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25_01. ポスト小樽運河百人委員会

 1984(昭和59)年8月18日、横路知事が五者会談に出席し、
   「埋立・保存両派の合意が得られず、埋立工事を続行する
    小樽運河と港湾地区の再開発について考える小樽市活性化委員会の設置を提唱する。」
と締めくくった。 
 1973年(昭和48)から11年間の小樽運河保存運動の終焉を道知事に宣されてたまるか、と唇を噛んでいた。
 
 そして、1984(昭和59)年9月1日、小樽運河百人委員会は最後の総会を開催する。
 事前に郵送配布した、百人委員会の「存続に関するアンケート」の集約が発表された。
 百人委員会「解散」に関して、当初100人の委員の内、59人が返答をした。
   賛成41人、
   反対 8人、
   保留 7人、
   無効 3人
という結果だった。
 そのアンケート集約を受け、論議をしていく総会だった。

 が、相も変わらぬ反峯山会長・リコール急進派だった。
 とりわけ村上代表幹事は、そのポストである「百人委員会・代表幹事」職を失いたくはなく、解散手つづき論争に終始し、会議を引き延ばそうと抵抗した。
 百人委員会でそれまで続き展開された内部論争の、全くの再現でしかなかった。
 6・28の一方的「リコール発動声明」によるリコール急進派とリコール慎重派の決定的対立は、もはや百人委員会そのものの存在意義を喪失させていたにも関わらずであった。

 解散するとすれば、当然会計の整理が必要になるが、その会計報告の手続き論で、激しく抵抗した。
 もはや、彼らの会議引き延ばし手法をいやというほど経験した小樽運河百人委員会は、毅然として対応した。
 最終的に議長が採決を求め、解散が決定した。
 それでも、村上代表幹事らは解散を認めない、と席を立った。
 1年前の1983(昭和58)年のあの10万人埋立見直し署名に見られる市民の支持が、翌年1984(昭和59)年6月28日の共産党系と反峯山会長・リコール急進派による『リコール発動声明』で潮を引くように失われてしまい、その結果五者会談で小樽運河埋立で決着をつけられてしまったことを、まだ認めようとはしない村上代表幹事氏らだった。
 その主張がまともな主張として受け入れられるわけがなかった。
 
 百人委員会は、それまでの小樽運河を守る会や保存派だけの小樽運河保存運動から、その枠を拡げて約1年以上展開された。
 が、小樽運河を守る会から百人委員会に場を移して持ち込まれた党派利害と小樽運河保存運動のイニシアティブを巡る内部抗争による分裂状態に加え、リコール慎重派の説得にもかかわらず時期尚早のリコール発動声明をした結果、五者会談打ち切りを招きその市民的支持を失ったという現実を認めようとしなかった。
 このような村上代表幹事らの「観念での反対運動論」などに与しない私たちは、しなければならないことが山積していた。

 まずは、小樽運河保存運動に永年支援を頂いた全国町並み保存連盟の傘下団体に、この一連の顛末を報告しなければならなかった。
 私は、「夢街」や小樽運河を守る会をはじめとした小樽運河保存派の共同文書を数々作って来たが、唸りながら、
   「再び『町並み保存の教科書』と呼ばれる『まちづくり市民運動』の
    再構築を目指して
という文書を、何とか皆の意見を取りまとめて執筆し、郵送した。

 小樽・夢の街づくり実行委員会の「結成宣言」も作ったが、まさか上記の文書を作成するなどとは、思いもよらなかった。
 そこに記したのは、
   「リコール発動声明」に名を連ねた反峯山会長・リコール急進派の反省を求め、かつそれ
    を数ヶ月かかって論議しながら防ぎ切れなかった自分たちの力量不足をも乗り越えよう
    としなければ、まちづくり市民運動としての再出発などあり得ない」
ということだった。

 他方、村上勝利・百人委員会代表幹事や小樽運河を守る会反峯山会長・リコール急進派の北村聡司子、森本光子両副会長や佐藤事務局長代行氏らは、次項で述べる「横路道知事提案の「小樽活性化委員会」の参加」を巡って、峯山冨美会長支持グループが委員を出すことに相変わらず誹謗中傷を展開してきていた。
 まるで、トンデモ陰謀論だった。
 小樽運河保存運動の敗北の責任追求が、自分たち反峯山会長・リコール急進派に向かわないようにするため、峯山冨美会長支持グループに責任を押しつけようとする為にだけする批判だった。
 それは、

   「峯山冨美会長支持グループが、運河埋立派や横路知事サイドとなにかしらの
    政治的密約
(小樽活性化委員会委員就任)を得て、小樽運河保存運動をねじ
    曲げ、運河埋立に同意すると妥協をし、五者会談では横路知事ペースに合わ
    せ、村上代表幹事おろしをした」
 
という低次元のねつ造だった。
 要は、党派的利害の小樽運河保存運動内への持ち込みと個人的イニシアティブ固執という反峯山会長・リコール急進派に向けられる批判に何とか対抗し、それを今更ながら押し隠そうとするだけの批判だった。
 彼ら、共産党系内部を引き締め、小樽運河を守る会反峯山会長・リコール急進派の内部にだけ通用するものでしかなかった。
 そして「峯山冨美会長支持グループ裏切り者」批判を、1984(昭和59)年11月19日に、小樽運河を守る会会長代行・北村聡司子名で「小樽活性化委員会」への抗議文として発表した。
 既に、市内花園スポーツセンターで開催された「小樽運河を守りぬく」と題された集会で、この抗議文同様の内容をチラシとし、これまた最後の運河ニュースと一緒に配布した。
 しかし、その集会は、共産党系労組団体の全力組織動員の集会で、約150人くらいで開催されたが、反峯山会長グループは懸命に「小樽運河全面保存」を叫びはしたものの、全く市民から相手にさず、新たな市民的結集軸になりようもなく、自分たちだけの丸裸の数しか集められず、共産党系労組・市民団体の隊列の中に埋没してしまっていた。
 集会は、冷たい秋風とともに終わって、この抗議文チラシと小樽運河保存運動ニュースが、路上に舞い散っていた。
 しかし、反峯山会長・リコール急進派グループを散々利用し煽ってきた共産党系からすれば、その集会での反峯山会長・リコール急進派の丸裸参加と新たな市民層の不参加というあまりの不甲斐なさを目の当たりにしたわけだった。
 共産党系にすれば、
   「『まち』の中に位置できない、新たな市民層を獲得できない「反峯山会長グループ」
などは、もはや無用の存在、いや、お荷物でしかなかった。
 そして、利用価値のないものの面倒をみ世話するような、お人好し政党ではなかった。
 共産党系は、さっさと反峯山会長・リコール急進派グループから撤退した。
 
 支える共産党系部隊のなくなった北村・小樽運河を守る会と村上代表幹事の小グループは、この抗議文日付である、1984(昭和59)年11月19日をもって小樽の街から完全消滅した。
 村上勝利代表幹事の経営する花園商店街のガード下にあったアクセサリーショップは、いつの間にか閉店し、氏本人も小樽にいるのかどうかも不明となった。
 そして、反峯山会長の一点でその村上代表幹事に接近した北村聡司子・小樽運河を守る会・反峯山グループも自然解体雲散霧消し、その拠点だった北村聡司子自宅を改造した「民宿・上昇」もいつの間にか看板をおろし、その後一切の市民運動場面に登場することはなかった。
 可哀想だが、以降街の話題になることもなかった。
 というより、小樽という『まち』が、彼らに退場宣告をしたのだった。

 私たちには彼らを気にする余裕はなかった。
 横路道知事から五者会談の最後に提案された問題があった。

25_02 バラ色の夢にもならない、新提案・小樽活性化委員会構想

 結局、5者会談は横路道知事仲裁であっても、
   「小樽運河埋立見直し合意には、至らなかった」(北海道住宅都市部官庁間文書)
となった。
 が、横路道知事が、
   「今後の小樽経済の活性化を巡る計画案について、保存派、埋立派の参加のもと、石造倉
    庫群の保存・移転などについて北海道も財政支援をするための委員会=「小樽活性化
    員会」(仮称)を設置する。
という提案をしてきた。
 これに対し、百人委員会は、「持ち帰り検討」案件とし保留する態度表明をしていた。
 
