10万人署名事務所_198403
小樽運河百人委員会事務所 1984(昭和59)年

24_01. 何故、最高揚を迎えながら敗北せざるをえなかったのか

 概して、その運動を担ったものほどその運動が何であったのかを真正面から捉えなおそうとは、したがらない。 
 とりわけ、町並み保存運動や「まちづくり」市民運動は、その地域に地匍えで生活し日々顔を合わせる隣人同士のような関係の市民よって担われる分、
   「自分らが担った市民運動は、どのような歴史的、社会的意味があったのか
という面倒な世界は敬遠される。 
 又、市民運動経験が最初からあってまちづくり運動などに参加する部分は希である分、そのような意義付け作業に自分の意識を動員することがそもそも少ない。

 11年の小樽運河保存運動で、とりわけポートフェスティバルや小樽・夢の街づくり実行委員会など若者同士で語り会うとき、私が必ず口にしたのが、
   「小樽運河保存運動を勝利するためには、いかに『全国性』を保持するのかが問われる」
というフレーズだった。 
 固い言葉だと、
   「『普遍性を持ちうる運動になれるか』が勝利の鍵だ
とした。
 但し、「普遍性」などという言葉を使うと、ポートフェスティバルや夢街の若いスタッフにはまるで学校の「教師」や「風紀委員」の使う無味乾燥な言葉の印象を与えかねなかったし、又は学生運動用語臭いと敬遠されかねず使用するのを敢えて避けていた。
 が、小樽・夢の街づくり実行委員会やポートフェスティバルのスタッフに受け入れられなければ、どんな「言葉」も意味を持たなく、必死で思案し、
   「全国性
という、色のつかない言葉で代替えし表現した。 
 その
   「自分たちが発案し実施する様々な企画が、
     『全国性』
    という質を内包していなければ、又、表現し切れなければ、小樽運河保存運動の勝利を引
    き寄せられない。
    ポートフェスティバルそのものが、全国のまちづくり市民運動が興味や意味合いを持ち、
    惹きつけるような魅力と先進性をもつことだ。」
と、ポートフェスティバルや夢街の仲間に意識化してもらうために、語り続けた。
   「全国性を付与すること」と。

 「まちづくりの三大要素」という言葉がある。
 行政、経済界、市民が「まちづくりの三大要素」である。
 この三つが、それぞれしっかり存在しかつ有機的に連携してこそ「まちづくり」は成功裏に進捗し、そのどれかが欠けるとその展開は一時は成功しても発展性はない、という意味だった。
 小樽の場合、その三要素のうち、「行政、経済界」は小樽運河を全面埋め立て六車線の主要道々小樽臨港線建設を推進しようとしていた。
 それに待ったをかけた「(少数派)市民」という対立構造の街だった。
 その圧倒的劣勢を跳ね返し、突破する道は「市民」側が、
   「全国性」=「全国が注目する質」
を持ち得なければ勝てないし、勝負にならないと考えた。
 「全国が注目する質」を小樽運河保存運動やポートフェスティバルが持たなければ、発信出来なければ運河埋立派に対抗できないとした。
 ポートフェスティバルスタッフから、
   「始終、蕎麦屋親爺は『全国性って』と言うが、それは何か?」
と問われ、
   「そうさな、新聞記者に市内版・道内版ではなく全国版で紹介しなければならない、とそ
    う思わせる内容をポートフェスティバルに持たせることだ。
    しかも、そういう記事を記者に書かせ、記者がデスクに頑張って記事採用を主張するく
    らいの内容と質と個性をもたないとな。
    TVであれば、ゴールデンタイムのニュースや特番に放映されるような、そんな質を表
    現できる運動かどうかだわな。」
と、応えていた。

 では、小樽運河保存運動は、どのような全国性つまり「普遍性」を持ち得たのか?
 ここに一つの文章がある。

   ・・・「まちづくり」運動としての小樽運河保存運動は、
   行政手続きが全て完了した地方都市計画に挑み、
   市民サイドから代替道路案を提案し、
   外には市民意識を揺り動かし、
   内には小樽運河講座三期三十数回の開講に代表される主体の力量を蓄えなが
   ら、
   小樽運河と周辺の歴史的環境の保存再生を核とした『まちづくり』を提案し
   た。
   石油ショックや敵失で、ある時は首の皮一枚で生きのびてきた。 
   最後の勝利を確信したものなど、保存派内部にも少なかった。
   しかし、十三年の小樽運河保存運動は、
   会議所の「保存決断」を呼び、
   小樽の市民各界各層を網羅した百人委員会を結成させ、
   十万人署名を達成し、
   運動は最高潮をむかえながら、最後の高揚で終わった。 
   結論から言うと小樽運河保存運動は、
   小樽市、北海道どころか、建設省、運輸省、自治省、文部省、文化庁、環境
   庁という国の省庁を関わらせ、
   西武流通グループを関わらせ、
   田中角栄元首相まで関わらせる
   『超』市民運動、一大国民運動 の性格を持つに至る運動であった、
   といっても過言でない。
   
 全国町並み保存連盟がタイアップした「環境文化」(環境文化研究所刊)に掲載された宮丸吉衛氏の文章である。
 少々こそばゆいが、自分たちが言うより、この宮丸吉衛氏の文章こそが、一番端的に小樽運河保存の「全国性」と「普遍性」を表現しているだろう。  

 だが、市民運動も含めて大衆運動は、つねに流動的で一点にとどまることはできない。
   爆発が頂点に達すれば、崩れはじめる。 
   爆発と高揚が急速であればあるほど、その崩壊も急速である。
 1983(昭和58)年から翌年にかけての、小樽運河保存運動の最終局面での爆発的高揚と雪崩的解体はまさにそうであった。
 雑誌「環境文化」で宮丸吉衛氏が指摘する通り、
   「運動は最高潮をむかえながら、最後の高揚
で終わった。 

 何故、そのように最高揚を迎えながら敗北せざるをえなかったのか?
 多くの仲間とそれについて話し合ってきたが、その意見のなかで代表的なものをあげてみると、

  (総括の視点1)
    客観的には、あまりにも小樽運河保存運動の立ち上げが遅すぎた、といえる。
    市議会での道々小樽臨港線事業を阻止出来ないほどもう議会手続きが進捗してからの運動
    だったが故に最終的に敗北した。
  (総括の視点2)
    永年の斜陽、つまり街の経済的ポテンシャルが急降下し街への自信喪失となっていき、市
    民意識が生活を維持するのに必死で、街への無関心が蔓延していたから、11年間頑張っ
    たが結局敗北せざるを得なかった。
  (総括の視点3)
    北の1地方都市の行政、経済界、そして市議会を構成する各政党のあまりもの無能こそ
    が、小樽運河保存運動を敗北に導いたとする。
  (総括の視点4)
    (1〜3)の指摘はあまりにも客観的すぎるし、綺麗すぎる総括であろう。 
    もっと主体的要因にこそ求めるべきであり、あの最後の高揚にあまりにも間に合ってい
    なかった小樽運河保存運動だったのではないのか。
    要は小樽運河保存運動の主体に敗北の要因を求めるべきだ、とする。
  (総括の視点5)
    だったら、決定的に反峯山会長・リコール急進派にその敗北の一義的理由があるのでは
    ないか、彼らが敗北したのであって私たちが敗北したのではない。
  (総括の視点6)
    敗北だったのか?
    勝利とは言わないが、飯田構想が出た段階で小樽運河保存運動は成果を引きずり出し
    た。あの後の戦いは、更に勝利を完全なモノにしたい、ということだったのではないの
    か。

