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19_01. 水面下の政治戦に・・・


1983年昭和58年
 11月12日 運河部分の杭打工事に着手
 11月19日 11/19、百人委員会が市に九万八千の署名を携え市長面談を求める。
      市役所、再考の余地なしの対応に終止し、小樽運河百人委員会は、
       『やむにやまれず、市民に残された手段はリコールしかない
      と、はじめてリコールを言葉にする。 
 12月18日 第三七回衆議院選挙、地元選出箕輪登氏、辛うじて5000票差で最下位当選。
      年末年始 西武流通グループ・堤代表が、高校の先輩後輩関係で懇意の水野清建
      設大臣、そして田川誠一自治大臣に「小樽運河は全面保存すべきだ」と働きかけ
1984年昭和59年
  1月10日 志村市長、東京出張、予算陳情
  1月12日 水野建設大臣が埋立を主張する市側の真意をただそうとなり、志村市長、箕輪登衆
      議院議員と二人で水野清建設大臣に面談
  1月17日 西武流通グループの堤清二代表の斡旋で、百人委員会は代表幹事の峯山・村上両氏
      ら七人が水野建設大臣、田川自治大臣への陳情。  
      同日午前、小樽商工会議所首脳も百人委員会と表面的には別に、先に水野建設大臣
      、田川自治大臣に陳情。
  1月19日 小樽市、建設省から一〇万人署名コピーを取り寄せ、選挙人名簿と照合を検討
  1月20日 志村市長この1月3度目の上京。大蔵原案内示を受け復活折衝陳情のため、陳情に
      上京。
      横路知事知事、それに小樽商工会議所会頭川合一成氏と志村市長が都内で極秘に会談。
  1月23日 小樽市選出道議会議員(自民党道連広報委員長)久田恭弘、留萌選出自民党道議・
      石山直行氏(自民党道連幹事長代行)水野建設大臣に陳情。
  1月25日 小樽商工会議所常議員会、道路促進派は小樽商工会議所の「埋立見直し」の余地を
      残す「但し書き」条項部分を道路促進派は外すことを画策、会頭欠席し持ち越す。
  1月27日 小樽市、職員10名、アルバイト10名で10万人署名簿を選挙人名簿と照合開始
      小樽市と百人委員会は会談を持つ。志村市長は昭和54年度小樽市予算編成会議で
      出席せず、林正大助役、平野大秘書課長が応対し、市の再考姿勢は示されず、物別
      れに終わる。百人委員会は
       「近く、志村市長リコールのための『準備委員会』を設立する。
      と声明を発表する。
  1月29日 箕輪登代議士、花園町の事務所で小樽の政財界のトップ会談が隠密裏に開催。
       ・志村和雄・小樽市長
       ・山吹政一・自民党小樽支部長
       ・川合一成・小樽商工会議所会頭
       ・大野友暢・小樽商工会議所副会頭
       ・佐藤公亮・小樽商工会議所副会頭
       ・山本 勉・小樽商工会議所議員会長
       の七人。 
  1月31日 横路道知事は月末の記者会見、
       「情勢が変わってきている。 地元選出の箕輪氏に地元の合意を図
        るよう要請している。」
      と発言した。 
    箕輪登氏は青年会議所の7〜8人の幹部を事務所に呼び、
      「運河という素材を『まちづくり』に生かさなければならないのだ
       が、市にはその適応力がない。これは運河問題にとどまらない。
       小樽が分裂し、騒ぎになるのは困る。
  2月 1日 公明党道本部,埋め立て推進路線を変更し,運河全面保存へ方針転換することを決
      定する。
  2月 2日 自民党道連は、公明党道本の小樽運河保存運動全面保存決定に対抗し、運河埋め
      立て・道路建設方針を堅持することを再確認と発表。
      小樽市議員会長の高橋靖茂市議(自民党)が自民党道連役員会に市長を伴い陳情す
      る。更に、志村市長を議員会に呼び対応策を協議していた。
  2月 3日 箕輪登氏、百人委員会の代表と面談し、
      「道々小樽臨港線を建設する運河問題は道の事業なのだから、リコー
       ルを市長にむけるのはおかしい。
  2月 5日 百人委員会の新春パーティ
  2月11日 箕輪登氏は知人を介して西武の関係者に会う。西武は運河全面保存で、箕輪氏は
      ここで西武側の意向を確認。
       「その方向に沿って対処する考え」を西武側に示す。
  2月20日 市側が、百人委員会の集めた九万八千の署名の点検照合作業の結果を公表した。
      ・小樽市民の自筆による署名:4万7千
      ・自著でない署名     :4万5千
      ・市外の署名       :2千3百
      ・自著の4万7千のうち選挙人名簿登録者:2万8千6百
      と発表する。
  2月22日 自民党小樽支部総務会を開催し、
      (1)百人委員会の市長リコールに対抗し「志村市長を守る会」をつくり、反リコ
         ール運動を進める。
      (2)小樽商工会議所に埋め立て見直しを断念するよう要請する。
      (3)運河埋め立て・道路建設促進のための経済団体による幅広い組織をつくる。
       と決定。 
  2月23日 志村市長と横路知事知事が札幌で会談。
      5分間もなくほとんど「喧嘩別れ」の状態だった。
      この直後、知事周辺からは
       「もはやリコールも含め、運河問題で『全面戦争』になるのも
        やむを得ない
      という受け止め方に。
  2月24日 自民党北海道代議士会で箕輪氏が道連会長に内定する
  3月    小樽市定例市議会、北海道議会開会
 

