歴史について

2026年06月21日

津島大橋氏・津島党(四家七名字四姓)について

月末に講話会でお話をさせて頂く機会に向けて、資料を整理していますが、改めて津島大橋氏、津島党についても整理しています。




平家、平貞盛流・平貞能(さだよし)流とは別に、津島党は出雲族系がやはり色濃くあります。


貞能の母は、下野(しもつけ)宇都宮氏であり、津島党の中に宇都宮氏があることも窺えます。

 

平貞能は、壇ノ浦の戦いでの平家の滅亡後、母方の宇都宮氏の、かつて窮地に陥った際に助けたことのある宇都宮朝綱(ともつな)を頼って落ち延び、朝綱による助命の嘆願が、源頼朝に受け入れられています。

 

色々と分析を広げていくと、大和を追われた出雲散家と、平家再興を図りたい平家落人と、やがて、復権を目指す南朝方が繋がっていくことになったのは、歴史の必然であったのかもしれません。

 

 

 

 

 



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2026年06月13日

「梶無神社」と、その摂社「八幡神社」・摂社「桜井神社」について(河内郡桜井郷・東大阪市六万寺町)

「梶無神社」と、その摂社「八幡神社」・摂社「桜井神社」について(河内郡桜井郷・東大阪市六万寺町)

 

式内社「梶無神社」

 

 

 

摂社

 

 

 

 

余談ながら・・

 

「梶無神社」(船山大明神)は、「垂仁天皇」が、第二次物部東征において、その戦勝祈願として、河内に上陸した際に、父である「崇神天皇」と、母である「木花咲耶姫命」を祀ったのが創祀であり、ここに、後に、字・八幡(六万寺町)にあった「八幡神社」が、明治時代の「神社合祀令」によって梶無神社へと合祀されたのは、事情を鑑みれば、実は、あまり芳しくないことなのであります・・

 

なぜなら、垂仁天皇と、応神天皇の先祖である豊来入彦命とは、第二次物部東征を共に成功させた異母兄弟でありながら、後に、対立し、豊来入彦命は大和から追い出されて関東へと逃れることになった、互いに犬猿の仲ということであるからであります・・

 

その豊来入彦命の子孫である「応神天皇」にとっては、今の摂社として祀られているのはどうも居心地が悪いと思われるのであります。

 

尚更に、「八幡神社」の上之社だけでも、しっかりと再興してお祀りするのは大切なことになるというわけであります。

 

更にもう一つ申せば、同じく梶無神社に合祀されている摂社である桜井神社「大己貴命(大国主命)」も、本来は、かなり居心地が悪いことになります。

 

なぜならば、第二次物部東征の際に、山陰地方へと進軍した物部十千根軍が、出雲王国を滅ぼして、垂仁天皇の物部王朝の属国としたのであります。(最後の主王・大国主であった野見宿禰は、仕方なく垂仁天皇に従って、田道間守を倒すなどして活躍します。)

 

垂仁天皇が戦勝祈願したところに、出雲王国の神々を祀ることなど、事情を知っているならば、やはり芳しくないことになります。

 

ですので、岩瀧大明神にて大国主命を別に、まさに桜井神社の上之社として、この度、お祀りするのは誠に理にかなったことにはなるわけなのであります。

 

・・

 

「八幡神社(河内郡桜井郷・東大阪市六万寺町)」の由来について

 

有り難いことに、家族が、宇佐神宮に参拝して御神符を頂いてきてもらえました。

 

 

 

以前にも考察してあるとおり、「桜井郷(東大阪市六万寺町)」の「八幡神社」は、神功皇后の三韓征討に従って活躍して神功皇后の側近となったと考えられる物部・秦氏系、辛嶋氏族と同族とみられる「桜井田部連氏(嶋)垂根と男鉏・父子」が、奉仕奉斎した「岩瀧山(現在の鬼面岩磐座霊畤)での大嘗祭」、つまり、神功皇后の天皇即位の由来、由緒となり、その創祀は極めて古くあります。

 

(つまり、桜井郷の八幡神社は、現在の宇佐神宮において、応神天皇と神功皇后が祀られるようになるよりも300年ほど前の古い創祀になります。

 

