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1984年1月29日北海道新聞

20_01_01. 運動の主導権を巡って、むき出しの党派性が持ち込まれるという、辛く切ない話をしなければならない。


  この11年間の小樽運河保存運動の経緯の中で、自分にとって「一番せつなく辛い」ところまで、とうとう書き連ねてきてしまった。
 小樽運河保存運動から既に40年を経ているにもかかわらず、この1984年昭和59年の新年から春先、そして夏場の「五者会談」(後述)に至るプロセスを思い浮かべると、馬齢を重ねてきてはいるものの、やはり切なさと悔しさがこみ上がってき、忸怩たる思いがつのり、キーボードの指が空を彷徨う。
 運河埋立派とのせめぎ合いなら致し方ないのだが、とりわけ、自陣営の混乱と対立について語るのは、たまらなく寂しい。
 
 戦後、1954年(昭和29年)3月、ビキニ環礁でのアメリカの原水爆実験で、日本の遠洋マグロ漁業船・第5福竜丸を始め漁に出ていた漁船の船員や、近隣諸島の住民が死の灰を浴びて多数亡くなった事件が起きた。
 この事件で、市民の台所・市場に汚染魚介類が持ち込まれる危機感をもった東京・杉並区の主婦達が、その汚染マグロ発生の根源である原水爆実験の反対運動に立ち上がった。
 その割烹着姿の主婦達による原水爆実験反対の署名運動は、燎原の火のように全国に広がり、年末までのわずか10ヶ月で2,000万人を越える署名が集まった。
 この市民レベルの署名運動が契機となって、全政党を動かし、国際的な原水爆禁止運動が起こり、翌1955年には、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催されるまでになる。
 しかし、この戦後の反核運動の大高揚は、
  「いかなる国の核実験反対」とする社会党勢力と、
  「社会主義国の核兵器は侵略防止のためのもので容認すべき」という共産党勢力、
との対立が持ち込まれ、ついに2分裂した。
   「運動の最高揚期に、
    立ち塞がる勢力の方ではなく、その自らの陣営のなかで
    運動の主導権を巡って内部対立が起き、
    むき出しの党派性がその中に持ち込まれ、
    その最高揚期に運動本来の目的を見失い、
    運動全体が空中分解していく」
という、日本の様々な社会・市民運動の膨大なエネルギー浪費の歴史が、政治、社会運動で現出した。
 爾来、戦後の社会・市民運動の歴史は、この「運動への党派性の持ち込み」による分裂とその結果の敗北という憂き目を、悪無限的に繰り返してきた。

 小樽運河保存運動も、この国の戦後社会運動の負の歴史から自由ではない。
 だから、このような戦後社会運動の否定的教訓が、小樽運河保存運動の最初から織り込まれていた。
 小樽運河を守る会の初期、藤森茂男事務局長が制作した「運動の手引き」の中には、

  ・「個人参加」
  ・「政治を持ち込まない」
 
とする記述があった。
 それは、一方で初めてこの町に生まれた市民運動が政財界重鎮政治によって圧殺されるのを防ぎ、他方で市民運動への保守・革新両サイドからの「党派性の持ち込み」に対する、藤森茂男氏の極めて正当な警戒心からであったことは間違いなかった。

 様々な社会運動や市民運動への「党派性の持ち込み」は、どの党や党派もやる。
 彼らには、大なり小なり「それが全てである」からだ。
 だから、そのこと自身を批判しても始まらない。
 しかし、その党派性を持ち込む「手法」に、「党派性の持ち込み方」に関しては、当然批判的視点で警戒をしていた。
 それを、もっとも警戒する藤森茂男氏が、事務局長として「かつてはいた」のだった。 
 
 小樽運河保存運動において、その担い手の若者達を育ててくれた、その若者達の一人である山口保をして「藤森茂男氏一番弟子」と自称させるくらいの、元事務局長・藤森茂男氏だった。
 が、その藤森茂男氏自身の手で、小樽運河保存運動の最高揚期に、
   「党派性が持ち込まれ、それによる対立が仕掛けられる
ことになるとは・・・・。
 それも、小樽運河保存運動の最高揚期になされた。

 私達は、当然それに構えざるをえなくなっていった。
 好むと好まざるとに関わらず、降りかかる火の粉は振り払わねばならなかった。


20_01_02. 小樽運河保存運動内の「一つの傾向」を批判するということは、自己を切り刻みながら点検する作業でもある。


 小樽運河保存運動の最高揚期としての小樽運河百人委員会運動の時期だった。
 国・道・市、元首相・建設大臣、知事・市長、西武流通グループ、自民党・社会党・共産党などの政党など、この国のありとあらゆる組織・団体・政党・勢力・個人を、小樽運河保存問題は否応もなく巻き込んでいった。
 ポートフェスティバルや小樽・夢の街づくり実行委員会を結成したとき、「普遍性を獲得する」と言うと固苦しくなり、夢街らしくないとし、「全国性を獲得する」といったものだ。
 文字通り、全国性を獲得し、全国展開に発展し、日々刻々と進展し、これでもかというくらい様々な事態が勃発するのだった。
 それを、懸命に政治的に判断し、街場の対応策をと私たちは精一杯奔走した。
 
 しかし、そのダイナミックな奔流としか言いようのない運動展開の一方で、運動のイニシアティブを巡る内部対立も、実はピークに向かい激しく渦巻いていた。
 
 勿論、小樽運河保存運動11年の歴史の中で、路線を巡る内部論争がないではなかった。 しかし、それは飽くまでも小樽運河保存を勝ち取るための、自らの展望をひきよせようとする運動「路線」論争だった。
 が、この小樽運河保存運動の最高揚という時期に、一方的に仕掛けられた内部対立は、
   路線論争というレベルとは全く違う、
   実に矮小で低次元としかいいようのない、
   妬み、嫉み、嫉妬という人間のもっとも根源的な醜さに依拠する、
   それを徹底的に政治的に利用する
     「運動の主導権を巡る争い」
だった。
 まともな「路線」論争では、決してなかった。
 
 あたかも路線を巡る装いを取り繕いながら、結局は運動を最も牽引した来た人々を運動現場から「ただ追い落とすためだけ」のものだった
 高揚した小樽運河保存運動の主導権を「奪取するためだけ」に、仕掛けられた「党派制そのもの」だった。

 このような書きようはあまりにも一方的すぎはしないか、と言われるかもしれない。
 申し訳ないが、私自身は「党派性の持ち込み」に最も反対した一方の側に確固としていたわけで、それは今となっては、如何ともし難いし致しかたない。
 だが、私は、11年間の小樽運河保存運動を「観察するために」参加したのではなく、文字通り小樽運河保存運動を一歩でも1ミリでも前進させようとして参加したし、その中で発生した対立では自ら正しいとする側に位置しつづけた。
 だから、第三者的な客観性を私は持ち得ない。
 であればこそ、これからその「対立の構造」とその「構造を形成した人々」の言動を書き連ねていくことで、その内部対立の本質を明らかにしていきたい。

 さて、高揚した小樽運河保存運動の成果と主導権を「奪取するためだけ」に仕掛けられた対立であった、と前述した。
 ということは、一方で、その小樽運河保存運動というものが消滅すればその主導権争奪のための内部対立は何の意味もなくなり、そもそも成立しなくなる、というか成立しようがなくなるはずである。 
 他方、この内部対立が、本当の意味での路線論争であったなら、小樽運河保存運動が終焉してもその総括を巡りクールに話し合えれば、それぞれの路線の検証と点検を経て、新しい方針が模索の末に導き出され、それを実践していくはずである。

 しかし、現実はその前者を証明するかのように、小樽運河を守る会・「反峯山会長グループ」の誰一人として、ポスト小樽運河保存運動には登場しなかった。
 見事なほど、小樽運河保存運動以降の小樽のまちづくり市民運動に彼らは一人として参加することはなかった。
 いわゆる、彼ら「反峯山会長グループ」が「路線」論争を仕掛けたのであれば、大きなうねりになったかどうかは別として、彼らの新たな市民運動を立ち上げたはずである。 
 しかし、である。
 彼ら、「反峯山会長グループ」は、小樽運河保存運動以降わずか三ヶ月で、・・・見事に消滅した

 ここにある事実は、小樽運河保存運動の最高揚期に彼らが仕掛けた小樽運河を守る会や小樽運河百人委員会での内部対立は、
  「まともな路線論争ではなく、ただただ運動の主導権奪取のためだけに仕掛けてきた対立だ
   った」
ということを、再確認させてくれる。

 ただ、藤森茂男氏、唯1人だけ、小樽運河保存運動が終焉して3年後、道々小樽臨港線工事が完了した1年後の1987年昭和62年1月13日に倒れ、逝去するまで、市内梁川通りに構えた「小樽運河画廊」を拠点に、小樽運河の語り部を貫いた。
 その時々での事の善し悪しは別とすれば、この人だけは小樽運河への信念と情念の人だった。
 が、小樽運河保存運動40年ということで、とりわけ藤森茂男氏夫人やご息女のこの街での活躍もあって、藤森茂男氏にスポットライトが当たるようになった。
 藤森茂男氏が、正当にクールに再評価されるのを私は大歓迎する。
 が、そのような動きにあわせ、あたかも自らと藤森茂男氏とが近しかったことを今更のように言う方々が、またぞろ現れているのはあまりにも見苦しい。

 小樽運河保存運動の最高揚の陰で起きた運動内部の対立で、もっとも激しく藤森茂男氏と衝突した山口保が、「藤森茂男氏の一番弟子」と今でも言うのは、その時々の善し悪しは別として小樽運河への信念と情念の人だったことを認めてのことなのだろう。
 山口も信念と情念の人だから。
 一方、私はと言えば、40年を経たからといって情緒的に言うつもりは一切ない。 「反峯山会長グループ」の如何ともし難い行為を、今でもクールに批判的に見続けようと思うだけだ。
 
 峯山会長と意見を同じくする仲間が、1984年(昭和59年)8月に小樽運河を守る会から去った。
 一ヶ月後の9月、小樽運河百人委員会が開催され、その解散を決議した。
 更にその1ヶ月後の、1984年(昭和59年)10月28日、市内の花園スポーツセンター広場で約200〜300人の共産党系労組団体を動員した集会を最後に、「反峯山会長グループ」は実にあっけなくこの小樽の街から雲散霧消した。
 商売の手がすき急いで自転車でその集会場所に向かったが、すでに解散したか、チラシだけが土剥き出しの花園スポーツセンター広場の上を舞っていただけだった。


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1984年昭和59年10月28日の反峯山会長グループの集会で
配布された、最後の運河ニュースNo.591

 小樽運河を守る会・反峯山会長グループはものの見事に完全に消滅したのだった。
 この結果に、全てが如実に示されている。
 
 ここに見られるとおり、「反峯山会長グループ」は、
   現にある高揚した運動の「主導権や成果」を得たいがためには、頑張る。
   が、苦しい中で市民運動を必死に継続することには、全く興味も情熱もなく、顧みるこ
   ともなかった。
ことを意味していた。

 それは、峯山冨美会長の著書名「地域に生きる」ということと正反対だった。
 地域に生きるということは、
  「一つの場所に『根』を張ること」だった。
 小樽運河のような空間にだけ、何かの目的のためにだけではなく、それに参加すること自体がひとつの目的にでもあるような運動が生まれてくること、それを教えたのが「歴史的環境の教育力(=小樽運河のもつ教育力)」だった。
 ただ小樽運河が残ればいいとする人々が、それについに気がつかなかった、というか気がつこうとしなかった。
 「何かの目的のためにだけではなく、それに参加すること自体がひとつの目的にでもあるような運動」は、3.11の福島へのボランティアであり、上関祝島の老人達であり、カイロのタハリール広場であり、オキュパイ・ウォールストリートであり、香港雨傘革命のオキュバイ・セントラルがそれを示している。

 峯山冨美会長はじめ彼女と行動を共にした人々は、小樽運河保存運動終焉後も、小樽の様々なまちづくり市民運動に関わり、新たに創設し、40年後の今でも、それを担い続け展開している。
 その峯山冨美会長の姿の凄みは、受け取る者達などいなくても、贈り続けるその姿である。
 運動を通じて立ち現れる根を下ろしたその姿こそが、小樽運河保存運動を担ったものたちからの贈り物なのだ。

 ・・・勿論、「反峯山」を標榜した人々の中には、実に健気で純真な若者たちがいたし、人の良い木訥とした零細会社経営者や主婦や市井に生きる市民が、いた。 
 その人々が、小樽運河保存運動の最高揚の時に、このような人々に結果的に利用され、振り回され、取った振る舞いを思い出す。
 その度に、彼らを「反峯山会長を標榜する」側に、結果的に追いやってしまった私たちの主体的力量に対して、忸怩たる思いを持つ。 
 峯山会長を支持した私達の
  「主体的力量のなさと包容力や人間としての奥深さのなさ」
が、なんといおうと結果的にはそうさせてしまったことは、否めない。

 そして、その「反峰山会長グループ」の中枢を担った人々のご子息やご親類が、この町で今も生活している。
 この「反峯山会長」を標榜した人々を批判することは、いつでも出来た。
 が、時を隔てて、その関係者が自らの両親や兄弟姉妹や親類への批判を知ったとき、どう思われるか。
 私が拙文を発表しないできたことの理由が、そこにある。


 しかし、小樽運河保存運動が、その最高揚から「壮大なるゼロ」ともいえるような敗北を喫した理由は何なのか。
 小樽運河保存運動が敗北したその本質的問題をえぐりだすには、この小樽運河保存運動に持ち込まれた党派性の持ち込みによる内部対立をも書き記し、それを検証しなければならない。
 又、その検証作業に怯むことは、片手落という誹りを免れ得ない。
 そして、私も当然老いる。
 もはや、70歳近いアラウンド古希となってしまった。
 いつ何があっても不思議でない年齢となってしまった。
 今、ここで書き記しておかねば、まちづくりの現場からの証言はただただ華々しく「かく闘えり」とする、老人のつまらない自慢話になりさがってしまう。

