河内・六萬寺について
2026年03月08日
河内「往生院」金堂跡(大阪府指定史跡)の現況確認
往生院金堂跡の現況確認に行って参りました。
「河内 往生院 金堂跡 大阪府指定史跡 桜井寺 六萬寺 奈良時代 平安時代 鎌倉時代 室町時代」第102回 新シリーズ歴史再考
今回、改めて奈良時代~平安時代の古い瓦片も確認しました。
やはり、桜井寺、六萬寺、往生院と重層的に存在していた可能性が推定できます。
往生院金堂跡北東池
早く公的に発掘調査がされるように大阪府、東大阪市に要望して参りたいと思います。
oujyouin_blog at 15:46|Permalink
2026年02月26日
河内の郷土文化サークルセンター「あしたづ」第28号に発表
大阪商業大学の谷岡記念館に、河内の郷土文化サークルセンター「あしたづ」第28号の出来上がりを頂きに行ってきました。
河内における郷土誌の中でもある一定の権威ある誌面において、往生院六萬寺史委員会として、六萬寺の歴史のことと、西ノ山古墳の天皇陵墓説、三種の神器ダイヤモンド結界のことを発表できたことは、大変にありがたいことになりました。
これを先鞭として、更に調査研究を進めて参りたいと思います。
来年の29号でも研究の進捗を発表したいと考えています。
「あしたづ」は、谷岡記念館の一階、事務局にて購入できます。一冊1000円。ご関心ある方は是非、お求め下さいませ。
あしたづ
河内の郷土文化サークルセンター
oujyouin_blog at 15:32|Permalink
2026年02月14日
「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について(令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料)
令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料
【往生院六萬寺の歴史】「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について
近年、往生院六萬寺の歴史について再調査研究していく中で、色々な新しい発見がありました。その一つに、お寺の山号である「岩瀧山」(いわたきさん)の山頂には、複数群の「磐座」(いわくら)があり、その東の背後にある三間石山(夫婦岩)とともに、古代祭祀の遺跡であることが分かってきました。
その創祀は、今から2185年ほど前、紀元前160年頃に、出雲王国・出雲族の移動に伴うものであったことが考えられます。
紀元前165年頃 出雲王国・二王枯死事件(2190年前)
紀元前160年頃 生駒山地(三間石山・岩瀧山等)磐座の創祀(2185年前)
紀元前155年頃 金剛山・二上山・葛城山磐座の創祀(2180年前)
紀元前150年頃 三輪山・ダンノダイラ磐座の創祀(2175年前)
紀元前165年頃に、出雲王国の主王(大国主)と副王(事代主)が同時に幽閉されて亡くなるという大事件があり、それを受けて、当時の主王と副王の子どもたちが、出雲族を率いて出雲の国(現在の島根県)を離れて、新天地を目指し、「出雲→丹波→摂津→河内→大和」へと移動していく中、河内に留まった際に、生駒山地に祖神、先祖を祀る磐座を、複数ヵ所にて造営したものの一つが、岩瀧山磐座と考えられます。
特に、この岩瀧山・三間石山の磐座は、春分・秋分の日(彼岸中日)に太陽が大阪湾へと沈む、その真東に位置しており、極めて重要な磐座であったと考えられます。古代の出雲族にとっては、彼岸の中日が現在のお正月に当たるため、彼岸中日は、特に重要な日として、先祖への感謝と供養の大祭が行われていました。この風習が、彼岸における先祖供養として現在でも続いているのであります。