 峯山冨美・小樽運河を守る会会長は、8月24日の小樽運河を守る会総会で辞任していた。
 が、小樽活性化委員会に臨む態度としては、
   「小樽運河保存運動が敗北しても、これからの小樽の『まちづくり』を担う若者こそが
    『小樽活性化委員会』に参加すべき
としていた。
 皆、峯山冨美会長の思いに触れながらも複雑な気持ちだった。
 皆の根底に、
   「小樽運河を埋め立ててしまって、今後の小樽の『まちづくり』を語れるのか」
という思いが確固として存在していた。

 私は、
 (1)
    まず『小樽活性化委員会』が、道議会と小樽市議会でどう位置づけられるのか。
    正式に行政手続きをクリアした委員会で、予算措置もされる機関として設置されるの
    かを明確にするべき。
 (2)
    それが保障され、かつ峯山冨美前小樽運河を守る会会長も参加するなら、小樽・夢の街
    づくり実行委員会も「これからの小樽の『まちづくり』を担うために参加するのはやぶ
    さかではない」
という2点で、論議に参加していた。

 小樽活性化委員会に、バラ色の夢を持てるなど誰も思っていなかった。
 一方、小樽運河保存運動が終焉したからといって、運河埋立派企業人や行政に小樽運河保存運動が提起した『まちづくりの質』抜きの都市計画をさせるわけにはいかなかった。
 
 小樽運河を守る会・峯山Gも、皆それを当然とした。
 この「小樽活性化委員会」発足を睨みながら、峯山冨美前小樽運河を守る会会長がいうところの「これからの小樽の『まちづくり』を担うため」の発言権をいかにこれからもキープしていくのかとし、
   小樽運河なき後の基本路線は何なのか、
   招集される小樽活性化委員会でそれこそが構想として論議されなければ意味はない、
   そこで創られる新しいまちづくり構想の実現を担う主体は、道庁、小樽市のどちらなのか、
と明確な返答を求めるべきだ、とした。。
 このような流れで会議は続いた。

 私の唯一の不安は、
  (1)まず『小樽活性化委員会』が、道議会と小樽市議会で、行政手続き上しっかり位置づ
     けられる正式の機関なのか否か
が明確に確認されないままに、事態が進行することであった。
 この小樽活性化委員会を巡る一連の流れと平行し、小樽運河を守る会・峯山会長支持グループで1984(昭和59)年10月「小樽再生フォーラム」が結成された。
 同年11月、小樽活性化委員会の第1回会合が招集された。

 いわゆる小樽運河保存運動・峯山会長支持Gの私たち思いは、この1983(昭和58)年から(1984昭和59)年の2年間の、運河埋立派の経済界・行政との小樽運河再生再活用を巡る論議を、今後のまちづくりという場面で真っ正面からの質的論争として地に足を就かせて継続させ、それをもって市内での『まちづくり』市民運動が明確な位置をキープし、11年間の小樽運河保存運動の「ケジメ」を明確につけるということであった。
 
 それは、小樽活性化委員会のコーディネーターに、小樽運河保存運動と強力な関係であった(財)環境文化研究所の前田博研究員をねじ込むことが出来たこと、それに加え小樽運河保存派委員にイニシアティブを発揮してもらい、小樽運河は埋め立てられるとは言え今後の小樽のまちづくり提案を盛り込んだ構想こそを完成させようとしたのである。
 だからこそ、峯山冨美小樽運河を守る会会長、石塚雅明(小樽運河を守る会企画部長)、山口保(百人委員会事務局)、佐々木一夫(小樽・夢の街づくり実行委員会会長)、石井伸和(第7回ポートフェスティバル実行委員長)という顔ぶれを委員に送った。

 だが、小樽活性化委員会の事務局は、道でも市役所でもなく、小樽商工会議所におかれることになった。
 一番危惧した「道や小樽市の正式の行政手続きを経ないままの小樽活性化委員会」という重く切ないスタートだった。
 それをもって、小樽活性化委員会の小樽運河保存派側委員を責めるわけにはいかなかった。
 敗北した側が、いくらそれを道・市サイドに求めても意図的に回答を逸らされてしまうしかなかったのだから。

 道議会多数派を握る自民党道連や市議会多数派を締める自民党小樽支部が、道議会や市議会で正式な行政手続き上承認されていない「小樽活性化委員会」の報告書が、まともに議会に事業として取り上げられるなど、あり得なかった。
 ましてや、小樽活性化委員会最終報告書を実施し、横路道知事の成果に、横路道政の成果にさせるはずもなかった
 全く無視される、としか想定できないにもかかわらず・・・。

 しかし、小樽活性化委員会論議に臨む委員も、新たに作られた小樽再生フォーラムの仲間も、その小樽活性化委員会報告書に「小樽運河保存運動のケジメ」と「これからの小樽のまちづくり展望を盛り込もう」として懸命に奮闘した。
 山口は、その論議を
   「運河はまだ残っている、『昭和の運河』だ。
と、そう、よく語った。
 小樽運河ではなく、小樽築港側の樽一青果卸市場の海側と中央埠頭が作る別の運河水面を、山口はそう表現した。
 小樽活性化委員会に委員に加わったN.I氏はその山口の主張に張り切り、山口の語りをそのまま使い、これからは『昭和の運河だ』と氏の周囲に盛んに触れ回ったものだった。

 私は、そのような流れのなかで、小樽活性化委員会のなかで懸命に頑張る小樽運河保存派の委員に、敢えて
   「その小樽活性化委員会の最終報告書が道議会や市議会でどういう扱いを受けるか」
として、異を唱える気持ちはもはやなかった
 「小樽活性化委員会」は、一度「ケリをつけないとならない」わけだったから。

25_03. 小樽活性化委員会「最終報告書」

 それから約2年をかけた論議の末、1987(昭和62)年1月、小樽活性化委員会最終報告書が出来上がった。
 前年、1986(昭和61)年、小樽運河散策路が完成し63基のガス灯が灯り、この灯りを合図にするかのように小樽運河観光が爆発していく。
 小樽活性化委員会の最終報告書は、正式名
   「小樽運河港湾地域整備活性化『構想』
   「ウォーターフロント21ー交・遊・技・芸の街ー
とタイトルがつけられた。

 しかし、私たちが入手したのは、B4用紙にコピーし綴じた、粗末な装丁(?)のモノだった。 
 体裁は気にしないけれど、これが、道庁と市役所と小樽経済界と民間委員で構成される委員会の、2年の論議をかけた最終報告書かと笑う代物だった。
 まるでその装丁に、その小樽活性化委員会最終報告書の取り扱いの姿勢が現れていた。

 しかし、中身は渾身の出来だった。
 
 「昭和の小樽運河」というのが小樽活性化委員会のスタート当初の目玉だったが、最終報告書では、旧国鉄手宮線に路面電車が走行し「昭和の小樽運河」まで運行する、というイメージだった。
 小樽運河と並ぶ、日本で三番目に敷設され、明治の殖産興業のエネルギー源・石炭の搬出入という日本の近代化に貢献した産業土木遺産としての旧国鉄手宮線を、これからの小樽のまちづくり展望に組み込むとする、初めての試みだった。
 それを海岸線にへばりつくように沿って形成された小樽という街の、南北(市内横断)の公共交通動線と観光動線として位置づける試みだった。
 この都市内交通としての横動線は、観光爆発を迎える、例え道々小樽臨港線が完成したとしても予想される小樽市内の交通渋滞を解消する視点をも組み込んでいた。

 目玉のもう一つは、市が1980(昭和55)年買い上げた、小樽最初の営業倉庫を誇った「小樽倉庫」の「小樽国際グラスアートセンター構想」だった。
 地場のメイン産業ではなかったガラス工房が、観光爆発と共に注目を浴び始めていた。
 これを、観光爆発を契機に着実に小樽に根付いたクラフト産業として発展させるために、内外のガラス作家や工芸作家を招聘し、グレードの高いガラス工房育成のセンターにとするものだった。
 それは、ただ「手作り」だけを標榜するだけで、質的には粗雑な観光みやげ商品としてのガラスから、「ガラスの街・小樽」を目的意識的に築いていこうとする地場産業形成構想だった。
 
 そして、最終報告書には「付録」がついていた。
 将来的に「道々小樽臨港線を4車線化する案」と「1車線だけ残しアンダーパス化する案」が添付されているのが、小樽活性化委員会での論議を彷彿させるものではあった。
 道々小樽臨港線6車線工事が完了したばかりで小樽運河散策路が完成した直後に、これからの観光都市・小樽の交通体系を将来を見据え「もう一度捉え治す」とする小樽運河保存派委員と、小樽運河保存=道路問題に決着がついたのにそれを再び蒸し返すことに真っ向から反対する運河埋立派企業人とのぶつかり合いの、ギリギリの最終調整が「付録」という形となったのだった。