宇佐神宮には、元々、第二次物部東征の途上、安芸の宮島で亡くなった豊国の「豊玉姫命」が祀られており、現在は「姫大神」とされています。

 

豊玉姫命は、魏志倭人伝に登場する「卑弥呼」のことであり、更には、娘の「豊来入姫命(台与・豊受大神)」により、豊玉姫命は、大和の檜原神社(元伊勢)にて「天照大神」として祀られ、やがて、大和からの各地への遷座を経ながら、現在の「伊勢神宮」へと鎮まることになります。

 

ちなみに、豊来入姫命の兄、「豊来入彦命」は、異母兄弟である垂仁天皇により大和から追い出され、東海地方を経て、更には関東地方へと追いやられることになります。

 

この豊来入彦命の子孫が、のちに神功天皇の養子となって、次の天皇、「応神天皇」になる「竹葉瀬君」なのであります。

 

いずれにしても、桜井郷の八幡神社は、宇佐神宮よりも古くに元々の「八幡大神」が祀られた由来・由緒があるのが明らかであり、まさに「元八幡」と称せるのであります。)

 

さて、「岩瀧山の鬼面岩・磐座霊畤(現在、鬼ノ城山の北側)-八幡神社の上之社(現在の往生院稲荷社付近)-八幡神社の下之社(現在、梶無神社摂社・元宮は字・八幡にあった)のライン」を考えると、元々はサイノカミ三大神の「幸ノ姫大神」、つまり、「姫巫女ノ神」が祀られてあったのが、鬼面岩の磐座であったことから、このため、神功皇后が天皇に即位するにあたって大嘗祭の霊畤とされたのも、当然に頷けるものとなります。

 

 

 

 

 

 

 

(八幡神社・下之社の字・八幡の隣、「字・幸殿」には、天皇となられた神功皇后の仮宮が置かれていました。)

 

先代(川口立誡和尚)が、昭和の中頃に、写真に映られた本堂に現れた「女性武者」に関しての審神者(サニワ)の託宣により、「稲荷大明神(宇迦之御魂神・豊受大神)」と「弁内侍(楠木正行室)」を祀る稲荷社として、整備をされますが、この現れた「女性武者」とは、神功皇后のことであった可能性が高いのではないかと、拙生は考えており、「八幡大神(神功天皇・応神天皇、そして宇治天皇・隼別天皇の宇佐王朝歴代の四天皇)」もお祀りするのが、やはり正当に近くなるのではないだろうか、というのが、拙見解にはなります。

 

 

「西ノ山古墳(隼別天皇陵墓推定)」の研究のことも、恐らくはこのため(隼別天皇の鎮魂慰霊供養のため)ではないだろうかと、最近、よく考えるようになっています。

 

 

 

現在の往生院の稲荷社、または、十二社権現社のある小楠公墓所内に「八幡社」を新たに設けるのか、現在のお社に合祀してお祀りするか、「岩瀧大明神」のお社建立の件が一段落したら、次に取り組みたいと考えています。

 

 

 

・・

 

最近は、岩瀧大明神お社建立へ向けたことが中心となってしまっていますが、もちろん、「西ノ山古墳」のことも気に掛けています。

 

 

 

 

本日は、手を合わせに行って参りました。

 

大光寺の瓦片、鳥居もそのまま夏草に埋もれたままに。

 

 

 

 

 

西ノ山古墳は、宇佐王朝最後の天皇「隼別天皇」の陵墓で、墳丘長400メートル超(日本3番目クラス)と推定しており、未調査陪塚(現在の花岡山)と併せて、行政に調査を依頼していますが、いまだ何も始まらないままで、誠に残念に思っております。

 

前方部の地主さんには、立ち入りの許可を頂いており、今秋には調査再開を考えています。

 

 

・・

 

 

 

 

 



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「八幡神社」(河内郡桜井郷・東大阪市六万寺町)の由来について

「八幡神社」(河内郡桜井郷・東大阪市六万寺町)の由来について

 

有り難いことに、家族が、宇佐神宮に参拝して御神符を頂いてきてもらえました。

 

 

 

