音の楽しみ

ピアノ調律の普及と音楽のご紹介。
クラシック音楽の世界を皆様に…
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新鎌倉漫歩27 長谷寺の紫陽花と花菖蒲 2018.06.09 

この日は紫陽花を目当てに鎌倉を巡りました。初めは山ノ内の明月院を考えていましたが、この時期はどこの寺でも紫陽花が咲いていて、選ぶ必要もなかったので、昼のシラス丼に近い長谷寺から始めました。

長谷寺山門
鎌倉では杉本寺に次ぐ古い寺院で、本尊の木造十一面観音立像は有名です。花の寺としても名高く、アジサイのほか池周りには花菖蒲、杜若、沢潟、河骨等を栽培しています。

長谷寺の紫陽花
ここが最も美しいアジサイ溜まりで、アジサイの庭園の入り口になっています。鉢植えの株を寄せ集めてあるので、花の密度が濃く、一際華やいで観えます。

長谷寺山頂の俯瞰
ここが長谷寺アジサイ庭園の最高所、木立の合間から鎌倉の街並みと、由比ガ浜・材木座の海岸が観えています。

長谷寺の花菖蒲
アジサイと時を同じくして花菖蒲が咲いています。この頃が鎌倉の最も賑やかな時期、名花に誘われて観光客が押し寄せます。


Nちゃんと私140 リレー一人抜いて3位から2位 2018.06.09

Nちゃんの幼稚園は年長組になると運動会でクラス対抗リレーの競争をします。勿論幼稚園ですから選抜されるのでは無く、クラス全員(男女別)のリレーとなります。走るのが得意のNちゃんはF組の女の子の中では屈指の韋駄天です。これはママの血筋では無く、偏に(ひとえに)パパの遺伝子を受け継いだものです。

3位でバトンを貰ったNちゃんは一気に加速をします。瞬発力に優れたNちゃんは、直ぐ2位のS組の女の子を抜き去り、1位のМ組の女の子を追いかけます。しかしこのМ組の女の子はNちゃんに勝るとも劣らぬ健脚で、Nちゃん、1位で次の味方の女の子にバトンを渡すことはできませんでした。今し方ビデオテープを見せて貰い、Nちゃんの快走を確かめられました。

このレースは大人も参加する競技です。F組のセミ・アンカーはNちゃんの担任の先生、真打のアンカーは何とNちゃんパパ。Nちゃんパパは一時、福島県のある地方の100m競走の記録の持ち主でした。この日はパパのお母さんのばあちゃんも観に来ていました。そしてパパを観ていたばあちゃんが一言「ジーパンにお洒落靴、何でジャージに運動靴を履いて来ないのかな~」ですって、一寸ばあちゃん、教育ばあちゃんでした…。結局Nちゃん組はNちゃんとNちゃんパパの活躍で2位、銀メダル?でした。

Nちゃんと私139 Nちゃん「つなひき」 2018.06.09

Nちゃん綱引き

Nちゃんはリレーの他にも綱引きをやりました。でもね、ここの幼稚園のグランドは東西に傾いでいるんですよ。西よりも東の方が少し低い。ですからくじ引きで両位置を決める際、東側が有利で西側が不利になるのです。結局合計3試合あったのですが、全試合東側が勝ったのです。Nちゃん組は西側でしたので、初戦敗退、涙を飲んだのでした。それでもこの不公平は親達の周知の事実、そんなの解らないで全力を振り絞る子供たちは哀れ...、Nちゃんガッカリ…

Yちゃんと一緒51 Yちゃんの愛らしい素顔 2018.06.10

Yちゃんは3歳7か月になるところ、幼稚園の年少さんです。毎日お姉ちゃんのNちゃんと通園バスに乗って幼稚園に通っています。通い始めて2か月、もう幼稚園に慣れ親しんで、自由奔放に幼稚園生活を楽しんでいます。昨日は幼稚園の春の小運動会、ママと一緒のお遊戯にパパとやったおんぶ競争、そしてフォークダンス、笑顔を振りまいて、楽しくやっていました。

お遊戯Yちゃん
お遊戯しています。今までYちゃんは、お姉ちゃんが幼稚園で教わってきたお遊戯を教えられ、お家で二人で練習してきました。2年間そんなことをやってきたので、もう手慣れたものなのですよ。但し真面目なNちゃんに比べれば自由奔放なYちゃん、適度に馴らしながらの余裕の踊り、笑顔だけは忘れずに魅力爆発、ホント可愛いのですよ。

お花摘みYちゃん
そして不意に訪れた用事の所為で、今日もNちゃんYちゃんRくんの家に行って来たのですよ。午前中、未だ雨が降らなかったので、NちゃんYちゃんを連れて公園をお散歩しました。Nちゃんはアスレチックスをやっていましたが、Yちゃんはお花摘み、Yちゃんはタンポポが好きなのですよ。ワンピースを膨らませておしゃがみをし、せっせとタンポポを摘んでいました。

そう言えばYちゃんが未だ小さくて歩けなかった頃、お散歩がてらジイジがYちゃんをバギーに乗せてジュースを買いに行きました。途中の公園でジイジがタンポポを摘んでYちゃんに手渡しをしてあげました。するとYちゃんは殊の外喜んで、タンポポをしっかり握りしめて道中を過ごしたのでした。ところが途中でYちゃんはネンネ、でもね、Yちゃんはしっかりタンポポを掴んで離さないのですよ。何と手に持ったまま、お家まで辿り着いてしまったのです。可愛いYちゃん。Yちゃんのタンポポ好きはこの時に始まったと私は信じて疑いません。

アカバナユウゲショウ
今はタンポポよりこのユウゲショウの方が沢山咲いています。でもYちゃんはこのユウゲショウよりもまたアカツメクサよりもタンポポを愛します。Nちゃんはシロツメクサ、Yちゃんはタンポポ、二人とジイジの思い出の花です。


新・横浜漫歩9 港の見える丘公園の薔薇園 2018.05.22

暫く振りの薔薇の港の見える丘公園、その変貌振りに驚きました。以前は立薔薇が主体で、色取り取りの各種の薔薇が平場に植えられていて、その品種の特性を生かした展示をされていました。薔薇の奥深さを感じさせてくれたものでした。ところが最近では蔓薔薇が主体となっており、薔薇の特性と言うよりは見た目の華やぎに力点が置かれているように観られました。薄紅の濃淡や白が基調となっており、深紅やオレンジ、黄色が隅に置かれているようでした。私としては残念に感じられました。

港の見える丘公園の玄関口の薔薇
港の見える丘公園の玄関にある薔薇の群稙。ご覧のように薄紅(ピンク、桃色)が濃淡のグラデーションを意識して植えられています。これはこれで美しいのですが、山桜とは違い、輪の大きな花はこれでは引き立ちませんね。薔薇はもっと自己主張をさせなければ美しくないのです。もっと個性化を図りたいですね。

蔓薔薇二重奏
この直線のアーチ?も正にこの薔薇の庭を設計した方の好みが出ていますね。この淡い二色のグラデーション、青空に映えて美しいのですが、薔薇は集合体で魅せる花ではないのです。

大仏次郎記念館前の薔薇

大仏次郎記念館と蔓薔薇
大仏次郎記念館の粋な建物に薔薇は美しさを添えています。これほどの大きな建物との対比では群飾が生えますね。横浜らしい一寸レトロな粋が顔を出します。


新・横浜漫歩8 横浜地方気象台 2018.05.22

横浜地方気象台
ここで記録される気象情報が私達の生活の役に立っています。私のブログは気候の話が多いので、特にこの気象台が役に立っています。ここは山手の丘の上にありますが、直ぐ横浜港ですから海の傍、私が住む旭区に比べ、温暖な気候です。我が地はここより、夏は2℃ほど高く、冬は2℃ほど低いですね。

崖面は花壇になっています。元町公園、外国人墓地、港の見える丘公園、横浜一、美しい街並みです。

新・横浜漫歩7 横浜外国人墓地とランドマークタワー 2018.05.22

横浜外国人墓地
私は横浜に住むようなって、横浜らしい景色をいろいろ観てきました。その中でも、取り分けお勧めしたいビューポイントと言えば、この外国人墓地の路傍から観るランドマークの眺めです。文明開化のレトロな横浜とみなとみらいの現代感覚、そして木々の緑が不思議な調和を生み出し、溶け合っていると思います。時代は繋がっているとつくづく思うのです。大好きな構図です。

NちゃんYちゃんRくんのお話3 メダカの学校 2018.06.01

NちゃんYちゃんRくんが大切に育てているメダカたち、今年は沢山のメダカの赤ちゃんが生まれました。ジイジも大好きなメダカたち、昨日仕事の帰りに一寸寄ってRくんのいざりとメダカの赤ちゃんを確かめに行ったのでした。ジイジが買ってやった新しい水槽の中には、細くて黒い針先のような物体がわんさかいました。ツッツッツッーと整列し泳いでいます。大体の目分量で見てみれば100匹は下らないと思えました。去年は水槽が小さく熱で死なせてしまいましたが今年は大丈夫、大きな水槽にしましたからね。


メダカの飼育にはメダカの生育に適した環境が必要です。特に水温が大切で、人間と同じで、人間が快適な温度の15℃~28℃が適しています。それでも寒暖の差があるのが地球上の習いです。極端な事を言えば、0℃~40℃までは耐えることができるようです。冬は水面が凍っても大丈夫、勿論餌も食べないし活動もせず(冬眠)、水底でジッとしています。夏は瞬間的には40℃くらいまでは大丈夫ですが、メダカは暑さが苦手なようなので、水槽の置き場所は東側が好いでしょう。昼前には日陰になる所が好いですね。水草も入れましょう。


