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23_01.小樽運河保存の最後の手だてのリコールは迷走する・・・

 反峯山・リコール急進派が、リコール受任者用紙を印刷発注していた。 

   *受任者用紙:市長の解職を請求する代表者から署名集めを委任された人を受任者と呼び、
          それは選挙管理委員会に届けなければならない。実際、この受任者をどれく
          らい確保できるかが鍵で、それを一早く決めて届けないと署名集め自身を実
          施できない。
 
 その受任者用紙の印刷を執拗に反峯山・リコール急進派に迫られ、リコール慎重派は、仕方なく承諾してしまう。
 しかし、
   「受任者用紙を用意してもいいが、まだ配布すべきではない。」
と押しとどめる。

 が、反峯山会長・リコール急進派は配布に踏み切り、リコール慎重派に圧力をかけ、彼らのペースに巻き込もうとしてきた。
   「ひとつ譲ると、悪無限的に譲らざるをえなくなる」
の例え通り、それを政治駆け引きに長けた共産党系と反峯山会長・リコール急進派は狙っていた。

 彼らは、五者会談第一回が開催される前、わざわざ小樽商工会議所首脳を訪ね、
   「わが日本共産党の集められる受任者は、二〇〇〇〜三〇〇〇人
と、「リコール発動に賛同せよ」という売り込みを図ってきた。

 小樽市長後援会の会長や幹事長など選対幹部を担ってきた商工会議所首脳にしてみれば、二〇〇〇〜三〇〇〇人のリコール署名受任者を用意できるのであれば、 
   「であったら、前年の統一地方選の市長選挙で、何故、共産党系としては史上最低の1万票
    すらも獲得できないで『惨敗』したのか
と、共産党系に聞きたかっただろうに。
 前回市長選での惨憺たる実績にも拘わらず、このような臆面もない言動をする共産党系だった。

 第二回五者会談が6月15日開催に決まった。
 反峯山会長・リコール急進派は、その6月15日を「リコール発動日」にぶつける動きを見せてくる。 
 完全に横路道知事仲介の「五者会談つぶし狙い」で、五者会談決裂という横路道政の失点を作ろうとする反横路道政路線の露骨な策動だった。

 百人委員会のリコールの第一義的目的は、彼ら共産党系の中では完全に捨てられていた。
 反横路道政反対のために「知事仲裁・五者会談を潰すための、リコール発動声明」、これだけを党派的に利用するだけの路線だった。
 その頭に「リコール成立の勝算」など最初からなかった。
 ましてや、リコール成立後の市長候補擁立などそのそのプロセスに搦めればいい、とするだけだったろう。
 
 我々のリコールは、市民参加と市民の総意で小樽の将来を決める、その出発点こそが小樽運河と周辺倉庫群の保存・再生・再活用を軸にしたまちづくりであり、そのようなまちづくりを進めるために「新たな行政」こそを生み出すために「敢えてやる」のが、頑迷な市長を解職するとするリコールだった。
 しかし、共産党系の第一義は、
   何よりも「反横路道政」路線の優先
であり、
   横路知事の「手柄になるようなもの」全てを潰す
とする路線の「徹底化」だった。
 その異常なほどの徹底さを、11年運河埋立に邁進してきた自民党と道々小樽臨港線期成会にこそ向けるべきなのに、相手と目的と手段が逆転していた。

 小樽運河保存運動が敗北し、反峯山会長・リコール急進派の最後の集会が終わってその姿を小樽の『まち』から消滅した1984年昭和59年11月、大原登志男・共産党市議団長は、とある雑誌で、
   「横路知事は自らの手で杭打ちを強行し、市長・自民党と一体になって埋立を進める『元凶
     』でありながら、『調停者』『保存派』のポーズを取り、自分でセットした五者会談を
    自分で壊すマッチポンプを演出した。
と述べている。

 横路知事や社会党は、確かにあらたな胎動としての「まちづくり市民運動」への中途半端な理解での路線でしかなかったが、どう思考をすればこのように考えられるのか、三流週刊誌的陰謀論でしかった。
 古くは、敵を見失って身内に打撃の矛先を向ける、1930年代のヒトラーへの直接的反撃ではなく「社会民主党はファシズムと同根」と規定して「社民党主要打撃論」で攻撃した、恥じずべき「社会ファシズム路線」の体質を未だに引きずるっていると思わせる、共産党系の姿勢だった。

 共産党系は、6月8日のリコール準備委員会の前後に小樽運河を守る会会員をして「リコール発動趣意書」の作成にかからせていた。
 反峯山会長・リコール急進派が小樽運河百人委員会委員会に加入する前は、小樽運河を守る会の会議で数ヶ月に渡って
   「リコールは時期尚早、リコール以外にも方法はある」
としてきた小樽運河を守る会・反峯山会長グループが、この時点で即「リコール発動趣意書を作成する」という行為自体に、このグループの政治的無節操さの典型がある。
 運動の大義や論理も、状況把握・分析も、運動の展望もあったものではなかった。
 もはや、悲しいかな「反峯山会長」の一点でしかない、ただの主導権争奪だけを狙うグループに成り下がってしまう有様だった。
 
 共産党系は、実に狡猾で、陰険だった。
 この頃から、反峯山会長・リコール急進派を「表」に意識的に立てはじめていた。 
 それは、リコールでの「共産党系の突出」という印象を薄め、リコール失敗の場合の責任を回避するために、周到に用意された対応だった。

 それは、反峯山会長・リコール急進派を表に立てて、後ろに隠れて横路道政に失点を与えようとする共産党系の、どこまでも露骨で陰険な党派利害をかけた政治敵利用主義行為だった。
 共産党系以外の反峯山会長・リコール急進派は、その共産党系に踊らされている自分にあまりにも無自覚だった。
 とりわけ、藤森茂男氏、佐藤純一事務局長代行、そして北村聡司子・小樽運河を守る会副会長ら「反峯山会長・リコール急進派」路線の小樽運河を守る会幹部に引きずられるを人々を見るにつけ、あまりにも惨めすぎ怒りより哀れさを感じざるをえないほどだった。
 
 しかし、相変わらずこの「反峯山会長・リコール急進派」幹部は、我々の怒りに火を付けてくれた。
 これら共産党系労組・文化団体、守る会・反峯山会長グループ、そして村上代表幹事等の反峯山会長・リコール急進派は、色内町・松田ビルの一室を事務所として秘密裏に借り上げ、
   「R企画
との名称を表示する。
 Rとは、リコールの頭文字だった。
 このような陰湿な秘密主義と隠密主義そのもののやり方が、広範な市民とりわけ保守層の獲得を必要とする大衆的リコール運動として、受け入れられるわけがなかったし、大衆的市民運動としては認めがたいものだった。
 全く、新しい小樽の『まち』を、市民に寄りそう新しい展望を引き寄せようとする行政を生み出していこうという積極性を、1ミリも表現しないネーミングであり、市民運動にとっての条件である、明るさ、さわやかさ、楽しさは、皆無だった。
 彼らの政治センスが、陰湿で陰険で秘密主義であることをあまりにもストレートに表現していて、ただただ情けなかった。

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23_02. 小樽運河百人委員会総会は「これで終わったのか」と呻くような参加だった。

 6月9日、小樽運河百人委員会の総会が開催された。
 翌6月10日は「小樽博覧会開催日」で、総会当日は、「小樽博前夜祭」が開催される日だった。
 前夜祭開催日に、リコール発動の時期を論議する総会を設定するという日程設定に無理があった。
 しかし、反峯山会長・リコール急進派の「総会開催突き上げ」で、そこに設定せざるを得なくなっていた小樽運河百人委員会ではあった。

 本来であれば、小樽運河百人委員会の諸氏が、前夜祭に参加し、小樽博がどういう結果に終わるのかの一定程度の印象を持ちよって、総会を開催すべきだった。
 が、その総会開催日程は、百人委員会内部の彼我の攻防で決まっていき、いたしかたなかった。

 百人委員会総会は、これまで
   「6月中旬から下旬くらいを目処に、リコールを発動する」
と、3月リコール準備委員会を立ち上げて、アバウトな論議をしていた。
 しかし、そのリコール発動時期という論議は、様々に微妙で複雑な要素があり、彼我の進捗を考慮しながらの極めて政治的な判断を要求され、であるが故に結論的な話としての展開にはなりようがなかった。
 3月段階では飽くまでも「想定、メド」でしかかった。
 そのメドという曖昧さを逆手にとって、反峯山会長・リコール急進派は攻め立ててくるわけだった。

 この6月9日総会は、
   「リコール発動時期を、どう判断するか
というテーマにならざるをえなかった。

 反峯山会長・リコール急進派は、「差し迫ったと」することを無理矢理強調しての総会開催要求であった。
 リコール慎重派も、二回目の五者会談が6月15日開催の連絡が来ており、それも含め百人委員会全体のリコールへの意識を計り、市民の運河問題への関心の
   「現在の温度を測る体温計の役割
をも期待しての総会開催だった。
 
 百人委員会事務局は、この総会にむけて約250名の小樽運河百人委員会会員に開催案内状を送付していた。
 しかし、小樽博開催前夜祭へ出ている会員も多かったわけだったが、いざ蓋を開けると、二〇人を切る出席でしかなかった。

 出席者は、その出席状況に愕然とした
 私は内心、リコール発動どころか、
   「小樽運河保存運動はこれで終わったか
という感を抱いた。
 あの一〇万人署名の市民の爆発的参加と高揚は、どこにいったのかという空気が、総会会場に流れていた。

 会場の参加状況を見れば、誰しも「リコール発動の時期をどうするか」というレベルではなく、もう一度、
   「百人委員会のすべての態勢を再度どう立て直し整えるか
としてしか、その総会の役割はないと理解した。
 出席した誰もが、そう判断できる状況で苦渋の空気に包まれていた。

 しかし、共産党系と反峯山会長・リコール急進派はそのような参加状態を全く無視した。
 彼らは、まったくそのような総会状況に関係なく、自分たちのイニシアティブでのリコール発動だけに固執し、それをを強行しようとしていた。
 反峯山会長・リコール急進派の代表然とした村上代表幹事の目が、取りつかれたようにつり上がっていた。
   「これまで、6月中旬から下旬くらいを目処に、リコールを発動するとしてきたのだから、
    その基本的な決定を履行すべきだ
と主張した。
 「スケジュール主義」というレベルのものではなかった。
 「五者会談潰し、横路道政メンツ潰し」を完全に意識した発言だった。

 その6月中旬から下旬の目処を決めた3月の状況と、
   「そもそも、まったく空気が変わっている」
のを、現に目の当たりにしながらリコール発動を叫ぶ共産党系労組幹部の顔を、じっと見つめた。
    「百人委員会人の分裂=小樽運河保存運動の終焉
という言葉が脳裏に浮上していた。
 実際、
   ・大義の問題として、次回五者会談日程が決まり、博覧会「開会の段階」を迎えた今日の状
    態で、リコールに踏み切れるのか?
   ・組織状況として、小樽運河百人委員会総会が二〇名を切るという状態が意味するのは、そ
    れはリコールの現実性を多くの会員が感じていない、という証左ではなのか?。
   ・リコール発動を決めた総会が20人足らずという出席状態で決めた、とする話などすぐ拡散するわけで、そんな決め方でいいのか? 
   ・戦術問題として、六日後に開催される五者会談を、百人委員会側が「蹴るような形」でリ
    コール突入に踏み切って、市民を百人委員会側に組織できるか?
が、総会でのリコール慎重派の意見だった。