また、平安時代、安助(あんじょ)上人により、河内・往生院が創建(1040年頃)されますが、その理由も、彼岸中日に夕陽が沈む真東に当たるからでありました。
安助上人は、「當天王寺之東門、定知極樂東門之中心也、加以西天迎晴夕日可觀」(拾遺往生伝)として、「日想観」(じっそうかん)による極楽誓願を行うのに最も適したところであるとして、この地を選ばれたのであります。
生駒山の磐座としては、夏至の日に太陽が沈む真東の饒速日山(にぎはやひやま)・磐座、冬至の日に太陽が沈む真東の天川神社跡・磐座とともに、岩瀧山は、彼岸中日に太陽が沈む真東の磐座として、古代出雲族にとっての一番大事なところであったことが窺えます。
当地は、まさに先祖の供養を行う上での「稀有なる聖地」であると言えます。
また、この磐座遺跡とともに、今まで謎だらけであった河内・六萬寺の歴史についても、ようやくに解明が進んでいくことになりました。
745年、聖武天皇の勅願により、行基上人の開基にて河内「六萬寺」は創建されます。この創建の理由も、供養を行う上での「稀有なる聖地」であったためということが分かってきました。
天平の疫病大流行(735-737年)によって亡くなった者たちへの供養とともに、この疫病の原因は、「西ノ山古墳」(八尾市楽音寺)の被葬者による「祟り」であるとして、聖武天皇の勅命により、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)、弓削道鏡禅師、行基上人の三名が中心となっての大規模な供養(と結界)が営まれ、その重要な一つのお寺として、六萬寺が創建されたと考えられるのであります。

中心となって主宰したのが、弓削道鏡禅師と考えられ、各三種の神器を社名に冠する神社と、各神社の神宮寺を結ぶことで、西ノ山古墳の被葬者へ向けての強力な供養と結界を営んだと考えられるのであります。六萬寺も含めて、いくつかの寺院、神社が、この頃に創建されたのではないかと考えられます。

では、天平の疫病の祟りの原因とされ、このように大規模な供養と結界が行われることになった「西ノ山古墳」の被葬者とはいったい誰であるか・・
あくまでも現時点までの調査研究における推定ですが、西ノ山古墳は、「天皇の陵墓」であり、それも歴代の天皇には名前の無い天皇であるのではないだろうかと考えています。
応神天皇の次の天皇として即位された宇治天皇は、クーデターにより殺され、更に、次に天皇に即位した宇治天皇の異母兄弟である隼別天皇も同じくクーデターにより殺されていることは、日本書紀や古事記において、それとなく暗喩されていると思われるエピソードはあるものの、秘密にされて、隠された歴史になっていると考えられるのであります。
いずれにしても、仁徳天皇の八田皇后(宇治天皇の妹)が、兄である宇治天皇と隼別天皇を、仁徳天皇没後に、それぞれの母の実家の地であるところ、宇治天皇をヒシアゲ古墳(和邇氏の勢力地)に、隼別天皇を西ノ山古墳(桜井田部連氏の勢力地・河内郡桜井郷)に、手厚く改葬されてあることが、出雲伝承(出雲口伝)からも推定されるものとなります。
特に、天平の疫病は、隼別天皇による祟りであるとして、当時の朝廷の認識(二人の天皇が殺されていることをまだ知る者があった)、あるいは神祇官による占いの結果や、神託・託宣があった可能性もあり、この憂いから、聖武天皇の勅命により営まれたのが、この供養と結界なのではないかと考えることができます。
この供養と結界の重要な一角を担う寺院として、行基上人により、この聖地に「六萬寺」が創建されたと考えられるのであります。
