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1983年昭和54年3月31日 朝日新聞


1984年昭和59年
 4月 3日 横路道知事、記者会見で事態打開のため埋立・保存両派が共同のテーブルにつき話
       し合い解決の糸口づくりに知事も動くと記者会見。

       小樽運河を守る会幹事会、藤森茂男氏、
        「百人委員会より、かつて作った『市民連絡会議』がご無沙汰の状態、『市民連
         絡会議の復活』を提案。

 4月 9日 小樽運河を守る会・暫定役員会開催
   
 4月13日 小樽運河を守る会幹事会、小樽運河を守る会の事務所を「峯山冨美会長宅から反峯
       
山会長グループ宅への事務所移」問題を新たに持ち出す。
 
 4月20日 横路道知事は小樽に来訪、埋立・保存両派の機関・団体代表と個別に会談し、共同
       のテーブルにつき話し会い解決=「五者会談」を提案する。
   
 4月21日 小樽運河を守る会幹事会、小樽運河百人委員会の「市長リコール」に対して、
        (1)住民投票に問うため、その条例制定を求めていく。
        (2)小樽運河百人委員会一〇万名署名とは、別に有権者の過半数を超える署名
           を集め、道に請願をするべき
       とする論議。

 4月27日 小樽運河を守る会幹事会、峯山会長には内緒で藤森茂男氏と佐藤事務局長代行が
       「市民連絡会議」開催の呼びかけ文を作成、配布していたが判明し、紛糾する。
       この守る会幹事会にオブザーバーとして参加した村上勝利・百人委員会代表幹事
       は、
        「化石のよう論理で呆れる。もっと前向きに論議して欲しい」
        と呆れかえり、席を立つ。  
       

21_01.  三月、「年度末」のたった1週間の北海道議会で、攻守が逆転した。


 4月20日、記者会見(4/3)で表明したとおり、横路知事が小樽に足を運んだ。
  「埋立派・保存派両派が共同のテーブルにつく」
よう個別に両派と会い、「五者会談」設置を働きかける。
 五者とは、道、道路派二団体(市役所・道々小樽臨港線早期完成促進期成会)、保存派二団体(小樽商工会議所・保存市民団体)とする構成から名付けられた。

 正直にいうと、「何を今更」と思ったものだった。
 「(道々小樽臨港線工事予算を)道議会で承認された事業は、昭和五九年度中に実施する」
となって、もはや道議会では手の尽くしようがなくなり、投げ返すのは失礼と道知事自らが小樽にボールを持参してきた。
 ただ、横路道政としては「小樽運河保存問題」を諦めたわけではない、とする政治的ポーズでしかなかった。
 
 一ヶ月も経ない三月末、11年間の小樽運河保存運動の帰趨を決する事態が、勃発した。
 たった10日間、3月22日から3月31日の間で、北海道議会という場で小樽運河保存運動の命運がかかった質疑が展開し、攻守が大逆転していた。

 その道議会開催中、東京では社会党・山口鶴男国対委員長、井上普方同副委員長、それに北海道1区(小樽)選出の小林恒人衆議院議員と水野建設大臣との間で、小樽運河保存をめぐる対処策が進行していた。
 水野建設大臣の、
  「当省としては小樽の街の混乱を避けることが重要であると考える。
   このため(既に計上している)予算をどうするかは、他の事業に流用することも含めて(何
   らかの方法をとることを)了としたい。
   その検討期間としては小樽博後までとし、それまでは工事を凍結する。」
とする意向を受けて、
  「自民党の大臣が、自民党道連や自民党小樽支部の頭越しにやっては総反発しか招かない。
   官僚も「予算の流用」と言うことには抵抗感がある。。
   この予想さらる反発や抵抗をどう回避し、根回しするのか!
   政治レベルで詰めをしっかりやり、慎重に運ばないとならない。
   そのための一定の時間をおかないと危険である、と判断されていた。」

 それは、慎重にも慎重を期する、小樽運河保存の一大政治工作だった。
 自民党道連・自民党小樽支部への、そして建設省官僚への政治工作という、極めて高度の政治戦だった。
 そのような極めて政治的な工作案件なのに、小樽運河を守る会から提出された陳情案件を審議していた小樽市議会定例議会総務常任委員会で、1社会党市議の手によって市議会という公的な場で浮上してしまった。

 丁度この頃、小樽市議会では反峯山会長グループ主導の小樽運河を守る会からは、
   (1)住民投票に問うため、その条例制定を求めていく。
   (2)小樽運河百人委員会一〇万名署名とは別に、「有権者の過半数を超える署名」を集め
      、道議会に請願陳情をする。
としての審議をしていた。

 小樽市議会の社会党市議会議員は、
   「道議会へ運河保存の「請願」がもし出されたら」
と考えた。
 その請願が道議会で、「否決」されればされたで、横路道政は「運河保存の意志なし」と、共産党は一層批判できる。
 その請願が道議会で、「可決」されればされたで、横路道政は既に昭和59年度内予算執行」と道議会でタガを跳ねられているのに請願を受け入れる事は不可能で立ち往生してしまう。
 横路道政としては、ただただ自分の首を締めることを意味した。
 
 反横路の、道議会多数派の自民党道連はその事態を陰で喜ぶだろう。
 自民党以上に反横路路線を邁進する共産党は、「請願が出されたのに応えない横路道政」批判を
一層展開出来るわけで、ただただ共産党を喜ばせる結果となる。

 ことほど左様に、反横路路線に利用されることを警戒しての社会党市議の横路道政防衛の「焦り」に取り憑かれての公表だった。

 が、まだそれは小樽市議会での「論争段階」にすぎなかったのにである。
 請願は、別に署名数は問題ではなかった。
 ただ、小樽運河を守る会・反峯山会長グループは市民運動的展開の請願をイメージし、それは10万人署名数を意識して、それに匹敵するか以上の署名数を小樽運河を守る会・反峯山会長グループの主導でやりきることを意識してしまっていた。
 もしそのようなイメージ展開で実施しようすれば、署名運動期間という猶予がキープできるので、まだまだ周章てなくても良かった。
 社会党小樽市議は、それを冷静に判断する余裕もなく、反応してしまったわけだった。

 唖然としてしまう、社会党市議の行為だった。
 政治判断もつかない社会党市議の大フライングだった。
 利敵行為と言ってもよかった。
 目の前のことしか見えない、政治感覚ゼロの市議会議員だった。

 その市議会での社会党市議発言を電話で聞いたとき、私は絶句し立ち尽くした。
 11年間の小樽運河保存運動の最後のトドメは、行政や経済界の埋立派からではなく、小樽社会党の1市議の横路道政防衛路線によって刺されるのか、と受話器を壊れるほど握りしめた。

 この小樽の1社会党市議の発言は、すぐさまその発言が終わるやいなや関係者に知らされた。
 小樽市議会定例議会総務常任委員会に出席していた小樽市理事者と自民党議員も即反応した。
 自民党道連、自民党小樽支部や道路促進派は、これまでの守勢から総巻き返しの大反転攻勢のチ
ャンスを迎えたわけだった。
 自民党道連は、社会党小樽支部の子どものようなミスに対し、その老練さで応えてきた。
 水野清建設大臣のそれは、かつて野党時代の社会党の常套句だった「道議会軽視」とする根拠を自民党道連に与えた。
 自民党道連は、予算承認を人質に取った審議拒否を即取った。
 道議会会期は、生憎3月末まで残りたった3日、
  「次年度予算が成立するか否か」
と横路知事を責めたてた。
 横路知事は、会期末を3日間、3月31日まで延長した。
 翌、3月28日自民党道連吉田政一議員会長と知事は面談、知事は審議中断を招いたことに遺憾の意を表明すると同時に、
   「(道々小樽臨港線工事について)予算案を提出した事業は、昭和五九年度中に実施する
     方針
とする見解を示してしまう。
 知事は、当然だろうが、予算審議を優先した。

 ・・・あっけないというほどの、道議会での敗北だった。

 自民党道連は知事に予算執行のタガをはめたと驚喜した。
 北海道議会は同日午後から審議再開され、3月31日深夜、北海道議会は新年度予算案を原案通り可決した。 
 自民党道連は手を緩めなかった。
 それまで道議会予算審議で付帯条件などついたことはなかったのに、
   「(運河埋立の道々小樽臨港線工事関係では)事業の早期完成、関連の下水道事業、公害防
    事業など、その影響を考えて、五九年度中に行程を完了する
という条件までが付けられた。
 それは、
   「『小樽博期間中の工事凍結』という建設大臣と道知事の合意には沿うが、『予算は五九年
    度中に執行する』
と、知事は自民党に完全にタガをはめられてしまった。
 このあと、 道路促進派と運河保存派の話し合いがされたとしても、
    知事は道議会議決通りに予算執行をしなければならなくなった。
 自民党道連に、完全にしてやられていた。
 
 年度末で道議会閉会ぎりぎりのたった一週間で、事態は大転換してしまった。

 唖然とする事態だった。
 蕎麦屋の年度末の棚卸し作業をしながら、道議会の動きを教えてくれる新聞記者の電話の受話器を、呆然として見入る私がいた。
 
 道議会議決であれ、正直ここで勝負あったという感が私の中に浮上していた。 
 小樽運河保存運動の最高揚の
   流れの「潮目」
は、完全に変わってしまっていた。
 運動の潮目が変わっては、胸ぐらに刃の切っ先を突きつけられての追い込まれての「リコール」に勝ち目はあるのか、と唸った。
 連れ合いや子供たちが寝たあと、一人酒を呷るように呑んだが、まるで酔えず寝つけなかった。

