2006年06月18日

訪問着2(桃水色染分

訪問 桃鼠染分

まさに絵の具から出したようなピンク色と、水色というよりは薄浅黄色を染め分けた
割と古典的な地色です。しかし、そこに点在する大柄の洋花の極彩色ブーケ風が
とても映えて鮮やかです。絵柄に合う若くてはつらつとした女性に着て欲しいです。


訪問着1(臙脂+緑味の黄土 染分

訪問 臙脂竹染分

訪問着です。強烈な濃色の臙脂が目を引きますが、足元と袖口のような
動くたびに たなびく部分 は軽やかな淡色となっています。
お互い関連のなさそうなこの2色を巧みに染め分けることと、
そこにブーケ風な洋花柄を持ってくることで
訪問着として地味すぎず、派手すぎもしない面白さが表されていますし、
なおかつ大胆で若々しい味をもかもし出すことに成功しています。



附下5(濃桃色

附下 濃桃色

今年(2006年)の流行色でもある薄ピンク(ピンク+濃鼠色)ですので、
ピンクを敬遠する若年層からピンクを好む高年層まで受け入れる上品さがあります。
華やかな地色に反して、絵柄は図案化した花柄と二つ折りの短冊のような
幾何学模様となっています。そこには金箔が奢られていて、
シンプルな中にも豪華なものとなっています。特におすすめの品です。



附下4(肌色染分

附下 肌色染分

肌色+人肌系の ピンク・橙 そして薄緑色を使い、雲をかたどった附下です。
とてもやさしくかわいらしい感じなので、商売として勧めるわたしたちには
好き嫌いが出やすいのが心配ですが、ネットなら堂々とお見せできます。
こうした色がお好きな方へはまたとない商品です。





附下3(薄鼠染分

附下 薄鼠色染分

地色は、三段階の薄い鼠色で表した「雪輪」になっています。
鼠色の濃淡で奥行きを表した上にそこから写実的な牡丹や笹が顔を覗かせています。
さらにはこれも雪輪で縁取られた模様のなかには宝や有職文様があり、
一見するよりも豪華な内容となっていて、対象年齢の広さが自慢の附下です。

附下2(金茶

附下 金茶

「濃い鮮やかな黄土色」とするよりは「金茶」のほうが品格があります。
金茶の地に、図案化された葉、そしてその中に花を入れています。
もみじの葉は絵柄の中でも目立ちますが、色々な絵柄が入りますので、
もみじの季節(つまり秋)に限らずに真夏以外のオールシーズンで使えます。

*真夏(6月〜9月)には夏の着物を着るのが約束です。夏服の衣替えと同じ。

詳細を知りたい方は太田屋までメールを下されば幸いです。


附下1(緑味の水色+濃鼠

附下 緑味の水色

便宜上 緑味の水色+濃鼠としました。本当はもっと難しい色の呼び名です。
日本語で色を表す言葉はあまりに多様で、○○色といってもイメージしにくいため
なるべく小学校の水彩絵の具を組み合わせたような書きかたをさせてもらいます。
緑味の水色に濃い鼠色がかった地に、図案化された花や実を並べています。

詳細を知りたい方は太田屋までメールを下されば幸いです。

2005年03月22日

丸巻きと仮絵羽

きもの(着物)なんですが、ほとんど同義で「和服」とか「呉服」とも呼ばれます。
きものの世界はひとつひとつその人に合わせて作る、オーダーメイドであることが常識です。

着物を作るときには、着物の種類に応じて、
一着分として売られている丸巻き(まるまき)のものと、
仮縫いだけしてある仮絵羽(かりえば)があり、
これらを裁断なり本縫いして仕立てます。
 