19_02. 北海道議会と小樽市議会開催の中、東京・札幌・小樽の三つ巴の戦いが、繰り広げられる
flickr
 1984年(昭和59年)年の正月明け早々からの道路促進派と運河保存派の建設省・自治省への陳情合戦の影響は、道路促進派をして、自民党道連・自民党小樽支部を総動員しての巻き返しとして現れた。
 2月22日の自民党小樽支部総務会は
  (1)百人委員会の市長リコールに対抗し「志村市長を守る会」をつくり、
     反リコール運動を進める。
  (2)小樽商工会議所に埋め立て見直しを断念するよう要請する。
  (3)運河埋め立て・道路建設促進のための経済団体による幅広い組織を
     つくる。
を決定した。 
 そして、自民党小樽支部総務会終了後、(2)の決定を早速実行する。
 
 自民党支部幹部は、同党事務所に小樽商工会議所常議員を呼びつけ、来る2月25日の常議員会での道路見直しの「但し書き」条項外し工作を進め、またその趣旨の文書を各常議員に郵送するという、公党による経済団体への常軌を逸した露骨な政治介入の挙に出る。
 
 自民党小樽支部幹部は、西武の小樽運河地区再開発表明が小樽の街に与えた衝撃と意味合いに、気がついていなかった。
 昨年1983年(昭和58年)6月の小樽商工会議所首脳の運河埋立から運河保存への大転換を前後して、街は完全に運河埋立と運河保存の二つに割れてきていた。
 自民党小樽支部幹部は、経済界でも、いや経済界だからこそ、西武小樽進出をビジネスチャンスとし、それに乗り遅れまいとする動きがあるのを、何とか沈静化しようと、旧構造の意識のまま対応してしまう。
 永年の保守政治のなかで奢り高ぶり、曇った目でしか自分たちの街を視ていなかった。
 自分たちはフリーハンドを与えられていると錯覚していた。
 来る2月25日の常議員会での道路見直し「但し書き」条項外し工作を進め、またその趣旨の文書を各常議員に郵送した。
 早速、小樽商工会議所会員から、経済団体への露骨な政治介入と異議が出された。
 このような、自民党小樽支部のやる行為に異議を正々堂々表明する会員が出てくることは、それはかつてない事態だった。
 すでに小樽商工会議所会員の意識が、ドラスティックに変わってきていることを明らかにした。

 さらに、2月23日、(3)の運河埋め立て・道路建設促進のための経済団体による幅広い組織の準備会づくりを、自民党小樽支部主導で進めていた。
 昭和53年に結成された「道々小樽臨港線整備促進期成会」の会長が、道路見直し小樽運河保存に転換した小樽商工会議所の川合一成会頭だったので、運河埋立派にとってはその期成会が機能不全に陥っているとし、再発足をさせる。
 3月7日、「道々小樽臨港線早期完成促進期成会」と名称変更して再発足し、会長は小樽倉庫協会会長・菅原春雄氏が、就いた。
 潜っていてこその驚異と圧力を与えるサメが、背びれを見せて浮上してしまったわけだった。
 しかし、西武の運河地区再開発に「協力を求められない」道々小樽臨港線早期完成促進期成会は、商工業者のビジネスチャンスを体現できない組織である、ということを再結成した本人達が気づいていなかった。
 かつての政治的圧力を発揮する道路建設・運河埋立の踏み絵機関の新期成会とはなりえないことを、彼らは気づいていなかった。
 小樽商工会議所が、西武の小樽運河地区再開発で揺らいでいるのに、商工業者にどのようなタガを填めようとしても、無理だった。
 西武の運河地区再開発表明によって街の全経済関係者のなかに大きな政治分化が顕れてしまっていた。
 新しく再結成された「道々小樽臨港線早期完成促進期成会」にお義理で付き合って、腹は「運河保存をしての西武による小樽運河地区再開発」を期待する企業経営者がいるわけだから、もはやその存在はまったく状況にコミットできる存在ではなく、せいぜい国や道にむけた「運河埋立で地元一本化」と運河埋立派が言える材料でしかない存在に、成り下がっていた。
 ましてや、(1)の「志村市長を守る会」となると、逆にそれまでの志村市政への全般的不信と反発を一層募る結果になる、と流石の自民党小樽支部でさえ景気づけに言ってみたものに、とても着手すらも出来なかった。