引き続き、六萬寺の歴史の解明とともに、西ノ山古墳・隼別天皇陵説についての研究も更に進めていければと考えています。
YouTubeで、「ミニ法話シリーズ」とともに、「歴史再考シリーズ」として動画で解説をしています。
チャンネルのQRコード
oujyouin_blog at 14:15|Permalink
2025年12月05日
日本古代史・推定年代と今後の調査研究の内容について
これまでの考察に関する推定年代を、ある程度まとめてほしいと頂きましたので、推定してみました。
また、今後の調査研究の対象についても改めてまとめています。
桜井神社(東大阪市六万寺町)の創祀は、桜井田部連氏の先祖、出雲王国の出雲族(天日方奇日方命が率いる出雲族一団)が、大国主・八千矛王と事代主・八重波津身命の二王枯死事件後、紀元前160年頃(2185年前)に河内へと至った際に、サイノカミ三大神と出雲王国の歴代の先祖である大国主命・事代主命を祀った三間石山と岩瀧山磐座への遥拝からとなりますが、当初は神社というよりも遥拝所という形式であったと考えられます。
推定年代
紀元前165年頃 出雲王国・二王枯死事件(2190年前)
紀元前160年頃 生駒山地(三間石山・岩瀧山等)磐座の創祀(2185年前)
紀元前155年頃 金剛山・二上山・葛城山磐座の創祀(2180年前)
紀元前150年頃 三輪山・ダンノダイラ磐座の創祀(2175年前)
海村雲命・初代大王 海部・磯城王朝の成立(天日方奇日方命が後見)
紀元前100年頃~25年頃 綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇
紀元後25年頃~150年頃 孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇
150年頃 第一次物部東征(彦五十瀬命・宇摩志麻遅命)
大田田根子命と宇摩志麻遅命が同盟、大和へ侵攻
孝霊天皇が播磨、吉備、出雲へ侵攻
大彦(長髄彦)が伊賀、近江から北陸・東北へと侵攻
160年頃 三輪王朝(大田田根子命・宇摩志麻遅命の共同統治)・磯城王朝(孝元天皇)の並立
200年頃以降
桜井茶臼山古墳(桜井市外山)・・大田田根子命(大直禰子命・意富多多泥古命・三輪大王)
箸墓古墳・・倭迹迹日百襲姫命(孝霊天皇の皇女)
桜井外山古墳(桜井市外山・宗像神社付近に推定)orメスリ山古墳(桜井市高田)or渋谷向山古墳(天理市渋谷町)or柳本行燈山古墳(天理市柳本町)・・宇摩志麻遅命or意富弥希毛知命(大御食持命・おおみけもちのみこと・神部大王)or大三輪大友主or大鴨積命
富雄丸山古墳・・磯城県主大目or細姫命(孝霊天皇の后)の兄と細姫命
奈良帝塚山古墳(奈良市学園中に推定)・・孝元天皇or天足彦国押人命(孝昭天皇の皇子)
以前に、築山古墳(大和高田市築山)を宇摩志麻遅命の墳墓と推定しましたが、やはり時代が合わない可能性があり、共同統治の宮を置いていたと思われる鳥見山周辺域が有力になるとして、改めて考察し直しています。
豊国・豊玉姫(卑弥呼)と崇神天皇(物部印恵王)が同盟
磯城王朝、開化天皇(丹波道主命)が丹波に勢力移動(大和は磯城王家、和邇家等の複数有力豪族による内乱状態・倭国大乱)
崇神天皇は九州で没する
250年頃 第二次物部東征開始
垂仁天皇・豊玉姫・豊来入彦・豊来入姫らによる侵攻
255年頃 豊玉姫没する(安芸の宮島)、宇佐神宮(卑弥呼・天照大神)に祀られる
第二次物部東征軍により出雲王国滅亡
260年頃 垂仁天皇・豊来入彦・豊来入姫(台与)ら大和入り
豊来入姫(台与)による檜原神社の創祀(母・豊玉姫・卑弥呼・天照大神を祀る)
265年頃 垂仁天皇による物部王朝成立