丸巻きは、ここが袖の部分でここがすその見返しの部分
というふうに、大まかに仕立てたとき柄(がら)の来る位置が
あらかじめ決められています。
丸巻きのきものは、色無地や小紋(小さな柄が点在する文様)
などと呼ばれています。
結婚式などに使える礼装ではありません。
お茶会やお出かけ(観劇などで例えられることが多いです)
のために用います。
不思議な呼称ですがこれを「おしゃれ着」と呼びます。
 
丸巻きの着物は仕立て上がり(出来上がり)が
頭にイメージしにくいですので、普段着物を着ない方には
分かりづらいかもしれません。その意味で現代では、
むしろ丸巻きで選ぶような着物が通好みな品とも言えます。
 
これに対して仮絵羽は、背中を向けた状態で衣桁(いこう)にかけて展示されてます。絵羽文様(えばもよう/もんよう)という
すそまわりの絵柄を見せているのと、そこ以外には肩口
ぐらいにしか柄がないので丸巻きのきものよりは
出来上がりをイメージしやすいと思います。
 
*ちなみに和装業界では「模様」とは書かず、「文様」と表記
することが多いです。読み方も「もよう」だけでなく
「もんよう」とも呼ぶことがあります。
 
仮絵羽に話題を戻しましょう。
仮絵羽になっているきものは訪問着(ほうもんぎ)や
江戸褄(えどづま)と言う、いわゆる「礼装(正装)」です。
冠・婚・祭や入学卒業シーズンに着る着物です。
これでお茶会に出るのは大げさだと思われます。


タペストリについて

「タペストリ」というのは元々つづれ織りのことですが、
インテリア小物として壁掛けのようなアイテムをさします。
 
タペストリの中でも古布の端裂(こふのはぎれ)を使った
パッチワークをあしらったものが最近の人気で、
老若を問わずファンが多いです。
 
さて「タペストリ」ですがわたしはそんな店情報の
「つづれ織り」と考えて名づけた太田屋の会報です。
 
初登場は1996年でB4版片面。
2ヶ月に1号のペースで発行していました。
現在は50号になりましたが、サボって3ヶ月に1号だったり
半年に1号の時もありで、ここにいたるまでの道のりは
決して平坦ではありませんでした(笑)
 
昨年(2004年)からはA4両面とし、月1号のペースで
なんとか続けています。
さらに2005年からは助言により「太田屋かわら版」と
分かりやすいサブネームをつけています。
 
ここではそんなタペストリを紹介します。
読めるほど大きくはならないと思いますが
太田屋の紆余曲折の痕跡としてご確認下さい・・・
(*投稿の日付は1996年からとして掲載しています)
 
 
 


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2005年03月04日

うれしいひなまつり(2

ひな壇にならぶ人形たちの紹介です
 
○親王
  「明かりをつけましょぼんぼりに お花をあげましょ桃の花」
 殿(おだいりさま):
  烏帽子をかぶって右手に杓(しゃく<字はこれでいいはず)を持ち
  脇にたちを差しています。
 姫(おひなさま):
両手に桧扇(ひおうぎ<緋扇は誤植か誤変換)を持っています。
向って左に殿・右に姫が座っていますが、地域によって位置は違います。
一般に上記が東日本で、西日本は 右に殿・左に姫 とされますが、
その根拠は分かりません。どなたかご教示くだされば幸いです。
 
おふたりの両脇には歌の通り雪洞(ぼんぼり)が、
真ん中には桃の花が来て、後ろに金屏風を立てます。
我が家では棚につかえるので金屏風は立ちません(笑
妻が子供の頃に殿の顔がもげてしまい、代わりの首をつけたので
妻いわく「殿は二代目として婿に入ったのだ」ということです。
最近顔にしみが目立つが高齢なのか婿ゆえの心労か・・・

