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22_01.第一回五者会談開催される。


 第一回五者会談が、5月24日午前9時半、小樽市市民会館会議室で始まった。
 TVや報道人約50人。

 出席者は、
 北海道:横路北海道知事と新谷昌明公営企業管理者
 埋立派:志村常雄・小樽市長、早坂昭光・市土木部長、自民党小樽支部・山吹政一支部長、小
     樽臨港線早期完成促進期成会・菅原春雄会長
 保存派:小樽商工会議所・川合一成解答、大野友暢副会頭、百人委員会・村上勝利代表幹事、
     山口保事務局長、小樽運河を守る会・峯山冨美会長、石塚雅明企画部長

 新谷昌明公営企業管理者の司会で始まった。
 知事は、
  「小樽の将来を心配し、地域の活性化を願う点では共通の立場におられる皆さんと、原点に戻
   って議論し、お互いに理解し、コンセンサスを得ることが出来ればと思う。
   何も枠組みを決めている訳ではない。
   私どもの方でこういう具合に、と思っているわけではない。
   率直かつざっくばらん、出来るだけ冷静に有益な話し合いを。」
とし、道側に『腹案』はないことを強調した。
 以降の話し合は非公開。

 運河保存派側は、運河問題に限定せず、経済的に低迷する小樽の発展の施策、そのための都市づくりをどうすのかという大局的意見を述べ、その中で運河問題をどう位置づけるのかと提起した。
 しかし、運河埋立派と運河保存派の主張は平行線をたどってきており、その話し合いが今後どう続くのかという道筋は、一回の会議で打開するようなものではなかった。

 ・・・道側に『腹案』はなかった。
 仲介する側に、『腹案』がないということは、結局地元小樽側に一切のボールを投げ返し、第三者的「仲介役」の立場にしか立ち得ない、と宣言したわけだった。
 予想通りとは言え、そう簡単な「腹案」などないことはわかっていた。 
 が、こうもはっきり第三者的、客観主義的な立場の表明には、正直やりきれなさを感じざるを得なかった。

 明確になったことは単純だった。
 五者会談では、やはり「実りある結果」は、出てこない。
 一方、北海道知事の仲介の五者会談を、道路建設埋立派も小樽運河保存派も蹴る覚悟はなかった。
  「(道々小樽臨港線工事)予算案の事業は、昭和五九年度中に実施する方針」
と北海道議会で可決されて攻守が入れ替わり、防衛戦に回らざる得なくなった小樽運河保存運動は五者会談そのものを徹底的に利用し、その五者会談開催期間を
  「小樽運河埋め立てを再考しない志村小樽市長リコールに向けた態勢固め期間
にするよりなかった。
 もはや、道路建設運河埋立派へのジャブ的圧力かけとしてのリコールから、文字通り「組長の首を取りに行く」大政治戦への突入だった。


22_02. 時代は変わりつつあった、そして小樽は「過去と未来」の真正面からの攻防の舞台だった

 「小樽運河を埋め立てて六車線道路建設を」とする行政と自民党道連・小樽支部、それに道路建設派経済人で編制された「道々小樽臨港線早期完成促進期成会」という小樽の旧構造剥き出しの姿は、十一年間の小樽運河保存運動で、とりわけ1984年1月の商工会議所首脳と保存派の中央省庁陳情での、大臣や担当官僚の受け答えで、完全に論破されてきた。

 志村小樽市長は、保存派やマスコミに小樽運河埋め立て再考を問われては、必ず
  「行政の連続性の根幹
に関わる問題と答弁し、再考を頑なに拒否してきた。
 しかし、
 1984年1月17日午前11時から50分間、小樽商工会議所正副三会頭が水野建設大臣室の
面談で、

 建設相:この間、志村市長と箕輪議員がきたときは、『運河問題で地元には問題はない、政財界
     あげて道路建設を熱望している』とのことだったがどうなのか。
 会議所:運河埋め立てを避ける代替道路案(市道港線の利用)を考えている。
 建設相:道の考えを聞こう。
 建設相:会議所の人が来ているがこの前来た市長の話と違う。道としての話はどうなのか?
 知事 :窓口の担当部署以外は保存すべきとの考えを持っている。
     六車線道路はいらない、情勢は変わっている。
 建設相:そうか、知事に任せるから市長や会議所と話し会いまとめて欲しい
 建幹部:代替え道路案は『技術的には可能』です。
 建設相:運河の埋め立ては地元の手続きを積み上げてきたもので、建設省として埋め立てようと
     考えているわけではない。
     すでに杭打ちの段階まで進んでいるので変更するというなら早いほうがいい。

 更に田川誠一自治大臣と面談。
 自治相:小樽運河のことは知っている。
     あれは残すべきだ、ヘドロがたまったままにしているのは行政の怠慢だ。

と、建設大臣、建設省幹部、自治大臣が、小樽運河の歴史的価値を認め埋立回避を率先して促しており、中央官庁主務大臣の時代感覚は、地方都市の自治体行政の「行政の連続性の根幹」とする時代感覚や姿勢を、過去の思考・姿勢としていた。

 これまで、小樽運河保存派やマスコミに、行政と道路促進派がかならず
 (1)国道・長橋バイパスと道々小樽臨港線との結合に支障が生じる。
 (2)もし道々小樽臨港線工事スがトップとなったとき、それまでの工事費はどうなるのか、市
    が国に返還しなければならなくなるのか
と主張し、それを「再考は不可能」の理由にしてきた。