 小樽活性化委員会が小樽の将来ビジョンを築き上げ、それを民間の小樽再生フォーラムが着実な実施にむけたシンポジウムやフォーラムを展開し、更に新たにポートフェスティバルを軸に作られる「小樽まちづくり塾」が推進運動をし、それを受け道庁と市役所が実施プランを策定する。
 そのような、小樽再生フォーラムの結城洋一郎議長の運動展望が、引き寄せられるかだった。

 しかし、決定的問題は、その最終報告書が一体何処に提出されるのか、だった。
 北海道議会なのか、小樽市議会なのか、その両方なのか、受け取った議会はそれをどう取り扱うのかだった。 
 しかし、それは全く展望はなかった。
 小樽活性化委員会最終報告書は、徹底的に無視された。
 見事なまでの無視だった。

 1987(昭和62)年1月に、小樽活性化委員会の最終報告書が完成する。
 そして、その3ヶ月後の1987(昭和62)年4月の統一地方選で「新谷昌明」新市政が誕生する。
 横路知事仲裁の五者会談で、その知事代理として会談に立ち会ってきた新谷昌明・北海道庁政管理者が、なんと小樽市長に就いたにもかかわらず、また、その五者会談の延長で2年をかけた小樽活性化委員会にも立ち会ってきた新谷昌明・北海道庁政管理者が、その小樽市新市長に就任したにもかかわらず、一切それを市議会でも行政にも取り上げようともしなかった。
 山口保は、怒りに怒って新谷市長に面談にいき市長室応接セットを蹴っ飛ばさんばかりに抗議したが、新谷市長に惚けられて為す術もなかった。

   「新谷市長サイドは、
    勝った小樽運河埋立派が、負けた保存運動派と2年も付き合った
    それ以上でも以下でない、ってぇことだわ。
と、私は山口に言い怒りを静めさせ、これからは『昭和の運河だ』と叫んでいたN.I氏には苦笑いを投げてやるよりなかった。
 申し訳ないが、怒っても今更何の意味もなかった

 今から考えると、その頃の私は
   「どこまで『反対』運動を続ければいいのか
とする意識であり、逆に「着実に成果を得られる運動」へのますますの傾斜であり希求であった。
   「アンチからオルタナティブへ」
の漠然とした思いが生まれていた。

 私の意識は、そのような表面上の官民一体の委員会=小樽活性化委員会などで、小樽のまちづくり論議を続けてもその展望は引き寄せられない、というところに益々凝縮していた。
 その私は小樽活性化委員会より、小樽観光爆発の趨勢を背景に小樽運河保存運動時に知り合った札幌の建築家集団「ハビタ」の仲間と、
  ・色内エリアの歴史的建造物の再生・再活用プランを練り上げ、
  ・それを小樽の民間企業人に提案し、
  ・観光集客施設への再活用や宿泊施設での再活用運営を促す活動
に意識を向けていた。
 それが、崩壊一歩手前の進行する歴史的建造物の老朽化を防ぎながら、小樽のこれからの『まちづくり』にとっての重要な歴史的建造物という資源の再評価と価値を一層促進していく、としていた。
 山口も、小樽活性化委員会での会議参加を通じ小樽活性化委員会を軸にした『まちづくり』展望を次第に喪失してきており、このハビタを軸にした「歴史的建造物の再生・再活用プラン運動」に乗ってきてもいた。
 互いに、小樽運河保存運動終焉後の『まちづくり』路線を模索していた。

p_habita_plan
 自分たちのその活動名を
   「大正ロマネスク・小樽色内倶楽部
とし、

p_cci08
   旧・拓銀小樽支店再活用プラン、
   小樽缶友会館再活用プラン

を練り上げて完成させ、所有者に提案するという活動にシフトチェンジしていた。
 皆、札幌圏の建築事務所を経営し、大手建築事務所に勤務するプロであり、その両プランはビジネスで発注したら、数百万円 はするものであった。
 それをボランティアでやるということは、私たちがそうしなければ、老朽化し破損し崩壊していく歴史的建造物を救う道はなかったからでもあった。
 完成した旧・拓銀小樽支店再活用プランは、小樽の歴史的建造物不動産を多数所有するオーナーのI氏に提案することまでは出来た。
 一方、小樽缶友会館再生再活用プランも完成し、その所有者の北海製缶社長に提案する場を作れるかとする段階に来ていた。

 その当時の私たちの力量では、限られた様々なルートしかなく、それを駆使しても提案するチャンスは多くは作れず、ついに北海製缶の親会社T社の社長T氏を直接つかまえようと札幌のオフィスまで行き、アポイントメントを要望するが逃げられつづけた。
 最後は、会社の玄関で社長を張ってもみた。
 やり方が、無茶苦茶で若かった。
 成果なしで肩を落としてへとへとになって帰樽した。

 そして、その翌朝、小樽・蕎麦屋・籔半は失火から全焼してしまう。

25_03. 1987(昭和62)年、統一地方選挙・小樽市長選。

 小樽運河保存運動が終焉しても、飽くことなく小樽運河保存運動サイドは敗北を乗り越えエネルギッシュに動いた。
 二年間の論議を経て小樽活性化委員会最終報告書が完成した。
 だが・・・・、
  「小樽活性化委員会最終報告書」
は、それをどこが管轄し取り扱うのかさえも保証されていなかった。
 道も、市もそれを明確にせず徹頭徹尾曖昧にし、小樽活性化委員会最終報告書は生まれた途端塩漬けにされるという運命を辿ることになった。

 それに怒った山口保氏はじめ小樽運河保存運動派は、1987(昭和62)年統一地方選挙で、
   「まちづくり市長候補」擁立を11年間の小樽運河保存運動の論理的帰結
として市長選挙に突き奔ることになる。
 そして、市長候補に歴代のような行政マン市長ではなく『まちづくり』を志向する民間人候補をとし、1983(昭和58)年の小樽商工会議所の運河埋立路線大転換を担った正副4会頭の一人であった
   小樽観光協会会長・佐藤公亮氏((株)かま栄社長)
を擁立しようとした。

 山口が、二年前の小樽運河埋立か保存かを巡るリコールを巡るプロセスで、リコール成立後の市長候補として俎上にあげ積極的になっていた通産官僚氏擁立では、なかった。
 その通産官僚氏自身がもはや小樽市長としての立起を諦めていたのか、山口保氏自身が見切りをつけていたのかは判然としないままだった。
 いずれにせよ、結論的に言うと「まちづくり市長候補の擁立」は、自民党小樽支部と川合会頭ら経済界によるE難度とも言える二年前の横路北海道知事仲介の五者会談で知事代理を務めた「新谷昌明・北海道副知事」の担ぎ出しのまえに、その目論見はあえなく水泡に帰すこととなった。
 経済界重鎮の政治決定構造がまだ1987年段階では強固にあったし、保守陣営後援会は選挙現場を経験した強者たちが存在していた。

 そもそもこの1987年の市長選挙で候補を擁立し闘うということは、ポスト小樽運河保存運動の小樽のまちづくり展望を賭ける、
   「全面的政治戦
に突入することを意味した。
 結果は戦場に登場する間もなく、部隊編成前の「候補擁立」場面であえなく敗北した。
 佐藤公亮氏市長候補擁立サイドの陣形づくりは、あまりにも「市民運動展開」的でありすぎたことがその敗因だった。
 そもそも全面的政治戦を展開するには、オール小樽レベルの司令塔である政治指導部形成が問われてしかるべきだったが、市長候補擁立という目的意識的政治工作を担うべき政治指導部は最後まで形成されず、最初から最後まで「市民運動展開・勝手連方式」展開しかなかった。
 ポスト小樽運河保存運動の小樽の街の将来を賭ける市長候補者擁立であるにもかかわらず、まずその市長候補擁立目的意識的工作を担いきる政治戦指導部を用意することに敗北したといえる。
 その雌雄を決する小樽市長選の位置づけも「11年間の小樽運河保存運動の論理的帰結」という「運動の論理だけで臨んだまま、最後までそのレベルを乗り越えられない弱点を胎んでいた。
 ・・・だから、一般市民向けに「次はなにか、次に向けて提案されるまちづくり方針とは」は、全くリーフレットとして準備され配布されることはなかった。
 
