2001年01月02日

往生院六萬寺 楠木正行公について

楠木正行公について

※ご墓所へのお参りにつきましては、管理の関係上、必ず事前に寺務所へとお問い合わせ下さいませ。場合により、ご案内できないことがあります。

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楠木正行は正成の長男として、正中元年(1324)、河内に生まれます。

幼少の時を往生院などで学問を学び、武芸を磨きました。

その頃、南北朝の抗争が激しく、千早赤坂城などで活躍していた父、正成は九州より足利尊氏が勢力を盛り返し、都へ攻め上がるとの報を聞き、子・正行と最後の別れをします。


※桜井の宿・・東大阪市六万寺周辺の桜井郷という説と摂津の桜井という説があります。

時は1336年。新田義貞とともに湊川の戦いにおいて、正成は足利尊氏と戦い、壮絶な戦死を遂げました。

その後、正行は楠木一族の頭領として南河内を中心に活躍します。

湊川の戦いで勝利した足利方は、着々と幕府の基礎を固めつつありましたが、南朝方の動きを常に気にし、楠木一族の河内での活躍に、いつ決戦を挑むか機会を窺っていました。

そして、正平2年(1347)12月26日、いよいよ南朝討伐の兵を尊氏は挙げます。

足利方は高師直・師泰を中心とした兵6万の大軍をもって京都を出発し、淀・八幡に着きます。この報を聞いて、正行は27日、吉野の皇居に馳せ参じ、後村上天皇に拝謁しました。


※この時、帝はめったに上げることのない御簾を上げて正行に声をかけられた。

くしくも、父・正成が、湊川の戦いへ赴く前に後醍醐天皇に拝謁し、決死の覚悟で戦いに望んだのと一緒であった。親子二代・南朝方天皇陛下に忠義忠誠を尽く し、南朝方のために散る覚悟だったに違いない。後村上帝は「父と同じ道は歩んではならぬ、無理はせずに生きて帰るように」と正行に告げたが、もはや心の中 では帝のために玉砕を覚悟していた。


※戸板に書かれた和歌は如意輪寺に納められている。

「かえらじと かねて思えば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」

と辞世の歌を残して、河内へと出陣しました。



正平3年(1348)1月2日、幼少期を過ごした往生院に本陣を置き、5日早朝、凍てつく中を正行は3千の兵を率いて、東高野街道から押し寄せる数万の高 師直・師泰軍を目指して激しく戦いを挑みました。劣勢は明らかながら、忠義忠誠に燃えた兵たちはひるむことなく猛然と戦いました。



その日、四條縄手の戦いにおいて、30余度戦いの末、ついに刀折れ、矢尽き、もはやこれまでと敵の手にはかかるまいと弟・正時と刺し違えて亡くなりました。まだ僅か25歳の青年でした。

四條縄手の合戦により、往生院の伽藍も兵火に焼け落ちてしまいました。


※四條縄手・・東大阪・東部の四条・縄手地区周辺との説と今の四条畷市周辺との説が分かれている。

正行公の亡がらは黙庵和尚により往生院の境内にひっそりと埋葬(胴塚)されたと伝えられています。





※お墓は全国に六ヶ所ほど伝わっており、往生院境内(胴塚)・額田首塚(東大阪市山手町)・宝匡院首塚(京都府嵯峨野)・正行寺首塚(宇治市六地蔵附 近)・四条畷墓所(四条畷雁屋南町)・甑島墓所(鹿児島県西)など様々に伝わっている。南北朝歴史研究家の間では非常に興味深く議論されている。

(往生院における考察は、大日本史・太平記・拾遺・吉野拾遺・和漢三才図会・日本名勝地誌・河内名所図会・大阪府史蹟名勝天然記念物・群志・その他多数文献に基づいて記述しております。)

史実に限らず楠公さんの果たした志を考え、御供養を続けていくことが何より大切であると存じます。毎月5日は墓前供養・1月5日は祥月命日供養をお勤めさせていただいております。

※ご墓所へのお参りにつきましては、管理の関係上、必ず事前に寺務所へとお問い合わせ下さいませ。場合により、ご案内できないことがあります。

作成・川口英俊副住職


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