 勿論、小樽運河保存運動の中の一部の傾向を一方的に批判し、それでもって良しとする態度を取るつもりは毛頭ない。 
 たとえ、深い意味は無く平然と他人を批判したり侮辱したりする人をみると、世の中にこういう人がいるのだ、と寂しく思う。
 自分は、その仲間になるつもりはない。
 為にする批判だけはしたくない。
 批判のための批判もしたくはない。

 私にとって、小樽運河保存運動内部における一つの傾向を批判するということは、自己を切り刻むことを意味すると覚悟して記していく。

20_02. 運河埋立派との攻防戦と「反峯山会長グループ」からの対立づくりの流れ


 ここで、1983年10万人署名運動からの時々の運河保存側と埋立派との攻防との関連で、小樽運河を守る会での内部対立を振り返ってみよう。

1983年・昭和58年
 11月10日 百人委員会、小樽運河杭打ち工事開始を12日に控え、緊急集会を天理教館で開
        催、約120名の百人委員会関係、市民が参加。この日までに百人委員会事務局
        9万3千の署名が集約されたことを発表し、参加者の目の 前に積まれて公開
        された。

        そんな中、小樽運河を守る会幹事会に、1976年昭和51年5月に辞任し、以
        降会社の倒産、闘病生活で、小樽運河を守る会活動から離れていた元事務局長・
        藤森茂男氏
が、1979年昭和54年11月突然4年ぶりに共産党系労働団体が
        起こした直接請求運動に「共産党と保存派の共闘・連携」を強引に迫ってきた。
        当時の小樽運河を守る会や夢街は苦渋の選択で、藤森茂男氏と政治的決別したの
        だったが、再びそれから4年ぶりに
小樽運河を守る会幹事会に出席するようにな
        る。
        それと合わせたように、藤森茂男氏以上に小
樽運河を守る会に参加していなかっ
        た、
佐藤純一氏(共産党が多数派の北教組小樽支部高校部会役員・小樽工業高
        校教諭)
も、出席するようになる。         
        その藤森茂男氏は、
          
         ・小樽運河を守る会の幹事会のありよう
         ・小樽運河を守る会の役員体制
        を批判開始。
 
 11月19日 百人委員会が市に九万八千の署名を携え市長面談を求める。
        市役所、再考の余地なしの対応に終止し、小樽運河百人委員会は、
          『やむにやまれず、市民に残された手段はリコールしかない』と、はじめ
        てリコールを言葉にする。 

 12月    少数派運動に転落して一番厳しい時代を事務局長として頑張って頂いた増田又喜
        事務局長
が、小樽運河を守る会の矮小で消耗な内部対立に幻滅し、体調
不良を
        理由に事務局長を辞任し、以降幹事会には顔を一切出さなくなる。
        再登場したばかりの、佐藤純一氏が事務局長代行に就く。

 12月末   年末から年始にかし、西武流通グループ・堤代表が、、懇意の水野清建設大臣、
        そして田川誠一自治大臣に「小樽運河は全面保存すべきだ」と働きかけを開始す
        る。

1984年・昭和59年
  1月12日 水野建設大臣が埋立を主張する市側の真意をただそうとなり、志村市長、箕輪登
        衆議院議員と二人で水野清建設大臣に面談

  1月17日 西武流通グループの堤清二代表の斡旋で、百人委員会は代表幹事の峯山・村上両
        氏ら七人が水野建設大臣、田川自治大臣への陳情。
        同日午前、小樽商工会議所首脳も百人委員会と表面的には別に、先に水野建設大
        臣、田川自治大臣に陳情。

  1月19日 小樽市、建設省から一〇万人署名コピーを取り寄せ、選挙人名簿と照合を検討。

  1月20日 横路知事知事、それに小樽商工会議所会頭川合一成氏と志村市長が都内で極秘で
        会談。

  1月27日 小樽市と百人委員会は会談を持つ。
        志村市長は昭和54年度小樽市予算編成を理由に出席せず、林正大助役、平野大
        秘書課長が応対し、市の再考姿勢は示されず、物別れに終わる。         百人委員会は、
         「近く、志村市長リコールのための『準備委員会』を設立する。」
        と声明を発表する。
        小樽運河を守る会・藤森茂男氏、リコールに疑問あると小樽運河百人委員会運動
        に明確な批判姿勢を露わにする。

  1月29日 箕輪登代議士、花園町の事務所で小樽の政財界のトップ会談が隠密裏に開催。

  1月31日 横路道知事は月末の記者会見
         「情勢が変わってきている。 地元選出の箕輪氏に地元の合意を図るようを要
          請している。」
        と発言。
        箕輪登氏は青年会議所の7〜8人の幹部を事務所に呼び、
          「運河という素材を『まちづくり』に生かさなければならないのだが、市に
           はその適応力がない。これは運河問題にとどまらない。
           小樽が分裂し、騒ぎになるのは困る。」

  2月 1日 公明党道本部,埋め立て推進路線を変更し,運河全面保存へ方針転換する。

  2月 3日 箕輪登氏、百人委員会の代表と面談し、
         「道々小樽臨港線を建設する運河問題は道の事業なのだから、リコールを市長
          にむけるのはおかしい。

        とリコールを押しとどめようとする。

  2月 5日 小樽運河を守る会幹事会で、藤森茂男氏は、
          「市長へのリコールするなら、横路知事にこそ」
        と公言する。

  2月20日 市側が、百人委員会の集めた九万八千の署名の点検照合作業の結果を公表した。
         ・小樽市民の自筆による署名:4万7千
         ・自著でない署名     :4万5千
         ・市外の署名       :2千3百
         ・自著の4万7千のうち選挙人名簿登録者:2万8千6百
        と発表する。

  2月22日 自民党小樽支部総務会を開催し、
         (1)百人委員会の市長リコールに対抗し「志村市長を守る会」をつくり、
            反リコール運動を進める。
         (2)小樽商工会議所に埋め立て見直しを断念するよう要請する。
         (3)運河埋め立て・道路建設促進のための経済団体による幅広い組織をつく
        る。
        と決定。 

  2月23日 志村市長と横路知事知事が札幌で会談。
        5分間もなくほとんど「喧嘩別れ」の状態だった。この直後、知事周辺からは
         「もはやリコールも含め、運河問題で『全面戦争』になるのも           やむを得ない
        という受け止め方に変わっていく。

        2月22日の自民党小樽支部総務会決定の、(3)の運河埋め立て・道路建設促
        進のための経済団体による幅広い組織」準備会づくりを自民党小樽支部主導で進
        めていく。

  2月25日 開催予定の小樽商工会議所・常議員会での道路見直しの「但し書き」条項外し工
        作を進め、またその趣旨の文書を各常議員に郵送する。

  2月25日 小樽運河百人委員会会議で、共産党系労組団体代表は
         「リコールは慎重にやってもらいたい、組織の不十分である。」
         「リコールという政治的なことは小樽運河百人委員会に馴染まない。」
         「情勢が緊迫しているというが、はたしてそうなのか?」          「知事への陳情や道議会への請願をもっとすべきだと思う」
        と意見をだす。

  3月    小樽市定例市議会開会  
    
  3月 5日 百人委員会人のメンバーも含め,、別組織の「リコール準備委員会」の設立を検
        討することを決め、発足。  

  3月 7日 「道々小樽臨港線早期完成促進期成会」が再発足し、会長は小樽倉庫協会会長・
        菅原春雄氏が就く。

  3月10日 箕輪登氏は東京田中事務所で、田中角栄元首相、西武関係者と会う。
  3月16日 小樽運河百人委員会は、札幌市自治会館で「小樽運河を守り抜く全国集会」を運
        河保存5団体で開催する。

  3月19日 小樽市議会・建設常任委員会は、小樽運河百人委員会から出されていた「運河埋
        立の再検討を求める」陳情を賛成少数で不採択する。
        小樽運河を守る会の請願採決のため紛糾し市議会会議を3月23日まで延長。
        埋立派のトップ、菅原春雄氏(小樽商工会議所運河地区再開発特別委員長・道々
        小樽臨港線早期完成促進期成会会長)は、
         「これまで会議所は内部の対決を避けすぎた面がある、言うべきことはハッキ
          リ言った方が良いのではないか。 
          むしろ対決色を強めた方が小樽の宣伝になるのでは。」
        と発言。

  3月20日  タウンフォーラムOTARU 1984」として、この年も3度開催された、
        運河保存まちづくりフォーラムパート3の意見交換の場で、小樽運河を守る会副
        会長・北村聡司子氏が、
          「私たちは運河はただ残ればいい。
           運河は、水辺として親しめるものなどではない。運河問題を、『まちづく
           り』の概念の中で捉えると、その中に運河の価値が埋没してしまうのでは
           ないか

        と発言する。 
 
  3月22日 社会党山口鶴男国対委員長、井上普方同副委員長、北海道1区選出小林恒人衆議
        院議員が、国会内喫茶店で水野建設大臣と会い、水野建設大臣は、
         「当省としては小樽の街の混乱を避けることが重要であると考える。このため
          (既に計上している)予算をどうするかは、他の事業に流用することも含め
          て(何らかの方法を採ることを)了としたい。その検討期間としては小樽博
          後までとし、それまでは工事を凍結する。」         と発言。

  3月23日 「運河問題に関する経過報告について」とする川合会頭名の文書が会議所議員に
        送付された。
         「建設、自治両大臣、道知事は運河埋立の行政手続きは終わってはいるが、地
          元の合意があれば道路はどのようにも変更が可能だという考え方を示した。
          道開発庁長官も百年の大計のために埋立をもう一度考え直すべきだ、と語っ
          ている。」
         「しかし、これらの以降に対し、市側は真剣に対応しようとしていない。会議
          所は内部の対立抗争を避け、話し会いによって、社会情勢の変化に対応し得
          る行政を求めるべきである。」         
        としていた。

        同日、小樽運河を守る会から提出された請願を審議した小樽市議会定例議会総務
        常任委員会で、社会党議員が
         「六月からの小樽博開会を前にして、運河問題を巡って地元のコンセンサスが
          得られているとは認めがたいということから、水野清建設大臣は『道々小樽
          臨港線建設の昭和五九年度予算をほかに流用してもよい。この問題について
          は横路道知事と協議する。』との考えだと伝えられている」         ことをあきらかにし、市議会は混乱する。  

  3月23日 小樽運河を守る会幹事会で、藤森茂男氏、
         「今の守る会の現状はよくない。小樽運河百人委員会を認めたのも問題。その
          百人委員会が市長リコールを提起しているが、疑問がありすぎる。
      

  3月26日 水野建設大臣は、横路知事と建設省で協議を持つ。
        建設大臣は、
         「運河埋立の道々小樽臨港線建設工事予算は国として配分するが、予算の執行
          は小樽博覧会終了まで繰り延べてはどうか」
        とし、横路知事は、
         「適切な措置をとるよう努力する」
        と同意した。
        建設大臣は記者会見をしこの考えを発表、志村小樽市長にも電話で伝える。

  3月27日 自民党道連・自民党小樽支部は強く反発し、建設大臣と北海道知事に対し「議会
        軽視」と大反発する。
        北海道議会最終日の定例道議会で、自民党道連が
         「建設大臣の頭越しの意思表明とそれへの道知事の同意は議会軽視である」
        とし審議拒否に入る。

  3月28日 自民党道連は上京し、水野建設大臣に抗議する。
        予算承認を人質に取られた横路知事は、自民党道連吉田政一議員会長と面談、審
        議中断を招いたことに遺憾の意を表明すると同時に、
         「(道々小樽臨港線工事について)予算案を提出した事業は、昭和五九年度
        に実施する方針

        とする見解を示し、北海道議会は、審議再開される。

  3月31日 北海道議会は新年度予算案を原案通り可決、閉会する。
        北海道議会は閉会したが、承認可決された新年度予算案に対して自民党が主張し
        た七項目の付帯意見が付けられた。
        異例の事態だった。その付帯意見とは、
         「(運河埋立の道々小樽臨港線工事関係では)事業の早期完成、関連の下水
          道事業、公害防止事業など、その影響を考えて、五九年度中に行程を完了す
          る」
        としていた。
         「小樽博期間中の工事凍結」という建設大臣と道知事の合意には沿うが、『予
          
は五九年度中に執行する』
        と自民党は枠をはめた。」
        ものだった。

  4月 3日 小樽運河を守る会幹事会、藤森茂男氏、
         「百人委員会より、かつて作った『市民連絡会議』がご無沙汰の状態、『市民
          連絡会議』 の復活を提案。

  4月 9日 小樽運河を守る会・暫定役員会開催

  4月13日 小樽運河を守る会幹事会、小樽運河を守る会の「事務所」問題を新たに持ち出
        し、峯山冨美会長宅から事務所を移動させようとする。

  4月20日 横路道知事は、小樽に来訪。埋立・保存両派の機関・団体代表と個別に会談し
        、共同のテーブルにつき話し会い解決を提案する。

  4月21日 小樽運河を守る会幹事会、小樽運河百人委員会の「市長リコール」に対して、
         
        (1)住民投票に問うため、その条例制定を求めていく。
 
        (2)小樽運河百人委員会一〇万名署名とは別に、有権者の過半数を超える署名
           を集め、道に請願陳情をするべき
        とする論議で紛糾する。。       

  4月27日 小樽運河を守る会幹事会、峯山会長以下会議で確認もせず、藤森茂男氏と佐藤

        務局長代行が「市民連絡会議」開催の呼びかけ文を自己判断で作成、配布し
てい
        たこと
が判明し紛糾し、佐藤事務局長代行が撤回する。



注: 
   以降、小樽運河保存運動内部の傾向を便宜上、「峯山会長支持グル
   ープ」、「反峯山会長グループ」と区別し、使用する。

   「峯山会長支持グループ」は、小樽運河を運河単体として凍結的に
   ただ保存する路線は手法として不可能であり、運河とその周辺石造
   倉庫群や歴史的建造物を斜陽小樽からの再活性化の中心軸と捉え直
   すことを提唱し、小樽運河エリアの賑わいの復活させる小樽まちづ
   くりのキーポイントとして位置づける。
   当時、私自身は『まちづくり』派と自称した。 
   いわゆる「社会的コントロールの下での動的保存」グループの総称
   である。
   人格的には、峯山冨美会長を人格的代表とし、石塚雅明氏らの通称
   北大グループ、山口保・佐々木一夫・私ら、小樽運河を守る会や夢
   街の当時の若手主要スタッフを指す。