 自民党道連会長であり地元小樽選出の箕輪登代議士が、道庁マンを担ぎ出す工作をしているという話が街に流れた。
 そのような裏工作話が街中にまで広がるという醜態をさらすほど、箕輪登代議士の政治的権威は地に落ちており、挙げ句の果てにお目当ての道庁マン氏に逃げられてしまい、自民党道連会長・箕輪登代議士自身が選挙戦の場から脱落し、二の矢で新谷昌明・道副知事に立起要請をするというお粗末さと無礼さを露呈する。

 ここまでの政治状況は、佐藤公亮氏擁立サイドにとっては有利に進んでいた。
 同時並行で山口保氏は何度も佐藤公亮氏を訪れ、佐藤氏はついに立起を決意してくれた。
 佐藤氏自身、これからの小樽の将来を「観光」に戦略的展望を定め、そこからの小樽経済の復興をとされていた。 
 その意味では、肝は座っていた。
 が、佐藤公亮氏は、地元経済界が自分ではなく他の第三者を統一市長候補として推薦決定する事態になった際には
   「保守分裂選挙を回避するため立候補はしない
と、条件をつけての立起だった。
 佐藤公亮氏市長候補擁立に賛成した青年会議所OB諸氏も、同じ立場だった。
 しかし、佐藤公亮氏の「保守分裂選挙には立候補しない」は、
   「今後の小樽の展望を賭ける全面的政治戦
としては、あまりにも良識すぎた
 小樽運河保存運動の終焉後の観光爆発という小樽で問われていたのは、
   「何な何でも地元保守陣営を分裂させて」
まちづくり市長候補として佐藤公亮氏擁立の政治工作が全てであり、それこそが問われていた。
 にもかかわらず、保守の分裂選挙の回避などという良識は本質的に曖昧さを内包し、逆に本当に勝ちにいく勇気と決断力と決意が問われていた。
  やっと市長候補立起に頷いた佐藤公亮氏に対し、そこまで突っ込むことは佐藤公輔氏擁立陣営には出来なかったというところが正直なところだった。
 
 一方、自民党小樽支部と経済界は、箕輪登代議士の政治力での候補担ぎ出しはとうに諦め、彼らの陣営に「民主党・連合・公明党」を巻き込み小樽商工会議所を加えた、現在まで続く
   「五者相乗り体制
に踏み切る覚悟を、この時点で決意していた。
 それまでの小樽の経済界重鎮政治と密室政治からすれば、信じられないほどの危機感を自民党と経済界は持っていたといえる。
 小樽運河保存で小樽という街が二分し、市内の大方の諸団体が運河保存か否かで分裂することで出来た
   「街全体の綻び
を繕うことに彼らは全力を挙げた。
 小樽の町全体の対立という事態(=街の政治決定構造の喪失)に対する「厭戦気分」を政治的背景にし、
   「市民運動による小樽の政治的分裂と混乱は絶対起こさせない
という実にシンプルで固い決意の表現が、「五者相乗り体制」として表現されたわけだった。
 ここでの旧社会党・現民主党の五者相乗り体制への参加が如何にまちづくり市民運動を困難にさせたかはきわめて重大な問題だったが、それを語るのは別の機会に譲ろう。
 
 結局、中身は別として市長選挙に臨む目的意識の深度と決意の強さでは彼我では大きな差があった、といえるであろう。 
 この自民党小樽支部と経済界の決意の度合いの深さに比較し、佐藤公亮氏擁立陣営は小樽運河保存運動同様
   「市民運動展開での勝手連方式での選挙戦」
という一本槍路線しか用意できないでいた。
 この街の綻びを繕う動きに対し、逆にどうその綻びを一層拡大するのかという極めて政治的な工作をである市長候補擁立という政治戦構築を組み得ないでいた。
 自民党小樽支部と経済界に加え、民主党・連合をも巻き込んだ
   「五者相乗り体制統一候補」
に対抗する、保守分裂選挙を覚悟する徹底的なまちづくり市長候補擁立工作を担う政治戦指導部が用意出来ないまま、そのためには当然必要な自民党小樽支部内部への政治工作、民主党内部、公明党内部、地区労内部への政治工作をするネットワークすら確立出来ないでいた。
 小樽商工会議所、中小企業家同友会、市内各経済団体や諸団体への同様の政治工作のネットワークも明確に形成できなかった。

 加えて、川合一成小樽商工会議所会頭が最初から佐藤公亮・小樽観光協会の市長候補擁立には難色を示していた。
 それは、何としても小樽商工会議所会頭という政治的イニシアティブの死守であり、佐藤公亮氏に対する強烈なライバル意識も内包した川合会頭の政治的執念だった。
 自身の小樽での政治的位置を危うくするような、同じ企業人からする市長立起はまだ商工会議所会頭職を手放したくない川合会頭は許すわけにはいかなかった。
 ここが、小樽運河保存運動時の小樽商工会議所正副4会頭の運河埋立から運河保存への大転換という正副4会頭の政治的一致とは全く違う、根本的問題だった。
 決定的には、この運河埋立から運河保存への大転換は、政治工作担当の大野友暢副会頭の存在があったから成立したといえた。
 更に、佐藤公亮氏市長候補擁立のプロセスに川合会頭自身を介在させていなかった分、一層川合会頭をしてそのイニシアティブへの危機感を与えてしまう結果しか招かなかった。
 そもそも、佐藤公亮氏の市長候補擁立が、この街の綻びを繕う動きに対し逆にその綻びを一層拡大することを意味したし、その中で川合会頭はどう位置するのかとして問われ、いや問うていたのだが、問うた側がそこまでの政治戦を意識化出来ていないまま突っ走っていた
 佐藤公亮氏擁立路線は、表で川合会頭にどちらの側につくのかの選択を迫っていながら、裏ではその後のフォローは全く成立していなかったのである。
 その佐藤公亮市長候補擁立路線が、自民党小樽支部と経済界にどういう反応を起こさせるのかという政治的「効果」まで予測しながら、その政治効果に自民党小樽支部と経済界が「どう出てくるか」という予測は、あまりにも甘かった。
 ここに、川合一成小樽商工会議所会頭の「町の分裂した綻びを繕う」という大義名分での「裏技に次ぐ裏技での「経済界での候補一本化」という名目で道副知事・新谷昌明氏担ぎ出し工作に対抗しえなかった理由があった。

 横路道知事と知事職を巡る攻防戦の対立候補であった三上前副知事や中央バス前社長・前副知事の中川利若氏までも動員し道レベルの知事説得をした。
 保守vs革新という保革対立を全面にするのを回避する社会党・横路陣営の弱さにも川合会頭は依拠していた。
 更に、横路知事に対して新谷副知事説得工作を依頼し、トドメは北海道中央バス・中嶋秀雄会長や北海道通信電設社長・山本勉氏に「地元小樽の総意」とする横路知事への新谷副知事擁立要請という、分厚い政治工作を川合会頭は展開した。
 翌月4月は選挙本番となる最後のギリギリのタイミングの3月中旬だった。
 新谷昌明副知事が出した条件、つまり共産党を除くオール小樽の市長候補として出馬する、と新聞紙上で報道された。
 
 このように、事前の分厚い何層もの工作活動こそが、求められる市長候補擁立の政治戦であった。
 佐藤公亮氏を擁立する「新しい小樽を考える会」は、結局その代表者も決められず、民主党・連合まで巻き込む自民党小樽支部と経済界の「五者相乗り体制」の総力戦の前に、分断工作もかなわず戦わずして敗北した
 佐藤公亮氏擁立陣営は、経済界重鎮政治や密室政治を正当に論理的に批判することと、「政治という場で最終的に勝つこと」とは全く別であることを、はき違えていた。
 運動の論理一本槍路線の敗北だった。 
 あっけなく佐藤公亮氏氏市長候補擁立工作は、失敗した。
 そこにあったのは、再び「街場の政治」という壁であった
 
