往生院六萬寺

2026年03月08日

河内「往生院」金堂跡(大阪府指定史跡)の現況確認

往生院金堂跡の現況確認に行って参りました。

 

 

「河内 往生院 金堂跡 大阪府指定史跡 桜井寺 六萬寺 奈良時代 平安時代 鎌倉時代 室町時代」第102回 新シリーズ歴史再考

 

 

 

今回、改めて奈良時代~平安時代の古い瓦片も確認しました。

 

 

 

やはり、桜井寺、六萬寺、往生院と重層的に存在していた可能性が推定できます。

 

往生院金堂跡北東池

 

 

 

 

早く公的に発掘調査がされるように大阪府、東大阪市に要望して参りたいと思います。

 

 

 

 



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2026年02月26日

河内の郷土文化サークルセンター「あしたづ」第28号に発表

大阪商業大学の谷岡記念館に、河内の郷土文化サークルセンター「あしたづ」第28号の出来上がりを頂きに行ってきました。

 

 

河内における郷土誌の中でもある一定の権威ある誌面において、往生院六萬寺史委員会として、六萬寺の歴史のことと、西ノ山古墳の天皇陵墓説、三種の神器ダイヤモンド結界のことを発表できたことは、大変にありがたいことになりました。

 

 

 

これを先鞭として、更に調査研究を進めて参りたいと思います。

 

来年の29号でも研究の進捗を発表したいと考えています。

 

「あしたづ」は、谷岡記念館の一階、事務局にて購入できます。一冊1000円。ご関心ある方は是非、お求め下さいませ。

 

 

あしたづ

 

 

河内の郷土文化サークルセンター

 

 

 

 



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2026年02月15日

映画「国宝」興行収入200億円を突破

映画「国宝」興行収入200億円を突破。

本当におめでとうございます。

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https://x.com/mtt_75058/status/2022904590958768530?s=20


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映画「国宝」の関西ロケ地マップが作成され、当寺院もご紹介を頂いております。

是非、参照、巡礼にお役立て下さいませ。


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1.映画『国宝』関西広域ロケ地マップ
(1)概要
映画『国宝』のロケ地に採用された関西ロケ地のうち10か所を紹介しています。

(2)発行部数
1万5千部(A4判カラー4頁)

(3)紹介ロケ地(全10か所)
出石永楽館(兵庫県豊岡市)、玉手橋(大阪府柏原市)、往生院六萬寺(大阪府東大阪市)、びわ湖大津館(滋賀県大津市)、上七軒歌舞練場/光盛大明神(京都府京都市上京区)、国立文楽劇場(大阪府大阪市中央区)、先斗町歌舞練場(京都府京都市中京区)、レストラン百花園(京都府八幡市)、東大阪市立日新高等学校(大阪府東大阪市)、安戸文化住宅(大阪府東大阪市)

(4)主な配布先
滋賀県庁、滋賀県内の関係施設(市役所・町役場、観光協会、観光案内所、道の駅等)、ここ滋賀(東京)、大阪観光局、東大阪市役所、京都市メディア支援センター、柏原市役所、豊岡市役所、出石永楽館、びわ湖大津館、八幡市観光協会等(11/26以降順次配布予定)

(5)内容
冊子の内容をご覧になりたい方はこちら
(滋賀ロケーションオフィスホームページ)
http://www.shiga-location.jp/filedir/office/95_1.pdf

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ついに、映画「国宝」が、金字塔を打ち立てました。

本当におめでとうございます。心からお祝い申し上げます。

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https://x.com/mtt_75058/status/1992804337593229624?s=20

映画「国宝」オスカー正式候補に 国際長編映画賞 アカデミーが候補作を公表

邦画実写歴代1位となり、世界各国での公開とともに、様々な映画各賞の受賞へと向けても、改めて仏事監修、開眼式並びに大ヒット祈願式などをさせて頂いたことを有り難くに存じます。

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映画「国宝」これまでのロケ地・往生院六萬寺における関連記事まとめ一覧
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/95514786.html