 小樽という街はドラスティックなまでに変わりつつあった。 
 
 ・・・結局、2月25日開催予定だった小樽商工会議所常議員会は、察知した会頭が欠席し、肩すかしされて何も決められず流会となる。
 これら、市・自民党一体となった巻き返しに対して、小樽運河百人委員会は、3月5日、百人委員会人のメンバーも含め別組織の
  「リコール準備委員会」の設立
を検討することを決め、発足させ、運河埋立派の揺さぶりを続けていた。
  
  この一連の運河埋立派、運河保存派の両派の動きに、1月から2月にかけて市内経済界トップ会議の調定役も出来ずにいた箕輪登衆議院議員が、再度動き出すのは3月9日の自民党道連大会で道連会長に就いてからだった。
 道知事サイドが期待した調停役は、その役を途中で放り投げて、自民党道連会長ポスト獲得に終始し、箕輪登代議士氏はそれを何とか誤魔化そうとして、
  「それまで自民党小樽支部や道路早期完成促進期成会側には、
   百人委員会運動側を徒に刺激してはならないと、工作していた」
と、後になってぼそぼそ言ったものだった
 箕輪登氏の、埋立・保存の両方にいい顔する姿勢での調定役など、そもそも道路促進派自体がもう相手にもしない状態に入っていた。
 結局、地元選出の保守政治家としての責務を果たすどころか、自己保身に走るだけでしかにことを、完全に埋立派からも見透かされていた

 2月11日に箕輪登氏は西武側と隠密裏にあった、と前章で記した。
 西武側は勿論「全面保存」を箕輪登氏に表明し、箕輪登氏自身も西武側の意向を確認し「その方向に沿って対処する」考えを意思表示した。
 道知事サイドも箕輪登氏氏が西武側と連動し、保存の方向で指導力を発揮してくれるとスムースに事は進むと期待した。
 しかし、箕輪登氏のその後の動きは、自らの選挙基盤のなさをなんとか強化するための「道連会長」の座を狙う事にのみ終始していた。
 ただただ、運河問題がこの先どう進捗するのかと全く部外者のように探るだけで、この後に及んで、まだ穏便にすますことで自分のポジションをキープすることしかなかった。

 3月9日の自民党道連大会で道連会長の座が確定して翌日、3月10日、箕輪登氏は東京田中事務所で、田中角栄元首相、西武関係者と会っていた。
 田中角栄元首相は箕輪登氏に直接、
  「運河問題は工事凍結ということでまとめてくれ
と指示を出した。 
 箕輪登氏は、道連会長ポストを得た安堵感からか、
  「西武が、いくら保存といってももうだめですよ
と本音を言い、一ヶ月前の2月11日西武側と極秘に会った際、「西武側の意向で動く」と確約したにも関わらず、その舌の根も乾かない内の箕輪登代議士の言いように呆れた西武側からは、
  「川合会頭らの立場を配慮してもらいたいものだ
と逆にねじ込まれる始末だった、と後に朝日新聞取材は説明している。

 いずれにせよ、小樽の町と小樽の人はそういう人物を、国会に送り出していた。
 所詮、調定役という大役の任など無理だった。
 
 2月23日、志村市長と横路知事知事が札幌で会談していた。
 が、5分間ほどでほとんど「喧嘩別れ」で終わった。
  「もはやリコールも含め、運河問題で『全面戦争』になるのもやむを得ない」
と受け止め、横路道知事は3月北海道議会に、そして志村市長は小樽市議会に臨んでいく。

19_03. 3月の小樽市定例市議会


 19日の建設常任委員会は、小樽運河百人委員会から出されていた「運河埋立の再検討を求める」陳情を賛成少数で不採択する。 
 賛成:社会党・共産党、反対:自民党・公明党だった。
 公明党北海道本部が、2月1日にそれまでの運河埋立から運河保存に舵をきったのに、公明党小樽支部は未だに自民党にすり寄っていた。
 
 小樽市議会はこのあと小樽運河を守る会の「運河の全面保存、運河と周辺石造倉庫群の調査」を求める誓願の取り扱いで紛糾する。
 小樽運河を守る会の誓願は代表質問の終わった8日に出されたため自民・公明与党側は、委員会審議を省略し、21日市議会最終日の本会議採決を主張し、社共は「継続審議」を要求し、結局会期を二日、3月23日まで延ばしただけで、結局建設・総務両委員会で審議し賛成少数で不採択とされた。
 
 事件は、この3月23日の市議会最終日に起きた。
 社会党小樽市議が全く政治的緊張感が欠落した不用意な質問し、国と道の思惑を逆に混乱に陥れてしまう
 詳細は後述する。 
 一方、北海道議会では、小樽選出道議会議員・久田恭弘氏が「規定方針通りの道々小樽臨港線建設」を知事に迫っていた。 
 