 ・・・いわゆる総括の視点は、挙げれば挙げるほど多々ある。
 が、綺麗にまとまったような総括が簡単に出るなら、そもそも私達に敗北感はないはずだ
 
 しかも、小樽運河保存運動が採用した「路線が破綻しての敗北」であれば、まだすっきりしていた。
 最後の高揚の最中の内部抗争が、小樽運河保存の路線や方針での相違ではなく内部のイニシアティブやポジションニングを巡るものであったが故に、私達をしてその総括作業を大いに戸惑わせてくれるわけだ。
 
 そこでの総括の作業は、以上から、より運動的社会的政治的なものであり、更に根源的な人間性にまで及ぶだろう。
 三〇歳代前半の私達は、人間の性懲りない性根、人間の見苦しい生き様、人間のそもそもの空しさを、運動の主体性の形成において予め織り込まなければならない大事な要因・要素という意識を捨て去る「若さ」があった。
 人間を信じたいし、信じよう、と生きていた。
 市民運動では、それが全てと言えた。
 それ自体、悪くはないが甘かった。
 だからこそ、逆に混乱しないためにも、敗北の要因と小樽運河保存運動が導き出した成果とを、きっちりわけて論議しないと、とても整理されるはずはない。

 私自身は、小樽運河保存運動は、北海道小樽という北の1地方都市としては、実にそれを担う主体の限度一杯を越えたところまで発揮し攻め上ったのだが、悔しいけれどその一歩手前で敗北したと思っている。

 それは、3つの要因で、敗北せざるを得なかった。
 その3つとは、
  (蕎麦屋親爺の視点1)
    11年間の小樽運河保存運動によって、人口17万の街で10万人以上の小樽運河保存
    署名や小樽商工会議所の道路建設埋立から運河全面保存への転換を生み、街を二分する
    までに至り、道知事仲裁によって11年間で初めての埋立派と保存派がテーブルについ
    た。
    が、「小樽運河保存の是非」を巡ってでなく、横路道政(社会党)vs反横路道政
    (自民党・共産党)の政党抗争(いわゆる戦後55年体制政治)に埋没されてしまった
    が故の敗北した。
  (蕎麦屋親爺の視点2)
    市民運動にとって最後の手段である志村和雄市長リコールが、小樽運河保存運動内部の
    主導権争いとそれを煽った政党利害を全面に押し出す運動介入での、時期尚
    早のリコール発動声明によってその気運が雲散霧消してしまい、結局発動しないままま
    ま終わっしまったが故の敗北

  (蕎麦屋親爺の視点3)
    以上の2つを許してしまう、小樽運河保存運動「主体」の政治的未成熟と市民各層世代
    構成による「運動指導部の未形成」という根本的弱点故の敗北。

 ここに、全てが集約され収斂されるのだ、と私は思う。 

 

24_01_02. あまりにも運動立ち上げが遅すぎた小樽運河保存運動だったから結局敗北したのか?

 「あまりにも運動立ち上げが遅すぎた」とする意見は、一見正しそうに聞こえる。
 が、一見客観的な総括の視点ほど何も語っていない、ともいえる。

   1966年昭和41年 8月、〈道道臨港線〉都市計画決定:建設省告示2912号
   1966年昭和41年10月、〈道道臨港線〉第1工区930m(札樽自動車道終点〜市
                  道若松線間)が都市計画事業の認可を受ける。

 ・・・ここから、道々小樽臨港線「事業」が、スタートする
 当然、1966年以前に、小樽市都市計画審議会か小樽市港湾審議会で審議されたであろう。
 今の時代感覚からみると、これに間に合って小樽運河保存運動が立ち上がり、小樽運河を守る会が創設されていたら、行政手続きの進捗を止められ市民論議を組織化でき小樽運河埋立を阻止出来たのではないか、というのが「あまりのも遅すぎた」論である。

 が、申し訳ないが、山口や私など小樽運河保存運動における若者部隊はまだ小学生であり、「小樽運河を守る会」を立ち上げた藤森茂男氏事務局長にしても、私と一回り上だが、まだ大学生の頃である。

   1968(昭和43)年 4月、道道臨港線工事,勝納跨線橋の整備に着手
   1971(昭和46)年10月、有幌地区の倉庫群,〈道道臨港線〉工事の進捗につれて
                 取り壊し(〜1973年)
   1972(昭和47)年 6月、地元新聞『北海タイムス』が、有幌地区の倉庫群約30
                 取り壊し直前であることを報じる。
   1973(昭和48)年12月、小樽運河を守る会発起人会結成、第1回発起人会を開催
                 、この時点でのメンバー24名。 

 ・・・1972(昭和47)年の地元新聞で報道されて有幌倉庫群が壊されるのを見て、市民は道々小樽臨港線が
   「小樽の街にどのような影響を与えるのか」
を初めて知ることとなる。
 それが、計画決定から6年が過ぎての「小樽運河を守る会」結成を生んだのだった。

 「何故、小樽運河保存運動の立ち上げが、こうも遅かった」のだろうか。
 今の時代の方々がそう思うのは、理解出来る。
 が、この時代のこの国の、ましてや北の一地方都市の「情報公開」は皆無に近いものだった。
 まだ、戦後30年、この国の民主主義の塾度が未熟だったというか、戦後民主主義の「未熟なままの形骸化」が既に色濃く進行し、ほんの一部の街の著名人による審議会方式が、既得権益防衛も相まって
   「由らしむべし、知らしむべからざる
として運営されて、市政は密室政治化してきていた。
   そもそも『まち』の大事な施策を、市民が知る手立てが保証されていない時代だった。
   小樽の一般市民が、主要道々小樽臨港線計画を知ろうとすると、小樽市役所まで出かけ、一
   階ロビーにある硝子ケースでカバーされた同計画書の閲覧許可をカウンターで求め、係員が
   厳かに鍵を持参し、硝子ケースを開けて「読ませてやる」というレベルだった。
   一般市民が事業計画を理解できる概要版など、勿論なかった
   新聞折り込みで小樽市広報として配布はされたが、A3サイズの一枚という代物でしかなか
   った。
   15センチ以上もある分厚いファイルを、その場で見せられたものだった。
   コピーは禁止で、肝心の箇所は「筆記」でメモさせる、という始末だった。
   膨大な図面も筆記させる、とする行政だった。
   ましてや、市民サイドからの対案提起を保障するシステムなど、全くなかった。
   「知らしむべからざる」だった。
 

   ・・・拙稿「05. イマジネーション、最初にそれがあった。」から抜粋

 「こういう時代に、小樽運河保存運動は始まった」という歴史的制約が大きくあった。
 私たち自身、北の一地方都市では、早すぎた市民運動だったのか、遅すぎた市民運動だったのかと、何度も苦い酒を呷ったものだった。

 が、その土地土地にそれぞれ歴史的社会的制約の上に、市民運動の立ち上げがある。
 のっぺらぼうの社会など、ありえない。
 「悪魔の選択」という言葉が、社会学の世界ではあるそうだ。
 中曽根政権での民間活力導入とリゾート法により地域再開発と言う名で、寂れた1寒村に巨大な集客施設が突如現れて、結局それは計画過大で経営破綻しその残骸を再生屋といわれるファンドが初期投資の十分の一以下で入手するという事例が多々あったし、再生屋が入手するならまだよいほうでそのまま放棄され廃墟と化したリゾートの残骸が全国にあった。
 原発立地自治体も、その「悪魔の選択」をしたのだった。
 マスコミは、そのような巨大集客施設や巨大産業施設の進出を受け入れたその寒村の民力の低さを嘆いた。
 が、そこまで追い込まれた切なさ、そこから如何ともしがたく「悪魔の選択」を選ばざるを得なかった、地域の市町村に向かって超客観的に批判する立場に、私は立てない。

