雑記について

2021年03月11日

無上瑜伽タントラについての考察(雑記)

無上瑜伽タントラについての考察(雑記)


なぜ無上瑜伽タントラによることでなければ成仏できないのか?

波羅蜜乗や下位のタントラでは成仏できない理由を、ツォンカパ大師は「五次第明灯」の中で明確におっしゃられていますが、その最大の理由が、波羅蜜乗や下位のタントラの修行、それと無上瑜伽タントラの生起次第だけの修行では「所知障の対治ができない」ためであるとはっきりとご説明なさられておられます。

このことは、先に書いた「最後有(十地)の菩薩の所知障による相好と無上瑜伽タントラの幻身の相違とは?」の内容に最終的にリンクすることになりますが、例えば、いかに波羅蜜乗や下位のタントラ、生起次第において瞑想・禅定修行に通達したとしても、心に現れる顕れ、あるいは、三昧・等引から出ての外界の顕れも完全に浄化することが不可能であるからであります。

それらの顕れを完全に浄化することは、波羅蜜乗や下位のタントラ、それと無上瑜伽タントラの生起次第にどれだけ取り組んだとしても絶対にありえないとツォンカパ大師は強く断言なさられておられるのであります。

それほどに、その顕現が、実体があるかのように現れるあり方というのは相当にきついのであります。

この実体があるかのように現れてくるたとえとして、ある容器に入ってあるニンニクを取り除いても(どれほどに空性を十分に理解できていたとしても、煩悩(障)を無くせたとしても)、その容器に染み付いたニンニクの臭い(実体があるかのように現れてくる習気、所知(障))までは消すことができないということであります。

その染み付いた臭い(実体があるかのように現れてくる習気)を取り除くためには、綺麗な水(普通の瞑想や禅定)だけではなく、専用の強力な洗剤(無上瑜伽タントラにおける倶生の大楽、楽空無差別智、光明、幻身など)が必要になるということであります。

この実体があるかのように現れてくる習気までも取り除いてこそ、真に迷いがなくなる、苦しみがなくなる、とらわれや執着がなくなると言えることになるのでもあります。

たまに、波羅蜜乗や下位のタントラにおける瞑想・禅定にて、解脱したとか、悟りを開いたとか、不二・非二元の体験をしたとか、まるで自分が至高の境地に至ったかのようにおっしゃる方が極まれにいらっしゃいますが、よくよく観察してみれば、所知障どころか煩悩障さえも断滅できているわけではなく、結局は、その瞑想・禅定から出れば、相変わらず煩悩はそのままであるし、当然に実体があるかのように現れてくる習気もそのままであるため、することなすこと、凡夫は凡夫のままで何も大したことはないのであります。

その勘違いしていることも分からずに、どうだ、私は解脱したぞ、悟ったぞ、悩みが無くなったぞ、苦しみが無くなったぞ、などと、自慢げに本に書いたり、ネットに上げたりと世に出したりしてあるのを見ると、なんだかとても哀れで可哀想に思うのであります。また、それで解脱できる、悟れる、悩みが無くなる、苦しみが無くなるかのように信じ込まされる方も可哀想に思うのであります・・まあ、余計なお世話であるかもしれませんが、、

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ツォンカパ大師をはじめとした成就者たちについて

まず、前回に高僧方の成就のお話を出しましたが、即身成仏という言葉に引っ張られて語弊が生じかねないため、断っておかなくてはいけませんが、ツォンカパ大師をはじめとした成就者たちは、それで即座に如来・仏陀となられたというわけではなく、より多くの菩薩行が可能となる心身を調えられることができ、そして、浄土や様々な世界へと自身の意思で赴けるほどの境涯になられたというのが正解であると言えるでしょう。

完全なる悟りへと向けて、ようやく如来や菩薩など諸尊に相まみえられるようになり、また、教えも直接に頂けるぐらいになられたということであります。

私たちも、もし、本当に浄土や兜率天などの天界へと至りたいと思うのであれば、それぐらいの境地にまで至っていなければ実は難しいのであります。

送る側(導師)も、送られる側(故人)も。

形式的に葬送儀軌などを調えれば、お経を読めば、真言を唱えれば、念仏を唱えれば、それで簡単に浄土へと行けるかのように思いがちですが、現実実際はそんな簡単で生易しいものでは全くないということであります。

そのように浄土へと赴けるようになるほどの境地は、無上瑜伽タントラの成就法を生涯、60年以上にわたり真摯に取り組まれた高僧方であっても非常に難しいことなのでありますから、私たち凡夫であるならば当然に推して知るべしなのであります・・

もちろん、リンポチェ方のように、余程、過去世で強力な仏縁と福智二資糧の集積があっての今世であるならば話はまた変わって参りますが・・

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無上瑜伽タントラにおける性瑜伽について

よくチベット密教、無上瑜伽タントラにおいては、何かアヤシイ、イカガワシイ性的な修行のイメージをもって嫌悪なさられる方がいらっしゃいます。

ヤブユムという性的結合した尊格が多数あることから、それをそのまま世間一般の性交と同じく考えて、そして、アヤシイ、イカガワシイイメージをもってしまっている場合がありますが、これは完全な誤解となります。

そして、灌頂や成就法の実践において、ホントウにそのような行為が必要であり、実践しているのか、と思われるかもしれませんが、現実的には、幾つかの厳しい条件をクリアしなければならず、また、絶対に必要というわけでもなく、現在においては、それを観想的なものとして行い、それも、性的な表現はあれども、アヤシイ、イカガワシイイメージはなく、重要な仏教思想における観念の融合的なものとして修習していくことになります。

代表的なものが、ヤブユムの場合では、智慧と方便、智慧と慈悲などになりますが、無上瑜伽タントラの場合であれば、当然に光明と空性、光明と幻身などの一体を表わすためのものとなります。

では、なぜそれが人間の快楽の象徴である性交として表されることになったのか?