以前にも考察してあるとおり、「桜井郷(東大阪市六万寺町)」の「八幡神社」は、神功皇后の三韓征討に従って活躍して神功皇后の側近となったと考えられる物部・秦氏系、辛嶋氏族と同族とみられる「桜井田部連氏(嶋)垂根と男鉏・父子」が、奉仕奉斎した「岩瀧山(現在の鬼面岩磐座霊畤)での大嘗祭」、つまり、神功皇后の天皇即位の由来、由緒となり、その創祀は極めて古くあります。

 

(つまり、桜井郷の八幡神社は、現在の宇佐神宮において、応神天皇と神功皇后が祀られるようになるよりも300年ほど前の古い創祀になります。

 

宇佐神宮には、元々、第二次物部東征の途上、安芸の宮島で亡くなった豊国の「豊玉姫命」が祀られており、現在は「姫大神」とされています。

 

豊玉姫命は、魏志倭人伝に登場する「卑弥呼」のことであり、更には、娘の「豊来入姫命(台与・豊受大神)」により、豊玉姫命は、大和の檜原神社(元伊勢)にて「天照大神」として祀られ、やがて、大和からの各地への遷座を経ながら、現在の「伊勢神宮」へと鎮まることになります。

 

ちなみに、豊来入姫命の兄、「豊来入彦命」は、異母兄弟である垂仁天皇により大和から追い出され、東海地方を経て、更には関東地方へと追いやられることになります。

 

この豊来入彦命の子孫が、のちに神功天皇の養子となって、次の天皇、「応神天皇」になる「竹葉瀬君」なのであります。

 

いずれにしても、桜井郷の八幡神社は、宇佐神宮よりも古くに元々の「八幡大神」が祀られた由来・由緒があるのが明らかであり、まさに「元八幡」と称せるのであります。)

 

さて、「岩瀧山の鬼面岩・磐座霊畤(現在、鬼ノ城山の北側)-八幡神社の上之社(現在の往生院稲荷社付近)-八幡神社の下之社(現在、梶無神社摂社・元宮は字・八幡にあった)のライン」を考えると、元々はサイノカミ三大神の「幸ノ姫大神」、つまり、「姫巫女ノ神」が祀られてあったのが、鬼面岩の磐座であったことから、このため、神功皇后が天皇に即位するにあたって大嘗祭の霊畤とされたのも、当然に頷けるものとなります。

 

 

 

 

 

 

 

(八幡神社・下之社の字・八幡の隣、「字・幸殿」には、天皇となられた神功皇后の仮宮が置かれていました。)

 

先代(川口立誡和尚)が、昭和の中頃に、写真に映られた本堂に現れた「女性武者」に関しての審神者(サニワ)の託宣により、「稲荷大明神(宇迦之御魂神・豊受大神)」と「弁内侍(楠木正行室)」を祀る稲荷社として、整備をされますが、この現れた「女性武者」とは、神功皇后のことであった可能性が高いのではないかと、拙生は考えており、「八幡大神(神功天皇・応神天皇、そして宇治天皇・隼別天皇の宇佐王朝歴代の四天皇)」もお祀りするのが、やはり正当に近くなるのではないだろうか、というのが、拙見解にはなります。

 

 

「西ノ山古墳(隼別天皇陵墓推定)」の研究のことも、恐らくはこのため(隼別天皇の鎮魂慰霊供養のため)ではないだろうかと、最近、よく考えるようになっています。

 

 

 

現在の往生院の稲荷社、または、十二社権現社のある小楠公墓所内に「八幡社」を新たに設けるのか、現在のお社に合祀してお祀りするか、「岩瀧大明神」のお社建立の件が一段落したら、次に取り組みたいと考えています。

 

・・

 

最近は、岩瀧大明神お社建立へ向けたことが中心となってしまっていますが、もちろん、「西ノ山古墳」のことも気に掛けています。

 

 

 

 

本日は、手を合わせに行って参りました。

 

大光寺の瓦片、鳥居もそのまま夏草に埋もれたままに。

 

 

 

 

 

西ノ山古墳は、宇佐王朝最後の天皇「隼別天皇」の陵墓で、墳丘長400メートル超(日本3番目クラス)と推定しており、未調査陪塚(現在の花岡山)と併せて、行政に調査を依頼していますが、いまだ何も始まらないままで、誠に残念に思っております。

 

前方部の地主さんには、立ち入りの許可を頂いており、今秋には調査再開を考えています。

 