 この国に、地方自治はあるのか、市民社会はあるのか、市民の自己決定権はあるのかという、その歴史的制約や市民の塾度など、市民運動にとって極めて困難な社会状況が必ず目の前の壁として存在する。
 このような時代的制約の中で、根本的な問いかけを発し、私たちは時代状況や民主主義の未熟の中であっても小樽運河保存運動が立ち上がったことこそを評価しても、それを客観的に「遅すぎた市民運動」と片付けてしまえば、
   「日本全国全ての市民運動が、敗北を喫するのは当たり前でしょう
となってしまうだろう。
 市議会での、道々小樽臨港線の事業手続きを阻止出来ないほどもう進捗してからの運動だったことは、事実間違いない。
 そこでは、本当にツライ局面を何度も経験させられた。
 だからこそ、市議会の進捗に一喜一憂しない、いや憂慮しっぱなしではあったものの、
   議会手続きの進捗に左右されない、
   街場という
「場」で、「市民の獲得」こそを自分たちのフィールドに選んだ
わけだった。

 「運動の立ち上げ『時期』に理由を求める」のは確かに客観的ではあっても、きわめて主体的でない総括の視点だと言わざるを得ない。


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24_01_03. 街への「自信喪失」と「無関心」が蔓延していたことが敗北の要因であった、のか?

 つぎに、

   (2)
    永年の斜陽、つまり街の経済的ポテンシャルが急降下し、それが街への
    自信喪失となっていき、市民意識が生活を維持するのに必死で街への無
    関心が蔓延していたからだ。
 
とする総括の視点を、言われる方々も多い。
 その運動の敗北を「運動の立ち上げ時期に理由を求める」総括よりは、主体的だと思う。

 1960年代後半、歴史的環境や歴史的建造物が多く残っていた町は、その大方が戦後経済の高成長に取り残されていた。
 結果、都市としてのスクラップ&ビルドを奇跡的に免れえた側面をもつ地方都市でもあった。
 全国町並みゼミとその全国町並み保存連盟に参加する町は、大方が町の経済的低迷に喘いでいた。
 そして、小樽もその例にもれず、いや、その経済ポテンシャルの降下=斜陽化はどの街よりドラスティックなまでに進捗していた街だった。

 そのような町では、市民はただでも日々の生活に追われていた。
 その分、市民の社会的意識も萎縮し町の有り様などへの真摯な市民論議など組織されえず、寂れていく一方の自分の町への「自信の喪失」が醸成していき、経済ポテンシャルの低下が更に続くことで町への「関心の喪失」とその結果としての「町への無感動」が一層醸成されていた。
 銭湯では、街場の店主たちが小樽隆盛時代の話と札幌市の隆盛への怨嗟の話しかなかった街だった。

 昨今の風潮は、行政・経済界に対してその「ハード事業主義」を批判し「反公共事業主義」で頭から批判したがる。
 それで、自らの進歩性に自己満足する。 
 が、小樽運河保存運動が立ち上がった時代は、一にも二にもその斜陽からの脱却をとして地元選出道会議員、国会議員に対して、
   「何でもいいから国、道から(公共)事業を取ってこい
とする、選挙の際の票とのバーター取引が暗黙の了解とされていっていた。
 市民サイドもそのような意識構造に陥り、そのようにしか表現されようがなかった。 
 その市民にして、その議員ありだった。

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 そのような市民意識、市民力の未熟こそを突破するものとして
   「代替え案」提示能力の獲得による「対案提起型」市民運動
をとしたのが、小樽運河保存運動の立ち上げだった。
 私が「小樽運河保存運動」といい、「運河埋立反対運動」とは表現しないのは、そこに思い入れるからでもある。
 
 反公害住民運動や反基地、反公共事業の住民運動は、小樽運河保存運動誕生当初から全国で巻き上がっていた。
 全国、先鋭的な様々な運動のスタイルがあり、水俣チッソ水銀公害や四日市公害などの命を賭けた先鋭的で大衆的な住民運動があった。
 様々な運動のスタイルがあるなかで、小樽運河保存運動がその一大特徴とするのは、「なんでも、とにかく反対」市民運動ではなく、
   反対するだけではなくて自分たちだったらこう考えるとし、
   道路問題にしても「対案」
を出したこと
だった。
 今でこそ、全国の様々な市民運動が「対案」を考えたり提起するようになったが、小樽運河保存運動当時、そういった力量を持った市民運動体は殆ど無かった。

 道路問題で市民が「対案」を出すためには、
   市民が交通量を考えたり、
   市民が道路断面のことを考えたり、
   市民が交通ネットワークのことを考えたり、
   市民が『まち』の有り様を問い、
   市民自身の街での生き方を再点検し、
と、様々な専門的な知識がない限り、とても「対案」など出せるわけがなかった。
 行政はプロフェッショナルであるわけで、これがなく下手に「対案」を出せば非常に幼稚で未熟な対案とされ、かえって自分たちのレベルの低さをさらけ出すことになってしまい「対案」にならない。
 対案を出したが、それが「これだけ未熟な案だった」となって跳ね返ってくる。
 
 行政や企業に、反対運動として非常に先鋭的な運動を展開していた町はあったが、なかなか対案として建設的な意見を出せる運動は未だ少なかった。
 小樽運河保存運動は、それをきっちりやろうとした。
 それは、
   小樽運河を守るだけで無く、
   運河をのこすための次を作り上げていく、
   自分たちの街を次に作り上げていく、
という非常に建設的な運動側面を強く打ち出した。
 
   ・延べ8つの代替えルート案の提案
   ・三期二〇数回の小樽運河研究講座
   ・そして市内外から講師を招いた数々のタウンフォーラムやシンポジウムの開催、
は、町への「自信の喪失」、町への「関心の喪失」、町への「無感動」から小樽市民が如何に解放され脱却するかの作業だった。

 専門的知識がなければ専門家を小樽に呼び、専門家NPO的存在の北大大学院ループがそのアフターやフォローをし、市民と無縁のところで存在する「都市計画」から最後は市民が決めるのだ、とする『まちづくり』に果敢に挑む。
 そういう町に、市民になっていこうとした。
 前述した、環境文化・宮丸吉衛氏がわざわざ指摘された、
   「外には市民意識を揺り動かし、
    内には小樽運河講座三期三十数回の開講に代表される主体の力量を蓄えなが、」
と指摘頂いたように、北の地方都市の街の有り様をどう克服していくのかを、小樽運河保存運動は果敢に挑戦した。

 市民の町への「自信の喪失」、町への「関心の喪失」、結果町への「無感動」が大きく影響していたからこそ、小樽運河保存運動の立ち上げを送らせた要因であったことは確かに否めない。
 しかし、高度成長に乗り遅れ取り残された日本各地の地方の街は、経済的ポテンシャルが激減し、大なり小なり市民の町への自信の喪失や、町への無関心に陥り、それが街で起こる様々な事案に対し無感動となり、それがなくなれば自分の街でなくなるという、お里(アイデンティティ)を破壊する施策への市民的対処が決定的に遅れ、破壊されてしまうのを許してきた。
 
 問題は、そのような中で、
 ・行政のプロフェッショナルや政党や各級議員がその街の現状をどう突破しようとしてきたか
 ・その
行政のプロフェッショナルや政党や各級議員と市民との関わり具合
として、みていかねばならない。
 