   それに対して、「反峯山会長グループ」は、人格的には、小樽運河
   を守る会元事務局長・藤森茂男氏や佐藤順一(北教組高校部会教
   員)事務局長代行など共産党系労組を軸にした「何が何でも主導権
   奪取」グループや、更に主導権奪取に加えて「『運河はただ残れば
   いい』とし、保存・再生まではいいが『再活用』までいうのは都市
   計画につながり、それは「まちづくり」まで行き着き、行政や経済
   界のいう経済活性化策に巻き込まれ、市民の身の丈にあわない運動
   となると主張する」小樽運河を守る会副会長・北村聡司子氏や子息
   で再建役員会書記・北村哲男氏のいわゆる「凍結的保存」「運河保
   存限定主義」グループ、それに一部中間派も加わるアマルガム的傾
   向の総称として使用する。 

   これはあくまでも、私個人の便宜上の使用である。 
 

 
 ・・・上記の年表の経緯を見ていただけば、わかるだろう。

 小樽運河を守る会の11年間の苦闘の末、小樽運河百人委員会が切り開き、国・道・市を巻きこみ、運河埋立派と運河保存派の真っ正面からのせめぎ合いのプロセスに突入していた。
 が、わが
   「反峯山会長」グループは、全くその情勢に、状況に介在しようとしなかった
ことが、あらためて理解出来るであろう。

 その運河埋立派と運河保存派の予断を許さないせめぎあいの中で、運河保存派として少しでも街に位置しようとし、小樽運河保存運動を何とか少しでも前進させようとする方針を論議しようとするはずである。
 が、そのような姿勢をとろうとはしなかった。
 「反峯山会長グループ」はそのような小樽運河保存派として真摯な姿勢を一切取らず、状況の進展には信じられないほど無関心に近かった
 ただひたすら、小樽運河を守る会の
   内部対立を意識的に拡大する
ことだけを目的とした。
 
 以下、詳細を述べていこう。


20_03. 一〇年前にけりの付いた論争が持ち出される


 私が、最も誇るべき「まちづくり」運動としての小樽運河保存運動の特徴は、常に外には市民意識を揺り動かし、内には主体の力量を蓄える理論構築を学習会やシンポジウム・フォーラムを開催しながら、11年間担われたことだ。
 その理論構築や学習会やシンポジウム・フォーラム開催の企画は、圧倒的に北大グループに依拠していた。
 どうしても、私たちは現下の課題に囚われがちで、状況から1歩独立した意識をもたないとこのような理論構築の準備も企画もできない、大事な作業だからだった。

  それは、11年目の1984年(昭和59年)、運河埋立派と運河保存派が、国・道・市、元首相・西武流通グループ・建設大臣、知事・市長とありとあらゆる組織・団体・政党・個人を浮上させ、激しい水面下とむき出しの地表での攻防をしている最中でも、忘れずに営々と続けられた。
  「このような状況であればこそ、小樽運河保存運動が提起した
   本質的な問題について真摯
な議論を市民はしよう。
と、「タウンフォーラムOTARU 1984」として、この年も3度開催された。
 そのパート3は、1984年(昭和59年)3月20日、道議会を巡り、建設大臣の小樽博期間中の工事凍結や道路促進派による小樽商工会議所会議所議員総会での会頭追い落とし策という熾烈な工作合戦の、まっただ中でも開催された。
  「港湾都市を再生するー小樽運河の意味するもの
  「都市再生と運河問題」 
というテーマで、宮本憲一教授(当時・大阪市立大学)の講演と意見交換だった。
 宮本憲一教授は、

   (都市問題として、まちづくりのあり方を力説し)とりわけ最近
   
『まちづくり』には『親水』という概念が非常に重要視される
   ようなっており、それは水辺空間の重要性を再認識することで
   ある。
 
と講演された。
 そして、その講演後の意見交換で、あっけに取られる発言が小樽運河を守る会副会長・北村聡司子氏から飛び出した。

  「(私たちは、ただ小樽運河が残ればいいのです。)
   『親水』ということにどんな意味があるのか?
   運河は、水辺として親しめるものなどではない。
   運河問題を、『まちづくり』の概念の中で捉えると、
   その中に運河の価値が埋没して
しまう
   のではないか」
 
とする、意見を述べた。
 宮本憲一氏は、流石でそれには直接反応をしないでくれた。

 すでにこの頃、もう小樽運河を守る会では「反峯山会長」を標榜する人たちの振る舞いは、この北村聡司子副会長の発言に見られるように、
  「ただ運河が、残せればいい
とする、路線としては「反まちづくり」として表現された。 
 彼ら小樽運河を守る会副会長・北村聡司子を一方の人的代表とする
  「反峯山・反まちづくり
の路線は、すでに内部論争では破綻していた。
 
 かつて、1980年(昭和55年)5月に開催された全国町並みゼミの準備過程で、北村聡司子氏の子息・北村哲男氏が 、

  「『保存・再生』まではいいが、「再活用」をテーマにするとそこ
   から「まちづくり」に発展してしまう。 
   再活用やまちづくり、それは都市計画に近く、それを考えるのは
   行政・経済界の責任である。
   市民運動は、それには経験不足だから言ってはならず、言えば行
   政や経済界に巻きこまれてしまい、市民運動自身が変質し堕落し
   ていくので危険だ。
   小樽運河を守る会は、過去から今も、『再活用』や『まちづく
   り』を言ったことはない。
」 

 
とする主張の今更ながらのぶり返しでしかなかった。

20_05_1984S591029_unganewstop

 反峯山会長グループが完全消滅する寸前に、
 小樽運河保存運動が終焉し「峯山会長支持グループ」が全員小樽運河を守る会を去って後、彼ら「反峯山会長グループ」だけで編集し市内に配布された1984年(昭和59年)10月25日発行の「運河ニュース第591号」のトップロゴには、

  「運河はきれいにし、石造倉庫は外観保存につとめ、周辺の諸開発
   を含め大運河公園とし、小樽再活性化の基点
としましょう」
 
と、1973年昭和48年の小樽運河を守る会の「基本提唱」を大きく掲げている。

 まだ、藤森茂男事務局長の時代には、「まちづくり」という言葉さえない時代だった。
 「町並み」という言葉はあっても、「まちづくり」という言葉はなかった。
 アイデンティティなどという舌を噛みそうな言葉などなかった。
 初めてその言葉を聞いたとき、北大3人組の誰かから説明を受けて、
   「なんだ、『お里が知れる』の『お里』って意味だな」
と言って、教えてくれた北大3人組の一人は教えるのが面倒になり、「まあ、そういう事だ」と笑ってくれた。
 そんな時代に、この小樽運河を守る会の「運動の手引き」や「基本提唱」には、後に使われる「まちづくり」の思想は織り込まれていたのだった。
 ましてや、これまで観光地だけのものだった「観光」が、観光地ではない普通のまちにとっても有用な概念になったこと、あるいは、これまで内々だけの活動でしかなかった「まちづくり」を外部の視点を入れる活動に変えたことである。
 それが、今日の観光まちづくりに繋がってきている。

 が、小樽運河を守る会副会長北村聡司子氏は、その小樽運河を守る会の「基本提唱」すら認めない、いやそれすら知らないわけである。
 にもかかわらず、副会長を務めておられるわけだった。

 小樽運河を守る会の創立当初から、運河保存を訴える活動をまとめた「運動の手引き」で
   『守るってことはどういうことか
として市民に訴えてきた。 
 元事務局長・藤森茂男氏自らが手を入れ作成したその「運動の手引き」の中に、

  「ただ運河を残すだけを小樽運河を守る会は言っているのじゃない。
   運河沿線に『大運河公園』をつくり、その周囲に歴史的建造物を
   再活用して倉敷
アイビースクエアのような若者ツーリストをター
   ゲットにした宿泊施設などを配
置し、賑わいを取り戻す。」 
 
と、明確に『再活用』をてこにした『賑わいづくり』を、つまり『まちづくり』を宣言していた。
 小樽運河を守る会が

  「『保存』だけをいい『再活用』などは言ってきたことはない
 
という欺瞞的な主張を全面に振りかざし、小樽運河を守る会の基本提唱さえ歪曲し、これまで指摘され破綻し賞味期限済みの論理を、再び三度持ち出すわけだった。
 ということ、それは、懸命に少数派から脱却しようと
  「どのようなイメージで、小樽運河保存運動を進めるのか
として、頑張り言い続け運動を先頭で担ってきた小樽運河を守る会の多数を占める、峯山会長以下の会員の意見を、切り捨てることを目的としたもの以外の何ものでもなかった。
 
 確かに、新しい小樽の『まちづくり』の切り口に『観光』を、と私達は提案した。
 しかし、心ない観光事業者による安物低俗土産観光に流れる危険性は否定出来ない。   
 だからこそ、
   『まちづくり』市民運動は永続的に世代交代をしながら進めなければ
    ならない
とした。  
 つまり、
   「市民一人一人が自分の町の将来について、自己決定権を持ち、市民自治
    がこの小樽まちづくり市民運動を経て形成され、根付く街にしていくこ
    とだ

とした。  
 小樽運河を守る会が「運河がただ残ればいい」とするならば、それは、市民としての責任回避と逃亡路線にしか映らず、市民は相手にもしなかっただろう。
 
 佐々木一夫・興次郎が、北村聡司子・小樽運河を守る会副会長の発言に、呆れるようにつぶややいた。
  「一〇年前にけりのついた論争
と。

 そもそも、市民運動は違い様々な人々、様々な発想の人々の集合と言っていい。
 当然、意見の違いを抱え込んで成立している。
 だから、小樽運河保存運動の前向きな論議・論争なら、喜んで参加してきた。
 が、これまで問題にもされてこなかったこの少数意見が、小樽運河保存運動の最高揚期に「亡霊のように登場してきた」ことの意味は、至極簡単だった。
 
 「反峯山会長グループ」は、小樽運河保存運動内に、

   敢えて意見の相違を醸成し、亀裂をつくり、この少数意見の「た
   だ保存だけでいい」と
する同調者・味方を結束させ、『峯山・ま
   ちづくり』派を「敵」としてクローズアップ
させ、その追い落と
   しでもって小樽運河を守る会の主導権を奪取しよう
 
という手法だった。

 論争の決着、などが目的ではなかった。
 保存運動の勝利、という目的も喪失していた。
 峯山会長を支持し、真っ当に運動を進めようとする石塚雅明氏や山口保氏をはじめ、いわゆる動的保存、保存・再生・再活用の手法で街に賑わいを取り戻し、街を元気づける「まちづくり市民運動」を志向する我々を、小樽運河を守る会から
  追い落とすための手段として、路線を装っただけ
だった。
 手段を目的化した人々だった。
 対立形成だけの人々だった。 
  
  注1:小樽運河保存運動における路線論争については、本サイトの
     「13. 全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
     の項で記載しているので、そちらを参照して頂きたい。


20_04. 意識的に事実をねつ造し、それをもって峯山会長以下の批判を強め、それでもって小樽運河を守る会に対立関係を形成し、自分たちの位置を作ろうとした。


 四〇年前だった。
 1974年(昭和49年)2月、藤森茂男氏は小樽運河を守る会発起人会を結成・発足させ、その事務局長に就いた。
 1976年(昭和51年)5月に、突然病気を理由に辞任した。 
 当時、
  「経済界重鎮から事務局長を降りないと商売上で圧力をかけられる
   となり、会社経営上辞任せざるを得なかった」
と、2006年北海道新聞の「運河論争20年-あのとき私は−」で、奥様の藤森茂子氏が取材に答えている
 その年、1976年12月末には、経営されていた広告看板会社が倒産し、 1977年(昭和52年)には脳溢血で倒れ、その後、更に二度同じ病で倒れられ、闘病生活となられ、治療とリハビリに専念されて、私たちとの交通関係は希薄化していかざるを得なかった。
 そして、藤森茂男氏は、私たちにはその辞任理由を最後まで言わないで、他界された。

 越崎宗一会長逝去、藤森茂男事務局長退任に伴い、1978年(昭和53年)5月25日、小樽運河を守る会は、実質1975年(昭和50年)以来、三年ぶりに小樽運河を守る会総会を開催し、新体制が承認される。
 
 会長  :峯山冨美(主婦)
 副会長 :松本忠司(商大教授)、
      千葉七郎(画家・高校教諭)、
      北村聡司子(主婦)
 事務局長:増田又喜(高校教員)
 組織部長:豊富智雄(団体役員)
 企画部長:石塚雅明(北大院生)
 宣伝部長:琴坂守尚(高校教員)
 事業部長:米谷祐司(詩人)
 財政部長:堀井俊男(会社役員)

 この二人の指導者を欠いて、危機的状況になり、小樽運河を守る会はそうでなくても少数派運動に陥っていった経緯は、各項で縷々述べて来た。 
 そして1979年(昭和54年)年末に、私たちは、
   リハビリに専念されておられるとばかり思っていた、藤森茂男前事務局長氏と、約4年ぶ
   りに
思いも寄らない突然の再会
をする。
 それも、藤森茂男氏が共産党系労組団体と一緒に姿を現したのだった。
 共産党系労組団体と市議から呼びかけられた「運河保存条例制定直接請求」署名運動への参加要請の会議の場だった。
 共産党市議や共産党系労組役員と一緒になり、藤森茂男氏本人が、
  「ここに至っては市民運動と政党との関係などを、とやかくいっている時期ではない。
   直接請求の会と小樽運河保存派が、共同歩調をとるべきだ
と、峯山冨美会長や夢街に迫ってきた。
 呆気にとられながら、藤森茂男氏の意図は何かと唸って聞いていた。
 
 当時の小樽運河を守る会と小樽・夢街は、やっとポートフェスティバルの成功によって、
  「小樽運河を守る会は、アカ
とする分断と孤立化キャンペーンを払拭でき、強制されてきた少数派運動から「小樽再生のキーポイント・小樽運河」として、市民的裾野を拡大できる攻勢的な小樽運河保存運動の扉を開けたばかりだった。
 その段階で、一特定政党の共産党と共闘するなど、元の木阿弥に戻す行為だった。