 小樽市内でもっとも交通渋滞する箇所が、札幌方向からきて運河エリアを通過したポイントの「長橋地区の国道5号線(5車線)」だった。
 交通渋滞解消のため長橋バイパス計画は昔からあり、49年に1度事業認可が下り予算もついたが、その後住民の反対で行き詰まった。
 しかし昭和56年に改めて都市計画決定し、昭和58年から家屋の立ち退きが着手された。
 計画では稲穂5丁目の稲北交差点からオタモイ3丁目までの4.5kmを四車線道として建設予定だが、運河埋め立てて道々小樽臨港線とドッキングする計画であり、これまで道々小樽臨港線と長橋バイパスは行政によって1セットで語られてきた。
  「道々小樽臨港線建設が進み出したので国も長橋バイパスの予算をつけてくれた。運河埋め立
   てをやめ道々小樽臨港線を代替えルートにすると、長橋バイパス建設に支障が出る。」
として、埋め立て中止が出来ない理由にしてきた。

 運河埋め立て見直しを「行政の根幹に関わる」と志村市長は良く口にしたが、この長橋バイパスと道々小樽臨港線の関連性に縛られての発言とも良く言われた。
 しかしである。

 商工会議所首脳と建設相との面談では
  「長橋バイパスは運河問題と関係ない。」
  「運河埋め立て見直しがあっても長橋バイパス建設予算をつけないようなことはない」
と応えた。      
 更に懸案の埋め立てを中止した場合、今まで支出した工事費をどうするかについても、
  「予算の返還問題(道々小樽臨港線建設事業は国が三分の二、道が三分の一の負担)は、今の
   段階では仮定の話の性格であいまいな面があるが、建設省サイドは見直しが遅れれば、すで
   に使った予算の返還を求めることもあるかもしれないが、今ストップすればそうしたことは
   ない」
と小樽商工会議所正副三会頭に建設大臣から、その考え方が示された。
 ・・・1984年10月16日朝日新聞小樽版 小樽運河保存の10年第3部保存への壁5より抜粋

とあるように、小樽運河保存運動の10年の成果で、埋立再考不可能としてきた行政や道路促進派の根拠と論理は完全に破綻していた。
 
 それでも、
   「いくら、大臣が保存に傾いた発言をしようが、大臣が替われば中央官僚も手のひらを返す
    に違いない」
   「大臣はそういっても、中央官僚は一度決まったものをひっくり返されたら必ず予算や地方
    交付税などを使って、地方自治体に仕返しをしてくるに違いない。」
と、行政や道路促進派は言ったものだ。

 ここに、いわゆる日本の地方公務員の呪縛の全てがあった。
 国家官僚より都道府県官僚がランクが下で、都道府県官僚より市町村自治体官僚が下という「下級意識」「上下意識」という呪縛であった。
 地方の下級官僚=市長など地方自治体トップにとっては、できるだけ赤字を増やさず上手に国や都道府県から補助金を出させるように工面するのが有能な官吏=下級官僚像と植え付けられてしまっていた。
 そこに「市民」は存在していなかった。
 国や都道府県が予算付けしてくれた事業予算を過不足なく使い切ること、ましてや余って返上したり、そもそも事業予算を返上することなど想像だにしなかった。
 それは(下級)官僚の資格なし、行政マンとして失格とする世界であった。
 それが、市民抜きの「行政の根幹に関わる」一大事だった。
 街にとっての根幹市民にとっての根幹ではなく、行政にとっての根幹だった。
 
   「もし、そういう(中央官僚は一度決まったものをひっくり返されたら
    必ず予算や地方交付税などを使って地方自治体に仕返しをしてくるに
    違いない)事態が現出したら、市民は行政・会議所と一体となって中
    央官庁への抗議や訴訟の大運動を起こすまで。
    一緒にやりましょうよ。」
と、私たちは答えていた。
  ことほど左様に地方自治体行政は、中央官庁、都道府県行政に首根っこを押さえ込まれて、恐怖心がすり込まれていた。
 戦後の地方行政がここまで破壊されてしまっていた。

 もう一方の道路推進派、自民党道連・小樽支部は
   「町の有り様への市民の自己決定権」
に恐怖し
   「行政手続きの積み重ね
を対置し、運河埋立再考を頑なに拒否した。
 菅原春男・小樽倉庫協会会長を代表に頂く「道々小樽臨港線早期完成促進期成会」を表看板とし、物流港湾の既得権益防衛とこれまで掌握していた町の政治決定構造を手放したくはなかった。
 道路推進派経済人は自分たちが町の主人公としてきたが、この新たな意識ある市民の登場に、内心戦々恐々としていた。

 菅原春男・小樽倉庫協会会長を代表に頂く「道々小樽臨港線早期完成促進期成会」は、保存に大転換する以前の「道々小樽臨港線促進期成会」ほどの統制力も権威も、既になかった。
 「道路か小樽運河保存か」と市内の物流港湾倉庫業や商工業者や市内町内会を網羅した37業種団体に「踏み絵」を強制するような力は、もう備わっていなかった。
 とりわけ商工業者の参加度合いは、その前身の期成会とは打って変わって少なかった。

 事ほど左様に小樽の町と時代は劇的に変わりつつあった。
 国の中央省庁のほうが変化を歓迎し、進めようとしていた。
 逆に、私たちが住む街場の、行政や地元物流港湾関係経済界の方が変わることに抵抗していた。
 そして、茫漠たる海に見えた市民という存在が、変わってきていた。
 もう誰かが、新しい小樽を作ってくれるのを期待したり待ったりするのではない、今自分たちが決めるという空気が醸成されていた。 
 小樽運河を軸とした新しい小樽という街を作ろうとするプロセスのひとつひとつが自分を変え、それに関わる市民を変えて行く、その変わっていくことの楽しさを知ってしまった市民は、その楽しさから街の主人公になろうとするのだった。