産卵は5月(水温25℃前後になると)から。3月には水が緩むので、メダカは活発に活動し始めます。餌も食べられる分だけ沢山与えます。水草が無ければ園芸店で購入し、ホテイアオイであれば水面を覆い尽くすぐらいに入れます。やがて根が伸び、十分な容積が確保できれば、メダカはそこに卵を産み付けます。観察していると、オスがメスを追いかけ、産卵を促します。それを見定めた後暫くして、卵の付いたホテイアオイを別の水槽に放ちます。これで親メダカからの食害を阻止し、孵化したメダカは順調に育ちます。

新・赤ちゃん観望記18 Rくんいざり始め 2018.06.01

Rくんは何と、いざり始めました。今のところ前進後退はしませんが、お座りのその場で方向を変えるようになりました。周りにある玩具を自由に獲れるようになり、左右に方向を変えて玩具を得て遊んでいます。漸くRくんに動的なアクションが生まれてきたのでした。しかし考えてみると、これでRくんは寝返りから這い這いの過程は割愛するようで、私の思い描いている赤ちゃんの進歩からは離れた存在になりそうです。3人の孫、三者三様で、その3人の成長の過程は一致しません。ズリ這い、膝立ち四つん這い、高這いの過程を歩んだNちゃん、それにいざりを加えたYちゃん、そして這い這いを割愛で、いざると言う移動手段を選びつつあるRくん、子育ては周りの大人の思う通りにはならないものです。さてこの先の三者の運動能力は如何がなるものか、興味津々、結果は如何に…。


運動とは別の性格の点からすると、Rくんは二人のお姉ちゃんに比べて、落ち着きがあります。人見知り場所見知りであったNちゃん、喜怒の落差が激しかったYちゃん、Rくんは何時でも何処でも誰とでもニコニコ笑顔が絶えません。人見知り場所見知り無し、感情は極めて平静で物事に動じません。男の子として、一番良い優れた性格を持って生まれてきたかも知れません。ジイジとしても余計な緊張感なく接することができる孫ですね。

新・赤ちゃん観望記17 Rくんの澄んだ瞳 2018.05.20

背面抱っこの時、Rくんはしばしば首を回し私の目を見つめます。首を傾げ見上げる格好で私を見つめるのです。その瞳には何の屈託もなく、澄んだ瞳で私を見つめます。それが何を目的としているのか私には解りません。私の様子を伺うのか、私の反応を楽しんでいるのか、さっぱり解りませんが、そろそろだな?と思っているとくるっと首を回し、私を見つめます。その瞳はまるで美しい湖の湖面のように穏やかです。笑うでもなく、いぶかしがるでもなく、透明な瞳で私を見つめるのです。私の心はRくんの瞳のように澄んで、優しい気持ちが溢れます。大好きだよ、Rくん!

新・湘南漫歩 松田町の酒蔵 2018.02.27

桜を見終え、徒歩で駐車場へ戻る際、少し松田町を散策しました。松田の駅前に来ると何やら糀の匂い?が…、そこには風情ある酒蔵が一軒建っていました。風が弱かったこの日でしたが、寒さは体の芯まで達していて、暖も取りたかったのでした。無償で頂いた甘酒、五臓六腑に沁み渡りました。

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日本全国、造り酒屋とは風情あるもので、何処の町や村でも好い雰囲気が醸し出されています。妻が試飲を楽しんでいる間に私は探索探勝をしました。酒蔵の門があり、玄関には杉玉が吊るされてありました。この杉玉は、新酒が完成されると作り出し吊るされるそうです。最初は真っ青、次第に酒が熟成される時間に従い、吊るされた杉玉も茶色を帯びてきます。正に杉玉は酒の出来具合を知らせる目印として使われてきたようです。

杉玉の起源は、奈良の桜井市にある三輪山の杉にあやかったものだそうです。そこには酒神大神神社があるそうで、そこの御神木が杉だったので、その神威が宿る杉の葉を使って杉玉を作るようになったのだそうです。杉玉は酒箒、酒林、酒旗などの呼び名もあります。

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松田町の造り酒屋・中澤酒造株式会社。文政8年(1825年)の創業です。登録商標は松美酉(まつみどり)。丹沢山系の伏流水を使用とのこと。丹沢は銘水処、旨い豆腐の他に旨い酒もありました。

新・湘南漫歩 松田町の河津桜 2018.02.27

今は初夏、記事執筆が大幅に遅れていまして、お恥ずかしい話ですが、早春の桜、河津桜の紹介を致します。

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寒緋桜を別格とすれば、先ず春早くに咲いてくれるのがこの河津桜です。伊豆河津町が発祥の地ですが、人気が爆発して方々で植えられるようになりました。この松田町の桜も年々立派になり、美しい姿を魅せていまして、多くの河津桜ファンが押し寄せています。この日は生憎の薄曇りの空、富士山がある西の空も濁っていました。富士に桜が名物なので、今回は今一つの風景でした。

新鎌倉漫歩26 泉の井 2018.02.23

扇ガ谷には鎌倉十井の内の三つの井があるのです。先に紹介した底脱の井、そして今回の泉の井、さらに扇ノ井もあるのですが、何と扇ノ井は民家の中にあるのだそうです。この日は私もそのことを知らなくて一応探してみたのですが、当然ながら見付かりませんでした。諦めて目指すは唯一つの泉ノ井を探し当てました。浄光明寺の少し先にある路傍に、しっかりとした案内板と共に存在しました。

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江戸の世になると鎌倉は一大観光地となったようです。すると七つの切通し(七口)や五名水、鎌倉十橋(じっきょう)などと数を数えてそれぞれの名所をあげつらうようになりました。その一つが鎌倉十井(じっせい)で、古くから重宝された井戸が名を付けられて人口に膾炙しました。鎌倉には凝灰岩(鎌倉石)の岩盤があり、水の出易い土地でしたが、水質が今一つで、美味しい水の出る井戸が観光資源としても有名になったのだそうです。

因みに十六ノ井は飲料としては使われてなく別格で、鎌倉十井には入っていません。

新鎌倉漫歩25 浄光明寺 2018.02.23

午後も大分過ぎ、少々疲れの出てくる頃。浄光明寺は奥行きの深い寺、本殿の阿弥陀堂、最奥の冷泉為相の墓など見所が豊富でしたが、ここに来て疲れで探勝がお座なりになり、未消化のまま還向してしまいました。この秋にも再び訪れて、浄光明寺の全てをお見せしたいと思っています。曼珠沙華の咲くころに…

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客殿
入母屋造り日本最古の唐様建築だそうです。

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不動堂
開基は六代執権北条長時、開山は真聖国師、真言宗泉桶寺派の寺院で、泉谷山浄光明寺と称します。北条氏や足利氏の帰依が深く、足利尊氏はこの寺に籠って、後醍醐天皇に対し、挙兵する意思を固めたそうです。

新鎌倉漫歩24 武田流弓馬道教場 2018.02.23

海蔵寺から還向(げこう、尊い場を去る)し、元来た道を辿る際、行きに気付かなかったこんな表札がありました。どうやらここは弓道と馬道を訓練する流派の道場らしく、鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)神事に、深く関わりのある場に違いないと想像しました。こんなところに流鏑馬の関係者が…。思い掛けない発見で、心を動かされました。

その昔、奥州平泉に渡る手形が欲しくて鎌倉を訪れた西行法師が頼朝と面会しました。その時頼朝が西行に教えを請うたのが和歌の神髄とその道の達人だった西行の流鏑馬の技法でした。頼朝は一晩でそれを聞き取り、書記役に認めさせ、それから流鏑馬は鎌倉の大事な神事となりました。それは今日まで弛まず伝わっており、確かな伝統として残っています。鎌倉の流鏑馬の先鞭をつけたのが、史上最高の歌人の一人、西行だったのです。

武田流弓馬道教場
流鏑馬を行う流派は幾つかありますが、この武田流弓馬道は鎌倉に本部を持つ弓馬道の流派です。ここで流鏑馬に関する修業が行われているのです。私は嘗て、その鍛錬風景をテレビで観た記憶がありますが、それは厳しい修行をしていました。。

流鏑馬は本来放生会(ほうじょうえ)の日の葉月の十五に行われていたようです。しかし現在では例大祭として、旧暦葉月の十五日に近い九月の14~16日に開催されています。流鏑馬は16日に行われるようです。

流鏑馬の語源=馬を馳せながら矢を射ることから「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代を経て「やぶさめ」に転化したのだそうです。

放生会=仏教の不殺生の思想に基づく儀式。野生の生類を大切にし、それらを野に放つ祝いの儀式。

新鎌倉漫歩23 十六の井 2018.02.23

仏殿の脇を抜け暫く歩くと突き当りに至り、その右には怪しげな窟がありました。これが名高い十六の井と知らなければ、何となく避けて通りたいと思うに違いありません。しかしこれは歴史上不思議な泉、様々な言い伝えや説がありますが、どれも的を射ておらず、現代では不思議の泉と格付けられているようです。

十六の井

十六の井
正面には観音菩薩立像が祀られています。その下に伝説の元となった弘法大師像も祀られています。

十六の井
縦横に4列、合計16の泉が、今も滾々と湧き出ています。弘法大師説以外によればこれは井戸でなく、納骨のために掘られた穴と言う説もあります。いずれにしてもその真偽は解らず、謎の井戸と言うことが適当のようです。

新鎌倉漫歩22 海蔵寺 2018.02.23

山門前の底脱ノ井から山門を潜り境内に入りました。手入れの行き届いた小奇麗な境内で、気持ち良く参拝ができました。突き当りが本堂で右には鐘楼と庫裏が続き、左には御本尊の納められた仏殿・薬師堂がありました。庭園も見事に整えられており、崖には四つの窟がありました。