 会議で、夢街は我慢出来ず、
  「そもそも、小樽運河保存運動は「個人参加」と「政治をもちこまない」運動が本来である
   と運動当初から若者達に諭してきたのは、藤森茂男氏ではなかったか」
と訴えると、藤森茂男氏は、
  「俺に説教するのは、一〇年早い
と、実に感情的で、エキセントリックで、傲慢ともいえる物言いが藤森茂男氏から返ってき、皆、驚かされた。
 こんな傲慢な物言いをされる方では、なかったのに。

  (注: 12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名を参照ください。
 
 私たちは、その共産党系労組団体主導による「運河保存条例制定直接請求」署名運動には、最終的に団体としての参加を遠慮した。
 あまりにも唐突で、状況認識に相違のある判断での共闘要請だった。
 共産党系労組団体には要請を固辞しても、関係は彼らの方から以降も求めてくるが、藤森茂男氏からの要請固持は今後の関係の破綻と決別をも意味した、・・・が致し方なかった。
 運動の今後の展望と個人的関係維持の選択は、前者しかなかった。

 そして、会議で別れて以来藤森茂男氏の方から私たちに一切接触を持とうとはされなかった。
 それから、また五年を経ての、1983年(昭和58年)秋の、小樽運河百人委員会の結成と10万人署名が八〜九万人に迫るという時期を狙って、三たび小樽運河を守る会幹事会に藤森茂男氏は姿を現した、わけだった。
 「運河保存条例制定直接請求」署名以降も、小樽運河を守る会には一度も出席されなかったのに、である。
  強烈な再々デビューだった。
と、小樽運河を守る会のメンバーは言った。
 
 藤森茂男氏は、
 
 「(10万人署名運動の「盛り上がり」を評価しながら)最初は自
   分一人で保存運動を始めたが、そのやってきたこと、言ってきた
   ことに、間違いはなかった。
 
と繰り返し言われ、10万人署名運動の「盛り上がり」を評価しながら、一方返す刀で、

  「小樽運河を守る会の独自性はどこへいったのか。
   小樽運河を守る会の『10年の操(みさお)』はどうなったの
   か。

 
と主張し小樽運河を守る会と小樽運河百人委員会の関係に鋭く異議を表明し、その小樽運河百人委員会が「志村市長の退陣要求も辞さない」と構えをみせたことには、

  「支持してくれる団体には、どんな団体でも入ってもらわねばなら
   ない。 
   そしてリーダーシップは我々が取る。 
   政党の中でも運河保存に最も熱心なのは、共産党である。
   小樽運河を守る会と共闘でき、小樽運河を守る会の総力を挙げて
   取り組む

 
と、露骨に藤森イニシアティブと共産党共闘を語るのだった。
 そして、

  「小樽運河百人委員会の動きは、小樽運河を守る会にそぐわない。
   小樽運河を守る会は、小樽運百人委員会の結成を認めたのか。
   私の所へは趣意書が一枚届いただけだ。
   ここ五年ばかりの小樽運河を守る会は、市民運動体としての形を
   なしてい
ない。
 
と言い切り、自分が今でも小樽運河保存運動の代表者であり牽引者でもあるかのような物言いをし、直接請求署名活動参加要請固辞以降の小樽運河を守る会活動を公然と否定し、直接請求署名活動時にはみせなかった「反峯山会長」姿勢を露骨にむき出しにされた。

 小樽運河百人委員会運動は、道路促進派の牙城とみられていた小樽商工会議所の4正副会頭が大方針転換したのを受けて、これまでの保存派市民の枠(小樽運河を守る会)を越えた、商店主や経済人も運河保存の声を公然と上げる機運をより発展させようと結成された。
 それは、小樽運河を守る会内に閉じこもるのではなく、
  「保守層をも運河保存に取り込む」
ことで、さらに市民的裾野を攻勢的に拡大する方針だった。
 保守層が参加を得やすいように、革新系団体や市議などが表面にでることを意識的に避けて、小樽運河百人委員会自身が党派的・政治的色合いを出さない、とする徹底的に市民の多数派獲得を意識した配慮によるものだった。
 ましてや、小樽運河を守る会や小樽・夢の街づくり実行委員会を解散したり、ましてや解体する、などというものではなかった。 
 飽くまでも、この小樽運河百人委員会運動のベースは、これまで10年近くの運動を支え抜いてきた小樽運河を守る会であり、小樽・夢の街づくり実行委員会だった。
 それは、小樽運河を守る会にも、小樽・夢の街づくり実行委員会にも受け入れられた。
 そして、小樽運河百人委員会の代表幹事は、峯山会長・佐々木一夫氏・村上勝利氏・長谷川伸三(小樽商科大学教授)・松田淳二(水産加工業役員)の5人が選出された。 そこには、小樽運河を守る会と小樽・夢の街づくり実行委員会も位置を占めていた。
 保存派のイニシアティブは、小樽運河百人委員会内に十分担保されていた。
 
 しかし、藤森茂男氏にとっては、事務局長を辞任されて以降の、
   1976年(昭和51年)からの7年間の小樽運河保存運動
は、承認出来ないものであったらしい。
 が、承認するもしないも、現実は今日まで進展してきたわけであり、それを否定してもそれは観念でしかなかった。 
 藤森茂男事務局長の突然の退任や越崎宗一会長の突然の逝去の混乱と危機的状況の後を引き受け、献身的に会長を務めてきた峯山冨美会長への労いや感謝の言葉は、一言もなかった。
 氏が諭し育てた若者達が、つまり弟子とも言える若者達が、氏が去った後の危機的状況と少数派運動に陥った状態から、どれだけ苦労して小樽運河保存運動をここまで盛り上げてきたのかを、全く顧みなかった。
 そして、氏には当然なのだろうが、既に10万人に達する勢いの署名運動を展開してきた小樽運河百人委員会そのものを、否定していた。
 
 約八年間のブランクがあるにも関わらず、
  現実に自分の頭をあわせるのではなく、現実を自身の頭に合わせる
とする藤森茂男氏になってしまっていた。
 
 要は、峯山会長以下の小樽運河保存運動を牽引してきた人々は、小樽運河百人委員会運動が
  「保存運動の発展の帰結
としたのに対して、藤森茂男氏は
  「小樽運河を守る会の自主性・独自性を喪失させるもの
として、批判的立場をとった。
 このような、着地点のない論争を藤森茂男氏は意識的に仕掛けてきた。
 
 それは、決着を目的とするのではなく、
   批判的立場を保持することで、何とか自身の位置を築こうとする目的だけの論争
だった。
 
 藤森茂男氏が、継続して小樽運河を守る会幹事会に出席するようになったのは、小樽運河百人委員会の10万人署名運動が、ついに9万8千の署名数を得た時点の、1983年(昭和58年)も12月に入った時期だった。
  「市長がこの署名を見ても埋立を再考しなければ、やむをえず市長リコールを
   考えねばならない
とする姿勢を見せて、道路促進派や市・道・国に「揺さ振り」をかける時期だった。
 「ジャブ」攻撃だった。

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 翌年1984年(昭和59年)1月27日、道路促進派の巻き返しに対して
  「リコール準備委員会の立ち上げを検討」
と、更なるジャブ攻撃姿勢をみせた。
 藤森茂男氏は、すぐさま異議を唱えた。
  「市長リコールを取り組むには、もっと市民に考える時間をあたえるべき。 
   『どうしてリコールをやろうとするのか』
と批判をしてくれた。

  1989年昭和59年10月に反峯山会長グループが最後に発刊した「小樽運河を守る会ニュース」の座談会で、「後付け」でそう語っている。
 これは、いかにも「ためにする」批判だった。
  「この段階で、すぐさまリコール『発動』をする
と、あたかも峯山会長が言ったとし、事実をねつ造した。
 小樽運河百人委員会は、一言も言っていなかった。
 だからこそ、リコール「準備委員会の立ち上げだった。
 そもそも前年の統一地方選で、志村市長は選挙をくぐり抜けていた。
 公職選挙法マニュアルを読み、リコールについての学習会をし、
  「選挙制度上当選から1年を経た、4月30日以降でなければ
   
リコールをかけられないのは衆知の事実
だった。
 その年の1月26日ではリコール発動をしようとしても出来ないにもかかわらず、 
  「明日にでもリコール発動をする
かのごとく、記述していた。
 リコール『準備会』立ち上げ」を、「リコール発動」に言い換えた。
 よく政党が使う、自らを後付けで正当化する手法だった。
 
 小樽運河百人委員会はリコールを実施するとなると、6月から8月の小樽博不成績と絡んで、運河問題だけではなく志村市政全般の様々な不満を組織するリコールとしていた。
 百歩譲って、
  「もっと市民に考える時間をあたえるべき。」
と言われるまでもなく、だからこそ検討した上での「リコール準備委員会の立ち上げ」としていた。
 一事が万事、このように事実を歪曲し、彼らが峯山会長を批判する「ため」に次々事実わい曲、ねつ造をしていった
 
 そして、この小樽運河を守る会での藤森茂男氏の言動に、それまで全くその主張に賛成を得られなかった、小樽運河を守る会内の少数グループの悲哀に甘んじてきた、
  「ただ運河さえ残ればばいい
とする、北村聡司子・小樽運河を守る会副会長以下の人々が、元気づけられ接近ししていった。
 いや、北村聡司子・小樽運河を守る会副会長以下の人々の存在を計算に入れて、その存在に依拠してこそ、藤森茂男氏は登場できたのだった。
 
 それは、小樽運河を守る会副会長・森本光子氏(画家)もそうだった。
 小樽では、名の知れた画家夫婦であり、画家としてのプライドもあってか、峯山会長の後塵を拝するするのに、不満があった。
 しかし、彼女は気がついていなかった。
 森本女史のエキセントリックな語りとは全く違う、峯山冨美会長の語りだった。
 教員経験もあり、プロテスタント教会理事で、説教のうまさは突出していた。
 学生運動経験者の山口も私も舌を巻く、語りだった。
 楽器の音色を自在に操るミュージシャンのように、峯山会長は声に無限のバリエーションを持たせ語るそれは、小樽運河保存に賭ける彼女の心の奥底から絞り出す、聞くものの魂を揺さぶる語りだった。
 だから、全国の保存運動や町並み保存運動の猛者たちを組織できた。
 
 峯山冨美会長が退任しないかぎり、小樽運河を守る会の会長は誰も担えなかった。 それを知りつつも、森本光子・小樽運河を守る会副会長(画家)は、自分が会長になってもおかしくない、とし、
  「なんで、峯山会長にだけスポットライトが当たるのか。」
という悪魔の囁きに負けてしまい、
  「小樽運河を守る会は、峯山個人崇拝の恐ろしい組織になっている。」 
とまで言うようになってきていた。
 総じて、このように、
 路線とは関係のない、
 人間の根底にあるいかんともしがたい妬み・嫉み・嫉妬からくる、
 人間の一番見苦しい情念での不満と羨望・対抗心
が、小樽運河百人委員会と10万名署名でTV・マスコミのスポットライトがあたる峯山会長に、向けられていた。

 しかし、彼らは峯山会長の苦労を推し量ろうとしなかった。 
 心の用意がないときにも、いきなりコメントを求められるトップの切なさ。
 コメントを求められながら、必死にどう答えるのかという一瞬の判断。
 どこまで口にしていいのかという、一瞬の政治判断。
 毎日、道路促進側の心ない人間のいたずら電話が入る精神的圧力とストレス。
 日々の峯山会長の政治的緊張の連続の切なさと辛さ。
 判断に苦しみながら、結論を言わねばならない孤独。
 それを思んばかる優しさは、失われていた。
 それを思んばかる仲間性も、失われていた。

 運河限定保存主義の「反峯山会長グループ」の内実は、実は以上のものであり、こうして形成されてきたのだった。
 この小樽運河を守る会内少数派グループである「反峯山会長グループ」が、藤森茂男氏を触媒役にし、共産党系労組や市議と接近していくことになる。

 いきなりの小樽運河保存運動の最高揚という事態は、少数派市民運動による政治的訓練の不在を露呈させ、担った者すべての人間性と心根・心象まで剥き出しにさせ、露わにさせてくれた。
 そして、そのような人間の最も醜い心根を抑制させうる、人格的に尊敬された人材もいなかった。
 峯山会長だけでは、不足だった。
 三〇代前半の私たちの若さでは、その荷は重すぎたのだった。
 本来そういう存在であるべき藤森茂男氏が、その人間の最も醜い心根を煽り、揺り動かし、その混乱を政治的に利用した。

 更に、それまで小樽運河を守る会幹事会にも数回参加し、その内部対立を目の当たりにみて、
  「化石の論理
としていた、小樽運河百人委員会代表幹事の一人村上勝利氏が変化してきていた。
 その村上勝利氏と他の代表幹事の間で、不協和音が生じ始めていた。
 代表幹事の間の直接の対立から始まったわけではなかった
 村上勝利氏の自店の経営がはかばかしくなく、何と小樽商工会議所・川合会頭に借金の普請するという行為に走ってから、小樽商工会議所首脳側の氏への対応が慎重になっていった。 
 小樽商工会議所首脳側の氏への警戒感、それに対する村上勝利氏の危機感が募る。
 小樽運河百人委員会代表幹事の「そのまた代表」の位置を占める事で、自分の位置を再確立し、何とか権威を築き守ろうとする振る舞いが、村上氏に目立つようになってきていた。
 私は、小樽商工会議所会頭への個人的借金の普請がわかる前、氏と会う度に
  「私達の闘いは、商売もきっちりやるっていう闘いですから。」
と、それとなく声掛けしていた。
 村上氏の親友である関和夫・関建設社長に
  「村上さんの商売で、よくない評判が流されているのが心配だ」
と個人的に言うと、
  「私の耳にも入っている、心配だが、それを言うと無理して突っ張るんだ。」
と関氏も悩んでいた。 
 
 小樽商工会議所首脳からすると、今最も注目される小樽運河百人委員会の代表幹事の一人が、銀行融資も受けられない経営不振状態で、サラ金など市中金融に手をつけたかどうかが露わになるのを覚悟で、会頭に個人融資を普請するという事実は実に頭が痛い問題だった。
 いつ経営不振から倒産する、かもしれないわけだった。
 が、それは絶対避けなければならない事態だった。
 道路促進派は、即
  「そのような人物が、代表幹事の小樽運河百人委員会だ」
と反小樽運河百人委員会キャンペーンを張るのは、まちがいなかった。
 だから会頭もやむなく個人融資をした。