 共産党市議、共産党系労組団体・文化団体、そして小樽運河を守る会・反峯山会長・リコール急進派は、
   「次回 6月15日の五者会談まで待てない。
    15日の五者会談が物別れに終わるよう持って行けば、リコールに踏み切ることへの市民
    からの批判は受けないのではないか。
という全く根拠のない論理を主張し、その目つきが座っていた。
 しかし、市民運動的には「全く手前勝手な判断」でしかなかった。
   「リコールをせんがための理由
でしかなかった。

 その場にいる百人委員会のリコール慎重派の判断は、もう反峯山会長・リコール急進派が言うような「規定方針通り云々」のレベルのものではなかった。
   「ここの至っては、リコールの発動時期にだけこだわってみても全く意味ない。
    今の、リコール急進派が進めるこんな無様な態勢で、そもそもリコール発動してリコール
    が成立するのか、勝てるのか。
という事だった。

 峯山冨美小樽運河を守る会会長・代表幹事は正直に語った。
   「このような少ない出席者になって残念。
    ここへ出て来ていない仲間が沢山いる。
    そのような人たちにリコール実施に踏み切るのをどう説明できるのか?
    この状態で、早急なリコール実施を誰が決められるのか?
    そのことが、リコール実施の正否を決める鍵になるのでしょう。
と。

 が、反峯山会長・リコール急進派はそのような状況分析や大衆的なリコール運動の組み立てを追求しようとする意見など、全く意に介さなかった。 
 またもや、反峯山会長・リコール急進派は、組織論で迫ってきた。 
 小樽運河を守る会幹事会や再建役員会での対立の醸成の仕方と、全く同じだった。
   「小樽運河百人委員会は、リコール準備員会に従う。
    リコール準備委員会は、リコールについて(百人委員会から)全権を委任されている。
と、村上代表幹事は一方的に宣言した。
 舞い上がっていた。
 小樽運河を守る会・反峯山会長グループが作成したリコール声明書(案)の代表者名は、 
   「 志村和雄市長リコール準備員会・世話人代表・村上勝利
と印刷されていた。

 村上代表幹事は、自我肥大化が極まってしまった。
 百人委員会からリコールの全権を委ねられているのが、自分であるとする笑止千万な言動だった。

 リコール慎重派は丁寧に答えた。
 
   ・リコール準備委員会と小樽運河百人委員会は別組織であることは間違いな
    い。
    それは、小樽運河百人委員会の会員の中に公務員もいて、政治活動禁止規
    定があるからでもあった。
    又、百人委員会には賛成でも、リコールには名前を出せない方もいる。
    そういう全てを配慮してのリコール準備委員会であることは、村上代表幹
    事もご存じのはず。

   ・共通の理解は、別組織の形をとっても、飽くまでもリコール実施の際は百
    人委員会を土台にして大衆的に実施する、というもの。

   ・百人委員会の四人の代表幹事が、リコール発動時期に関してなんら話し合
    ってもいない。

   ・少なくともリコール準備の経緯をきちんと四代表幹事に説明する手順を踏
    むことは当たり前であり、その手続きすらも踏まず、いきなりのリコール
    発動は唐突過ぎるし、どなたも踏み込めない。

   ・手を挙げれば他がついて行く、とする安易な考えでは危なすぎる。
と。 

 リコール急進派からは、
   「気に召さなくても仕方ない。
    精一杯やって、こういう準備しか出来なかった。
    リコール発動の時期の設定という最低限の約束を守らないと、みなの気持
    ちが離反していく。
    後手後手に回る。後手に回ることにも、限界がある。
   「『鉄は熱いうちに打て』である。
    6月15日の五者会談第二回の終了後、報告集会を開く。
    そこで、リコール発動をする。
    短期決戦だ。

と。
 居直りと最後通牒しかなく、そこには最も大事な
   「リコールの成算の判断
は全くなかった。

 政治党派の常である、「目的のための手段が逆転し、手段が目的になっていた。」
 百人委員会は、それ自身のそもそもの出発の性格から言って、
   市民のあらゆる層へのリコール機運の広がりを醸成しないと「リコールの成
   算」はない
としてきた。
 だからこそ、
   徹底的に政治色を排し、市内市民の保守層も掘り起こす大衆的で広範なリコ
   ールを追求しなければ、勝算はない。
とした。  
 しかし、反峯山会長・リコール急進派、すなわち、村上代表幹事、共産党市議と共産党系労組団体、そして小樽運河を守る会・反峯山会長・リコール急進派は、
   「市内市民の保守層も掘り起こすリコールを追求しなければならない」
という発想と概念は、全くなかった。
 逆に、彼らは共産党の組織力にオンブにだっこを「連携」という言葉で言うだけだった。
 要は、共産党勢力を軸とし、リコールの旗頭は村上代表幹事で、だった。 
 リコールが成立したら、市長選挙に突入することなど全く頭にない彼らだったた。 
 どのような候補を擁立するのかさえ、百人委員会事務局や四代表幹事で内々の検討もしていないのに、主導権争奪オンリー主義のリコール「発動」論議を仕掛けてくるわけだった。

 その自我肥大化した村上代表幹事が、唯一依って立つ勢力はもはや共産党系しかなく、その共産党系は自分を必要とするのだから、共産党に対しても自信は発言力がある、と大勘違いしていた。
 党派政治を知らない、ただの自我肥大の政治オンチになっていた。
 共産党系は、そのような村上代表幹事の自我肥大を助長し、その村上代表幹事を煽った。
 自分が、「リコール準備委員会の代表である」とし、百人委員会はそのリコール準備委員会の代表世話人に「全権を付与している」などという大暴走・大誤解は、もはや大妄想としかいいようがなかった。
 もはや村上代表幹事の一人世界、裸の王様だった。
 私は、その村上代表幹事は、リコール成立後の市長選挙候補に自らを意識していた、と感じるほどだった。

 こういう人物を代表幹事の一人にしてしまった小樽運河保存運動の政治的失敗の露呈だった。
 しかし、後悔しても始まらなかった。
 人間は、ここまで舞い上がるものなのだ、と教訓にするよりない。

 

23_03.  彼らのリコールと我々のリコール、小樽運河保存運動が「勝つための成算」を求めて。



 リコール慎重派と反峯山会長・リコール急進派とでは、大衆運動や市民運動の捉まえ方が全く違っていた。
 それは、リコールを
   「何処に依拠してやるのか
という基本的な点だった。

 リコール慎重派は、それを小樽運河保存と新しい『まちづくり』を志向する市民に求めた。
 反峯山会長・リコール急進派は「共産党勢力を軸」とし、村上代表幹事でリコール発動の旗頭が出来たとした。
 もはや完全な小樽運河百人委員会の政治的分裂、だった。

 6月9日の小樽運河百人委員会総会が二〇人を切る出席状態であるという深刻な事態からある意味全く自由で、反峯山会長・リコール急進派の人々はまったくそれを意に介さなかった。
 彼らにはリコール発動をすれば、百人委員会の人々はついて来ざるをえない、と安易極まりない読みを踏んでしまった。
 そこでは、彼らは「リコールの成算」を考える必要はなかった。
 リコール発動さえ出来ればそれで良く、リコール成立の正否が問題ではなかった。
   「我々はここまで頑張った、が、百人委員会はついてこなかった。
    だから、リコールが失敗したのは、百人委員会のせいだ。
    共産党は、最後まで小樽運河保存運動を戦い抜いた。」
とすればいい、だけだった。
 共産党系としては、簡単な理屈だった。
 この党派からみれば、村上代表幹事も、峯山冨美会長も、藤森茂男氏も、百人委員会も、小樽運河を守る会も、今、使えるツールであればよかっただけだった。
 あとはどうでも良かった、使い捨ての駒でしかなかった。
 彼らは常に、今ある運動のイニシアティブが問題であって運動全般への責任を持とうとはしなかった。
 それは、この時点から四ヶ月後、反峯山会長・リコール急進派が開催した10月集会後、彼らは自己解体し、小樽の町から姿は消え、消滅したことで明らかだ。 

   「一時政治休戦中の小樽博覧会期間中にリコールをやろうという方向性論議なら、理解が出
    来ないわけではない。 
    しかし、全く共産党と一部勢力だけでしか組み立て得ない態勢で勝てるのか? 
    「勝ち」という意味は、リコールが成立したあとの市長選挙で、志村市長支持勢力が擁立
    する候補に、接戦でもいいから勝てる我々の候補擁立と市長選挙戦を勝利する陣容を生み
    出す「力」が形成できるのかが、用意されて初めて見えてくる。
    かろうじてリコールが成立する、というレベルでは駄目。
    圧倒的数でリコールが成立し、その勢いで市長選挙戦に突入しないとならない。
    そこまで見込んでのリコール発動でなければ、やっても意味ない。
    それなら、最終的に博覧会が終了して決算が出た段階での、市民の反志村空気・ムードが
    高まった段階で、『市民不在の運河埋め立て』『市民不在の小樽博」「市民不在の志村市
    政」というイメージ攻略で闘う態勢をつくる、という判断は間違っているのか?
    市民は必ず不満を爆発させる、と判断できないのか?」
 
というのが、リコール慎重派のここまできての「勝つための成算」だった。

 1年前だった。

 1年前の丁度6月、小樽商工会議所首脳、四正副会頭がそれまでの運河埋立から運河保存に大転換して、爆発した小樽運河保存運動の大高揚は、わずか3ヶ月半で人口18万の小樽の町で9万8千人の「道路建設見直し」署名を生み出した。
 しかし、その高揚が「爆発的」であればあるほど、そのエネルギーを「継続し持続する」ことほど難しいことはない。
 ましてや、小樽運河を守る会内部の峯山会長支持グループと反峯山会長グループの対立は内部に止めようとしても外部に漏れる。
 そして、それが小樽運河百人委員会に持ち込まれ、時と所が変わって激しい対立を繰り返す。
 更に、3月の北海道議会での自民党・公明党の道路建設運河埋立派の巻き返しと、昭和59年度道予算案を人質にとっての攻防戦では、道議会運営に責任のある知事の妥協という名の「昭和59年度予算の年度中での執行」が議会承認されていた。
 自民党道連は勝負あったとして、小樽博期間中の埋立工事の凍結=政治休戦を受け入れる余裕すらあった。

 このような推移が、小樽市民、とりわけ一〇万人署名運動に積極的に参加してきた「市民にどのような影響を与えているのか」が問題だった。
 その一〇万人署名に我も我もと参加してきた市民の体温は、まだ燃えさかって上昇しているのか、
 それとも平熱にもう下がってしまっているのか?
 この分析と判断が、小樽運河百人委員会がこれから採用する方針を決めるわけだった。
 小樽運河保存運動の勝利のために、小樽運河百人委員会の反峯山会長・リコール急進派とリコール慎重派が、とことんその目的のために真摯に論議し、もう一度態勢を整え一つになって纏まり、再度態勢を立て直すことが出来れば、まだ戦えた。
 小樽運河百人委員会・リコール慎重派は、諦めていなかった。

 小樽運河保存を求める者にとって、五者会談そのものに意味があるのではなかった。
 3月の北海道議会での「昭和59年度予算の年度中での執行」知事発言は、普通なら勝負あったとする状況だった。
 が、小樽運河保存運動の歴史は、そのような議会での決着に左右されてここまで11年間もやって来たわけではなかた。
 小樽運河百人委員会にとって、与えられた五者会談中の政治休戦「期間」こそが、もう一度戦える態勢再編成のための最後のチャンスだった。
 そして、五者会談を提唱した道知事自身も
   「市が埋立を見直さないならばリコールはやむを得ない
としていた。
 知事周辺、とりわけ、社会党関係者は、小樽博覧会終了後の護岸工事「発注」はさせても、その「着工」をさせない働きかけを、国・道にしその辺の感触を得ているので、
   「リコール抜き小樽運河保存の道筋
は可能として、追求していた。
   今まで打った杭はそのまま護岸の基礎にする。
   それを小樽運河の底部に打ち込んでしまえば、小樽運河の底部構造の補強となり、水面から
   消える。 
   護岸石垣工事は、小樽運河底部や運河全体の崩落箇所の修理整備に使用すればいい。
・・・、とする案は、水野建設大臣と社会党幹部の年初の会談でも、話に出ていた。