 

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2026年06月01日

毎月一日・往生院稲荷大明神・月次祭

お一日は、往生院稲荷大明神様の月次祭(つきなみさい)になります。

 

 

 

宇迦之御魂神(・豊受大神)

弁内侍(楠木正行公・室)

 

 

・・

 

元八幡神社・上之社(神功皇后の岩瀧山大嘗祭由来)と推定

鬼面岩磐座・霊畤の遥拝所と推定

古代、磐座創祀時の祭神は幸ノ姫大神を推定

 

 

元々は古墳の跡(磐座があったと思われる)であったと伝わるところに先代が本堂を撮影した写真に、映られた、そこにはいらっしゃらない鎧姿の女性について、慎重に10年ほどを掛けて、当時、有名であった複数の審神者(サニワ)の託宣と、先代の夢に現れられた弁内侍からの夢告により、女神である宇迦之御魂神と弁内侍を供養するお社が建立されることになります。

 

最新の岩瀧山磐座・霊畤の研究、神功皇后(神功天皇)の岩瀧山大嘗祭のことから検討するならば、鎧姿の女性は、神功皇后であった可能性についても考えることができます。

 

おそらく、ここには鬼面岩の磐座を遥拝する上之社としての、元々は磐座があったところであり、代々、幸ノ姫大神、神功皇后(八幡神)、宇迦之御魂神(・豊受大神)、そして、弁内侍が祀られることになったと考えることができます。

 

いずれにしても、女神を祀ることでは一貫しており、やはり、当初祭神が幸ノ姫大神であったことが窺えるのでもあります。

 

今後、岩瀧大明神お社建立後には、こちらにおいても、幸ノ姫大神とともに、八幡神社の上之社として神功皇后(神功天皇)をお祀りすることも考えております。

 

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寺史では、審神者の託宣は、はっきりと「宇迦之御魂神(・豊受大神)」とまでは言及されておらず、「財産を掌る女神」ということが書かれてありました。

 

このため、先代は、財産、豊かさとなれば、豊穣を掌る女神である宇迦之御魂神(・豊受大神)を祀ることにされたようではあります。

 

しかし、最新の研究から、この託宣を解釈するならば、やはり正解に近いのは神功皇后であるとも考えられるのであります。

 

三韓征討後の朝貢、稲作を含めての最新技術の流入もあり、このため、日本の国力は数倍になり、蔵が貢物で溢れ、それにより、財産が増えたこともあり、巨大古墳が造営されていくほどになります。

 

実際、弱体化した物部王朝を見限られて、三韓征討を成功させた神功皇后は、まさに日本再興の立役者であったわけです。

 

神功皇后が財産を掌る女神であるとも考えることができるのであります。

 

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2026年05月24日

摂津の金龍寺(安満寺)との縁 安満了願と楠木正成公・正行公と往生院

ちなみに、あまり知られていませんが、摂津の日想観のお寺が、「金龍寺」(こんりゅうじ)になります。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82)

 

 

 

 

元安満寺に、964年、中興開山の千観によって、日想観が営まれるお寺になり、実は、日想観の由来は往生院(1040年)よりも歴史が古いのであります。

 

廃仏毀釈で荒廃、廃寺になるも、昭和後期まで本堂は現存していましたが、焼失してしまいました。

 

残念ながら今のところ復興される様子は全くありません。

 

難波の日想観「四天王寺」

摂津の日想観「金龍寺」

河内の日想観「往生院」

大和の日想観「井照寺」

 

この摂津の金龍寺の前身、安満寺は、安倍(阿部)氏の菩提寺として奈良時代(790年)に創建されています。

 

安満氏は、南北朝時代の安満了願の出自になり、安満了願は、楠木正成の兄弟(安満氏へ養子)か、あるいは親戚一族とされており、正成、正行に仕えた猛将ながら僧侶でもありました。多くの寺院を開基しています。

 

遡ると安倍氏は東出雲王家の流れの大彦命(長髄彦命)の子孫であり、ならば、安満氏は楠木氏同様、出雲散家であったわけです。

 

もちろん、古来から摂津の有力豪族であった三嶋氏(三嶋溝杭命一族)とも親戚関係であったと考えられます。

 