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往生院六萬寺は、映画「国宝」を応援しています。

是非、皆様、壮大な芸道映画を映画館にてご覧くださいませ。

大ヒット上映を心から祈念申し上げます。合掌

特設サイト
https://kokuhou-movie.com/

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予告での往生院六萬寺のシーン
https://youtu.be/4LIm9S_xVGQ?feature=shared&t=51

本予告
https://youtu.be/DAiq_4YWXow?feature=shared

特報1
https://youtu.be/B4VjEUcWAJU?feature=shared

特報2
https://youtu.be/Kv4-BSJ3RRY?feature=shared

完成報告会
https://youtu.be/G3Gz9Ca76R0?feature=shared

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往生院六萬寺
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2026年02月14日

「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について(令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料)

令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料
 

【往生院六萬寺の歴史】「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について
 
近年、往生院六萬寺の歴史について再調査研究していく中で、色々な新しい発見がありました。その一つに、お寺の山号である「岩瀧山」(いわたきさん)の山頂には、複数群の「磐座」(いわくら)があり、その東の背後にある三間石山(夫婦岩)とともに、古代祭祀の遺跡であることが分かってきました。

その創祀は、今から2185年ほど前、紀元前160年頃に、出雲王国・出雲族の移動に伴うものであったことが考えられます。

紀元前165年頃 出雲王国・二王枯死事件(2190年前)
紀元前160年頃 生駒山地(三間石山・岩瀧山等)磐座の創祀(2185年前)
紀元前155年頃 金剛山・二上山・葛城山磐座の創祀(2180年前)
紀元前150年頃 三輪山・ダンノダイラ磐座の創祀(2175年前)

紀元前165年頃に、出雲王国の主王(大国主)と副王(事代主)が同時に幽閉されて亡くなるという大事件があり、それを受けて、当時の主王と副王の子どもたちが、出雲族を率いて出雲の国(現在の島根県)を離れて、新天地を目指し、「出雲→丹波→摂津→河内→大和」へと移動していく中、河内に留まった際に、生駒山地に祖神、先祖を祀る磐座を、複数ヵ所にて造営したものの一つが、岩瀧山磐座と考えられます。

特に、この岩瀧山・三間石山の磐座は、春分・秋分の日(彼岸中日)に太陽が大阪湾へと沈む、その真東に位置しており、極めて重要な磐座であったと考えられます。古代の出雲族にとっては、彼岸の中日が現在のお正月に当たるため、彼岸中日は、特に重要な日として、先祖への感謝と供養の大祭が行われていました。この風習が、彼岸における先祖供養として現在でも続いているのであります。

 



また、平安時代、安助(あんじょ)上人により、河内・往生院が創建(1040年頃)されますが、その理由も、彼岸中日に夕陽が沈む真東に当たるからでありました。
安助上人は、「當天王寺之東門、定知極樂東門之中心也、加以西天迎晴夕日可觀」(拾遺往生伝)として、「日想観」(じっそうかん)による極楽誓願を行うのに最も適したところであるとして、この地を選ばれたのであります。

生駒山の磐座としては、夏至の日に太陽が沈む真東の饒速日山(にぎはやひやま)・磐座、冬至の日に太陽が沈む真東の天川神社跡・磐座とともに、岩瀧山は、彼岸中日に太陽が沈む真東の磐座として、古代出雲族にとっての一番大事なところであったことが窺えます。

当地は、まさに先祖の供養を行う上での「稀有なる聖地」であると言えます。

また、この磐座遺跡とともに、今まで謎だらけであった河内・六萬寺の歴史についても、ようやくに解明が進んでいくことになりました。

745年、聖武天皇の勅願により、行基上人の開基にて河内「六萬寺」は創建されます。この創建の理由も、供養を行う上での「稀有なる聖地」であったためということが分かってきました。

天平の疫病大流行(735-737年)によって亡くなった者たちへの供養とともに、この疫病の原因は、「西ノ山古墳」(八尾市楽音寺)の被葬者による「祟り」であるとして、聖武天皇の勅命により、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)、弓削道鏡禅師、行基上人の三名が中心となっての大規模な供養(と結界)が営まれ、その重要な一つのお寺として、六萬寺が創建されたと考えられるのであります。