 更に、五者会談中、埋立推進の行政と道々小樽臨港線早期完成促進期成会の分断を謀るために、期成会代表と西武流通グループのトップ会談のセットの根回し工作も進める、としていた。
 そして、自民党道連・自民党小樽支部と道路推進派は、志村市長リコールに小樽運河百人委員会が踏み切れば「工事凍結解除」を再度迫る、との対決の構えを堅持していた。

 小樽運河百人委員会としては、これらの小樽運河保存をめぐる彼我、各勢力の動向を懸命に把握しようとしていた。
 全く盛り上がらない小樽博の赤字は巨額になるのは明白で、市民の志村市政への不満は小樽運河問題を含め充満する。それを更に醸成し、埋立派に席を蹴らせる形に持って行くための舞台が五者会談であった。
 
 五者会談は、その進捗に意味があるのではなく、この最後のリコールのチャンスのための時間稼ぎの場でもあった。 
 こうして、リコール発動をする最後のチャンスを自らが用意するというシナリオを作ろうとしていた。


23_04 リコール成立の目算と成立後の市長候補者問題

 共産党系は様々に動いたが、例えリコールが成立したとしてその後の市長選挙の目算さえも頭になかった。

 そして、共産党系だけで勝てる見込みは全くなかった。
 その理由は簡単だった。
 前年の1983年(昭和58年)春の市長選の得票数が、それを物語っていた。

  ●当日有権者数 127,339人、投票率78.29%
で、
  ●志村和雄市長(自民・公明・民社推薦)  58,646票 
  ●桜井定雄候補(社会党推薦)       30,535票 
  ●櫛引勝嘉候補(共産党推薦)         9,472票 
で、社共の合計得票数でも保守系候補の得票数に全く届かない票差だった。
 ましてや、共産党候補に至っては、「得票数1万票」にも達しない、共産党小樽の過去の歴史にもない「大惨敗」で、共産党の退潮が市民にもすっかり印象づけられていた。

 百人委員会の論議の中で、とある商店主から、 
   「前回選挙で、候補が1万票にも届かない大惨敗だった共産党が、どうしたらそうリ
    コール発動を性急にいうのか、その根拠や勝つ勝算、成算はあるのか。
    俺を説得してみてくれ。
と、鋭く追求されてもいた。
 リコール自身の勝算もなく、リコール成立後の本格的闘いである市長選の用意も全くないまま、ただ、闇雲に「リコール発動」一本槍の共産党系と反峯山会長・リコール急進派の主張は、ここでもただただ主導権掌握だけの戦術であったことが、明白だった。

 前年の市長選での屈辱的得票数の悪夢からの脱却を、この機会に狙ってはいた共産党系ではあった。

 5月の第一回五者会談前後のリコール準備委員会で、共産党系は、
   「共産党がリコールに加わるとなれば、『縁の下』での支援などありえない。
    まして、リコール成立後の新市長候補を、市民運動レベルだけ決めるなどあり得ない。
    ある程度、候補決定過程に政党(共産党系)を絡めてもらわなければならない。
    このリコールを共産党の『革新市政奪還の好機』と捉えるのは、公党なのだから当然
    だ。
と嘯いていた。

 そして、6月20日夜、朝日新聞小樽支社の取材に、共産党市議団長氏は、
   「五者会談は、実りがない。
    リコールの時期を失して『抗議』のリコールになっては、意味がない。
    リコール準備委員会がまとまるのが原則だが、リコールは誰がやっても良いはずだ。
    だから、我が党がやることもある。
    その際、勝ち負けは関係ない。
   「(他の野党との)共闘は、頼りにならないので、それはどうでもいいこと。」
   「勝てなくても、やらなければならないこともある。
    市民の理解が得られれば、共産党だけで勝てることもある。」
と、正直に自らの党派利害を優先する考えを、吐露していた。 

 それは、
   「リコールは『伝家の宝刀』、抜く限り『勝つ』勝負を仕掛けないでは意味はない。」
とする、百人委員会リコール慎重派の全市民的リコール路線を意識した、党派性剥き出しの発言だった。
 共産党系は、リコール成立不成立に関係なく、又リコール成立後の市長選で負けても、
   「党が頑張ったと主張でき、党が生き延びる
ことさえ出来れば良かった。 
 が、小樽運河保存運動を進める人たちは、リコールに負ければ埋立派から経済的に干されて、村八分的孤立化を強制される、「生きるか死ぬか」の闘いをすることになる。  
 リコールへの「構え方」が、そもそも根底的に違っていた。

 「リコールの成算」を、どう形つくり引き寄せるのかこそが小樽運河百人委員会の作業だった。
 
 結局、6月9日の小樽運河百人委員会・総会では、反峯山会長・リコール急進派の「第二回五者会談」終了後のリコール発動は、決着がつかないまま解散となった。
 危機はかろうじて回避された。
 

 一方、小樽運河の埋立から保存に大転換した小樽商工会議所首脳も、それを契機にした小樽運河保存運動の高揚によって、リコールという次のステップに踏み込まざるを得なくなる状況に、当然対応をしなければならない立場にいた。
 リコールを念頭に、運河埋立の志村市長に対抗する新市長候補をどうするのかを考慮しないわけにはいかなかった。
 が、もし小樽商工会議所首脳陣の側から「新市長候補」を出せば、結局それまでの経済界重鎮による市長擁立という政治決定構造と運河保存で大転換した小樽商工会議所首脳も大して変わらないとなってしまいかねないわけで、こと市長選候補には慎重にならざるを得ないかった。

 1983年(昭和59年)年末から、町のあちこちでリコールが話題となり、当然次期市長候補者の名前が好き勝手に浮上しては消えていた。
 全く小樽にこれまで関わってこなかった名前が取りざたされる、そのような空気が流れていた。
 それは、小樽運河保存運動の側からすれば、小樽という街自身が「リコールに頭から反対していない」、街が「リコールの現実性」を表現している、と受け止められた。
 一方で、実のところ私は、あたかも新市長候補として週刊誌予想的な名前の浮上に辟易していた。
 顔見知りの経済人がその市長候補の名前を早く知ろうと、随分色々な会合の宴席で私に声を掛けてきた。 
 誰が次期市長になるかによって商売に影響のある人々は、それは皆必死になるのだから、生半可な対応は危険だった。

 が、私たちが立起を要請する市長候補は、
   小樽運河保存運動11年のまちづくり市民運動への真摯な理解をする人材でなければ、
   どんな人材であっても、それが例え中央省庁官僚であっても無条件に擁立などできない
、と応えていた。
 そもそも、市長に当選した後に選挙公約を180度転換する中央官僚出身市長という新聞記事を見かけていたし、様々な住民運動での選挙を巡ってはよくそういう事態が発生してもいた。
 
 しかし、もう少数の小樽経済人重鎮での市役所出身者を市長にする院政的決定構造こそ、真っ平ご免だったと同時に、逆に全くただの落下傘候補も、ご免だった。 
 地元小樽に人材がいないとよく言われてきていたが、私は、それが問題の根源だと思っていた。
   今度こそ小樽商工会議所首脳も含めた運河保存の地元経済人こそが出るべき
と思っていた。 
 小樽運河保存運動11年で、一〇万人署名運動の大高揚のきっかけとなったのが、小樽商工会議所首脳の大方針転換だったのであり、又、私たちの市長リコールの争点は
   『市民不在の運河埋め立て』、
   『市民不在の小樽博』、
   『市民不在の行政』
であったからこそ、一〇万人署名運動の大高揚のきっかけとなった経済人こそが新市長候補に立起すべきであるとした。

 一方で、市民不在といいながら、国や道の官僚の市長擁立では市民運動のやる気を引き出させ得ないし、ここでは「保守対革新」という戦後五五年体制型の選挙戦ではなく、
   「守旧派経済界重鎮決定候補 vs まちづくり市民推薦候補
の対決に持ちこみ、守旧派勢力によるこれまでの市長選構造を壊せる、たとえ保守でも構わず「まちづくり市民」候補で対決しなければ、小樽運河保存運動とリコールを経ての「まちづくり」を選挙テーマにした市長選挙戦は闘えなかった。
 
 ところが、その頃盟友・山口がとある小樽の近隣町村出身の
   通産省官僚
の名前を、小樽運河保存運動派による市長リコール成立後のまちづくり市民推薦市長選候補者にと、ほんの数人の仲間の間で口にしてきていた。 
 彼のこれまでそのように言うときは、もうその通産官僚氏に入れ込み始めている証拠だった
 まだまだ、市長候補は「浮いては消える泡」の段階だったのに。
 いくら入れ込んでも、小樽商工会議所首脳や百人委員会がどう評価するかもあった。
 小樽商工会議所首脳陣が推薦する候補であればこそ、保守サイドを獲得し勝利する展望があっても、小樽運河保存運動派のリーダーの一人が推薦する候補では、「街場での受け止め方」は全く違ってくるのは当然だった。
 小樽商工会議所首脳陣が本気で押す候補が出てくれば、百人委員会側と「対面する場」がセットされるわけで、当方が前のめり的に周章てて市外からの候補者捜しをする必要も私は感じなかった。

 しかし、山口もうその元通産官僚氏を商工会議所首脳に会わせていた。
 彼の「政治好き」が空回りしていた。
 彼の仲介で元通算官僚氏と面談した小樽商工会議所首脳が、その元通産官僚氏をどう評価したかを問うたが、山口はあまりその面談内容を語りたがらなかった。
 彼のその態度からして、商工会議所首脳としてはその元通算官僚氏を次期市長候補として「積極的に」評価したわけではなく、「期待した反応」ではなかったと、私は理解した。
 小樽商工会議所首脳に元通産官僚氏を連れて行けば、当然会うことは会うであろうが、海千山千の小樽商工会議所首脳にすれば「それだけの話だ」と私は判断していた。
 慎重にも慎重な大野副会頭にすれば、なおさらであり、当然だった。
 中央省庁官僚との様々なルートを持っていた小樽商工会議所の各首脳からすれば、そんな1〜2回の面談でその元通産官僚氏を自分たちの街での次期市長候補になどと乗ってくるわけは、そもそもなかった。
 小樽商工会議所の各首脳からすれば、新小樽市長候補勧誘ルートは多岐にわたるであろうし、彼の入れ込む元通産相官僚もその数ある候補の一人にはなっても、未だ決め打ちするような段階でもなかったわけだった。
 
 そんなとき、大野副会頭の会社・小樽作業衣株式会社の社販セールがあった。
 それなら大野副会頭の会社へ私たちのような若者の出入りも目立たないと、夫婦で行き、連れ合いがセール商品を物色している間、社長室でお茶をご馳走になった。
   「随分、元通産官僚氏にご熱心だが・・・」
 大野副会頭の「裏をとる」作業だった。
 話の裏をとるのに、一人や二人の話では絶対済まさない、本当に慎重な大野副会頭だった。
   「私はまだ会ってもいません。まぁ、惚れっぽいのが山さんです。」
   「ほぉ、まだ小川原さんは会ってはいないのですか!」
   「はい、私はまずは地元経済人が立起すべき派、ですので。」
   「ははは、そうですか。私は山さんがあれだけ言うので、てっきり小川原さんとは一致し
    ているものとばかり。」
と、笑ってくれた。
 要は、「私が、彼同様に元通産官僚氏に入れ込んでいるのか」どうかを大野副会頭は、確かめたかったのだった。
 小樽運河保存市民運動の親しいメンバーは元通算官僚氏で一致している、かのような物言いをしたのかもしれなかった。
 が、ここでは、もしそう言ったとしても、まだ会ったこともない元通産官僚氏であり、又元通産官僚氏に入れ込む山口が盟友であっても、会ってもいない人材の擁立をフォローするわけにはいかなかった。
 幸い、それ以上、大野副会頭は元通算官僚氏に関して語ろうとしなかった。