 少なくとも、小樽運河保存運動から四〇年たった今も、市民が「歴史的建造物」を略して「れきけん」と普通に言葉にする街になっているのだけは、小樽運河保存運動の成果ではあるだろう。
 今日、行政、経済界のトップが「IR(カジノ)を誘致しよう」と前のめりになったが、それを、
   「運河観光とれきけんの街・小樽に、カジノなど似合わない」 
とする市民意識が、カジノ=賭博も相まってカジノ反対新市長を産んだ要因でもある。
 そのときに利いたのは、新市長候補の政治的行政能力を評価したわけではなく、小樽運河保存運動以来培われた市民意識としての、
   「まちづくりバネ
だった、と一人思いたがっている。
 敗北した「カジノ(IR)推進」の前市長陣営が、カジノ反対新市長を産んだ市民をして「ポピュリズム」や「オポチュニズム」などと格好つけて侮蔑している限り、彼らの復帰はありえない。
 そこまで市民の前職陣営の市政と五者相乗り体制に嫌気がさしていたし、その上まちづくり施策とはまったく無縁の「カジノ(IR)」誘致に市民は怒りと危機感を持っていたことこそを、真摯に総括するべきなのだ。 


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24_01_04. 地方都市の行政、経済界、そして議会を構成する各政党のあまりもの無能こそが、小樽運河保存運動を敗北に導いた・・・




   (3)
    北の1地方都市の行政、経済界、そして市議会を構成する各政党
    のあまりもの無能さこそが、小樽運河保存運動を敗北に導いた
 
とする総括の視点がある。

 私は、行政トップや市議会議員、道議会議員、国会議員が小樽運河保存・再生・再活用を希求する市民によって完全に「乗り越えられた」と思っている。
 ただ、政治主義的に総括をしようとは思っていないが、政治が果たした役割はあまりにもお粗末すぎたという意味で、この総括の視点に賛成する。

 わが小樽が不幸であったのは、あまりにも頑迷な市行政と、企業利益と『まち』でのポジションに固執する企業人、国・道頼りの公共事業一本やりの政策能力皆無の衆議、道議、市議の存在だった。
   「小樽という街は、本質的に次ぎに何を準備するべきか
をまったく模索しない人たちだった。

 例えば、それを立証するのに苦労はいらない。

 1970(昭和45)年、日本建築学会・明治建築小委員会は、
   「神戸,長崎と並ぶ3大景観地の一つとして小樽運河と周辺石造倉庫群を評価する
見解を公表し、後にその評価が市内にもたらされ話題になった。
 小樽運河保存運動の側は大いに勧化した。

 それに対し、小樽の労働運動の旗ふり役の地区労=樽労の書記長は、
   「神戸、長崎に行ったことはないが、小樽と並ぶなら余程汚い町なのだろう。
と月刊労働全国誌「労働問題」で述べ、逆にその資質・品性・品格を疑われた。

 労働組合はある意味その企業の体質の反映でもある。
 運輸関係労組出身であるから、市内の運輸会社に勤務され小樽地区労=樽労書記長まで昇りつめた方なのであろうが、いかんせん、この水準だった。
   「小樽運河や観光ではメシは食えない
とし、小樽運河埋立・道々小樽臨港線建設に、小樽の運輸労連は賛成していた。

 彼らには、観光都市となれば、どれだけ物流・運輸が飛躍することになるのかという想像力が全くもって欠如していた
 小樽の町が新しい観光という産業を育成すれば、物流・運輸業界がどれだけ企業として成長でき、その結果その業界の雇用と待遇改善を勝ち取ることができるのかという、戦略的発想を引き寄せられなかった。
 ひからびた労働運動主義と左翼小児病的発想で、観光や再開発を「資本の論理」と一把ひとからげに片付ける人たちだった。
 ズブズブまで、賃上げ等の物取り主義とそれと裏腹の労資癒着に邁進するだけの姿を、自ら棚に上げていた。
 社会党・総評と言われる時代の終焉を、わが小樽の労働界を代表する人物が表現していた。

 今は、それが民主党・連合となったが、その連合小樽が、
   「カジノ問題は、労働組合に似つかわしい問題ではない。
と態度を曖昧にされた。
 町の愁眉の課題に一切絡まない、労組利益だけしか念頭にないDNAを未だ引きずっておられるわけだ。
 政策能力皆無、これが当時の小樽の55年体制だった。

 もう一方の自民党陣営はどうだったか?
 当時の小樽商工会議所会頭が蕎麦を注文してくれ、自転車で颯爽と出前し届けに行ったときだった。 会頭室のテーブルに蕎麦を置くと、いきなり、
   「向かいの椅子に座れ」
と会頭が言って来、
   「昼時の出前の忙しい時間帯なので、急いで店に戻らねばならない」
と遠慮した。
 まだ、三〇代になったばかりの出前かつぎの生意気な拒否に、会頭は怒ったか、
   「おまえか、物流港湾都市として栄えてきた小樽を、観光などという水商売の小樽にする
    と言っているのは。
    町のことに嘴の黄色い若造は口をだすな。」
と、いきなりお説教をしてき、
   「その話ならいくらでも会頭のお相手したいですが、今は出前の繁忙時間帯ですぐ店に戻
    らねばなりません。
    出前が届くのを待ちかねているサラリーマンのお客様が首を長くし、お腹をすかせ待っ
    て頂いてますので、アポとって頂くと助かります。」
と言い、怒る会頭を部屋に残し去った。

 と、数日後、会頭は蕎麦屋の昼間の繁忙時間帯を避けて、蕎麦を食べにきてくれた。(^^)
 店でお話を何度も伺い、若者の私は臆さず意見を表明した。

 このような好々爺ではあったが、町の実力者だった。
 小樽の次期市長は夜の華街できまると言われる小樽だったが、その小樽の政治決定構造を構成する一人だった。
 小樽でも古い倉庫会社の社長で、低迷する物流港湾都市・小樽の起死回生の梃子入れに、新日本海フェリー小樽誘致を実現した小樽商工会議所会頭で、実力者だった。
 が、近代化遺産としての産業遺産、港湾土木遺産、小樽運河への歴史的価値、まちづくり概念や歴史的建造物評価、総じて観光=水商売的理解を越えていなかった。
 物流と観光は切っても切れないのに、こうだった。

 以降、お亡くなりになるまで、小樽運河保存運動が終焉しても、弊店に一人で通ってくれ、
   「お前は蕎麦屋の息子としては出来ている方だ。
    終始一貫、小樽のまちづくりとやらを小樽運河保存運動が終わってもやっている。
    それだけは、俺も認めてやる。」
と言う、その笑顔が優しかった。

 が、お蕎麦の切れ端が口の周囲についているのを気がつかず、不安になり、
   「お体大事にして下さい」
とお見送りし、その数週間後倒れて入院、帰らぬ人となった。
 お客さんの健康は、その蕎麦の食べ方でわかる蕎麦屋の息子になっていた。

 エピソードはこの辺にしておこう。
 要は、『まち』を構成する労働界も、経済界も端的にいうとこういうレベル、だった。

 その視点で見た小樽は、
   「行政、経済界、市議会、政党のあまりもの政策能力ゼロ」
という、小樽運河保存運動の前に立ちふさがった大きな要因であったことは間違いない。 
 が、それは、北の1地方都市・小樽の街だけの問題ではなかった。
 地方都市や都道府県政というレベルを超えた、
   この国のかたちやありよう
を問う大きなテーマだった。