 



中心となって主宰したのが、弓削道鏡禅師と考えられ、各三種の神器を社名に冠する神社と、各神社の神宮寺を結ぶことで、西ノ山古墳の被葬者へ向けての強力な供養と結界を営んだと考えられるのであります。六萬寺も含めて、いくつかの寺院、神社が、この頃に創建されたのではないかと考えられます。

 



では、天平の疫病の祟りの原因とされ、このように大規模な供養と結界が行われることになった「西ノ山古墳」の被葬者とはいったい誰であるか・・

あくまでも現時点までの調査研究における推定ですが、西ノ山古墳は、「天皇の陵墓」であり、それも歴代の天皇には名前の無い天皇であるのではないだろうかと考えています。

応神天皇の次の天皇として即位された宇治天皇は、クーデターにより殺され、更に、次に天皇に即位した宇治天皇の異母兄弟である隼別天皇も同じくクーデターにより殺されていることは、日本書紀や古事記において、それとなく暗喩されていると思われるエピソードはあるものの、秘密にされて、隠された歴史になっていると考えられるのであります。

いずれにしても、仁徳天皇の八田皇后(宇治天皇の妹)が、兄である宇治天皇と隼別天皇を、仁徳天皇没後に、それぞれの母の実家の地であるところ、宇治天皇をヒシアゲ古墳(和邇氏の勢力地)に、隼別天皇を西ノ山古墳(桜井田部連氏の勢力地・河内郡桜井郷)に、手厚く改葬されてあることが、出雲伝承(出雲口伝)からも推定されるものとなります。

特に、天平の疫病は、隼別天皇による祟りであるとして、当時の朝廷の認識(二人の天皇が殺されていることをまだ知る者があった)、あるいは神祇官による占いの結果や、神託・託宣があった可能性もあり、この憂いから、聖武天皇の勅命により営まれたのが、この供養と結界なのではないかと考えることができます。

この供養と結界の重要な一角を担う寺院として、行基上人により、この聖地に「六萬寺」が創建されたと考えられるのであります。

引き続き、六萬寺の歴史の解明とともに、西ノ山古墳・隼別天皇陵説についての研究も更に進めていければと考えています。

YouTubeで、「ミニ法話シリーズ」とともに、「歴史再考シリーズ」として動画で解説をしています。    

 


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2026年02月05日

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内

春の彼岸「おせがき」供養のご案内

本年も春彼岸、施餓鬼法要のご案内をいたします。


彼岸中日、大阪湾に沈む夕陽の真東に往生院があり、平安時代から西に沈む夕陽を拝して念仏し、極楽往生を願う「日想観」が営まれていました。

また、背後の岩瀧山の山頂には弥生時代の磐座遺跡があり、彼岸中日に先祖を供養する大祭が行われていた痕跡があります。

お彼岸は古来より先祖を供養する習わしがあったことが分かります。

お塔婆をご用意してお待ち申し上げます。

※もし期間中にご来山できなくても、お寺の方にて責任をもって塔婆供養をお勤め致しますので、ご遠慮なくお申し込み下さいませ。


また、これまで往生院にご縁の無い方や、ご先祖様の供養をしてもらえるお寺を探しておられる一般の方でも、お勤めのお申込み、供養して頂けます。

その場合は、必ず、供養されたい方の戒名(法名)とお勤めのお施主の方のお名前を事前にメールやFAXでお知らせ下さい。お塔婆をご用意いたします。


実際に事前にご用意する塔婆に関しましては下記をご参照下さいませ。

施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html


一、日時 3月17日~23日・午前8時~午後4時
(※最終日は、午後3時まで)

一、お布施 7千円(施餓鬼塔婆・経木塔婆ご先祖さま各霊位)

一、任 意 水子供養・無縁供養 お布施・各追加1千円
(どうしても供養に恵まれない方々への供養にもなります)

※もし期間中にご来山できなくてもお寺の方にて責任をもって塔婆供養をお勤めいたしますので、お申し込みの際にその旨お書き添え下さい。その場合のお支払いはお振込みか、後日ご来山の際でも構いません。