言ってみれば、性交は、生命にとって種を残そうとする根源的な意味合い、つまり、最重要なものとなるのであります。その最重要な行為とその行為における快楽は、もちろん、次元は異なりますが、光明と空性の融合による悟りへと向けた仏教における至高となる楽、大楽と似た構造、目的を持っているからではないだろうかと私見ながら考えております。

光明は、まさに私たちの輪廻を司る根源的な意識とも関係してくるところであり、そういう有情の根源的なところ、深遠な部分であることの確認ができるのではないだろうかと存じます。

また、これも拙見解ながら、やはり生身の人間の肉体のまま(有漏の身体)においては、俱生の大楽智の顕現、光明の顕現は相当に難しいことであり、有漏の身体の影響を完全に排除させることは不可能に近いことであると思われます。その有漏の身体のままに成仏、いわゆる即身成仏を果たすのであれば、有漏の身体を浄化させるための相当な力が必要になると考えられます。

その必要となる相当な力を生命の根源的な力と言える性交の力を借りることで、有漏の身体を乗り越えて、俱生の大楽智の顕現、光明の顕現、幻身の顕現を目指そうとする意図があるのではないだろうかと思われます。

しかし、実際に行うには、かなり厳しい条件があり、また、例え、行者がその厳しい条件をクリアしていたとしても、パートナーにも厳しい条件があるため、更に厳しくなるのは言うまでもありません。

また、歴代高僧においては、既に十分に修習を終えており、これを実践することで即身成仏が可能であったとしても、弟子たちの誤解を避けるために、わざと避けて、死後の中有においてダーキニー・明妃を召喚して行われて成就なさられたという例がたくさん報告されてあります。

むしろ、生身の有漏の身体においては難しいものの、中有の身体であれば行いやすいものであると言えるのかもしれないですね。

更に、絶対条件ではないということは、より修習に熟練した行者においては、その必要もなく中有において清浄なる幻身と清浄なる光明の実現が可能であると考えることもできるのではないだろうかと思います。

とにかく、世間における誤解により、深遠な無上瑜伽タントラの教えが遠のいたものになってしまっているとすれば、誠に残念至極なことこの上ないと思うのであります。

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楽空無差別について

楽空無差別とは何か?

これは無上瑜伽タントラの中でも特に難解な解釈を有すると断言できます。

空は、もちろん空性のことであるが、問題は、その空性と一体、無差別とする「楽」が何かである。

まあ、もし、この楽が、私たちの世間で使われるような普通の苦楽の楽であるならば、そんな楽はたくさんあるため、それと空性を合わせることで、高次の境地へ到達できるとするのであれば、こんな簡単なことはない。ある程度の行者であれば、空性を信解作意することはできる。それは凡夫でもできないことはない。そして、その信解作意した空性と普通の楽を無差別とすることもできなくはない。しかし、そうであれば、誰もがある程度この境地に至れることになっているはずであるが、実際のところは全くそうではない。

楽は、そんな普通の楽ではないのである。

では、例えば、行者の禅定による心一境性の境地はどうであろうか。例えば、三昧智、等引智と言われる境地である。この境地は楽と言えるのではないか。

しかし、これもある程度の行者、まれに凡夫であっても可能と言えば可能になる。しかし、そうであれば、同じように高次の境地へ到達するものが多くあってもおかしいことではない。ところがそうではない。

では、性的な快楽の楽であるのか?

それなら、普通の人でも十分あり得るし、その快楽と信解作意した空性を合わせることで高次の境地へ到達することができるのであれば、行者どころかもっと普通の人でも高い境地に至ってあってもおかしくないことになる。もちろん、実際はそんなことはない。

では、何だということですが、この楽は、根源的な微細な輪廻を司る意識の覚醒のことであると無上瑜伽タントラでは説明されるところとなります。

それはつまり、「光明」への近接による「楽」というわけであります。

では、なぜ、光明への近接が「楽」になるのか、それはつまり、悟りという我々にとっての一番の「大楽」に向けて近づくことになるからであります。

まあ、死も言ってみれば、死の光明へと近づくことになりますから、本当は楽に近づくと表現することもできます。

しかし、凡夫は、もちろん、それが死の光明であると認識することはほぼ不可能で、更に、煩悩障、所知障、業によって、その光明は有漏の光明であるため、空性を正しく認識できることもなく、そのまま次の輪廻へと向かってゆくことになるのではありますが。

それでも、一時僅かな瞬間でも、悟りへと近づける機会であり、その間は、どちらかと言えば、楽であるとも言えます。死は苦であると皆は思うでしょうが、逆に行者は死を楽しみにしているのも、悟りへと近づくチャンスがあると考えるため、そういう理由から楽しみで仕方がないのであります。

根源的な微細な輪廻を司る意識の覚醒を無上瑜伽タントラでは、「俱生の大楽」と言いますが、これを疑似的に行うのが、風・ルンを中央脈管・アヴァドゥーティーに入れて住し染み込ませることで、その生じさせた俱生の大楽智と空性を重ね合わせて一致させるということが、「楽空無差別」ということになるのであります。

これは、やがて悟りへといたるための光明と空性を重ね合わせて一致させることへと繋げる前段階の修行であるのであります。

この前段階まで進んで、ようやく生起次第から次の究竟次第へと修行を進めていくことになるのであります。

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施餓鬼のお経「開甘露門」の考察から、まさかここまで続くことになるとは正直、思っていなかった・・

しかし、考えてみれば、全て一貫した論理で繋がっているのですよね・・

空と縁起、智慧と福徳、光明と幻身、法身と色身・・

無上瑜伽タントラの理論から仏教全体を俯瞰していけば、全てこの四つの項目へと集約することができるのです。

迷いから悟りへ。顕密共に中観から論理一貫性を果たすこと、それがツォンカパ大師が成し遂げられた真なる大偉業であるのであります。

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本尊瑜伽・本尊生起について

密教の修行、成就法において、まず取り組むことになるのが本尊瑜伽・本尊生起になります。

これは自分自身を本尊と一体化させて行う修行となります。一般的な考え方では、身口意のそれぞれを一体化させることで、三業を清浄することを目指すところとなります。

しかし、どうして三業の清浄になるのか、そこを考えるのが重要となります。

本尊瑜伽・本尊生起は、主には、「空・文字・声・色・印・相」を順次修習する六種本尊になります。

ただ、問題は、そのように順次自分を本尊と共相、イメージするだけでは、三業の清浄に繋がるわけではなく、三業の清浄に向けた、特に仏教の智慧と福徳の修習にならないといけないことになります。