○三人官女(さんにんかんじょ)
  「お嫁にいらした姉さまによく似た官女の白い顔」
 
宮中の官女に倣った装束をしていて、もともとは白の小袖に長袴姿、
そのうえに打掛(うちかけ<今や結婚式専用)を羽織っています。
向って左右の二人は立ち姿で、真ん中は座っています。給仕役。
向って左の官女は加えの銚子(やかんみたいな形のね)
向って右は長い柄のついた銚子を持っています。
真ん中は三方(さんぽう:三箇所に丸い穴がある)というお供えの台であったり
地域によっては島台という松竹梅をあしらった盆栽のようなものだったりします。

○五人囃子(ごにんばやし)
  「五人ばやしの笛太鼓…」
 
脇差しを差した5人の少年は宴席の盛り上げ役。
向って左から
 1)太鼓(たいこ:読み方と字に注意)
 2)大鼓(おおかわ:読み方と字に注意。大皮 とも)
 3)小鼓(こつづみ・こかわ)
 4)笛(ふえ)
 5)地謡(じうたい)  となります。
 
太鼓は床に置いてばちでたたきますが大鼓・小鼓は
片方の手に持って、もう片方の手でたたきます。
五人囃子は位置と小道具が面倒で飾るのが億劫なのですが
向って左から上記の順番でならび、尻をつけた他の3人に対して、
大鼓・小鼓の2人はひざ立ちしているのが特長です。地謡は右手に扇。

○随身(ずいしん:つまりは右大臣・左大臣)
  「すこし白酒めされたかあかいお顔の右大臣」
 
親王の警護役
右大臣が老人で左大臣が若者です。
歌にもあるように右大臣は赤ら顔ですが、これが向って右に来ます

○仕丁(じちょう/しちょう)
 
宮中の雑役(ざつえき)担当
親王に仕える人のようですがわたしもこれは勉強不足です。
向って左からそれぞれ表情の違う3人の男性が置かれています。
喜怒哀楽の「怒」・「哀」・「楽」の表情で並んでいますが、何か意味があるのでしょう。

並びかたにも小道具にも当然ながら意味があります。
ひな人形の装束からして(宮中ですし)平安時代からあるかのようですが、
今のような形式になるのは江戸時代からとなります。
 
仕事柄日本古来のこうした伝統行事や風習を調べていますが、
ほとんどが江戸時代中期に完成されたものが多いですね。  


2005年03月03日

うれしいひな祭り

本日3月3日はひな祭り(桃の節句)です。
女の子のいる家庭ではひな人形を飾り、白酒にひし餅
そして蛤(はまぐり)の吸い物でお祝いをします。
「明かりをつけましょぼんぼりに、お花を挙げましょ桃の花…」
と歌われるあの歌の題名は今回のタイトルのとおり「うれしいひなまつり」。
 
3月の最初の巳(み・3)の日に川にはいって心や身体の穢れを
清める行事が古代中国にあったそうです。
「上巳節(じょうしせつ)」という名のこの行事が
日本の貴族の女児の人形遊びである「ひいな(または、ひひな)祭」と
混合されて日本各地に広まったようなんですね。
 
さてさて、わたしの家は男の兄弟ばかりだったので結婚するまで
ひな祭りを祝うような習慣がありませんでしたし、
ひな人形も近場で観たことが全くありませんでした。
近い親戚も男ばかりなうえに、わたしは女の子の家に遊びに行くような
オマセなガキんちょではなかったのです。
そんなわけで毎年出し入れする雛人形はわたしには大変めずらしいものです。
狭い家に七段飾りというのは正直言ってツライのですが、揃うと圧巻!
妻の兄は毎年この飾りつけ担当だったそうです。
これがいつも難儀でしたので「自分の子はもっとコンパクトなのがイイ」
ということになり、親王(お内裏さまとおひなさま)だけのものにしました。
妻の実家は狭い家ではないのですが、それはそれで賢いやり方です。
よほど出し入れがつらかったことと察します。わたしも今なら分かる…

並べた人形に小道具を持たせるのが、妹の
つまり妻の役割だったとのこと。
さすがにわたしよりも詳しいのには感心していましたが、
今では妻もわたしにではなくて娘のほうに教えています。
 