薬師堂
薬師堂 薬師三尊像 左から月光菩薩、薬師如来、日光菩薩が並んでいます。
薬師堂は1577年の建立、1777年に浄智寺より譲り受けたそうです。

薬師如来像には薬師の頭が胎内仏として納められていて、子育てにご利益があると言われています。鎌倉十三仏に数えられます。

ご覧のように開け放れた御本尊であり、有り難いことにこうして写真を撮らせて頂きました。

海蔵寺本堂
本堂 
龍護殿と呼ばれています。開山の名僧心昭空外座像が祀られています。

海蔵寺庫裏
庫裏と鐘楼 
庫裏は1785年に建てられた建築物、寄せ棟造りで茅吹きの屋根がついています。改築はなされていますが、昔の姿を伝えているとのことです。

海蔵寺庭園の福寿草
福寿草
庫裏と鐘楼の間にある苔生した庭にありました。梅と共に早春の花、その金色が鮮やかでした。

海蔵寺庭園と窟
岩盤の露頭の境内、そこには芝が生え綺麗に刈り込まれていました。四つの窟(やぐら)が掘られてあり、内部には石塔が建てられ花が手向けられていました。誰が祀られているのか定かでなかったのですが、きっとこの寺にかかわる人物に他なりません。静謐の佇まいがありました。

新鎌倉漫歩21 底脱(そこぬけ)の井 2018.02.23

岩船地蔵堂からは丁字路を右に取り、横須賀線のガードを越え道なりに進みます。やがて左に道標があり、化粧坂切通し経由で源氏山公園への案内があります。そこを左に曲がれば化粧坂切通しへと繋がります。この日は、化粧坂をカットし、真っ直ぐに海蔵寺を目指しました。

竹林と窟(やぐら)
正面に海蔵寺が観えてくると道は二手に別れます。右に折れると切り岸が迫り、その前面は疎らながら気持ちの良い竹林が広がりました。切り岸には窟(やぐら)も口を開けており、鎌倉時代の面影が色濃く残っていました。

底抜けの井
その古風な風景の前には泉があり、そこに底脱の井(そこぬけのい)の石票がありました。これが有名な鎌倉及び室町の世の二つの伝説に基づく底脱ノ井で、この二つの伝説がこの井戸の名の謂れを表しています。先の岩船地蔵堂と言いこの底脱ノ井と言い、そして後に登場する十六ノ井と言い、全て海蔵寺の管理の遺跡であり、美しい佇まいを今に伝えていました。鎌倉十井の一つです。

伝説1
鎌倉時代中期に、鎌倉御家人安達泰盛の娘千代能(千代野・ちよの)が水を汲んだ際、底が抜けて詠んだ歌による言い伝え…。
「千代能がいただく桶の底抜けて 水もたまらねば月もやどらじ」

伝説2
室町の世に、扇谷上杉家の尼が水を汲んだ時に、桶の底が抜けて悟りが開けたそう…、その謂れが…
「賤の女がいだく桶の底抜けて ひた身にかかる有明の月」

賤(セン、しず)=身分の低い自分の賤称、わたくしめ。


新鎌倉漫歩20 亀ヶ谷坂切通 2018.02.23

この日の二つ目の切通しで、先の巨福呂坂(こぶくろざか)よりも古い切通しの亀ヶ谷坂切通し(かめがやつざかきりどおし)です。鎌倉の山ノ内と扇ガ谷(おうぎがやつ)を結ぶ切通しで、亀も嫌がる名にし負う急坂の切通しです。巨福呂坂が出来る前は勢いこの亀ヶ谷坂を本道(鎌倉往還)としており、人は皆、山ノ内から扇ガ谷を通り、八幡宮へと参ったのでした。

亀ケ谷坂切通し
長寿寺の角に道標があり、それを目印にしてそこを折れます。現在は舗装されており、古の古道の面影は薄いですが、その分歩き易く、直ぐに車止めもあり、のんびりとした散策が出来ます。坂はだんだん急になり、やがて六地蔵尊の険しい切通しとなります。

地蔵菩薩
切通しの峠(頂上)辺りには六地蔵が祀られてありました。六道に於いて、衆生(しゅじょう)の苦患(くげん)を救うという6種の地蔵菩薩、人の苦悩を優しく見つめ慰めるお地蔵さんです。ここに着くとこの道が鋭い崖で出来た切通しと合点がいきます。ここからは物凄い下り坂が待っています。妻共々「戻る気は更々ないよね!」。海蔵寺を巡って北鎌倉でなく、鎌倉を目指す意思を固めました。

扇が谷の田園風景
扇ガ谷の田園風景、このような長閑な風景にも出会えます。扇ガ谷は住宅地ですが、お寺や農地も散在しています。普段の鎌倉とは別世界の隠れ里の世界です。

岩船地蔵堂
岩船地蔵堂、横須賀線の車窓からも観える地蔵堂です。
切通しから直進すると丁字路に突き当たります。右へ行けば海蔵寺、そして化粧坂(けわいざか)、左へ折れれば、今大路へと通じ八幡宮へ向かいます。この丁字路の一角にあるのがこの岩船地蔵堂です。頼朝・政子の娘・大姫の守り本尊を祀ったお堂と言われています。木曽義仲の嫡男・源義高との悲恋のために精神を病んだ大姫、その大姫は頼朝・政子とは似て非なる優しい姫と言い伝えられています。

新鎌倉漫歩19 円応寺 2018.02.23

旧道の巨福呂坂から元の鎌倉街道(新道)に戻り、再び鎌倉街道の上り坂を上ると暫くして巨福呂坂トンネルが観えてきます。吹き抜けの明るいトンネルを過ぎれば下り坂となり、右手に建長寺、そしてその手前左に石垣が切られた異様な急階段があり、それを上ればそこが円応寺です。山号寺号が新居山円応寺、臨済宗建長寺派の寺院で、別称は新居山閻魔堂、または十王堂とも言います。

閻魔大王の円応寺
円応寺と言えば鎌倉時代に作られた木像の十王像が有名です。閻魔大王を中心に囲むように、合わせて十の王が鎮座しています。これらの王は死んだ生類を審判し懲罰する神で、極悪人は地獄へ送り、極善人は天界へ昇らせ、普通の人は49日間の冥土の旅をさせて次に生まれる場所を断定するのだそうです。正に死後の行く先を判断する役目を担っていたのですね。十王には審判や懲罰を与えるに当たり、それぞれの役目があるそうです。

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新巨福呂坂の小高い切通しの上にあり、ここは建長寺の塔頭の後に建った寺院です。円応寺は初めは鎌倉大仏の傍にありましたが、足利尊氏によって材木座の滑川の畔に遷り、閻魔堂としました。ところが元禄の大地震(1703.12.31)により堂が大破したために、現在の地に遷り、円応寺となりました。

円応寺御朱印
鎌倉の神社仏閣の御朱印の中では、最も美的評価の高い御朱印が、この円応寺の御朱印です。漆黒の太い十王、素敵ですね。


Nちゃんと私138 Nちゃんのレゴ作品 2018.05.03

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Nちゃんに文章読解力があることは、前々から知っていましたが、今回のレゴ作品にはその能力が遺憾なく発揮されていました。Kさんから聞いたところによると、これらのレゴ作品はNちゃんが一人で説明書を読んで組み立てたそうです。素敵な話だと思いませんか? それを聞いたババチャンが言っていました。「今度は日記帳を買ってあげよう」と…。されど私は一歩先に、既に文通(お手紙交換)を始めていたのですよ。おもちゃ箱のような文通を…。NちゃんYちゃんも私の手紙を楽しみに待っていてくれるそうです。

新鎌倉漫歩18 旧巨福呂坂切通(きゅうこぶくろざかきりどおし) 2018.02.23

丸山稲荷社から階段を下ればそこは八幡宮車祓所です。新車を買われた時に交通安全を願い車をお祓いをするそうです。ここは鎌倉街道沿いにあり、対岸には「鎌倉里のうどん」店があります。そのうどん屋から鎌倉街道を逸れ鎌倉街道と平行に上り始めれば、そこが旧巨福呂坂切通の入り口となります。現在の鎌倉街道(新巨福呂坂道{明治19年開通})はこの先巨福呂坂の吹き抜けトンネル(平成4年建設)を通りますので、旧巨福呂坂切通は、そのトンネルの上方を交差する格好で通っていたようです。

歩き出すと直ぐ左に人力車茶房有風亭なる茶店があります。ここは鎌倉人力車の草分けの人力車夫の青木登さんが経営するお茶屋さんです。この有風亭で人力車の予約ができます。更に小町通で客待ちをしていた青木氏を見掛けたこともあります。まあ私共は、当分の間お世話になることは有りますまいが…。

巨福呂洞門
横須賀市水道局の巨福呂坂走水路(鎌倉側)
丹沢相模川の水が藤沢を経由してここを通り、横須賀の逸見浄水場まで送られて行きます。この水路が横須賀の水を支えているのだそうです。古都に異様な雰囲気を醸す、近代の遺構です。

巨福呂坂はこの手前を右に折れます。直ぐに青梅聖天社の鳥居が現れ、細く急な階段が聖天社のお堂に繋がっています。足を踏み外さないように慎重に歩みました。息が切れ始めた頃、狭いお堂がある平場に着きました。

聖天社道の梅
青梅聖天社の参道を飾る梅の並木。梅の奥に急峻な参道があります。

青梅聖天社
青梅聖天社堂宇
本尊は双身歓喜天。歓喜天は、ヒンズー教の神・ガネーシャが由来の神様だと言うことです。ご利益は夫婦和合、そしてもう一つ、この切通を往来する旅人の安全を見守っている神と言われています。

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歓喜天の扁額
ある将軍が病に臥せっている時、無性に青梅が食べたくなったのだそうです。そこで、この社に稔る青梅を食べたところ、たちどころに病が失せたのだそうです。そこで病気快癒のご利益もある神様だと評判になり、青梅聖天社と呼ばれるようになったそうです。