 なんという結末の11年だったのか!
 それが、この一週間で決まってしまった。
 確かに小樽運河保存運動の11年は、市議会や道議会の進捗を前提には運動をしてこなかった。
 それにしても、この道議会審議と決定はトドメをさすものだった。

 その日、山口と電話で話す気力も萎えていた。
 山口からも電話はなかった。

 その夜、連れ合いや子供が寝た後、一人酒を仰ぐように呑むが酒の味がしなかった。
  「横路道政と北海道社会党の敗北であって、小樽運河保存運動の敗北ではない。
 と、自分に言いきかせて、杯を更に仰ぐよりなかった。
 

21_02. そして、11年間で初めて道路促進・運河保存両派が共同のテーブルにつく、『五者会談』が提案された。


 この三月末の北海道議会の攻防で、
   横路道知事は、まだ戦えた
と、私は今でも思っている。
 長期衰退趨勢の社会党が、やっと獲得した横路道政だった。
 が、小樽運河保存運動は、その社会党道本部の
   横路道政の『消極的』防衛路線であるが故に、結果的に埋立工事予算が承認されて
   しまった。
だけだった。
 「道予算審議」は、それを人質に取る自民党道連にとってだけの「攻め手」ではなく、同時に、道知事・社会党側にとっても実は「攻め手」であった。
 予算審議拒否は、自民党にとっても社会党にとっても諸刃の刃だった。
 小樽運河問題で、
  「道の昭和59年度予算案審議を、サボタージュした自民党道連
  「道民にとっての大事な生活関連予算を、運河問題をたてに審議もしない自民党道連
と、知事も社会党も全道労協も踏ん張り、議会外でキャンペーンを展開し、道民の支持を巡ってギリギリの闘いをしよう、
 ・・・とはしなかっただけである

 逆に、自民党道連にとっても、昭和59年度予算審議拒否は「賭け」だった。
 自民党道連が、審議拒否して道予算案を承認せず予算執行が出来なくなれば、自民党道連の大票田である、あらゆる道内業界と零細商工業者の保守層からどのような反発がでるか、わからなかった。
 実は、自民党側も「賭」に出てきていたのだった。
 直近で国政選挙などが予定されていないことだけが、自民党を有利にさせた。
 
 そして、一般的に選挙がある年度のように、次年度予算の骨格予算、道民の直接生活関連だけの暫定予算だけの審議を優先し、年度が明けた最初の道議会で対立する事業予算(この場合は小樽運河関連予算)を審議・承認を受ける、という奥の手もあった。
 「全予算の一括審議」拒否の自民党と、対決予算を除いて予算審議を年度内に進めようとする知事サイドという対立構造を道民にアピールする、それと連動して議会外での大宣伝合戦という戦い方はあった。
 しかし、横路道知事は「そこまでして」という小樽運河保存での情熱と迫力と度胸、そして思いは・・・なかった。
 結局、知事にとって小樽運河保存運動は喉に刺さった「小骨」でしかなく、政治生命をかけてまでやるという思いは、・・・なかった。
 
 それを、横路知事一人の責任に負わせるのは可愛そうかもしれない。
 社会党道本、全道労協という社会党系全体の責任といっていいだろう。
 中曽根内閣の下で、中曽根民活の公有地払い下げによる地価高騰は、バブルを招き、国土を投機対象とさせた一方で、日本の労働運動を牽引した総評・公労協をターゲットにし、専売公社や国鉄など公共事業の民営化や日本労働運動の総本山・国鉄労組解体と民営化策で、社会党の基盤である総評・社会党側は大打撃を受けていた。
 が、北海道だけはかろうじて他県に比べるとその地盤は固かったので、横路孝弘を知事に押し上げられた。
 だからこそ、
   従来の反公害や反基地・反原発などの住民運動に参加していた社会党は、景観保存や町並み
   保存という新しい市民運動「まちづくり市民運動」にたいして、どのような姿勢を取るのか
   、として問われていた。
   が、戦後の労働運動の労働組合主義と労働者本体主義のくびきに縛られる社会党は、これら
   の新しい可能性を秘める市民運動に対して意識を向けられず、腰が定まっていなかった。
   保守層を社会党にもう一度再組織化するという攻勢的展望を引き寄せようとする体質転換はできてい
   なかった。
 
 一方、まちづくり市民運動側も登場したばかりで、そのまちづくり施策を自治体や都道府県や国の施策に反映させて、一大社会潮流に自らを発展させていくという目的意識性はいまだ薄く、逆に政党政治に振り回され犠牲にされてきた苦いマイナス教訓から、運動現場では「政治に巻き込まれまい」とする防衛的姿勢しか持ち得ていなかった。
 
 持続発展の可能性を追求する、つまりオルタナティブという言葉はまだなかった。 
 それが、小樽運河保存運動や様々な地域のまちづくり市民運動で、先駆的に問われていた。 
 しかし、社会党やその道本・全道労協は、横路道政防衛だけでの選択をした。
 そうはいうものの、基本的には、
   小樽運河問題は、自民党道連と横路道政との政治的対決構造に完璧に巻きこまれてしまっ
   ていた
   小樽運河問題の本質は、ここに「置き去り」にされた。
   すべてが自民党VS横路道政防衛の党利党略に集約されていった。
   運河保存問題は逆にその対決構造の中に埋没する情況に追い込まれていた
、と言った方がよかった。

 ・・・そのような視点で「五者会談」をみれば、自民党道連に完全にタガをはめられてしまった結果の横路道政の、
  「最後まで運河保存を諦めない」とするポーズをとるだけのショー
でしかなかった。
 
 「知事仲介」名目での、話し合い提案でしかなかった。
 完全に守勢にまわった小樽運河保存運動は、その「五者会談」に何を期待できるのか? 
 結局、横路道政はこの五者会談で、良くて
  五者会談決裂=「リーコールしかない」
とする地元小樽の小樽運河保存運動に下駄を預け、
  悪くて「最後まで頑張った」というアリバイづくり
しかないと、私は、シニカルにしか考えられなかった。


 そして、数日後にやっと山口保と顔を合わせた。
  「道議会と政治の場では終わった。
   が、街場という俺たちのフィールドではまだ決着はついていない。
   勝負だ。
   いよいよ、リコールしかない
と、互いに頷くよりなかった、

 山口保と蕎麦屋親爺に共通するのは、
   硬直した政治・経済システムに頼らず、
   ましてや政治任せに、つまり人任せにせず、
   街場の市民自らの手で新しいまちづくりのシステムを作っていく

という、山口・佐々木・蕎麦屋親爺の三人が最初に出会ったときに語り合ったことをやる、ということだった。

21_03. 攻守が逆転した中での、話し合いという「五者会談」


 小樽運河百人委員会の面々も、
  「もうリコールしかない
とした。
 正直、この北海道議会での攻防線で、攻守が逆転していた。
 道議会予算案原案とおりの採決による
   「昭和59年度中の予算執行=運河埋立工事継続」
というタガはめによって、小樽運河保存運動側の形勢は、完全逆転していた。
 そして、その形勢不利な中での、
   横路知事による五者会談という「話し合い」提案
に、小樽運河百人委員会は、
   「どう、それをチャンスに切り替え、リコールを組み立て得るのか
として、問題を整理していった。
 皆、「五者会談」そのものに期待をかけるなどという幻想は抱いていなかった。

 何故なら、横路道政・社会党VS自民党・共産党という政党政治構造に委ねていては、小樽運河保存運動の展望は1ミリも切り開けないことが、満天下に明らかになっていたのだから。
 昨年の小樽商工会議所首脳の、運河埋立から運河保存・再開発という大転換から続く、国、道、市、西武、元首相、自民党・社会党・共産党、そして地元選出各党議員まで巻き込んだ
   政治の世界での勝負は、終わった。
わけだった。
   もう一度、本来の戦いの場、街場での市民運動での決着をつける
   つまり、
   市長を交代させ、
   運河保存市長を産み出し、
   北海道議会議決を白紙に戻す

とする街場の市民のシステムをぶつける、いよいよリコール&政治戦に突入するとしたわけだった。

 五者会談が開催されても、せいぜい三〜四回と踏んだ。 
 初回は埋立派、保存派両委員の顔見せで終わり、2回目は埋立派が語り、3回目は保存派が語り、4回目で両者譲らず道知事としては道議会決定を粛々と遂行させるよりないとして、終わるくらいでしかないとした。
 問題は、この五者会談を、
   まったく集客効果も経済効果もない「小樽博」の決算発表まで何とか開催し続け、
   膨大な赤字決算発表をもって小樽運河保存問題だけでなく様々な志村市政への不満を一挙
   に組織し、五者会談のテーブルを席から埋立派の方から立たせ、
   保存の意志なし、小樽運河地区開発の意志なしと満天下に明らかにし、
   リコール発動にもっていけるのか、
と小樽運河百人委員会は話し合った。
 
 国や道や省庁、政治家、政党などの手に委ねないで、自分たち市民の手で決着をつける、という決意のもとでのシナリオを展開を出来るか否かにかかると。

 あとは「リコールという手段」しかないとなると、そこから導きだされることは、「リコール発動日の設定」という政治判断の問題だった。
 そこに向け、小樽運河百人委員会運動をどう展開していくのかだった。
 