彼岸中日「日想観・極楽誓願」法要について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/72883056.html

・3月20日(祝)
・午後5時半から日没・表階段上台地にて
どなたでも自由に参加できます(雨天中止)
※駐車場は、下の第二、第三駐車場をご利用いただけます。


往生院六萬寺サイト
http://oujyouin.com/

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2026年02月01日

法話動画・「御霊(ごりょう)信仰の根源についての考察」

「御霊(ごりょう)信仰」の源流について考えていくと、意外にも、古代出雲王国・出雲族のサイノカミ信仰と、神道、仏教との共通点を見出していくことができ、法話と歴史再考、両方としての動画をアップいたしました。

 

非常に面白い発見なのではないかと思います。

 

ガネーシャ神→久那斗大神(サイノカミ三大神)→三宝荒神・聖天・歓喜天

聖天信仰が、役行者によって始まるわけですが、ガネーシャ神・サイノカミ三大神・三宝荒神=歓喜天として、強力な守護、加護を賜るためであると言えます。


改めて、役行者(賀茂・忌部氏)が、出雲神道と密教に精通していたことが窺えます。


岩瀧山の修験行場を開かれた役行者。


岩瀧山の山頂石組みには、出雲のサイノカミ三大神が祀られていたことも、当然にご存知だったのでしょう。やがて、往生院は葛城修験の宿の一つになり、岩瀧山が修験行者の聖地になったのも頷けることであります。

 

「御霊(ごりょう)信仰の根源についての考察 ガネーシャ神 サイノカミ信仰 三宝荒神 歓喜天 聖天信仰 護法善神」第79回 仏教ミニ法話 第94回 歴史再考

 

 

 

 

 

 



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2026年01月26日

改めて拙研究の目的について(隼別天皇・宇治天皇への慰霊鎮魂供養に向けて)

ここのところ、動画を観られた方から拙研究の目的について尋ねられることがあります。

一番の目的は、往生院六萬寺の歴史を解明していく中で、特に河内・六萬寺と河内・桜井寺のことと、桜井寺と共にあったとされる桜井神社(上之社)の解明であり、更には、この過程から、岩瀧山や生駒山地には古代祭祀の痕跡となる磐座が存在し、東出雲王家の天日方奇日方命や西出雲王家の阿遅鉏高日子根命ら出雲族の河内への移住の際に創祀された磐座であることや、神功皇后が三韓征討の帰国後に岩瀧山霊畤にて大嘗祭を行って天皇に即位していることなど、そして、滅んだ宇佐王朝の悲しいクーデターの歴史、隼別天皇が西ノ山古墳に改葬されたこと、隼別天皇の鎮魂慰霊のために三種の神器ダイヤモンド結界が、聖武天皇の勅願により、左大臣・橘諸兄、弓削道鏡禅師、行基上人により営まれたことなどが分かってくることになりました。

このような中で、日本神道には、祟り神が、鎮魂慰霊により、やがては国家の守護神として祀られる流れがあり、伊勢神宮の天照大神(豊玉姫・卑弥呼、第二次物部東征途上で無念の死)も、宇佐神宮の八幡大神(応神天皇・宇佐王朝一代で滅亡)も、天満宮の菅原道真(天満天神、太宰府左遷にて無念の死)も、要は「祟り神」が、後に強力な鎮護国家の守護神となって祀られてあることもわかってきました。

(出雲王国の二王枯死事件での八千矛王命・大国主命→大黒天、八重波津身命・事代主命→恵比寿天も、祟り神から、やがては守護神として祀られることになっています。)

ところが、クーデターにより無念の死を遂げた宇治天皇、隼別天皇、特に隼別天皇の慰霊鎮魂供養は、三種の神器ダイヤモンド結界による鎮魂慰霊が、弓削道鏡禅師の失脚によって早々に滞ったままとなり、以来、国家的、公式にはなされなくなってしまっているのは、日本の国体護持、安泰という観点からも、非常に憂慮されるものであると考えております。