 小樽運河保存運動の11年は、戦後の自民党vs社会党体制、いわゆる戦後55年体制といわれたその時代の、終わりの始まり時代だった。
 小樽運河保存運動が立ち上がった1970年代は、「地方の時代」の幕開けの時代でもあった。
 政治や行財政システムを委任型(間接民主主義)中央集権制から、参加型地方分権制に切り替えるだけでなく、生活様式や価値観の変革をも含む新しい社会システムを追求する時代の幕開けでもあった。
 1979年の大平内閣の「田園都市構想」は、それを政権の側から取り込もうとするものであり、鈴木善幸内閣を経た中曽根内閣は、逆に正反対に戦後の自民党で最も新保守主義・新自由主義の色彩が濃い内閣であった。
 1985年、あまりの日本の雪崩的輸出攻勢に世界はプラザ合意で応えてきた。
 日本政府は、世界で円高路線が合意された後、内需拡大政策としてしか道は取りえなかった。
 民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却を含んだ国有地の払い下げ等を行った。
 これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こした。

 この「民間活力導入」(=バブル・地方博の時代)のその裏側には、新保守主義・新自由主義を貫徹するための必要条件である「社会党・総評」に代表される野党勢力の、とりわけ社会党とその支持母体公労協=国鉄関係労組の解体が必要であったし、国鉄等の国有地の払い下げはそれとセットであり、社会党・総評労働運動を解体させようとする施策でもあった。
 ポートフェスティバルのスタッフのなかにも、国鉄争議団で頑張る者、JRに行き頑張るものに別れるケースもあったほどだった。
 そんな、国の政治が大きく動き、いわゆる野党全体が混乱、衰退に向かい、それが地方政治にも大きく影響していた。
 自民党vs社会党の55年体制下での相対的野党勢力の衰退という構造のなかで、その彼らに任せておけないと全国様々な市民運動が、それを補完する形で誕生していた。
 
 町並み保存運動から発展する趨勢であった『まちづくり』市民運動などは、その典型だった。 
 町並みを意識することは、その町自身を対象化せざるをえず、さらに町の構造や仕組みを意識化していくわけで、それが『まちづくり』市民運動に発展していくのは、ある種必然だった。
 が、自民党から社会党も含め既成政党の地方組織は、その新しい市民運動の登場に面食らい、どう対応していいかと立ち尽くすよりなかった。
 立ち尽くすどころか、小樽の場合は、その市民運動のイニシアティブを掌握することで、自らの党派利害をかけた議会攻防や政党間抗争のツールにしようとした。
 
 新たに立ち上がった「まちづくり市民運動」は、このような既成政党の党派利害での振る舞いに対し、「対抗する運動主体」をみずから産み出さなければならなかったのである。

 横路道政は、そのような時代背景をもって誕生した。
 前回知事選では、社共共闘で立候補した五十嵐広三氏を支援した公明党に民社党、新自ク、社民連に自民党を加えたの5党推薦を受け保守中道勢力を総結集した三上候補に対し、社会党・革自連が横路孝弘候補、共産党は独自に広谷候補となり、この結果、前回知事選まで続いてきた社共共闘は崩壊した。
 三上と横路の両候補はともに「道民党」を掲げた。
 三上候補は「保守・中道道政の継続」を訴えたのに対し、横路候補はあえて保守道政批判による保革対決構図を避け、「静かな改革」を訴え、「道政にイデオロギーは必要ない」と革新色を極力避けた。
 これに対し、広谷候補は、三上と横路の両候補を「カレーライスかライスカレーの違いでしかない」と厳しく批判し、革新の立場を強調し、選挙戦前から横路候補当選の場合の社共対立を予測させる選挙戦だった。

 初回当選後の横路道政にとっては、
   幌延町・低レベル廃棄物施設誘致計画
   日高スーパー林道建設計画
   岩内・北電泊原発
   日の丸国旗姿勢
など道政運営の根幹に関わる課題が目白押しで、
   小樽運河問題
はせいぜい「喉に刺さってとれない小骨」と言われる評価でしかなかった。

 それが、 上記四課題を「行政の連続性」を理由に、反対する市民運動を見捨て道政維持を選択し、一方、小樽運河問題は地元の市民運動の爆発と高揚で国・省庁・西武を巻き込む一大課題に発展し、ここで横路道政はどのような姿勢をとるのかと問われ、横路道政に手柄を取らせないとする自民党・共産党との熾烈な「道予算を人質」にした政治抗争に発展した

 結局、小樽運河保存運動は政党抗争という対立の中に、埋没されていかざるを得なかった。
 小樽運河保存運動がこのような政治抗争場面で、そのような既成政党に「対抗する運動主体勢力」として登場しきれず、小樽運河保存運動内部の対立も相まって、敗北していった。
 政争に埋没されることを許さない「対抗する運動主体」は、市民運動主体の「政党」の問題まで、ついに行き着いてしまったのだった。

 北の一地方都市の『まちづくり』市民運動が、道内政治や全国政治に巻き込まれてしまい、それを突破するレベルの「国民運動」には・・・至らなかった。
 
 この国の社会的政治的状況を抜きに、それを唯一小樽運河保存運動の主体の問題をとして一般的に求めるのは、以上見ていけば少々酷といえるであろう。

 しかし、その「政治から独立し、政治に対抗する、市民運動主体への挑戦」への主体的取り組みが、のちに選挙への関わりとして繋がっていく。
 一つは、小樽市議会議員としての「まちづくり市民運動候補の創出」という成功であり、もう一つは、1987(昭和62)年志村和雄市長退任にともなう新市長候補擁立の未遂であった。

 ただ間違いなく小樽運河保存運動は、全ての政党を試したとは言える。


24_01_05. 小樽運河保存運動の主体は・・・

 
   小樽運河保存運動「主体」の政治的未成熟と、強制されたとはいえ市民の各界
   各層の世代を網羅した
「運動指導部の未形成」という根本的弱点を克服
   できないまま最高揚を迎えてしまった結果、内部分裂を阻止しえず敗
   北せざるを得なかった。
 

 もっとも切ない総括のところにきた。
 自らが爆発・高揚させたその小樽運河保存運動は、
   その主体形成が間に合っていたのかどうかを徹底的に試してくれた
と言えるだろう。

   「老人と若者が残せといい、大人が壊せという運河保存運動」
と新聞紙上で言われ、それから小樽運河保存運動の自分達が、
   「オバンとガキが残せといい、オジンが壊せという小樽運河保存運動」
と言ったものだった。
 だが、これはただ小樽運河保存運動を担うものの年代構成を外観的に言っただけのものでは、なかった。
   「そこに、オジン、つまり大人がいない
ということを、暗に表現していた。
 その大人たる、街の商店主や中堅経済人が運動に参加していないというなかで、
   「運動がもたねばならない『懐の深さと奥行き』を、私たちは体現できたのか
は、
   「最後まで小樽運河保存運動の現実的展開に間に合わないまま、終焉を迎えた
と言えるであろう。
 逆に、おそらく小樽運河保存運動の盟友・山口保であるなら、
   「俺は、小樽運河保存運動を最後まで貫徹したし、精一杯、その運動面での様
    々な不足不在をカバーしきった。」
というだろう。
 たしかに、山口保や北大院生グループは、小樽運河保存運動の路線やそのときどきの具体的方針を出し切る、切ないほど大変な指導部として確固として存在しえた。
 そして、山口保が小樽運河保存運動の最後の最後までの貫徹者だったことは、誰しもみとめるところだ。
 