巨福呂谷坂の庚申塔
青梅聖天社から暫く上ると切通の脇に庚申塔群が現れました。これらの建立物は、紛れもなくこの道が古道であることを証明して見せています。明治の頃の地図には、この巨福呂坂切通の旧道が残っていた痕跡が見えるそうです。未だ不断に使われていたそうです。明治19年には新道がつくられ、暫くの間は新旧の巨福呂坂が相互に使われていたそうですが、関東大震災の大正12年からは旧道は跡形もなくなり、新道のみとなりました。そして平成5年には、巨福呂坂は現在の吹き抜け式トンネルとなりました。

巨福呂坂切通のドン詰まり
この民家の先が崖のドン詰まりとなっています。旧巨福呂坂巡りは、ここを持って終わりとなりました。相手が天災でしたから致し方ありませんが、残念なことですね。こんな古道を歩いて、八幡宮と北鎌倉の名刹を訪ね訪ねて、渡り歩きたかったですね。

巨福呂坂送水管路隧道
こちらが北鎌倉側の横須賀水道隧道の北側。水源から横須賀逸見浄水場までの水の通り道を探索するウォーキングもあるそうで、ネットにも載っています。

新鎌倉漫歩17 鶴岡八幡宮、太鼓橋、大銀杏、丸山稲荷社 2018.02.23

腸詰屋からチョイと戻って鶴岡八幡宮の三の鳥居から入りました。正面を仰げば、太鼓橋越しに本殿と舞殿の屋根が観えます。若宮大路は直線の道ですから、この社殿の風景は海岸近くの一ノ鳥居からも同じように観えます。そこがこの八幡宮の素晴らしいところです。

鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)、頼朝の五代先祖の源頼義が京都石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を勧請し創建した由比若宮が始まりです。それを1180年に頼朝が現在の地に移したのが今の鶴岡若宮の始まりです。1191年に若宮は鎌倉大火によって焼け落ちますが、直ぐに頼朝は再建に着手し、若宮の他に本宮も建立しました。現在のような上下両宮の始まりとなります。また現在の両宮は、1622年の徳川秀忠による大改修時の建物です。大鳥居(一ノ鳥居)、本宮及び若宮とも国の重要文化財です。

八幡宮太鼓橋
太鼓橋
1182年(寿永2年)の源平池造営の折に架けられました。当時は朱塗りの板橋で、赤橋が通称でした。

1923年の関東大震災で、三の鳥居と共に崩れ落ち、1927年に架け替えられました。橋脚、橋桁は鉄筋コンクリート製、橋床板と欄干は石造り、擬宝珠は青銅製、勾配は30度あるそうです。因みにこの橋は神の道だそうです。人間は渡れないのですよ。

折れた大銀杏

八幡宮大銀杏の若木
大銀杏
血で血を洗う鎌倉幕府将軍暗殺に絡んだ伝説の大銀杏、隠れ銀杏の名があります。樹齢800年と言われていましたが、2010年3月10日の大風により、倒伏してしまいました。今はご覧のような若木が何とか命を繋いでいます。あと800年経てば嘗ての大樹となり、八幡宮のシンボルに返り咲くことでしょう。

丸山稲荷社
丸山稲荷社
境内西の小高い丘ある丸山稲荷社、室町時代中期に建造された歴史ある本殿です。鶴岡八幡宮内にある最古の建造物だそうで、国の重要文化財に指定されています。まあ有り難いものですが、訪れる人は滅多にいません。閑散としています。静かにお参りができます。

Yちゃんと一緒50 幼稚園Yちゃん絶好調 2018.04.23

今日はNちゃんがお熱を出したので、幼稚園はお休み、そこでRくんのお守りがてら、チョイとお手伝いをしてきました。それにYちゃんの幼稚園生活の様子も知りたかったので、訪ねました。

Nちゃんのお熱はさほど高くはなく、比較的元気でしたが、やはり少し怠そう…。それでもNちゃんは決してグダグダしないで、本の黙読に精を出していました。「読んであげようか?」と尋ねましたが、「大丈夫、自分で読むから」と断られてしまいました。長時間、数冊を読破していました。


仕方なしに私はRくん相手に遊び呆けました。お座りのRくんと寝転んで正対した私、色んな玩具を次々と与えてRくんに玩具三昧をさせてあげました。もうRくんは手当たり次第に玩具を手に取って口に運びます。玩具はRくんの唾液でベトベト、お口の周りもベトベト、私はひたすらティッシュペーパーでフキフキフキフキ、直ぐに屑籠が満杯になりました。手を使いお口を使うRくん、時より笑顔で私と相槌を打つRくん、「あーあー、えーえー」とお喋りするRくん、「楽しかったね~、Rくん」。


3時半にYちゃんが返ってきました。幼稚園バスの到着が早く、私とKさんは慌ててダッシュ、「遅い!」とYちゃんに叱られました。お家に戻って早速オヤツ、プリンとゼリーを美味しく食べました。Yちゃんの食欲は半端ないもの、そのテンポが素晴らしい…、ここがお姉ちゃんのNちゃんとは異なるところ、Yちゃん元気一杯でした。

今日はNちゃんがお熱、ですから幼稚園バスに一人で乗り込んで行ったYちゃん、Kさんに聞けば元気で登園して行ったそう…。帰宅後も今日体験した幼稚園での出来事をハイテンションで喋りまくりました。そして一寸ネガティブに、「給食が少し食べられなくて、ママに会いたくて泣いたの…」。正直ですね、そして自分の状況を言葉として的確に表現できます。担任の先生が仰るには、「Yちゃんは3歳児としては破格の表現力を持っていますね。事細かにお家の事も喋っていますよ」ですって。Yちゃんには変なことは言えませんね。全部筒抜けになってしまいますからね。

兎に角Yちゃんは元気でした。Yちゃん幼稚園は絶好調でした。


新鎌倉漫歩16 鐵(くろがね)の井 2018.02.23

鎌倉には鎌倉十井(かまくらじっせい)と言う言葉があります。これは鎌倉の領内にある人口に膾炙した10の井戸(泉)を指します。山が低く海が近い鎌倉の地では良い水が得られなかったため、これらの井戸は大層重宝されたのでした。そして次第に名が付けられるようになり、今日、10件の井戸の名が残ったのです。これからの鎌倉漫歩で、少しずつ10の井戸を紹介していきます。

鐵の井
この鐵(くろがね)の井は、小町通りと横大路の辻にあります。昔、この地で井戸を掘ったところ、鉄(くろがね)の観音像の頭が出てきたそうです。この鉄観音像は本来は廃寺となった北条政子縁の新清水寺にあったそうで、行方知れずとなっていたそうです。それがここで発掘されて、その後この井戸の前に鉄観音堂が造られ安置されていたのですが、明治の神仏分離令のため鉄観音堂が壊されてしまいました。そこで仕方なく、東京人形町の大観音寺に移され、現在は本尊として納まっているのだそうです。政子にも縁のある伝説の井戸、不思議な縁起があるものです。

新鎌倉漫歩15 ランチ・腸詰屋のソーセイジ 2018.02.23

この日は2回ほどバスを利用しました。行きは鎌倉➡泉水橋、帰りは十二所➡八幡宮前。この先もまだまだ長距離を歩くのでオーバ-ワークを避ける意味で、観光をしない鎌倉⇔十二所間は、バスを使いました。

さて昼時となりました。一休みがてらの昼食です。予定していた腸詰屋のソーセイジランチを頂くつもりで、バスは八幡宮前で降りました。八幡宮を見ながら横大路(鎌倉街道)を進み、見ると八幡宮平家池の向かいに腸詰屋八幡宮店がありました。狭い店ですが、カフェも併設してあります。大抵の客はテイクアウトのようで、席は空いていて、直ぐに着席できました。

腸詰屋のソーセイジ

腸詰屋のソーセイジバーガー
バリアンタ・ハーブの焼きソーセイジとソーセイジサンド(下)
妻は鎌倉ビールでおっとりと口へ運び、私は空きっ腹へ一気にガブッと…。強い弾力が歯に迫ります。その歯応えが素晴らしい、ゴリゴリと噛むとハーブの香りと肉の旨みが絡みます。あっと言う間に平らげましたが、それ以上の注文は避けました。この先北鎌倉の三日月堂で、甘味などをと思い、グッと我慢の子を装いました。

新鎌倉漫歩第2弾・14 十二所果樹園の梅と光触寺 2018.02.23

新鎌倉漫歩シリーズの第二番の掲載を始めます。今回は梅の花鑑賞、それに鎌倉の幾つかの切通しと井戸を目的としました。梅は未だ少々時期が早く、満開とまではいかなかったのが残念でした。十二所果樹園を皮切りに、鶴岡八幡宮、鐵の井(くろがねのい)、巨福呂坂(こぶくろざか)切通し、亀ヶ谷坂(かめがやつざか)切通し、海蔵寺、十六の井、そして浄光明寺などを巡りました。梅は空振りでしたが、新しい発見も多々あり、有意義な旅でした。

朝夷奈切通と十二所果樹園の分岐
朝夷名切通しの鎌倉口にある道標。そこは朝夷奈切通しと十二所果樹園の分岐となっています。果樹園への道は車も入る林道で、果樹園までの暫くは緩い上り坂となっています。15分も歩けば果樹園の門に突き当たります。鉄扉を開け尚も上るとそこには広い斜面の果樹園が現れてきます。梅がチラホラと咲いていました。

十二所果樹園の梅
接写すれば梅と判ります。枝には多くの蕾が…、やはり時期尚早でしたね。清らかな白梅、好いですね。

十二所果樹園の梅
花は少なめでしたが、辺りはやはり梅の香が漂っていました。甘さを抑えた清潔な香、沈丁花と並ぶ早春の香ですね。

六浦道の藪椿
梅とほぼ同時期に咲く花に椿があります。お茶花としては冬の花なのですが、一般に言えば早春から春の花ですね。花期も長く、春の盛りまで咲き続けます。これはこの辺りの三浦半島に多い藪椿です。原生の野生の花藪椿、滑川の土手沿いに沢山咲いていました。

