突っ込みが宙に浮く始末だった。
 終始このようなやり合いの中で、高田氏は

  「別に友人を売れなどと言っているのではない。
   先生は調定役、道路建設派は先生の支持者が多く顔見知り。
   しかし保存派はわからないのでな。
   顔も知らないで調定役は出来ないわけで。」
 
と、やんわり言ってくるが、そのあとも政党関係の情報を聞いてくる。
 全く市民運動への理解がなく、小樽運河保存運動の裏は全て野党が、とりわけ共産党が仕切っているという固定観念で見ているので、質問が的を得ていなかった。

 父を見やると、間にたって黙って話を聞く顔、演技だった。 
 もうバカらしくなって、早く切り上げるには箕輪代議士を怒らせればいいと判断して、口を開いた

  「いくら父がお世話になり、籔半がお世話になっている先生でも言え
   んですわ。
   そもそも他人の情報を告げるような人間などを、先生は信用せんで
   しょう。

   保存運動サイドも『道路』を否定などしておらず、代替道路案も出
   している。
   小樽の町の将来にとってどういう手法が一番いいのか、そのために
   双方のメンツも立てながら、どう落とし込むのかという話なら何で
   も伺いますし、私も百人委員会がどう考えているのかを、お話しま
   す。
   先生は調定役というなら、もう腹くくられておられるのでしょう。
   先生はどんな落としどころをお考えなのか?
   そもそも、私は今日は運河問題の落としどころをどうしたらいいの
   か、というあたりの話をするために呼ばれた、と思ってました。
   それを話すには、先生がどんな小樽の将来像をお持ちなのか、
   どんな『まちづくり』構想をお持ちなのか、そこを伺わないと、
   できかねます。
   残念ながら、百人委員会運動の誰それの情報収集のために私を呼ん
   だのなら、おかど違いです。」
 
と、切り返した。
 箕輪氏は案の定、激高してくれ、大声となり、私が生意気だと叱責してきた。

  「調定役が、態度を明確にしたら調定にならんだろう。」
 
と、市議たちがいる前なので、建前を全面に出してき、

  「そんな一般的な話でわざわざ呼ばれたわけですか?
   先生が、過去市長に運河保存を進言した、と聞いてますが?」
 
とやり返すと、中畑市議らの手前、睨み凄んでどなりちらした。 
 複数の市議達を周りに侍らしたのが逆に箕輪氏に徒となって、皆の前で本音を話せないわけだった。
 そこに箕輪代議士の母上(市内では皆、箕輪のばあさんと呼んでいた)が入って来、

  「いい大人が若い人を怒鳴るなんて、みっともないわよね。」
 
と笑いながらいい、暫くして出ていった。
 空気が少しなごみ、箕輪氏も横柄な態度を変え、

  「俺だって小樽のことを考え愛している。
   以前市長に運河保存に気持ちを変えないかと忠告したことがある
   んだ。
   が、市長はあまりにも強硬で、そのときは俺も強く押すのは控え
   た。」
  「川合会頭には、そんな市長だからどうにもならない、いたずらに
   対立を続けるのは、町の得にならないと言ってある。」
 
と、さも実力者然とした自慢をしてくれた。

  「運河埋め立て派に対しては、保存派をあまり刺激しないよう求め
   てきたんだ」
 
 だから、リコールを自重せよという、もの言いもした。 
 終始このようなレベルの話の繰り返しで、やっとその場を辞した。

 父と二人で、花園町で呑んだ。
 呑んでいる内にあまりにも情けなく

  「あれなら、 保存派と道路派の間を取っての調定など何度やって
   も出来ないわ。」
 
と、酒を呷るだけだった。 
 父は、
  「調定、ってなんだ?」
と聞いて来、市内政財界のトップ会談の調定役として箕輪登氏が道知事の要請で動いている話をした。 
 父も怒った、

  「高田社長は、何も俺にそれを告げてこなかった。」
  「そんな調定など柄じゃない。
   俺は、初立候補で落選したときから先生を知っている。
   あのな、先生は自民党道連会長が目前だ。
   そのために今は調停役なんてこともしているが、そもそも泥を
   被る調停役などやる気はない。
   道連会長になったら、そく本音をだす。
   運河埋立派の本性を出すわ。」
 