本尊瑜伽・本尊生起も当然に仏道の智慧と福徳の修習にならなければ、ただ本尊を思い浮かべるだけでは悟りへ向けた具体的な対治にはならないのであります。

では、どのようなことで、本尊瑜伽・本尊生起は智慧と福徳の修習になるのか。

これは、「空性と縁起」の理解を本尊との一体化により深めることで、それが行者の智慧と福徳の力を増幅させて前進させることに繋がると考えるからであります。

空の理解が深まれば、真理を観る智慧の力となり、縁起の理解が深まれば、迷い苦しみある衆生の様々な因縁を見通して、その解決へ向けた因縁(方便)も自在に提示できるところとなり、福徳の実践の力(方便力)になるということであります。

無相瑜伽と有相瑜伽も、言ってみれば、それぞれ空と縁起ということになり、それぞれが仏陀の法身と色身の成就へと繋がると言えるのであります。

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光明について

光明とは何か?

光明は、主体の光明と客体の光明があり、客体、つまり認識対象の光明ということですが、これは勝義の空性のことを意味します。

次に、主体、つまり、認識側の光明ということですが、これは空性を認識する知、心のことを意味するところとなります。

しかし、普段の私たち凡夫においては、空性を認識する知、心は活動を停止していると共に、その空性を認識する知、心の邪魔、障りとなっているものがあり、それが煩悩障と所知障とになります。

この煩悩障と所知障、そして、様々な業の因縁により、私たち凡夫は、空性を正しく認識することができなくされてしまっていますが、本来は、皆、正しく空性を認識できる知、心の可能性があるのであります。

この、本来は、皆、正しく空性を認識できる知、心の可能性があることを「仏性」とか、あるいは「如来蔵」と言うのであります。

これはもともと悟っている、悟ってあるとか、そういうものではなく、あくまでも正しく空性を認識するための素地がそれぞれ皆(有情)にはあるということになります。

ですから、仏道修行により、正しく空性を認識していくための修行というものが必要になるということであります。(智慧資糧)

この光明は、死の際にも現れること(死の光明)になりますが、しかし、その光明は、煩悩障と所知障、業により汚されたもの、有漏の光明の状態であり、例え、それが光明であると確認できた(凡夫がそれが光明であると認識できることはほぼ無い)としても、その知・心によって正しく空性を認識することはできないのであります。ですから、そのまま業縁の力により次の輪廻の生まれへと向かってゆくことになるのであります。

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について

前回に、成仏における心(光明)から幻身を立ち上げることの必要性、重要性について書かせて頂きました。

心(光明)から幻身を立ち上げる、そのための修行が無上瑜伽タントラにおける「三身修道」になります。

「三身修道」は、死、中有、生の過程を疑似的に体験していくことで、心(微細な意識)・光明(死の光明)への核心に近づくことを目指すところがありますが、もう一つは、その心(微細な意識)・光明から身体を立ち上げる、つまり、疑似的な幻身を立ち上げることの練習も含まれてあると考えることができます。

高僧は、このコントロールをある程度、修行により進められるようになることで、中有の心から次の生に向けて、自らの意思に添うように(衆生を救済するために)、次の生の身体、境涯を調えられるようにすることができるようになり、そして「生まれ変わり」を果たすことができるようになるのであります。

ダライ・ラマ法王猊下をはじめとする活仏と言われるリンポチェ方は、そのようにこの三身修道を調えることで転生していると言えるのであります。

一方、凡夫の中有における様態は非常に不安定なもので、自分の意思で中有をコントロールすることは全くできず、過去世以来に蓄積されてある業の力を中心とした様々な縁の作用によって、やがて次の生へと向かうことになります。

もちろん、高僧方においては、幻身を成就できるぐらいに修行が進めば、死、中有の過程を利用して、成仏できることもあり得るのであります。

あるいは、今のそのままの姿においても、要は、「即身成仏」できることも可能な場合も。

もしかすると、既に、いつでも浄・不浄の幻身を立ち上げることはできるけれども、この娑婆世界におけるこの宇宙のこの地球にて、人間という姿で、あえて縁の強くある衆生たちの救済にまずあたるために、わざと成仏せずに転生している菩薩がいてもおかしくないのであります。(ダライ・ラマ法王猊下さま)

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最後有(十地)の菩薩の所知障による相好と無上瑜伽タントラの幻身の相違とは?

まず、最後有(十地)の菩薩の所知障による相好と不浄の幻身は有漏の身体であるのは両者とも同じである。

では、何が違ってくるのか?

まず、最後有(十地)の菩薩の場合、無漏の等引智から戻った際に、所知障の影響ある相好・身体のせいで、結局は、その智がまた有漏に戻ってしまうのであります。

等引智で正しく空性を理解していたけれど、所知障の影響ある相好・身体はそのままであるため、無漏の等引智を出たら、いつまでも現われは実体があるかのように現れ続けてしまうのであります。もちろん、その現われに実体が無いことは十二分にも理解はしているのではありますが。

しかし、いつまでもこの状態では、菩薩としての救済活動にも当然に限界があり、所知障の影響ある相好・身体とは別にて、無漏の等引智に入り、その無漏の等引智から、新たに立ち上げる身体が必要になるのであります。

それが幻身となるのであります。

心(光明)からその幻身を立ち上げる。このために無上瑜伽タントラの灌頂(幻身にかかる灌頂は秘密灌頂)と修行(成就法の修習)があるのであります。

まずは、有漏の光明から立ち上げる不浄の幻身、そして、無漏の光明から立ち上げる清浄の幻身。

有漏の光明から立ち上げる不浄の幻身は、無漏の光明への等引のために立ち上げた身体で、無漏の光明への等引によりその存在の根拠を失って、無漏の光明に溶け込むように消えてなくなります。