 山口は入れ込みすぎたのだった。 
 この辺での人の評価感覚では、彼と私では大きく違っていた。
 ある意味彼の方が、政治的で使えるツールは使う的発想だった。
 村上勝利氏を代表幹事にさせたケースがそうであったように、その際の人間性は彼にはどちらかというと副次的なものだった。
 私は、逆に、ある意味、人物評価は情緒的で、自分に確信が持てるまで人への評価や結論を持とうとしなかった。

 彼特有の、もう元通産官僚氏しかいないという、入れ込みの強さ、思い入れの強さだった。
 山口のポジション、つまり小樽運河保存運動の政治工作担当としては、あまり入れ込むのは逆効果しか生まない、と意見はしたが、気にしない風になっていた。
 結局、リコール発動→リコール成立→市長選というプロセスの進展がなければ、リアルさをもって次期市長候補に関し本格的に論議されようもなく、小樽商工会議所首脳からそれ以降次期市長候補問題での働きかけは、何もなかった。
 
 しかし、その元通産官僚氏はその動きだけではもの足りず不安だったのであろう。 
 また、小樽商工会議所首脳から明確な返事をもらえず、焦れた元通産官僚氏はその触手を市内の若手経済人に伸ばし、接触を持ち始めていた。
 まるで重大秘密を漏らすかのように、市内若手経済人の幾人からその元通産官僚氏の名が囁かれてきてもいた。
 私は、「知らない人」としか応えなかった。 
 こうなると、どんな能力がある通産官僚氏でも、この小樽の街場の感覚ではただの「なりたがり」としか評価されないことを、通産省官僚氏は計算しなかった。

 結局、山口は勘違いしていた。
 小樽運河保存運動という市民運動展開をする彼を、皆が評価していた。
 だから、小樽運河保存運動に関し彼にもの申す度胸のある経済人はあまりいなかった。
 が、殊「市長候補」となれば小樽運河保存運動だけの話で全くなく、当然周囲も遠慮はしない。
 次期市長候補となれば、経済人は自身の町のポジションや自社のビジネスが絡む一大問題であり、経済人であればあるほど、市民運動ルートでの候補擁立にすぐさま賛成するわけがなかった。
 まして、次期市長候補が、市民運動の山口が「担ぐ」人材だとなると、そのハレーションは必然的に大きくなるのは決まっていた。
 
 「街場の現実」というものがある。
 次期市長候補の名前を「街の誰が出すか」で、その流れをつくれもするが消えてもいくという現実だった。
 いわゆる、擁立者の街における信任であり、擁立者の街場での権威であり、擁立者の街場で承認された人としての「」の問題だ。

 山口が、本当に元通算官僚氏に惚れ込み「市長候補に」とするなら、彼は一切表に立たないで完全に潜航し、小樽で権威と市民権と人格のある新たな擁立者を立て、そのもとでの擁立工作をしなければ成功はおぼつかなかった。
 しかし、山口は、その擁立工作を運動展開の延長線上でしかとらえず、市民運動の論理的帰結として推し進めようとし、しかも自身との関係性を表に出してやろうとした。
 彼は、ある意味自らが市長候補を担ぎ出すという一種の酩酊状態にあった、と言えなくもなかった。

 いくら獅子奮迅の活躍をしてきた小樽運河保存運動の山口ではあっても、オール小樽の、それも経済界や保守をも巻き込んだ、いや保守層をも分裂させねば勝ち得ない選挙戦では、その市長候補の擁立者としての彼の街場での信任や権威や格は、残念ながら、若さ故に未だ形成過程だった。
 小樽市出身ではないから街場の現実がよそ者の彼を承認しない、というわけではない。
 例え、彼の立場に私に入れ替えても、同じことだった。
 彼や私などは、小樽では未だそういう存在だった。

 が、当時、それを理解しようとする山口ではなかった。
 理解出来ても、論理さや思想性ではなく若さというどうしようもない点での「街場での現実」は、認めがたかったであろう。
 若さだったからこそ小樽運河保存運動をここまでやってこれ、若さ故にぶつかる如何ともしがたい壁だった。
 山口のまちづくりにおける有責感は痛いほど理解できる。
 そういう論理や思想性ではないところで物事が進むこの町の構造を、彼は壊したい衝動に駆られたのであろうが、未だ私たちは間に合ってはいなかった。

 そして、リコール発動状況を未だ形成できず、結局小樽運河保存運動の最後の最後まで、元通産官僚氏の名前は噂話にはなっても、オール小樽的には浮上してこなかった。
 逆に考えれば、そもそも、元通産官僚氏は自身の市長候補立起戦略があまりにも稚拙すぎた、と言える。
 そして、何故か、山口はそれほど入れ込む元通産官僚氏を私に紹介しなかったし、元通産官僚氏自身も訪れてくることはなかった。
 私は、以降もリコール成立したら市長候補はどうするのかという論議には、最後まで、
   「小樽商工会議所首脳か、それを支持する信頼できる市内経済人
としか言わないでいた。


23_05. どこまでも姑息さしかない共産党系とリコール急進派だった。

 反峯山会長・リコール急進派が言う
   「6月15日、第二回五者会談終了後即のリコール発動
は、何とか回避できた。

 しかし、反峯山会長・リコール急進派との消耗なせめぎ合いが続いていった。

 総会から一週間後の、6月18日、反峯山会長・リコール急進派が「リコール準備委員会」を、秘密裏に開設した「R企画」で開催すると連絡が回った。
 小樽運河百人委員会も無視するわけにはいかず、急遽集まった。
 
 そこには、共産党市議、共産党系労組、共産党系文化団体の代表に加え、小樽運河を守る会・反峯山会長グループが出席していた。
 小樽運河を守る会も小樽運河百人委員会も、会議はほぼ小樽運河保存に心を寄せる市民であれば「誰でも」というスタイルをとってきた。
 しかし、この日の参加の顔ぶれこそ、反峯山会長グループ・リコール急進派と共産党系勢力との深い関わり方を、露骨に表現し見せつけてきていた。
 いや、その関係を見せつけることを、敢えて意識的にしてきた

 テーブルにリコール署名を集めるリコール受任者用紙を並べて、共産党市議は、
   「15日にリコール旗揚げをすると聞き、その準備を進めてきた。」
と、とぼけたことをいってき、
   「どうしてリコール旗揚げをやめたのか。迷惑千万だ。どうしてくれるのか。」
と、ヤクザのように凄んできた。
 もう論争ではなかった。
 総会という「場」では党派性を剥き出しにできないので、「リコール準備会」という少人数での決着をつけようとしてきた。 
 力勝負に、出て来たわけだった。
 
   「私たちは、受任者用紙の印刷は了解したが、それを配布することは了解していない。
    にも拘わらず、独断で先走り受任者用紙を配布しておいて、どうしてくれるは、ない。
    保守層やすべての政党関係者も参加できるような、オール市民による態勢でなければリコ
    ールは発動できないと、なんども言ってきた。」

と、小樽運河百人委員会側が冷静に対応し言っても、共産党系は、

   「保守層や経済界首脳に、リコールを抑えられるとおもっているのか、抑えられるわけには
    いかない。
と労働争議で馴れたかのように、百人委員会とリコール慎重派に追求姿勢をとってきたが、そういう世界では当方も馴れたものだった。
 業を煮やした村上代表幹事が、
   「リコール準備委員会は、解散だ。
と怒号をあげて、席を立ち退席してしまう始末だった
 そんなことをされては困る共産党系はあわててなだめる始末だった。
 文字通り喧嘩別れの呈だった。

 そして、6月20日、

   「五者会談は、実りがない。
    リコールの時期を失して『抗議』のリコールになっては、意味がない。
    リコール準備委員会がまとまるのが原則だが、リコールは誰がやっても良いはずだ。
    だから、我が党がやることもある。
    その際、勝ち負けは関係ない。
   「(他の野党との)共闘は、頼りにならないので、それはどうでもいいこと。」
   「勝てなくても、やらなければならないこともある。
    市民の理解が得られれば、共産党だけで勝てることもある。」

と、新聞記者に公言した共産党市議が、その翌日、態度を変え、

   「その(6月20日)発言を撤回したい

と、記者に連絡してきた、という情報が入った。 
 
   「前日の発言を撤回する、理由は我が党がリコールをやる必要がなくなった。
   「リコールは百人委員会が一致してやってもらいたい。
    それが最低条件である。」
   「市民がリコールをやることになれば、それを見殺しにすることはない、という意味合いで
    言っただけだ。」
と。

   「リコールは誰がやっても良いのだから、勝ち負けは関係ない
と凄んで言った共産党系市議が、
   「リコールは百人委員会が一致してやってもらいたい。それが最低条件である。」
と、一見まっとうなことを言い始めた。
 が、この共産党市議から新聞記者への電話の核心は、
   「理由は我が党がリコールをやる必要がなくなった。
という一言だった。
 それは、リコール発動を共産党系以外の誰か、つまり、反峯山会長・リコール急進派の
   「村上代表幹事で仕掛ける準備が完了した。
ということを、暗に意味する発言と私たちは理解した。
 
 小樽運河百人委員会の代表幹事の一人、村上勝利氏がリコール実施団体の代表になれば、リコール発動の総責任は、必然的に小樽運河百人委員会・代表幹事・村上勝利にあり、共産党系がリコールで突出したと後に批判を受けることはなくなる
 さらに、そのリコール発動の実質的な主導権は共産党系にあり、リコール署名運動そのものに共産党系が位置を占められる、とするわけだった。 

 そう決まれば、次は、もう共産党が前面に出る必要はなく、小樽運河百人委員会や峯山会長支持グループの存在を無視して振る舞えるし、市民からの「独善的共産党の突出」という印象を薄められる、というわけだった。
   「リコールは百人委員会が一致して」
という「小樽運河百人委員会の纏まり」をという真っ当な姿勢を装い、後は、百人委員会の会員が、村上代表のリコールに
   「ついてくるのか
と迫ってきたけだ。

 ここに典型なのは、このリコール発動において、反峯山会長・リコール急進派の頭の中に
  「市民の存在」
は、一度として意識されていなかった。
 彼らの頭には、共産党系と百人委員会しかなかった。
 市民が、その段階でリコール発動にどのような形で、どのように反応をしてくるかと、懸命に市民に依拠し市民の体温に依拠する姿勢は、露ほども持たなかった。
 しかし、市民は馬鹿ではない。
 街中がリコール一色になり勝てると思う機運と確信がなければ、リコール投票行動にそう簡単に出るわけがなかったのにである。

 運河埋立工事一時凍結という政治休戦の小樽博期間中にリコールをしなければ、それが終わったら即運河埋立工事再開になるという危機感は、皆、同じだった。 
 しかし、態勢固めもなく、小樽運河百人委員会の総会で二〇名を切るような状態で、そもそも勝てるという展望は引き寄せられないにもかかわらず、安易な発動声明など無理であることは明確だった。
 この段階のリコール発動は、「自滅への道」だった。
 共産党系と反峯山会長・リコール急進派の両者が自滅するだけならよかったが、11年の小樽運河保存運動の自滅になるわけだった。