22_03. 五者会談とリコールを巡る政党の状況

 5月9日、開会されている道議会の決算特別委員会で、真木光哉・道住宅都市部長は、
   「すでに杭打ちを終えた後に石を積み護岸とする工事などの発注を、6月中に予定してい
    る」
と発言したため、小樽運河百人委員会は反発する。
 この反発に対し、
   「発注はしても、運河の工事をするわけではない」
とあわてて同部長はコメントするが、
 5月14日、小樽運河百人委員会は小樽市役所で記者会見し、、
   「まだ、道の真意をたださねばならない。
    このままでは五者会談のテーブルにつくことを考え直すこともあり得る。」
と発表し、結局その道を睨みながら、五者会談に臨む。

 そして、5月24日の第一回五者会談が終了した

 翌日、5月25日、小樽運河百人委員会の村上代表幹事と山口事務局は小樽市役所で記者会見し、
   「志村市長は『規定方針通り』と語り、話し合いで方向を見いだす姿勢は見られないのは大
    変残念だ。
    事態がこのまま推移するなら、6月中旬を目途にリコールを起こす方針に変わりはない。」
と発表する。
 小樽運河百人委員会の代表幹事・村上勝利氏と事務局・山口保の二人が共に登場し記者会見する。
 これが、二人が揃ってする記者会見の最後だった。 

 一方、同日に開催された自民党小樽支部定期総会で、
   「今までやってきた運河埋立手続きは、いい加減にすすめたものではない。『運河を保存す
    れば、名市長と評価される』と言う人もいるが、私に言わせればそれは『迷市長』だ、不
    見識である。」
と志村市長はあえて横路知事を意識して牽制しながら語り、又、出席した道々小樽臨港線早期完成期成会・菅原春雄会長は、
   「期成会は物心両面で自民党の世話になっている。
    運河埋立見直しに方向転換した小樽商工会議所の川合会頭らは謎の変心をした。
    道々小樽臨港線の建設が遅れることは容易ならざること。」
と、息巻いた。

 一方、峯山会長は、
   「五者会談会談の市長の態度から、『市はひどい』とする市民感情が沸き上がらざるを得な
    いと判断する。
    小樽運河百人委員会はこの市長の態度からも、リコールしかないとその必然性を訴えざる
    を得ません。
と語り、5月26日から開催される長野県飯田市の大平宿での全国町並みゼミ参加に峯山会長は向かう。

 その五者会談が終了した三日後の5月27日、社会党小樽総支部(坪谷俊雄委員長)の定期大会が開催された。
 遅まきながら、やっとそれまでの
   「運河を半分埋め立てて四車線にする縮小案」
を立場としてきた社会党小樽総支部が
   「(運河に平行する)市道港線への四車線振替案」
をもって、全面保存に方針転換を発表する。
 社会党小樽総支部は、常に状況に後追い的に態度をブレさせ続けてきた。 
 この社会党の姿勢が故に、小樽運河を守る会のなかに纏まった勢力としての動きをとることは最後までなかった。 

 小樽運河を守る会結成当初は、昭和42年〜昭和47年まで北海道教職員組合小樽支部書記長で、昭和48年〜昭和50年、同小樽支部長を務めた豊富智雄氏が守る会の組織部長についていた、
 が、1975年(昭和50年)の小樽市長選に市長候補として立候補したが惜敗し、以降小樽運河を守る会の出席は少なくなっていき、幹事会に政党としての社会党は参加しなくなっていく。
 せいぜい、幹事会に社会党支持者が参加する程度となっていた。 
 
 そもそも、 多くの産業別の労組の参加で構成される小樽地区労=樽労は纏まりはわるかった。
 運輸労連を代表する樽労・大橋書記長などは、
   「文化(運河保存)で飯は食えるか」
とし、建築学会の重鎮たちの「小樽運河は、長崎・神戸と並ぶ三大景観」との評価に対して
   「長崎や神戸は行ったことがないが(小樽と並ぶというのであれば)よほど汚い町、とな
    る。そんな景観や文化よりパンだ。
と、自分の街への言及ならまだしも、平然とよその町を侮蔑するかのような発言をする。
 地域に持ち上がる新しい社会問題とその地域で新しく登場してくるこれまでと全く違う市民運動に対し、地域労働運動の指導部が持つべき真摯な視点、そして社会的見識や運動的品位が根本的に欠落していた。
 物取り主義労働運動、労働組合主義、労資癒着の姿がそこにあり、新たに地域に根ざす市民ぐるみの社会運動を構築するのにどう労働運動はからもうとするのかという姿勢などは一片も見られず、とても社会党小樽総支部と樽労という関係で統一した運河問題への姿勢はとれていなかった。

 ただ、小樽運河問題が最高揚を迎える1984年、小樽運河問題が政治の場に浮上し、更に横路道政誕生で、かの樽労書記長は態度を変えざるを得なくなる。
 社会党は、小樽運河を守る会や小樽運河百人委員会に顔を出さざるを得なくなる。
 しかし、そこでは共産党のように「党派的振る舞い」をするというレベルではないのは良かったが、共産党系労組の振る舞いへの対抗上、受動的に峯山会長支持グループへ接近し、結果自動的に峯山会長支持グループを支持する立場に位置する、という消極的で曖昧なものだった。

 しかし、この社会党の姿勢とは打って変わって、共産党系の人たちの「党的意識」は高かった分、小樽運河を守る会への影響も大きかった。
 小樽運河を守る会の結成当初から、共産党は大原登志男市議、琴坂禎子市議、琴坂守尚氏(水産高校教諭)らを幹事会に参加させていた。
 そのほか、あきらかに共産党系という労組団体や文化団体員を個人として参加させていたし、その彼らは上記の三氏ほど共産党色は濃くなく、振る舞いも穏やかで、党派性をむき出しにすることはなかった。