そして、次に無漏の光明から立ち上げる清浄の幻身(無漏の幻身)、これが仏陀の相好へとそのまま続くものになるのであります。

(もしも、最後有(十地)の菩薩の場合、そのままの相好・身体で、無上瑜伽タントラにおける無漏の光明(勝義の光明)へ無理やりに等引に入ったならば、その後に無漏の光明の存したいとする相好・身体は無く、そのまま相好・身体が無いままとなり、つまり、法身のみの成就になるということであります。これはもちろん無いとは言えませんが、皆の救済のために悟りを目指すという大乗仏教の菩提心からは、法身のみの成就ではなく、実際の衆生の救済に役立つ色身の成就も果たさなければならないものとなります。この色身を成就するためには、光明から身体を立ち上げるための修行、過程が必要になるということであります。)

最後有(十地)の菩薩では、この仏陀の相好へと続く根拠となるもの、無上瑜伽タントラの清浄の幻身(無漏の幻身)が立ち上げられないため、最後の最後、成仏の際には無上瑜伽タントラに依らなければならないということになるのであります。

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光明真言(不空大灌頂光真言)について

曹洞宗の甘露門には、先に色々と考察した大宝楼閣善住秘密陀羅尼と共に諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)も読誦されています。

曹洞宗の甘露門について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/72de11ab38ae8e8b64614487df7e78dc


大宝楼閣善住秘密陀羅尼からの関連考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/26c3f9984fe03ee8f2af0d57050719b4

曹洞宗において光明真言は、施餓鬼では読誦されますが、葬儀では読誦されません。引導に関わる陀羅尼として、葬儀でも読まれる大宝楼閣善住秘密陀羅尼から色々と考察しましたが、葬儀では読まないものの、光明真言についてからも考えることで、より引導後について明確化することができることになるのではないかと考えます。

光明真言の内容は、不空成就如来、大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来の金剛界五仏、つまり、五智如来から光明(悟りへの光を照らす、五智如来の智慧のお加持のお力)を賜るため(頂くための祈願)の真言となります。

これは、つまり、もう正式名からも分かるように五智如来から灌頂を賜るための真言となるのであります。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼も一切如来(一応、考察では五智如来と最終的にしました)からの灌頂を頂戴するための陀羅尼であり、光明真言も五智如来からの灌頂を賜るための真言であることから、両者を鑑みれば、当然に五智如来からの灌頂を頂くということが想定されるものとなります。

無上瑜伽タントラの枠組みで考えれば、四つの灌頂の一番目、瓶灌頂となるのであります。

瓶灌頂の内容は、大きく二つに分けることができ、一つは「明灌頂」、もう一つが「阿闍梨灌頂」となります。

その「明灌頂」において、五智如来の悟りの智慧のお加持のお力を頂戴する灌頂があり、それぞれ

水灌頂 阿閦如来 大円鏡智
宝冠灌頂 宝生如来 平等性智
金剛杵灌頂 阿弥陀如来 妙観察智
鈴灌頂 不空成就如来 成所作智
名灌頂 大日如来 法界体性智

となります。

この瓶灌頂の前段の灌頂が「明灌頂」とあるように、「明」というのは、悟りのこと、一方、その逆は無明で迷いのこと、無明に悟りの光を照らすということで「(光)明灌頂」ということで、「光明」というまさにその真言の名の通りとなるのであります。

ですから、光明真言は、そのまま五智如来から灌頂を頂くというための真言となるのであります。

そして、「阿闍梨灌頂」に続き、先にも考察した「不退転灌頂」が「阿闍梨灌頂」に含まれてあるのであります。

まさにそのまま「瓶灌頂」を頂くためとなり、曹洞宗の引導の目的もそれになるということで間違いないというものとなります。

さて、ここで、この光明真言について説かれてあるお経「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言」において、実は、真言の功徳として、極楽浄土への往生について説かれてあります。

とするならば、光明真言による引導先、つまり、灌頂を受ける先として考えられるのは、阿弥陀如来の極楽浄土となる可能性もあります。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼による考察からは、曹洞宗の引導先は、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)としましたが、阿弥陀如来の極楽浄土も引導先として考えられなくないということには一応なります。

もしかすると、元々の曹洞宗の葬送儀軌には、実は大宝楼閣善住秘密陀羅尼と共に光明真言もあったのかもしれません。

しかし、極楽往生的な要素を近代になり排除して形式を調えた際に、極楽往生が想定される光明真言を省いた可能性があるのかもしれません。これはあくまでも推測ですが。

このあたりは天台宗の引導が、阿弥陀如来の極楽浄土であり、阿弥陀経が読誦され、光明供修法(来迎を迎える儀式)があり、そして、重要な引導の陀羅尼として光明真言が読誦されることから、光明真言は、やはり極楽浄土への引導に向けた陀羅尼と考えても妥当なところとなります。

そのため、極楽往生的な要素を排除するためとして、曹洞宗は葬儀において、この光明真言を読まなくなった可能性はあるのではないだろうかと思われます。

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波羅蜜乗と無上瑜伽タントラの決定的な差とは何か?

これは簡単に述べれば、仏陀の色身を得るためには、最終的には無上瑜伽タントラに依らなければならないということになります。

仏陀の法身を得る道は、波羅蜜乗でも密教でも変わりはありません。もちろん、そのスピードの差異は相当にありますが。

問題は、最後の最後で、仏陀の色身を得るための最終的な根拠が波羅蜜乗では見当たらなくなるのであります。

もちろん、波羅蜜乗では三阿僧祇劫の福徳資糧がその根拠にはなりますが、しかし、その資糧だけを以って仏陀の色身を得るのが不可能なのであります。

なぜか?