 道議会と市議会が開会中となって、運河埋立派と百人委員会人はにらみ合いになっていく。
 水面下の工作の中、百人委員会運動は手詰まり感のなかで必死に模索していた
 政党間の政争状態になり、 運河問題が置き去りにされ始めていた

 小樽運河百人委員会は、山口が文字通り政治工作の最前線におり、その山口を支え、山口が政治判断を出せない案件に対して意見交換し再整理して、再び山口を「政治工作」の世界に送り出す、それが私などの役割だった。
 山口は、道知事室サイド、全道労協、北教組、社会党中執、そして小樽商工会議所首脳とその全ての連携を、一人で担った。
 獅子奮迅の活動だった。 
 手宮の喫茶メリーゴーランドは、奥さんに任せっぱなしだった。
 
 その山口が抱える様々な連携関係が、絶対漏洩しないよう苦労した。
 山口が相手にする側からの政治的信頼関係を維持するには、情報の漏洩だけは避けるとした。
 しかしそれは、小樽運河百人委員会という市民運動の展開との関係では、「情報共有と現状認識」をどう図るかで、実に悩ましい問題だった。
 小樽運河百人委員会の面々は、その微妙な政治工作を理解してくれてはいたが、しかし、その概要でいいから聞きたくなるのは人情だった。
 言えない山口も辛く、聞けない小樽運河百人委員会会員も辛かった。
 
 百人委員会人も様々に揺れた。
 小樽運河百人委員会が「リコール」を射程にいれた論議が進行すると、代表幹事の一人であり小樽商科大学教官だった長谷川伸三(小樽商科大学教授)氏は、リコールは公務員規定に抵触するとし、代表幹事を降りた。
 これは、致し方なかった。
 このような点を配慮して
  「リコール準備委員会は、小樽運河百人委員会とは『別組織』としてつくられる」
としていたが、その辺は大変微妙で、本人の判断に委ねるよりなく致し方なかった。

 一方、村上勝利代表幹事は、自営のアクセサリーショップの経営がはかばかしくなく経営資金不足で、その資金繰りの普請に、なんと川合一成会頭を頼り会頭は援助した。
 若者相手のアクセサリーショップには、いくら道路促進派が強いといってもその顧客にまで政治的圧力をかけることは出来ず、氏の仕入れ先は道外であること、そして札幌の西武系列パルコに出店するテナントの中でも坪単価売上で上位に位置したこともあると豪語されていたので、私は村上氏経営のアクセサリーショップの事業業績は安心していた、くらいだった。
 しかし、時代は個人経営アクセサリーショップを、否応もなく淘汰していく。
 大手アクセサリーショップのチェーン展開が、個人経営アクセサリーショップを席巻していく時代だった。
 そして、店主は小樽運河百人委員会運動に専念し、経営が手薄になっていた。
 必然でもあった。
 かつて小樽運河を守る会前事務局長の藤森茂男氏の経営する広告看板業が、大手の広告宣伝会社に街場の仕事さえ奪われていき、その経営を脅かされ破綻に至らせられたのと同じ運命が、村上代表幹事の店を襲っていた。
 が、それは小樽運河百人委員会運動の展開上で、問題を抱えることを意味した。
 一人とは言え、経営難に陥った店主がこの政治的に実に微妙な時期に小樽運河百人委員会の代表幹事の中にいることは、本人の意思とは別に、あらゆる面で慎重にしなければならなくなる。
 道路派がそれを知り村上氏に接近し彼らの陣営に引き込み、小樽運河保存運動サイドの情報がすべて漏洩する可能性は、否定できなかった。
 政党もそのようなことを平然とするであろう。
 経営破綻寸前の藁にもすがりたい経営者の気持ちを、小樽商工会議所首脳は知っていた。
 小樽運河百人委員会には、この事情はひた隠しにされた。
 
 この村上氏の会社経営難がわかって以降、小樽商工会議所首脳は村上代表幹事との関係に慎重になっていく。 
 これが、村上氏をして小樽商工会議所からの情報が自分に入らなくなっていく。
 それを、あろうことか村上氏は山口の情報独占、小樽運河保存運動の「本家意識」による商工会議所首脳の大転換後の小樽運河百人委員会参加者への情報遮断行為と見なすようになっていった。
 代表幹事間に不協和音を醸成していく始まりだった。
 
 峯山会長は、全国町並み保存連名関係など、全く北海道小樽では想定できない別ルートで、国や大学や研究者から市民まで頻繁に連絡が入りそれだけで大変な日々だった。
 そしてこの頃、益々顕著になった小樽運河を守る会内部の共産党系と共同歩調を取る小樽運河を守る会・「反峯山会長グループ」との、実に消耗な内部論争に切り裂かれていた。
 ある意味、山口や私は対外的関係の調整と連携に対処するので精一杯だったが、逆に小樽運河を守る会の内部論争から一歩独立していられた。
 小樽運河を守る会内部の論争は、完全な党派闘争の呈となっていた。
 だが、まだこの段階では、その小樽運河を守る会内部論争が小樽運河百人委員会運動にストレート持ち込まれてはいなかった。
 小樽運河を守る会の北大グループや佐々木一夫、中一夫をはじめとする献身的な会員がその内部論争を引き受け、「反峯山会長グループ」との論争を一手に引き受けてくれていた。
 