 小樽運河を守る会の運動最高揚期の内部対立は、藤森茂男氏元事務局長や佐藤純一事務局長代行の意見にこれら幹事会に参加する共産党系労組団体・文化団体の代表らが一つのグループを形勢し、さらに小樽運河を守る会内の情緒的感情的反峯山会長グループが「ただただ小樽運河が残ればいい」とする運河限定保存・凍結的保存を唯一路線的に対置し合流して、小樽運河を守る会内反峯山会長グループを形成することで、混乱が激化した。

 共産党・大原登志男氏市議は、
  「党として市民運動団体に指示をすることはない。
とマスコミの質問に答え、その責任を回避する発言をよくしてきていた。
 これは、完全な使い分けでしかない。
 藤森茂男氏や佐藤純一事務局長代行の意見と、これら幹事会に参加する共産党系労組団体・文化団体の代表らが一つのグループを形勢し、これに運河限定保存の会員が合流し歩調を合わせ、ひとつの纏まった同じ主張と振る舞いとして、峯山会長支持グループに対峙していた。
 党としての指示があったどうかに関係なく、現実の幹事会・暫定役員会ではそのように現出していた以上、「共産党系」として括られ、見られるのは当然だった。
 ましてや、それが反峯山会長グループと徹底的に対立する意見として表現されたとき、それは
  「党派としての意識」、
  「党派思考の反映」
として現出する。

 この最終局面のプロセスを共産党系の人々がどう振る舞ったかを、更に追いかけると、前述の大原登志男市議は、
  「我が党は、市民運動と党活動を区別している。
   党として市民運動団体に指示をすることはない。
   小樽運河百人委員会を否定していないし、小樽運河百人委員会が結成された段階で「市民連
   絡会議」を復活するのは駄目だと言ってある。(既に前言「党として市民運動団体に指示を
   することはない」を、もうひるがえしている。) 
   また、小樽運河百人委員会が署名を集めたあと、改めて署名運動をするなど考えられない。
   そのような、百人委員会の否定や再度の署名集めという主張は、小樽運河を守る会の個人が
   勝手に言うことで、党とは関係ない。
   これらの主張をしている人が共産党系と言われるのは迷惑だ。
   まだ、リコールは有効な運動のひとつ、リコールを否定する考えはない。
   一般的に「共産党系」と括られ書かれることは迷惑だ。」
と、1983年12月の段階では、語っている。

 これは、「共産党系」の建前論にしか過ぎず、半分50%しか語っていない。
 具体的な小樽運河を守る会の幹事会の場面では、本音の言動と振る舞いが露骨だった。
 一般論、建前ではリコールは有効な運動手段といい、具体的現場段階での本音は党派の主導権の掌握が可能か否かでリコールに臨むという、言動と振る舞いを決めていた。
 
 大原登志男市議自身、百人委員会人の設立と10万人署名での小樽運河保存運動の爆発に驚愕してか、
   「どうして、百人委員会は現職市議をいれないのか、
    何故(共産党と)共同歩調をとらないのか。
と、村上勝利代表幹事などに噛みついていた。

 百人委員会は、現職市議の加入は党派色がでると警戒してしていたし、百人委員会が革新系運動団体・組織であるとする埋立派の意識的キャンペーンの材料をあたえないよう、極力、政党・党派色を排することには敏感になっていた。

 しかし、共産党はその百人委員会の姿勢に業を煮やしていた。
 翌年1984年(昭和59年)1月27日、百人委員会が市役所に埋立再考を求めに行ったが、まったく誠意ある回答がなく、ついに
   「リコールもやむを得ない」
と態度表明した際、その場にいた「共産党系」市議は、
   「リコールをやろうとするのは、自分の首をしめることだ。
と批判してきた。
 そして、これと前後し、小樽運河を守る会の反峯山会長グループが、百人委員会を承認し小樽運河を守る会も百人委員会に参加したことを問題視し、百人委員会によるリコールにも露骨に反対し、暫定役員会までつくり、「小樽市民連絡会議」の復活を主張し、飽くことなく堂々巡り論争にしてきた。
 
 このように、明確に共産党系市議のそのときどきの発言と反峯山会長支持グループの言動は、連動していた。
 更に、2月になると、
   「リコールの受け皿を作ってくれなければ、共産党は手を引く
と、百人委員会側に共産党系労働団体を通じて伝えてきていた。

 簡単な、実に露骨な話だった。
 「 リコールの受け皿を作れ」という共産党系用語の意味を翻訳すると、
   「少なくとも共産党が主導権を握れる器を作れ
と翻訳できる。
 つまり、そういう環境を最低限作らないとリコールには賛成しない、という一種の最後通牒だった。 
 これが、我が公党の言う「建前と本音の使い分け」だった。 
 ある意味、実に単純だった。

 それで、藤森茂男氏、佐藤純一事務局長代行、そこに守る会の北村聡司子・小樽運河を守る会副会長らの運河限定保存路線が接近して反峯山会長グループを形勢し、一方百人委員会では「おたる・総行動」や「統一労組懇」など100%共産党系労組団体が、
  「リコールを実施する受け皿の準備が、出来ていない
  「リコールを実施するなら、政策立案能力のある政党や労組を入れるべき」 
  「政策立案能力を保持するのは政党や労組であり、それが参加するのが『市民連絡会議』、それを復活せよ。」 
と、主張し始める。 
 これが、彼らの「党的立場」だった。
 党的建前と党的本音と党的使い分けの駆使だった。
  