 が、である。 
 現下の運河埋立派と運河保存派の熾烈な攻防戦での絶対漏れてはならない政治工作などの進捗情報を、そのような人物に安心して話すわけは、なかった。 
 いつ資金融資を餌にされ、百人委員会人から道路促進派に転向するか、人はわからない。
 逆に、融資を餌に保存派情報を道路促進派に提供するか、人はわからないわけだから。
 人間はどう変わるかわからない、だった。
 私達にしても、その小樽商工会議所首脳らの村上勝利氏への警戒心を解きほぐすことなど無理だった。 
 小樽商工会議所首脳は、それぞれ自社のビジネスを成功させ、功成り名を遂げてきたからこそ今があり、ビジネス視点での人物評価に関して私達のような若者は口を挟むなど出来ない百戦錬磨の猛者だったし、そのような存在が自陣営にいたことで何度も煮え湯を飲まされる経験をされてきていた、のだから。

 そのような皆の心配をよそに、村上勝利氏は「代表幹事の代表」の座をかけて、峯山会長へ対抗心を剥き出しにするようになっていく。
 危ない兆しだった。
 山口と私で共有していた村上勝利氏への不安と危惧が濃くなっていく事態の始まりだった。

20_05. 辞任して以降の小樽運河を守る会運動を、全面否定し登場する

 藤森茂男氏は、氏が事務局長を突然辞任して以降の小樽運河を守る会運動を、全面否定する姿勢を剥きだして、小樽運河を守る会幹事会に臨んできた。

 まず、藤森茂男氏が対立をつくるために持ち出したのは、

  ・小樽運河を守る会の幹事会のありよう
  ・小樽運河を守る会の役員体制
 
だった。
 
 確かに、百人委員会の運営や市・道・国への対応策で、峯山会長・石塚企画部長・山口ら中心メンバーは奔走し、小樽運河を守る会運営は手薄になり、幹事会開催は不定期になっていたのは、否めない事実だった。
 しかし、百人委員会は小樽運河保存運動の「発展形態の帰結」だった。
 小樽運河保存運動全体としては、限られた人材で百人委員会担当と小樽運河を守る会担当、夢街担当とそれぞれ皆で手分けし、攻勢的に役割分担して、進めて行かざるを得ない。
 小樽運河を守る会は、少数派運動から脱却しつつあっても、10万人署名を始めるまでは、幹事会出席は残念ながら20人程度が、実態だった。
 とても、小樽運河を守る会幹事会から小樽運河百人委員会担当として会員をこれ以上引き抜いたなら、それは小樽運河を守る会幹事会を壊すことを意味したし、不可能だった。

 幹事会の開催不定期化を批判する当の藤森茂男氏は勿論、後に事務局長代行職に就く佐藤純一氏(小樽工業高校教諭)すらも、それまでは小樽運河を守る会・幹事会に、出席さえしていなかった。
 10万人署名が、9万近くまで進んだ、10年間の小樽運河を守る会運動でも経験したことのない市民運動の「盛り上がり」に驚き、1983年(昭和58年)秋になって、あわてて出席するようになったわけだった。

 そのような人材的に手薄な中で、小樽運河を守る会運営体制の再編・再構築を検討している余裕などなかった。 
 10万人署名運動に自発的に参加してくる圧倒的な市民との関係構築や市・道・国・道路促進派の、1983年(昭和58年)10月から、日々刻々進捗する事態にどう百人委員会は対応するのかに、全力を投入しても人材は不足していた。
 それでも、百人委員会で論議される方針は、必ず小樽運河を守る会に対して、峯山会長以下山口等が事前に報告し、小樽運河を守る会幹事会に理解を求め、賛同を得ながら進めてきた。

 そこに、
  「10万人署名運動の『盛り上がり』は評価する」 
としかしながらも、
  「そもそも百人委員会の意味と価値を、全く認めない
という言動に、小樽運河を守る会は攪乱されていくことになる。
 10万人署名運動の「盛り上がり」を評価するということは、それを全力で担い達成した百人委員会を評価しなければならないが、
  「それだけは認めたくない」
という、実に正直な態度だった。
 
 この藤森茂男氏らの非論理的言動に、百人委員会と峯山会長支持グループは、その裏にある露骨なセクト主義的な成果簒奪主義に呆れかえった。
 上記の言動は、常識的に考えれば、
  「10万人署名運動でつくられた『市民的盛り上がりという成果は欲しい」が、藤森茂男氏たちが
  「まだ『主導権』を取れそうもない百人委員会は当面認めない。
という、他人のふんどしで相撲を取りたいというセクト主義的成果簒奪への、最後通牒を突きつけていたわけだった。
 
 しかし、私達は小樽運河を守る会には少数派市民運動を耐えに耐えてスクラムを組んできた会員がいるし、そんな彼らと藤森茂男氏を一緒くたに見るほど目は曇ってはいなかった
 例え、今は藤森茂男氏や佐藤純一氏などに煽られてはいても、いずれ気がついてくれるだろうと期待した。
 人に優しくなければ市民運動でなかった


20_06. 小樽運河を守る会内に、第2幹事会=「役員会」新設を主張する。


 藤森茂男氏は、守る会「幹事会」開催の不定期性を突き、その定例化を要求した。
 何も反対する理由は、当方にもなかった。
 小樽運河を守る会・峯山会長支持グループは、自ら小樽運河を守る会から脱会し、分裂するのではなく、反峯山会長グループとの徹底した対話路線を既に決めており、真面目な活動に反対する理由はなかった。
 ただ、間違った決定をしないでくれれば、それでよかった。

 しかし、反対されないと知ると、いきなり今度は小樽運河を守る会内に
   新機関の「役員会」設置
を要求してきた。
 小樽運河を守る会の「幹事会を再編成すれば」こと足りるのに、敢えて新機関をつくるというわけだった。
 それはどう考えても、
  「藤森茂男氏ら主導の、小樽運河を守る会・第2幹事会設置
という二重執行部状態をつくろうとする、露骨なたくらみに近かった。
 要は、藤森茂男氏も、峯山会長支持グループに対し様々に挑発をし、意識的衝突の末に対立が鮮明になり激烈化し、もって峯山会長支持グループが小樽運河を守る会から脱会し出て行くよう、仕掛けた。
 が、そのような挑発的行為には、峯山会長支持グループが乗ってこないとみてとったわけだった。
 小樽運河を守る会幹事会では、藤森茂男氏らの「反小樽運河百人委員会」的路線、反横路道政路線での決定を出来ないことに業を煮やしての、
  新決定構造
を強引に作ろうとする路線だった。
 まるで労働組合運動で第一組合に対抗し、会社側に唆されて第二組合をつくるが如きの行為に、そっくりだった。
 
 そもそも「小樽運河を守る会・幹事会」は、実際に正式に総会で選出された「幹事」などでは、なくなっていた。
 11年もの長い守る会の歴史のなかで、「幹事会」はあった。
 
 藤森茂男氏が突然病気を理由に事務局長を退任し、越崎宗一会長が自社の経営不振から自ら命を絶ち、小樽運河を守る会は危機的状況、少数派市民運動に陥った。
 そのなかで生き延びるためには、そのような総会承認を得なければならない役員の格式張った肩書き・社会的地位など無用だった。
 逆に、運河問題に関心があり、保存運動に参加する意志がある市民なら誰でも参加出来る、間口の広い運営が必要だった。
 少しでも、小樽運河保存運動に参加してくれる市民を「幹事会」に招き、皆で仲間性を築いていくよりなかった

 しかし、小樽運河を守る会を危機的状況にし、少数派市民運動に転落してく過程の基点になった事務局長としての藤森茂男氏の突然の退任に対して、幾ばくかの責任を藤森茂男氏自身が触れることは、一切なかった。
 私達も、突然の病気を理由にした事務局長の突然の辞任に関しての責任は、一切触れなかった。 その背景に、当時の政財界重鎮の政治的圧力があったと推測するからこそだった。
 
 しかし、氏が取った振る舞いと言動は、もの凄い苦労をかけた峯山会長や石塚・山口を、平然と真っ向から批判し侮辱した。
   自身の負い目である弱点に触れさせないために、
   そういう居丈高で傲慢な振る舞いをし、
   他者批判で自身への批判を予め封印し、自己防衛する
という手法を使った。
 その守る会「幹事会」を再編成し、定期的会合を安定的にもち、百人委員会運動と連動するかは別としても、もって、少なくと百人委員会が生み出した市民的盛り上がりを、小樽運河保存運動の最高揚に更に発展させる組織体・運営体にする、というのであれば、反対する理由はなかった。
 が、恣意的な「藤森茂男氏主導の第2幹事会設置」的役員会をつくる、となれば話は、別だった。
 
 守る会・峯山会長支持グループは、それには徹底的に抵抗した。
 なぜなら、藤森茂男氏主導の第2幹事会設置の行く手には「峯山会長追い落とし」が露骨に見えていたから。
 常時小樽運河を守る会会合に参加していた森下氏も中氏も、断固として譲らなかった。
 学生運動時代に経験した、日本共産党青年組織・民青(民主青年同盟)が全共闘学生を拉致し、拉致した学生を輪になって皆で包囲し、集中的に批判をし、自己批判書を暴力的に書かせるのと同じ目にあった、小樽運河を守る会の峯山会長支持グループの被害者さえいた。
 もはや、論争ではなかった。
 相手を物理的・精神的に消耗させるわけだった。
 皆、それに耐えに耐えた。
 悔し涙をする仲間の背中をかき抱くよりなかった。
 
 私たちは同様の対応で報復的にするようなことなどしなかった。
 彼らがしきりにいう主張に合わせて、反論するしかなかった。

  「藤森さんや佐藤さんは、きちんとした幹事会運営をと主張され
   るなら、いいでしょう。
   であるならば、本来、『役員会』という新機関を設置するなら、
   総会を開催し、そこでの承認を得て発足させなければならないで
   しょう。
   だったら、総会を開催しましょうよ。」
 
との反論に、藤森茂男氏もあわてて妥協せざるを得なくなっていった。。
 
 反峯山会長グループは、のちに彼らのチラシなどでこのプロセスを書く際に、自分たちの強引な論議を薄めるため、
  「(暫定)役員会」
とか
  「再建役員会」
などと、こそこそと後付け修正表現する始末だった。
 自身が無理な論争をしている、のを知っていたことの証明だった。

 兎に角、「再建役員会」が設置された。
  ・会長  :峯山冨美
  ・副会長 :北村聡司子
        森本光子(画家)
  ・事務局長:増田又喜(小樽商業高校教諭)
  ・会計  :本間静江(劇団新芸)
  ・企画部長:石塚雅明(建築計画事務所経営)
  ・事業部長:山口保 (喫茶店経営)
の従来の役員に加え、
  ・役員付 :藤森茂男
  ・議長団 :松岡勤 (民宿経営)
       :森田晧一(看板業経営)
       :佐藤純一(小樽工業高校教諭)
  ・事務局 :森下満 (北大助手)
       :茶谷和男(鉄工所経営)
       :中一夫 (北海道新聞販売所経営)
  ・書記  :北村和男(民宿経営)
という「再建役員会」新役員を決定した。
 
 反峯山冨美グループが小樽運河保存運動終焉後に発行した、運河ニュース591号では、太文字の3名は削除されていた。
 そして、わが藤森茂男氏は、「役員付」などとしか肩書きを用意できないでいた。
 ことほど左様に「幹事会」と「再建役員会」は、彼らの中でも混乱し、使い分けに苦労したほどだった。 
 以降の小樽運河を守る会は、この幹事会と再建役員会の関係(どちらが上位なのかも含め)や運営方法で一層混乱を重ねていく。
 
 この矮小で消耗なだけの「再建役員会」論争での被害者がついに出た。
 少数派運動に転落して一番厳しい時代を事務局長として頑張ってきて頂いた増田又喜事務局長が、どちらにつくかを客観的に迫られこの小樽運河を守る会の矮小で消耗な対立に幻滅していった。
 体調不良を理由に事務局長を退任し、以降幹事会には顔を一切出さなくなる。
 増田又喜事務局長は、まるで労働運動、日教組運動での多数派と少数派の同様の対立、小樽運河を守る会での再現に嫌気を刺したに違いない。
 よく、小樽運河を守る会幹事会が終わったあとの雑談で、北教組運動の影にある陰湿な政党間抗争の酷さを口にされ、小樽運河を守る会ではあってはならないと語られていた。
 本当に気の毒な被害者だった。
 どれほど温厚な人柄で、幹事会を運営していただいたかと思うと頭が下がる思いだった。
 その増田氏にとって、私たちも対立を醸成する一方の側であったことは間違いない。 
 ただ、私達は「峯山会長・石塚・山口の追い落としと排除」の組織決定だけは、抵抗せざるを得なく、その論争に付き合わねばならなかっただけだった。
 忸怩たる思いだった。 
 が、藤森茂男氏は、早速待ってましたとばかり、市内的には全く顔も人なりも知られていない(共産党系団体にだけは知られた)
  佐藤純一氏(共産党が多数派の北教組小樽支部高校部会役員・小樽工業高校教諭)
を事務局長代行に据える。
 ある意味、これを狙って温厚な増田事務局長が辞任せざるを得ない状況を作ってきた、と言えなくもない。

20_07. 小樽運河を守る会『再建役員会』の多数派をもって、小樽運河百人委員会運動を巡って対立を仕掛けていく。

 反峯山会長グループは露骨に共産党系団体とも連動し、いよいよ小樽運河百人委員会攻撃に打ってでる。

 1984年(昭和59年)1月、建設大臣や自治大臣への道路促進派・運河保存派両派の陳情、両大臣の運河保存派への代替えルートも含めた保存運動への理解、更には市側の10万人署名の選挙人名簿との照合などという緊迫した一進一退の状況で、小樽運河百人委員会は市役所に市長面談を求め、運河埋立再考を申し入れたが決裂した。
 終了後、