ブログを読んでいる人は女性とは限りませんので、
わたしのようにひな壇を見たことのなかった人も必ずやいるでしょう。


2005年01月27日

日本人の色(2

我流の色彩比較論(笑)です。
 
西洋の分類方法とは対照的で、日本古来の色は
系統立った名前がつけられていません。
 
日本古来の色としては次のような由来のものが挙げられます、
植物の名からとった橙や山吹、藤、紫のようなもの。
動物の名からとった鼠や鶯、鴇(とき)、のようなもの。
自然現象からとった空色、水色といったもの。
面白いのは身の回り品からとった色まであります。
木賊(とくさ)色、納戸(なんど)色、漆黒(しっこく)といったものですね…
 
まるでばらばら。
 
それぞれの色は系統立てて名付けられたものではありません。
「十人十色」とは文字通りまさに色のことを表したかのようです。
多種多様な色がありますが、わたしたちはそれら個々の色と、
その意味や由来をひとつひとつ確認して覚えていかなければなりません。
いつになるかはわかりませんが(笑)近々この辺の理由を考えましょう!
 
おっとそれから。大事な色の由来を言うのを忘れていました。
植物や動物や自然現象や生活品と並んで、染物から採った色もあります。
茜、藍、紺などです。
染物は知らなくても、アカネやアイやコンは誰でも知っていいますよね?
呉服屋としてはこれを忘れてもらっちゃ困るのです…  


2005年01月25日

日本人の色(1

西洋の色
 
呉服屋らしいトピックもたまには出さないといけません。
「色」についてわたしの独断でちょいと書かせて下さい
 
わたしたちが小学校や中学校で教わった色彩の知識ですが、
あの「あか・あお・きいろ…」といった分類は、「色の三原色」に基づいた
西洋式の系統だった色彩分類方法ではないかと考えています。
人に顔(人相)があるのと同様、色にも顔「色相」があると考えるのです。
 
これを考えるときに時計の文字盤を思い浮かべて下さい。
時計の文字盤上に12時の位置に赤を置きます。そこから順に、
1赤橙・2橙・3黄橙・4黄・5黄緑・6緑・7青緑・8青・9青紫・10紫・11赤紫そして12赤
…と回ると、
代表的色の「色相環」となります。
12時の赤、4時の黄、8時の青が「色の三原色」
それぞれの原色の中間には2時の橙、6時の緑、10時の紫と、一般的な「中間色」が来ます。
 
また、色相の隣同士、例えば8青の両隣に来る7青緑と9青紫が青の「同系色」です。
それから、色相環の反対位置に来る色のこと、例えば6緑と12赤の位置や4黄と10紫の
位置関係が、一般に「補色」と呼ばれるものになると解釈しました。
 
わたしは専門家ではないし専門書をかじったわけでもないので、
これはあくまでも中学時代に覚えたテスト対策の我流解釈です。
でもこれで覚える限り上記の理屈は説明可能です。
系統だった考え方に基づく西洋の色の分類方法は、きわめて論理的であるといえます。
仮に新しい色を考えたり増やそうとする時には、
色相環を使ってどこに所属する色が相対的に割り出せますし、
色相環の位置を頼りにして新しい色を考案することも可能です。
 
そんなわけでまず第1投。続きは後日…  


2004年12月24日

伝統の再評価(2

頑なに日本古来の伝統を大事にしようとする気持ちは、
わたしたちにはいびつではありますが残っている、ということで。
 
着物を着てみたいと思う人も案外たくさんいます。
もちろん着物なぞ着たくないと言う人もいるはずです。
でもそれは聞く限りでは若い世代ではなく、むしろ50代以上の
やり手のキャリアウーマンと言われる(言われた)人に多いようです。
 