 が、峯山会長の葛藤は並ではなかった。 
 道路促進派の心ない連中から、嫌がらせ電話が自宅に頻繁に入りもした。 
 しかし、ご主人が考古学の泰斗で、今まで使用した電話番号を替えるわけには行かなかった。 
 更に、小樽運河を守る会の「反峯山会長グループ」と共産党系会員は、これまで何年も小樽運河を守る会の連絡先=事務所扱いだった峯山会長宅から、小樽運河を守る会事務所を「反峯山会長グループ」の代表に押し上げられた小樽運河を守る会・北村聡司子副会長宅の変更しようと、画策していた。 
 私たちも悩んだ。
 その時、小樽運河百人委員会の代表幹事の村上勝利氏の言葉に絶句した、
  「いたずら電話など有名税、私も代表幹事になってその種の電話が頻繁だ。
   有名人はつらいんだ。」
と、まるで自分が有名人になったことを誇るかのような奢った物言いだった。
 人の苦労を推し量るのが出来ないで。強気に振る舞うわけだった。 
 
 元首相や建設大臣や建設官僚や西武流通グループに対する、運河保存派の期待感は薄らいでいた。
 山口が懸命に政治工作・調整作業をしていた。
 小樽運河保存運動の代表であり、小樽運河百人委員会の代表幹事の峯山会長には、様々な連絡や相談や打ち合わせが持ち込まれる。
 他方で、小樽運河を守る会ではまるで党派党争と変わらないセクト主義的な振る舞いをする「反峯山会長グループ」と共産党系の動きが表面化していた。

 峯山会長は憔悴し、プレッシャーを受けていた。
 一人、蕎麦屋を訪れ、

  「事態が思うように進展しない。
   やりきれない気持ちになる。
   期待が薄れていき、市長は行政の連続性や根幹という呪縛に囚わ
   れている。
   知事への期待、全面保存の西武の動きにも何か色あせた感があ
   る。」
 
と、肩を落とす峯山さんがいた。

  「西武も、私企業なんです。
   文化発信の西武、っていう企業イメージもある。
   運河問題がリコールという政治の世界に入ってしまった以上、あ
   まり露骨に西武が表面に出て動く、というわけにはいかんのです
   よ。 
   ましてや、行政と全面的に運河を巡って争う形は、運河地区再開
   発をやるにあたって大変いずいし、当然今のぶつかり合いは尾を
   引く結果を招き、そこに西武が進出するという事態は、企業とし
   てはまずい。
 
   だから、西武は水面下で岩盤みたい道路促進派の基礎を掘り崩し
   、それが運河保存に結び着けば、と考えている。
   でなければ、年末年始の堤代表の動き水野建設大臣や田川自治大
   臣への根回しや保存派の大臣陳情の斡旋などの説明がつかない。
 
   横路知事も、建設大臣から知事判断を支持するというベースがあ
   って、動いたけれど、調定役に地元代議士をとしたが、とても腹
   をくくれる人じゃなかったという大誤算をした。
 
   それをどう軌道修正するか、というところでしょう。
 
   道議会では、知事は自民党道連から攻撃される。
   知事としては運河問題を道議会中は「うるかす」作戦をとり、小
   樽博期間中の工事凍結、それを利用しての道路派・運河派の調整
   でリコール決着は避けたい、と。
 
   まだまだ、続いているのです。
   今は猛烈な水面下の闘いです。
   市民運動としてはあまり歓迎しない密室的展開ですが、道議会・
   市議会も開会中、保存運動側は「リコール準備委員会」設立だけ
   で十分なのです。
 
   峯山さんは、なるべくならリコールなどしたくない、と今まで通
   り言って頂くのが大事なのです。」
 
と、峯山さんを励ました。
 
 山口を始め、小樽運河百人委員会の仲間達も、懸命に挑戦していた。
 11年間の小樽運河保存運動で、このような市民運動の大爆発、更に国・道・市、元首相から大臣や代議士、そしてこの国の大企業経営者や政党関係者などと全面的に渡り合う大政治戦を担う「指導部」という挑戦だった。
 大衆運動経験からの指導部は形成できる。
 が、山口が担うような運河保存の全勢力との政治的な調整、そしてそこから採用されるべき路線確立と提案能力、運河内部にある様々な傾向に配慮しながらそのような水面下の政治戦に運動が埋もれてしまわぬように、市民運動のエネルギーを保持する、そんな指導部形成には間に合っていなかったが、懸命にチャレンジしていた。