  「これほどの署名と国・道も見直し可能としているのに再考の余地
   無しという市側の頑な対応で、ここに到ってしまった。
   小樽運河保存の市民運動としては、
     やむを得ず、リコールのための『準備委員会』
   を近く設立せざるをえない。
 
と発表する。
 つまり、1月27日の市役所申し入れ後の小樽運河百人委員会の声明は、
  「リコールにむけて様々な準備を開始する
とするもので、
  「即リコール発動をする
などというものでは、1ミリもなかった。
 それは、「埋立再考の余地無し」とする頑迷な市への、そして道・国への「揺さ振り」の一環だった。

 しかし、小樽運河を守る会・反峯山会長グループは、それをもって
  「突然リコールに走った」
と、小樽運河保存運動が終焉した後の、1984年(昭和59年)10月25日発行の「運河ニュース第591号」で主張する。
 事実を歪曲した文章のオンパレード・ニューズ、だった。

 共産党系労組は、この藤森茂男氏ら「反峯山会長グループ」の論理展開にはさぞや困ったことだろう。
 何故なら、1月27日以前に、小樽運河百人委員会は、共産党市議団長・大原登志男市議を招き「リコール全般」の勉強会を開いている。
 その勉強会には、小樽運河百人委員会や小樽運河を守る会の会員が40〜50名参加していた。
 その勉強会は、「リコールの基本的知識」を取得するため開かれた。
 小樽運河を守る会にも参加を呼びかけた。

 そのなかで、大原登志男市議は、

  「志村市長は昨年1983年(昭和58年)4月の統一地方選で再選され
   た。 
   公選法では当選した市長へのリコールは(選挙間際という事情を
   配慮して)、当選後1年を経なければ出来ない。 
   つまり、本年1984年(昭和54年)4月30日以降でなければ、出来
   ない。

 
と、懇切丁寧に講師役をしてくれていた。
 大原登志男共産党市議が講師の勉強会を受けて、小樽運河百人委員会はリコールに関し、様々に論議をした。
 大方の意見は、

  「リコールだけでなくリコール成立後の新市長候補擁立までしかけ
   ればならない。」
  「発動したら、勝たねばならない。
   そして、6〜8月開催される小樽博も今の盛り上がりのなさと市・
   小樽商工会議所が衝突している状態では、小樽博成功はおぼつか
   ない。 
   そういう小樽博開催や小樽博赤字問題、そして市政での様々な重
   要課題の市民の反志村市政への不満を背景にしてこそ勝てる。」

 
など、真摯な意見が続出していた。

 にもかかわらず、反峯山会長グループは、

  「何の見通しもないまま勢いで、リコールを発動しようとした。
   市民運動なのだから、市民意識からスタートし運河問題だけはな
   く重要な市政問題で市民が自発的に参加する状況を作らねばなら
   ない。 
   リコール発動して1ヶ月しか署名期間がないのだから。」
 
とする、市民意識に寄りそうようなそぶりでの批判を、前述した運河ニュース591号で記載している。
 要は、会議をオープンにして開催している小樽運河百人委員会であるのに、その会議にも出ず、小樽運河百人委員会論議の進捗を検証もせず、小樽運河を守る会役員会は、小樽運河保存運動が終焉した後、
  「後付けでの自己弁護」
の、ためにする批判をするだけだった。
 
 自分たちが主導権をとった四年前の直接請求5万人の署名数の10分の1以下の署名数しか集めない、共産党系団体だったのも余程後ろめたかったのだろう。
 10万人署名では全く動かず、にもかかわらずその成果である9万8千の署名まで攻め上る市民運動の盛り上がりだけは横取り的に頂こう、としたわけだった。
 小樽運河百人委員会の会議の場で、保守系の商店主から、
  「意見を述べるなら、せめて直接請求の際の署名をここに持ってきてから、
   言うべきであろう。」
と皮肉られ、二の句がつげず引き下がらざるをえない共産党系労組だった。
 そもそも、リコールへの意見であれば、小樽運河を守る会・反峯山会長グループは、小樽運河百人委員会会議に出て言うべきだった。
 
 が、藤森茂男氏は勢いあまってか、
  「リコールだけなく、有権者の過半数による『請願』をするべきだ。」
と、10万人署名に昨年10月から2ヶ月、仕事を投げ出し運河保存を願う市民総意での汗だくで取り組んだ小樽運河百人委員会に、
  「再度の署名運動を
とする、市民をタダの自分たちの道具としか考えていない暴言も吐く。
 そもそも請願制度に署名数など規定されてはいなかった。
 問題にはないのに、敢えて「有権者の過半数」を言う藤森茂男氏だった。
 そこには、小樽運河百人委員会での10万人署名を意識し、それを越す数をと勝手に設定した。
 藤森茂男氏の小樽運河百人委員会へのコンプレックスの表れだった。
 
 そして、その請願の矛先は、最初から「横路道政」に向けられたものだった。
 請願申請を道議会で否定されたら横路道政を批判でき、請願申請を議会で了解されれば自分たちの成果とする、実に陰険な手法だった。
 
 さすがに、この藤森茂男氏の暴言には、佐藤純一事務局長代行が、後の同運河ニュースで、

  「(請願に関して)1月からリコールを打ち上げられている中で、
   同じ運河全面保存のために、同じ小樽市民にむけて、同時期に
   異なった戦術を呼びかける事は出来ない。
   それは非常につらいこと。」
 
と、論旨としては早期リコール批判を装いながら、本質は藤森茂男氏に対し、暗に批判し、
  「自分は、藤森茂男氏とは違う」
ということだけは、後付け的に自己弁護の文章をわざわざ同運河ニュースに紛れ込ませている。
 こういうのを、私の世界では「陰険・姑息」という。


 この座談会掲載の「運河ニュース第591号(1984年昭和59年10月25日発行)」では、藤森茂男氏以下「反峯山会長グループ」は事実のねつ造とそれからする峯山会長支持グループ批判を展開した。
 が、一方共産党系は「反峯山会長グループ」だけしか残らなくなってしまった「小樽運河を守る会」をみてとって、彼らの部隊を全面引揚するための、総撤退準備宣言号にしていた。
 すなわち共産党と共産党系が総撤退できるよう、自己弁護色が満載の歴史的チラシとなっている。
 後日、小樽運河保存運動の歴史が様々な研究者や市民運動関係者に検証されるときに、「共産党系が運動引き回しの主人公でなかった」とするための下準備が、その文章にちりばめられていた。

 このチラシが配布されて間もなく、
   「反峯山会長グループ」主導の小樽運河を守る会
が雲散霧消したのは、むべなるかなとする歴史的証拠でもある。

20_08. .小樽運河保存運動を、共産党の「反横路道政」路線に巻きこもうとする。 


 小樽運河を守る会の、1984年昭和59年2月の幹事会では、藤森茂男氏を先頭に反峯山会長グループは、
  「市長へのリコールするなら、横路知事にこそ
と、自民党の箕輪登代議士と同様の主張をするようになってきていた。
 自民党の露骨な「反横路道政」路線と同調する主張をするまでに、なっていった。

 ここまで来ると、小樽運河を守る会の誕生に奔走し、小樽運河を守る会に名事務局長ありとした会内外から評価や、あのポートフェスティバル誕生のきっかけになったビートオンザブーンを支援し、ポートフェスティバルスタッフの尊敬を浴び、そして自宅療養中にもかかわらず、私に訥々と小樽運河保存への熱い思いを語ってくれたその人とは、全く別人のような振る舞いをする藤森茂男氏の姿をみるまでになっていた。
 もはや、小樽運河保存運動を共産党の反横路路線のツールとする、としか言えなくなってしまっていた。
 
 1月27日の「リコール準備会」を立ち上げると表明し(実際の立ち上げは、3月5日)、2月25日の小樽運河百人委員会会議には、共産党系労組団体代表は、

  「リコールは慎重にやってもらいたい、組織が不十分である。」
  「リコールという政治的なことは、小樽運河百人委員会に馴染ま
   ない。」
  「情勢が緊迫しているというが、はたしてそうなのか?」
  「知事への陳情や道議会への請願をもっとすべきだと思う」
 
とする意見をだしてきた。

 笑ってしまった。
 四年前の共産党主導の《直接請求》署名の際に、共産党系労組団体の《直接請求》署名運動への小樽運河を守る会と小樽夢の街づくり実行委員会の共闘を求めてきたとき、その私達が言った主張だった。
 
 あの4年前の市議会の強行採決時とは、「市民の盛り上がり」は文字通り天地の違いだった。
 ましてや「道議会への請願」など、自民党が圧倒的多数派で、たとえ請願に必要な署名数を獲得して提出しても、道議会総務委員会で「数分で否決される」だけだった。
 数分で否決される請願は、結局単なる立場表明にしかならず、そのために有権者の過半数の署名運動を再び三度やれと、わが共産党系労組団体は市民に向かって宣うだけだった。
 
 例え数分で否決されても、共産党は「道議会と横路道政はひどい」と反横路キャンペーンを張れて自らの優位さ・正当性をアピール出来るわけだが、市民運動としての小樽運河百人委員会は、そんな実行力のない立場表明しか意味しない行為のために、市民の有権者の過半数署名を集める膨大なエネルギーを集中するような方針を、2度も3度もやるわけにはいかなかった。
 
 峯山代表幹事は敢然と答えた。

  「私達もリコールなどという手段には、本当なら訴えたくない。
   これまで署名や陳情を繰り返してやってきた。
   が、聞き入れてくれなかった。
   もう、これしかない、となってリコールに取り組もうというんで
   す。
   だって、町も真っ二つ、経済界も、商店主も二つに割れているわ
   けです。
   それほどまで市民が埋立見直しを求め、再考をと願っても頑なな
   のですから。
   どういう手が残ってますか?
   あるなら教えて下さい。」

 
と。
 
 ましてや、10万人署名にまともに関わらなかった共産党系労組団体から
  「リコール組織が不十分」
などといわれる筋合いはなく、10万人署名にすら熱心に関わらない共産党系労働団体のその自らの「組織体質」「市民運動への向かい方」を点検チェックしてからどうぞ、というわけだった。
  「組織が不十分だって?
   それは10万名署名をまともに担わなかった、君たちのことだろ
   う。」
という、保守系商店主や市民がいた。

20_08. 活動休止状態の「市民連絡会議」を持ち出し、百人委員会に対抗しようとする。


 運河問題をめぐり、市・同・国を巻きこんだ政治・行政・政党レベルのせめぎ合いは、1984年(昭和59年)3月26日の水野建設大臣の「小樽博期間中の埋め立て工事凍結」発言と、それに対する道議会での自民党道連の昭和59年度北海道予算案を人質にした「59年度中の予算の執行」という枠を知事に嵌める、という攻防線を繰り広げていた。
 これは、単に道議会での決定というレベルから、今後一切の知事権限を小樽運河問題では取り上げられてしまう、という極めて緊張した事態だった。

 だが、小樽運河を守る会の幹事会は、3/23、4/3、4/13、4/21、4/27と開催され、そのほか4/9には再建役員会なる会合まで持たれる。
 この頻繁に持たれるようになった小樽運河を守る会・幹事会での議題は、
  「現下の小樽運河保存運動の展望を、どう自らに引き寄せるのか
という積極性のあるテーマは、・・・全くなかった。
 
 4月3日、藤森茂男氏は、

  「今の守る会の現状はよくない。
   小樽運河百人委員会を認め、その百人委員会が市長リコールを提
   起しているが、疑問がありすぎる。 
   百人委員会よりかつて作った『市民連絡会議』がご無沙汰の状態
   じゃないか。」
 
と、「運河を守る市民連絡会議」という活動休止状態の運動体を、ほこりまみれの引き出しからだしてき、百人委員会に対置しようとする。

 わずか、3日前の道議会で、
  「自民党道連の昭和59年度北海道予算案を人質にした「道々小樽臨港線事
   業の昭和59年度中の予算の執行」という枠を知事にはめられてしまい、
   今後一切の知事権限を小樽運河問題では取り上げられてしまう」

という極めて緊張した事態だった。

 にも関わらず、そのような重大な問題での論議など、1ミリもしようともしなかった。
 要は、「運河を守る市民連絡会議」の復活というテーマを議題にすることで、道議会、市議会、国、西武と複雑に絡み合って進む事態に小樽運河百人委員会がどのように対応するかを「妨害する」ためだけだった。
 「峯山会長支持グループ」を振り回すだけの目的・・・しかなかった。
 共産党の反横路道政路線からすれば、道議会の推移は格好の横路道政批判を展開できる情勢だったのに、それすら忘れてしまう、共産党系労組団体なわけだったから呆れ果てた。
  
 その「運河を守る市民連絡会議」とは、2年前の1982年(昭和57年)に作られて、作られた途端活動停止になっていた、埃まみれのお宝モノ的団体だった。
 一部マスコミでは、「守る会を中心につくられた」と書く新聞もあったが、
   実際は共産党系労働団体の「おたる・総行動」を軸につくられた
大仰な名称が恥ずかしいレベルの、何も活動していない運動体だった。
 
 小樽運河を守る会・峯山会長は、その1982年末頃、小樽運河保存運動の展望の見えないことに藁にもすがりたい焦りから、共産党系労組団体から誘われ、断り切れず、発足に承諾を与えてしまった。 
 峯山会長に喫茶店で数人での発足会にいきなり呼ばれて、共産系労組と共産党系市議と守る会役員数人しかいない場で、何の事前相談もなく参加の可否を問われて、峯山会長と言い合いになるのは、避けた。
 小樽・夢の街づくり実行委員会は参加の意思なし、とだけ即答した。
 
 そして、幅広い市民の結集をという言葉とはまったく裏腹な、共産党系の労働団体・文化団体、共産党市議など40〜50人で発足し、1〜2回集会を開催したが、当然、共産党系労組団体丸裸の参加具合に、流石の峯山会長も以後二の足を踏み、即活動停止状態となり、小樽運河保存運動に携わる人々の記憶から消えていった、運動体ともいえないレベルのものだった。

 簡単だった。
 横路孝弘衆議院議員が翌年の北海道知事選挙に立候補するのが明らかになって、その当選は確実とみられ、共産党北海道委員会がその知事当選を前提に「反横路道政」布陣をどうつくるか、その陣形の小樽版が「運河を守る市民連絡会議」だっただけだった。
 もっとも、小樽での課題となる小樽運河保存運動、その主軸たる
   小樽運河を守る会を反横路道政運動に巻き込むための器づくり
でしかなかった。