 全ての活動をそこに向け集中していった。

21_03_02. 市民を志村市長リコールに向かせるのではなく、横路道政にターゲットを向けさせたい共産党系と「反峯山会長グループ」


 一方、藤森茂男氏、佐藤事務局長代行を初めとする「小樽運河を守る会・反峯山会長グループ」の主張は、この段階になっても、
   道知事への有権者の過半数署名での運河埋立反対の「請願」
を主張していた。 ここに至っても、ターゲットを横路知事にした「反横路道政」路線に、小樽運河保存運動を無理矢理引きずり込もうとする路線だけだった。
 要は、
   小樽運河埋立阻止のための志村市長リコールにターゲットを向かせるのではなく、横路
   道政をターゲットに仕向けたい
という共産党路線への追随、ただそれだけだった。
 
 しかし、「道知事への請願」は、実質的効果は全く期待できなかった。
 有権者の過半数の署名請願であろうが、一人での請願であろうが「請願」には変わりはなかった。 

 道議会が野党・自民党多数派という状況では、「請願」は議会開会してものの数分で、鼻で笑われて否決されるのがオチだった。
   小樽運河保存運動の局面打開にとって、何の策にもならない
、方針だった。
 そんなあしらいしか受けない請願だった。
 共産党だけが、請願を受け入れなかった横路道政と批判できポイントを稼ぐだけの方針でしかなかった。 
 にもかかわらず、「有権者の過半数の署名集めの請願」という膨大なエネルギーを市民に強制することを、いとも簡単にそして平然と主張するのが小樽運河を守る会・反峰山会長グループだった。
 請願を政党利害のツールにする、だけだった。
 
 「反峯山会長グループ」は悪のりした。
 請願は、紹介議員を通じて行うという条件だけでそもそも署名数などの規定はなかったのに、小樽運河百人委員会人の10万人署名に対抗し、
  「有権者の半数を超える署名を集める『請願』
と、調子に乗って言ってしまった。
 その請願署名が、小樽運河百人委員会の10万名署名を越えたら、運動のイニシアティブは反峰山会長グループに移行する、と夢想し、空想の世界に酔っていた。

 小樽市役所の議員会派控え室の廊下で、共産党小樽市議団長にとある記者が、その誓願提案を問いただした。
 共産党小樽市議団長でさえ、
   「この後に及んで、埋立阻止のための何の強制力もない『請願』のために
    有権者の半数
を越える署名運動方針には、賛成しかねる
とした。
 当然、小樽運河を守る会・反峰山会長グループの中からも、自治体・行政に何の強制力も持たない「請願」署名運動路線に疑問があがった程だった。
 たとえ、膨大な署名数を得たとしても、野党・自民党多数派で一日で否決される「請願」に如何ほどの意味合いがあるのか、と。
 
 小樽運河を守る会・反峯山会長グループは、彼らのイニシアティブ争奪のためだけでの「有権者の半分以上の請願」と威勢だけは良い主張をし、会員からも積極的支持を得られなかった。
   党派利害を追求する党派、その党派に依拠することでしかポジショニングできない反峯
   山会長グループの露骨なもたれ合いの姿
しかなかった。

 しかし、峯山冨美会長は、このような「反峯山会長グループ」も含めた、小樽運河保存運動全体を代表するポジションを担いきる、極めて辛く、せつない存在だった。
 このような人間の、最も見にくい嫉妬・羨望の情念世界を何の躊躇いもなく運動に持ち込む反峯山会長グループすらも、一つに包括した小樽運河保存運動の代表だった。
 分裂をすれば、懐の深さと分裂回避能力もない小樽運河保存運動という評価は目に見えており、それを避けるのに歯を食いしばって耐える市民運動になっていた。
 というか、そうだからこそ、運河保存に大転換した地元小樽商工会議所首脳と連携できる存在になっていた。
 
 今で言えば、反峯山会長グループは「アンチは叫べても、オルタナティブは言えない」人々だったのである。
 8月小樽博が閉幕し、運河埋立工事が再開されるのを阻止するには、埋立再考をしない志村小樽市長を退陣させるよりなく、その退陣のために署名を集め市民を立ち上がらせるには「志村小樽市長リコール」しか、選択はなかった。
 
 しかし、当時の局面は、複雑だった。
 一方でリコールを前提にしながら、他方で知事提案の「五者会談=話し合い」をどう進めるか、として問われるわけだった。
 ましてや、共同の討議のテーブルにつくということ自体は、テーブルにつくもの、とりわけ市民運動側に様々な「縛り」を強制することを意味する。
 要は、
   一方で、五者会談という共同のテーブルにつきながら、
   他方で、大々的なリコール運動を進める
というわけには、いかなかった。
 市民運動の大義がそれを許さなかった。
 大向こう受け狙いやゲリラ戦が得意な市民運動は、このような「縛り」は本質的につらいものだった。
 リコール発動準備は表には出せず、水面下でしか出来ないわけだった。
 なにせ、「北海道知事の仲介」だった。
 双方意識はしても、表向きジャックナイフを突きつけての話し合いなどは成立しなかった。 

 もし、この場面で五者会談参加拒否を選べば、シンプルだった。
 が、痩せても枯れても北海道知事の仲介を、頭から拒否した上でのリコール実施は、保守層や一般市民に対しての説得性は半減する。
 道知事仲介の五者会談拒否は、再度の少数派市民運動への転落を自ら選択するということとイコールだった。 
 共産党ですら、五者会談「参加拒否」は選択枝にはなかった程だった。
 となれば、その共同のテーブルにつくこと、その上で、どちらが先に席をけって立つのかとする、相手の立たせ方と我々の立ち方という戦術的対応に集約され、それへの意識的シナリオが問われた。

 しかし、十一年の運動がギリギリの段階で、
   このような戦術的対応で白黒がつけられるのか
という危惧は皆抱いていた。
 
 市民の大向こう受けを狙わねばならない市民運動としては、耐えに耐えてのやむにやまれずのリコール決断というスタイルが肝心だったし、逆に埋立派から話し合いを引き延ばされるとリコール発動の「タイミング」に枠を嵌められることを、意味した。
 市民運動側が一方的に話し合いの席を蹴ってリコール発動というのは、ルール違反の誹りを免れない危険性があり、市民運動は唯一「大義」を武器にしてこそ勝利を展望でき、大義のない振る舞いは逆に相手に攻め入られることを意味し、それは自動的に敗北を意味した。
 
 道路推進派が無理難題を言い並べ、それを小樽運河保存派は耐えに耐え、彼らの方からシビレをきらし席を立つという形でなければ、保存派は市民のリコール賛同を組織できない。
 しかし、道路推進派の出方に、相手方の出方に一方的に規定される、そんな期待主義的な戦術を適用することが可能か、否かだった。
 
 市民運動は、どうしても手前勝手な戦術イメージを追求しがちになる体質があった。 
 が、埋立派も、海千山千の強者だった。 
 その辺の感覚を、商工会議所首脳と二人だけになったときに、問うた。
 『道路推進派も老獪です。
  運河保存派の狙いなど予測しているでしょう。
  そんな運河保存側の都合良く、五者会談の席上で彼らから無理難題を言い席を蹴るような流れ
  に持って行くなど、可能ですか。
  大変難しいと思いますが。」
と、問うた。
 が、優しいまなざしだけが返ってきただけで回答は貰えなかった。
 攻守が逆転しての戦術は、このように苦しかった。 

21_04. 地方博・小樽博の成否が焦点になる。


 どう攻勢的にリコールを準備するのかとして、
   地方博・小樽博覧会
の存在が、一層浮上してきた。
 6月10日〜8月26日の開催期間だった。

 7月下旬には、小樽博覧会の「中間入り込み数」は発表される。
 それで、当初入り込み予測を達成できるか否かが、ほぼ確定される。
 博覧会が赤字決算となれば、それに連動して市民の反志村気分が点火される。
 実際、博覧会効果は小樽の町に期待するほどの経済的効果を与えていなかった。
 弊店の売上も博覧会効果は全くといっていいほどなかった。
 
 地元商工業者に潤いをもたらし、もって商工業者の運河保存・運河地区再開発への流れを阻止し、志村市政への不満を逸らそうと誘致した小樽博は、志村市政にとって逆に大きな重荷に化していた。
 (結局、小樽博は三億八千万園の大赤字を出し、その責任は市長や助役の減給処分で片付けられてしまうのだが。)
 そのような博覧会運営状態であるにもかかわらず、志村市政は、運河埋立を再考もしない頑迷な姿勢を保持し続けた。
 それは、小樽の商工業者があれほど期待した
   「西武流通グループの折角の小樽運河地区再開発進出の可能性
を、うち捨てることを意味した。
 ただでも、小樽港の荷物取り扱い量は減る一方なのに、石狩湾新港の権益のため膨大な市税が港湾に投入され、これまでの物流港湾業界重視施策は商工業界軽視とする志村市政への批判につながるのは必須だった。
 その志村市政を支える既存施策オンリーの自民党小樽支部への不満が、商工業主保守層も含め蓄積し、全市民の不満と怒りを、埋立派がわざわざ充填していくのだった。
 その市民各界各層の不満と怒りの爆発寸前の臨界点が、リコール発動のタイミングであるという流れを、小樽運河百人委員会は展望した。
 が、そのときまで、五者会談が続けられているのならば、だった。
 皆が、そのリコール発動のタイミングと時期を探っていた。