また、現在、四條畷神社にある正成の供養五輪塔は、どこの山に祀られていたのかの詳しい由来まで書かれていませんでしたが、拙推定では、金龍寺跡の付近にあったのではないかと考えています。

 

金龍寺は、南北朝時代には南朝方、楠木家の要所になっていたと思われます。

 

更に、この金龍寺は、桜の名所で知られており、美しい八重の希少な桜、「金龍桜」があったようで、最近まで本堂跡にもあったようですが、今は完全に枯死してしまったようです。

 

もう少し早くに知っていたなら、保存活動ができたのではないかと悔やまれます。

 

出雲散家、楠木家の一族、楠木家の要所、日想観のお寺、桜の名所(往生院の地は古く桜井郷と呼称)と、あまりにも往生院との共通項の多い金龍寺。

 

誠に他人事ではありません。

 

また、しっかりと調査研究をして参りたいと思います。

 

・・

 

 

井照寺跡の推定地は、彼岸に三輪山山頂のやや北側から登った太陽が、二上山へと沈む直線上にあったことが考えられます。 

 

三輪山、檜原神社、箸墓古墳、二上山。

 

 

 

太陽の道。

 

間違いなく、井照寺は、大和の「日想観」のお寺であったわけです。

 

もちろん、河内の「日想観」のお寺である往生院とも何らかの会通があったものと考えられます。

 

井照寺の解明についても、今後、調査研究して参りたいと思います。

 

次回、まずは必ず跡を特定させたいと思います。

 

・・

 

 

今回、5月18日の参拝挨拶廻りの行程

 

次に、去年の前回では参拝できなかった「檜原神社」(ひばらじんじゃ)へと向けて、山の辺の道を進みました。

 

 

 

 

 

 

途中に天日方奇日方命、美良姫命、姫蹈鞴五十鈴姫命、五十鈴依姫命らが住んでいた「出雲屋敷」の跡のそばにある狭井川を通り抜け、玄賓庵さんを越えていくと、新しいお社があり、参拝。

 

 

 

 

貴船神社と磐座。

 

そして、檜原神社に到着。

 

 

 

 

 

 

 

 

参拝、勤行後、御朱印と御神符を頂きました。

 

 

 

元は日原とも。お彼岸に、三輪山から登る日を拝み、二上山に沈む夕陽を拝むという太陽信仰の神社であったと推定されます。

 

 

 

 

第二次物部東征で、垂仁天皇とともに大和入りした豊来入姫命が、母、豊玉姫命(卑弥呼・天照大神)を祀ったのが創祀と考えられます。やがて、豊玉姫命(卑弥呼・天照大神)は、各地(元伊勢)を転々とした後に伊勢神宮に祀られることになります。

 

現在は、豊来入姫命が祀られており、真西にある「ホケ(豊家)ノ山古墳は、豊来入姫命のお墓であるとされています。

 

次に、玄賓庵(げんぴあん)さんで聞いた、玄賓庵さんで現在祀られている阿弥陀如来立像を本尊としていた井照寺(いしょうじ)の跡を探すために井寺池の周辺を探索。

 

 

 

 

たしかに、井寺池のあたりは、西の山々を拝することができ、綺麗な夕陽を拝めたのは確実で、彼岸には日想観が営まれていてもおかしくないところでありました。

 

 

 

しかし、井照寺跡は特定できずで、かなり歩き疲れ、暑さにより汗が塩化するほどに、、

 

熱中症になりかけながら、更に歩いて、御朱印を頂くために大神神社へと戻りました。

 

大神神社の御朱印を頂いて、御朱印袋も購入。

 

鳥居前の食事処でようやく食事をして一息ついて、お土産も買って、JR三輪駅からJR奈良駅までの電車に乗りました。

 

 

 

 

続く・・

 

・・

 

 

 

 

 



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2026年05月22日

井照寺跡の推定地について


 

 

井照寺跡の推定地は、彼岸に三輪山山頂のやや北側から登った太陽が、二上山へと沈む直線上にあったことが考えられます。 

 

三輪山、檜原神社、箸墓古墳、二上山。

 

 

 

太陽の道。

 

間違いなく、井照寺は、大和の「日想観」のお寺であったわけです。

 