このため、隼別天皇陵墓、宇治天皇陵墓が、正確に比定され、歴史と事績の見直しもされ、両天皇が改めて歴代天皇に列せられた上に、陵墓のしかるべくの整備と祭祀慰霊がなされることが、国体護持、安泰において望ましいものになると考えるため、国体の護持、安泰へと向けた慰霊鎮魂供養へと向けて、とにかく研究を一歩でも前へと進めねばと考えているのであります。

もちろん、桜井神社と八幡神社の上之社の再興も望まれるところであり、今後の具体化を更に検討して参りたいと思います。

拙研究考察については下記から記事一覧をご参照下さいませ。

https://ameblo.jp/iwatakiiwakurareiji/entrylist.html




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2026年01月19日

岩瀧山磐座 久那斗大神・幸姫大神・猿田彦大神とそれぞれの遥拝対象神社(上下)の確定

1月18日に岩瀧山磐座へと拝登、勤行へと行って参りまして、その様子はYouTubeの方にアップさせて頂いております。

 

 

 

 

この動画の最後の方にある岩瀧山の山頂から100メートル南、50メートル西へ少し降ったところにも磐座がありました。

 

 

 

特に気になったのが、この皿状の穴で、明らかに人為的に彫られてあり、お供えするものが意識されてあると考えられるのであります。

 

周囲は祭祀を行うスペースも十分にあり、間違いなく磐座であると言え、この直下にある白鬚神社(現在の堂之宮・権現宮)から考えますと「猿田彦大神」が祀られていることが考えられます。

 

ここから、岩瀧山磐座を再考察すると、下記のような関係にあるのではないかと思われます。

 

往生院の旧金堂跡からの往生院道(廃道)は、古くから女人大峰と呼ばれていた修験道の修行場(鬼奥駈)であったこと、神功皇后の大嘗祭が行われた(鬼面岩)と考えられること(真西には、八幡神社の下社(字・八幡)と神功皇后が鏡を奉納した若江鏡神社があります)から、女神が意識されていたと考えられる鬼奥駈・鬼面岩が、幸姫大神が祀られていたのではないかと推定できます。

 

そして、真ん中が久那斗大神ということになるというわけです。

 

 

ここから、岩瀧山磐座とサイノカミ三大神と神社を対応させると、まさにこのようになり、八幡神社の上下、桜井神社の上下もこれで位置がほぼ確実なところが分かることになります。

 

 

 

更には白髭神社の下之社の位置も想定できることになります。

 


半堂池のすぐ南。半堂池ができた時に無くなった可能性もあります。


現在の梶無神社には、十二社権現社も合祀されていることから、ここに十二社権現社の下之社があった可能性がかなり高く、半堂池ができた際に梶無神社へと合祀されたのでしょう。

 

これでかなりの解明が一気に進んだことになります。

 

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岩瀧山の磐座へと拝登、勤行に行って参りました。

 

その様子をYouTube動画にてアップしています。

 

 

「岩瀧山磐座霊畤 拝登勤行 古代祭祀遺跡 サイノカミ三大神 久那斗大神 幸姫大神 猿田彦大神 大国主命 事代主命 女人大峰 修験道 神功皇后 大嘗祭」第85回 新シリーズ歴史再考 2026年1月18日

 

 

「岩瀧山・鬼ノ城山の磐座群 古代祭祀遺跡 鬼面岩 鬼石臼 鬼奥駈 女人大峰 修験道 神功皇后 大嘗祭」第84回 新シリーズ歴史再考 2026年1月18日

 

 

 

 

 



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岩瀧山の磐座へ拝登勤行

往生院六萬寺の古代の歴史(桜井寺・桜井神社・八幡神社・六萬寺)を知る上での鍵となる岩瀧山の磐座へと拝登、勤行に行って参りました。

 

その様子をYouTube動画にてアップしています。

 

「岩瀧山磐座霊畤 拝登勤行 古代祭祀遺跡 サイノカミ三大神 久那斗大神 幸姫大神 猿田彦大神 大国主命 事代主命 女人大峰 修験道 神功皇后 大嘗祭」第85回 新シリーズ歴史再考 2026年1月18日

 

 