要は、資糧は積んでいても、最後有の菩薩(十地の菩薩)から如来の色身へと至るための架け橋となるもの、続くものの根拠が無いからであります。

なぜなら、最後有の菩薩の相好は、まだ所知障が残ってある状態での相好であるからであり、有漏の身体であるからであります。

そのため、その有漏の身体から仏陀の色身へと繋げるために、その有漏の身体を浄化して、新たに仏陀の色身へと繋がるものを実現しなければならないのであります。

それが無上瑜伽タントラの「幻身」となるのであります。

しかし、なぜ、最後有の菩薩(十地の菩薩)は仏陀の色身を得られないのか?

所知障を滅せられたら、その滅した意識から清浄な身体を立ち上げることはできないのか?

問題は、波羅蜜乗の菩薩は、所知障を滅せられるのかどうかであります。

所知障の(影響)ある意識(と身体)が、そもそも真に所知障の無い意識(と身体)を実現できるのか・・

要は汚い手で、汚い手自身のヨゴレを拭うことができるのか?ということですが、それはできないのであります。

もし、汚れた手を綺麗に拭うには、綺麗な手、別に綺麗な布でも良いでしょうが、その綺麗にするための「モノ」が必要となるのであります。

その綺麗にさせるための架け橋、媒体となるのが無上瑜伽タントラにおける「幻身」となるのであります。

正確には、それは無漏の幻身、「清浄な幻身」となります。

仏陀の色身へと続くこの「清浄な幻身」の実現が、成仏には必ず必要となるのであります。

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極楽浄土への往生について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/fdf786b2f735761a240f23946285b2f8

開甘露門(施餓鬼のお経について)
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/34b4c7f4598a50c7cd091030d62eed6c

施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html

施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html


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2021年03月04日

光明真言(不空大灌頂光真言)について(雑記)

光明真言(不空大灌頂光真言)について(雑記)

曹洞宗の甘露門には、先に色々と考察した大宝楼閣善住秘密陀羅尼と共に諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)も読誦されています。

曹洞宗の甘露門について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/72de11ab38ae8e8b64614487df7e78dc

大宝楼閣善住秘密陀羅尼からの関連考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/26c3f9984fe03ee8f2af0d57050719b4

曹洞宗において光明真言は、施餓鬼では読誦されますが、葬儀では読誦されません。引導に関わる陀羅尼として、葬儀でも読まれる大宝楼閣善住秘密陀羅尼から色々と考察しましたが、葬儀では読まないものの、光明真言についてからも考えることで、より引導後について明確化することができることになるのではないかと考えます。

光明真言の内容は、不空成就如来、大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来の金剛界五仏、つまり、五智如来から光明(悟りへの光を照らす、五智如来の智慧のお加持のお力)を賜るため(頂くための祈願)の真言となります。

これは、つまり、もう正式名からも分かるように五智如来から灌頂を賜るための真言となるのであります。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼も一切如来(一応、考察では五智如来と最終的にしました)からの灌頂を頂戴するための陀羅尼であり、光明真言も五智如来からの灌頂を賜るための真言であることから、両者を鑑みれば、当然に五智如来からの灌頂を頂くということが想定されるものとなります。

無上瑜伽タントラの枠組みで考えれば、四つの灌頂の一番目、瓶灌頂となるのであります。

瓶灌頂の内容は、大きく二つに分けることができ、一つは「明灌頂」、もう一つが「阿闍梨灌頂」となります。

その「明灌頂」において、五智如来の悟りの智慧のお加持のお力を頂戴する灌頂があり、それぞれ

水灌頂 阿閦如来 大円鏡智
宝冠灌頂 宝生如来 平等性智
金剛杵灌頂 阿弥陀如来 妙観察智
鈴灌頂 不空成就如来 成所作智
名灌頂 大日如来 法界体性智

となります。

この瓶灌頂の前段の灌頂が「明灌頂」とあるように、「明」というのは、悟りのこと、一方、その逆は無明で迷いのこと、無明に悟りの光を照らすということで「(光)明灌頂」ということで、「光明」というまさにその真言の名の通りとなるのであります。

ですから、光明真言は、そのまま五智如来から灌頂を頂くというための真言となるのであります。

そして、「阿闍梨灌頂」に続き、先にも考察した「不退転灌頂」が「阿闍梨灌頂」に含まれてあるのであります。

まさにそのまま「瓶灌頂」を頂くためとなり、曹洞宗の引導の目的もそれになるということで間違いないというものとなります。

さて、ここで、この光明真言について説かれてあるお経「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言」において、実は、真言の功徳として、極楽浄土への往生について説かれてあります。

とするならば、光明真言による引導先、つまり、灌頂を受ける先として考えられるのは、阿弥陀如来の極楽浄土となる可能性もあります。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼による考察からは、曹洞宗の引導先は、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)としましたが、阿弥陀如来の極楽浄土も引導先として考えられなくないということには一応なります。

もしかすると、元々の曹洞宗の葬送儀軌には、実は大宝楼閣善住秘密陀羅尼と共に光明真言もあったのかもしれません。

しかし、極楽往生的な要素を近代になり排除して形式を調えた際に、極楽往生が想定される光明真言を省いた可能性があるのかもしれません。これはあくまでも推測ですが。

このあたりは天台宗の引導が、阿弥陀如来の極楽浄土であり、阿弥陀経が読誦され、光明供修法(来迎を迎える儀式)があり、そして、重要な引導の陀羅尼として光明真言が読誦されることから、光明真言は、やはり極楽浄土への引導に向けた陀羅尼と考えても妥当なところとなります。

そのため、極楽往生的な要素を排除するためとして、曹洞宗は葬儀において、この光明真言を読まなくなった可能性はあるのではないだろうかと思われます。

・・

波羅蜜乗と無上瑜伽タントラの決定的な差とは何か?

これは簡単に述べれば、仏陀の色身を得るためには、最終的には無上瑜伽タントラに依らなければならないということになります。

仏陀の法身を得る道は、波羅蜜乗でも密教でも変わりはありません。もちろん、そのスピードの差異は相当にありますが。

問題は、最後の最後で、仏陀の色身を得るための最終的な根拠が波羅蜜乗では見当たらなくなるのであります。

もちろん、波羅蜜乗では三阿僧祇劫の福徳資糧がその根拠にはなりますが、しかし、その資糧だけを以って仏陀の色身を得るのが不可能なのであります。

なぜか?