 小樽運河を守る会や小樽運河保存運動を巡る、最終局面での政党のその関わり方は以上のようなものだった。 
 いずれもどの政党や政治勢力も、奥行きのない、懐の浅さしかなかったわけだった。

22_04. リコールを巡って、小樽運河百人委員会に対立がおきていく。

 そして、五者会談会談が開始されて以降、百人委員会に「場を移して」リコールを巡り、全くそれまでと正反対の論争が始まっていく。

 ここでも、五者会談を小樽運河保存運動側のイニシアティブで攻勢的どう進めて行くのか、という建設的な発想は全くなかった。
 党利党略の対応に、ますます終始していく。

 これまでの状況を、
   「共産党系と反峯山会長グループの側
から語ると、以下のようになる。

   ●三年前の小樽総行動の直接請求署名運動への、小樽運河を守る会・夢街の共闘申し入れの
    橋渡し役として藤森茂男前事務局長をつかったが失敗した。その教訓から、「橋渡し役
     」から小樽運河を守る会への復帰をさせることで、小樽運河を守る会の組織運営を正常
    化し、再建役員会をつくり、そこでの多数派を共産党系の指導で形成することはできた意
    味合いは極めて高く評価される。
   ●小樽運河を守る会・反峯山会長グループ形成とそれによる意識的な「堂々巡り」論議で、峯山会長支持グループの小樽運河百人委員会のめり込み路線を一定程度押しとどめる事には成功した。
   ●しかし、幹事会&再建役員会での半年間の論争では、小樽運河保存運動の主導権の奪還までは果たせず、結局小樽運河を守る会「内」にとどめられてしまった。
   ●小樽運河百人委員会を認めず、リコールに反対し、「小樽市民連絡会議」復活での「請願
    署名運動」を対置したが、実効性で全く説得力を持ち得ず、小樽運河を
    守る会を組織できなかった
   ●そして、五者会談の保存側の小樽運河を守る会人選でも、反峯山会長グループを送り込む
    ことはできないで、五者会談開催に至ってしまった。
   ●長年、小樽運河を守る会を牽引し代表してきた峯山冨美会長や石塚雅明企画部長を、守る
    会幹事会や再建役員会で責めたが、逆に深追いしすぎて、わが方の反峯山会長グループの
    なかでも厭戦気分や個人攻撃への嫌悪感を生んでしまい、再建役員会の権威を確立するこ
    とには、失敗した。
   ●小樽運河を守る会として、峯山冨美会長・石塚雅明企画部長の出席で五者会談が開催され
    てしまった以上、小樽運河を守る会を主戦場にしていては、もはやらちがあかなない状態
    になってしまった。
   ●一方、百人委員会へのわが共産党市議参加を、共産党系労組の働きかけで仕掛けたが、
    人委員会に共産党市議参加は、ならなかった。
   ●それは、第一に「リコール反対」を共産党系労組団体・文化団体を通じて表明したこと
    で、百人委員会側の反発を招いていたからだ
   ●第二に、リコールを反対していていながら、百人委員会やリコール準備委員会への共産党
    市議の参加は、そもそも無理があった
   ●全く休眠状態の「小樽市民連絡会議」復活もあまりにも乱暴すぎ、小樽運河百人委員会か
    ら思った以上の反発を招いた
   ●道知事への「請願署名」提案も、10万人署名をやりきった小樽運河百人委員会には、
    ネルギーの消耗を強制するもの、と理解されてしまったのも無理はない。
   ●逆に、百人委員会からの、「リコール準備委員会から正式のリコール実行委員会になった
    段階で、特定政党にではなく全政党に参加を呼びかける」とする「いなし」に、手も足
    もでなかった
   ●果敢に闘ってきたが、結局五者会談を開催させるのを許してしまったわけで、これからの
    小樽運河保存運動での主導権奪還と反横路道政の積極的展開のための五者会談を崩壊させ
    るには、「小樽市長リコール」は大きな武器になり得るので、リコール賛成に回るべき
   ●そうしなければ、わが共産党勢力は志村市長リコール運動に、最初から位置を築けない
    
まま終わってしまい、位置を築けないで終わる。
   ●以上から、主戦場を「小樽運河を守る会から小樽運河百人委員会」に移行し第一戦線とし、
    第二戦線を小樽運河を守る会と設定し直し、リコールにも積極姿勢をみせて、小樽運河百
    人委員会に参加していかなければ、戦略的目標の、
      「小樽運河保存運動の主導権掌握
    することは出来ない。 


 ・・・と、わが共産党系側も、総括したであろう(^^)。
 日本共産党小樽地区委員会が決定すれば、共産党系労組団体は簡単だった。
 上意下達だった。

 第一回の五者会談が終わった5月24日夜、その報告を小樽運河百人委員会の事務局が受けているとき、突然、小樽運河を守る会・反峯山会長グループが「話し合い」を求め顔を出した。
 
 小樽運河百人委員会を認めず、
 小樽運河を守る会が小樽運河百人委員会に参加したことも認めてこなかった、
 そして小樽運河百人委員会のリコールやむを得ずとした「リコール準備委員会」設立も「自分の首を絞める」と批判してきた、
 反峯山会長グループが、だった。
 その反峯山会長グループが、小樽運河百人委員会に加入したいと要望してきた。


22_05. 小樽運河百人委員会内の、代表幹事間の亀裂


 この小樽運河を守る会・反峯山会長グループの百人委員会への加入の是非で、
   村上勝利代表幹事と峯山会長支持グループ
の間で、その評価を巡って意見が衝突する。

 村上代表幹事は、反峯山会長グループが小樽運河百人委員会に加入するのを歓迎した。
 山口は、反峯山会長グループの態度変更の真意を推し量り、これまでの小樽運河を守る会での彼らの振る舞いと言動を判断すると、小樽運河百人委員会に混乱しか持ち込まれない、と反対した。
 山口は、4月の幹事会に村上代表幹事を誘って小樽運河を守る会会議がどのような酷い状況にあるかを見てもらっており、村上代表幹事も
   「化石のような議論、もっと前向きに話し合ってもらいたい。」
と小樽運河を守る会に苦言を呈していたので、反峯山会長グループの加入を歓迎する氏の態度をいぶかった。