「岩瀧山・鬼ノ城山の磐座群 古代祭祀遺跡 鬼面岩 鬼石臼 鬼奥駈 女人大峰 修験道 神功皇后 大嘗祭」第84回 新シリーズ歴史再考 2026年1月18日

 

 

 

 

 



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2025年12月12日

役小角(えんのおづぬ)(役行者・役優婆塞・神變大菩薩)について

役小角(えんのおづぬ)(役行者・役優婆塞・神變大菩薩)について


役行者倚像(往生院六萬寺)



往生院六萬寺の山号の「岩瀧山」は役行者が開山された修験道の行場であります。


滝行は再興しています。現在は危険なため往生院~鬼面岩ルートのハイキングコースは廃道になっていますが、鬼の奥駈岩、鬼の石臼、鬼面岩などの行場の名残もあります。


(岩瀧山山頂には大きく三組の石組みの磐座があり、祭祀場・霊畤も確認できます。東出雲王国の事代主・八重波津身命の子・天日方奇日方命が河内に拠点を構えた際における創祀と考えられます。天日方奇日方命は、その後、大和の葛城、三輪へと拠点を移します。また、神功皇后が、三韓征討後に生駒山で大嘗祭を行ったことが、住吉大社神代記に書かれてあり、岩瀧山の山頂の霊畤をその祭祀場として、天皇に即位されたと考えられます。)


往生院は、鎌倉時代から葛城修験の北峰の宿にもなっていました。


知られざる修験の道「北峯宿」踏査行




修験道は、出雲王家の末裔となる大田田根子命の子孫で、葛城(大和国葛城上郡茅原郷)の賀茂(君)家の役小角による創始とされているわけですが、実は、父・大角は、出雲の忌部家(東出雲王国王家・富(向)家の親戚)の者で、出雲から葛城の賀茂家へと婿入りしています。


出雲の忌部家は、出雲神道の本流であり、恐らくは、小角が、父から学んだ出雲神道と、元興寺で学んだ仏教(密教)を習合、発展させたのが、本来の修験道の始まりと言えるのであります。


父・大角は、宮中祭祀を担う目的があって、出雲から賀茂家へと婿入りしたものの、既に忌部家は、中臣家により宮中祭祀からは追い出されてしまっており、祭祀職には就けなかったと思われるのであります。その代わりに役民の管理の仕事をしていたと考えられます。


このため、子の小角は、忌部家の祭祀継承者として、父から出雲神道を学ぶものの、既に中臣氏によって独占されてあった宮中祭祀の役職には就けなかったため、伝来して間もない仏教が、天皇や豪族、貴族の支持を受けつつあったことから、その仏教を学び、出雲神道と仏教を融合させて、より強力な祈願、祈祷力を備えることで、宮中祭祀を担えることを目指したのではないかと思われるのであります。


神道には、忌部家の出雲祭祀系と中臣家の古事記(記紀)祭祀系があり、藤原不比等の主導による記紀編纂からの中臣家による記紀(神話創作・捏造を含む)に基づいての祭祀が、奈良時代以降、その中心になっていっているわけです。


このため、忌部家の出雲祭祀系の神道に基づいて確立していった古義修験道には、まだ出雲祭祀の名残が確認できる可能性が極めて高くあるのであります。


もちろん、こちらこそが本来、日本の神道の本流であったとも言えるわけであります。


但し、後代には、朝廷の陰陽寮との関係から、特には、平安時代の賀茂忠行、安倍晴明に基づく陰陽道による影響も強く受けていくことになるため、古事記(記紀)祭祀系による儀軌へと変容していったものも現在はあると言えます。


現在、秘伝とされてきた修法を、次代の確かな者へと繋げようとなされている甑嶽山観音寺の甑岳氏。


古流修験本宗・總本山・甑嶽山観音寺




この甑嶽山観音寺の甑岳家に伝わる古義修験道には、忌部家の出雲祭祀系による神道も残ってある可能性があり、もちろん、貴重な作法であるのは確実であるだけに、しかるべくに継承されていって頂きたいと願うのであります。


役行者開山の岩瀧山 岩瀧不動尊・滝行場






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