19_04. 政治戦が続く 


 小樽の道路促進派は、3月30日に予定の小樽商工会議所議員総会をターゲットに戦略を組み立てていた。
  今まで道路促進派の小樽商工会議所を舞台にした最大の狙いは、昨年6月小樽商工会議所首脳の道路促進から運河保存への方針転換と、それを受け手の8月の常議員会で確認された、
  「道路建設の立場は堅持する。
   ただし、確実な予算が伴い、行政とのコンセンサスが得られる代替の道路案
   があれば、検討するのにやぶさかでない。
とする運河埋立道路建設を見直す可能性を秘めた
  「但し書き」条項
を削除し、小樽商工会議所の「道路促進運河埋立での一本化」を対外的に表明し、それでもって道や国への「地元一本化」をアピールする、とする路線だった。
 3月30日開催予定の、年に1度の議員総会への会頭の欠席戦術は不可能、総会に出席した会頭・副会頭を叩き「但し書き」条項削除を呑ませると道路促進派は意気込んだ。
 この状況に、小樽商工会議所首脳も動く。
 3月23日
   「運河問題に関する経過報告について」
とする川合会頭名の文書が会議所議員に送付された。

  「建設、自治両大臣、道知事は運河埋立の行政手続きは終わっては
   いるが、地元の合意があれば道路はどのようにも変更が可能だと
   いう考え方を示した。
   道開発庁長官も百年の大計のために埋立をもう一度考え直すべき
   だ、と語っている。」
  「しかし、これらの意向に対し、市側は真剣に対応しようとしてい
   ない。
   会議所は内部の対立抗争を避け、話し会いによって、社会情勢の
   変化に対応し得る行政を求めるべきである。」
 
としていた。
 会議所通常議員総会にむけて多数派工作が激しく展開される中で、
  「正しい判断を
と訴えていた。
 この文書が送付される1週間前、埋立派のトップ、菅原春雄氏(小樽商工会議所運河地区再開発特別委員長・道々小樽臨港線早期完成促進期成会会長)は、

  「これまで会議所は内部の対決を避けすぎた面がある、言うべきこ
   とはハッキリ言った方が良いのではないか。 
   むしろ対決色を強めた方が小樽の宣伝になるのでは。」
 
という経済界のトップの発言とは思えない発言をしていた。
 その頃、3月16日の会議所の委員会では、昭和59年度の市からの補助金が70万円から50万円に減額されてことを道路促進派が問題にし、
  「会議所首脳らの責任を追及すべき
という、実に低次元だが明確に「川合会頭追い落とし」策に走る動きが始まっていた。
 小樽の街、とりわけ経済界のどうしようもない体質が一気に露呈し始めていた。

 これに対し、小樽運河百人委員会側は同じ3月16日、札幌市自治会館で
  「小樽運河を守り抜く全国集会
を運河保存5団体で開催する。
 峯山冨美(小樽運河を守る会会長・小樽運河百人委員会代表幹事)会長は、

  「道路もつくり、運河も残す方法があるんです。
   行政は状況に時代の変化に柔軟に対応して欲しい。
   小樽の将来と展望を、なぜ自らの手で潰そうというのでしょうか。
   小樽運河のない小樽は、小樽ではありません。
   私たちは保存の希望は失っておらず、まもりぬかなければならな
   いと思っています。」
 
と挨拶し、翌3月17日、集会主催の小樽運河保存5団体代表は集会で採択したアピールを道知事に提出した。
 こういう集会等での、峯山さんの話は参加者を圧倒させる迫力があった。
 内心の動揺や迷いやプレッシャーを押し殺し、おくびにもださずのアジテーションだった。

 そして、いよいよ小樽博開催を控えて『工事凍結』を巡って動いていく。

19_05. が、社会党小樽市議に勇み足・・・ 


 3月23日、小樽運河を守る会から提出された誓願を審議した小樽市議会定例議会総務常任委員会で、社会党議員が同党関係者からの情報だとして、それまでの水面下の動きを発表してしまった。
 完全に、社会党小樽市議の勇み足だった。
 市議会での社会党の存在をただアピールするだけで、どう
  「運河保存の水路を切り開くのか」
という観点が全く不在のままの、政治的緊張感皆無の発言をしてしまう。

  「 六月からの小樽博開会を前にして、運河問題を巡って地元のコン
   センサスが得られているとは認めがたいということから、水野清
   建設大臣は、
    『道々小樽臨港線建設の昭和五九年度予算を他に流用してもよ
     い。
     この問題については横路道知事と協議する。』
  との考えだ、と伝えられている」
 