 が、小樽運河を守る会が最高揚の肝心の地点で内部対立から抗争状態に入り、その小樽運河を守る会の内部対立が小樽運河百人委員会人運動に波及し、道路埋立派の眼前で小樽運河保存運動が内部分裂を見せてしまったことは、決定的だった。
 そして、分裂の一方が、たとえ論理的思考が通じない相手であり、運動の目標を見失い「手段が目的化」してしまい、ただただイニシアティブやポジションのみを求めるような主体であっても、
   「運動主体(とりわけ指導部)をどう育み、仲間性を保持し、強固な運動主体とりわけ
    運動指導部の形成を追求
し切ったか
は、運動方針とは別次元の問題として小樽運河保存運動が問われ続け、それが未熟であったが故に自ら敗北を用意してしまった、と言えまいか。
 大衆運動用語でいうならば、運動主体形成の不在という問題に収斂される。
 
 ・・・そう、今でも思っている。
 だからこそ、その思いを、今私自身が携わる『観光まちづくり』運動や事業で、今でも挑戦しているのだけれど。
 

 小樽運河保存運動が終焉し、小樽運河「観光」が爆発し始めた頃だった。
 市内の宴席やパーティーで、わざわざ私の席に来てくれ、
   「(君たちの)小樽運河保存運動がなければ、この小樽観光ブームの到来はなかった。
というオダテにもならない言辞を吐き、
   「私も実は小樽運河を守る会の結成当初は、越崎(小樽運河を守る会会長)さんに誘われ
    て会員になっていたんだヨ。」 
と今更ながらの「隠れ保存派」を表明し、小樽運河観光の爆発に慌てふためき「真性保存派」への衣替えをはかろうとする経済人が多数続出した。
 しばらくの間、このような経済人諸氏には
   「では、一〇年分の滞った小樽運河を守る会会費を払って頂きたい。
    一ヶ月100円だから1年で1,200円、それの10年分として、一万二千円です。」
と応える事にしていた。
 この種の人々は、自分の生き方とこの町の将来のために、自分自身を見直そうとはしないといえた。
 誰かの考え方を「○か×か」選択するだけで、自分も含め皆で自身の考え方を決めるという人々ではないのだった。 
 
 しかし、小樽運河保存運動の外部には、少なくない信頼に足る中堅経済人がいてくれてどれほど小樽運河保存運動を目に見えない形で支えてくれたか、と思う。
 が、
   「小樽運河保存運動の『内部に層として信頼に足る中堅経済人いない』ことは決定的だっ
    た。
 三〇代前半の若者では、そこを埋めるには難しかったのである。
 一方、小樽運河保存運動において、自律した信頼に足る中堅経済人層が成立していなかったことは厳然たる事実としてあった。
 
 まちづくり市民運動は、つくづく思想や哲学や論理のみでは成立しないことを示唆している。

 1981年昭和56年だった。
 ポートフェスティバルが四回目を成功裏にクリアした。
 次年度の第5回ポートフェスティバル実行委員長に誰を推するか、と悩んでいた。
 というか、もうポート創設世代が次期実行委員長を指名するような「ポジション取り」は止めるべきだ、と思っていた。
 年嵩順でいけば、実行委員長を担う世代は豊富にいた。
 が、しかし、それはポートフェスティバル実行委のなかで、年功序列が慣例化していく気配が濃厚になっていくことを意味し、それへの危機感をもった。
 若者で構成される実行委員会で年功序列が慣例化していくということは、ポートフェスティバルが時代を先取りしていく攻めの姿勢を希薄化させ、「継続」していくことで良しとなっていき、その継続姿勢はやがて執行部の保守主義と官僚主義や現場主義と権威主義を、若者だけに一層急激に促進してしまう、と危惧した。
 市内の多くの団体がそのような人事が横行し、それが団体そのものの活性化を阻害しているのを見ていたが故の危惧だった。
 次の実行委員長を意識していた創設世代のスタッフには本当に申し訳なかった。
 が、その世代をパスした次々世代こそが委員長を担うべきと、かなり乱暴な実行委員長人事論議を開始した。
 そして、ポートフェスティバルは年齢順の順当人事から脱却し、新しい世代の実行委員長を産み出した。
 人事論議が、運動継続にとって如何に大事な論議なのかをポートフェスティバルの中に形成していったことこそが大事だった。
 
 











 
 その新実行委員長世代が、運河沿線の石造倉庫「買い取り」運動という大胆な「ロフト基金」キャンペーンをポートフェスティバルで提案していくような、攻勢的な姿勢をポートフェスティバルに付与していってくれた。
 このように、自分たちの世代を前後する若者世代では、運動主体をどう育み、仲間性を保持し、強固な運動主体の形成を追求し挑戦していった。

 
 が、それを小樽運河を守る会も含めた小樽運河保存運動全体に貫徹するところまでは挑戦できなかった
 
 ポートフェスティバルや夢街のみならず、小樽運河を守る会も含めた小樽運河保存運動「全体」を意識化し、運動全体を包括する強固な主体の形成を課題として取り込むまでに残念ながら至らなかった。
 その意味で、小樽運河を守る会の役員体制の刷新路線を提出しきれる役員体制の構築には、設立当初からの古参小樽運河を守る会役員への情実で一切触れないできたことが、最終場面の1983(昭和58)年からの小樽運河を守る会内紛の根拠を与えてしまったことにつながっていった。
 それは、それだけ急激でドラスティックに1983〜1984年の小樽運河保存運動情勢が急激に進捗したわけでもあったのだが。

 結果論ではあるが、「ただただ運河が残ればいい」とする凍結的保存主義に凝り固まる小樽運河を守る会反峯山会長グループに走った若者たちは、本来私たちの路線、『まちづくり』路線の下に獲得するべき若者だった。
 確かにきわめてマイナー主義であり、市民運動未経験でましてや政治への反発と距離感の強い若者たちではあったが、純粋で献身的な性格であり、その若者を峯山会長グループ不信へと走らせてしまった弱さが私たちの側にあったのだった。
 又、百人委員会の代表幹事に、全く小樽運河保存運動経験も大衆運動や市民運動経験もない村上勝利氏を招聘せざるを得なかったことも、最終局面で大きく影響した。
 村上代表幹事は、小樽運河保存運動がいわゆる小樽運河を守る会運動のレベルから全市的市民に拡大しているということの、シンボル性を意識して招聘された。
 しかし、その当初の村上氏への人となりへの不安があまりにも的中し、功名主義として暴走するのを許してしまった。
 ここでも「オバンとガキが残せといい、大人が壊せという小樽運河保存運動」という、その大人たる街の中堅経済人が層として小樽運河保存運動に参加していなかったというハンディから、「市民運動がもたねばならない『懐の深さと奥行き』を私たちは備えていなかった」ことが、大きく影響した。

 実際、小樽運河を守る会はその我々が百人委員会運動に全精力を投入している分手薄になり、その間隙を突き再々登場した藤森茂男元事務局長や共産党系との消耗極まりない内部抗争に明け暮れる事態となった。 
 それは、ポートフェスティバルや夢街や更に百人委員会運動を抱え、それに商売もありと物理的に無理な側面は多々あったにしても、現実の小樽運河を守る会幹事会会議のあまりの消耗さに嫌気をさしていたことの免罪符にはならない。
 私たちの仲間はその持てる力量一杯、この消耗極まりない内部抗争に付き合いきった。
 が、結局、最後には反峯山会長グループと共産党系のリコール急進派としての時期尚早な発動声明を許してしまった。

 勿論、相手があってのことであった。
 路線も論理もなく、ただ嫉妬や羨望でのポジショニングと自身が去って以降の後継者で会った小樽運河を守る会執行部に近親憎悪に近い感情をむき出しにされた藤森茂男元事務局長に率いられた小樽運河を守る会・反峯山会長グループと党派利害だけしかない共産党系が一体となった「リコール急進派」としての対応には、どんな真摯な言葉をもってしても通じない状況であった。
 が、そういう相手であることは、それまでの小樽運河保存運動の活動経過で大なり小なり皆感じとっていた。
 この点での、私たちの小樽運河保存運動上での執行部建設、いわゆる組織建設方針の不在と甘さという、根本のところでの主体的弱点が内在していたが故に、最後の体たらくを露呈してしまったのだった。