 小樽博開催期間中の運河埋立工事の凍結が八月中旬の小樽博終了と同時に解除され、工事が再開されることを如何に阻止するかの計算もあった。
 そもそもリコールは、リコール賛同の市民の「署名集め期間・一ヶ月」を組み込むと、遅くて七月中旬、早くて六月中のリコール発動となる、と計算された。
 道が、小樽博閉会後の即埋立工事再開するには、
  「六月中に工事発注をしないとならない
という情報も、百人委員会には入っていた。
 工事発注と再開着工とはずれがあるにしても、いずれにせよ道の工事発注入札がひとつの節目となる。
  
 だが、五者会談がいつ、何回どのようなテンポで開催されるのかは、全く見えなかった。
 五月に第1回の五者会談があったとしても、埋立派と保存派と双方の考えを出し合うには三〜四回は必要であり、開催期間はそれだけで二〜三ヶ月は要すると想定できた。
 1回目は道知事の仲介の趣旨、2回目は埋立・保存両派が主張し、3回目で埋立・保存双方の論戦という流れとなる。
 それでは、小樽運河百人委員会で論議している
  「早くて六月中旬から七月のリコール発動」
に拘れば、下手をすると五者会談を市民運動の側から席を蹴らねばならなくなる可能性も出かねなかった。
 それでは、市民運動の大義が立たない・・・。
  「小樽博決算公表と前後する、リコール発動時期の検討は可能か?
とする話し合いは、解答の出ないまま続いた。

21_05.  五者会談の小樽運河を守る会側委員人事でも、小樽運河を守る会は内部対立を続ける。

 
 このように、大変微妙な政治判断が問われながら、「五者会談と市長リコール」を両ニラミしながら、11年の小樽運河保存運動の勝敗をかけて展望を必死で探っている、私達の切なさがあった。
 が、その切なさとは全く無縁なところで、小樽運河を守る会・幹事会の内部論議は繰り広げられていた。
 
 反峯山会長グループによる悪無限的で「意識的な堂々巡り」路線だった。
 徹底的に
   「市長リコール『反対』を主張し、
    小樽運河百人委員会人での「リコール発動決定をさせず、
    反横路道政に引きずり込む」
という方針を、ひた奔る反峯山会長グループだった。
 
 が、彼らの「引き延ばし作戦」は市民運動場面では通用しても、「知事仲裁の五者会談」を巡っては、通用しなかった。
 五者会談の、委員選考の期限が迫っていた。
 そこに小樽運河を守る会としての委員を出さないとすることは、五者会談を拒否することを意味した。
 北海道知事の「話し合い仲介」という大義がある以上、いくら反横路路線を進めたい共産党も、そして小樽運河を守る会の役員付・藤森茂男氏も佐藤純一事務局長代行も、「話し合い」拒否によって小樽運河を守る会がどのように世間から叩かれるかを考えれば、拒否できる度胸などなかった。
 
 百人委員会人が五者会談の席に着き、小樽運河を守る会だけが着かないとなれば、状況から置いてけぼりをくい、孤立化するのは明白だった。
 対外的には、完全に小樽運河保存運動が分裂したことを表明し、彼らの最終目的である小樽運河保存運動の「主導権獲得」自身が、雲散霧消することを意味した。
 さらに、「分裂を招いたのは反峯山会長グループだ」となってしまう。

 反峯山会長グループも、この五者会談の小樽運河を守る会側委員を、否が応でも決定しなければならなかった。
 ただ、小樽運河を守る会側委員を、
   「簡単にスムースに決定させない
という引き延ばし戦術しか、彼らには残されていなかった。

 小樽運河を守る会。幹事会は、しかし、それ以前の話で紛糾していた。
 4月27日開催された守る会幹事会は、藤森茂男氏と佐藤純一事務局長代行が
   「峯山会長の了承も得ず、幹事会で正式に了承もされていないのに、市民連絡会議の『復
    活の趣意書』を持って、諸団体に回って歩いていた」
ことが判明し、その勝手な振る舞いを巡って紛糾する。
 小樽運河を守る会の運営を、原則的かつ民主的に幹事会に諮ってやっていくと豪語してきた手前、彼らの陰謀主義的振る舞いに言い訳は通用しなかった。
 最後は、
  「個人の立場でやったこと」
と、自らも進退窮まっての返答をするしかない藤森茂男氏だった。
  「小樽運河を守る会の役員付と事務局長代行という『肩書き』を持つ2人で回って歩いて
   、個人の立場などという言い訳が通るのか、相手方は小樽運河を守る会の総意と受け止
   める」 
  「そもそも組織運営を原則的かつ厳格にすると主張し、過去の小樽運河を守る会運営をルー
   ズでなっていないと批判されてきた本人が、ルールを遵守せず、会長のあずかり知らぬと
   ころで対外的に動くのは、とても健全な組織運営とはいえないでしょう。」
 
とする峯山会長支持グループの批判に、藤森茂男氏は屈したくないだけで、意地を張る。
 反峯山会長グループの会員が藤森氏のその頑なで傲慢な態度には流石に呆れかえっているのを見てとって、機を見るに敏な佐藤事務局長代行が、結局「詫び」を入れた。
 その後は、リコールを巡る堂々巡りが再開され、オブザーバーで出席していた百人委員会村上勝利代表幹事も、呆れ果てて帰る始末だった。
 結局、この日の幹事会では五者会談の小樽運河を守る会人選は論議出来ずに終わる。
 この後、5月2日、5月9日と暫定役員会を開催し、5月11日にも幹事会を開催するが小樽運河を守る会側の五者会談委員の人選は、相変わらず紛糾し続けた。

 百人委員会側の委員は、村上勝利・代表幹事と山口保・事務局の二人で既に決定いていた。
 11日の幹事会では、小樽運河を守る会側の委員の二人のうち一人は、峯山冨美会長で決まった。
 が、残り1名を誰にするかで、反峯山会長グループは相変わらず抵抗した。
 
 峯山会長は、小樽運河を守る会・企画部長の石塚雅明氏(石塚柳田建築計画事務所代表)を押した。
 五者会談で、行政や埋立派の再考姿勢も見せないその不当性を突き、都市計画の専門的知識を持ち、実質的に藤森茂男氏不在以降の小樽運河を守る会の路線的中核を担った石塚氏は、峰山会長支持グループの誰もが認める格好の委員だった。
 
 が、この峯山会長の人選案に、藤森茂男氏は徹底的に反対した。
   「小樽運河を守る会は、私が顔を出さなくなって小樽運河を守る会の体をなしておらず、
    何もやってこなかった。 
    (私は)怒っている。
      1984.5.3 小樽運河を守る会・幹事会での藤森茂男氏の発言:
      1984.12.13朝日新聞「運河問題10年の歩み:第3部保存への壁 39掲載
とし、
   「その元凶は、藤森茂男氏不在の後の路線的牽引者・石塚雅明企画部長だ
と決めつけ、批判をしてきていた。
 
 石塚雅明氏は、会長・事務局長を一度に失い、少数派市民運動転落を強制させられながら、切ないほどの辛さに歯を食いしばり、新たな路線で小樽運河を守る会運動を再構築し牽引してきた存在だった。
 藤森茂男氏からみれば「藤森学校の生徒」であり、後継者達だった。
 自らの意志ではなく、地元小樽の政財界重鎮の商売を人質にした政治的圧力で七年前に小樽運河を守る会事務局長を「辞任」させられた藤森茂男氏に、その「辞任」を批判をする会員などいなかった。
 心優しい小樽運河を守る会会員は、小樽運河保存運動の犠牲者という見方で接した。
 が、やむを得ず小樽運河を守る会運動から離脱させられたのだが、その「経済界重鎮の政治的圧力」や「その結果の辞任という行為」への、藤森茂男氏自身の言及が一切ないままに、小樽運河保存運動の側へのいきなりの「憎悪」的発言には、敵味方の見境を喪失した発言と、反峯山冨美会長グループの中からも不快感は現れていた。 
 
 藤森茂男氏自らが「やむを得ず」小樽運河保存運動から離脱し、それまでの牽引車である事務局長を、そして会長を失った小樽運河保存運動のその後を懸命に牽引してきた者を、平然と侮辱し貶す藤森茂男氏には、温厚で人への安易な批判をしたことのない峯山会長も、さすが、この発言には、
   「小樽運河を守る会を一番切なく辛い時期に離れていた人が、ああまで言うのは、ちょっと
    酷すぎるのでは。」
と、漏らすほどだった。



21_06. 小樽運河保存運動のパイオニア・藤森茂男前事務局長氏の変容が、極まっていた。



 21_06_01 もはや、藤森茂男氏の振る舞いの根拠は「憎悪」からとしか表現できない段階にきていた。

 小樽運河保存運動に関し40数年にわたって、多くの研究者や大学人や新聞記者諸氏が、保存派・埋立派両陣営の関係者へのヒアリングをされてきた。
 ある研究者が、藤森茂男夫人・茂子氏への取材で得た「生前の藤森茂男氏の言葉」として、 
 
   「私が作り上げた運動からやむを得ず去ったあと、まるで小樽運河保存運動を自分がや
    ったように言う人間がでてきた。
    その人たちは、(小樽運河保存運動が)注目されたり、何か受賞しても私に電話して
    くるわけでもない。
   「人が財産、と常々言っていた茂男さんは、生前、一人だけ絶対許せない人がいる。
    それは峯山だ、・・・と言っていた。
     