 小樽博が終了した後、その決算も含めた小樽博評価が定まった時点でチャンスがやってくる、とは考えなかった。
 そういう準備が積み重なればなるほど、リコール発動状況が好転すればするほど、逆にここまで対立を深めてしまった関係となっては、共産党系ははじかれてしまうのではないか、を恐怖した。
 
 実際、小樽博終了後に発表された決算報告は、約四億円弱の大赤字だった。
 その責任を問われかねないので、行政は市長・助役の減給処分を決算報告と一緒に発表せざるを得なかった。
 そもそも、地元選出衆議院議員・箕輪登代議士が運河保存に雪崩を打つ市民を慰撫するために持ち込んだのが、小樽博だった。
 それが、逆効果しかもたらさない政治的焦点に浮上してしまったわけだった。
 水野清建設大臣が「小樽博期間中の運河工事の凍結」を打ち出したとき、自民党小樽支部の幹部が宴席で
   「余計なもの(小樽博)を持ってきてくれたもんだ
と、地団駄踏んで悔しがっていた。
   「市民不在の小樽博」
イメージは開催前から定着していたのだった。

 中間決算が出されなくても、誰の目にも小樽博の来場者数が延びる可能性は見えず、しょぼくれたパビリオンでは街中に小樽博ムードは醸成できず、小樽博の失敗はあきらかだった。
 小樽運河埋立だけでなく小樽博も含めて、志村市政施策全般に対する小樽市民の不満のガスは充満し、そのガス爆発の矛先は、当然志村市政そのものに向けられざるを得なくなる趨勢だった。

 当然、横路知事仲介の五者会談は、その開催テンポも否応もなくこの小樽博情勢に影響を受けざるをえず、小樽博終了後のリコール発動となれば、五者会談の開催はその意味合いが消滅する。 
 愁眉の小樽運河埋立工事は、再開されてもまだ護岸工事であり、運河を直接埋め立てる工事ではなく、現に打たれた工事用杭もそれを運河の底部に打ち込んでしまえば運河基盤強化にもなる。 
 リコール発動がなり、リコール成立に成功すれば、志村市長が解職となり新市長誕生まで再び政治的配慮で工事は中断せざるをえなくなる。 
 更に、3月道議会での道々小樽臨港線工事予算の昭和59年度執行を、新市長が埋立凍結を表明すれば「地元意志を尊重」となって、ただ道知事だけを攻撃するわけにはいかなくなる。
 このようなシナリオを共産党系は絶対呑むわけにいかなかった。

 反横路道政、横路道政主要打撃方針に取り憑かれ、縛られた共産党だった。
 事態はますます混迷を深めてきていた。

 1984(昭和59)年

 5月24日 横路北海道知事仲介、第1回五者会談
       峯山会長は、
       「五者会談会談の市長の態度から、『市はひどい』とする市民感情が沸き上がらざ
        るを得ないと判断する。小樽運河百人委員会はこの市長の態度からも、リコール
        しかないとその必然性を訴えざるを得ません。」
       とコメント
 
       小樽運河百人委員会・事務局会議に、小樽運河を守る会・反峯山会長グループが、
       加入を要望してくる。
 
 5月25日 小樽運河百人委員会:村上代表幹事と山口事務局は小樽市役所で記者会見し、
       「志村市長は『規定方針通り』と語り、話し合いで方向を見いだす姿勢は見られな
        いのは大変残念だ。事態がこのまま推移するなら、6月中旬を目途にリコールを
        起こす方針に変わりはない。」
       と表明

 5月25日 自民党小樽支部定期総会挨拶で志村市長は、
       「今までやってきた運河埋立手続きは、いい加減にすすめたものではない。
        『運河を保存すれば、名市長と評価される』と言う人もいるが、私に言わせれば
        それは『迷市長』だ、不見識である。」、
       道々小樽臨港線早期完成期成会・菅原春雄会長は、
       「期成会は物心両面で自民党の世話になっている。運河埋立見直しに方向転換した
        小樽商工会議所の川合会頭らは謎の変心をした。道々小樽臨港線の建設が遅れる
        ことは容易ならざること。」
       と表明。

 5月27日 社会党小樽総支部(坪谷俊雄委員長)定期大会、それまでの、
       「運河を半分埋め立てて四車線にする縮小案」
       を立場としてきたが
       「市道港線への四車線振替案」
       をもって、全面保存に方針転換を発表する。

       小樽運河を守る会・反峯山会長グループの百人委員会人委員会への加入の是非で、
       村上勝利代表幹事と峯山会長支持グループの間で、その評価を巡って意見が衝突す
       る。 村上代表幹事は、反峯山会長グループが小樽運河百人委員会に加入するのを
       歓迎した。 山口らは、反峯山会長グループの態度変更の真意を推し量り、これま
       での小樽運河を守る会での彼らの振る舞いと言動を判断すると、小樽運河百人委員
       会に混乱しか持ち込まれないと反対したが、押し切られる。
 
 6月 9日 小樽運河百人委員会総会、二五〇人の会員に案内状を出すが14〜15人の参加。
       あの一〇万人署名の市民の爆発的参加と高揚はどこにいったのか。そういう空気
       が会場に流れていた。
       リコール発動の時期をどうするか、というレベルではなく、もう一度、百人委員会
       のすべての態勢を再度どう確立し整えるかとしてしか、そ総会の役割はもうなかっ
       た。
       一方、反峯山会長グループ・リコール急進派は、「これまで、6月中旬から20日
       くらいを目処に、リコールを発動するとしてきたのだから、その基本的な決定にし
       たがってそれに沿う論議を」
       と主張した。
       小樽運河を守る会の対立が小樽運河百人委員会に持ち込まれた瞬間だった。
   反峯山会長グループ・リコール急進派「精一杯やって、こういう準備しか出来な
       かった。リコール発動の時期の設定という最低限の約束を守らないと、みなの気持
       ちが離反していく。
       後手後手に回る。後手に回ることにも、限界がある。」
       「『鉄は熱いうちに打て』である。6月15日の五者会談第二回の終了後、報告集
       会を開く。そこで、リコール発動を」
       と主張、対立は激化していく。
 
 6月15日 かろうじて6月15日のリコール発動表明は避けられた。
       第2回五者会談は終了する。
       これ以降さらに、峯山会長支持・リコール慎重派の説得に加え、小樽商工会議所会
       議所首脳からも拙速なリコール発動の説得に加わる。
 
 6月18日 足踏みさせらた反峯山会長グループ・リコール急進派は、リコール準備会に、共産
       党系だけで配布し集めた受任者用紙を持ち込み、
         「リコールをやるというので受任者用紙を集めてここまで準備してきたのに、どうしてくれ
          るのか」
       と、凄んできた。
 
 6月20日 朝日新聞小樽支社の取材に、共産党市議は、
         「五者会談は実りがない。リコールの時期を失して『抗議』のリコールになっては意味がな
          い。リコール準備委員会がまとまるのが原則だが、リコールは誰がやっても良い。だか
          ら、我が党がやることもある。その際、勝ち負けは関係ない。」
         「(他の野党との)共闘は、頼りにならないのでそれはどうでもいいこと。」
         「勝てなくても、やらなければならないこともある。市民の理解が得られれば共産党だけで
          勝てることもある。」
       と応える。
 
 6月21日 前日朝日新聞取材に応えた共産党市議が態度を変え
         「その発言を撤回したい」
       と、記者に連絡してきた。
         「前日の発言を撤回する、理由は我が党がリコールをやる必要がなくなった。」
         「リコールは百人委員会が一致してやってもらいたい。それが最低条件である。」
         「市民がリコールをやることになれば、それを見殺しにすることはない。」
       と。
       共産党系と反峯山会長グループ・リコール急進派が、リコールに打って出るのが固
       まったのだった。

   

23_06. 11年間もの小樽運河保存運動、その「終わりのはじまり」だった。
 

 小樽運河百人委員会の政治的分裂という言葉が、浮上する。

 ほんの1〜2ヶ月前は、小樽運河百人委員会ではなく、小樽運河を守る会の政治的分裂状態に苦労する日々だった。
 小樽運河を守る会では、
   「ただ運河が、残ればいい」
とする、それまで内部では「凍結的保存では小樽運河保存運動の展望はない」と既に決着のついていたが故に相手にされなかった少数派がいた。
 十万名署名の高揚で、小樽運河保存運動に乗り遅れてしまうと位置を失うという危機感で土足で乗り込むように登場した共産党系労組員と元小樽運河を守る会事務局長・藤森茂男氏の登場に息を吹き返し、そして我々が小樽運河百人委員会対応で奔走していて小樽運河を守る会運営が手薄になった状態を狡猾に利用し、「反峯山会長の一点」で野合・糾合し小樽運河を守る会を混乱に落とし込めていた。
 意識的に結論を出させない堂々巡り戦術の論争に必死に耐え我慢し、共産党系と反峯山会長グループが一体となって憎悪と敵意をむき出しにする「いいがかり」に近い組織原則論に終始する反峯山会長グループに、峯山会長支持グループは耐えに耐えたものだった。
 しかし、それまで培った本質的主導権と小樽運河百人委員会としての町への攻勢さで、峯山会長支持グループはイニシアティブを発揮していた。 
 だから、どんなに対立を深めても反峯山会長グループは、小樽運河を守る会から席を立てなかった。 
 小樽運河を守る会の創設者の一人という権威だけで10年の小樽運河保存運動でその初期三年間を牽引したが、その藤森氏が召還した後の7年間の苦闘を乗り越えて来た「運河の峯山」という運動内外の評価と信頼は揺るがず、藤森茂男元事務局長をしても小樽運河を守る会を「簒奪」できなかった。
 小樽運河を守る会の主導権争奪を目指していた「反峯山会長グループ」が、席を蹴ることは彼らの消滅を同時に意味していたから。 

 しかし、その混乱の場が小樽運河百人委員会に持ち込まれて、小樽運河保存運動が再び混乱するのを意味した。 
 それが、現実に進行してしまっていた。

 6月21日、共産党系市議が朝日新聞小樽支局記者に語った言葉が、私たちを緊張させた。 
   「我が党がリコールをやる必要がなくなった。
   「市民がリコールをやることになれば、それを見殺しにすることはない。
とする、共産党系市議の発言だった。

   「独断専行の誹りを受けてでもやらねばならなことがある
と息巻いていた、その裏にある焦りが消えていた。
 ということは、何を意味するか。
 リコール発動の旗頭に共産党系ではない人物を確保でき、共産党系が「独善的突出」を非難されないで済むレールが惹かれた、ことを意味した。

 小樽運河百人委員会でイニシアティブを確立したいが、依拠する部隊がなかった村上代表幹事が、その依って立つ基盤を反峯山会長グループに求め、その反峯山会長グループを裏で支えていた共産党系に依拠することを、明確に決めた瞬間だった

 日産自動車系労組で活動し反共主義者であった村上勝利氏が、共産党と手を組んだ、本人自身の劇的変化であった。
 政治的無節操が極まり、代表幹事の代表というポジションにこだわるだけの人間の行き着く先だった。 
 小樽運河保存を巡る路線の違いという高尚なものではなかった。
 守る会内反峯山会長グループは、それまで峯山会長支持グループへの対抗上「リコール反対」を叫び、それが今では、臆面もなく小樽運河百人委員会では「リコール早期発動」を叫んで、村上代表幹事と糾合する。
 小樽運河を守る会を混乱させた唯一の理由がそうであったように、今度は小樽運河百人委員会を、主導権争奪の場としていた。
 いよいよ、小樽運河を守る会・反峯山グループと小樽運河百人委員会内リコール強行派が野合し、「リコールを発動」でもって主導権を掌握しよういう、彼らからすると大勝負をかけてきた、と私たちは緊張した。 