野見宿禰の出雲軍が田道間守、豊来入彦らを大和から追い出す
270年頃 豊来入姫により伊勢神宮(豊玉姫・卑弥呼・天照大神)の創祀
豊来入姫(台与)が暗殺される(ホケノ山古墳に葬られ、豊受大神として伊勢神宮外宮に祀られる)
280年頃~350年頃 景行天皇、倭建命の遠征、成務天皇・仲哀天皇
350年頃 神功皇后による三韓征討開始
355年頃 生駒山・岩瀧山霊畤にて大嘗祭・神功天皇の即位
370年頃 応神天皇の即位
390年頃 宇治天皇、続いて隼別天皇即位もクーデターで敗死
仁徳天皇の即位
430年頃 八田皇后によりヒシアゲ古墳(奈良市佐紀町)・西ノ山古墳(八尾市楽音寺町)の造営開始
440年頃 宇治天皇をヒシアゲ古墳に、隼別天皇を西ノ山古墳に改葬
・・
今後の研究調査・考察の説・・
桜井神社奥宮・元宮の全容解明
河内・桜井寺の全容解明
三種の神器ダイヤモンド結界について(西ノ山古墳とともに)
河内・六萬寺の全容解明(行基上人開基・三種の神器ダイヤモンド結界との関連)
弓削道鏡禅師の事績解明(三種の神器ダイヤモンド結界主宰)
古墳関係・・
桜井茶臼山古墳(桜井市外山)・・大田田根子命(大直禰子命・意富多多泥古命・三輪大王)
桜井外山古墳(桜井市外山・宗像神社付近に推定)orメスリ山古墳(桜井市高田)or渋谷向山古墳(天理市渋谷町)or柳本行燈山古墳(天理市柳本町)・・宇摩志麻遅命or意富弥希毛知命(大御食持命・おおみけもちのみこと・神部大王)or大三輪大友主or大鴨積命
富雄丸山古墳・・磯城県主大目or細姫命(孝霊天皇の后)の兄と細姫命
奈良帝塚山古墳(奈良市学園中に推定)・・孝元天皇or天足彦国押人命(孝昭天皇の皇子)
桜井六萬寺古墳(東大阪市六万寺町に推定)・・桜井田部連(島・嶋)垂根(男鉏と糸姫の父)
島の山古墳(磯城郡川西町唐院)・・桜井田部連(島・嶋)男鉏と糸姫(糸井姫)
西ノ山古墳(八尾市楽音寺)・・隼別天皇
西ノ山古墳陪塚(東大阪市横小路)・・雌鳥皇后
天皇歴代・即位関係・・
天足彦国押人命(孝昭天皇の皇子)の天皇即位説
長髄彦・大彦命(孝安天皇の皇子)の天皇即位説
神功皇后の天皇即位説(生駒山・岩瀧山霊畤大嘗祭)
宇治天皇・隼別天皇の天皇即位説
高市皇子(天武天皇の皇子)の天皇即位説
尾治(尾張)天皇の天皇即位説
高仁天皇(後南朝小倉宮家)の天皇即位説(後南朝美作朝廷・小倉宮家の系譜、美作朝廷の全容解明)
その他・・
三炊屋姫(長髄彦・大彦命の妹)は宇摩志麻遅命の后・妃説
川口家先祖の系譜についての解明・・
後醍醐天皇→宗良親王→尹良親王→良王(尹重)→大橋信重(良王と大橋定元の娘との子)
大橋定省と桜姫(宗良親王の娘)の子が大橋定元、大橋定元の娘と良王との子が、大橋信重
大橋信重→定廣→川口盛祐(川口家(宗持)の養子、妻は於富の方(華陽院))→川口宗吉(織田信長の伯母を妻とする)→川口宗勝(信長直臣・弓大将、江戸幕府の旗本)
川口宗勝の主君
水野信元→柴田勝家→織田信長→信雄→豊臣秀吉→徳川秀忠
於富の方(華陽院)の水野忠政との子である於大の方(水野大(子))は、徳川家康の母
ちなみに、於富の方(華陽院)は、水野忠政、松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐と、五人に嫁いでいる。
宗勝の子、宗信、宗之、宗重(三男が旗本本家となる)、宗利、宗澄、宗政のいずれかが、本能寺の変の後、安土城下の川口宗勝の武家屋敷に浄土真宗寺院を開基。
・・
出雲散家と南朝について改めて関連を考察しておきたいと思います。
以前に織田信長と南朝の関係については色々と考察済みになっています。