 この点での総括は、もはや小樽運河保存運動では如何ともしがたいが故に、ポスト小樽運河保存運動、新しいまちづくり市民運動での目的意識的な組織活動としてしか検証されないと言わざるを得ない。

 個人的には、今の年齢なら・・・と臍を噛まざるをえない。 

 

24_p_waterfront
第17回ポートフェスティバル会場に展示されたアムステルダムの運河とレストラン
こういう発想は、全くない道々小樽臨港線計画だった。 


24_02.「観光」は、小樽の街の賑わいを取り戻すための「ひとつの切り口」でしかなかった。


 前述の「真性保存派」に衣替えを図る経済人のように、間違ってもらってはこまる。

 私が参加した小樽運河保存運動において、まちづくり市民運動の発展のために口にしたところの「観光」は、それ自身を至上目的にしたのではなく
   「まちの賑わい」を取り戻す新たな小樽の産業の「ひとつの切り口」
として、「観光」を運動論的に提案した。

 小樽が、高度経済成長に一〇〇%乗り遅れた事によって、スクラップ&ビルドを免れ、膨大に残ることになった歴史的建造物や様々な産業遺構は、当時の行政や経済界の濁ったベールの被った目では、「マイナス資産」としか見なかった。
 しかし、それに磨きをかけ周囲の環境整備をすれば、そして発展する札幌市を軸とする人口150万の札幌圏という大消費地であり潜在的可能性をもつ日帰り観光圏をターゲットに、絶対札幌がコピーできない歴史的環境を活かした新たに保存・再生・再活用のまちづくりを志向すれば、民間資本が流入し小樽の『まち』の経済的ポテンシャルを斜陽のどん底から引き上げられるとした、
  「マイナスの資産をプラスに逆転する発想」
  「マイナスをプラスに転化する発想」
の一環として、「観光」を大きく取り上げ、どう『まち』を活気づけることができるかと提案した。

 小樽の「新しい地場産業構築としての観光」を提案したのだった。
 

p_SF_pier02
1970年代、サンフランシスコの老朽化かした埠頭や付属設備を
再生・再活用して活気を取り戻したピア(埠頭)17

 これこそが、小樽運河と埠頭の保存再活用のイメージだった。 
 だから、小樽経済学の復興の鍵は「観光」と、打ち出すことだった。

 観光を起爆剤にし、長期的斜陽によって失われた『まち』の自立心と誇りを回復し、それに裏打ちされて小樽運河をはじめとする歴史的環境の保全と再生を計り、既に物流港湾都市としての位置を失ったわが街から、小樽の「成長の切り口」として極めて可能性のある歴史的環境を活かし、近代化遺産や産業遺産を再活用する「新たな観光」にシフトし、それに広大な自然と農業・酪農・水産業の宝庫・しりべしエリアと連携する、
   「小樽らしい個性を放つ持続発展可能な「まちづくり」を「そこから目指す」というステップ論的展望
だった。

 なぜ、ステップ・バイ・ステップだったのか?
 それは、観光が観光事業者だけの専売特許のものではなく、『まちづくり』という切り口でみれば市民的課題と志向していかなければならないとする危惧からだった。
 観光は「それ自身が単独で成り立つものではない」からだった。
 もっと大胆に言うと、本来、観光「産業」というべきなのか、そもそも観光「産業」などあり得るのかという思いだった。
 観光は、地域の第一次、第二次、第三次産業の地場産業に裏打ちされて、初めて成り立つのであり、それらの上に乗っかるエンターテイメント産業であり、ホスタビリティ産業なのではないか、という思考だった。 
 それが、のちに「観光まちづくり」として主張されていく。 

 観光事業者のように「観光万々歳」で叫んだわけではなかった。
 小樽運河保存運動のなかにも、「観光」を新たな切り口にとする主張をするのには何かしらの後ろめたさを感じていた部分も多々いた。
 それを最も叫んだ山口でさえ、斜陽のどん底にまで陥った小樽の街の経済的ポテンシャルをどう回復するのかという、小樽運河保存派が多数派になるため市民に受け入れられる展望を、「運動戦略論」として主張したのであって「社会運動論」的に主張したわけではなかった。
 口にはしなかったが、不本意ながらという思いだった。
 それは、その街の将来に一切興味のない観光事業者、ただ観光客を運び込むだけで得る利ざやや売上をとする観光エージェンシーなど心ない観光事業者に、街ごと席巻されるような全国の観光都市にみられる低俗安物土産観光地に小樽がなることへの危惧であり、危機感だった。

 その新しい観光をどう表現するかで悩んだものだった。
 持続的発展可能な観光などという言葉はまだなかった。
 京大の西山卯三教授などは、その新たな観光を、
   「世直し観光」
と表現したが、あまりにも戦闘的(^^)すぎて使用するのは控えたものだった。 
 既に趨勢としてあったマスツーリズムに対して、
   「小樽らしい、生活の匂いのする観光
と表現した。

 小樽という街の「経済再興と成長の切り口」としての都市政策・都市経営政策の柱に、「観光」を「まちづくり」に組み込む、と主張した。
 当時のどの既成政党にも、小樽の街の新しい都市政策、都市経営の展望はなかった。
 業界の既得権防衛と生き残り路線を行政はそのまま採用し、既存政党は
   「物流港湾都市としての将来にもはや展望はない」
と、言い切る度胸も根性もなかった。
 小樽運河保存運動に唯一政党として参加していた共産党も、政策的にはせいぜい「文化」保存以上を言えないでいた。
 戦後小樽が経済的ポテンシャルが低下し斜陽化してきたことをもって自民党保守政治を批判はしても、では経済的復興と成長にむけた「対案」を提示などする気構えも気持ちも持ち合わせていなかった。
 観光や再開発という言葉には、「資本の論理」という生きた化石化した反応しかしない意識でしかなかった。

 そこに小樽運河を守る会若手と小樽・夢の街づくり実行委員会、ポートフェスティバルは「観光(まちづくり)」を対置した。
 ポートフェスティバルの成功が、その具体的事例だった。
 ポートフェスティバルの成功と新しい歴史的環境資源を活かした観光(まちづくり)という主張に、市民はもろ手をあげて賛成し、それが孤立していた小樽運河保存運動の裾野の拡大に一挙に転換していった。
 
 小樽の街の持つ複雑さと面妖さがここにある。
 小樽運河保存運動の最高揚期に小樽の新しいまちづくり路線の柱としての小樽運河保存派が打ち出した「観光(まちづくり)」路線が、
   「小樽運河保存を勝ち取っての、観光爆発
を産み出したのではなく、
   「小樽運河保存が敗北したのに、観光爆発してしまった
という、実にアイロニカルな「ねじれ」が生じたことにある。

 だから、行政も経済界もその路線的転換、つまり「観光(まちづくり)」にシフトチェンジできないまま、観光爆発に「後追い」で利益追求的についていく状態が生まれた。
 そして、「観光(まちづくり)」をもっとも主張した小樽運河保存派は、敗北したが故にその小樽運河という戦場から総退却してしまった。
 
 ここに、以降の小樽の観光まちづくりのねじれ的展開の要因があった。


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2_03. 小樽運河保存運動が敗北してしまったのに、小樽運河観光は爆発してしまった.