 市内松田ビル(旧三井物産ビル)に、「R企画(リコール企画)」と銘打った、反峯山系リコール急進派の事務所が秘密裏に開設された。
 そこに藤森茂男:元小樽運河を守る会事務局長、
 佐藤純一:小樽運河を守る会事務局長代行、
 北村聡子:小樽運河を守る会副会長、
 北村哲男:小樽運河を守る会、
 森本光子:小樽運河を守る会副会長
など反峯山会長グループと共産党系労組幹部が出入りしているという、情報も入っていた。
 市民運動と大衆運動にとっても本来最も避けねばならない秘密主義と陰謀主義が、いまや小樽運河を守る会内反峯山会長グループの体質となり、いよいよ行動として現出した。

 峯山支持系リコール慎重派の会員が、村上代表幹事に、 
   「明らかに共産党系が出入りするような事務所を秘密裏に構えるのは、文字通り共産党の突
    出と映る。それでは、リコール成立の要である保守層や経済界から反発が生まれ、リコー
    ルに尻込みする理由を与えるではないか。」
と忠告すると、
   「共産党は駄目というのがおかしい。 
    共産党は我々(反峯山系リコール急進派)の旗揚げを理解し、全面的に支持してくれてい
    る。
    我々が同党に利用されるようなことはない。」
と豪語した。

 利用したか、利用されたかがわかるのにそんな時間は必要なかった。 


23_06. リコール急進派6月28日リコール発動表明、押しとどめる手立てはなかった・・・

 この喧嘩別れに近い6月18日のリコール準備会から、互いに水面下での説得工作と綱引きが潜行して進められていた。
 一〇日後の、6月28日。
 共産党系とリコール急進派から
   「話し合い調整をしたい」
と連絡がきた。

 実は、小樽運河を守る会・小樽運河百人委員会・夢街のリコール慎重派は、18日のリコール準備会を受けて翌日6月19日、打ち合わせを持っていた。
 当然、テーマは「リコール発動時期」だった。
   「小樽の夏の最大イベントの潮まつり(7/27〜29)が終わったあとに」
という考えが、出された。
   「その時期なら、小樽博に対する市民の不満が高まっていく。
    小樽運河百人委員会のリコール表明が『小樽博を妨害した』という道路促進派のためにす
    るキャンペーンも、この時期ならもはや理由にならない。
    赤字で小樽博が終了するのも目に見える。
    市民の理解は、今とは違ってくる。」
という判断だった。
 しかし、その判断が反峯山会長・リコール急進派を説得出来るか、目がつり上がっている村上代表幹事を落ち着かせることが出来るか、そしてリコールの主導権だけを目的にする共産党系を押さえつけられるか、だった。
 会議は重苦しい雰囲気で終わった。

 そしてその6月19日夜に、小樽運河を守る会・幹事会が開かれた。
 反峯山会長・リコール急進派は、峯山会長を責め立てた。
   「峯山さんがやる気になれば、リコールは勝てる。」
   「峯山さんは、リコールをやると言ったのに、今になってやらないと言うのは、卑怯であ
    る。」
と、罵詈雑言を浴びせてきた。
 もはや、リコール発動の即実行を論理的に展開し、こんこんと峯山会長を説得するなどという姿勢は1ミリもみられず、前日18日のリコール準備会での村上代表幹事の怒号での退席の空気を引きずったままのテンションで、罵倒するための会議だった。
 それは、もはや反峯山会長・リコール急進派は近々独断専行で「リコール見切り発車する」とする予兆でもあった。

 それから一〇日後の6月28日だった。
 リコール急進派から、峯山会長や小樽運河百人委員会のリコール慎重派のリコール準備委員会メンバーに連絡が入る。
   「意見調整をしたいので、ともかく集まってほしい」
との内容だった。
 早速、手配して情報を収集した。
  
 このリコール準備委員会メンバーに連絡をしてきた段階で、反峯山会長・リコール急進派は各報道機関に対し、
   「同日夜、リコール問題で重要な発表をする
と伝え、それが報道機関から即リコール慎重派に知らせが入った。

 午後6時から非公開で、リコール準備委員会が始まる。
   「本日、リコール準備委員会終了後、即別室で「志村市長解職請求表明(「リコール声
    明書)」をリコール準備委員会・世話人代表村上勝利がをプレスに発表する」
とする提案をしてきた。
   「リコール準備委員会だけでリコール発動という重大問題を決定する権限があるのか、共産
    党主導のリコールは大変まずいし、時期尚早だ。」
と、説得するリコール慎重派に、
   「今、立ち上がらねば」
を繰り返すだけで、峯山会長に、
   「やってくれますね」
などと同意を無理強いするだけだった。

 苦渋のリコール慎重派が、
   「こんな態勢で、勝てるとでもいうのか」
と呻くように声をだすと、村上代表幹事は、
   「私一人でもやる覚悟です。」
と、再び激高して叫ぶ。

 もはや、押しとどめるのは無理と判断するよりなかった。
 リコール慎重派は、話し合いに区切りをつけ、慎重派での対応策を検討するとし退席した。
 リコール準備委員会の8人の内、5人がプレス会見に臨むといい、慎重派3人が退席した。

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23_08. 共産党系とリコール急進派だけのリコール発動プレス会見

 午後8時半、R企画とは別室に村上代表幹事ら五人の反峯山会長・リコール急進派だけが姿を見せた。
 報道機関のフラッシュが、こわばった表情の村上代表幹事を浮き上がらせる。
   「今、私たちが立ち上がることが、市民の共感を呼ぶものと確信する。」
   「一週間以内に、小樽市選管に(志村市長リコールの)届け出をする」
   「7月3日にリコール実行委員会を(発足)開催する。
    このリコール実行委員会は、リコール実施のために新しくつくるもので、小樽運河百人委
    員会とは別組織である。」
 
 そして、リコール準備委員会・世話人代表村上勝利名で「リコール声明書」をマスコミに配布した。

 報道機関から、次々に質問が浴びせられた。
   「これまでリコールに慎重意見の委員がいない。
    慎重意見の委員が抜け落ちた、変則的な旗揚げの印象を受けるが?」
という質問に、
   「リコール準備委員会の多数決、5:3で決めた。」
   「これ以上ずるずると延ばすわけにはいかない、やむにやまれずと踏み切った。」
と、答える村上代表幹事に、報道側は、
   「八人の内五人が賛同したというが、この種の問題でこうした決定方法が小樽運河百人委
    員会全体の理解をえられるのか?
との質問に、村上代表幹事は、声を荒げ 
   「小樽運河百人委員会は、リコール準備委員会の決定に従う。」
と言い返し、プレス会見を打ち切った。

 TVカメラの前で顔を紅潮させ緊張した表情の村上代表幹事の横で、ついにスポットライトが当たる立場になったとでも言うように、北村聡司子・小樽運河を守る会副会長の、引き攣ったつくり笑顔が映っていた。
 翌、6月29日新聞各社やマスコミは、
   「リコール発動表明」
を大きく報じる。
 
 新聞を読みながら、砂利を噛むような気分だった。
 反峯山会長・リコール急進派は、そのマスコミ報道によって広まる波紋が、とりわけリコール慎重派にどのように波及するかを探り、一縷の望みをもっていた。
 ここまでくれば、リコール慎重派もやむを得ず「リコール発動」に転換するだろう、と。
 しかし、「成りゆきでのリコール」などに勝算があるわけがなかった。

 リコール慎重派はそれでも「リコール発動表明撤回」で説得を続けた。
 反峯山会長・リコール急進派自身、その物言いの中に、小樽運河を守る会「反峯山グループ」、共産党系労組、共産党系文化団体だけでの共産党色の色濃いリコール発動ではなく、多くの支持者をもつ峯山会長グループの取り込みが必須であり、とりわけ「運河の峯山」の取り込みがなければ大義がたたないことを計算していた。

 しかし、私には、もはや意味のない説得だった。
   「リコール発動表明」
を阻止出来なかった瞬間、小樽運河保存運動がリコール強行派によって敗北させられ潰された、としか思えなかった。
 もはや撤回しようがしまいが、「リコール」そのものだけでなく、小樽運河保存運動の全ての「流れ」が雲散霧消してしまった。
 市民運動のダイナミズムの流れには「潮目」がある
 その潮目が完全に変わり、逆流することもある。
 完全にその潮目が変わった
 
 小樽運河百人委員会・代表幹事・村上勝利氏をして「リコール発動」を表明させ得た共産党・大原登志男市議は、
 「リコール準備員会の八人全員がリコール発動を一致してやること。
  その可能性はまだある。」
 「喧嘩し分裂してでもやれ、とはいわない。
  が、リコールはやろうと思えば誰でもできるわけで、誰かがやると決めたら支援
  態勢を組む。」
と、リコール発動表明をもって、リコール慎重派、とりわけ峯山冨美・小樽運河を守る会会長を意識した揺さぶりを、この後に及んでもかけていた。
 実に、極楽蜻蛉的の政党利害の思惑だけが露骨に見える。

 その峰山冨美・小樽運河を守る会会長・小樽運河百人委員会代表幹事は、
   「保存派がやるリコールの姿ではない」
   「人間的な不信感が強く、個人的感情で左右されるリコールのどこに意味があるのでしょ
    うか」
と、明確にリコール発動表明を批判した
 小樽運河百人委員会の北教組関係者は、
   「そもそも小樽運河百人委員会としてのリコール実行委員会の旗揚げとは全く言えない。
    この種の問題を決めるのに、そもそも多数決はなじまないし、重要課題は小樽運河百人
    委員会に諮り、全会一致でやることを確認している。
    リコールの是非そのものより、ここに至ったプロセスに問題がないか。」
とし、社会党小樽総支部幹部は、
   「多数決で決めるようなものではない、愚挙だ。」
と、痛烈に批判する。
 リコール慎重派の大部分の意見はこうだった。

 6月29日、反峯山会長・リコール急進派は、リコールに踏み切る際の手続きの照会のため小樽市選挙管理委員会に下調べにいく。
 と同時に、札幌の小樽運河問題を考える会関係者に会いに行き、丁度6月15日から20日まで札幌で開催されていた小樽運河保存のための「全国色紙展」で得た収入を
   「リコールの運動資金として提供を」
と談じ込み、ここでも顰蹙を買っていた。

 6月30日、反峯山会長・リコール急進派の代表となった村上氏は、
   「小樽という『まち』は、何かやろうとするとそれを潰そうとする。
    しかし、リコールに激励の電話もある。
    峯山さんらも必ずついてきてくれる、と思う。」
と、この後に及んでもまだマスコミを通じて、峯山冨美会長に伝わるような発言をしていた。
 村上氏らについてくると想定していたリコール慎重派が、まったくその姿勢を変えない処か、反峯山会長・リコール急進派への「撤回」説得をしてくるのに業を煮やし、
   「リコール請求届けは、7月5日前後になるのでは。」
と、リコール慎重派に向けて無謀なサインを送ってくる。
 
 様々な勢力が、反峯山会長・リコール急進派への説得工作が続けられた。
 小樽商科大学の運河問題に携わってきて教官有志も説得を続けた。
 小樽商工会議所首脳も説得に乗り出す。
 が、そこで、
   「(リコール発動に)今の時期がまずいというのであれば、いつがよいのか?
    その時期を文書で確約してくれれば、それまで待つ。」
と、マンガ的な条件を真顔で言ってくる始末だった。
 その報告を聞き、実に寂しい乾いた笑いが自分の口から出るのに驚いたものだった。
 そのような条件提示は、もう反峯山会長・リコール急進派の「腰砕け」が露呈していることの照明だった。
 そもそもリコール発動時期の確約を文書でなどという条件を出すことこそ、自らのリコール発動声明の不発を露呈していた。
 