光触寺山門
光触寺山門
一遍上人が広めた踊念仏の時宗の寺、鎌倉は座禅の臨済宗のお寺が多いのですが、西御門の来迎寺と共にこれは時宗の寺です。生憎昼時で、妻は御朱印を頂けず、ガッカリの風情、私は「また来よう」の慰めの言葉をそっと呟いていました。

新鎌倉漫歩13 荏柄天神社 2018.01.31

朝夷奈切通し六浦口から歩いてここまで二万歩余り、もうくたくたの限りでした。それでも何とか踏ん張り荏柄天神まで足を延ばしました。もうそろそろ夕暮れ、天神さま境内も人影は薄く、一組の親子が合格祈願でありましょうか、熱心に参拝をしていました。天神社は菅原道真公を祀った神社。天才の誉れ高かった道真公に合格を祈願する、大丈夫、きっと君は第一志望に受かりますよ。

荏柄天神社
幕府の始まりを記念して、頼朝が幕府(大蔵)の鬼門に開いた神社です。美しい朱の建物、これは頼朝が建てた八幡宮初宮を江戸期に移築したお下がりのものと伝えられています。古では荏柄山天満宮と呼ばれていたそうで、北野天満宮、太宰府天満宮と共に日本三天満宮とされています。太宰府に左遷された道真の死後、その怨霊が京の町に天災として牙を剥きました。天皇(醍醐天皇)早世を始めとして、公家藤原家の何人もが落雷死をしました。道真の祟りです。これにより道真は恐れられ、その死後は破格の出世をしていきます。最後は最高位・太政大臣になったとか、そして全国に天神さまが祀られ、神様にまでなりました。

宇多上皇に重用された道真に反感を持った藤原時平は、宇多上皇の子醍醐天皇に讒言(ざんげん、道真が醍醐天皇を追い落とすとする悪口を告げる)をし、道真を太宰府左遷に追い込みました。道真の死後、京の都では天災が起こり、道真の祟りだと恐れられ、死後の道真は破格の出世をしてゆきます。贈一位、贈太政大臣、そして神にまで上り詰めたのでした。

荏柄天神の荏柄は、その当時のこの地・荏柄郷が名の起こりとなったようです。

新鎌倉漫歩12 杉本寺 2018.01.31

報国寺を後にし、六浦道に戻り、再び西に歩を進めると、やがて路地の右奥に古びた階が観えてきます。これが杉本寺で、その苔むした階段、そして仁王門・観音堂の茅葺の屋根、正に鎌倉最古の寺と言われるに相応しい古色蒼然たる出立ちでした。

杉本寺参道の苔生したきざはし
仁王門から見上げた観音堂への鎌倉石の階、万人の足で擦り減った段にびっしりと苔が生しており、創建より1284年の歳月の重さが感じられました。大和の厳も京の雅もありませんが、質実剛健な鎌倉の寺と言うに相応しい佇まい…。

金剛力士像(仁王)「阿」

金剛力士像「吽」
茅葺の仁王門に鎮座する二体の金剛力士像、上(右)が阿の像であり、下(左)が吽の像です。阿吽の呼吸で本尊の三体の十一面観音像をお守りしています。

杉本寺本堂
奉納旗が羽搏く茅葺の本堂(観音堂)。寄せ棟造りの密教仏堂です。この中には三体の十一面観音の観音様が祀られています。中央と向かって右の十一面観音像が国の重要文化財、その財宝を間近で観せるのがこの寺の流儀、その心意気、有り難いものです。

杉本寺石塔群
建武の中興の動乱の中での杉本城の戦いによる戦死者のための供養五輪塔群。報国寺にもこのような五輪塔群があり、そちらは新田義貞の鎌倉攻めによる戦死者の供養塔。

杉本寺六地蔵と地蔵
右が身代わり地蔵、左の六体が六地蔵。大慈を持って罪人の苦を身代わり受けるのが身代わり地蔵。六道において衆生(しゅじょう、一切の生物、生きとし生けるもの)の苦患(くげん、苦しみ悩むこと)を救うという六種の地蔵菩薩。古人の苦難を救う、民間信仰の神様ですね。

新・鎌倉漫歩11 報国寺 2018.01.31

竹寺・報国寺

鎌倉に向かい、六浦道(金沢街道)を左に折れ、滑川に架かる華の橋を渡ると、袂には大木(桜と思われます)がありました。その根元に三基の庚申塔と二基の石塔、そして一基の道祖神が並んでいました。この道こそ足利家縁の寺・報国寺と旧華頂宮邸が存在し、終いには名越切通しに至ります。

浄妙寺滑川端の庚申塚
中央が道祖神、その左右に庚申塔と石塔が並んでいました。恐らく江戸期からの遺物でしょう。鎌倉には至る所で石塔ないし石仏が現れてきます。街歩きの出会いの楽しみがあります。


報国禅寺の本堂
臨済宗建長寺派の禅宗の寺院。山号は功臣山、本尊は釈迦三尊、釈迦を中心に文殊、普賢の三尊が本堂に並んでいます。開基は尊氏の祖父の足利家時、開山は無学祖元の弟子の天岸慧広(てんがんえこう)です。

報国禅寺の扁額
報国禅寺の扁額

竹寺・報国寺
報国寺は竹の寺として有名です。太い孟宗竹の林を歩けば、竹の香りに古都の風情が感じられます。平日は比較的混雑はなく、ひっそりとした静寂を楽しめます。

報国寺内の窟
切り岸に掘られた窟(やぐら)。これは開基の足利家時の墓と共に代々の鎌倉公方の墓があるとされます。最期の公方の嫡男義久(10歳と伝わる)がこの報国寺で自刃(永享の乱)しています。報国寺は足利公方終焉の地です。

Yちゃんと一緒49 Yちゃん幼稚園入園おめでとう 2018.04.17

私のパソコンが壊れている間に、愛しい我が二番目の孫・Yちゃんが幼稚園に入りました。入園式は4月の8日、パパママに連れられて3年保育の年少さんとして幼稚園児の仲間入りを果たしました。イケイケゴーゴーのポジティブYちゃんでしたが、ここのところ知恵を付け始め、先が見えるようになったのか、少しネガティブな面も見え始めていました。ママから離れると泣く事もあるようで、私は少し心配をしたのですが、どうやら元気で幼稚園に登園しているようです。安心した次第です。何でも解る利口な子、しかし先を読み過ぎる帰来もあり、批判精神も旺盛のようで、今後の友達関係や園生活がどんな風に推移していくのか、心配でもあります。されど反対にそこに大きな興味をそそられもしています。じいじはYちゃんに興味津々です。

Nちゃんと同じように、かけっこの速い、元気な子に成長すると確信しています。大好きなYちゃん、頑張れ!

新鎌倉漫歩10 石窯ガーデンテラスで喫茶 2018.01.31

浄妙寺本堂から境内を抜け、一般道の先に西洋風の建築物が見えて来ます。ここが石窯ガーデンテラスです。和洋取り混ぜた花の咲く庭を持つカフェレストラン。マスコミに紹介され有名になってしまって、休日は混み合いますが、平日歩きの出来る方は午後遅めに訪ねるとガーデンテラスが満喫できます。庭を愛でて喫茶を楽しむ、春秋が好いですね。

石窯ガーデンテラス
築80年の洋風建築。純日本のお寺に派手な洋風建築。しかしお寺からは隠れていますし、前に立てば違和感を否めませんが、テラスに出て仕舞えばこっちのもの、その自然の佇まいの中に埋没してしまいます。この右前面がイングリッシュガーデンテラス、建物の向こう側が和洋折衷の庭園テラス、一瞥ではここの良さは解りません。全部観てみないとね。

石窯ガーデンテラスのティータイム
最初はウエイトレスに食事を勧められましたが、残念ながら食事済み、優しい会話を交わし、お茶としました。初めは室内にいたのですが、大分歩いたので体は火照っていました。そこで妻の希望でテラスを使う事にしました。真冬でしたがこの日は暖かい小春模様、テラスは爽快でした。私はハーブティーにプリンを注文しました。ハーブの刺激が心地良いお茶、そしてカフェラテ風のプリン、優しく豊かなプリンの風味でした。

石窯ガーデンテラスのプリン
可愛いでしょ! 素敵な喫茶となりました。

石窯焼き所以の木材
ここはパンが売りのカフェ、石窯焼きのパンだそうです。これらの薪が石窯焼きの証左です。パンは食べなかったのですが、この雰囲気が癖になりそうなので、再びの来訪はあるでしょう。その時は…、リピーターの予感…

石窯ガーデンテラス
和洋折衷の庭、真冬なので椿しか咲いていませんでしたが、充分楽しめる風情がありました。テラス席は我々一組だけ…、独占の貸し切り状態、我が物顔の私…

ガーデンテラスからの浄明寺の町
下に観えるが浄明寺の町、うっすら遠くの小山が衣張山(きぬばりやま)、名越切通しまでのハイキングルートがあります。あの向うは逗子ですね。

新・赤ちゃん観望記17 生後8ヶ月寝返り打てました 2018.03.23

一昨日までのRくんは、お座りは上手で、掴まらせては立てますが、苦手なのはハイハイ。苦手なのか意思がないのか、良く解りませんでしたが、まあ意思が無かったのでしょうね。ヤル気を見せなかったのですから…。それでもとうとう寝返りを打ったそうです。ヤレヤレですね、寝返りを打つ事は大事な事で、そこからハイハイに繋がります。お座りが出来てタッチが出来て仕舞えば、何れ伝い歩きが出来てしまいます。結局こう言う子供はハイハイをしないで、成長してしまうのです。ハイハイは体の体幹を鍛える上で重要だそうです。Rくん是非ハイハイをしようね。君の二人のお姉ちゃんたちはそれはそれはハイハイの上手な赤ちゃんでした。二人とも高這いまで行ったのですよ。ですから二人とも元気者、運動大好きな子供に育ったのです。お姉ちゃんに負けるな!Rくん!