と。 
 
 「絶対手を汚さないし、ケツを拭かない人だ。
  だから、選挙に弱いんだ」 
 
と、私を慰めてきた。
 翌日、高田氏が来店した。
 この辺の呼吸とフォローは流石地元秘書だった。

  「先生も疲れていてな、もっと本質的な話をしたかったんだが。」
 
と言い訳じみた言葉をかけてきた。

  「私のような若造に、あんな出方しかしないなら、調定役はむりで
   すわ。
   ま、調定などハナからする気はない、ってわかりました。」
 
と言い返すと、高田氏は苦笑いし帰っていった。

 横路知事も見誤ったものだった。
 箕輪登氏は結局、調整といいながら埋め立て派の批判をしなあら保存派の説得をするという二枚舌路線で、兎に角自分の地元でのポジショニングに終始した。
 第1回の市内政財界トップ会談後、知事サイドはその箕輪氏の動きを、
  「手のひらを返した動き
と驚く。
 建設大臣との了解をとり合った知事の意向を受けた形の箕輪登氏の動きを期待した。
 とういうか、知事周辺は、箕輪代議士の地元でのその力量のなさを知らないで「花」を持たせるなどと言うレベルの対応をしてしまった。
 下駄を預けてしまっただけで、預けた下駄は泥まみれになって手のひらを返されてきただけだった。

 知事サイドの大誤算だった。


18_07. 自民党道連、小樽支部、道路促進派経済人の巻き返し

 2月5日、百人委員会の新春パーティに、小樽選出の道議会議員・西村慎一氏が参加し、
  「小樽の政治は硬直化している。
   新しい路線が引きにくい、古い,非常に古いのである。」
と九万八千人署名簿照合紋団を取り上げ,小樽の政治風土全般を批判してくれた。
 西村道議は、小樽の下町を選挙基盤に強さを持っていた保守だった。
 西村道議も、いよいよ公然と小樽運河保存を表明したわけだった。
 
 2月11日、箕輪登氏は知人を介して西武の関係者に会う。
 西武は、勿論運河全面保存で、箕輪氏はここで西武側の意向を確認。

 「その方向に沿って対処する考え」
 
を西武側に示す。
 が、これは完全に西武側へのポーズでしかなかった。
 終始、埋立派と保存派の間を揺れ動く。 
 それは氏の選挙基盤のもろさという事情も大きな要因だったし、それでも自民党道連会長のポストが目前だった。
 スムースに道連会長のポストを得るためには、選挙地盤小樽の平穏さと安定さは肝心だった。
 運河問題がいずれの側に転じるかという不安定さは、道連会長ポスト獲得には極めてマイナスだった。
 ともかく小樽が穏便な形で収まることが、そのポスト獲得に得策だった。
 結局、道連会長ポストは2月24日の自民党代議士会で内定、3月9日の道連大会で箕輪氏となる。
  
 百人委員会の未経験な人々は、この箕輪登氏と西武との話し会いの情報を得て、箕輪氏が「保存の方向で調整力を発揮してくれればことはスムースに向かう」のではないかという、期待感をもつ部分もいないではなかった。
 私は、何も言わなかった。
 百人委員会にも、希望は必要だった。

 しかし、箕輪登氏のお膝元の小樽の自民党はそうではなかった。
 2月20日、百人委員会の集めた九万八千の署名の点検照合作業の結果を市側が公表した。
  ・小樽市民の自筆による署名:4万7千
  ・自著でない署名     :4万5千
  ・市外の署名       :2千3百
  ・自著の4万7千のうち選挙人名簿登録者:2万8千6百
と発表する。
 点検作業で、市役所幹部や職員の名前があることが話題となるほど「筒抜け」の点検照合作業に、百人委員会は呆れた。