正確な数や統計があるわけではないから憶測に過ぎませんが、
かつて仕事を優先させるために古い伝統を排除した時代の名残ではないか?
もしくは女性の権利を主張するにあたり、女性を縛る古き伝統の一例として
着物(を着ること)が分かりやすかったので、
批判の槍玉に上げたのではないか?などと邪推しています。
 
そういう母親の娘さんならば、そりゃ着物は着ませんわ・・・
しかし、着物が女性を縛る衣装だと考えること自体がもはや古いです。
古着中心ですので流行という一過性のものなのかも知れませんが、
とりあえず新しい「洋服」のアイテムとして着物は受け入れられきてはいます。
 
今の若い世代が着物を「着たくない」というのは、だから嘘ですね。
「(着てみたいけど)着られない」というのが本音のはず・・・
多くは着物の知識が乏しいか、着付けを知らずに育ってきた人たちですから。
無理もありません。知らない人には教えればいいと思っています。
若い人たちの方がむしろ偏見なく着物を受け入れる可能性が高いはず。
わたしが断言する理由も、もともとわたしたちが伝統に対して
前述のように思い入れを持って考えることを経験上知っているからに他なりません。
 
*今回は大分偏見が入ってます。女性の方でご意見がありましたらご指摘下さい。
クリスマス・イヴなのにわたしゃ何書いてんだろ?
(ケーキ食べたりお祝いしたりは23日のうちに済ませてますので念のため)


2004年12月23日

2学期制と伝統の再評価

英文科出身のわたしが言うのもなんですが、
日本人って衣でも食でも住でも何から何までが欧米礼賛なくせに、
昔からあるしきたりやら文化だけは譲らないですよね。
 
吉田町は来年4月から全小中学校(とはいえ小4・中1の5校だけだが)で、
「2学期制」を取り入れます。近隣町村ではこの2学期制に反対する人も多いらしいですが、慣例を崩したくないという気持ちからなんでしょうか?
わたしの叔母は学校の先生だが慎重派です。
 
わたしはキリスト教系私大でしたので2学期はなんら抵抗感がありません。
導入したところで支障も違和感もないことも分かり切ったことですし。
9月始業というのなら話は別です。欧米の夏休みが丸々2ヶ月で宿題もない
と聞いて小学校の頃のわたしはずいぶん羨ましく思ったものですが、
大きくなってそれがいわゆる学年(年度)の変り目だったと知れば、
宿題が出せないのも休みが長めにならざるを得ないのも納得でした。
だってわたしたちの春休みも短いけど宿題はなかったもんね…
 
欧米のカリキュラムに準じて9月始業にしたところで、
日本人の性格では夏休みは実質的に延びないでしょう(補習に充てちゃうはずだから)
外国での学歴や履修過程に日本が無理に合せる必要もないはずですしね。
そして何よりも反対の声が上がるとするならば、これまでの春3月の卒業の
数々のドラマが色あせることを理由にする人も多いと思います。
わたしの世代ならば柏原芳江の「春なのに」とか斉藤由貴の「卒業」の歌詞や
歌のかもし出したイメージが全て実感のわかないものになりますからね。
上の世代ならば「蛍の光」も「仰げば尊し」にしても、
どうも夏(7月)のイメージではない…と、そういう声が必ずあるはずです。
 
いえ別に、なったらなったで新たにドラマを作れば良いだけなのです。
でもこれまでの遺産を惜しむ気持ちもわかります。
叔母のように現場の先生が2学期制を慎重に考えようとするのも分かる。
余談になりましたが、頑なに日本古来の伝統を大事にしようとする気持ちは、
わたしたちにはいびつではありますが確実に残っています。
細かなところは他に譲っても、大元では決して譲りません。
今回の2学期制導入から、わたしはそんなことを強く感じました。
 
仕事柄伝統の話なら、言いたいことはまだありますが、それはまた後ほど…  


2004年12月01日

節目の季節(今回はいささか堂々巡り)