もちろん、河内の「日想観」のお寺である往生院とも何らかの会通があったものと考えられます。

 

井照寺の解明についても、今後、調査研究して参りたいと思います。

 

次回、まずは必ず跡を特定させたいと思います。

 

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今回、5月18日の参拝挨拶廻りの行程

 

次に、去年の前回では参拝できなかった「檜原神社」(ひばらじんじゃ)へと向けて、山の辺の道を進みました。

 

 

 

 

 

 

途中に天日方奇日方命、美良姫命、姫蹈鞴五十鈴姫命、五十鈴依姫命らが住んでいた「出雲屋敷」の跡のそばにある狭井川を通り抜け、玄賓庵さんを越えていくと、新しいお社があり、参拝。

 

 

 

 

貴船神社と磐座。

 

そして、檜原神社に到着。

 

 

 

 

 

 

 

 

参拝、勤行後、御朱印と御神符を頂きました。

 

 

 

元は日原とも。お彼岸に、三輪山から登る日を拝み、二上山に沈む夕陽を拝むという太陽信仰の神社であったと推定されます。

 

 

 

 

第二次物部東征で、垂仁天皇とともに大和入りした豊来入姫命が、母、豊玉姫命(卑弥呼・天照大神)を祀ったのが創祀と考えられます。やがて、豊玉姫命(卑弥呼・天照大神)は、各地(元伊勢)を転々とした後に伊勢神宮に祀られることになります。

 

現在は、豊来入姫命が祀られており、真西にある「ホケ(豊家)ノ山古墳は、豊来入姫命のお墓であるとされています。

 

次に、玄賓庵(げんぴあん)さんで聞いた、玄賓庵さんで現在祀られている阿弥陀如来立像を本尊としていた井照寺(いしょうじ)の跡を探すために井寺池の周辺を探索。

 

 

 

 

たしかに、井寺池のあたりは、西の山々を拝することができ、綺麗な夕陽を拝めたのは確実で、彼岸には日想観が営まれていてもおかしくないところでありました。

 

 

 

しかし、井照寺跡は特定できずで、かなり歩き疲れ、暑さにより汗が塩化するほどに、、

 

熱中症になりかけながら、更に歩いて、御朱印を頂くために大神神社へと戻りました。

 

大神神社の御朱印を頂いて、御朱印袋も購入。

 

鳥居前の食事処でようやく食事をして一息ついて、お土産も買って、JR三輪駅からJR奈良駅までの電車に乗りました。

 

 

 

 

続く・・

 

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2026年05月14日

川口蓮海(川口怒濤)和尚の著書収集

先先代、川口蓮海和尚の著書収集。ペンネームは、川口怒濤。

 

 

「地獄相に直面して」

 

 

 

「平家戀物語」

 

 

 

たまたま調べてみたら出ていたのですぐに購入。

 

当時、刊行した市販の単行本は10〜15ほどあるとは思われる。

 

以前に入手した「千鳥の曲」。

 

 

 

 

先先代は、東京大学の前身で各学部に大学が分かれていた時期に、帝国大学文科大学の英文学科を卒業、朝日新聞社を経て、文筆家となり、やがて久米田寺で得度、修行、その後、大雄寺に逗留、その際に浄土宗教師資格を取った後に、大正期、無住になっていた往生院に入寺、住持となります。

 

幅広い著作群があり、戯曲なども書いていた記録があります。

 

また、こまめに調べて出てきたらすぐに押さえたいと思います。



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2026年05月13日

河内・往生院と大瀛和上

三業惑乱(江戸時代に西本願寺であった異安心についての論争)の収束に奔走なされた大瀛(だいえい)和上。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%80%9B

 

河内の法性寺に逗留されて、様々に講義をなされていた際に、すぐ近くの往生院(江戸時代・浄土宗)とも交流が何らかあったと考えられます。

 

江戸時代、往生院は、浄土宗の信徒より、浄土真宗の門徒の方が、檀家が多くあったのは、江戸時代の位牌や墓所を見るとよくわかります。

 

もとより、往生院には、親鸞聖人御自作坐像(鎌倉時代、九条家菩提寺であった往生院には親鸞聖人の最初の妻であった玉日姫が祀られており、その供養のために親鸞聖人が、自ら坐像を奉納されたと考えられます)があり、明治時代(廃仏毀釈)まで、この坐像のもとに近隣の村々の門徒が皆一同集まっての報恩講も毎年盛大に営まれていました。