 これには伏線があった。
 村上代表幹事の中にある峯山冨美・小樽運河を守る会会長への対抗心だった。
 峯山冨美・小樽運河を守る会会長の存在は、1年前小樽運河百人委員会に代表幹事に就いた村上氏にとって、どう逆立ちしても追いつき追い越せるようなものではなかった。

 越崎宗一前会長、藤森茂男前事務局長が小樽運河を守る会活動から召還し、結果小樽運河を守る会運号は少数派市民運動に転落した。
 峯山冨美氏は、その息絶え絶えの小樽運河を守る会の会長に就任して以来、口にはできない苦労をかさね、プロテスタント教会の長老としての温厚な人柄と、高校同窓会会長というネットワークを駆使し、第二期小樽運河保存運動を牽引されたからこそ、そのような「運河の峯山冨美」とする評価を得ていた。 
 小樽運河保存運動は勿論、全国町並み保存運動にとっても、マスコミにとっても、道知事サイドにとっても、「運河の峯山冨美」だった。

 結果、TVのスポットライトも、関係団体からの政治的連絡も、峯山会長とされてきた
 村上代表幹事には耐えがたかったかもしれないが、当然のことだった。

 1年前の小樽商工会議所首脳の運河保存への大転換で商店街での勝手連的署名活動を開始した、小樽運河保存運動への新たな保守層の参加のシンボルとし、小樽運河百人委員会結成時に、村上勝利氏は代表幹事に推された。
 だが、まだわずか1年前であり、市民や小樽運河保存運動側の評価は、それ以上でも以下でもないにも拘わらず、代表幹事のポジションに固執し背伸びしすぎた。

 「運河の峯山冨美」という存在に対抗しようとする村上代表幹事だったが、自らの経営資金を小樽商工会議所会頭に融資を普請してから、小樽商工会議所首脳が警戒感と距離感を持ってしまう。
 その小樽商工会議所首脳の警戒感と信頼感の希薄化は無理からぬところだった。
 銀行融資も受けられずに個人的融資を迫る、村上氏の商売の経営内容と能力に、村上氏自身で警報発令されてしまったのだ。
 氏がしてはならないことを、された。
 小樽商工会議所首脳の警戒感と信頼感の希薄化を察しきれないでいた。
 会頭に個人融資を普請する前に考えねばならないことだった。
 が、してしまった村上氏だった。
 運動経験の未熟だった。
 それは、ますます村上氏の存在感を薄くし、小樽商工会議所首脳と距離感が出来、当然直接入手する情報量も少なくなっていた。
 さすがに、それを察し、危機感と焦燥感から村上代表幹事は、小樽運河百人委員会の
  「4代表幹事中の代表
意識を、強烈に押し出しはじめる。
 1983年末、私にも村上氏は冗談交じりで、
  「峯山冨美さんの小樽運河保存運動での本家意識が強いのはいかがなものか」
と言ってきており、
  「村上さんがそう感じるなら、私から、それとなく会長には釘をさしておきます。」
と答えると、執拗で、
  「マスコミもTVも、峯山会長にコメントを求める。」
  「それは、小樽運河保存運動10年の歴史の重みを報道も認めているからです。それを、
   村上代表幹事をないがしろにするって受け止めるのは、筋違いです。」
と、答えてはいた。 
 まだ、この1983年(昭和58年)末までは、このようなレベルのものだった。

 が、五者会談の第一回開催と小樽運河を守る会・反峯山会長グループの小樽運河百人委員会への加入要請を前後して、村上代表幹事の心理の変化があった。
 例えば、五者会談終了後のマスコミ報道取材は、村上代表幹事に正式コメントをしてもらうよう峯山会長自身も振る舞い、マスコミにも村上代表幹事に取材するよう促していた。
 が、小樽運河を守る会会長としてのコメントは、否が応でも受けざるを得ず、結果として記事やニュースでは「小樽運河を守る会会長・峰山冨美」を軸に、紹介されていた。
 小樽運河保存運動10年の歴史の重みと峯山会長の人間性豊かな存在を、報道も認めているが故だった。

 これに対抗する形で、村上代表幹事の自己肥大が募っていく。
   「私が代表幹事だ、私が小樽運河百人委員会総会を(唯一)招集できる。
とする「気負い」ともとれる言動が、目立つようになっていた。