 前々項、「23_04 リコール成立の目算と成立後の市長候補者問題」でも述べた。
 私たちは、小樽運河保存運動時の、もしもリコール発動が市民参加型で成立し「次期市長候補は」となったときの通産官僚氏への入れ込み具合の総括がなされないまま、今度は候補予定者が佐藤公亮氏と変わっただけで戦おうとした、と言えまいか。
 市民運動展開をしてきた小樽運河保存運動に対しては、とりわけ百人委員会のスポークスマン役だった山口保氏に対しては、誰もが評価をしていた。
 であるが故に、「小樽運河保存運動」に関し彼にもの申す小樽人はあまりいなかった。
 が、殊「市長候補」となれば今後の小樽の政治構造を大転換するわけで、「小樽運河保存運動の発展の論理」だけの話で全くすまないとするのが街場の論理だった。
 次期市長候補となれば、経済人は自身の町のポジションや自社のビジネスが絡む一大問題であった。
 経済人であればあるほど、それはそうだった。
 そして、小樽運河保存運動への理解=「まちづくり市民運動市長候補擁立」への理解とはストレートにならない、即賛成とはならない現実があった。
 更に、「小樽運河保存運動をはじめ様々な市民運動が担ぐ人材だ」となると、そのハレーションは必然的に大きくなるのは決まっていた。
 佐藤公亮氏市長候補擁立陣営は、「市民運動の窓(枠内)」(=市民運動の論理的帰結)からしか街を見ていなかった、と言わざるをえないということだった。

 「街場の現実」というものがある。
 次期市長候補の名前を「街の誰が出すか」で、すなわち「擁立者が誰か」でその流れをつくれもするし、流れが消えてもいくという現実だった。
 いわゆる、擁立者の街における「信任」であり、擁立者の街場での「権威」であり、街場で承認された擁立者の「」の問題だ。

 だが、小樽運河保存運動の山口保氏ではあっても、残念ながら経済界・政党・諸団体にネットワークを持つオール小樽の山口保氏ではなかったという、街場の「アヤ」があった。 
 山口保氏が、本当に佐藤公亮氏を「市長候補」にとするなら、彼は一切表に立たないで完全に潜航し、小樽という町で信任され権威と人格のあるそれなりの擁立者を立て、そのもとでの擁立工作をしなければ、そもそも市長候補擁立の第一段階の成功もおぼつかなかった。
 例えば、大野友暢氏クラスだった。 
 が、志村市長後援会の幹事長を永年務めてきた大野友暢氏は山口保氏の相談には真摯に応えたが、みずからが全面に乗り出すことはなかった。
 川合会頭と自民党小樽支部の重層的政治工作の進捗を見切る作業をされていたのか。
 しかし、山口保氏は、その佐藤公亮氏擁立工作を市民運動展開の延長線上でしかとらえず、市民運動の論理的帰結としてしか推し進めようがなく、しかも自身と候補の関係性を全面露出してやろうとした。
 ある意味で、市民運動が、いや市民運動を最後まで貫徹した自らが、市長候補を担ぎ出すという一種の酩酊状態にあったと言えなくもなかった。
 政治好きと政治工作に秀でているとは違う、ということだった。
 
 いくら獅子奮迅の活躍をしてきた「小樽運河保存運動の山口保」氏ではあっても、オール小樽の、それも経済界や保守をも巻き込んだ、いや保守層を分裂させねば勝ち得ない市長候補擁立という一大政治戦では、その市長候補の擁立者としての彼の街場での信任や権威や格は残念ながら若さ故に、未だ未形成だった。
 山口保氏が小樽出身者ではないが故の、小樽特有のよそ者排除の論理が適用されたと言われそうだが全く違う。
 山口保氏やましてや私などまだ三〇歳代後半は、小樽では未だそういう比重では軽い存在、一言で言えば「格の違い」があった。

 が、当時、それを理解しようとする山口保氏ではなかった。
 理解出来ても、論理さや思想性ではなく「街場での信任・権威・格」の未形成、総じて若さというどうしようもない点での「街場での現実」は、山口保氏には認めがたかった。
 若さだったからこそ小樽運河保存運動をここまでやってこれ、若さ故にぶつかる如何んともしがたい壁だった。
 それは一人山口保氏に負わせるレベルのものではない。
 小樽運河保存運動で政治的指導部を担い、小樽運河保存運動のレベルで指導部であっても、オール小樽の政治的指導部としての登場には早すぎた。

 山口保氏のまちづくりにおける有責感は痛いほど理解できる。
 ましてや、そういう論理や思想ではないところで物事が進むこの町の構造を壊したい衝動に駆られたのであろうが、未だ私たちは間に合ってはいなかった。
 盟友山口保氏のそばにいた私自身、それを徹底して論議することは、盟友である分出来ずにいたし、父の逝去と籔半店舗火災そして新店舗建築という状況が一層困難にさせていた。

 そして、より問題だったのは、その総括を
  ・五者相乗り体制での新谷副知事の市長担ぎ出し
  ・佐藤公亮氏の翻意
という現象面での敗因で、無理矢理総括してしまったことだった。
 佐藤公亮氏擁立陣営の目的意識的政治工作や候補一本化工作などの全政治姿勢や態勢づくりの中身まで突っ込んだ主体的総括はされえなかった。

 自分たちの弱点をえぐり出す真摯な総括を出せないような戦いは、やるべきではないという教訓だった。 
 中途半端な総括は、結局尾を引くことになる。 


25_07. 主体なき小樽運河、その観光爆発と町の動き



 道々小樽臨港線の竣工と1986(昭和61)年小樽運河散策路の完成を待っていたかのように小樽運河観光」はいきなり爆発した。

 運河周辺から中心市街地の店舗に大型観光バスが突然お客様をはき出すようだった。
 戦後からの斜陽に打ちひしがれ続けてきた店主たちは狂喜した。

 しかし、その小樽運河には、
   「小樽運河と小樽の『まちづくり』に関わる主体
は、もはや存在していなかった。
 小樽運河保存運動を担った者達は、敗北しその主戦場・小樽運河から去っていた。
 店を投げ、仕事を投げて、小樽運河保存運動の最後の二年間、激烈な小樽運河保存運動の先頭を駆け抜けた者たちには、充電時間が、いや放電時間が必要だった。

 結果、小樽運河は利益追求に目をつり上げた者達の「草刈り場」と化した。
 
 小樽運河を守る会、小樽運河百人委員会の内部抗争と分裂を教訓に、峯山冨美前小樽運河を守る会会長支持の小樽運河保存派は、小樽再生フォーラムとしてシンポジウムの開催を基本路線として、推進していった。 

 小樽運河保存運動が終焉し、志村市政から五者会談の道側の仲介役を担った新谷昌明氏が、新市長候補に擁立され、新谷市政に替わった。
 1988(昭和63)年、小樽市総合計画を更新するために、鳴り物入りで市民参加を旗頭に
   「まちづくり市民懇談会:通称「町墾
を、市内の若手民間企業人を一〇〇人規模で招集した。

 『町懇』には、そのターゲットをしっかり行政に据え、行政に積極的に様々なまちづくり提案をし、例えば新谷市政が新設した「都市デザイン課」と『町懇』が連携して、その提案を実践していく、という『まちづくり』運動スタイルに挑戦することを、少しは期待された。

 しかし、幸か不幸かその「町墾」にはポートフェスティバルや「夢街」の若きリーダー達は、見事に省かれていた。
 それが、意味したのは、このまちづくり懇談会(通称、町懇)も
   「新たな小樽のまちづくり(市民運動)の主体には、・・・なり得ない」
ということだった。
 小樽市総合計画が策定されて「まちづくり市民懇談会」を小樽市は解散した。
 
 「町懇」は、結局のところ、小樽運河保存運動での「行政側にとっての教訓」からの「産物」に過ぎなかった。
 横路道政の五者会談の仲介役を担った新谷昌明新市長にしてみれば、自分の市政下での小樽運河保存運動のような市民運動が再発することを、極度に怖れたに違いない。
 「町墾」という「肩書き」を市内若手企業人与え、町のポジションを提供することで、それが小樽運河保存運動のような行政に刃向かってくるような市民運動に発展しないよう、行政の目の届くところでプールする
 小樽の若手経営者が、町でのポジショニングに血眼になるくらいが、行政にとっては丁度よかった。
 ・・・『町懇』は、所詮、そのような役割しか与えられなかった。
 『町懇』に参加したその当時の若手経営者諸氏には申し訳ないが、
   「統制されたガス抜き装置
でしかなかった。
 