という藤森夫人の取材での発言を紹介し、それへの「感想・評価」を私に質問してきたことがあった。

  小樽運河保存運動を立ち上げ邁進する夫を支え、
  経済界重鎮の政治的圧力で運動からの離脱を強制され、
  悔し涙を流す夫を励まし、
  会社が破綻しても家族の生計を支え、
  加えて夫の発病と長い闘病生活に寄りそい、
  病魔を克服した夫とともに小樽運河画廊をオープンさせてきた、
藤森茂子夫人であった。
 しかし、夫・藤森茂男氏はついに逝ってしまわれた。
 今や、夫人が言うところの「藤森茂男氏生前発言」を検証することは出来ない。
 また、検証する気も毛頭ない。
 ただ、最愛の夫を思う夫人の気持ちの深さに、私たちは頭を垂れるしかない。
 
 が、小樽運河保存運動終焉後二〇〜三〇年を経て、初めて漏らした藤森茂子夫人の証言、
   「・・・私が作り上げた運動からやむを得ず去ったあと、まるで自分がやったように言
    
う。 
    (小樽運河保存運動が)注目されたり、何か受賞しても電話してくるわけでもない。
という発言を聞かされる私たちは、嘆息するしかない。

 残された藤森茂男氏夫人に言うのは、酷かもしれない。
 が、そこには、小樽運河保存運動のパイオニアたる藤森茂男氏自身が、運河埋立派の経済界重鎮の政治的圧力と会社経営を人質にされて、小樽運河保存運動からの離脱を強制されたこと自体への言及が、あまりにもないことに驚くばかりである。
 自らを政治的社会的に圧殺した運河埋立派の経済界重鎮やそれを許す小樽という街の社会的風土への根源的批判を、藤森茂男・茂子夫妻は、驚くほどわずかしか口にしない。
 それへの言及の驚くほどの少なさに比し、逆にその矛先をただ小樽運河保存運動側に向け、情念を剥き出しにされるのには、私たちは正直辟易するしかない。

 私は、藤森茂男氏こそが小樽運河保存運動のパイオニアであると過去様々に小樽運河保存運動を語る場で、機会ある毎に語ってきたし、今でもそう思っている。
 しかし、小樽運河保存運動そのものが
   「ひとり藤森茂男氏に属する」
とは、申し訳ないが全く考えたことはない。
 もし、「小樽運河保存運動そのものが、ひとり藤森茂男氏に属する」のであるならば、藤森茂男氏がやむを得ず小樽運河保存運動から離脱されて以降8年も運動は続かなかったであろう。
 1983〜84年(昭和53〜54年)の10万人署名運動のその最高揚も当然なく、藤森茂男氏が戦線を離脱されて病魔に倒れて以降、とっくに小樽運河保存運動は終わっていたであろう。

 少なくとも藤森茂男氏が病魔に犯され倒れて以降、街場の市井の人々がそれぞれに突然姿を消した事務局長・藤森茂男氏不在をカバーし、小樽運河保存運動に懸命にかかわったからこそ、小樽運河保存運動はかろうじて生きながらえ、その七年後に10万人署名という最高揚を迎えた。
 小樽運河保存運動は、一人藤森茂男氏だけのものではありえない。
 私たちは別に、藤森茂男氏個人を憎むあまり批判してきたことは全くない。
 私たちの方から、藤森茂男氏を避けたこともない。
 藤森茂男氏こそが、自らは小樽運河保存運動のパイオニアであるとするその自負心によって再登場され、「共産党系との全的共闘」を叫ばれ、しかし氏の意図通りには振る舞わない小樽運河を守る会や「夢街」の私たちを、避けられた。
 それから7年後の10万人署名という最高揚を見て取って再々登場された藤森茂男氏が言われる、「志村市長リコールではなく反横路道政での共産党系との共闘」路線に頷かなかった私たちを避けられた。
 
 私たちは、藤森茂男氏が採用した第1期小樽運河保存運動の路線の限界を批判的に検証し、そこからの転換をはかり、藤森茂男氏離脱以降の、強制された藤森茂男氏事務局長不在の小樽運河保存運動を再興しようとした。
 又、小樽運河百人委員会の場に再々度登場し小樽運河を守る会や小樽運河百人委員会を「反横路道政」路線とただ単なるイニシアティブ争奪目的での混乱に落とし込めた藤森茂男氏の「政党介入迎合」路線を批判はしても、個人的に氏に憎悪を向ける気持ちなど抱いたこともなかった。

 藤森茂男氏が運動当初から小樽運河を守る会刊の「運動の手引き」や、創設間もないころ作製した小樽運河を守る会の「基本提唱」で主張した、小樽の街に賑わいを取り戻し街を元気づけるための小樽運河地区の再開発と再活性化という路線を
   「私たちこそが病魔に倒れた藤森茂男氏に代わって進めてきた
と、今でも自負している。

 第1期小樽運河保存運動で藤森茂男氏が、残念ながら徹底できなかった、当時は言葉として存在していなかった「まちづくり」を路線化し、「まちづくり市民運動としての小樽運河保存運動」を推し進めた。
 この「まちづくり市民運動としての小樽運河保存運動」を、藤森茂男氏から継承するのは私たちだとして決意し担い抜いた。
 藤森茂男氏が小樽運河保存運動という戦線からやむを得ず離脱してしまわれたのだから、それをカバーしようと懸命に闘った。

 藤森茂男氏の「再登場」や「再々登場」の際、藤森茂男氏から事前に声をかけられたわけではなかった。
 そして、氏が、あろうことかその藤森イズム=「まちづくり市民運動」路線を「全面否定」する北村聡司子副会長や北村哲男再建役員会書記の「反峯山会長グループ」に接近しスクラムを組む路線を採用するのを見た。
 天を仰いだだけだった。
 それどころか、藤森茂男氏が事務局長時代後半に小樽運河保存運動の「基本戦略を徹底して転換できなかったツケ」こそが、路線的には反知性で反理性的な「反峯山会長グループ」を産んでしまった要因であった、のにである。
 その振る舞いは、藤森茂男氏自身が、自ら牽引した第1期小樽運河保存運動の真摯な総括をされていない、姿そのものだった。
 
 人情としては理解出来る。
 が、真摯な総括はなく、あたかも小樽運河保存運動を自らの所有物であるとする占有意識を持つこと自体が、すでに小樽運河保存運動のかつての指導者が、パイオニアとしての信頼を失ってしまっていた。
  
 そこには、
   「小樽運河保存運動を簒奪された被害者意識
だけで小樽運河保存運動側の人を見てしまう、近親憎悪に近い藤森茂男氏になってしまった姿を見た。

 21_06_02 小樽運河保存運動をやむを得ず離脱して以降の物心両面の「外傷」の結果としての、藤森茂男氏の変容だった。


   「03_07.創生期の小樽運河保存運動の終焉と、それが内包していた矛盾」
   「03_08.小樽運河保存の『中身』が、決定的に問われていた。」
の各項で、当時の小樽運河保存運動が持つその質と運動路線を、述べてきた。

 残念ながら、藤森茂男氏に牽引された「第一期小樽運河保存運動」が持っていた
   「運動路線の限界と克服」
を、藤森茂男氏本人のやむを得ない離脱後の、最高揚時時の三度目の登場の際にも、真摯に総括された発言は一切聞くことはなかった。
 小樽運河を守る会創設したとき、
   「運河は理屈を越えた懐古的情緒であり、小樽の人々の郷土愛という理屈を越えたノスタル
    ジーであって、そのかけがえのない遺産を守る。
とする藤森茂男氏に言わせると
   「文化運動ではない、文化的市民運動
路線を、運動当初に藤森茂男氏は採用された。
 しかし、藤森茂男氏が運河埋立派の経済界重鎮による「会社の行く末を人質」にする政治的圧力で小樽運河を守る会事務局長を辞任せざるをえなくなった時期は、行政と経済界が、
   「小樽運河保存運動との全面対決路線
に踏み出した時期と重なっていた。
 というか、行政と経済界の小樽運河との全面対決路線の狙いの一つが、藤森茂男氏の小樽運河を守る会事務局長辞任でり、小樽運河保存運動から離脱させることだった。

  であるが故に、もはや小樽運河を守る会の設立当初の鎮圧されるのを回避し、穏便な表現を採用し、「陳情と要望」の枠内に運動のエネルギーの全てを集約してしまう運動路線としての藤森路線は、その埋立派の強硬路線に対抗しうるものではなくなっていた。
 藤森茂男氏が事務局長として牽引した路線は、
   運河保存署名をし→小樽運河を守る会が市民の総意をと代表し→道路計画変更の陳情をする
という、小樽運河を守る会が、
   運河保存の市民総意を「代行的」に行政へ陳情や要請を行う
とし、
   市民を小樽運河保存運動の前面に登場させ得ない「代行主義的」運動路線
とする第一期小樽運河保存運動のその限界一杯まで試されて、結果破綻を迎えていた時期だった

 そこから「次は何か」を明確に市民に向け語り得る新たな路線を藤森茂男氏は用意される前に、行政と経済界の運河埋立派による藤森茂男氏をターゲットにした攻撃をうけた。
 しかし、この陰湿な政治的社会的圧殺行為のショックが、
   「小樽運河保存運動の路線的破綻という事態の本質を隠してしまった
のだった。
 逆に、理由が全く言われない藤森茂男氏の「突然の事務局長辞任」という事態から受けた小樽運河を守る会のショックが、
   「小樽運河保存運動の路線的限界という事実をえぐり出すことなく
その路線的限界と敗北の中身を真摯に検証することを阻害した。
 