もう師走ですね。
 
節目にこだわるのは日本人独特の感覚なのでしょうか?
「10代最後の夜は」とか「1年の計は」とか・・・
そんな節目に掃除をしたり、インターネットの時代ですら日記を買い換える人もいるはずです。

ブログも日記の変形のような感じのものですし、実際わたしは日記のようにも使っています。
節目と感じている時のわたしたちの気持ちっていうのは例えば日記ならば、
日記をつけることよりも日記を「買い換える」ということのほうに
むしろ意味というか自分の思いを込めていると思うのです。
暮れの大掃除にしてもそうで、実際にきれいにするための掃除というよりは、
むしろ年中行事つまり節目の儀式のような感じで捕らえているのではないでしょうか?
 
節目やこだわりを大切にするかしないかは現代では人それぞれに違っています。
師走だの年越しだからといって、別に特別なことをしようと考える必要もない時代でしょう。
こだわらないということもまた、こだわりの一種だと言えるような時代です。
古いことにこだわりすぎるのは、時として新しい発想には邪魔になります。
店をやっていて両親と意見が合わない時はいつもそう思うわたしです。
しかし、いささか逆説じみてはいるけれども、
こだわりがあればこそ立場や主張が明確になるとも考えられる。
少なくとも太田屋がこうしてやって来れたのもそのおかげです。
要はこの堂堂巡りにどの程度まで付き合えるかでしょうね。
それを考えるに良い季節です。
 
…そろそろ歳の節目がやってきます。  


2004年11月12日

家紋

羽織や留袖に入れる「家紋」は、その名の通り家に伝わる紋の事ですが、
これだけではなんのことやら分からないでしょう。
羽織袴が現在の生活に密着していないので分かりにくいでしょうが、
背中の頸のうしろにひとつ両肩の前側に2つ、後ろ側に2つと、
合計で5つのマークがはいります。あれが「家紋」です。
「紋付」などと言う名もあるぐらいですからね…
 
これをよむあなたが長男ならば郷里のお父様にお尋ねください。
次男の方もそうですね。本家の家紋をそのまま使います。
まあ苗字や屋号(後で書きますが)のようなものですかね…
よく分からない人なんかは自分で勝手に選ぶ時もあります。
わたしの家(井塚家)の家紋は「木瓜(もっこう)」ですが、
太田屋の屋号のロゴには、苗字にちなんだ「井桁(いげた)」を使ってます。
家紋なんか今やそのぐらいの扱いのものです。厳密なものではないのです。
 
家紋の種類は約2万種類あります。
上で自分で勝手に選ぶ、と書きましたがこれは
数ある中から選び出すということで、創作するという意味ではありません。
デザインは植物、動物、文様、調度、自然現象など多岐にわたります。
もともと平安時代に貴族の牛車(ぎっしゃ)を区別する文様の
変化したものが、家紋の始まりだと言われています。
それがやがて所持品や家財道具の識別のためにもつけられるようになり、
やがて伝統として定着していったようです。有職文様と同様ですね。
皇室の「菊の紋」にしても、後鳥羽上皇が自分の刀に菊の形を彫ったのが
その始まりと言われています。「菊の紋」も家紋、天皇家のものなのです。
(だから菊の紋だけは勝手に使うことは出来ませんので、念のため)
 
封建社会では敵味方の区別のため旗や衣服に家紋をつけるようになりました。
江戸時代になると武家の権威を示す印に変質し、凝った加工も増えました。
また新興の町人達にも家紋は流行し、女性達も歌舞伎役者等の紋を
小物などにつけて喜ぶ風習が一般化しました。
それらがやがて農民など一般市民にも広がったと思われます。
会話で使われる「○○どん」や「○○屋」といった屋号も
家紋のような役割を持っていますが、屋号は都会では廃れているかもです。
もはや時代劇や落語の用語かな?あるいは歌舞伎とか花火職人とか…
このようにはじめは単に持ち物に名前を書いた程度の紋ですが、
時代の流れとともにその意味を変え、権威がついていったものと思われます。
 