 人のいい峯山会長は、その共産党系労組団体の「幅広い小樽運河保存運動の裾野をつくる」という建前に、小樽運河保存運動の局面的困難性や西武小樽進出表明や小樽商工会議所首脳陣の埋立から保存への大転換の動きなど知らず、焦燥感から首を縦に振ってしまって生まれた団体だった。
 「幅広い小樽運河保存運動の裾野をつくる」などといいながら、共産党系労組団体だけの団体で、他の労働団体である社会党・全道労協・地区労にすら呼びかけもせず、市内の新たな団体への勧誘なども一切しない、身の回りの共産党系団体をかき集めた、体裁だけの器だった。
 その埃まみれの「運河を守る市民連絡会議」を持ち出し、百人委員会に対置し、10万人署名運動の盛り上がりを簒奪しよう、という性懲りもない狙いだった。
 
 百人委員会人はそれに比べ、実際経済人や保守層まで巻きこみ、出来るだけ政治色や政党色を出さないよう配慮され、比較にならない市民的裾野を形成していた。
 そもそも「運河を守る市民連絡会議」を共産党系労組団体が登場させた情勢とは決定的に違っていた。
 小樽運河問題が市民に広く受け入れられる情勢の変化があったからこその小樽運河百人委員会であり、その情勢の変化を一層拡大するためにこそ、小樽運河百人委員会の存在根拠があった。
 
 藤森茂男氏が、宝物のようにその「運河を守る市民連絡会議」を持ち出そうとしたが、反峯山会長グループに引きずられていた小樽運河を守る会会員の中でも比較的健全な部分は、党派的思惑のあまりにも露骨な姿勢に、逃げ腰になった。
 実態をまったくなしていない運動体を、今更ながら持ち出してくる藤森茂男氏なのだからだった。
 藤森茂男氏にしても「運河を守る市民連絡会議」の復活を、口にはしても実現しようなど考えてもいなかった、と私は考えていた。
 峯山会長支持グループとの対抗関係で、使える武器としての「運河を守る市民連絡会議」であれば良かっただけ、だった。
 以降、何かにつけ対立をつくり、幹事会論議を堂々巡りさせるためのツールに、この「運河を守る市民連絡会議」ネタを使う藤森茂男氏でしかなかった。

20_10. 市民連絡会議復活に失敗し、小樽運河を守る会連絡先を峯山会長宅から移そうとする。


 反峯山会長グループは、藤森茂男氏の存在をテコに、全く小樽運河保存運動の発展とは無縁なところで、飽くことなく「主導権簒奪の手立て」を繰り返していた。
 百人委員会人運動を否定し、その百人委員会が提唱するリコール準備委員会設立に疑問をぶつける。 
 しかし、小樽運河百人委員会は粛々とその準備を進めて行き、彼らの思惑に乗らずに、現下の情勢に切り込もうとしていた。

 一方、藤森茂男氏と佐藤事務局長代行は、小樽運河百人委員会を認めた「これまでの小樽運河を守る会のあり方」を非難し、何とか「暫定役員会」を幹事会に対抗しつくり役員のポストに収まったものの、小樽運河を守る会は、従来通りの「幹事会」が軸で動いていくのだった。
 藤森茂男氏の主導による
  「企画立案は役員会、幹事会は単なるその役員会決定の承認機関」
とした思惑は、反峯山会長グループの会員からも抵抗に合う。
 
 しからばと、小樽運河百人委員会に対抗して活動実態のない100%共産党系「運河を守る市民連絡会議」の復活を提案し、あまりにも露骨な党派性むき出しに、反峯山会長グループに近い会員も、積極的に評価をしない。
 
 そして、峯山会長支持グループはあまりの露骨な反峯山会長追い落とし策動をしかけても、激せず小樽運河を守る会から去って行きもせず、執拗に小樽運河を守る会内で、真っ向から正当な議論をぶつけてきて、思ったように前事務局長の権威で小樽運河を守る会を再編することが出来ないで、呻くわけだった。
 あわてた藤森茂男氏は、今度は、
   小樽運河を守る会の「事務所」問題
を新たに持ち出してきた。
 今度のターゲットの裏には、小樽運河保存運動の発展として『まちづくり』市民運動を主張する峯山会長支持グループと、従来から「ただ運河だけが残ればいい」として対立してきた運河限定保存主義の小樽運河を守る会副会長・北村聡司子氏の対立を積極的に利用する目的が秘められていた。
 とりわけ、その子息で「暫定役員会」の書記についた北村哲男氏が、北村聡司子副会長の自宅を改築して始めた「民宿・上昇」に、小樽運河を守る会の事務所を設置したがり、小樽運河を守る会イニシアティブを簒奪しようとしていた。
 北村副会長も子息も、当然乗った。
 何かと峯山会長にだけ当たるスポットライトが、今度はやっと自分たちに当たる、と頬も緩んだ。

 が、小樽運河を守る会の従来からの態勢では、事務所などと大仰に言っても「連絡先」程度が現実だった。
 当然、会長の峯山氏の自宅がごく自然に連絡先となってきた。
 あらゆる印刷物での「連絡先」だったし、全国の保存運動団体や町並み保存連盟関係も、峯山会長宅電話がネットワークの軸だった。

 北村親子の二人は、ここでもあわよくば全国のネットワークを自分たちで簒奪できると踏んだ。
 まあ、それをやっても全国ネットワークの方々は北村親子をパスし、峯山会長と直で連絡を取ろうとするのであって、無駄なたくらみでしかなかった。
 
 が、あまりの次から次の露骨な主導権簒奪の試みに、これも結局、峯山会長支持グループから鼻で笑われ、反峯山会長グループ内部からもそこまでする必要があるのかと疑問視され、無様な結果に終わった。

 藤森茂男氏と佐藤事務局長代行にすれば、事務所移転の可否などどうでも良かった。 それで対立し、その対立構造で峯山会長以下山口などを振り回し、峯山会長以下の小樽運河百人委員会活動を妨害できれば良かっただけだった。

 それにしてもである。
 小樽運河保存運動全体が道路促進派とギリギリのところでがっぷり四つに組んで、リコール対の方策対処に邁進しているという情況で、反峯山会長グループから次々に仕掛けられるこの低次元の工作は、その彼らのこだわる「確執」の中身・実態が、どのような水準のものかがこれまでで明らかになるだろう。

  約三〇年が過ぎて、今書いていていても、あまりにも消耗すぎる顛末で、気が滅入ってくる。

 しかし、何故、書くのか。
 それは、このような反峯山会長グループの陰湿な策動に最後まで主導権簒奪と小樽運河を守る会分裂をとことん回避・抵抗し、まるで生産性のない毎回の小樽運河を守る会幹事会会議に飽くことなく参加し続けた、北大グループ・森下満氏や中一夫氏、森田皓司氏をはじめとする仲間の労苦を思うからこそ、その酷い実態を書いている。
 この苦労には、スポットライトなど当たらない。
 が、このような献身的な会員の努力がベースになってこそ、市民運動は成立するのだった。
 
 更に、今更30有余年が過ぎて、反峯山会長グループを批判などしても気は全く晴れないが、ここでのプロセスを理解いただけないと、小樽運河保存運動が何故最高揚をむかえながら敗北し終焉したのかが理解していただけない、と思うからである。
 消耗だが、そう思い書き連ねる。

 反峯山会長グループの当面の路線は以下のようなものだった。

 1.まず、小樽運河百人委員会の結成と守る会の参加は、守る会全体
   の承認を得ていない。
   (幽霊会員化した名目上の会員も含め)全会員からその意向を得
   ていないのだから、認められない。

 2.小樽運河百人委員会結成を認めた小樽運河を守る会の組織体制と
   運営方法に欠陥があるので、ただす必要がある。
   この観点で組織した「暫定役員会」が設置されて、反峯山会長グ
   ループが多数を占めるようになった「幹事会」を
    「組織体制としてしっかりする」
   という名目で(本来は、総会をひらかねばならないのだが)、今
   の勢いで幹事会を有名無実にし、「暫定役員会」を固定化してい
   く。

 3.一方、小樽運河百人委員会を否定したことで、峯山会長支持グル
   ープに対抗して「運河を守る市民連絡会議」復活を提案しておく。

 4.小樽運河百人委員会の「市長リコール」にも疑問を表明したので
   、リコールだけでなく、
    (1)住民投票に問うため、その条例制定を求めていく。
    (2)小樽運河百人委員会一〇万名署名とは別に、有権者の過
       半数を超える署名を集め、道に請願陳情をする。

という路線を次第に確定してきていたわけである。

 まあ、彼らなりの対案(^^;)提起・・・ではあった。

20_11. 実に消耗な小樽運河を守る会内部論争の中身 


 それでも、「反峯山会長グループ」に近い若者達や真面目な市井の人はといえば、
   安定し定例化された幹事会と暫定役員会が開催
されたことに、満足していた。  

 内部対立と論争はあっても、定期的に幹事会が開催されることで、小樽運河を守る会の組織体制と運営方法を健全化している、と自負し満足していた。
 これを、ホームルーム民主主義の世界だと、最後通牒的に非難しても意味はなく、逆に一層彼らを「反峯山会長グループ」に押しやってしまうだけだった。
 それほど、小樽運河百人委員会運営に小樽運河を守る会中心メンバーが取られてしまうことに、彼らは不安を抱いていたのだった。
 それだけの、だからこそ焦って対応してはならなかった。

 だから
  「運河を守る市民連絡会議の復活」

  「小樽運河を守る会・連絡先の変更」
など党派制剥き出しの抗争主義にも、反峯山会長グループに近い若者達や真面目な市井の人はそれほど意味合いを感じず、藤森茂男氏ら共産党系労組団体ほどには、こだわらなかった。  
 小樽運河を守る会内部で対立が激化していくという事態への評価も、そのレベルでの理解だった。

 逆に、峯山会長以下山口などが幹事会に必ず出席するようになり、結果小樽運河百人委員会の会議内容や運動方針が逐一幹事会で報告されるようになり、そのこと自身に満足していた
 
 反峯山会長グループに身を置く若者達や木訥な鉄工所など零細の経営者や主婦に共通するのは、マイナー主義だった。  
 彼らの理解の範疇には、西武流通グループの運河地区再開発進出などという事態は、彼らには及びのつかない大事業計画であり、市民運動としてはあまりにも荷が重すぎ、自らの手の届く距離感、身の丈ではなかった。
 そして、大手企業の観光開発によって、小樽の町が観光事業者で低俗安物土産観光に犯されるのだけは、正当に警戒した。
 
 その意味で、「ただ運河が残るだけでいい」とする凍結的保存思考と、本当の意味での市民参加による小樽の町の将来像を引き寄せようとする『まちづくり』市民運動展開を希求する思考との狭間で、揺れ動いていたのだった。
 身の丈の思考で接近する若者や市井の市民も加わって、「反峯山会長グループ」は形成されていた。
 藤森茂男氏ら共産党系労組団体と、徹底的な小樽運河を守る会イニシアティブ奪取の北村聡司子以下のグループ、そしてこの若者達や真面目な市井の人の大きく分けて3つの傾向によって、小樽運河を守る会「反峯山会長グループ」はあった。
 
 暫定役員会から議長団に推された若者、マイナー主義思考の濃い真面目な青年・松岡勤(民宿ポンポン船経営)も、そうだった。
 一年前の1983年(昭和58年)3月、小樽市歴史的建造物等保全審議会答申と旧小樽倉庫の再活用を巡る小樽運河を守る会と小樽市の久しぶりの会議が開催された際、会議終了後、小樽運河を守る会・企画部長・石塚雅明氏が「個人の意見」 として、  
  「運河をどうしても埋めるなら、運河の海側を2車線だけ」 
と発言してしまった。  
  現状の手詰まり感を打破する狙いで、小樽運河を守る会内部や夢街、そして愛する会はじめ運河保存支援団体にもオーソライズされているものでもなかったので、私的意見としてぶつけた。   
 苦渋の市と守る会の交渉再開の局面打開策だった。 
 松岡勤は、突然の提案に驚き、猛反発した。 
 市側が居る場で石塚や山口にいてもたっても居られず噛みついた。  
 そもそも思惑を秘めた政治的発言など、大人の汚い世界での話で絶対拒否のまじめな青年だった。
 若い訓練されていない会員がいる場で口にすべきではなかった。
   『内部に疑心暗鬼を生み出す危険な行為』 
だった。   しかし、もう言ってしまったことで遅かった。  
 一度口にした言葉は馬車で追いかけても追いつかないのだった。
 
 松岡勤氏の中に、石塚・山口両氏への警戒感と嫌悪感が醸成された。  
 それまで、運河紙芝居チームとしてよく手宮の喫茶メリーゴーランドに顔を出し、店主の山口保を尊敬していた氏であったが、それ以来顔を出さなくなった。
 

 ・・・市民運動は、こういう日常の生活の中での人間関係が積み重なって成立していた
 単なる路線論争という世界だけで、この最高揚期の保存派内の対立を整理しようとすると、仲々理解出来ない世界だ。  
 ましてや、論争で陥りやすのは、「誰が何を言ったか」ではなく「なにをどう言おうとしたか」を思いやるのが大事だった。
 だから、感情的になってしまうと、それが見えなくなり、相手に反発・反抗を生むだけだった。
 そして、結果的には、反峯山会長グループにそういう人々を追いやってしまった、のだった。
 わかってくれよ、は通じないことがあるのだった。
 

20_12. 仕掛けられた内部対立のうらにある政治路線


 小樽運河百人委員会の志村市長の「リコール」に対し、「陳情・請願」という手段でもって、小樽運河保存運動の矛先を「横路道政」に向かわせようとした。

 そこでは、小樽運河保存運動の勝敗よりも、横路社会党道政を自民党道政と同一であると宣伝し、さらに自民党道政より横路社会党道政への批判と実践を最優先すべきとする、その主張および運動方針は、「横路道政主要打撃論」と言うべきものだった。 
 生前のスターリンの提唱した「社会ファシズム論」に繋がる、共産党系の後天的DNA(^^)みたいなものだった。
 