 

このことから、大瀛和上が法性寺に逗留されていた時期に、この往生院での報恩講の法座に参加されて、講義をなさられていた可能性もあったではないかと考えられます。

 

「新しい領解文」問題の際に、読解を進めねばと思っておりました大瀛和上の「横超直道金剛錍(おうちょうじきどうこんごうへい)」。

 

 

ようやくに取り組もうと存じます。



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2026年05月06日

動画「往生院六萬寺・鎮守社 十二社権現社 十二社大権現 熊野権現」について

小楠公墓所内にございます往生院の鎮守社である「十二社権現社」、この機会に一つきっちりとお祀りのお直しができたのは、本当に良かったと存じます。

「往生院六萬寺・鎮守社 十二社権現社 十二社大権現 熊野権現 熊野三山 熊野大社 熊野神領 小楠公墓所 楠木正行公」第108回 新シリーズ歴史再考 2026年5月6日


https://youtu.be/KGq0mnOw4Qw?si=x5So_EmDkrag3-sU

 

・・

 

往生院・鎮守社「十二社権現社」の御神符札について

 

 

 

 

種子梵字は、表は、バン 裏は、ボロン になります。

 

本来、熊野権現の本地垂迹は、本宮・阿弥陀如来、新宮・薬師如来、那智宮は千手観音となり、往生院は阿弥陀如来が本尊ですから、本宮と合わせて「キリーク」であっても良いのでしょうが、何らかの意図があり、表「バン」とし、裏「ボロン」とされたのでしょう。

 

表は、金剛界大日如来を、裏は、仏頂尊ということになるでしょうか。

 

棟札の場合は、消災のために「オンバロダヤソワカ」の真言を入れる場合もありますが・・

 

今となっては先々代に聞かないと分からないことであります。

 

・・

 

往生院鎮守社「十二社権現社」月次祭・熊野詣の各御神符ご奉納

 

往生院鎮守社「十二社権現社」の月次祭(つきなみさい)(毎月5日・小楠公月命日忌)に合わせて、寺族の熊野詣において各神社より賜って参りました御神符をお社へと御奉納いたしました。

 

 

 

お社をお清めさせて頂きまして、御神符をお納め、お勤めをさせて頂きました。

 

 

有り難い御神縁に感謝申し上げます。

 

 

般若心経、楞厳咒第五会、大悲呪、消災呪、回向、神拝詞敬白、光明真言

 

岩瀧大明神社のお祀りに向けてもご挨拶申し上げました。

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、先月発行の「わかくす」89号の住職寄稿に、往生院鎮守社・十二社権現社のことが載っています。

 

 

先先代、川口蓮海が、昭和6年11月1日に、小楠公菊水会の発起によって再建されたお社に納められたのが、この御札になります。

 

本来、月次祭は、毎月1日が正解になるのでしょうが、現在は、楠木正行公の月命日忌の毎月5日にお勤めさせて頂いております。

 

熊野詣における各神社の御神符を御奉納できましたことは、誠に慶ばしいことでございます。

 

 

 

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「岩瀧大明神」お社の建立についての動画でのお知らせとなります。

「岩瀧大明神(いわたきだいみょうじん)お社の建立について 久那斗大神 幸ノ姫大神 猿田彦大神 大国主命 事代主命 玉櫛姫命 天日方奇日方命 美良姫命 令和8年8月8日建立予定」第107回 新シリーズ歴史再考

https://youtu.be/TEBC80cTBmw?si=YFB1gRc2j0t_9p2k

 

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「岩瀧大明神」のお社建立、開眼式へと向けて、参拝・登拝の神社一覧をまとめました。
 

5月~7月に巡礼予定
 

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岩瀧大明神(岩瀧山・磐座ご鎮座)
 

ご祭神

 

久那斗大神・幸ノ姫大神・猿田彦大神

 