ことをあきらかにし、市側の考えを問いただした。
 
 市議会総務常任委員会は、騒然となった。
  「昭和五九年度予算をほかに流用してもよい
という建設大臣発言は、
  「運河埋立工事凍結」
と意味したのだから。

 前日3月22日、社会党・山口鶴男国対委員長、井上普方同副委員長、北海道1区選出・小林恒人衆議院議員が、国会内喫茶店で水野建設大臣と会い

  「北海道の歴史的遺産である運河を残すことが大切である」
 
という認識で一致。
 その上で水野建設大臣は、

  「当省としては小樽の街の混乱を避けることが重要であると考え
   る。
   このため(既に計上している)予算をどうするかは、他の事業に
   流用することも含めて(何らかの方法を採ることを)了とした
   い。
   その検討期間としては小樽博後までとし、
   それまでは工事を凍結する。

 
という意向を示していた。
 しかし、それは飽くまでも水面下での意向だった。
 それを、国や大臣まで巻き込んだ政治戦など経験をしたこともない社会党市議が、何の計算と政治的配慮もなく、本人は社会党小樽支部の存在をアピール出来ると舞い上がり、得意になって質疑の中で公表してしまった、わけだった。
 議会取材していた新聞記者から電話で一報がはいった。
 絶句した。
  「利敵行為
と、呻いた。

 この社会党1市議の公表を、地元・北海道1区選出の小林恒人衆議院議員が認めていたののか、後に会った際に問いただしたが、小林恒人衆議院議員は預かり知らなかったとは、言ったものだった。

 が、この社会党一市議の手で日の目を見た情報は、一日で、道、道議会、自民党道連、自民党小樽支部をはじめ、勿論小樽市内に一挙に広がり、様々な反応を引き起こす。
 3月22日の国会内での、社会党山口鶴男国対委員長、井上普方同副委員長、北海道1区選出小林恒人衆議院議員、水野建設大臣の話し会いの数日後、3月26日、水野建設大臣は横路知事と建設省で協議を持つ。
 
 建設大臣は、

  「運河埋立の道々小樽臨港線建設工事予算は国として配分するが、
   予算の執行は小樽博覧会終了まで繰り延べてはどうか」
 
とし、横路知事は、

  「適切な措置をとるよう努力する」
 
と同意した。
 
 市議会でこの目論見が白日にさらされてしまい、建設大臣は記者会見をし、この考えを発表、志村小樽市長にも電話で伝える。
 博覧会の期間中、工事を一時凍結して地元の混乱をさけよう、という建設大臣のこの考えは、3月23日の市議会総務委員会でほぼ大筋が社会党市議の発言で明るみに出ていた。
 しかし、それを実際に建設大臣自らが公表したわけで、激震が地元に走る。

 自民党道連・自民党小樽支部は強く反発し、建設大臣と北海道知事に対し、まるで野党のように、
  「議会軽視
と大反発する。
 
 3月27日、北海道議会最終日の定例道議会で、自民党道連が審議拒否をとる。 (3月31日まで、道議会は会期延長)
 3月28日、自民党道連は、藤井猛・道連幹事長、青山正男・道議会幹事長、山吹政一小樽支部長、高橋靖茂・市議会会長が上京し、水野建設大臣に抗議する。

 実は、この社会党サイドの建設大臣への工作について、アバウトではあったが小樽運河百人委員会側にも知らされていた。
 が、その取り扱い、とりわけ「公表」のタイミングは、まだ慎重にする必要がある、と伝えられてきていた。

 そもそも、自民党の大臣が、自民党道連や自民党小樽支部の頭越しにやっては総反発しか招かないと判断されていた。
 霞ヶ関官僚も「予算の流用」と言うことには抵抗感がある、ことも予測されていた。
 それをどう根回し、落としどころにするのか、政治レベルで詰めをしっかりやり、慎重に運ばないとならないとして、一定の時間をおかないと危険である、と伝えられていた。
 そして、水野建設大臣の発言も、当初は、

  「(既に計上している)予算をどうするかは、他の事業に流用する
   ことも含めて(何らかの方法を採ることを)了としたい。」
   から、
  「運河埋立の道々小樽臨港線建設工事予算は国として配分するが、
   予算の執行は小樽博覧会終了まで繰り延べてはどうか」
 
「他の事業に流用」から予算の執行は小樽博覧会終了まで繰り延べ」変わって、これを「後退している」とするか否かで、小樽運河百人委員会も整理は就かなかった。
 
 後に、朝日新聞小樽支社の取材に、この水野建設大臣への根回しをした小林恒人社会党代議士は、

  「『誤算』は、慎重に表明の時期を選んで進めようとしていた建設
   大臣の発言が3月23日に市議会で自分の会派から明るみにして
   しまったことだ。」
 
と答えてる。 
 しかし、この23日の市議会、そして26日の水野建設大臣の記者会見公表は道路建設派の圧力を受けた箕輪登代議士らの強い反発と巻き返しを生む。
 小林恒人代議士は、

  「慎重に運ぼうとしていたが、躓いてしまった。
   道議会開催中であったのも痛かった。 
   予算審議がらみで、多数派野党=自民党の予算人質での攻撃に
   やられてしまった。