 街の若手企業人100人で構成される『町懇』で十分市民の意見を汲み上げた小樽市総合計画、と行政は胸を張れたわけだった。

 しかし、まちでの「ポジショニング装置」がないと困る人々が、行政から「自律・自立する」とし「新・まちづくり市民懇『話』会」を続けようとした。
 「談」から「話」に変わっただけだった。
 新『町懇』メンバーのなかでも、真剣に『まちづくり』に立ち向かおうとした部分がまず抜けて行き、次ぎに民間による新『町懇』ではまちのポジショニング装置にはならないとする打算的な部分が、抜けていった。
 そして新『町懇』の主要メンバー数人が、市の審議会の委員のポジションに就くと、新『町懇』は自然に消滅していった。
 
 夢街・ポートフェスティバルの若者たちが弊店に来店し、「まち墾」メンバーから排除されたことに、怒ったものだった。
   「まあ、怒らず見ていればいい。数年で消える組織だ。
    そのような『町懇』より、俺等がいずれ登場する別の場面が必ず再びくる。
    今の観光バブルが、いつまで右肩上がりで続くわけがない。
    かならず、ターニングポイントが来る。
    それまでは自分の『巣(会社・お店・居住地)』に籠もれ。
    小樽運河保存運動で手抜きした自店の商売をきっちり回し、店主になる。
    会社勤務のポートフェスティバルメンバーは、会社で部下を育て会社を回し、ランクア
    ップしていき、それで仕事を通して社会的ネットワークを自分の中にしっかり身につけ
    る。皆が、社会性をもった店主、社会性をもった会社員になる。
    俺自身も、それをやる。
    いずれ、そこで蓄えた能力がまた必要となる時代がくる。
    それまで、奥さんや子どもを可愛がって、頑張ればいい」
と答えたものだった。
 その彼らも、『まち懇』の推移をみて、
   「まち墾に参加を求められないでよかった。」
と、照れ笑いしていた。

 彼らは、その私の主張を「巣ごもり路線」と即言ってくれた。
 そのネーミングが気に入り、以降私自身「巣ごもり路線」と語り始めていた。

 そして、巣ごもり路線をとる私には「主体なき小樽運河観光の爆発」という私たちのやりのこした宿題が、依然として残ったままだった。

25_08. 旅は終わったところから始めなければならない


 11年間展開された小樽運河保存運動が敗北し、
 1986年(昭和61年)に主要道々小樽臨港線建設工事が完成し、
 1988年(昭和63年)主要道々小樽臨港線建設に伴う小樽運河整備が完了した。
 小樽運河観光は文字通り大爆発する。
 
 毎年10%以上の伸び率で、観光客入り込み客数は増大していった。
 堺町通りの木村倉庫の石造倉庫を北一硝子が再活用し開業したのが、大きかった。 
 いきなり大型観光バスが寿司店など飲食店前に停まり、席を埋めつくす観光客が押し寄せ飲食店は驚喜した。
 小樽市は、そこで五年間で500万人/年の観光入り込み客数拡大計画=ファイブミリオンプランを立てるが、わず三年でそれを達成する、爆発的ブーム現象となった。
 その前兆を小樽運河保存運動で感じていた私たちも、これほど爆発するとは想像だにしていなかった。
 本州大手資本が小樽運河や堺町通り周辺の不動産を買いあさり始めた。
 私が小樽運河保存運動に関わり始めた昭和50年代初頭、石造倉庫所有者は、
  「そんなに保存したかったら購入すればいい。
   坪15万円出せば喜んで売ってやる。」
と、小馬鹿にして言ってくれたものだった。
 が、それがこの観光爆発とバブルで「飛び地にある石造倉庫をまとめた物件」ものですら、購入価格が坪400万円まで跳ね上がった。
 小樽運河周辺の不動産所有者も買い漁りにくるディベロッパーも、血走った目をさらにつり上げていた。
 日本のバブル時代はすでに終わっていたが、小樽だけは観光バブルに酔っていた。

24_kanko_irikomi
1973年(昭和48年)から2009年(平成21年)小樽を訪れてくれた観光客入り込み数推移
 
 1986年(昭和61年)から2001年(平成13年)まで、15年間急カーブの右肩あがりで観光入り込み客数が伸びているのをわかっていただけるだろう。
 この右肩上がりの観光入り込みが趨勢になった当時、花園町華街では、毎晩、小樽運河周辺の石造倉庫や堺町通りの不動産物件の売買価格情報が飛び交った。
 
 花園町華街の呑み屋で憮然としてカウンターで呑む私に、居合わせたとある市内の会社社長が、
   「小樽運河保存運動をやってくれた君こそ、石造倉庫を買っておけば良かったのにねぇ。
    今頃、儲かってしょうがなかっただろうに。」
と、粘り着くような声をかけてきた。
 要は、小樽運河保存運動を担った私たちがビジネスチャンスを逃したと言わんばかりの物言いだった。
 市民運動、大衆運動という概念が皆無の方だった。
 飲み屋の女将の顔をみ、論争になってもいいというアイコンタクトをもらってお応えした。

   「あはは、真っ当な事を11年言い続けてきましたよ。
    そのご褒美は、背中に投げつけられた石礫の跡だらけですわ。
    社長さん、私の背中見ますか?
    それなのに、小樽運河保存運動の真最中に、小樽運河の石造倉庫を買ったら
     『あいつら自分の儲けのために、小樽運河保存運動をやってる
    と、石礫でなく刃物で刺されるような評価を頂いたでしょうね。
    小樽は、出る杭は打つ、そんな街なんです。 
    ディレクター気取りで、この街をいじろうとしたら即刺されますよ。
    その点は気をつけられて、覚悟を持って言動に注意された方がよろしいかと。
    若造の分際ですが言わせてもらいますわ。
    勘違いされておられるようですのでね、付け加えさせてもらいます。
    私は『手前だけの儲け』なんぞで小樽運河保存運動をやったわけじゃないのですわ。
    どうせなら、小樽の『皆でもうけよう』としただけですわ。
    だから、私はどなたからお声がけ頂いても、絶対小樽運河や堺町で自分の商売はやりません。
    やる気は毛頭ありません。
    小樽運河以外の市内エリアででも、真っ当な蕎麦屋できっちり儲けてみせますから。
    どうせ、こんな狂乱状態など続かない。
    ご先代が血と汗で残してくれた不動産を売り抜いて利益上げてくださいな。
    それこそ、立派な企業人でしょう。」
と返させて頂いた。
 社長氏は憮然として席を立って帰られた。
 街で、あたかもディレクター然とした言辞を普段から放っていた社長だった。 
 第3埠頭再開発だ、ウォーターフロント再開発だと声だかに叫び、シンポジウムなど開催されていた。
 それに惹かれて若い企業人が、この社長の周囲に集い、もてはやしてもいた。
 いつか業界から圧がかかる、そのときこの社長はどう振る舞うかだ、と見守っていた。
 暫くすると、この社長自身の業界で、どなたかに一発頬を張られるような圧力を受けたという話が世間に流れた。
 勿論、この社長に圧力をかけ恫喝した業界大幹部の方が問題なのだが、それを予想して振る舞うのが当該社長としての「大人の知恵と覚悟」だろう、と思っていた。
 しかし、その後この街に関する言辞をこの社長は一切吐かなくなってしまった。
 逆だろうに、と呆れ果てた。
 本人はダンディなつもりなのだが、心根はダンディとは私には見えなかった。
 以降相変わらずのダンディ振りで華街には出入りされてはいたが、この街でのポジショニングには完全に失敗された。
 そんななか、1995(平成7)年、小樽倉庫No.1が開業し、浅草橋街苑には「びっくりドンキー 」が開業した。
 この呑み屋での会話以来、その社長氏は弊店には来て頂いていない。
 経世済民の「経済人」はこの町にいるのかと呻いていた。

 まちづくりにとって、「行政・経済界・市民」の三要素が決定的に大事だとよく言われる。
 しかし、主要道々小樽臨港線が完成した1986(昭和61)年から2000年(平成12年)までの14年間の小樽観光の爆発的飛躍に、行政と経済界は斜陽のどん底で苦吟した教訓を全く活かさなかった。
 小樽運河堺町周辺の自己所有の不動産物件をどう高値で売り抜き賃貸するかという「オール不動産屋状態」となり、そのレベルで我が世の春を謳歌した。
 正直、小樽には企業人はいるのだろうが、『まち』の進路や将来を引き寄せようとする「経済界」は存在しなかった。
 うなぎ登りに増加する観光入り込み数がいつまで続くわけはないにも拘わらず、小樽運河観光のネクストを打ち出せないままだった。
 