 リコール強行派のなかに、
   「このままで、リコールに突きはしれるのか
と口にする者も現れて、足下で動揺が現出していた。

 6月28日の「リコール発動表明」の際にプレスに公表した「リコール実行委員会」設立日の7月3日が迫り、運河問題に携わってきた小樽商科大学の教官有志の説得が続いた。
 しかし、7月3日のリコール実行委設立直前まで続いた説得は、聞き入れられなかった。

 村上代表幹事が、商工会議所首脳の保存のへの大転換を受けて「勝手連」的に小樽商工会議所首脳大転換支持署名を始めた商店街のとある店主が、
   「共産党勢力だけと提携してのリコールなど、足し算引き算もできないのか。
と怒っていた。
 村上氏自身が依拠すべき商店街でも、この反応だった。
 

 7月3日の夜、R企画でリコール準備員会が開催された。

 リコール慎重派の峯山会長や山口らは、出席しない。
 慎重派の中で、ただ一人だけが参加した。
 一方、反峯山会長・リコール急進派は、村上代表ら反峯山会長・リコール急進派の他には、共産党系と小樽運河を守る会・反峯山グループだけだった。
 他の小樽運河百人委員会会員や新たな市民の出席は、・・・皆無だった

 会議では、
   「商店街の店主などの反応は冷え切っている。
    以前は支持してくれた商店主たちも、顔を見ると背を向けるようになっている。
    『革新系政党がらみ』が、表だってしまったことへの反応だ。
    商店主などの保守層の支持がこうまで冷え切ってしまったら、リコールは勝てない。
と、反峯山会長・リコール急進派の中から慎重意見が出た。
 
 会議は終始重苦しい空気で、28日の表明通りにリコール発動決定をとする意見は、誰からもでなかった。
 出席した共産党系から、居たたまれずにか、
   「こんな結果になって、どう責任をとるのか
という言葉が、ついに出た。

 誰に向かって放った言葉だったっか? 

 彼らが目論んだ
   「リコール発動表明にはリコール慎重派もついてこざるを得ない
とする勝手な思い込みやそう踏んだ自分たち自身の甘さへの憤り、そして一般市民からの痛烈な反応へのショックとが入り交じったこの発言。
 これがこの会議の全てをもの語っていた。
 彼らの一方的な読みが崩れ去った瞬間だった。
 トドメは、
   「みんながリコールをやるというのなら、やる。
    やめるというなら、やめる。
とする、共産党系の発言だった。
 
 機を見ることにだけは敏な、共産党系の姿が露呈した。
 もう責任回避にひた走る共産党だった。
 政党としての主体性をかなぐり捨てる発言だった。

 村上勝利「リコール準備会・世話人代表」も、その共産党系の言葉にはさぞや絶句し、驚愕したにちがいない。
 身の丈を忘れ過信した結果だった。
 北村聡司子・哲男親子は、何も言わなかった、という。
 何が起きているのかわからなかったに違いない。
 藤森茂男氏がその会議に出ていたか、聞くのを忘れていた。
 
 所詮、嫉妬・羨望・憎悪・怨念での野合糾合の徒である反峯山会長・リコール急進派が、党派利害の前では何もなしえないのは歴然だった。
 この会議は、非公開だった。
 そして外にはプレスが待っていた。
   「意見調整がまだ必要なため、リコール実行委員会の発足とリコール発動することを若干
    猶予する。」 
   「猶予の期間、調整の見通しについてはコメントを差し控えたい。
    しかし、リコールの受任者確保などはこのまま継続していく。」 
と、プレスの前で、疲れ果てて虚脱感を漂わせて一人語る村上氏がいた。 

 一気に流れが変わる。
 7月5日に小樽運河を守る会幹事会、7月13日に小樽運河百人委員会緊急会議が開催された。
 両会議とも、
   「いま、リコールに踏み切るのは時期尚早」
という意見が、多数を占めた。
 反峯山会長・リコール急進派もさすがにここにきてエネルギーは枯渇した。
 
 そしてこの2つの会議の間に、第7回目のポートフェスティバルが7月7〜8日の二日間開催されていた。

 反峯山会長・リコール急進派の「リコール発動表明」騒動がなければ、このポートフェスティバルがリコール投票を「イベント型イメージ選挙」で展開する、その景気づけの大事な役割をもつ位置を、当然占めていた。
 そもそも、市民不在の道路促進派と小樽運河保存派のせめぎ合いのなかで、何とか少数派市民運動に転落した小樽運河保存運動の裾野を拡大するとしてスタートしたポートフェスティバルだった。
 大学祭に毛の生えたイベントから、第7回では、二五万人の来場者と中央橋から月見橋の小樽運河を一周する400軒のコンパネ1枚幅の出店(でみせ)会場、艀(はしけ)会場、ロックステージ、ちびっこ広場がその年も、会場となる。
 小樽運河と周辺石造倉庫群の沿道を祭り空間とし、その賑わいと活気づくりで市民を小樽運河に誘い、400軒の出店は運河と石造倉庫が保存・再生・再活用なったイメージを感じてもらうとすることで、成長してきた「まちづくりイベント」だった。 
 そして過去6回、「運河保存を、一切口にしない」で、ポートフェスティバル会場を市民の皆で考える「場」にして欲しいとし、自らは市民が『まち』にもの申せる「場づくり」に徹してきたポートフェスティバルだった。
 が、実行委員会総会をイベント前に開催し、初めてポートフェスティバル全体として「運河保存」を宣言し、『まち』をパレードしアピールした。
 そのポートフェスティバルも、
   「勝てる展望のないリコール発動表明」
に懸念を表明していた。
 例年にない市内外からの来場に、運河と石造倉庫群と人いきれが照明に浮かび上がっていた。
 
 このポートフェスティバルの五日後、7月13日に小樽運河百人委員会の緊急会議がセットされた。
 それに合わせるかのように共産党小樽地区委員会は、
   「市長リコール運動についての見解」
なるアピールを発表する。
   「(最初に党自慢をし・・・)、市政全般の民主化を目指す革新の党とし、リコールに立ち
    上がった市民に支援を惜しまないのは当然の事です」

   「(リコールを)急進させたのも、足を引っ張ったのも共産党であるかのような宣伝はまっ
    たく事実に反しためにする悪質なものです。 
    わが党はリコール準備会への参加要請にこたえ、準備会の一員として、他の団体や個人と
    対等平等の立場を堅持し、リコール成功のために努力してきました。」

   「一部のマスコミは『革新勢力の党派的思惑』が『対立に複雑な陰を落とした』とか、『慎
    重派が急進派に神経をとがらせた』のは、『革新勢力の思惑に左右されることへの警戒も
    あった』などと書いてます。 
    だが共産党に関する限り、市民の利益と離れた党利党略的な『思惑』など存在しません。」

   「五者会談を巡る情勢をどう評価し、リコールをいつにするかー共産党の判断を、市民グル
    ープに押しつけようとはさらさら思いません。
    それはリコールを呼びかけ、かつ知事斡旋に応じて五者会談のメンバーとなった団体と、
    そのリーダーの責任に属する問題です。」

   「共産党は呼びかけに応えて準備会に参加した以上、信義をつくし、どんな困難でも誠実に
    支援協力します。
    だがリコール成功のためにも、呼びかけた側の社会的責任と信義からいっても、市民グル
    ープの現状ー「分裂」状態はなんとしても解決されなければなりません。
    一刻も早い団結の回復を期待するものです。」

 「さらさら」とか「誠実」という表現をする文面が、この党の一番弱点の箇所である。
 それは「押しつける」とか「信義」などという、言葉を裏切って使用される際に必ず付けられる表現でしかありえなかった。
 リコールをいつにするなど押しつけたことはなく、その責任はリーダーにある、と。
 リコール慎重派にこの文章を追求されれば、その責任は村上代表世話人だとする。
 リコール急進派に追求されれば、その責任は峯山会長だと言うことが出来る。
 徹底的に共産党の責任だけは回避したいとする文章づくりだった。
 共産党関係者にしか通用しない「共産党言語」だ。
 
 こうして、自らの犯した行為を消し去り、その責任を回避する、この党の面目躍如たる文章だ。

 7月13日の小樽運河百人委員会緊急会議で、反峯山会長・リコール急進派はブレーキを踏み、態度を変えた。
   「『リコール発動時期の判断が謝った』のではなく、保存派がまとまらなければ小樽運河全
    面保存は達せられないから、『時期の問題は慎重派に譲った』のだ。
と、いうような漫画的な理屈を言い始める。

 もはや、反峯山会長・リコール急進派に付き合っていく忍耐力はなかった。


23_10. 最後の第三回五者会談と僅かの可能性

 「リコール発動表明」に走った反峯山会長・リコール急進派は、完全に自爆した。
 この後に及んでまで、自分たちのポジショニングだけを必死に維持しようとする、見苦しさだけがそこにあった。
 暑さのなかで、背筋に寒気が走る夏だった。
 
 五者会談という公式の共同のテーブルに着いていて、第2回まで会議を継続していて、そんな中での「リコール発動表明」だった。
 市民運動の論理では、席に着いたものに後ろから矢を射る行為、大義にもとる行為を反峯山会長・リコール急進派はしてしまった。
 どんなに守勢に回ろうとも、もう駄目かという局面であっても、これまで小樽運河保存運動は市民運動としての大義もとる行為は、過去10年とったことはなかった。
 
 しかし、小樽運河保存運動の1部分とはいえ、一方的にリコール発動表明し、小樽運河保存運動を分裂状態に陥らせた反峯山会長・リコール急進派の責任を抜きにしては、五者会談に臨むことなどできなかた。
 道路推進派と運河保存派が向かい合って座る席で、隣に匕首をテーブルに突き立てて座るのが仲間だといえるのか、だった。
 
 反峯山会長・リコール急進派の状況がどうであれ、小樽運河保存運動側は第3回の五者会談に臨む姿勢を整えなければならなかった。
 6月15日の第2回五者会談からゆうに一ヶ月は過ぎていた。
 とても五者会談開催を求められる状態ではなかった。
 本来、第3回目は7月初めに開催と予定されていたのだったが、7月3日をしてリコール実行委旗揚げという表明によって延びに延びていたのだから。

 リコール準備会が、7月20日開催された。
 小樽運河百人委員会側は、
   「リコール時期を決めるまでリコール準備会の行動を全面的に停止する
と提案し、確認される。 
 続いて7月23日の小樽運河百人委員会・総会で、第3回の五者会談開催を求めることを確認する。
 その場で、リコール強行派の五者会談出席者問題が話された。
 小樽運河百人委員会は、反峯山会長・リコール急進派は出席を責任上遠慮するべきとした。
 村上世話人代表の口から、この後に及んで出た言葉が空しく響いた。
   「我々の責任を追及するのであれば、徹底的に闘う。
    我々は正しかったことは時間が証明する。
    我々に対する説得こそ問題だった、と言わざるをえない。
 暖簾に腕押し、糠に釘、蛙の面にションベンだった。
 会議をすればするほど、消耗感だけが濃厚に澱のように蓄積するだけだった。
 そんな村上氏の出席問題で会議を続けるのは無駄だった。 