また、徳川家康と南朝の関係についても、ある程度考察をしていますが、徳川家康と出雲散家との関係が、実はまだであったと思います。但し、賀茂家との繋がりについては以前には触れています。
南朝勢力を結集することで、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康の松平氏は、賀茂氏(三河賀茂社(豊橋市賀茂町)の社家)の出自であり、つまりは、出雲散家ということであります。(以前は出雲族との関係までは全く言及できていない。)
三河賀茂社の社家、賀茂氏の一族が、三河国加茂郡松平郷(豊田市松平町)へと移り住み、やがて、松平氏となります。
賀茂氏・・松平信盛-信重-娘婿(世良田)親氏-泰親-信光-親忠-長親-信忠-清康-廣忠-徳川家康
松平氏の氏神を祀る「六所神社」には、猿田彦神・塩土老翁・岐の神が祀られており、また、元々の祭神として、大山祇神(クナト大神)も祀られていたことから、「六所山」には、サイノカミ三大神の磐座が祀られていることが窺え、松平氏の出自が、東出雲王家の富家、賀茂家の出雲族であることが、これにより、よりはっきりと明らかになります。
実は、徳川秀忠の娘・和子と後水尾天皇との皇女である明正天皇は、明確に出雲王国の末裔であって、しかも南朝方遺臣の血も引く天皇であったと言えるのであります。
(後水尾天皇は継体天皇、欽明天皇の流れからにはなりますから、東出雲王家の富家から蘇我家に養子に入った富太彦・継体天皇からの繋がりで、出雲王家の子孫ということにはなります。)
(また後水尾天皇が先に譲位したのは、美作後南朝・小倉宮家の高仁天皇であったわけですが、徳川家光の圧力により即座に廃位となります。)
但し、明正天皇に子女がいなかったため、その血統が続くことにはならず、将軍家(+東出雲王家+南朝方遺臣)を外戚とした唯一の天皇となったのであります。
南朝と松平家との関係・・
新田義重(新田源氏)-世良田義季・・・満義(新田義貞の家臣)-政義、子に親季、政親、政秋・・松平家の娘婿(世良田)親氏-泰親-信光-親忠-長親-信忠-清康-廣忠-徳川家康
後醍醐天皇に従った新田義貞の新田源氏の流れにあった世良田氏の嫡流は、その後に絶えるものの、政義の子か、または甥と思われる親氏が、世良田氏の嫡流が絶える前に、世良田氏か
、ら松平氏へと養子になっており、やがて世良田氏をも継ぐ形となり、松平氏が世良田氏をも名乗るようになっていたと考えられ、松平氏は、南朝方の遺臣であると、言えることになるのであります。
徳川家と井伊家との関係・・
徳川家康に仕えた井伊直政は、徳川四天王の最右であります。
井伊家は、三国広見(真人)の子孫で、つまりは、三国国造家の末裔であり、東出雲王家・富家からの養子を迎えた蘇我家(富太彦・継体天皇)の流れとなり、その子孫が、遠江国井伊谷に移り住み、井伊氏となり、遠江介に任じられた井伊行直が、後醍醐天皇の皇子・宗良親王に従って南朝方となります。
(同じく宗良親王に従ったとされる井伊道政は、行直の兄弟か叔父、子の可能性があります。)
遠江国引佐郡の大敬神社、現在の「三嶽(みたけ)神社」が、まさに井伊家の先祖、氏神を祀る神社であり、広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、大国主命、少彦名命が祀られています。
広国押建金日命は、継体天皇の次の天皇である安閑天皇(母は蘇我振姫)のことになります。
その昔に安閑天皇の一族、蘇我家(継体天皇と蘇我振姫の子孫)が、この地に移住した際に、三岳山にサイノカミ三大神を祀ったのが、その創祀であると考えられます。
宗良(むねよし)親王と井伊行直(道政)(もしくは行直の兄弟、その一族)の娘との子が、尹良(ゆきよし)親王になります。