 結果、
   「道路促進派に包囲され少数派市民運動に転落させられた
という結果だけが一人歩きし、小樽運河を守る会内部で、被害者意識だけで言う意識構造を生み、
   「小樽運河を守る会内の主体的な路線的総括を放棄させてしまう
結果を、生んでしまっていた。

 かろうじて、北大大学院グループやポートフェスティバルを牽引する役になる若者達だけが、
   「次はなにか
とする意識を持つからこそ、第一期小樽運河保存運動の路線的限界に気がついていた。
 
 一般的に、市民運動において卓抜したパイオニアが、運動の最終局面まで不動不抜のリーダーであることは、案外少ない。
 市民運動の発展の論理は、その意味で冷酷ではある。
 様々な客観的、主体的壁にぶつかる市民運動において、常に「次は何か」とそれまでの路線を真摯に検証をし、新たな路線の提起とそれまでの運動スタイルからの大胆な転換をし、積極的に街や市民に切り込み打って出てそこに市民を獲得できなければ、リーダーは運動内に継続的に位置できない。
 それに対し、ただ「プライドと情念」だけで立ち向かおうとしても、牽引するべき運動路線は提起できなし、行動方針は出てこない。

 最初の脳溢血という病魔に冒され療養の最中、自宅のソファに身を横たえながら情熱的に小樽運河保存運動を語り、運動主体が持たねばならない自覚をこんこんと説く藤森茂男氏の姿を知る私だった。
 だから、事務局長辞任から三年、七年と2度のブランクを経て、最高揚期に三たびの登場した際の、第一期小樽運河保存運動の路線的敗北の総括を語らないままの藤森茂男氏の大変容には、驚愕し言葉もなかった。
 私以上に藤森茂男氏を信奉し、藤森茂男「学校」の生徒であった北大大学院グループや「藤森茂男一番弟子」と自称する山口保、そして佐々木一夫(興次郎)などポートフェスティバル主要メンバーも、
  「氏の変容は、なぜか
と額を寄せ合った。
 藤森茂男氏があれほど慎重に距離をとり、しかも最も警戒した党派性の強い共産党と同調しての振る舞いに、かっての藤森茂男氏を知る仲間たちはなぜかといぶかった。

 当時の私たちの若さでは、そのこと自体が理解できないでいた。



 21_06_03. 記憶というモノは、その出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではなく、「意味」の強度によって記憶として選択される。


 フロイトが好きな方はよく言う。
   「ヒステリー患者十八例の聞き取り調査結果から、彼女たちの多くが幼児期に性的な「虐待
    経験」を受けているという『事実』を発見した。そして、一躍、
      『ヒステリーの原因は幼児期の性的暴力のもたらした外傷である』
    という学説を発表した。」
とし、その「性的暴力のもたらした外傷」を即「外傷一般化」し、あたかもそれでもって人の心理を説明しようとする。
 だから、にわかフロイト主義の限界がある。
 しかし、フロイト本人の凄いところは、そこにあるのではない。
 学説を発表した後に、フロイトは、その患者たちが告白した「過去の外傷」に対し信憑性を疑った。 
    その「外傷」は「事実」ではなく「幻想」だったのではないか
と。 
 フロイトは、更に、自らの学説での「調査が事実じゃなかった」と逃げ出してしまうのではなく、
   「外傷経験の主体にとって は、そのような経験が『事実』として生きてい
    るということの重要性を、『客観的事実性とは別の水準』で認知しようと
    した。
としたところが、肝心であり、凄みのあるところだ。
 例えば、
   「ある人が、数十年間も幻想的な外傷経験を「自分の経験として生きてしまった」のであ
    れば、その歴史的原因が「事実であるか」ということは二の次となり、現にその『傷』
    はまさにその人の中で「リアルに生きられて」しまって、その幻想的外傷は『事実と違
    う』と指摘しても、はじまらなくなってしまう」 
というわけだ。
 それは、 
   「人間の人生の岐路に存在する『決定的経験』というものについて、その当事者が全く異
    なる記憶を有している
という事例でもあきらかだ。

 これが、藤森茂男氏のこの時期の振る舞いを唯一説明出来る。
 つまり、 
  「記憶というモノは、その出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではなく、
   その出来事が「そのあとの」時間の経緯のなかで持つことになる「意味」の強度によっ
   て記憶として選択される。
とすれば、藤森茂男氏の言う、
  「小樽運河を守る会は、私が顔を出さなくなって小樽運河を守る会の体をなしておらず、何
   もやってこなかった。(私は)怒っている。
  「私が運動からやむを得ず去ったあと、まるで小樽運河保存運動を自分がやったように言う
   人間がでてきた。
   その人たちは、(小樽運河保存運動が)注目されたり、何か受賞しても私に電話してくる
   わけでもない。
  「人が財産、と常々言っていた茂男さんは、生前、一人だけ絶対許せない人がいる。
   それは峯山だ、と言っていた。
とする発言があきらかにするのは、まさに、
   会社存続を人質にした守る会事務局長辞任という政治的圧力で負った「外傷」、
   その事務局長辞任という選択をしてしまった後悔という「外傷」、 
   追いかけるように襲いかかった会社倒産という「外傷」、
   その後の二〜三度の脳溢血という「外傷」、
   やむを得ず事務局長を辞任して三年後、体調がもどり、共産党系の「小樽運河保存条例直接請求」署名運動に小樽運河保存運動が全面的に共闘すべきとする提案が小樽運河を守る会と夢街にうけいれられなかった「外傷」、
   さらに、その後の7年という治癒という雌伏の孤独な年月という「外傷」
と、これでもかとばかり満身創痍の「外傷」を受け、その出来事「そのもの」の強度ではなく、その「意味」の強度による記憶として選択されてしまった、藤森茂男氏がいた。
 
 それが、自らがパイオニアと自負する小樽運河保存運動から離脱して以降、
  「その後継者たちに簒奪された」という〈幻想〉が持つ「意味の強度」によって、氏が選
   択してしまった「記憶」になった。
のだ、と。

 藤森夫人・茂子さんの証言も、
  「・・・茂男さんが作った運動なのに、自分がやったように言う。(小樽運河保存運動が)
   注目されたり、何か受賞しても電話してくるわけでもない。
は、どこまでが藤森茂男氏本人の発言で、どこからが藤森茂男夫人の印象なのか今となっては不明であるが、いずれにせよかなり無理がある。

 なぜか?
 藤森茂男氏が小樽運河保存運動から完全離脱して三年目の1979年(昭和53年)、共産党系が「小樽運河樹齢を求める直接請求」署名運動への取り組みをしようとした。
 その展開で共産党系と小樽運河保存運動側が話し合いをもった際、突然共産党系と一緒に藤森茂男氏が3年振りに姿を現し、いきなり「共産党系との全的共闘」を小樽運河保存運動に要求するほどの変容を呈していた。
 小樽運河を守る会と「夢街」の私たちは、その「共産党系との全的共闘」に愕然とし、驚かされた。
 やっと、小樽運河保存運動の孤立化のための「小樽運河保存運動=アカ」とするキャンペーンをポートフェスティバル開催を通じて打ち破り、小樽運河保存の市民的裾野を拡大している最中だった。
 再び、「小樽運河保存運動=アカ」とする孤立化を自らが選択するなど、自滅の道だった。

 いたたまれず、その藤森茂男氏に、
  「運動当初から、小樽運河保存運動は、あくまでも『個人参加』と『政治をもちこまない
   運動』という主旨を守るのだと、我々小樽運河を守る会の若い会員に教え込んだ人こそ
   が、藤森茂男さん、あなたではなかったか?
と、「夢街」が意見を挟むと、
  「俺に説教するのは10年早い
と、それまで私たちの前で見せたことのないほど傲慢に言い放ち、私どもの意見など聞く耳をもたなかった。
 沈痛な会議となった。
 結局、会議は決裂した。
 共産党系が退席しても、残って、私たちと話し合いを続けるかと思った藤森茂男氏は、なんと共産党系と一緒に帰途についた。
 会議に残り、私たち小樽運河保存運動サイドと膝を交えて話をするのを拒否するかのような、藤森茂男氏の背中だった。
 私たちは、ただ見送るだけだった。

 そのような振るまいをされる藤森茂男氏に、話を伺いに行くなり、運動報告に行く気持ちは、湧きようもなかった。
 この「小樽運河条例直接請求」署名運動での「共産党系との全的共闘」提案に当然従うであろうと想定していた藤森茂男氏も大きなショックを受けただろう。
 小樽運河を守る会と「夢街」の若者たちが、敢然と藤森提案に反対したことのショックで、小樽運河保存運動の前事務局長でありパイオニアと自負する氏にとって、未だ保持しているとした自らの権威が、共産党系が臨席する場で、完全に打ち砕かれて、『外傷』となった。
 ここから、「小樽運河保存運動をその後継者たちに簒奪された」とする「意味の強度」によって「選択された記憶」が「外傷」となって藤森茂男氏の「記憶として選択」されていったのは、想像に固くない。
 そしてこの会議での突然の登場と決裂以降、藤森茂男氏は小樽運河を守る会や「夢街」との話し合いを持つことはなかった。
 小樽運河保存運動の最高揚の10万人署名運動後、三度の登場をされた。
 が、その藤森茂男氏の政治主張は、小樽運河保存運動を運河埋立を見直さない「志村市政」に向けるのではなく、共産党系が採用する「反横路道政」路線に無理矢理ねじ曲げるものであった。
 このときも、七年間事前の話し合いなど一切ないままの登場だった。