 しかし、どう言いくるめようとしても共産党の反横路道政路線は、結局のところ自民党の反横路道政路線とおなじでしかなかった。
 文字通り、私たちが一番危惧した「小樽運河保存運動への政治の持ち込み」だった。
 共産党もそうだったが、わが小樽運河を守る会の創設者であった藤森茂男氏本人にしても、実は綱渡りをしていた。
 
 峯山会長支持グループが主張する「まちづくり路線」との論争は、避けたかった。
 それを、北村聡司子・小樽運河を守る会副会長や子息・暫定役員会書記に就いた北村哲男氏が主張する、
  「ただ運河の風景を残せばいい」
とする運河限定的保存主義路線、凍結的保存路線として論争をすると、後者が完全に論破されるよりなかった。

 何故なら、北村聡司子・哲男親子の路線は、かつて藤森茂男氏が小樽運河を守る会事務局長時代に、自ら編纂した「運動の手引き」で記載している、
  「ただ運河を残すだけを小樽運河を守る会は言っているのじゃない。
   運河沿線に『大運河公園』をつくり、その周囲に歴史的建造物を再活用して倉敷アイビース
   クエアのような若者ツーリストをターゲットにした宿泊施設などを配置し、賑わいを取り戻
   す。
とする主張と相反することになってしまうわけで、それを怖れる藤森茂男氏だった。

 それを論争の俎上にあげれば、かつて自らがもっとも輝いていた事務局長時代に採用した「運動の手引き」路線と、峯山会長支持グループのまちづくり路線とが全く同じ、となってしまう。
 そこでのまともな路線論争を深めると、それを峯山会長支持グループに指摘されてしまい、北村親子を初めとする「反峯山会長グループ」が論破されてしまい、藤森茂男氏自身の立場が真っ先に問われ、結果、氏が小樽運河を守る会のなかに位置できなくなってしまうことを、怖れに怖れた。
 
 そのまともな路線論争に持って行ってはならない、わけだった
 
 だから、肝心の路線論争は徹底的にさけ、「小樽運河を守る会のあり方」論、つまり守る会運営体制や、組織体制、組織規約論議という一般論を全面にだすことで、対立を作るよりなかった。
 道路建設推進と運河を基軸にまちづくりを巡りせめぎ合いが進行中の、現下に問われる小樽運河保存運動とは無縁のテーマにとどめなければならなかった
 
 そこには、山口保をして藤森茂男氏の一番弟子と自称し、小樽・夢の街づくり実行委員会やポートフェスティバル創設時に世話になり尊敬の眼差しで見上げた、あの藤森茂男氏はいなかった。

 自分の主張が通らず激昂する小樽運河を守る会の会議での藤森茂男氏を見るのは、寂しい限りだった。

20_13. 小樽運河を守る会内の実に消耗な論争の中身、パート2


 1984年(昭和59年)4月に入り、小樽運河を守る会・幹事会は、一層消耗な状態になっていく。
 4月3日の小樽運河を守る会・幹事会の議論は、いわゆる暫定役員会議長のもとで進行する。

 反峯山会長グループを「反峯G」、峯山会長支持グループを「峯山G」、佐藤純一事務局長代理を「佐藤事代」とし、その一部を紹介すると、

  反峯G:小樽運河を守る会と小樽運河百人委員会の関係を議題にしたい。
  反峯G:そのような一般論の議題は取り下げて。
  反峯G:小樽運河を守る会の根幹にかかわること。 決して後ろ向きの論議では
      ない。

と藤森茂男氏の意見を採用する議長のもとで論議は進行する。さらに、

  反峯G :リコール問題で議論をしたい。
  峯山G :リコール一般論ではなく、前向きで議論を。
  峯山会長:そういう問題提起が運動のプラスになりえるのでしょうか
  藤森茂男:小樽運河を守る会には会結成時規約がある。その規約を無視して小樽
       運河百人委員会を認めたことは問題。
       (藤森茂男氏が)顔を出さなくなった間、守る会はなにもやっていな
       いので、怒っている。
  峯山G :やめて下さい。みんな呆れている。
       これまで守る会がやってきたことを否定されるとは、残念です。
  峯山会長:いつまでも、いつまでもこんな議論が続くのですか。
       私は小樽運河百人委員会ができたとき、守る会の運動が広がりを持っ
       たと思ってうれしかったのに。

 ・・・こういうレベルの論争に、 峯山会長支持グループは付き合わねばならなかった。
 突然病気を理由に事務局長を退任して7年間、病魔に冒され小樽運河を守る会の一切から手を引いた藤森茂男氏が、再登場し、ここまで言うという事態に皆言葉を失った。
 退任当時は、藤森茂男氏が小樽の経済人重鎮政治からの経済的圧力で会社経営を脅かされ、屈辱の事務局長退任を呑んだ、とする理由は明らかにされていなかったが、すでに巷間で噂されていて小樽運河保存運動の関係者は、皆そう思っていた。
 そのことなど口にしようとは誰も思っていなかった。

 だからといって、その藤森茂男氏の退任後の混乱と危機を乗り越えて運動を担い、小樽運河保存運動の最高揚期を引きずり出したことを一切認めず、あろうことか氏退任後の小樽運河を守る会運動までを、全面否定する姿勢を居丈高にとった。
 皆、驚くよりなかった。
 私などは、そのような姿勢をとる藤森茂男氏に、哀れさを感じたものだった。

 そして、4月13日の小樽運河を守る会・幹事会では、小樽運河を守る会の事務所を、峯山冨美会長宅から北村聡政子副会長宅への移転を持ち出してきた。

  峯山G :このような小樽運河保存運動史上最重要な時期に従来の峯山会長宅
       としてきた連絡先を変えなければならない理由がわからない。
       ただ、いたずらに混乱を与えるだけではないか。
  峯山G :そう、小樽運河保存運動史上最重要な時期に、会の体制とか手続き
       とか、あたかもこれから運動がスタートするような新組織誕生みた
       い話をしている場合ではない。
       運河を守るために論議をしなけれなならないのに、小樽運河を守る
       会の一般的運営方法を話し合うために集まっているなんて。
       運河保存を勝ち取るために、小樽運河百人委員会と歩調を合わせリ
       コール展望をしっかりと論議する方が大事ではないか。
  反峯G :リコールとは別に、住民合意を形成するため、(再度)有権者の過
       半数を超える署名を集める方法もある。
  峯山G :運動が小樽運河百人委員会運動としてここまで発展し、リコールし
       かないと判断しここに到った。リコール以外に方法があるというの
       であれば、その展望を示して欲しい。
  峯山G :リコールだって勝算はあるのか。 小樽運河を守る会内部に慎重論
       と反対論がある。
 
と、これまで同様の論点を次々変えて、「堂々巡りの論争」に持ち込むことが繰り返された。

 小樽運河を守る会会長宅の事務所移転という主張はあまりにも運動上の必然性がなさすぎ、「反峯山会長グループ」に近い会員からさえ如何なものかとする意見が出され、思いもしない展開になってあわててリコール論議にテーマを切り替える始末だった。
 
 そのリコール論議も、藤森茂男氏がリコールに対置しての「請願にこだわりすぎて」あまりにも感情的になるので、「今の段階で、小樽運河を守る会内論議が百人委員会側に伝わり、そこからの反感を強くしてはまずい」と判断したか、佐藤純一事務局長代行は、論議をリコールという現下の運動方針論から、組織論に再び引き戻しすという、綱渡り的堂々巡りを繰り返すのだった。
 
 そして、幹事会メンバーを固定化することをもって「多数決」で、小樽運河を守る会の組織決定をしていこう、と狙ってきた。


  佐藤事代 :幹事会のメンバーをしっかり(固定)しなければならない。
        守る会には(結成当初の)会則がある。
        それに基づいて今の運動が進められているのか。
  峯山会長 :佐藤さんは、辛いときのことを知らないでしょう。
        会則は結成当初だけで、少数派運動の厳しいときは、会則に則っ
        ての運動が出来るような状態ではなかったのですよ。
  峯山G  :小樽運河を守る会はPTAや労働組合とちがう。
        大衆運動組織なんです、その時々で運動を懸命にやってもらえる
        人こそが幹事でいいでしょう。
  佐藤事代 :それは疑問だ。それではこれまでの小樽運河を守る会の運営と同
        じになる。幹事の責任ということを考えてもらいたい。
  峯山G  :何度も言うが、小樽運河を守る会を政党や労組のような組織と勘
        違いしている。これでは話は前に進みません。
  佐藤事代 :会の運営は基本に関わることです。
  峯山G  :佐藤さん、貴方も参加が自由な幹事会だったから、全く数年も幹
        事会に参加していなくても、今になっても参加することができた
        のよ。それなのに、参加し幹事会に入ったら、今度はその幹事を
        固定するというのですか? 
        それこそルールを手前勝手にする、恣意的運営でしょう。
 
 何のために幹事会メンバーをこの段で固定化するかは明白だった。
 この段階では、「反峯山会長グループ」が多数派だったので、それを固定化したかった。
 そして、「新設の再建役員会が企画立案し、従来からの幹事会はただ承認するだけの機関」として、多数派である「反峯山会長グループ」の決定を小樽運河を守る会の組織決定、機関決定に昇格しようと目論んだわけだった。
 藤森茂男氏の決定でも、共産党系労組団体の決定でも、反峯山会長グループの決定でもない、小樽運河を守る会の機関決定とし、小樽運河百人委員会に立ち向かえると計算した。

 難癖をつけリコールを問題にするが、実は、共産党系はリコールそのものの否定は出来ない弱さ、があった。 
 彼らの狙いは、小樽運河百人委員会でのリコール発動の際の主導権がすべてであった。
 それを「峯山会長支持グループ」に握らせない、ということだった。 
 「反峯山会長グループ」は、もし小樽運河百人委員会がリコール発動しようとするなら、それを全面否定するわけにはいかなかった。
 そのように振る舞ったら、以降の小樽運河百人委員会での彼らの位置を完全喪失するわけだから。
 ナントしても、小樽運河を守る会の内輪で、リコール発動を阻止する姿勢を見せつけ、共産党系も含んだ「反峯山会長グループ」勢力の存在を、小樽運河百人委員会人に承認させたかった。

 そのため、幹事会は反峯山会長グループが今は多数派なのでそれを固定し、小樽運河百人委員会のリコール発動に対して共産党系労組団体としてでは弱いので、幹事会の多数決で「小樽運河を守る会として反対」と組織決定でもって、小樽運河保存運動内に位置を占めようとした。
 
 いみじくも、佐藤純一事務局長代行は、
   「幹事会は、きままなものではない。
    全会一致で全て決めることが出来れば最も良いことだが、ときには採決を
    しなければならない場合もある。」
と、後の幹事会で正直に吐露することになる。
 
 藤森茂男氏の発言と結論は同じだった。
 が、藤森茂男氏がときに激昂し感情的になるのに比べ、より党的立場で小樽運河を守る会「幹事会」や「暫定役員会」の多数派を掌握しようとしていただけだった。
 その姿勢を、次第に強力に押し出してくる。
 佐藤事務局長代行は、
   「百人委員会は全市民を代表するような構成になっていない。
    市長リコールをたたかうためには、政策などで責任を持てる団体、例え
    ば労働組合や政党が入っていなければならない。
    そうした条件に百人委員会は欠いている。」
   「市民全体に責任を持てる団体が集まったとき、そこへ保守層の人が入る
    かどうかは、
保守の側で判断すればいいこと
    勿論、仮にリコールをやるとすれば、リコールを担う団体の集合は、保
    守の人たちも参加できる政策をつくる必要がある。」
とした。
 藤森茂男氏が
   「過去を引きずる反峯山会長グループ
を代表しているとすれば、佐藤純一事務局長代行は
   「党的クールさを代表する反峯山会長グループ
の人格的表現者だった。
 しかし、言っていることは同じだった。

 既に、百人委員会は3月5日、「リコール準備員委員会」を正式に立ち上げていた。
 その実施戦術に踏み込んでいた。
 「リコール準備委員会」を、リコール発動のさいには正式の「リコール実行委員会」に発展させ、そこで政党をはじめ様々な団体、労働組合や文化団体など各種団体への参加協力を求める。
 それは、全市民的参加を促すために政治色を極力排除する、戦術だった。 
 
 しかし、佐藤純一事務局長代行は、最初から「政党や労組」のイニシアティブを、つまり「共産党とおたる総行動など労組団体」のイニシアティブを優先した。 
 「政策に責任を持てる団体」は別に共産党や労組だけではない、と今の時代の人なら言うだろう。
 そのくらい、佐藤純一事務局長代行は、党を信奉し党イニシアティブ主義者だった。 その「政党や労組」のイニシアティブ装置が、お蔵入りしていた「「運河を守る市民連絡会議」であり、それを持ち出した藤森茂男氏の意見に飛びついた。
 が、藤森茂男氏の激情的振る舞いには、困惑していたのだった。

 佐藤事務局長代行は、藤森茂男氏より焦っていた
 小樽運河を守る会内部での論争で各テーマで決定的対立にまで発展させてしまう藤森茂男氏の論議の持って行き方には困惑し、引き方をしらない藤森茂男氏を諫めるのに苦労をしていた。
 まして、リコール論議で小樽運河を守る会内で決定的対立まで進行してしまうとどうなるか。
 小樽運河百人委員会がリコール発動をして移行する「リコール実行委員会」の活動になり、共産党系労組団体や共産党系市民団体が参加する「足がかり」をその段階で失うことは、避けなければならなかった。
 共産系が、全く「リコール運動」での位置を占められなくなってしまうことへの危惧であり、そのような不様な結果になっては、共産党北海道委員会からどのような叱責を浴びるかとなる問題だった。
 藤森茂男氏より「党的クールさを代表する反峯山会長グループ」の佐藤事務局長代行だった。

 だから、結論を出すような会議にはせず「堂々巡りの小樽運河を守る会論議」こそが、氏にとっての愁眉の課題だった。

 このような、小樽運河を守る会の惨憺たる有り様のなかで、堂々巡りの論議へとますますはまり込んでいく小樽運河を守る会だった。

 ついに北海道知事・横路孝弘が動いた。


     この項終わり
 ● 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ● 【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ● 【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。