井伊家は、出雲王国の末裔にして、南朝方の遺臣ということになるのであります。
他・・
世良田政義の娘は、尹良親王の室となり、その子が良王(よしたか)君であります。
大橋定省と桜姫(宗良親王の娘)の子が、大橋定元で、大橋定元の娘と良王君との子が、大橋信重になります。
(尹良親王、良王君は、実在性についての疑義がありますが、それぞれにお墓も実際にあり、尹良親王のお墓は宮内庁により陵墓に治定されています。様々な伝承と、それに基づく史跡が幾つもあることから、安易に実在が否定されるものでは全くありません。いずれにしても、宗良親王の娘、桜姫は大橋定省の室であり、大橋家、川口家は後醍醐天皇の後胤であると言えることになります。)
良王君-大橋信重-定廣-盛祐(川口宗持の養子)-川口宗吉-川口宗勝
川口盛祐と於富の方(華陽院)の子が川口宗吉になります。
於富の方(華陽院)と水野忠政の子が、於大の方、於大の方と松平廣忠の子が、徳川家康になります。
宗良親王、尹良親王に仕えた津島大橋家から養子となった川口盛祐の子が、宗吉(母は於富の方)、宗吉の子、宗勝は、徳川家康と「はとこ」同士になります。
織田信長が、川口宗勝を直臣として特別に扱ったのは、織田信長の伯母が宗勝の母であり、織田家の親戚で、また、大橋家、川口家が後醍醐天皇の後胤でもあることをよく理解しており、特に、大橋信弌は、父が、大橋重長で、母は、織田信秀の娘・くらの方であり、信長にとっては甥にあたることから織田家の連枝に迎えて織田信弌とするのであります。
織田信弌を連枝とし、川口宗勝を直臣にしたのは、信長が、いよいよ室町幕府に取って代わる政権を目指して、南朝勢力の結集を図るため、ある意味で利用する目的もあったのでしょう。
(楠木正儀の子孫である楠木正虎や、楠木正行の遺児とされている池田教正の子孫、摂津池田氏の重用なども同じと言えます。)
本能寺の変後、宗勝は織田信雄、豊臣秀吉、秀頼に仕え、最盛期には伊勢国と尾張国に、合計1万8千石を領有します。
(本能寺の変後に安土城下にあった武家屋敷を寺院として開基したのが、宗勝の子で、拙川口家はその子孫になります。旗本は宗勝の三男の宗重が継いでいます。)
宗勝は、関ヶ原の戦いにおいて、消極的ながらにも豊臣方の西軍について戦わざるを得ず、敗戦後には所領が没収となり、高野山に蟄居し、伊達政宗(伊達家は、西出雲王家の五十猛命の末裔にして、しかも南朝遺臣中の遺臣)の預かりとなります。
しかし、徳川家康、徳川秀忠は宗勝を放免して、異例にも江戸幕府の旗本に取り立てます。
やはり、その理由には、宗勝が家康の「はとこ」であり、徳川家と血の繋がりがあったからであると言えるでしょう。
oujyouin_blog at 07:27|Permalink
2025年11月25日
往生院六萬寺の歴史・古代史の解明へ向けて
往生院の前身寺院、六萬寺の歴史とともに、古代にあった桜井寺、桜井神社も含めて、更には、河内郡桜井郷の豪族であった桜井田部連氏のこと、西ノ山古墳のことなどにつきましても解明へ向けての大きな前進がありました。
大賀世(おおがせ)神社と方守(ほうまもり)神社
大賀世神社
大賀世(おおがせ)神社(東大阪市横小路町)は、元々は、龍田大社(生駒郡三郷町)よりも創祀が古く、サイノカミ三大神を祀る神社と考えられます。
方守(ほうまもり)神社は、今は大賀世神社の境外社になるものの、古来から猿田彦大神も明確に祀られていたことが分かり、大賀世神社がサイノカミ三大神を祀る神社であったことの一つの決め手になります。
方守神社