菊の紋以外の有名な家紋では何がありますかねえ・・・
時代劇ついでに「葵の御紋」は徳川家。
「丸い輪を描いた鶴( 鶴に丸 といいます )」は
飛行機の垂直尾翼にありますが今はどうかな?
「3つ並んだひし形( あれも創業者の家紋 )」もそうです
旧財閥のマークにもなったりしていますが最近はマスコミで
悪い話題になってしまい、ひし形はあんまり権威がなくなってきました…  


2004年11月10日

日本の文様

きものの楽しみや日本古来の文化を語るときに、
文様(もんよう)の理解は欠かせません。
衣服や器物などにつけられている絵柄を文様と言いますが
なぜかあえて「模様」とは書きませんし「もよう」とも呼びません。
特に区別して昔から「文様(もんよう)」と書きます。
(あるいは「もよう」と読みながら文様の字をあてます)
 
病院の真白い壁や白衣に入院患者が漠然と恐怖心を抱く
という報告がありますし、石や木目などに人の顔や姿を連想しては
それを信仰の対象にすることもあります。
無地の衣服や器物についた染み・汚れを、昔の人はなにかのカタチや
何かの暗示であるかのように考えては、吉兆や災いを連想しました。
 
わたしたちの祖先は無地のものでさえも意味をつけようとしたのですが、
これら自然物への怖れ(=畏れ)の気持ちが積もって
文様が生まれたのではないかと思います。
長い年月を経てただの「模様」がやがて何がしかの意味を持つ「文様」となり、
その文様は各々に個性を持つようになっていったのではないでしょうか?
 
文様は衣服や器物だけでなくさまざまな場面で使われました。
飛鳥時代の冠位十二階では地位を色分けしましたが、
色に加えて文様もまた身分や地位を表すばかりでなく、
信仰やおまじないの意味も併せ持つようにさえなりました。
 
やがて平安時代には文様の地位が出来あがります。
家柄や伝統に応じて公家の装束や調度品に付けた文様は
特に有職文様(ゆうそくもんよう)として格付けがなされました。
鳳凰(ほうおう)や亀甲(きっこう)の柄は有名です。
 
そのほかにも文様には、唐草や縞、立涌(たてわく)のような
線の連続を延々と続けてみせる文様があり、
一方では、青海波(せいがいは)水玉・うろこ・菱など、
形を連続させてその配置の面白さまでが魅力になる文様があります。
このように単純な図柄を連続させて生地に染めたり織込んだりすることで、
パターン柄(とび柄:間隔を開けてとびとびについている柄)や
地紋(生地に織り込まれた文様)となって、文様はさらに個性を発揮します。
これらは現在、十把一絡げで「古典柄」と呼ばれて着物や帯の柄にも
効果的に使われています。
 
文様はひとつひとつに歴史を持っているのです。  


2004年11月09日

十二支のいわれ

1999年にわたしは十二支についても書いています。
当時の会報に書いた文章を掲載しますが、その際に参考にしたのが
日本画家の東聖観(あずませいかん)氏の書いた文章だと、
当時のわたしは書いています。絵ではなくて文章です…
*東氏は日本画家のほかに、挿絵画家や文様絵師の肩書きがあります。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十二支はもともと木星の運行が12年かけて太陽を一周することから、
1年目〜12年目までを「子・丑・寅…戌・亥」と
名前をつけて読んだものです。
この十二支、つまり子丑寅は十二方位としても使われ、
子を北として、丑(北北東)・寅(東北東)・卯(東)…と、
時計回りに一巡します。
 
また、一日をおおよそ2時間ごとに分ければ、
午前零時は子の刻で、続いて丑、寅…と右回りに区切るのです。
以前にご紹介した「丑三つ時」や「午前」「正午」「午後」という言葉も、
十二支にちなんだものにほかなりません。
 