新鎌倉漫歩9 浄妙寺 2018.01.31

この浄明寺辺りは足利氏に縁の深い土地柄です。前回の新鎌倉漫歩8で紹介した足利公方邸旧蹟の碑、そして今回の浄妙寺、更に今後の報国寺と足利氏に縁のある古跡が連ねています。この旧蹟がある浄明寺の地は、寺の浄妙寺の妙と住所の浄明寺の明とでミョウが異なっています。これは良く混同するところで、注意深く使わないといけません。恐らく?、役所が住所を決める時、お寺さんに気遣って、妙を明に変えたのでしょうね?

浄妙寺は鎌倉五山の第五位の臨済宗・建長寺派の寺院です。山号は稲荷山(とうかさん)、寺号は稲荷山浄妙広利禅寺。本尊は釈迦如来。開基は足利義兼(足利氏本流)、開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)です。初めは密教の極楽寺、後に臨済宗建長寺派に変わりました。足利氏由来のお寺です。

浄妙寺本堂たいこうぎょうゆう

浄妙寺方丈
本堂と方丈
梅がチラホラ咲いている本堂前の庭、よく手入れされていて好ましい景観を魅せています。本堂は江戸期に改修されたもの。屋根は茅葺であったそうですが、銅板葺きに直されています。茅葺好きの私にとっては残念ですが、こうして銅板葺きを観ても美しいと思います。仮屋根(茅葺)でなく本屋根の本堂ですね。方丈は代々の住職の居所、本来は畳四畳半の広さのものでそれが方丈の由来。古の僧侶は質素を極めたものでした。時代を下るに従い、立派な方丈が造られるようになりました。

本堂の他にもこの浄妙寺は、幾つかの祠や社、それにお堂があります。

本寂堂=境内に入り、参道を行くと右の端にこの小さな社があります。三法荒神の神で、三面六臂で仏・法・僧の三法を守る神であり、浄妙寺を護る神。これは後の世に設えたレプリカのようなもので、嘗ては北条政子が造らせた荒神像、不動像を安置した本格の本寂堂があったと言われています。

鎌足稲荷神社=伝説の鎌倉の名の発祥を中臣(藤原)鎌足にこじつけた社。参道右の階段を上った先にあります。

喜泉庵=茶室、今でも使われており、抹茶が飲めます。高価ですけど。

喜泉庵の先を一般道へ抜けると再び幾つかの古跡と現代のカフェ・石窯ガーデンテラスがあります。石窯ガーデンテラスは次回に紹介するとして、ここでは熊野神社と足利直義の墓がある窟を紹介しましょう。

熊野神社=浄明寺の鎮守様。勿論浄妙寺の鎮守でもあります。この山には昔二つの寺があったと言われます。大休寺と延福寺。大休寺は尊氏の弟の直義(タダヨシ)の菩提寺でしたし、延福寺は尊氏と対立した直義が幽閉された寺。山懐には、窟があり、そこに直義は葬られているそうです。石窯ガーデンテラスの先に窟があるようです。

新鎌倉漫歩8 足利公方邸舊蹟の碑 2018.01.31

六浦道を西方に進むと、漸く住所は十二所から浄妙寺に代りました。代わって直ぐの路傍に現れたのがこの重厚な石碑でした。読めば足利公方邸藭(旧)跡と彫られていました。「そうか、ここが室町に移り住む前の足利氏の根城だったのだね…」、「足利尊氏も住んでいたんだね…」と小さな会話が弾みました。朝比奈三郎義秀、上総介広常、梶原景時、大江広元、源実朝、藤原頼経、そして足利公方家。
歴史上の登場人物が次々と現れます。鎌倉、面白し!

足利公方邸跡
鎌倉幕府が滅び、建武の新政の時代となりましたが、足利尊氏は後醍醐天皇と反りが合わず、暫くは鎌倉に居を構えていました。その住いがこの辺りの浄明寺の地にありました。ここは代々の足利氏の住いで、先祖・足利良兼が初めて鎌倉のこの地に住んだと伝えられています。尊氏の子・基氏が第一代の鎌倉公方(足利公方)となり、この館に住み、東国を統治していたのです。後にこの館跡の地は、足利公方邸の旧跡と称されるようになります。

公方=室町時代になると都は京に移され、東国の統治を成すために、鎌倉に鎌倉府が置かれました。その鎌倉府の最高責任者を鎌倉公方と呼びました。代々、足利基氏とその嫡流が継承しました。

足利氏と源頼朝とは遠い親戚で、その両家の祖は源義家です。足利氏は河内源氏の血を引いています。北条氏とは身分が違い、尊氏は征夷大将軍となり室町幕府を開いたのです。鎌倉時代、強大な権力を握った北条氏でしたが、その身分の低さ故え将軍とは成れず、執権で甘んじたのです。



新鎌倉漫歩7 五大堂明王院 2018.01.31

六浦道をゆっくり西に向かって歩むと、直ぐに滑川に架かる赤石橋となります。この辺りが鎌倉幕府初代政所別当の大江広元の屋敷があったところです。そこには大江広元邸址の石碑があります。そして北の山手に歩を進めば、そこは三代将軍実朝が父・頼朝の菩提を弔うため創建した大慈寺(だいじじ)があった辺りで、今や大慈寺は焼け落ちて無く、大慈寺跡の碑があります。更にその少し西に動けば、五大堂明王院があります。

五大堂明王院
門前には目を惹く程の大きな石票がありました。ゴツッと太くて心強い好い感じがしますね。そしてその好い感じはさらに続いて、細い参道を行くと茅葺の本堂に至ります。

五大堂明王院・本堂
益々い好い感じですね。ホント、こう言うこじんまりとした庭の本堂は小粋ですよね。大きな樹木や広大な庭などが無く、寡黙でささやかな寺、好いですね。

鎌倉幕府四代将軍・藤原頼経(北条氏の傀儡将軍)が創建した寺。十二所は幕府の鬼門に当たる方角にあるため、幕府の守護安泰を願って頼経が建立しました。そこで鬼門除けのために五大明王が祀られています。不動明王を中心に、大威徳明王(だいいとく…)、軍荼利明王(ぐんだり…)、降三世明王(ごうざんぜ…)、金剛夜叉明王の五明王がが祀られています。

五大堂明王院
これは仏閣の庫裏(くり)ですね。本堂と同じく茅で葺かれた屋根を持っています。障子に縁側、そして岩塊の足継、好いですね。庫裏とは寺の台所や庫院の意味があります。更に転じて住職やその家族の住いをも指します。

江戸料理・八百善
出入口は異なりますが、この江戸料理の料亭・八百善も明王院の敷地内にあります。江戸期より伝わる江戸料理の名店です。何時かは一口賞味したいですね。

新・赤ちゃん観望記16 Rくんへの心持ちの品 2018.03.17

Rくんの鯉幟
遂にジイジバアバがRくん誕生の祝いに贈った鯉幟、大空に掲げられました。この日はパパのお父さんの大工さんのじいちゃんが、お手の物の技巧を凝らして、Rくんの鯉幟を掲げてくれました。送ったよ喜び、贈られた歓び、そして飾った喜び、三者の喜びが重なりました。大空に揚がった鯉幟、Rくんもこの鯉幟と同じように、悠々と人生を遊泳するでしょう。

新鎌倉漫歩6 庚申塚と石塔 2018.01.31

鎌倉の街道をあるいていると色々な石造物に出会えます。それはお地蔵さんの石仏であったり、庚申塚であったり、単なる石塔であったり、また石碑であったりします。それらは昔から使われている街道や農道に多く観られ、それがその道の歴史に繋がっています。後の人々もそれらの石仏石塔の掃除をしたり手入れを行って大切にしています。その美しい佇まいは、地元の人々の献身と愛着の表れに違いありません。大江稲荷から五大堂明王院へ向かう途中の路傍にこれらの石物がありました。

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庚申塔群
どう観ても、ここにあるのは殆どが庚申塚に他なりません。鎌倉などの都には道祖神は少なく、大半が庚申塚かお地蔵様が多いですね。人口の多少によるものなのでしょうかね。信州辺りでは本当に道祖神が多いですよね。歩けば辻ごとに会い見える事が出来ます。それでもどちらもそこには、ホッと一息できる空間が広がっています。有難いですね。

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上の庚申塔群の隣には、こんな形の重々しい石塔がありました。この形の石塔にどんな意味があるのか、何時頃からこの地にあるのか調べてみましたが、現段階では判りませんでした。旅をすればその分疑問の数も増えて来ます。調べても知り尽くせないモヤモヤが残るのです。まあ、何時か何かの拍子に解る時が来るでしょう。その時を楽しみに…。

新鎌倉漫歩5 大江稲荷神社 2018.01.31

大江稲荷神社
お稲荷様
十二所神社から鎌倉に向かって西に歩いていると、右の路地奥に朱塗りの鳥居が観えました。好奇心旺盛な人でなければ見過ごしてしまいそうな小さく貧相な社でしたが、私達は興味津々、この可愛い社に近付きました。見ると鳥居の扁額には大江稲荷の文字が標されてありました。大江、これは鎌倉幕府のナンバーツーの重臣の名で、初代の政所別当(政府の長官)となった知将・大江広元の名です。平家を倒した後、大江は想いを巡らし頼朝を助け、頼朝に京都の朝廷を屈服させて、鎌倉幕府を開く道筋を示したのです。頼朝はこの大江の頭脳を借りて後白河法皇を捻じ伏せ、坂東(碓氷峠・箱根峠以東の地域)の鎌倉を日本の首都に押し上げたのです。大江は頼朝に向かい、全国に守護・地頭(司法や警察)を設置するように勧めた人でもあります。戦火混乱の日本の平定に一翼を担った鎌倉幕府初期の天才的文官でした。頼朝と大江はその後長く続く(670年余り)武家政治の礎を築いたのです。その功績は伝説となっています。足利尊氏・徳川家康などの尊敬を集めました。