 一方、私は
   「小樽運河保存運動は壮大なるゼロだったか」
と格好良く言いはしないものの11年間のこの町への関わりの総括を仕切れないで、残務整理、敗戦処理にあけくれた。

25_09.1994年(平成6年)、ポートフェスティバル第17回で完



 1974(昭和59)年の第7回ポートフェスティバル開催直前の、6月28日だった。
 小樽運河を守る会の一部と共産党支持者が、百人委員会の代表幹事の一人・村上勝利を担ぎ出し
   「1週間以内に志村市長リコールの請求手続をとる」
ことを、突然百人委員会の忠告も無視し、単独記者会見で表明した。
 道路建設派と保存派が11年の運動史上初めて共同のテーブルに着き論議する「五者会談」の継続中だったにもかかわらずの、突然のリコール表明は、
   「後ろから矢を射る」
ような、市民運動の大義を汚す行為だった。
 即、彼らの不意打ち的リコール「発動」表明を受け、百人委員会は当然市民運動として取るべき態度ではない、と断じた。
 そして、これを機に保存運動は分裂した。
 以降、人口一八万の都市で10万人を越える主要道々小樽臨港線建設見直し署名が集まり、町を二分するほどの小樽運河保存運動の高揚は、潮が引くように消滅し、敗北した。

 1974(昭和59)年の第7回ポートフェスティバルは、このような一部のハネアガリのリコール発動表明とそれを押しとどめる百人委員会の働きかけの真っ最中に、開催された。 
 ポートフェスティバルは道々小樽臨港線工事凍結で、かろうじて最後の運河を取り囲む市道港線を運河会場としての開催となった。
 悔しいが、「小樽運河からのまちづくり」を標榜して続けられたまちづくりイベントのポートフェスティバルは、この翌年から小樽運河保存運動の敗北を受けて、その理念を喪失していくことになる。
 この段階で「次の新しいまちづくり理念」を創出していくことは、その敗北感も相まって困難だった。

 そんな私たちの思いなど全く無関係に、爆発的に拡大し押し寄せるように来樽する観光客。
 開催さえすれば、軽く30万人の来場者を誇るポートフェスティバルだった。
 それが、小樽の観光イベントスケジュールに一気に組み込まれていった。
 それは、ポートフェスティバル執行部にプレッシャーとなって肩にのしかかっていく。
 そしてポートフェスティバル開催から数えて16年目を迎える。

 開催当初の高校生スタッフも、30代半ばとなり勤務する会社では中核社員となり、常時ポートフェスティバル会議参加は当然困難となっていった。
 かろうじて、年休をとってのポートフェスティバル開催当日の参加という厳しい状態になっていく。
 結果、開催当日前後は二〇〇名を越えるスタッフが揃っても、普段の準備は1~2割のスタッフで賄っていくというギャップを産んでいく。
 又、理念を喪失したポートフェスティバル実行委は、外に向かって「語る言葉」も喪失していき、結果、新しいスタッフを仲間に加えていく攻勢的な開催スタイルは困難になっていた。
 残された執行部は、健気に
  「継続こそ力」
を合い言葉に奮闘する。
 が、絶頂期のポートフェスティバルとは違い、限られた少数の執行部に全負担はかかっていき、その年の開催終了から即、翌年の開催準備と1年中ポートフェスティバル開催に奔走する状態を強制されていく。 
 「小樽運河からのまちづくり」という目的を失いながら、「継続は力」といいきかせながら、ポートフェスティバル開催という「手段が目的化」していく事態だった。 

 それに反して、小樽運河観光はますます爆発を続けていく。
 平成になって中曽根民活が打ち出され、バブル・地方博・テーマパークの三点セットが襲いかかり、小樽運河観光はそれに背中を押されるように爆発をつづけていた。
 1991(平成3)年、九州長崎県の普賢岳が噴火し長崎に多大な被害をあびせる。
 もの凄い火砕流が発生し、多くの住民や取材にきていた取材陣が巻き込まれるのをTVで国民は見せつけられた。
 以降、全国の旅行会社は九州観光から北海道観光に振り替えシフトし、小樽観光はバブル・レトロブームに加え、つくられた北海道観光ブームも相まって一層背中を押され更に拡大して行った。
 しかし、その影で小樽運河・堺町は一層「観光出島」化していった。
 小樽のまちへの将来とは一切無縁の小判鮫商法の低俗安物土産店が林立していく。
 バス観光の滞在時間は少なく、「バス観光客のゴミ捨て場とトイレタイムの観光都市化」をまっしぐらに進む。
 バブルとレトロと北海道ブームに「ただ乗り」するだけの、将来的観光施策など皆無でその場限りの利益をむさぼる観光都市になっていった。

 ポートフェスティバル内では、そんな次元の小樽観光の年間スケジュールに組み込まれていっていいのか、という疑問が芽生えてくる。
 それに鋭く切り込む主体としての論議を持とうとしても、少人数での開催準備に追われ、そのような根源的な論議の時間すら確保できないというジレンマにポートフェスティバル実行委は落ち込んでいった。
 それに臍を噛みながら悩む執行部世代がいた。

 次の新たな理念を準備せずに論議を起こせば、会議は空中戦となってポートフェスティバルからただでも少ない執行部スタッフが去って行く恐れもあった。
 メビウスの輪のような悪無限地獄状態に陥る。
 そして、ポートフェスティバル初期世代も、その新たな理念の模索に呻いていたが、提出はできなかった。
 1993(平成5)年、第16回のポートフェスティバルが無事終了してしばらくして、ポートフェスティバル第三回委員長だった岡部唯彦(現・AIR-G営業部長)が弊店に来店する。
 
  「もう、ポートフェスティバルを解散させてやりたい。
   このまま続けさせるのは、可哀想で、酷だ。
   今の執行部は継続したいと突っ張るだろうが、その彼らも限度が来ている。 
   一度ポートフェスティバルから、自由にしてやりたい。
   ポートフェスティバルを継続したいものは、身の丈で開催できるレベルの
   ものをやってもらえばいい。
   ただ、ポートフェスティバル解散を決めるには、やはり今の執行部には無
   理だし可哀想。
   初期世代も現役世代もオールポートフェスティバルスタッフが集まり、自
 ら解散を決める、そういう論議をやりたい。」
と、切り出してきた。

 ポートフェスティバルの現役執行部の苦労と切なさを聞かされた。
 即、例三メンバーと過去一六回のうち、前半7回までの歴代実行委員長に弊店に集まってもらう。
 皆、限界がきていることを理解していた。
 出席した全員が、ポートフェスティバル現役執行部が自ら解散を言えるわけがないと判断した。
 そこに集まったに歴代実行委員長こそが現役執行部に解散を提案してやろう、となった。

 しかし、16年、笑いと汗と涙が詰まりに詰まったポートフェスティバルの解散を、現役執行部とその現役執行部からもっとも信頼されていた後半9回の歴代委員長を説得するのは時間がかかるのは必須だった。
 1年かけて、その論議をする覚悟を決めた。
 それから、籔半蔵座敷二階はポートフェスティバル解散を巡る会議場と化した。
   「継続は力」路線で開催し続けるのが何故悪いのか
と、現役スタッフが涙ながらに解散反対を訴えた。
 継続することで仲間性を確認し会える現役スタッフの思いが、そこにはあった。
 しかし、創設世代は、何に向かっての「仲間性」なのかと鋭く問いかけ、答えに窮する現役スタッフを見るのが、辛く、忍びがたかった。 
 辛い会議だった。
 
 ポートフェスティバルだけでなく、サマーフェスティバルにも参加しているスタッフがそのサマーフェスティバルも同じ状態であり解散が論議されていると報告がされた。
 暫くすると、ポートフェスティバル実行委より先にサマーフェスティバルの解散が決定された、と報告が入った。
 そんな簡単に解散を決めるという話の方が、信じられなかった。
 論議が、サマーフェスティバルは不足している、生煮えのまま決を採ったにすぎないと判断した。 
 後で揉めることになるのは、予想できた。
 困るのは、ポートフェスティバルとサマーフェスティバルが同時に解散論議に入ったことで、サマーフェスティバルが簡単に解散を決めても議論が生煮えで後で解散派と継続派の論争が尾をを引き、感情的情緒的になり、そのなかで継続派からサマーフェスティバルを解散させようとしたのはポートフェスティバル実行委だなどと言い始める部分が出出て来はしないか、という危惧だった。
 サマーフェスティバルの将来は、サマーフェスティバル実行委がその自分たちの道を決めればいいのであってポートフェスティバル解散論議はそれには無関係だった。
 ポートフェスティバル会議は、そのようなサマーフェスティバルとは違い、延々続いた。
  「小樽まちづくりの次は何か
を提起できないこと自身が辛かったし、又、それが確定できたからと言って新しい理念の下にポートフェスティバルを再組織できる保障もなかった。
 が、「次は何か」が欲しかった。