要は、資糧は積んでいても、最後有の菩薩(十地の菩薩)から如来の色身へと至るための架け橋となるもの、続くものの根拠が無いからであります。

なぜなら、最後有の菩薩の相好は、まだ所知障が残ってある状態での相好であるからであり、有漏の身体であるからであります。

そのため、その有漏の身体から仏陀の色身へと繋げるために、その有漏の身体を浄化して、新たに仏陀の色身へと繋がるものを実現しなければならないのであります。

それが無上瑜伽タントラの「幻身」となるのであります。

しかし、なぜ、最後有の菩薩(十地の菩薩)は仏陀の色身を得られないのか?

所知障を滅せられたら、その滅した意識から清浄な身体を立ち上げることはできないのか?

問題は、波羅蜜乗の菩薩は、所知障を滅せられるのかどうかであります。

所知障の(影響)ある意識(と身体)が、そもそも真に所知障の無い意識(と身体)を実現できるのか・・

要は汚い手で、汚い手自身のヨゴレを拭うことができるのか?ということですが、それはできないのであります。

もし、汚れた手を綺麗に拭うには、綺麗な手、別に綺麗な布でも良いでしょうが、その綺麗にするための「モノ」が必要となるのであります。

その綺麗にさせるための架け橋、媒体となるのが無上瑜伽タントラにおける「幻身」となるのであります。

正確には、それは無漏の幻身、「清浄な幻身」となります。

仏陀の色身へと続くこの「清浄な幻身」の実現が、成仏には必ず必要となるのであります。

・・

極楽浄土への往生について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/fdf786b2f735761a240f23946285b2f8

開甘露門(施餓鬼のお経について)
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/34b4c7f4598a50c7cd091030d62eed6c

施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html

施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html

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2021年02月27日

では、一切如来による灌頂の内容とは何か?(雑記)

では、一切如来による灌頂の内容とは何か?



無上瑜伽タントラの枠組みから捉えるならば、これは悟りへ向けた五智如来によるそれぞれの智慧のお加持のお力を頂戴する灌頂といえるのではないだろうかと思われます。

阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、大日如来。

そして、「授記」を受けることにもなります。

五智如来の灌頂は、瓶灌頂にあたりますが、この瓶灌頂を調べる中で、「不可逆灌頂」(最後有の菩薩に与えられる灌頂と同等)に「大いなる光明の灌頂」があることを知り、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」によっての一切如来(ここでは一応、五智如来と考える)による灌頂として、この灌頂が想定されてあるように考えることができます。

しかし、これは金剛阿闍梨(菩薩)に与えられる特別な灌頂であり、やはり、生起次第の修行を終え、空性理解が相当高い聖者や最後有の菩薩のような存在に対して与えられる灌頂であるものの、全ての如来が成仏へと向けて、その菩薩が早く悟りへと至れるようにと授ける特別な灌頂と説明されてあることから、大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼は、全ての如来が成仏するための決定的かつ必要不可欠な加持力を有するとされる性格から考えて、この特別な灌頂を受けるための陀羅尼と考えると辻褄が合うものとなります。

問題は、これが「凡夫」に対して与えられる灌頂ではなさそうであるというところです。あくまでも一定境地に至った聖者に対してであり、となれば、葬儀による授戒と引導だけによる凡夫には当然に難しいものであると言えます。

しかし、光明に関わる成仏へ向けた重大な灌頂であることは名前からしても確かであり、ならば、仏性の覚醒へ向けた加持力を有するこの陀羅尼のことを考えると、四つの灌頂全体を俯瞰しても、まさにこれになるのではないだろうかと思われます。

また、聖者・菩薩でなくても、疑似的に(将来に受けるために、心にお加持の力の習気を置く)この灌頂が与えられると考えることもできます。

いずれにしても、大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来(五智如来)から頂く灌頂の内容は、特別な「大いなる光明の灌頂」ではないかもしれないものの、無上瑜伽タントラにおける通常の瓶灌頂(とあと三つの灌頂も続くかもしれないが)の内容であると考えて妥当となるのではないだろうかと存じます。

この灌頂で、「見仏と授記」を調えることになるというわけであり、そこから本格的に仏道の修習へと向かうということであります。

不退転となるという意味合いも、菩薩の現前地の不退転位を示すというわけではなく、灌頂による誓約と律義を守ることだけによっても、多少、紆余曲折があったり、時間が掛かっても、長くても7生~16生で成仏に至れる前進あることを言っているのであれば、それも不退転と言っても良いとも捉えることができます。

また引き続き精査して参りたいと存じます。

追記・・

灌頂には、その時には受ける資格がなくても、いずれ本当の灌頂を頂けるようにとして頂く灌頂もあり得ます。

要は、将来に正式に頂くために心に習気を置く灌頂というものです。

「不可逆灌頂」(不可逆秘儀)・「大いなる光明の灌頂」もそのようなものとして通常の無上瑜伽タントラの四灌頂内に組み込まれてあるとすれば、これは十分にあり得ます。

追記2・・

これは結局、精査の結果、瓶灌頂にある阿闍梨灌頂のことであり、やはり、一応、受者を金剛阿闍梨である(本当はまだまだ凡夫であっても)として授かる灌頂でありました。

これで繋がりました。

・・

見仏と授記へ向けて

もちろん、菩薩の現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものの根拠が凡夫にあれば、一切如来からの灌頂における大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼のお加持のお力により、不退転位を得ることは可能になると考えることはできます。

しかし、現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものは、通常の波羅蜜乗であれば、やはり相当な修行が必要であり、当然に時間も掛かります。(少なくとも二阿僧祇劫ほど)