 が、藤森茂男氏夫人・茂子さんは、
   「その人たちは、(小樽運河保存運動が)注目されたり、何か受賞しても私に電話して
    くるわけでもない。
と言われる。
  
 が、藤森茂男氏がこのような傲慢で我々の話を聞こうともしない振る舞いをされる状況を生み出しながら、交通関係を望むのはそもそも無理があった。
 会議が決裂し、そのあと残って話し合いするわけでもなく、私たちを拒絶するように共産党系と一緒に帰途に就く藤森茂男氏だった。
 その会議以降、個別に話し合いをとする藤森茂男氏ではなかった。

 この藤森茂男氏に、交通関係をもてる者はそうはいない。
 ましてや、小樽運河を守る会の高齢の比較的時間に余裕のある会員であればいざ知らず、夢街の私たちは自らの仕事と小樽運河保存運動とで手一杯だった。
 私などは、今のようにスタッフが成長し安心して板場も店も任せられる時代ではなく、まだ若く、出前をしながら板場もやりスタッフ育成のまっただ中で、夢街やポートフェスティバルの会議出席さえままならない状況で、余裕ある時間はそれらの会議に真っ直ぐ向かうので精一杯であり、とても藤森茂男氏へのフォローに気を配る余裕などなかった。
 
 更に、藤森茂男氏がそうであったように、私たちにとっても、その「共産党系と全的共闘」を強引に押しつけてきた藤森茂男氏の姿は「外傷」となり、記憶として選択されていく、のだった。
   「事実と異なる」と私たちが藤森茂男氏にいくら指摘しても、藤森茂男氏はその選
    択された「意味の強度」で「リアルに生きられて」しまっていた
のだから、そもそも私たちがどう言おうと、藤森茂男氏は聞く耳を満たず、又氏の方から私たちに交通関係を持とうとはおもわれてはいなかったであろう。
 
 人間は、かくも面妖な存在だ。
 こうまで藤森茂男氏を変えてしまった運河埋立派の経済界重鎮による「政治的・社会的圧殺」行為から続く、藤森茂男氏を深く傷つけた数々の「外傷」をつくづく恨めしく思う。

 更に言うなら、
   「・・・茂男さんが作った運動なのに、自分がやったように言う。
という発言は、あきらかに峯山冨美・小樽運河を守る会会長や石塚雅明・小樽運河を守る会企画部長を意識して放たれているわけで、それには賛成しかねる。
 また、その対象が私たちであっても同じである。
 ひとり立ち上がり、町並み保存先進地を行脚視察し、文部省や文化庁を訪れ、小樽運河を守る会を立ち上げた藤森茂男氏であり、その後の人語に尽くせぬ苦労をされた藤森茂男氏であってもである。
 11年の小樽運河保存運動が、例え藤森茂男氏が一人で開始したものであっても、
   多くの市民の仲間との「協働」の結果である
とする私たちには、氏の気持ちは理解できても、賛同出来ない。
 それは、
   「小樽運河保存運動のあらゆる努力を享受するのは藤森茂男氏ひとりであり、
    小樽運河保存運動の努力がもたらした成果は藤森茂男氏ひとりが使い切る、
    他の誰にも分与しないし、
    贈与もしない
とする、小樽運河保存運動の独占・占有と言わざるを得ない。

 小樽運河保存運動が、「社会的、普遍的」であるためには
   「時」を味方にしなければならない
と、私は思う。
 時の経過とともに、その小樽運河保存運動の、あちこちに散逸していた新たに「満たされるべき空隙」がひとつひとつパズルのようにあてはめられていくようなダイナミックな仕方で組み立てられていくからこそ、私は小樽運河保存運動を「社会的、普遍的」な『まちづくり』市民運動であった、と言うことが出来る。
 小樽運河保存運動が内包した様々な成果は、それまでの全国の町並み保存運動を先駆的に担い抜いた今は亡き先人たちの成果の上にあり、それが「まだ見ぬ全国のまちづくり市民運動を担う人々」との「恊働」の営みに資することが出来て、初めて意味を持つ。

 小樽運河保存運動の独占・占有など、それに比べて如何に非理性的でないか、如何に「狭い」ことか、如何に時というものを味方にできないか、と思わざるを得ない。
 この、
   「・・・藤森茂男が作った運動なのに、自分がやったように言う。」
とする発言は、
   「今、ここで、運動に関わったものたちを威圧(黙らせ、従わせる)する
ために放たれた言葉でしかない。
 そして、そこには「今、ここに、私(藤森茂男氏)」しか、いないのである。
 このように、藤森茂男氏が過剰なまでに傲慢さを振る舞ったのは、
   「今、ここで、目の前にいる峰山支持グループ
を、「威圧する」することに固執しての言動だった。
 だから、少し時間をかけて調べれば簡単で、根拠に乏しい路線や一義的な解釈に馴染まないことを自説のために厭わないだけであった。

 結局、これは苦労して担って来た小樽運河保存運動が、仲間との恊働の一部であると考える人は決してとらない振る舞いなのである。
 そして、藤森茂男夫人・茂子氏は、夫から小樽運河保存運動のその局面局面での話は聞いていても、直接運動現場や会議現場に立ち会ってはおられない。
 その時々で、私たちに見せた藤森茂男氏の振る舞いや言質を、夫人は目の当たりにはされていない。
 立ち会っていたならば、家族にみせる普段の夫・藤森茂男氏と、そのような場での藤森茂男氏の振るまいの、あまりの相違に驚かれたであろう。
 
 藤森茂男氏だけではなく、人は・・・変わるのである。
 

21_07. 路線もなく、嫉妬・羨望という情念で唯一糾合した「反峯山会長・リコール急進派」


 前項で小樽運河を守る会元事務局長・藤森茂男氏の変容を述べた。 
 氏が、初期小樽運河を守る会を牽引した指導者であった分、語らざるを得なかった。
 ここを語らずして、第一期から第二期へ転換・飛躍した、小樽運河保存運動が持つ意味合いや意義を理解していただけないが故に書き連ねた。
 藤森茂男氏個人を批判をしたいためではない。

 一方、以下に述べる傾向について語る意味合いはあまりない、が、その面妖さでは負けない。
 いわゆる「反峯山会長グループ」という傾向だった。
 小樽運河保存運動が十一年目にして向かえた最高揚期に、一連の混乱を小樽運河保存運動内に生んだのは、この傾向の存在だった。
 藤森茂男氏が依拠したのがこの「反峯山会長グループ」だった。

 人物的には、
  ・北村聡司子:小樽運河を守る会副会長
  ・森本 光子:小樽運河を守る会副会長
  ・北村 哲男:小樽運河を守る会暫定役員会書記
等に代表された。

 拙稿、「 13. 全国町並みゼミと路線分化の萌芽」で詳細に述べたが、上記の人物等に代表される、いわゆる「反峯山会長グループ」が持つ、唯一明確な路線は、

   ただ運河が残ればいい、というのが小樽運河を守る会結成当初からの路線である。
   どう保存するかや保存後どうそれを維持していくかを問われても、本来それは行政が考える
   べき事で、市民の身丈にあまる。  
   だから、市民が『保存・再生』しか言うべきでなく、『再活用』まで主張し、観光での
   活性化で小樽の賑わいを取り戻すという「まちづくり」路線は、市民運動として逸脱した路
   線である。
というものであった。

 いわゆる、「凍結的保存」路線だった。
 今で言うオルタナティブなまちづくり、つまり持続発展可能なまちづくりなど市民が言うべきでないという、市民運動の発展性を自ら全否定し固定化した発想だった。
 このような発想が、一人一人自立した市民の登場を阻害していた
 結果、街への無感動や行政任せや単純反行政志向の人間を産み出していくのだった。

 では、小樽運河を守る会の運動は、本当にこのようなレベルで作られたのか?
 断じてない。
 彼らは小樽運河を守る会の初期に発刊された
  「小樽運河を守る会ニュース」
  「運動の手引き」
  「小樽運河を守る会の基本提唱」
での主張などで、
  『 守るってことはどういうことか
として、当時の事務局長・藤森茂男氏が執筆した文章すら、読んでいなかった。
 その中に、
   「ただ運河を残すだけを小樽運河を守る会は、言っているのじゃない。
   運河沿線に『大運河公園』をつくり、その周囲に歴史的建造物を再活用して
倉敷アイビー
   スクエアのような若者ツーリストをターゲットにした宿泊施設などを配置し、(観光で
   )賑わいを取り戻す。」
と、明確に記載している。

 この小樽運河を守る会の当初に打ち出した主張が日の目をみず、路線として論議の遡上に乗ることもなかった。
 小樽運河を守る会内部の学習会や理論構築の作業をせず、ただ参集する市民のエネルギーを運河保存の「署名運動」に埋没させてしまったがゆえに、極論すると自らを少数派市民運動に陥らせてしまった、と言うことも出来なくはない。 
 何よりも、それを事実が証明していた。
 夢街が誕生し、
   「ただ運河を残すだけではなく、『保存・再生』だけでなく『再活用』まで主張し、観光で
    の活性化を促進する」
とし、それをポートフェスティバルという形で具体的に市民に提案したから、小樽運河保存運動と小樽運河を守る会は、少数派市民運動から甦った。
 