 そもそも、6月28日の反峯山会長・リコール急進派の「一週間後にリコール発動」表明は、利敵行為そのものだった。
 
 「反横路知事道政」を一大政治路線に共産党北海道委員会が採用し、その思惑が彼我の見方を根本的に誤らせ、「横路知事仲介」という五者会談を成果のない結果に終わらせることが至上目的となっていた。
 その結果が、ただただ運河埋立派を利するだけのものとなるのを気にもかけない共産党にしていた。
 党というのはこのような犯罪的役割をもしてしまうものだ、という証左だった。
 喜んだのは、運河埋立派だった。
 「リコール発動表明」は、運河埋立派をして面倒な五者会談の開催を受けないですむ口実をただ与えるだけだった。
 運河埋立派は、さぞやほくそ笑んでくれただろう。

 彼らの最も不得意とし、理解不能でどう発展するか読めない展開をしかねない市民運動が、かってに目の前で分裂し自壊してくれるほど、楽なことはなかった。
 
 この20日のリコール準備会と23日の小樽運河百人委員会の総会の間の21日に、自民党箕輪登代議士後援会主催の時局講演会があった。
 当時、毒舌を売り物にしていた評論家・竹村健一氏がその講演で、
   「古いものはいったん壊したら元に戻らない。
    運河を残し、その上で方法を考えて、道路を作ればいい。
    西武が運河を残して再開発をすると言っている。
    その民間活力を利用し、運河を遺す方が、得策ではないか。」
と語り、自民党を慌てさせた。
 が、今や運河埋立派にとっては、痛くも痒くもない一評論家のエピソードと笑って済ませられるわけだった。
 
 7月末から8月にかけて、小樽は30度を越える日々が続く暑い夏だった。
 が、私には寒気を感じル真夏でしかなかった。 
 五者会談は、8月17日と決まった。
 7月23日の小樽運河百人委員会の総会で、五者会談「開催要望」をすると決めて以降、もはや、反峯山会長・リコール急進派と慎重派との話し合いは、水面下でも「あり得なかった」。
 
 すでに6月28日のリコール発動表明の翌日から、反峯山会長・リコール急進派内部で動揺と離反が始まっていた。
 共産党系はそれを見て、リコール発動表明というハネアガリ的突出の責任を免れようと、全面撤退、全面逃亡を謀っていた
 逃げたくても逃げれずにその責任を問われた村上世話人代表が、いくらリコール慎重派との徹底抗戦を一人叫んでみても、後ろを振り向くとついてくるものはわずかだった。
 
 戦力というのも恥ずかしい、市民と『まち』に説得性を一切もたない小樽運河を守る会の反峯山会長・リコール急進派しかいなかった。
 完全に遅きに失していたが、村上世話人代表は、そこに露呈している自身のリーダーシップ不在という、どうしようもなく情けない事実を思い知らされた。
 そのような反峯山会長・リコール急進派との話し合いなど、もはや1ミリも意味がなかった。
 
 板場で寡黙になった私に、父は、
   「所詮、『まち』での位置取りしか頭にないものたちだっただけだ。
    そんな彼らが運河埋立派にカネで絡め取られなかっただけでもいい、と思うよりない。」
と、声掛けしてくれたが、一層哀れな気分にかしならなかった。

 我々にあったのは、彼ら反峯山会長・リコール急進派のハネアガリ的行動を許してしまったことに対する身を捩るほどいたたまれなさだった。
 小樽運河保存運動のほんの一部の、嫉妬と羨望と欲望だけのハネアガリ分子に小樽運河が潰されるのかと、この町の『誰より』も『運河からのまちづくり』に対し重い責任をもっているとする「有責感」だけだった。

 小樽博は、終盤を迎えていた。
 終盤になればなるほど、ますます完全に赤字になると市民の誰もがわかるほどだった。

   運河問題や小樽博だけではなく市民の反志村市政意識を醸成し、
   あと一〜二回の五者会談で、我々の小樽運河保存再生再活用プランを徹底的に提出しきり、
   運河埋立の問題点をえぐり出し、
   運河埋立派の非を徹底的にあばき尽くし、
   それを市民に公表し、
   あわよくばその非を責め立てられて席を運河埋立派が蹴れば、
   リコール表明に結びつけられる、
   とする僅かな可能性の追求のシナリオだった。

 それが、6月28日リコール発動表明で、伝家の宝刀であるリコールが汚辱にまみれてしまったいた。 
 小樽市民にとって初めてのリコールが、彼らの手で汚されてしまっていた。

 開催される第三回五者会談、それは我々の11年の小樽運河保存運動の最後の意地で参加する会議、・・・でしかなかった。


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 8月17日がきた。
 市民会館で、第三回五者会談が開催された。
 
 小樽運河を守る会・企画部長・石塚雅明は、滔滔と運河保存再生再活用プランを展開した。 
 それは2つの柱だった。

 (1)
  運河を埋め立てて六車線の道々小樽臨港線を建設する規定計画に代え、運河の海側にある市道
  港線を代替え道路として利用し、市道港線で四車線、既存の運河沿いで二車線を確保する。
 (2) 
  全面保存した運河地区を市民や旅行者の憩いの場とする他、港湾の埠頭を商業や文化的機能を
  持たせた地区、都市機能を導入し再開発する。
だった。 
 最初の(1)は、今まで小樽運河保存運動が主張してきた主張だった。
 が、(2)が、我々の狙いだった。
 小樽運河保存運動で、我々は「港湾」の既得権益に触れる主張は、極力避けてきた
 未だ『まち』に勢力を持つ港湾倉庫業の既得権益に触れるプランを主張すれば、道路問題だけではなく港湾問題という二大テーマを小樽運河保存運動は抱えることになり、運河埋立派の抵抗は倍になるし、小樽運河保存運動の主体的力量では道路問題だけで精一杯、とする政治敵判断からだった。
 しかし、もはやそのような政治判断をする必要は、なくなった。
 この
   「埠頭や港湾地区への都市機能の導入」には、港湾倉庫業界は自らの既得権益防衛のため
    に絶対に認められない。
    そこを突き、論争に持ち込み、彼らの既得権益を軸に進め、五者会談の席を彼らの方か
    ら蹴らせる、シナリオの一つ

だった。

 実は、この石塚雅明・小樽運河を守る会企画部長の
   「小樽運河保存再生再活用プラン」
は、知事サイドに第二回五者会談後に提示され、知事周辺はそれを了解していた。
 これでもって、小樽運河埋立派を説得しなんとか進捗した埋立工事を延期させるとする細い糸のような可能性を求めたものだった。
 しかし、反峯山会長・リコール急進派の発動表明とその後の混乱から五者会談は開催不能状況で、8月上旬には
   「保存の方向性を五者会談で模索するのは困難」
とする判断がされるようになっていた。
 進行役の新谷昌明・道公営企業管理者は、
   「ユニークで実に夢の多いプラン」
というだけで、運河埋立・運河保存両派の歩み寄りなどありようもなかた。
 新谷氏は、
   「明日18日も引き続き会議を開催する。
    これが五者会談の最後になると思う。」
とした。

 17日の五者会議後、会談内容を山口に聞くと、
 「石塚は、それは見事に展開しきった。」
と一言だけだった。
 それを聞いて、頷くだけの私だった。
 五者会談報告は、その会話で終わった。
 それ以上聞いても意味がなかった。
 
 が、流石の山口も開いた口がふさがらない事態が、実はあった。 
 17日の五者会談で石塚雅明氏がそのプランを説明しようとした際、突然村上リコール準備会世話人代表が、それを押しとどめる行為にでた。 
 要は、
   「運河埋立派と妥協を謀るようなプラン内容ではないか
とする疑心暗鬼からだった。 
 ここにいたって、埋立派とどんな妥協の可能性があった、というのか。 
 恥ずかしいことに、運河埋立派の着席する目の前でだった。 
 見苦しさだけは、最後の最後まで一貫していた。
 品格なくして運動なしという概念は、氏には元々存在していなかった。
   「勤勉は、馬鹿の埋め合わせにはならない。
    勤勉な馬鹿ほど、はた迷惑なものはない。
」 
という、ホルスト・ガイヤー「馬鹿について」を思い出した。
 
 山口も、この事態には流石に触れるのもイヤだったわけだった。


23_11. 待っていたのはあなたじゃない。

 翌8月18日、横路知事が五者会談に出席した。 
 五者会談終了のセレモニーだった。
 そして、11年間継続された小樽運河保存運動の終焉の場だった。
 横路知事は、
  「小樽運河と港湾地区の再開発について考える小樽市活性化委員会の設置を提唱する。
   埋立・保存両派の合意が得られず、埋立工事を続行する
と締めくくった。
 
   「待っていたのはあなたじゃない。」
と後に、札幌・小樽運河を愛する会会長で、藤女子大の小笠原克教授が、北海道新聞に投稿する。 
 
 待つまでもなく、我々は立ち去るだけだった。

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 8月24日、小樽運河を守る会・幹事会が開催された。
 もはや、死に体の小樽運河を守る会だった。
 TVカメラが、新聞報道が、押しかけていた。
 皆の目が集中するなか、峯山冨美会長は立ち上がった。
   「多くの人々の支援を受けて運動を続けてきましたが、期待にそえず残念です。
    住民運動はお互いの理解と連帯がなければ育たない。
 会長辞任の表明だった。
 
 声は涙で枯れ、その姿をカメラは執拗に追った。
 その場に出席していた三〇人近い会員が、冒頭挨拶を終えた峯山冨美会長の退席に従った
 反峯山会長・リコール急進派だけが、席に残った。
 その残った彼らの姿を、TVカメラも・・・追わなかった。
 TVカメラも報道も、彼ら反峯山会長・リコール急進派をその場に残し、退席する峯山会長ら峯山会長支持グループを追いかけた。

 そして一週間後の9月1日、小樽運河百人委員会総会が開催された。
 同会は八月末、全メンバーを対象に「百人委員会解散に関するアンケート」を発送、実施していた。
 アンケートにはメンバー97人のうち59人が回答を寄せ、51人が解散賛成、8人が反対、3人が無効だった。
 当日は、約30人が出席。
 解散論議も相変わらず紛糾し、議長が採択を提案し、解散賛成が多数を占めた。
   「運河保存への広汎な市民の支持を集める」
との設立趣旨と機能は、もはや喪失していたのだから、運動体として機能しない小樽運河百人委員会は、存在意味はなかった。
 小樽運河百人委員会が解散すれば、自らの依って立つ唯一の基盤が失われる村上代表幹事は、それに真っ向から反対した。
 見苦しさだけは、天下一品の人になっていた。 

 それから約二ヶ月後。
 10月28日、市内の花園スポーツセンター(現・花園グリーンロード)で、反峯山会長・リコール急進派の集会が開催された。 
 全動労などの共産党系労組団体や文化団体のノボリだけが目立ち、小樽運河を守る会の反峯山会長・リコール急進派は、その中に埋没していた。
 その場で「運河ニュース第591号」が配布された。
 そこには、藤森茂男・元小樽運河を守る会事務局長など反峯山会長グループの数名の対談が掲載されていて、峯山冨美会長支持グループに罵詈雑言を書き連ねていた。
   「小樽運河を守る会総会を招集・開催し、これからも小樽運河保存運動を継続して行く」
としていた。
 これとは別刷りのチラシでは、峯山前会長 を
   「裏切り者」
とし
   「運河を売り渡した張本人」
とまでする文面が踊っていた。

 が、以降、北村聡司子氏が会長代行となったこの残存部分での「小樽運河を守る会」を名乗る団体は、小樽の『まち』から姿を消し、二度と登場することはなかった。

 花園スポーツセンターには初秋の風が吹き、棄てられた「運河ニュース」やチラシが風に舞っているだけだった。

 そして、小樽運河にかかわる主体は、忽然と消えた


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     この項終わり
 ● 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ● 【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ● 【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
 ● 【私的小樽運河保存運動史】12.「贔屓の引き倒し」の運河条例直接請求署名
 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。