四季の花四季の実 鈴懸の実 2018.03.11

鈴懸の実

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プラタナス(鈴懸の木)

鈴懸の実

太田なあのれん
先週の週末、NちゃんYちゃんRくんが来てくれてKさん共々、義母の88歳の誕生日の米寿を祝ってくれました。横浜の牛鍋屋の"太田なあのれん"でやったのですが、もう曾祖母ちゃんは大喜び、やはり大人だけの参加でなく、幼児がいると違いますね。老人は子供が大好きです。NちゃんYちゃんRくんは立派に役目を果たしてくれました。曾祖母ちゃんはRくんを抱きっ放し、満足頻りの満ち足りたお顔でした。その日は我が家にお泊りをしてくれたみんな、楽しい一晩を過ごしました。

翌日の日曜日はお昼を食べて午後にお帰りの予定でしたので、梅を観に近くの自然公園に行きました。梅は満開で、清々しい香りを放っていました。ベンチに腰掛け観梅しながら、好い気分でお弁当のおにぎりを食べました。みんな健啖で、あっという間におにぎりは完売、久し振りの露天の食事、美味しかったですね。

NちゃんYちゃんとKさんはアスレチックスで一汗掻いて頑張りました。妻はRくんの抱っこで時間を潰し、私はその辺りをウロウロと探勝のお散歩。アスレチック施設の前には鈴懸の木(プラタナス)の大樹が…。空かさず私は地面に目をやり探し物、ありました鈴懸の実、これが鈴懸の木の木の実の鈴なのですよ。

新鎌倉漫歩4 十二所神社 2018.01.31

切通しからは離れて、こんどは神社仏閣を訪ねました。先ず朝比奈切通の鎌倉口の端緒には、このお地蔵様が佇んでいます。ここ朝比奈切通を入るにしろ出るにしろ、勢いこのお地蔵様と接見しなければなりませんね。

切通別れ道のお地蔵様
綺麗に掃除され、花までも手向けられています。大切に保存されているのですね。お地蔵様は一般には子安地蔵で、安産祈願の菩薩様です。故に子を亡くされた方々には水子供養の菩薩様とも言えるので、希望や苦難を励まし慰めるためにある地元の仏さまです。手を合わせ一礼をしましょう。

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切通から出れば直ぐに目に付くのが、この十二所神社の大銀杏です。秋にはものの見事に黄葉します。仕事で偶にここを通りますが、秋の午後ですと、ここを通るのが楽しみとなります。

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社殿の正面の鴨居には何とも可愛い兎の彫刻がなされています。今回この兎を撮り損ねてしまいましたが、兎(卯)は四方で言えば東を表すそうで、鶴岡八幡宮の真東に当たるこの神社が兎の神社と位置付けられたようです。鎌倉の東の果てにある神社、その意味合いがあるそうです。

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境内には岩を穿った窟に小さな社が二つ並んでいます。本当に可愛い祠ですが、その左の方には、その縁起が標されてあります。疱瘡神と書かれてあるそうなのですが、疱瘡は天然痘の事で、その疱瘡をもたらすものが疱瘡神と信じられてきました。天然痘の流行を抑える意味を込めて、ここに疱瘡神を祀ったのだそうです。

新鎌倉漫歩3 朝比奈切通し鎌倉口アプローチ 2018.01.31 

朝比奈切通しから金沢街道までの暫くは平坦な住宅地の中を進みます。それでも常に滑川が傍にいてせせらぎの音を響かせています。順に反対側の土手を観ていると、何かしらそれなりの対象物が観えて来ます。鎌倉五銘水の一つの梶原太刀洗の水、鎌倉石を穿って走る滑川、円形の窟に納まる円の石塔、そして至る所で実を着けて照る靑木。色の少ない冬に仄かな朱を魅せてくれています。

梶原太刀洗水
鎌倉五銘水の一つ大刀洗水。
頼朝の家来梶原景時が同じく頼朝の家来上総の介広常を討った時に太刀に付いた血を洗った泉。謀反の疑いを掛けられた広常を頼朝の命令で景時が討ちました。しかしこれは頼朝の誤解で広常は無念の討ち死にをしたのです。鎌倉の武士は常にこんな理不尽な争いをしていました。頼朝しかり、北条一族しかり、素晴らしい武士一族の多くが滅ぼされたのです。

鎌倉石を穿つ滑川
鎌倉石を穿って走る滑川、涌き出て間もない清水、美しい飛沫を上げて迸ります。

やぐらの中に石仏
丸く穿った窟に円形の塔が立っています。対岸にはその祠に捧げるための台座が設えてありました。可愛い祠、どんな縁起があるか調べましたが、調べ知れず。残念でした。

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自然の花は無く、紅い彩りは靑木の実だけでした。艶々と愛らしい実、私は大好きです。

新鎌倉漫歩2 朝比奈切通し・大切通し 2018.01.31

朝比奈切通しの碑
鎌倉口の朝夷奈切通の石碑

熊野神社から戻り、頂上の権現山まで登るとそこは朝比奈峠、この切通が出来た時点で、ここが朝比奈峠となったのです。ここからは鎌倉方になり、大切通しに至ります。この辺りは多くの窟(やぐら)が掘られており、如何にも鎌倉の風情が残ります。窟の岩壁は苔生し、その苔上には草が蔓延り、時の流れを感じさせます。この朝比奈切通しの佇まいは殆ど鎌倉時代の昔のまま、時間旅行が楽しい歴史の道です。

やぐら(窟)
窟(やぐら)
狭い土地に、当時は10万人ほどの人口が有ったと言われる首都鎌倉、その生活を支えるために切通が造られたのですが、人口が多い分、死人も沢山出ます。土地が無く墓が足りなくなり、仕方なく切通しの壁に窟を掘り、そこを墓場にしたのです。この窟の中に火葬した人骨とそれを弔う石塔が置かれたのです。

切通岸壁
大切通
巨大な切通の一角に行き当たります。垂直の断崖が頭上遥かに聳え、押し潰されるように迫ります。ここが大切通です。ここには壁面に摩崖仏のレリーフ(浮き彫り)があるのですが、粗忽な私はそれを見逃し写真が無く、今は忸怩たる思いで、悔やんでいます。私の場合、完璧な旅は無く、何時も何処か綻びが隠せません。


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道造供養塔
大切通の直ぐ先に数個の石塔がありました。これは鎌倉よりのちの江戸期に建てられたもので、この切通の改修のために死んだ工夫達を供養するための石塔です。文化九壬申(みずのえさる)1812年の建立です。

道端の石碑
こちらは南無阿弥陀仏と書かれた供養塔。安永九子天(1780年)十二月吉日の建立と書かれているそうです。

滑川源流の清水
滑川の水源の一つがこの切通辺りにあります。常にこうして清水が滴っています。

地蔵
石地蔵
比浄誉向入と言う道心者がこの切通を修造し、この道を辿る人々の苦難を免れたと相模風土記に記されているそうです。その道心者の思いがこの地蔵に乗り移っていると解釈したら好いと考えます。常に旅人を見守っています。

後半の下り坂
グングンとした下り坂になり、湧き水によって何時もぬかるんでいるようです。滑らないように慎重に進みます。切通も次第に広闊と開けて行き、愈々朝比奈切通も終わりとなります。

朝比奈切通しの碑
浅夷奈切通の碑
ここが鎌倉口となります。

三郎の滝
三郎の滝
朝比奈三郎義秀由来の滝。一夜でこの切通を開いたと言われる伝説の猛将朝比奈三郎義秀。和田合戦で親兄弟を北条に殺された義秀でしたが、猛者義秀はかすり傷一つ負わず敵を倒しまくり、隙を見て領地安房に逃げ延びたと言われています。




新鎌倉漫歩1 朝比奈切通し・小切通し 2018.01.31

この朝比奈切通しは、本来は朝夷奈(あさいな)切通しと言われます。朝夷奈の語源は伝説の武将朝比奈三郎義秀(和田塚で知られる和田義盛の三男?)の領地・朝夷奈郡(安房国)にあります。六浦(朝比奈)と安房は東京湾で繋がっています。この六浦への便のために通した切通しであったので、伝説の武人の登場となった訳です。本来は鎌倉幕府三代執権の北条泰時が作らせた朝比奈切通しですが、この剛力の武人三郎義秀が一夜で通したと言う伝説が残り、朝比奈切通しの名になったのだそうです。

朝比奈切通しの私
小切通し(朝比奈切通しの六浦方を言う)、深く掘削されています。ここを馬上の武士が往来し、更に荷馬車や大八車が通って、六浦から鎌倉へ物資(主に海産物)を運んだのです。

朝比奈切通しの方向板
八景大船線の一角が朝比奈切通しへの進路です。この先民家を200mほど過ぎると坂となり切通は始まります。

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朝比奈切通しと熊野神社を別ける石票
ここが朝比奈切通しの入り口、道は二手に別れて、左に行けば熊野神社、真っ直ぐ上れは朝比奈切通しの六浦方の小切通しへ入ります。

道祖神
庚申塔群
直ぐに庚申塔群が出て来ます。こうしたものは道祖神と同じくして古い道ではよく見かけます。道教由来の庚申信仰に基づく石塔で、庚申講を3年18回続けた後の記念に建立されます。身分に関係なく一般人でも容易に建立できたそうです。今から777年前に造られた切通、歴史ある古い道なのですね。ですからこうした建立物が多く残っているのです。