 函館では、石塚雅明・柳田良造・森下満の北大三人組のイニシアで、木造歴史的建造物のペンキの「擦りだし」(古い歴史的建造物のペンキ壁をサンドペーパーで木目が出るまで擦り、建造された時代から今日までどのような色のペンキを塗ってきたのかを検証し、建造当初のペンキ塗を再現する)運動を始め、「から財団」が作られ、大きな評価を得ていた。
 その「から財団」を函館まちづくり市民運動のセンターにし、継続的まちづくり市民運動の軸にしていくというのが、今は大学院を出て建築計画事務所を立ち上げていた石塚雅明や柳田良造の展望だった。 
 その石塚や柳田からは、ポートフェスティバルのようなイベントは自身の歴史が示すように隆盛と衰退が繰り返され跛行的展開は避けられず必然だから、小樽にも「まちづくり情報センター」のような組織的拠点こそを作るべき、とする意見もあった。
 必要性は理解できた、しかし、
   まちづくり情報センターは何の理念を軸に作られるのか、
   まちづくり総路線がないなかでの拠点建設が可能なのか、
   まちづくり情報センターの形を作っても新しい市民を惹きつける魅力づくりは可能なのか、
   結局運営にきりきり舞いになり、
   その運営財源を確保すること自身が目的化されるようになっていくのは必然ではないか、
と私は唸ったものだった。
 「まちづくり情報センター」を作ってから理念や総路線を考えるという若さと突撃力だけでは、もう身体も意識も動員できなかった。

 ポートフェスティバル解散論議は、年を越し継続した。
 その年の、第17回のポートフェスティバルの開催準備をしなければならなかった。
   「小樽で我々が汗水ながして育んできたポートフェスティバル、夢街、という看板を、一度
    外すときが来てしまった。
    ポートフェスティバルと夢街という11年着てきた古い衣装を脱ぎ捨てるときが来た。
    解散し、今の現役スタッフは1個人に戻り、そこで本当にやりたい夢や目標を設定し、そ
    れに賛同出来るもの達で、もう一度、新しい何かを始める。
    もう、ポートフェスティバルという古い看板におんぶにだっこは、卒業するのだ。」
ととどめ的に語っている私がいた。
 若い現役スタッフは立てた膝の中に顔を埋めて、嗚咽していた。

 ついにポートフェスティバルは
   「今年、17回目で解散する」
と論議は決した。
 1994(平成6)年、17回のテーマは「」と決まった。
 約半年以上の論議をしてきたので、一度決まると現役ポートフェスティバル執行部も歴代執行部もまとまりは強かった。
 ポートフェスティバル開催に必ず発行してきた「ふぃぇすた小樽増刊号」紙で、小樽観光の光と影をえぐり出す特集にしようとなった。

 一方、逆にサマーフェスティバルは解散決定をしたにも拘わらず論議未熟の生煮えで、継続を主張する意見が巻き起こり混乱状態に陥る、という様を呈した。
 「ポートフェスティバルがサマーフェスティバルを解散させようとしている」という、案の定予想された本末転倒の噂を流されもしたが、皆無視した。
 サマーフェスティバルは継続派と解散派で分裂状態に突入した。
 議論の積み重ねを軽く見た結果でしかなかった。
 サマーフェスティバル継続派は規模を縮小し浅草橋街苑で開催して今に至る。
 

 17回ポートフェスティバルは、実に盛況に開催された。
 弊店も店を全休にし、第3埠頭基部の飲食ブースに出店した。
 全スタッフに蕎麦を振る舞った。
 小樽運河保存運動時の新聞報道各社の記者諸氏が、中には赴任地の本州からわざわざ顔を出してくれた。
 後志の各地から出店頂いてきた各町村の『まちづくり』を奨める中小企業家同友会のテントを一軒一軒挨拶に回った。
 見る間に頂く農産物や魚介類が両手に溢れる程だった。
 出店の皆さんにも挨拶をし続けた。
 テキヤ組合の秋川親分の姐さんが「お飯(マンマ)に食いっぱぐれる、どうしてくれる」と怒ってくれた。
 二日目の最終日のクローズ時間が押し迫ってき、メインステージのフィナーレを見るには耐えられず、第3埠頭の先端で一人こみあげるものを押さえていた。
 そんな私を、山口保や佐々木一夫が捜し回っていると聞き、ちびっ子広場のプールの水で顔を洗って目から溢れ出るものをなんとか誤魔化して会場に戻った。
 ステージでは、最終回の平瀬真由美実行委員長が涙ながらに最終回挨拶をしていた。
 拍手しながら、またこぼれてくるものがあった。
 こうして、小樽運河保存運動で誕生した若者のまちづくりイベントもついに姿を消した。

 
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 小樽運河保存運動は、これできれいさっぱりその残滓も含めて消滅したと自分で一人納得していた。
 小樽まちづくり市民運動において、新しい何かを産み出していく運動こそをやりたいとした。
 これで、小樽運河保存運動終焉後に創設された「小樽・再生フォーラム」だけが残ることになった。
 その「小樽・再生フォーラム」は、もはや、小樽運河保存運動の最高揚が引き出した北海道知事仲裁による「小樽活性化委員会最終報告書」の実現にむけた運動団体という位置づけは捨て去り、昔の名前で出ています的私たち世代で担われるのではなく、新しい市民層を獲得する世代でこそ担われるべきだ、と私はした。

 小樽運河の主体たるべき刃折れ力尽きた小樽運河保存派が、新しいまちづくり市民運動派として再登場し、落とし前をつけるために我が街小樽で奔走するには、暫しの休憩が必要だった。
 小樽運河保存運動の総括の未熟は、その暫しの休憩=すごもり路線から再び力をつけて徹頭徹尾「まちづくり市民運動」路線を自ら担い展開することで検証されていく・・・。



     この項終わり

 ●現【私的小樽運河保存運動史】25.小樽運河保存運動のその終わり方
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 ● 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】22.道知事仲介の五者会談開催と百人委員会の市長リコール
 ● 
【私的小樽運河保存運動史】21.埋立・保存両派の五者会談知事提案と内部対立で混乱
 ● 【私的小樽運河保存運動史】20. 政党介入に抗する市民派イニシアティブ
 ● 【私的小樽運河保存運動史】19.政党間の「政治的力学」で運河問題が振り回されていく。
 ● 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】17. 道路見直し10万人署名運動と小樽運河百人委員会の設立
 ● 【私的小樽運河保存運動史】16.商工会議所首脳の運河埋立から保存への方針転換と攻防
 ● 【私的小樽運河保存運動史】15.西武流通グループが小樽運河地区再開発に名乗りを挙げる
 ● 【私的小樽運河保存運動史】14.苦しく切ない時期、が水面下は大変動が起こっていた。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】13.全国町並みゼミ開催と保存運動内の路線論争の萌芽
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 ● 【私的小樽運河保存運動史】11. 小樽市がポートフェスティバル翌年、ルート変更なしの
                 『運河埋立修正』案を市議会に出す
 ● 【私的小樽運河保存運動史】09.「第二期」小樽運河保存運動の開始
 ● 【私的小樽運河保存運動史】08. 夢街、小樽の町に打って出る
 ● 【私的小樽運河保存運動史】07. 水取り山と夢の街づくり実行委員会
 ● 【私的小樽運河保存運動史】06. 第一回ポートフェスティバル開催
 ● 【私的小樽運河保存運動史】05. イマジネーション、最初にそれがあった。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】04. 規制と統制のうしお祭り実行委が、小樽まちづくり市民運
                      動の若者部隊・ポートフェスティバルを生んだ。
 ● 【私的小樽運河保存運動史】03.帰ってきた小樽と蕎麦屋籔半 
 ● 【私的小樽運河保存運動史】02.ここではない何処かへ、ここ以外ならどこでも!  
 ● 【私的小樽運河保存運動史】01.もう運動はご免だった。