もちろん、当人が過去世でそれだけの二資糧を積み終えてあれば、たやすく灌頂により不退転位を確定させることは可能であるでしょう。

では、まだとてもその二資糧に無い凡夫はどうなるのだ、ということになります。

葬儀の授戒と引導だけでは、やはりとても足らないのは明白。

それを補うための二資糧を葬儀の儀軌にて持たせることができるのかどうか・・これはやはりとても無理なことである・・

では、今世だけでその二資糧を積むことはできないのか、となれば、それはできる方法があり、それが無上瑜伽タントラの修行の実践となる。

つまり、生起次第と究竟次第となる。

また、もしも現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるぐらいの修行となれば、生起次第を終えてあることは必要不可欠となるのではないだろうかと思われる。

これなら、今世だけでも可能と言えば可能である。

もしも、曹洞宗の引導によりて、大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来からの灌頂を頂き、即座に不退転位に至りたいと思うのであれば、無上瑜伽タントラの生起次第までは確かに終えておけば、確実に至れることになるのではないだろうかと考えることはできます。

いや、そもそも生起次第を終えてある者であれば、自らの意思で行きたい浄土へと赴くことも可能となっているぐらいであり、他による引導は必要としないのではないかと言えば、もちろんそれまででもある。

まあ、とにかく灌頂は頂けても、その灌頂から実際の修行に励まなければ、とても成仏へは至れないのは確かであり、即座に不退転位は不可能でも、見仏と授記、灌頂(四つの灌頂)を受けることで、仏道を前へと進めていくための足掛かりは十分に調えることができるのであります。

そう考えれば、そのための引導と捉えられるのであるならば、意義は大変に大きなものとなります。

もちろん、執行する側、つまり、導師の資質も十分に問われるものとなるのは明らかであるのは言うまでもないのではありますが。

いずれにしても、浄土往生、浄土導引に向けては、引導を受ける側においても、それなりの条件(仏縁、善根、福智二資糧)は最低限必要となるのも言うまでないことであります。

できる限り今生においても仏縁、善根、福智二資糧に励んでおくことが肝要ということですね。

・・

引導だけで一切如来からの灌頂を頂けることになるのかどうか

そう、釈尊成道時直前に色究竟天にて灌頂を頂いたのは、般若智灌頂からである。

であっても、この般若智灌頂にて大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼におけるお加持を頂戴する灌頂があったかどうかはやはり確定はできない。

むしろ、それより前の過去世にて既に頂戴している可能性ももちろんある。そのヒントの一つとしては不退転となる菩薩の段階であるかもしれない。

そうなれば現前地あたりの菩薩時が妥当となる。

ならば、瓶灌頂、秘密灌頂である可能性も当然に否定はできない。

しかし、この陀羅尼により全ての如来が成仏することができたのだというほどに決定的かつ必要不可欠な陀羅尼であることが強調されてあるから、やはり成道の終局時に近いと考えることもできる。

ならば、最後有の菩薩が妥当とも言える。

まあ、とにかく主眼は、曹洞宗の引導において、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来からの灌頂を頂けることになるのかどうかであります。

誠にそうであるならば、一気に不退転の位に到達することにもなるのでしょうが、いきなり凡夫が菩薩の現前地に至れるかどうかと考えるならば、やはり現実的ではないと言わざるを得なくなります。

なぜなら、現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものの根拠が凡夫には当然にないからであります。

ましてや葬儀だけでその代替とするなど、とてもとても、

・・

「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」のお加持のお力を授かるための灌頂は何か?

これは拙見解でありますが、「般若智灌頂」であると考えます。

理由は、この陀羅尼が、仏性の覚醒を目的とする趣旨が強くあるため、仏性の覚醒、つまり、無上瑜伽タントラにおいての「光明」に関わってくる灌頂であると想定されることから、それが「般若智灌頂」であるからであります。

しかし、いずれしても、「般若智灌頂」を頂戴するには、その前段階である灌頂、更には灌頂を受けるための資格要件も満たさなければならないものとなります。

そもそも、死後、例えば葬儀の引導だけで、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)に赴き、一切如来から灌頂を賜れることが可能となるのかどうか、もちろん、灌頂だけであれば、頂戴できる可能性は高くありますが、実際に赴けるだけの機縁、機根、仏縁も具わってあるのかどうかというところも問われるものとなります。

もちろん、これは極楽往生についても言えることではありますが・・

善根少ない者はやはり当然ながら無理となるでしょう。このあたりのことついては更に考えることにします。

・・

では、釈尊が色究竟天にて灌頂を頂いた際のどの灌頂において、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」のお加持のお力を授かることになったのか?

これはなかなか難しい質問。。

無上瑜伽タントラの四灌頂のうちのどれになるのかということになるでしょう。

そして、秘密灌頂、般若智灌頂、第四灌頂のいずれかになると思われます。

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼の中枢目的を鑑みれば、ある程度の推測はできるでしょう。

分かりました。やってみましょう。

・・

・・大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼(宝楼閣真言)から曹洞宗の引導先を考える

要は、臨済宗と曹洞宗で、それぞれ葬儀儀軌・施餓鬼で引導にて中心的に読まれる陀羅尼の相違が、そのまま引導先を決定づけると言っても良いかもしれません。臨済宗は、「往生呪」であり、極楽浄土への引導が明らかとなります。

では、曹洞宗の「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」は、具体的に述べればどこになるのか。

「・・かの諸衆生、この陀羅尼(大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼)を聞くに由っての故に、常に安楽を獲りて諸地獄餓鬼畜生阿素羅道より離れ、諸悪趣門悉く皆関閉し、浄天の路を開き、かの諸衆生皆、阿耨多羅三藐三菩提心を観ず。・・」(施餓鬼作法・面山瑞方師)

「浄天の路を開き」とあるように、やはり、「天」が想定されてあるとは言えるでしょう。

では、その「天」とはどこになるのか。

おそらくは、この「天」は、曼荼羅世界、つまり、諸尊から密教灌頂を受ける世界になると推測されるものではあります。

そしてその曼荼羅世界が荘厳されてあるところということになると考えられます。

では、それはどこか。

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼は、広大宝楼閣善住秘密陀羅尼経における陀羅尼となりますが、この陀羅尼が説かれる由縁は、「牟梨曼陀羅呪経」に依るのが妥当とされます。