人工物・朝比奈切通しは、ほぼ最短の一直線で延びており、その計画性が表れています。鎌倉切通し中の最長の距離を稼いでいるそうです。

切通始まり
愈々昼なお暗き切通の核心部分に入って行きます。両岸が見事に切り取られています。山の尾根伝いが垂直に切り取られ、一本の平坦な道に造り替えられています。落ち葉の下は鎌倉石の廊下です。歩くと硬い感覚が靴から伝わります。決して嫌な感覚ではありません。デコボコの石畳を歩く感覚でした。いざ鎌倉となった折にはこの切通を塞いでしまいます。敵は山越えの道を進むしかなく、待ち伏せしていた幕府軍に殲滅されてしまうのです。

熊野神社道標碑
熊野神社への石票
ここを左に折れれば熊野神社に行き当たります。ここは切通ではなく普通の山道、雑木林と杉林が混じった森の中です。フィトンチッド豊富な清々しい道程です。森林浴を楽しめます。

熊野神社
熊野神社
新しく建て替えられた様子ですね。白木が美しい社でした。熊野神社は和歌山の熊野三山から勧請された神社です。

鎌倉幕府の鬼門の位置北東にに築かれた神社で、幕府の守り神として役立ってきました。三代執権・北条泰時の建立だそうです。



鎌倉七福神巡り7 御霊神社の福禄寿 2018.01.07

鎌倉七福神の神社仏閣の中で最も特異な存在が、この御霊(ごりょう)神社です。平安後期の創建で、鎌倉権五郎景政を祀る神社です。別称は鎌倉権五郎神社と言います。権五郎は平安後期の桓武平氏の流れをくむ武将で、武勇の誉れ高かった武将であったと謂われています。権五郎の命日は9月18日なのですが、この命日には極めて異質な面掛行列(めんかけぎょうれつ)なる風習が行われています。面を被った(着けた)男十人が行列するのです。一番が爺、二番が鬼、三番が異形(面無し?)、四番が鼻長、五番が烏天狗、六番が翁、七番が火吹き男(ひょっとこ)、八番が福禄寿、九番がおかめ(頼朝の妾が着けた面だそうです)、十番がとりあげ(産婆)となります。ここにいる八番の福禄寿こそが、鎌倉七福神の中の祭神福禄寿です。

御霊神社鳥居と本殿
鳥居と境内の先に本殿。右奥が宝蔵庫。

福禄寿
宝蔵庫の中。
面掛行列の図柄の石板。前面にいるのが福禄寿。右上の棚には、十面全てが揃っています。

御霊神社門前の江ノ電
鎌倉の神社仏閣の中には、後の世に敷かれた鉄道に境内が分断されているものがあります。円覚寺は横須賀線が…、満福寺とこの御霊神社は江ノ電が参道を横切っています。踏切の脇に鳥居があります。テッチャンの指折りの江ノ電撮影ポイントです。

鎌倉七福神巡り6 長谷寺の大黒天 2017.01.07

本覚寺夷堂を出て鎌倉駅に。今度は江ノ電に乗り長谷駅に。大仏方面に歩けば、直ぐに長谷観音前の交差点に着きます。この交差の道が下馬四つ角から西に通じる長谷小路で長谷寺に通じています。そこを左に曲がると突き当りが長谷寺です。

浄土宗系単立寺院で創建は天平8年。正式名は海光山慈照院長谷寺。別称は長谷観音。鎌倉で2番目に古いお寺です。本尊は十一面観音、札所は、坂東三十三観音4番目、鎌倉三十三観音霊場4番目、鎌倉江ノ島七福神の大黒天。


鎌倉長谷寺
山門と奥に観えるのが観音堂。鎌倉でも有数の寺院です。大黒天は観音堂に登らずに下の境内にあります。

長谷寺の大黒天
浄智寺の布袋尊と同様に、さわり大黒天であるので、自由に触れます。キチンとお堂に入っているので小奇麗な大黒様ですね。

そもそも大黒天は、ヒンドゥー教のシヴァの神の化身であるマハーカーラだそうです。その意味は、マハーは大(偉大)、カーラは黒(時)だそうで、大黒天と訳せるそうです。大黒天は、密教の神であり、また密教の大黒天が元となった仏教の神でもあり、更に密教の大黒天が元となり、大国主命と神仏習合して出来上がった神道の神でもあるのだそうです。これが七福神の一つとして知られる大黒天です。

神道の神でも豊穣を司る神だそうで、米俵に乗り、福袋と打ち出の小槌を持って微笑むのが現在の大黒様の典型。恵比寿、布袋と並んで福の神の代表です。

長谷駅の江ノ電
鎌倉寺社巡りで世話になるのがこの江ノ電です。特に長谷や極楽寺周辺では便利に使えます。休日は混雑極まりないですが、平日ならそれなりの楽しみ方が出来ますね。歩け歩けも好いですが、安価な江ノ電やバスを使うのが疲れない鎌倉歩きをするコツですね。

新・赤ちゃん観望記15 お座り、ニッコリ、でもお漏らし 2018.02.11

未だ寝返りが打てないRくんですが、既にお座りはシッカリ出来ています。体幹の筋肉が発達してきたのでしょう。お座りをさせれば、ずっと体型を維持して、お座りを続けられます。抱っこして前後左右に揺れたとしても、傾がずにシッカリ自分で体を支えています。ですから抱っこが極めてし易くなったのです。体が崩れないので、その分抱っこの時間も延びるのですね。でもこの日はチョイとその良い傾向が裏目に出て、抱っこをし続けた結果、2回もお漏らしをされてしまったのでした。

先ずはRくんのお尻の下にあった我が腕に、ほの温かい湿り気が伝わって、1回目のお漏らしが…。そしてもう一回は、お座り抱っこをしていたら、今度は私の太腿に温かい湿り気が…。私は着替え持参で来ていませんので、拭いてお終い、その内臭い出すだろうと覚悟をしていましたが、赤ちゃんの尿は不純物が少ないとみえて、帰宅するまで匂いませんでした。

ずっと布オシメで来ているNちゃんYちゃんRくん兄弟ですからね、気を付けませんとね。あと一年ぐらいですかね、Rくんがオシメが取れて、パンツの生活をするようになるのは…。

Yちゃんと一緒48 自分のお雛様に不信感? 2018.02.09

Yちゃんのお雛様
Yちゃんも大分物心がついたのですね。共に飾ったNちゃんのお雛様を見、「うぁーきれい!」と言ったまでは良かったのですが、自分のお雛様が飾られて出て来た言葉は「小さいね…」。私はそれを聞いて「ギクッ!」としたのですよ。買う時は夢にも思っていなかった人形の大きさが、今のYちゃんには一寸した不満に繋がったのですね。兄弟姉妹は己の待遇に一喜一憂するものですね。派手目な京雛のNちゃんのお雛様、江戸木目込みのシックなYちゃんのお雛様。その良さを見極める力は3歳児のYちゃんにはありませんでした。これから先、このお雛様を飾る度、私はその素晴らしさをYちゃんに語り続けようと誓いました。どんなに私がこのお雛様に入れ込んだか…、きっと大人になるにつれYちゃんにも、解ってもらえる日が来るでしょう…

Nちゃんと私137 またしてもNちゃんの大人の言葉 2018.02.09

Nちゃんのお雛様
昨日Nちゃん家のお雛様を出す予定でしたので、私達も手伝いました。と言ってもNちゃん以外の二人の孫の面倒をみるためにお呼びがかったのでした。

Yちゃんと沢山遊んだり、Rくんのお守りで沢山抱っこしたり、私は大いにお役に立ちました。お昼には5人で仲よくKさん作のピザを食べました。Rくんはオレンジの果汁を皆とのお付き合いで飲みました。その渋ったいお顔が可愛かったですね。

午後の3時過ぎにNちゃんが幼稚園から帰り、早速飾られたお雛様に気が付き、ご満悦でした。私はNちゃんをつかまえてお喋りを仕掛けました。「ねえ、Nちゃん、今お遊戯会の練習をしているよね?、ここで一寸劇の練習をしない?、「不思議の国のアリス」の💛の女王のお芝居の…。お歌も歌ってくれない?、ジイジ観たいし聴きたいんだ」。ところがNちゃんが応えた内容はこんなものでした。「ジイジ…、それはお遊戯会のお楽しみ、今やっちゃうとお遊戯会が詰まらなくなっちゃうじゃない、楽しみに待っていて!」ですって。驚きました、またしてもNちゃんの大人びた会話。去年は喜んで、嬉々として踊ってくれたのに…。どこでこんな会話の仕方を憶えるのでしょうか? 私は残念がるも嬉々としてNちゃんとの会話を楽しみました。

Nちゃんと私136 初めての批判と請求、驚きの瞬間! 2018.01.30

先日、皆を乗せて東名高速を走っていました。お喋りをしながら普通のスピードで走っていると、Nちゃんが急に話に割り込んできて、「ジイジ遅いよ、もっと速く走れないの? 一杯抜かされているよ!」と宣いました。こんなNちゃんの台詞は初めて聞きました。5歳を過ぎると大人顔負けの会話をするようになります。私は驚いてしかも嬉しそうに「へぇー、Nちゃんも大人になったんだね、こんな喋りをするんだ!」とKさんに相槌を求めました。Kさん「そうなの、批判精神が芽生えたの!」と、悪からぬ思いで同意をしました。でもNちゃん、スピード狂にだけはならないでね!

幼児と付き合っていると驚いたり感心したり熱狂したり、新しい発見が見出せます。こんな大きな喜びに始終巡り合えるのです。私の貴重な時間です。
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