2026年02月14日

「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について(令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料)

令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料
 

【往生院六萬寺の歴史】「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について
 
近年、往生院六萬寺の歴史について再調査研究していく中で、色々な新しい発見がありました。その一つに、お寺の山号である「岩瀧山」(いわたきさん)の山頂には、複数群の「磐座」(いわくら)があり、その東の背後にある三間石山(夫婦岩)とともに、古代祭祀の遺跡であることが分かってきました。

その創祀は、今から2185年ほど前、紀元前160年頃に、出雲王国・出雲族の移動に伴うものであったことが考えられます。

紀元前165年頃 出雲王国・二王枯死事件(2190年前)
紀元前160年頃 生駒山地(三間石山・岩瀧山等)磐座の創祀(2185年前)
紀元前155年頃 金剛山・二上山・葛城山磐座の創祀(2180年前)
紀元前150年頃 三輪山・ダンノダイラ磐座の創祀(2175年前)

紀元前165年頃に、出雲王国の主王(大国主)と副王(事代主)が同時に幽閉されて亡くなるという大事件があり、それを受けて、当時の主王と副王の子どもたちが、出雲族を率いて出雲の国(現在の島根県)を離れて、新天地を目指し、「出雲→丹波→摂津→河内→大和」へと移動していく中、河内に留まった際に、生駒山地に祖神、先祖を祀る磐座を、複数ヵ所にて造営したものの一つが、岩瀧山磐座と考えられます。

特に、この岩瀧山・三間石山の磐座は、春分・秋分の日(彼岸中日)に太陽が大阪湾へと沈む、その真東に位置しており、極めて重要な磐座であったと考えられます。古代の出雲族にとっては、彼岸の中日が現在のお正月に当たるため、彼岸中日は、特に重要な日として、先祖への感謝と供養の大祭が行われていました。この風習が、彼岸における先祖供養として現在でも続いているのであります。

 



また、平安時代、安助(あんじょ)上人により、河内・往生院が創建(1040年頃)されますが、その理由も、彼岸中日に夕陽が沈む真東に当たるからでありました。
安助上人は、「當天王寺之東門、定知極樂東門之中心也、加以西天迎晴夕日可觀」(拾遺往生伝)として、「日想観」(じっそうかん)による極楽誓願を行うのに最も適したところであるとして、この地を選ばれたのであります。

生駒山の磐座としては、夏至の日に太陽が沈む真東の饒速日山(にぎはやひやま)・磐座、冬至の日に太陽が沈む真東の天川神社跡・磐座とともに、岩瀧山は、彼岸中日に太陽が沈む真東の磐座として、古代出雲族にとっての一番大事なところであったことが窺えます。

当地は、まさに先祖の供養を行う上での「稀有なる聖地」であると言えます。

また、この磐座遺跡とともに、今まで謎だらけであった河内・六萬寺の歴史についても、ようやくに解明が進んでいくことになりました。

745年、聖武天皇の勅願により、行基上人の開基にて河内「六萬寺」は創建されます。この創建の理由も、供養を行う上での「稀有なる聖地」であったためということが分かってきました。

天平の疫病大流行(735-737年)によって亡くなった者たちへの供養とともに、この疫病の原因は、「西ノ山古墳」(八尾市楽音寺)の被葬者による「祟り」であるとして、聖武天皇の勅命により、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)、弓削道鏡禅師、行基上人の三名が中心となっての大規模な供養(と結界)が営まれ、その重要な一つのお寺として、六萬寺が創建されたと考えられるのであります。

 



中心となって主宰したのが、弓削道鏡禅師と考えられ、各三種の神器を社名に冠する神社と、各神社の神宮寺を結ぶことで、西ノ山古墳の被葬者へ向けての強力な供養と結界を営んだと考えられるのであります。六萬寺も含めて、いくつかの寺院、神社が、この頃に創建されたのではないかと考えられます。

 



では、天平の疫病の祟りの原因とされ、このように大規模な供養と結界が行われることになった「西ノ山古墳」の被葬者とはいったい誰であるか・・

あくまでも現時点までの調査研究における推定ですが、西ノ山古墳は、「天皇の陵墓」であり、それも歴代の天皇には名前の無い天皇であるのではないだろうかと考えています。

応神天皇の次の天皇として即位された宇治天皇は、クーデターにより殺され、更に、次に天皇に即位した宇治天皇の異母兄弟である隼別天皇も同じくクーデターにより殺されていることは、日本書紀や古事記において、それとなく暗喩されていると思われるエピソードはあるものの、秘密にされて、隠された歴史になっていると考えられるのであります。

いずれにしても、仁徳天皇の八田皇后(宇治天皇の妹)が、兄である宇治天皇と隼別天皇を、仁徳天皇没後に、それぞれの母の実家の地であるところ、宇治天皇をヒシアゲ古墳(和邇氏の勢力地)に、隼別天皇を西ノ山古墳(桜井田部連氏の勢力地・河内郡桜井郷)に、手厚く改葬されてあることが、出雲伝承(出雲口伝)からも推定されるものとなります。

特に、天平の疫病は、隼別天皇による祟りであるとして、当時の朝廷の認識(二人の天皇が殺されていることをまだ知る者があった)、あるいは神祇官による占いの結果や、神託・託宣があった可能性もあり、この憂いから、聖武天皇の勅命により営まれたのが、この供養と結界なのではないかと考えることができます。

この供養と結界の重要な一角を担う寺院として、行基上人により、この聖地に「六萬寺」が創建されたと考えられるのであります。

引き続き、六萬寺の歴史の解明とともに、西ノ山古墳・隼別天皇陵説についての研究も更に進めていければと考えています。

YouTubeで、「ミニ法話シリーズ」とともに、「歴史再考シリーズ」として動画で解説をしています。    

 


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