さて、十二匹の動物の由来はなんでしょう?
 むかし神様が、動物を各々12年分の年の名前にする、と言いました。
 12匹は到着順に選ぶのでいつ、どこに来るようにと命じました。
 居眠りしていたねこはその日を聞き逃し、親しいねずみに尋ねました。
 ところがねずみはわざと違う日を教えたのです。
 さらに当日、歩みののろさを克服すべく徹夜で歩いてきたうしの背中に
 ねずみはこっそり乗っかると、集合場所の直前ですばやくうしから離れて
 一番乗りをしたのです。
 「ねずみよずるいぞ!」とうしは怒りましたが、
 結局ねずみは最初の、うしは2番目の年の名になりました。
 日にちを間違えたねこは当然その選に漏れ、
 以来仲良しだったねずみとねこは仲が悪くなりました。
 
…もちろんこれはお話です。
イソップ的に見てみれば、ねずみがいかに害獣で
なぜねこに狙われるのかを示した、一種の童話に過ぎません。
 
改めて。十二支の十二匹はどこから?
もともと十二支とは樹木が生長(成長)する過程を表したものなのです。
 根(ね>子)に水が湿り(うし>丑)、
 そして戸が(とら>寅)開くように生まれる(う>卯)と、
 それは大地にそそり立つ(たつ>辰)。
 やがてそれは実り(み>巳)を迎え旨み(うま>午)が出た後
 完熟(?ひつじ>未)し朽ち去る(さる>申)、
 しかし大地はそれを取り(とり>酉)入れて
 収める(?いぬ>戌)のである。
 そして種は大地に居つき(い>亥)
 また、根に水が湿りそして戸が開くように…と延々と続くのです。
 
当時は漢文だと思われますので、「うし」や「ひつじ」の音(おん)や
「いぬ」の意味などは、分かりにくい(というか解釈がチョットきつい)
のですが、成長を語る言葉を音(おん)の同じ動物に
こじつけたものだったのですね。
 
動物の名が「猿」や「鶏」ではないのも、
もともとの漢字が「申」や「酉」だったことに理由があるのかもしれません。
わたしは古文書や漢文には全然詳しくないのでこの辺の説明は
全く出来ませんが、そんなわたしでもはっきりいえることは、
ねずみは無実だ!ということですかね・・・
 
たまさか ねこ にちなんだ音がなかっただけですから、
ねこ年がないことを恨む筋合いもねこにはありません。  


2004年11月08日

七五三

娘の七五三祝いに越後一宮こと弥彦神社に
お参りに行きました。

子供たちの成長を願う七五三の行事は、
11月15日に行われますが、厳密ではなくて
大体11月ごろにお参りする、といった程度です。
元から不思議だったのですが、
なんで奇数(3・5・7歳)なのか?
それになんで男の子が5才、女の子が3才と7才
なのでしょうね?
(男の子は「3歳・5歳」というのが正式のようですが実際は5歳のみ。地域差?)
 
ふっくらした3歳の女の子たちはみんな被布を着けてとても可愛かったです。
5歳の男の子や7歳の女の子は羽織袴に振袖なのですが、洋服の子供も多かったです。
 
そのくらいの歳の子の親ですからお父さんお母さんも若いのは当然ですが、
祝詞の時に胡坐かいたり、ひざ上ミニなんか穿いて来るなよ!と言いたい。
でも祝詞の時はわたしたち同様でさすがに神妙にしているわけで、
一年のうちにこういう行事があるのを知っていて
これに子供共々参加しよう、と思うことはとてもいいことだと思います。
 
11月中は菊まつりが開催されています。
弥彦神社は地元ですのでしょっちゅう行っていますが
この頃は込みますので七五三でもないと行かないことにしていますが
今年は新潟県中越地震のせいかそれでも弥彦神社への参拝は少ないらしいです。
県外からの団体客が来れないからね(関越道は4日にようやく復旧)