大国主命・事代主命・玉櫛姫命・天日方奇日方命・美良姫命
 

岩瀧山の山頂は、春分の日・秋分の日(彼岸中日)に太陽が昇ってくるところであり、四天王寺の極楽門、大阪湾へと沈む夕陽の真東に位置しています。
 

紀元前一六五年頃(約二千二百年ほど前)に出雲王国(島根県東部・鳥取県西部)であった二王(主王・八千矛命、副王・八重波津身命)の枯死事件の出来事による出雲族の大移動にて、大阪の河内地方へと移住してきた際に、出雲族の祖神・先祖を祀る磐座が「生駒山地」において創祀されます。
 

その最も重要なところが、岩瀧山と、その背後にある三間石山(夫婦岩・生駒郡平群町)の磐座であり、古代神道祭祀の聖地であったと考えられます。
 

この度、ここに岩瀧山の磐座を遥拝するためのお社をお祀りさせて頂きましたので、ご参拝、ご神縁を頂けましたら幸いに存じます。
 

ご神徳 国家安泰・鎮護国家・五穀豊穣・良縁成就・家庭円満・子孫繁栄
 

令和八年八月八日 建立
 

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岩瀧大明神 お社の建立に向けて 

挨拶回り・参拝 御神符・御砂を賜る神社

5月~7月に巡礼

久那斗大神

熊野大社・出雲大社・美保神社・神魂神社・真名井神社・揖夜神社・六所神社・八重垣神社・須我神社・須佐神社・御陵神社・石宮神社・都辨志呂神社(島根県)、大神山神社(鳥取県)、大神神社・狭井神社・秉田神社・十二柱神社・三輪山登拝・ダンノダイラ磐座登拝・白山登拝(奈良県)

幸ノ姫大神

佐比賣山神社・熊野大社・出雲大社・神魂神社(島根県)、大神神社・狭井神社・秉田神社・十二柱神社・三輪山登拝・ダンノダイラ磐座登拝・白山登拝(奈良県)

猿田彦大神

熊野大社・出雲大社・神魂神社・佐太神社(島根県)、椿大神社・猿田彦神社(三重県)、白髭神社(滋賀県)、大神神社・狭井神社・秉田神社・十二柱神社・三輪山登拝・ダンノダイラ磐座登拝・白山登拝(奈良県)

大国主命

熊野大社・出雲大社・御陵神社・智伊神社・八千矛山大国主神社(島根県)、大神神社・狭井神社・秉田神社・十二柱神社・三輪山登拝・ダンノダイラ磐座登拝・白山登拝(奈良県) 

事代主命

大神神社・狭井神社・秉田神社・十二柱神社・三輪山登拝・ダンノダイラ磐座登拝・白山登拝・大直禰子神社・磐座神社・鴨都波神社・高鴨神社・葛木御歳神社・葛木一言主神社(奈良県)

玉櫛姫命

大神神社・狭井神社・大直禰子神社・率川神社(奈良県)、溝杭神社・津原神社(大阪府)

天日方奇日方命

大神神社・狭井神社・秉田神社・十二柱神社・三輪山登拝・ダンノダイラ磐座登拝・白山登拝・神坐日向神社・鴨都波神社・大和神社(奈良県)、津原神社(大阪府)

美良姫命

大神神社・狭井神社・秉田神社・十二柱神社・三輪山登拝・ダンノダイラ磐座登拝・白山登拝・大直禰子神社(奈良県)

補足・・

梶無神社(摂社・桜井神社)・堂之宮権現宮(十二社権現)・枚岡神社(末社・一言主神社)(大阪府)

岩瀧山・三間石山 登拝

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「岩瀧大明神」お社の建立について

http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/97053975.html



oujyouin_blog at 11:38|Permalink

2026年04月28日

河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」89号発行

河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」89号が発行されました。

 

 

往生院六萬寺の歴史の再調査シリーズを引き続き掲載させて頂いております。

 

今回は、第6回目となります「南朝と往生院について・後編」。

 

 

丹念に現地調査した内容を扱っています。

 

四條縄手の合戦での楠木正行、正時兄弟の自刃終焉地の論争にも一石を投じる内容となっています。

 

そして、本日には、次号、90号(10月発行予定)の原稿を入稿させて頂きました。

 

「岩瀧山の磐座について」になります。

 

定期購読、市内の図書館でお読み頂けます。

 



oujyouin_blog at 05:57|Permalink