 2月22日、午後1時、自民党小樽支部総務会を開催し、
  (1)百人委員会の市長リコールに対抗し「志村市長を守る会」をつくり、
     反リコール運動を進める。
  (2)小樽商工会議所に埋め立て見直しを断念するよう要請する。
  (3)運河埋め立て・道路建設促進のための経済団体による幅広い組織を
     つくる。
と決定。 
 結局(1)は実行できないでいた。
 (2)の小樽商工会議所に「見直し断念」を迫るというのは、会議所の統一見解の中にある埋め立て直しの余地を残した「但し書き」を外せ、と要求することだった。
 2月25日に予定される小樽商工会議所常議員会を前に、自民党総務会終了後、常議員を同支部に呼びその工作をし、その趣旨を各常議員に文書で郵送する。
 (3)運河埋め立て・道路建設促進のための経済団体による幅広い組織をつくるというのは、昭和52年に作られた小樽道々小樽臨港線整備促進期成会」の会長が会議所川合会頭であり、その機能が果たせてないと再発足をさせようとするもの。
 (3月16日に発足し、会長は小樽倉庫協会会長・菅原春雄氏。)
 結果、常議員会で今回も「但し書き」外しは出来ず、3月小樽商工会議所総会まで持ち越す。 
 この2月22日の総務会の終了後、支部幹部は、
  「保存派は我々を舐めてはいかん。これまで堪忍、自重したきたが、もはや堪
   忍袋の緒が切れた。これからは攻勢に転ずる。」
と、息巻きまいた。
 が、2月22日の自民党小樽支部総務会での三点の決定に、同党支部内部や同党市議から、即、批判の声も上がる。
 百人委員会側とフランクに接触してた市議は、

  「政党支部が、小樽商工会議所に対して常議員を呼び出し、更に文書
   まで郵送し、埋め立て見直しの断念を求めるのは、経済団体への政
   党の介入過ぎる。
   まして、会議所の動きの背景は西武側の全面保存の意向も働いてい
   て、小樽運河地区の再開発には西武の手を借りなければならないと
   すれば、経済人としてある意味当然の動きである。
   それに高姿勢強圧的に出るのは如何なモノか。
   更に、期成会結成も含めた全体的押せ押せムード姿勢も、
   経済界との溝を埋めるための努力を放棄している、
   政党としてはもっと慎重にするべき。 
   運河保存署名も主として保守層が参加しての奨められたことももっ
   と考えるべきだ。」
 
と。
 百人委員会人は、自民党小樽支部総務会の決定をうけて、
  「小樽の将来へ何のビジョンもなく、ただ保存派に負けてたまるかという反対
   のための反対に終始するのは許せないという気持ち」
とコメントした。 
 そして、2月23日、志村市長と横路知事知事が札幌で会っている。
 その会談は5分間もなく、ほとんど「喧嘩別れ」の状態だった。
 この直後、知事周辺からは

  「もはやリコールも含め、運河問題で『全面戦争』になるのもやむ
   を得ない」

 
という受け止め方に流れが出来た、と小樽にもたらされる。

 2月24日、自民党北海道代議士会で箕輪氏が道連会長に内定する。
 箕輪氏は、3月9日の自民党道連大会での道連会長決定まで、動くように見せかけ、全く動かず、自分の地盤強化だけに専念する。

 週毎に、いや日々、このような攻防だった。
 百人委員会人の中心メンバーは、仕事は手につかなかった。
 日々、事態の流れを必死に追いかけ、集まり把握しようとしていた。

 3月小樽市定例市議会開催が、目前に迫っていた。
 運河の埋め立て見直し機運は、当面の対処として「小樽博の開催」とも連動し、
   埋め立て工事を一時凍結し、その間に方向を探る
という形で、話され始めていく。
 その志村市長は、1週間後の定例市議会冒頭の代表質問で、
  「思い過ごしかもしれないが、埋め立て工事を凍結などし、政治休戦をすれ
   ば、それは一時的凍結にとどまらず、埋立計画の見直しにつながる恐れが
   ある。
   一度凍結すると、相手(道)もあり、その解除がどうなるか心配だ。
と、市議会の場で答弁し、「埋立見直し機運」への危機感を吐露していた。


       この項終わり
 ●現
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 ● 【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。