 そして、あまりにも運河観光は爆発しすぎた。
 爆発した小樽運河観光という新しい時代を迎えながら、その
   「小樽運河を、これからどうしていくのか」
という将来展望を引き寄せようとする主体がいないままの、勝手野放し観光爆発だった。
 小樽運河に関わる主体不在の観光爆発だった。 

 そもそも、その当時の小樽市政において「観光」は、重要施策ではなかった。
 小樽観光協会は存在していたが、乱暴に言えば「みんなで『観光』に行く『協会』」のレベルでしかなかった。
 小樽観光協会が法人化したのも1990(平成2)年で、後述するが小樽の歴史の中でサイコの営業倉庫であった「小樽倉庫」を小樽観光物産プラザ(通称:運河プラザ)として委託管理するために、社団法人資格を取らせ、業務委託契約対象にしたことに帰因する。
 
 小樽運河観光の爆発は、永年小樽市観光課と小樽観光協会が地道に小樽への観光誘致を本州各地に仕掛け続けてきた上での成果ではなく、
   「棚からぼた餅
的爆発だった。
 漁業、水産業、それに連動した機械工業以外にまともな地場産業はなく、小樽を牽引していく主力産業、基幹産業はなかったし、戦前までの物流港湾都市であったが戦後はもはや他に基幹産業と呼べる産業がない、基幹産業不在の街だった。
 ましてや、行政の施策に継続的目的意識的施策は不在で、意識的「観光施策」など存在しようもなかった。
 まして、小樽運河を観光価値のあるものとすれば、小樽運河保存運動が勢いづくしかなく、観光という言葉を口にすることを憚る小樽市政だった。
 それは、その街の観光をどう進めていくのかとする「観光基本計画」が2006(平成18)年の時代になるまで、観光都市二〇年間存在しえなかったことにあきらかだ。

 常に、後追いで、経験主義的な観光対応しか出来ずにきたことにそれは端的だった。

 1986(昭和61)年、道々小樽臨港線工事は完成し、小樽運河散策路もガス灯を配して完成した。 翌1987(昭和62)年、中曽根内閣はリゾート法を成立させ、民間活力導入を旗印に、この国にバブルが到来する。
 そのバブルが、小樽運河観光をさらに誘爆させた。
 突然、小樽の寿司屋を筆頭に中心部の飲食店に大型観光バスが止まり、大量のバス観光客が小樽のまちにあふれかえる。
 小樽運河から中心市街地の飲食店は、狂喜した。
 小樽運河周辺の歴史的建造物の売買が猛烈になり、建築工事ラッシュとなる。
 バブル絶頂期、300坪の物件が「坪400万円」という価格で売りに出される始末だった。
 小樽運河保存運動がポートフェスティバルを契機に盛り上がり始めた頃、小樽運河の石造倉庫所有者が、
   「そんなに価値があり保存すべきなら、坪15万で売ってやるぞ。」
と冷やかしてくれたものだった。
 坪15万円が、400万に化けたわけだった。
 約30倍に化けたわけだ。
 調べたら、数カ所の飛び地と石造倉庫を合わせると300坪という内容の売買物件で、それでも即売買が成立するというまで、バブルは小樽を襲った。

 それは、
で紹介したが、それまで小樽運河埋立派の代表格だった小樽商工会議所の副会頭・大野友暢氏が山口経営の喫茶・メリーゴーランドを初めて訪問されて、山口と小川原で意見交換したときだった。

 山口が、大野副会頭に、
   「小樽商工会議所や道路促進期成会の方々は経済人でしょう。
    だったら、せいせい今は坪12万円の小樽運河沿線地価が、道路作って、坪20万にな
    るのを取るか、運河と石造倉庫群を一体で残し倉庫などの再活用がなったら、坪50万
    以上になる。   
    そこに経済人として目を付けないのは、本当におかしい。
    サンフランシスコのウォーターフロント再開発をナマで見てきた大野さんこそが、小樽
    商工会議所で声を大にして言うべきです。」
と語ったものだった。
 私は、その山口の利益誘導的な物言いに内心驚いたものだった。
 私もそれらしいニュアンスの発言はしてきたが、ここまで「市内経済人の利益誘導」意識を掘り起こせ、とは言い切れないでいた。
 
 その山口の「運動戦略論であって社会運動論」ではない語りが、現実になっていた。
 私にしてみれば、山口の政治的対応の面目躍如であったが、そこまで言い切るのかと内心感心していたものだった。
 
 中曽根民活で、リゾート法、バブル、テーマパークブームが日本列島を襲った。
 それな小樽を急降下爆撃的に襲ったものだった。 
 そして、数年後1991(平成3)年、九州雲仙普賢岳が大噴火し、巨大火砕流が住民やTVクルーに襲いかかり犠牲者を出し、その映像を全国の国民がTVで目の当たりにした。
 衝撃的映像の火山噴火だった。 
 長崎県の火山噴火であって、九州他県は安全だった。
 が、全国の大手旅行エージェンシーが「九州観光」から総撤退した。
 全国の旅行エージェンシーは、九州観光からの転換先を「北海道観光」に求め、大転換した。
 私は、メジャー旅行エージェンシーの振る舞いをそこに見ていた。
 取り残された長崎観光の姿が、いつ北海道観光にも再現するのか、と。

 しかし、その「作られた北海道ブーム」が到来した。
 それに加えて、レトロブームも立ち上がった。
 小樽運河保存運動の11年間で、マスコミに紹介され、
   「小樽運河保存運動の街・小樽
は、
   「小樽運河の街・観光小樽
へとなり、そのネームバリューは上がりに上がっていた。
 電通北海道が、11年間にわたる小樽運河保存運動関連でのマスコミ各報道を、「宣伝広告費」に換算して、計算くれた。
 当時のレートで、約40億円の「小樽キャンペーン費用」に相当するとはじき出してくれた。
 
 バブル、テーマパーク、レトロブーム、北海道ブームと押し寄せるように小樽運河観光の背中を押してくれた。
 これを、プロデュースしたら名プロデューサーと呼ばれただろう。
 小樽運河保存運動が、そしてポートフェスティバルと夢街こそがそのプロデューサーだったが、それは一切公的に認められないまま、巷間の評価としてだけ広まった。 

 やがて、全国各地のバブルが終焉していった。

 時代は本格的「地方の時代」を迎えていた。
 都会の人々は、バブルに踊るのも疲れ果て、癒やしをもとめた。
 ブランドオタクのOLたちの切り替えは、見事なほどたくましかった。
 まるでブランド商品のカタログスペックのように、温泉効用を滔々と語り、地方のひなびた温泉地を訪れる時代になっていた。
 その彼女たちをバブル時期にドンペリや高級料理食事でシティホテルに誘った若い男性達の手元には、「プレイナウ・ペイレイター」によるカードローンの支払いだけが、残っていた。
 そんな時代になっていた。
 それが、現実となって現れた。

 全国のバブルが終焉しても、北海道小樽だけは、レトロブームと北海道ブームが襲来しそれを謳歌した。 
   「マイナスをプラスに転換する発想」
   「観光を切り口に」
という私たちを笑ってくれた大人たち、小樽運河や堺町の不動産オーナーの目はつり上がり、血走っていた。
 それまで、帳簿上では不良資産とされたものが、いきなり超優良資産になったのだから。
 
 しかし、小樽運河の主体たるべき小樽運河保存派は、刃折れ力尽きていた

     この項終わり

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【私的小樽運河保存運動史】21.埋立・保存両派の五者会談知事提案と内部対立で混乱
 ● 【私的小樽運河保存運動史】20. 政党介入に抗する市民派イニシアティブ
 ● 【私的小樽運河保存運動史】19.政党間の「政治的力学」で運河問題が振り回されていく。
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 ● 【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ● 【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
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