 
としたが、何を今更だった。
 ことはもう起きてしまってからならどうでも言えた。

19_06. 道議会の予算承認の人質に、運河問題が取られてしまう。


 北海道議会は荒れに荒れた。
 
 水野建設大臣の予算執行一時停止と埋立工事の凍結提案と横路道知事の同意に総反発し、当初予定の道議会最終日の3月27日、自民党道連は、
  「建設大臣の頭越しの意思表明とそれへの道知事の同意は議会軽視である
として予算審議を拒否し、会期は延長される。
 
 同日、志村小樽市長、島野栄司市議会議長、山吹政一自民党小樽支部長は、道庁を訪れ、道議会自民党、道知事に対し、
  「規定方針通り埋立を推進することへの協力と理解」
を要請した。
 翌、3月28日に、藤井猛自民党道連幹事長、山吹政一自民党小樽支部長らが上京し、箕輪登道連会長とともに水野建設大臣に会う。
 自民党小樽支部として、

  「(1)上級官庁は市議会の意思を無視すべきでない。
   (2)建設大臣の見解は理解に苦しみ、大きな混乱をもたらした
      ことは遺憾。」
 
とする抗議文を提出。
 自民党道連も、

  「一時的にでも、新年度の予算執行をストップさせるのは納得でき
   ない」
 
と申し入れを行う。
 同3月28日、道々小樽臨港線早期完成促進期成会は自民党小樽支部事務所で役員会を開催し対応を協議し、志村市長は、
  「規定方針通り進める覚悟、みなさんの特段の配慮を尾根がする」
と協力を求める。
 
 同日、3月28日、予算承認を人質に取られた横路知事は、自民党道連・吉田政一議員会長と面談、審議中断を招いたことに遺憾の意を表明すると同時に、

  「(道々小樽臨港線工事について)
   予算案を提出した事業は、
昭和59年度中に実施する方針
 
とする見解を示した。
 結果、北海道議会は同日午後から審議再開される。
 3月31日深夜、北海道議会は新年度予算案を原案通り可決、閉会する。

 たった一人の社会党市議の、ひとりよがりの「市議会発言」が招いた結果だった。

 北海道議会は閉会したが、承認可決された新年度予算案に対して、自民党が主張した七項目の付帯意見が付けられた。
 異例の事態だった。
 その付帯意見とは、
  「(運河埋立の道々小樽臨港線工事関係では)事業の早期完成、関連の下水
   道事業、公害防止事業など、その影響を考えて、五九年度中に行程を完了
   する
としていた。
  「小樽博期間中の工事凍結」という建設大臣と道知事の合意には沿うが、
   『予算は五九年度中に執行する』と自民党は枠をはめた。
ものだった。

  「予算に意見を付した。
   このあと道路促進派と運河保存派の五者会談がいくら開催されよ
   うと知事
は規定方針通りに予算進行をしなければならなくなっ
   た。

 
と小樽選出・久田恭弘道議会議員は、胸を張った。
 
 この道議会でも運河問題で最も激しく横路知事を責め立てた久田道議は、小樽市内のある業種団体の来賓で招かれたとき、来賓挨拶で、

  「横路知事は、道連の頭越しに自民党大臣と道の事業に関して合意
   するという無礼千万な振る舞いをした。
   運河問題など吹き飛んでしまう行為だった。
   ましてや、その知事が運河保存でポイントを稼ぐなど許されるこ
   とではない。」
 
とその心情を吐露した。

 昨年から、道議会・市議会、道知事・市長、元首相・西武・港湾倉庫事業者、建設大臣とありとあらゆる政治勢力が北の一地方都市の運河問題に巻きこまれてきた。
 市議会と市長ではどうしようも打開できなく、運河保存派も百人委員会人もそこに踏み込んだ。
 しかし、そこには運河問題が政治問題化していく危険性を孕んでいた。
 が、政党同士の衝突は、運河問題の本質は置き去りにした党派利害をかけた闘いに陥り安い。
 それが、
   まさに「反横路」の政治路線として体現されて、
   自分たちの町の運河を巡ってまさに起きていた

事態だった。

 この三月の北海道議会ほど、政党間の「政治的力学」で運河問題が振り回されたことはなかった。
 
 そこには、建設省官僚も可能だとする運河を埋め立てない代替ルートを、全政党一致で決定し、西武流通グループの運河地区再開発を誘導し、もって小樽の町の活性化に寄与する、などという志向は一ミリも存在しなかった。
 
 すでに運河問題は一部の市民だけの運動ではなく、
 町を二分する、すなわち保守革新などという世界ではなく、
 保守も含め小樽の町の将来像を市民がどう引き寄せるのか
としてあり、
 そこに政党はどういう役割を果たせるのか
としてあった。

 そのような自覚など片鱗も無い争いだった。
 シトワイヤンがいなきゃだめなのだった。
 

       この項終わり
 ●前
 ● 【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ● 【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ● 【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。