また、龍田大社を詳しく調べていくと、境外末社に「神奈備(かんなび)神社」(天満宮)があるように、龍田大社は、「三室山」(みむろやま)にサイノカミ三大神を祀っていた神社であり、郷戸家・八千矛王の娘、下照姫命も祀られている(祖霊社として実際は下照姫命の父である大国主命・八千矛王が祀られている)ことから、河内から大和に入った西出雲王国、郷戸家の出雲族により、葛城地方の各神社よりも早い時期に「大賀世神社」、そして、十三峠から大和入りしての「龍田大社」が創祀されたものと考えられます。
また、龍田大社の本命の磐座は、高尾山の磐座である可能性もあります。
現在の鐸比古鐸比賣神社の奥宮があるところになりますが、もちろん、銅鐸祭祀は出雲王国の文化であり、祭神が代えられてしまっているわけですが、間違いなく元はサイノカミ信仰の磐座であったと考えられます。
高尾山
https://maps.app.goo.gl/qhyCuRFChy9QtYpU8?g_st=ipc
参照 Googleマップ
大賀世神社の社歴では、龍田大社から祭神を勧請したとありますが、これは正確ではなく、龍田大社よりも先の創祀で、桜井神社や堂之宮・権現宮(白鬚神社・猿田彦大神)にサイノカミ三大神、大国主命らが祀られたのと、ほぼ同時期の創祀と言えるでしょう。
先に、出雲族の河内への移動時にサイノカミ三大神を祀る岩瀧山磐座を遥拝するために大賀世神社が創祀され、古墳時代後期に古墳造営があった後に、いつの時代にか荒廃したものの、再建される際には古墳の墳丘に龍田大社から祭神を勧請して社殿を建立し、現在に至っているというのが正解になるのでしょう。
これまで何回も参拝していたものの、現在の案内碑の社歴から、あまり重視せずにいましたが、いやいや、真東の岩瀧山磐座を遥拝するためのサイノカミ信仰の神社で間違いなく、「日本国二之宮」と言えることになります。
また、方守神社の辺りのところからは、岩瀧山の背後にある三間石山を臨むことができることになります。
下の画像の奥の高まりのあるところが三間石山となります。岩瀧山(360メートル)より三間石山の方が標高が100メートルほど高く454メートルあります。
三間石山については、原田修先生のサイトに詳しい解説があります。
(方守神社から南へ100メートルほどのところに賀茂神社跡(八尾市西高安町)があり、ここからも三間石山が遥拝できることになります。つまり、賀茂神社も当然にサイノカミ三大神を遥拝する神社であったことが、これではっきりすることになります。)
三間石山遥拝ライン
やはり、三間石山も岩瀧山磐座も、樹木がなければ、磐座を今でも拝めるわけです。意図して、この位置に、人工的、人為的に造られたのであります。
(春秋分の日に太陽が昇ってくるところであり、春秋分の日は、出雲王国における大祭の日となります。)
三間石山は、間違いなく出雲国の八雲山に次ぐ、極めて重要なサイノカミ三大神を祀る磐座であることが、これで更によりはっきりと分かることになりました。
そして、この大賀世神社の古墳に眠る者は、桜井田部連(さくらいたべのむらじ)氏の河内郡桜井郷における最後の方の有力者であり、やはり桜井田部連氏の出自は出雲王国であったことが、これで確実となるのでもあります。
桜井田部連垂根(たりね)が、河内郡桜井郷を支配していた頃に、神功皇后が三韓征討から帰国して、生駒山で大嘗祭(天皇への即位式)を行う際、神功皇后は長らく桜井郷に留まり、この時から桜井田部連氏が、神功天皇に従うことになり、垂根の長男・男鉏(おさひ)が、そのまま大和へと同行し、神功天皇と応神天皇の近臣として仕え、そして、応神天皇の妃の一人には垂根の娘である糸姫(糸井姫)がなるのであります。
ちなみに、桜井神社の下社のあった字・桜井の隣には、字・八幡、八幡神社があり、こちらも現在、梶無神社の摂社となっています。創祀はもちろん、神功天皇・応神天皇に由来することになります。