 小樽運河保存運動最高揚期に再々登場した藤森茂男・元小樽運河を守る会事務局長は、反峯山会長グループを束ねながらもその一年以上もの間の対立の中で、この明確な「保存を巡る路線の違い」を明らかにする論争を意識的に避け通した。
 いや、意識的に絶対にその論争に踏み込まなかった。 
 口にした途端、峯山冨美会長や北大グループや夢街が主張する「まちづくり」路線を、わが藤森茂男氏自ら運動当初から書き記し主張していたことが指摘されてしまうからだった。
 結果、「ただ小樽運河が残ればいい」とする凍結的保存路線は完全に論破され、位置を失うことがわかっていたからに相違ない。
 ましてや、反峯山会長グループはその「凍結的保存」路線で、一致していたわけでは、ない。
 ポートフェスティバルの本部テント横で、小樽運河保存署名を呼びかける小樽運河を守る会テント前で、多くの市民が署名に列を作ったのは、ポートフェスティバルが示した小樽運河地区再開発・再活性化のイメージ、現場をつかったプレゼンテーションに魅了されたからであることを、身体で感じていた。
 が、小樽運河を守る会・反峯山会長グループの結集軸は、路線としてというより、峯山冨美会長、石塚雅明、山口保、夢街のメンバーへの対抗意識からの糾合だった。
 嫉妬や羨望を通り越した、ほとんど「敵意」や「憎悪」にも似た情念的な反発を組織する北村聡司子・哲男親子の執拗な峯山会長批判の扇動であり、それを助長し擁護する藤森茂男氏始め佐藤純一事務局長代行などの、一件民主的な会運営への原則的批判などで、醸成され組織されていった。
 
 だから、面妖でまともな論争にならなかった。
 人間の、心の奥底にある、もっとも醜悪な嫉妬・羨望という情念による「峯山イニシアティブ」の奪取が、唯一彼らを結びつけていた。
 それに、同じく小樽運河百人委員会内で、自分の代表幹事の位置が希薄化し、何とかポジショニングを維持し確立したいが、その前に立ちはだかる「運河の峯山」という存在に一人では対抗できない村上勝利代表幹事が、反峯山会長グループに急接近し合流していくのだった。
 類は友を呼ぶ、その面妖同士の糾合の色会いが、更に濃厚になってしまった。

 山口は、耐えに耐えて説得を続けた。
 しかし、「反峯山会長グループ」から返ってくる言葉は、最悪だった。
  「こちらが代表的立場にあるのに、(峯山会長支持派の)あの人たちばかりがマスコミに登場
   し、脚光を浴びる。マスコミと結託している。」
  「峯山会長は神格化されている、恐ろしいことだ。」
  「道庁などからの情報がこちらへは入らず、(峯山会長支持派の)あの人たちのところへ先に
   伝えられる。」
  「五者会談の場で、あの人たちとはもはや同席したくない。」
  「こちらと喧嘩するのは、一〇年早い」
という反応だった。
 「自分が理解出来ることだけを認識したい」という、現代の「反知性主義」に相通ずるものがそこにあった。 

 その扇動役のトップが、北村聡司子:小樽運河を守る会副会長とその子息・北村 哲男:小樽運河を守る会暫定役員会書記の親子、そして森本光子:小樽運河を守る会副会長だった。
 あの
の項で紹介したと同様、再び小樽運河保存運動の仲間をリスト化し、反峯山会長グループと峯山会長支持グループの色分け作業を、北村哲男氏は再開していたのだろう。
 氏は、
   「我々(反峯山会長グループ)の情報がもれている。」
   「○○や××は、スパイだ。」
とまで、叫んでいた。

 このように「反峯山会長グループ」の先鋒役になることで、藤森茂男氏や佐藤純一事務局長代行が持ち上げてくれ、共産党系市議は勿論共産党系労組や文化団体幹部がすり寄ってき、小樽運河百人委員会の村上代表幹事が合流することで、北村・森本両副会長や北村哲男書記らは、そのポジションのどす黒い蜜の味に酔いしれていた。
 しかし、まだこの頃はリコール反対派だった「反峯山会長グループ」が、小樽運河百人委員会の中で主導権を奪取しようと転換し、「リコール早期発動」に転換した際、即表面化したのが、
  「リコール=志村市長解職請求代表者に、北村聡司子氏と森本光子氏のどちらがなるか」
という、功名争い、綱引き合戦だった。
 この綱引き合戦で負けた森本光子副会長は、やがて反峯山会長グループだけでなく小樽運河保存運動から姿を消していった。
 マスコミの脚光やスポットライトを浴びたいという、そこにはただ功名だけを追い求める、哀れな姿しかなかった。 
 
 それは、実に小樽運河保存運動にとって不幸な事態だった。
 運動路線や状況分析の視点を巡る論争ならまだ何とかなったが、感情や情念次元の争いではどうにもならず、怨念にも似た反発には争うにも争えなかった。

 このような対立構造を、時を経て理解してもらうには困難が伴う。
 「反峯山会長グループと対立が激しくなる前に、もっと意思疎通を強くできなかったのか。」
 「反峯山会長グループを、それなりに寓しておけば避けられたのではないか。」
という意見を頂くことがないわけではない。
 が、申し訳ないが、指摘のような点を配慮もし、そう寓してきた。
 が、それでその対立を回避できたかは別だった、と私は思う。
 何度もいうようだが、
  「対立のための対立」を全面に押し出し、加えて人間の最も醜い情緒・情念を組織化し、
   党派利害をかけた政治勢力に依拠し、それをもって自分のポジションを得ようとする。
   反峯山会長グループ一人一人の人間としての品位・品格・品性の問題であったから」
だった。
  
 峯山会長支持グループや夢街やポートフェスティバルは、少数派運動に転落した小樽運河保存運動の裾野広げて、市民的裾野の拡大に依拠して、それを追求して最高揚期を迎えた。 
 それまで七年以上小樽運河を守る会から離脱していた人々が、最高揚場面になって再参加してき、運動経験や政治経験が浅い人々が小樽運河を守る会に加入してきた。 
 そういう人の中には、最も苦しく切ない時期を耐えに耐えてやってきたからこそ「運河の峯山」と評価されることに、
  「小樽運河保存運動の本家意識がある
と反発される方もおられた。
 最高揚期に参加してきた若い人々の中には、そのような運動実績をもつ人々を感覚的に「権威主義」と見誤る人々も、いないではなかった。
 市民運動における、常なる側面だった。 
 こういう次元の様々な人の葛藤が、政治勢力の介入でより加速・濃縮され、それが対立として醸成され、成立してしまった。
 
 峯山会長を除くと、私の仲間は皆まだやっと三〇代前半だった。
 同じ物言いでも、三〇代と五〇〜六〇代での発言は受けとる側の印象や受け止め方そのものも、違う。 
 このときこそ、自分の若さに臍をかみ、人生経験を積んだ年齢になっていれば、と唇を噛んだものだった。
 そして、年齢による説得力のせいにするのを悔しがる私たちがいた。

 こういう中で、五者会談の小樽運河を守る会側委員の人選が争われていた。

 結局、5月2日、9日の役員会も、11日の幹事会でも、小樽運河を守る会側の五者会談委員の人選は決定しなかった。
 5月17日、道サイドから第1回五者会談の開催日を「5月24日」としたい、と連絡が来た。
 が、全く人選は進まなかった。

 満を持して峯山会長支持グループは、

   「二日前の5月9日の北海道議会・決算特別委員会で住宅都市部長が、
     『既に杭打ちが終えたあとに石を積み護岸とする工事などの発注を、
      6月中に予定している
    と答弁している。
    そのような緊張した状態なのに、今の小樽運河を守る会・再建役員会は、それへの保存運
    動側の明確な態度表明さえしていない、体たらくな状態だ。
    要は、状況に対応するための前向きな議論が、小樽運河を守る会では全くできていない。
    これまでの延々の論議が意味しているのは、再建役員会に決定のための調整能力がないと
    いうことを示している。」 
    
   「であるならば、運動展開の阻害になる再建役員会は解散すべき、と進言する。
    再建役員会の決定ということで、幹事会はそれをすんなり承認と考えているのだろうが、
    その再建役員会が調整もできず、決定もできないのである。
    その存在意味がなく、解散しかない。
    賛否が明確に分かれた場合、それこそ普通の団体や組織は、
      「会長に一任出来るものは一任
    とすることで団体・組織の決定とするのが普通である。
    そうなれば、会長のもとにまとまって進んでいくのが、大人のやり方です。」

   「そもそも、これまでの11年の小樽運河を守る会では決してしなかった『多数決や無記名
    投票』で、五者会談の委員人選を決めようなどという意見が、暫定役員会で出るまで至っ
    ている。 
    株主総会でもあるまいし、多数決や投票などは役員の間にしこりが残り、それが後にまで
    尾を引きかねず、11年の小樽運河保存運動には全く似つかわしくない。」

と打って出ざるを得なかった。
 
 五者会談のような知事の仲介での会議に委員を送るその人選は、いわば「母体会議での主導権を取る」とする意志の反映では、ある。
 とはいえ、小樽運河を守る会・幹事会は何も決定ができな漂流状態化していた。

 結局、11日の幹事会も決定できず、第一回五者会談の二日前の、5月22日に決着をつけることになる。
 5月22日の小樽運河を守る会幹事会で、五者会談の小樽運河を守る会側委員を、峯山冨美会長と石塚雅明・企画部長の2名をやっと決定し、二ヶ月かかって五者会談に臨む小樽運河保存運動派の体制ができた。

 しかし、このような有り様では、会議の場で小樽運河保存運動側が強固な一体感ある対応をできるのか、という不安を抱えて臨む五者会談だった。

     この項終わり
 ● 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ● 【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ● 【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。