 ある意味、可愛そうな人ではあった。
 村上代表幹事は、1983年昭和58年6月の小樽商工会議所正副四会頭の運河埋立から運河保存への大方針転換を契機に、「小樽商工会議所首脳に勝手に連帯する会」を商店主たちで組織した。
 氏は、それまで小樽運河保存運動には一切参加していなかった。
 が、この新しい商店主層の小樽運河保存運動への態度表明と、とくに保守層への運動の広がりをアピールするためのシンボル的存在として、小樽運河百人委員会の代表幹事に就いた。
 小樽運河百人委員会側も、その氏をもって団体の性格を表現させようとした。
 そして、村上氏も代表幹事に意欲的で行動的だった。
 だからといって、まだ峯山会長と並ぶと正直いって位負けするのは致し方なかった。
 村上代表幹事の語りも、自負からの気負いが溢れすぎ、あまりにも「私が」とする匂いが腐すぎた。
 峯山会長のどっしりと落ち着いた、一語一語考え語る真摯な姿勢と安定感とでは段違いだったし、その二人が並ぶと益々村上氏の軽さが目立ってしまうわけだった。
 「代表幹事中の代表」を、あまりにも意識しすぎ、その空回りに拍車をかけた。
 私としては、それより、自店の経営にこそ意識を集中して欲しかった。
 商店主が、市民運動に参加するということは、自らの商売を安定的に経営維持することと同意語だった。 
 それでもって、小樽商工会議所首脳からする氏への信頼を再確立してほしかった。
 が、この彼の置かれた微妙な位置と市民運動の未経験さが、代表幹事としての着実な信頼感の獲得を、逆に阻害していた。
 村上代表幹事は、一層焦燥感に取り憑かれ、「急進的で先鋭的な言動」でイニシアティブと権威を勝ち取ろうと振る舞ってしまう。
 小樽運河百人委員会の中で自分を追い込んでいってしまい、孤立化し、小樽運河百人委員会の多数派を形成できない、村上代表幹事だった。
 
 その村上代表幹事の人間的弱さを見て取った小樽運河を守る会・反峯山会長グループが、村上代表幹事に接近し、氏を煽った。
 逆に、村上代表幹事は「代表幹事中の代表」獲得のために、自分を(当面)必要とする反峯山会長グループに依拠しようとする。
 勿論、山口は、その村上代表幹事の急激な心変わりを諫めようともした。
 しかし、村上氏の自負心の強さのあまり、年下の山口や小川原の諫言を素直に受け止めてるような精神状況ではすでになかった。
 
 小樽商工会議所首脳も、村上代表幹事の説得に乗り出してもくれた。
 しかし、振り上げた拳の降ろしどころを知らない人だった。
 それ以上に、そもそも村上代表幹事は接近してくる共産党系を舐めていた。
 共産党系からすれば、村上代表幹事は「当面」という括弧付きでの利用価値しかないことを、自覚できない人だった。
 
 結局、共産党系からも、最終的にうち捨てられるだけだったのに・・・。

22_06.リコール強硬派が、一人の人間を押し上げていく。

 ほんの1週間前までは、百人委員会を認めず、リコール自身も認めなかった反峰山会長グループだった。
 自分たちがイニシアティブを握れる共産党系団体しか名前を連ねていない休眠状態の「市民連絡会議」復活でリコール実施機関に並ぼうとし、それを小樽運河百人委員会参加とをバーター取引しようとしてきた、反峰山会長グループだった。

 いきなり論戦転換をし、今度は、「小樽運河百人委員会に加入」をもとめてきた。
 「リコールの早期実施」を主張し、そこで再び三度「対立軸」を設定し、それをテコに、小樽運河保存運動の主導権争奪戦を、仕掛けてくる。
 相変わらず、小樽運河保存運動がおかれている状況は全く無視してのものだった。
 しかし、排除の論理は小樽運河百人委員会のような大衆的市民団体にはにつかわしくないとする判断で「反峯山会長グループ」の小樽運河百人委員会参加が決まった。
 小樽運河百人委員会の大半は、小樽運河を守る会内部で展開された「反峯山会長グループ」の執拗な妨害工作を知らないでいたのが、決定的だった。
 致し方なかった。
 
 一方、五者会談が正式に開催されるまで、百人委員会の中心部分は、
   「小樽博閉会後の即の運河埋め立て工事再開を阻止するためには、政治休戦中の小樽博覧会
    開催中の8月末までにリコール結果を市・道・国に示さなければ、とても埋め立て工事再
    開を止めることはできない。
    そこから考えると、博覧会終了時の8月末から署名期間のを逆算すると踏み切る時期は、
    早くて6月中旬から、遅くとも7月にはリコール発動に踏み切るよりない」
とする論議の方を重要視していて、「反峯山会長グループ」の参加問題など軽視していた。
 
 この辺がアヤだった。
   「この6〜7月のリコール発動か、小樽博決算終了後のリコール発動か
では、様々に論議をされてきていたが、大変微妙で様々な要素が複雑に絡み合い、仲々決めかねたまま五者会談に入っていかざるをえなかった。

 が、五者会談の第1回が5月24日に開催され、第二回の開催日は確定していなかったが、第二回は
   「6月中下旬
となるのはほぼ予測された。
 百人委員会での確認である「6月リコール発動」は、次第に「時期尚早」いう流れで論議され始めていた。

 第一回五者会談終了後の自民党小樽支部定期総会での志村市長の「運河埋立の再考はなし」とする発言で、そもそも五者会談を何度開催しても「事態打開の道」はないと判断していた。
 それでも、いきなり第二回五者会談開催日とブッキングするタイミングでのリコール発動は、市民的理解は非常に困難だ、とする意見が多数を占めるようになっていた。
 例えば、これが「臨港線早期完成促進期成会と百人委員会」の埋立派・保存派2団体だけの話し合いであれば、席を立ち決裂するシナリオを、無理すればできないわけではなかった。
 が、知事仲裁の五者会談となれば、道と小樽商工会議所首脳も臨席しているわけで、無理な決裂のシナリオを実施するわけにはいかなかった。
 五者会談の受け入れ=「様々な縛り」が、予想通り現出していた。
 そして、小樽商工会議所首脳は、リコール発動タイミングは私たちと同じく思案しており、複数案のなかに8月小樽博覧会決算が出てから、という案もあった。
 博覧会決算大赤字、がリコール発動のスターターとする案だった。