応神天皇は、豊国(宇佐国)の豊玉姫(卑弥呼・天照大神)と崇神天皇の子・豊来入彦命の子孫、竹葉瀬君(たかはせのきみ)で、神功天皇が養子に迎えたのであります。
この糸姫(糸井姫)と応神天皇との皇子が隼別天皇であり、つまり、隼別天皇は、西出雲王家の血筋と宇佐王家の血筋であったことも、これで確実となるのであります。
(奈良県磯城郡川西町にある「島の山古墳」は、後円部に桜井田部連男鉏、前方部には糸姫(糸井姫)が埋葬されていたと考えられます。父の垂根の古墳は、桜井郷にあるとして、ある程度推定できており、そこには桜井神社の元宮・奥宮があったと考えています。この場所もある程度、推定ができています。)
島の山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E3%81%AE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
しかし、武内宿禰大田根の子孫で、東出雲王家の血筋でもある巨勢臣小柄の子・星川建彦、つまり、仁徳天皇のクーデターによって、宇佐王朝は終わりを迎えることになります。
仁徳天皇の后で、隼別天皇の異母兄妹、磯城王家の分家、和邇家の八田(やた)皇后が、糸姫(糸井姫)実家の桜井郷の地に西ノ山古墳を造営し、隼別天皇を改葬したのは、出雲王家と宇佐王家の天皇である隼別天皇への最大限の敬意と慰霊からでもあったのでしょう。
八田皇后は、同じくクーデターにて敗死した実の兄である宇治天皇も同様に、和邇家の実家の地において、ヒシアゲ古墳へと改葬して慰霊しています。
ヒシアゲ古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%82%B2%E5%8F%A4%E5%A2%B3
西ノ山古墳についても、いよいよますます核心に近づくことになってきました。
大賀世神社
方守神社
oujyouin_blog at 08:49|Permalink
2025年04月15日
河内・六萬寺の歴史を知る上で鍵となる三種の神器ダイヤモンド結界について
河内・六萬寺の歴史を知る上で鍵となる三種の神器ダイヤモンド結界。
改めて「西ノ山」(大阪府八尾市楽音寺)について述べさせて頂いております。
改めて「西ノ山」(大阪府八尾市楽音寺)について述べさせて頂いております。
古墳時代・最初期最大・前方後円墳説と被葬者・饒速日命説の根拠についてまとめてみました。
「西ノ山・前方後円墳(大阪府八尾市楽音寺)古墳時代・最初期最大・前方後円墳説 被葬者・饒速日命説 この根拠について 三種の神器ダイヤモンド結界 卑弥呼 神武天皇 大田田根子命」第45回 新シリーズ歴史再考 2025年4月15日
https://youtu.be/s8iW71iUqvs?feature=shared
https://youtu.be/s8iW71iUqvs?feature=shared
「わかくす」最新号では、山麓に埋もれ、消えていた浄土院を再び歴史の表舞台に出すことができました。
浄土院の開山、開基、歴代、僧侶、檀信徒の供養にもなり、誠に嬉しい限りです。
奈良国立博物館に伝わる當麻曼荼羅は本当に立派なものです。
南朝方の要所となり、南北朝の争乱に巻き込まれて焼失した浄土院。
往生院の鎌倉時代の歴史を補足して考える上でも、この浄土院の當麻曼荼羅の存在が大きな一つの視座になります。
是非、新号にてお読み頂けましたらと存じます。
oujyouin_blog at 11:50|Permalink





