 そういう中で、参加を果たした「反峰山会長グループ」が百人委員会の場で
   「リコール発動の時期」
を巡って、対立構造を意識的につくろうとするのが共産党系だった。  
   「早期リコール発動を、自らのイニシアティブで実施する。」
 それで、
   ・百人委員会の「代表幹事」のトップとしての実行力と権威を確立したい村上代表幹事、
   ・その村上代表幹事の心理と気負いを読み取った反峰山会長グループ、というより共産党
    系で村上代表幹事を祭り上げての主導権を掌握する
という、互いの目論見が一致した。

 そこは、実に狡猾で、組織的である共産党だった。
 彼らは、一挙に勝負に出ようとする
 6月リコール発動のイニシアティブを取るために、リコール署名の受任者用紙の印刷を、リコール準備委員会に一切諮らず、共産党系の印刷会社に発注する。
    注:
    受任者用紙:市長の解職=リコールを請求する代表者から、署名集めを委任された人を
    「受任者」と呼び、それは選挙管理委員会に届けなければならなかった。 実際、
    この受任者をどれくらい確保できるかがリコール署名の鍵で、それを一早く決めて届け
    ないと署名集め自身を実施できない。

 更に続けざまに、反峯山会長グループはリコール発動後の署名集めの、取り組みの具体的態勢の「組織図」作製に入っていた。
 リコール準備委員会の、
   事務局幹事団に反峰山会長グループメンバーを配置し、
   職域・組織・宣伝・財政などの班編制をし、
   顧問には小樽商工会議所首脳まで配置し、
   受任者を取りまとめる行動隊長も配置し、
   そこには共産党市議だけでなく社会党市議の名前も網羅していた。
 百人委員会がその組織体制提案を断れないようにしていた。 

 6月9日、つまり小樽博の開催前日に、小樽運河百人委員会総会が予定されていた。
 その6月9日の小樽運河百人委員会総会に向け、一挙に勝負に出る。
 反峯山会長グループは、共産党を先頭に共産党系労組団体と露骨にいっしょになり、「反峯山会長グループ」から
   「反峯山・リコール早期発動の急進派」
へとなっていった。
 
 6月5日、村上代表幹事は共産党系労組と守る会・反峰山会長グループと完全に合流したことを明らかにする行動に出る。
 峯山会長宅を訪れ、「
   「6月リコール発動の決起
を突きつけ、市長の解職請求代表者に就くこと促した。
  「峯山さんは、何故今になって逃げるのか」
と詰問し、
  「五者会談の継続をだらだら待っていてもはじまらない。
   今、リコールをやらないと駄目だ。」
と突きつけてきた。
 呆れ果てた峯山会長は、
  「広く市民にアピールできる人こそ」
といい、断った。

 翌6月7日の百人委員会事務局会議で、「反峰山会長・リコール急進派」はリコール早期実施派として明確な態度をとり、1984年昭和59年の後志の喜茂別町長リコールの事例を提示し、また小樽で4年前に実施した1979年(昭和54年)の運河問題調査審議会設置も求めた直接請求の資料を取りそろえ、早急な市長リコール発動を求めてきた。 

 6月8日のリコール準備委員会の場には、前述のリコール実施組織体制図を持ち込んできた。
 
 こうして、小樽運河を守る会での峯山会長支持グループと反峰山会長グループの対立は、小樽運河百人委員会に持ち込まれ、時と所変わって、反峰山会長グループがリコール早期発動派となり、峯山会長支持グループがリコール慎重派と打って変わって対立する構造になっていった。

22_07. リコール準備の既成事実を積み重ねて、リコール慎重派を巻き込む作戦を突き奔る。

 峯山冨美会長は人が良く、共産党系が
   「リコールへの様々な準備をすることは構わないでしょう」
とし、それを飲ませた。
 が、それこそが共産党系と小樽運河を守る会・反峯山会長グループ、そして村上代表幹事らの「リコール急進派」の狙いだった。
 
 一方、様々に政治配慮し、市民のリコール機運をどう高め、作っていくかを慎重に読んでいた峯山会長支持グループは、当然性急なリコール発動は時期尚早とした。
 大多数の市民、とりわけ保守層の反志村市長機運・気分を如何に高めた上で仕掛けなければ、リコールの絶対成立を勝ち取れなかった。
 勝てるリコールでなければ、やる意味はなかった。

 ここでも、反峯山会長・リコール急進派は「目的が手段化」していた。
 
 運河埋立工事を阻止するにはリコールを成立させなければならないのに、反峯山会長・リコール急進派はリコール「発動すること自身を目的化」し、それを共産党系は煽りに煽っていた。
 
 リコールが失敗しても、共産党は以降も小樽の町で政党として存在し続ける。
 しかし、リコールを発動し、もし成立しなければ、単にリコールの失敗だけでなく、それを仕掛けた市民運動の政治的敗北はあまりにも広範で深い傷となり、その敗北から立ち直る事ができるのか、として私たちはあった。

 しかし、小樽運河を守る会の幹事会や再建役員会での約八ヶ月の内部対立を、反峯山会長・リコール急進派も教訓にしていた。
 峯山会長支持グループが、仕掛けられた論争から席を立つことなく徹底的に付き合って論議をしてきたことで主導権を渡さなかっこと、反峯山会長グループからすると主導権を奪えなかったことを彼らも反省していた。
 その反省を徹底し、反峯山会長・リコール急進派と慎重派が同じラインに立っての論争を、彼らは避けた。
 そして、小樽運河百人委員会の論議抜き、リコール慎重派の理解を得る論議や確認など抜きに、反峯山会長・リコール急進派がイニシアティブをとって態勢づくりや具体的作業を勝手に進め、
   それを既成事実化し、慎重派を否応もなく巻きこまみそれに乗って来ざるをえなくする
、という実に稚拙な戦術を採用し、実際やろうとした。

     この項終わり
 ● 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ● 【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ● 【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。