それによれば、釈尊が王舎城の説法集会の場において、突然現れた魔軍をこの陀羅尼により瞬時に滅したことに端を発し、請われてこの陀羅尼の由来について、まずは東方の「宝灯世界」にある「大宝賢種々善住清浄如来」のことを紹介し、この陀羅尼の力を示し、また、全ての如来もこの陀羅尼により成仏したことを説明し、そして、実際に宝灯世界に皆を連れて赴き、大宝賢種々善住清浄如来から、この陀羅尼を説くように改めて勧められ、そして、諸仏諸菩薩を招来して、更に詳しくこの陀羅尼について説くことになります。

この陀羅尼の力は、悟り・無上正等覚へ向けた不退転、つまり、悟りへ向けて退かないということ、つまり、仏道を前へと確実に進められるようになること、そして、悪罪滅除、一切如来からの灌頂と授記を受けることができるということが説明されるものとなります。

これが重要であり、この陀羅尼によって、一切如来からの灌頂を受けて「見仏と授記」を満たすということで成仏への道筋をつけるということになるのであります。

つまり、具体的に述べるとするならば、一切如来から灌頂を受ける場、「菩提(灌頂)道場」ということになります。

では一切如来とはどの如来となるのか、全ての諸尊となるのか、または五仏のことで、胎蔵・金剛のどちらの五仏になるのか、更には、五仏・五智のそれぞれの力が一体化した如来のことであるのかということであります。

あるいは、五仏・五智、諸尊が一体化した曼荼羅そのものと考えることもできます。

いずれにしても灌頂には諸尊(曼荼羅)によるお加持のお力が必要になるということから、大宝楼閣曼荼羅(世界)そのものと言えるのではないだろうかということになります。

この陀羅尼により荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と今のところは理解しておくことにします。

そして、それは天部(予想では、釈尊が悟りを開く際に[この陀羅尼の]灌頂を[も]受けたと思われる色究竟天)に荘厳されてあると考えることもできるでしょう。

ということで、拙見解として、曹洞宗の引導先は天部・色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と推察するところとなります。

・・

曹洞宗の引導先の類推

曹洞宗の甘露門について考察していく中で、曹洞宗の引導先について、甘露門・招請発願にある一節に少しそのヒントがあるように思えました。

「・・苦を離れて解脱し、天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し、菩提心を發し、菩提道を行し、當来に作佛して、永く退轉なく・・」

特に「天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し」のところであります。

曹洞宗の通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」と共に勘案して、天界に生じさせしめて、そこから色々な如来のいらっしゃる様々な浄土世界に、自分が学び修したい、自分の機根、機縁、仏縁に合ったところへと自分の意思で向かう(もちろん、天での諸尊の導きによるところとなるのでしょうが)、それも一つのところではなく、あっちの浄土に行ったり、こっちの浄土に行ったりと。

とすれば、曹洞宗が葬儀で引導する先は、あくまでも甘露門からの類推として、まずは「天」、例えば、色究竟天や忉利天、あるいは兜率天など仏の教えが、如来や菩薩方から学び修せられることのできる世界と考えるのが妥当ではないだろうかと思われます。

・・

同じ禅宗で曹洞宗の場合の引導はどうでしょうか、ということですが、曹洞宗の場合の引導は、臨済宗の「極楽浄土」とは異なります。

曹洞宗と臨済宗、葬儀においてはほとんどよく似た回向になりますが、「山頭念誦回向」の内容が決定的に違うからです。臨済宗の場合では、阿弥陀如来様の称名三回が入り、霊位の資助(往生)を阿弥陀如来様にお願いする文言が入ります。

また、引導における陀羅尼も、臨済宗の「往生呪」(抜一切業障根本得生浄土陀羅尼)は無く、曹洞宗では「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」が読まれることになります。

曹洞宗の場合では、通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」がヒントになりますが、具体的にどこへであるとは示されるものは全体的にはないかと思われます。

そういう点では見性的な側面が強くあると言えるかもしれないですね。

「通夜・葬儀の式次第・一日葬の場合はどうするのかについて」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1d1728f0b3bcd55b57db7ab4dcceb105

・・

大悲呪(大悲心陀羅尼・千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼)について

千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼という名前の通り、千手千眼観世音菩薩のお加持のお力、ご加護を頂戴するための陀羅尼となっています。

縁起としては、千光王静住如来が観音菩薩(当時の名前は不明)に対して、この陀羅尼により、未来に(濁世になった世界の)衆生たちを救うようにということで授けられたものが由来となっています。

そこで、この陀羅尼と共に、未来において、たくさんの衆生を救うことができるようにと、千光王静住如来に対して、千の手と千の眼を下さいと懇願した結果、千手千眼を備えることができるようになったとあります。

ここで想起されるのは、チベットにおいての伝記にて、観音菩薩が、救っても救っても救いきれない衆生たちの数に圧倒されて疲れてしまい、やがて衆生を救うことを諦めるような気持ちを起こしてしまった際に、かつて阿弥陀如来に対して挫折するようなことがあれば、顔は十に割れ、体は千に砕けると誓願したように、顔は十に割れ、体は千に砕けてしまわれることになります。(この砕ける直前に悔しさから涙した滴がターラ菩薩になります)

その慈悲深くある観音菩薩を憐れみられた阿弥陀如来は、より衆生を救えるようにと、バラバラになったそれぞれをつなげ十の顔と千の手とし、十一面千手観音が誕生することになります。

より衆生を救うために、この大悲呪の強力な陀羅尼の力を得て、千の眼、千の手(強力な救済力)を得ることができたことと、どこか相似するところがあります。

また、千手経における釈尊による補足において、実は、観音菩薩は既にはるか昔に如来となっており、「正法明如来」であったが、衆生を救うために化身、応身として菩薩となっているということも説明されています。

言ってみれば、それだけ観音菩薩は慈悲の強さが半端ないということなのでしょう。

また、千手経によれば、大悲呪を唱える前には、現在の観音菩薩の先生である阿弥陀如来への念仏も行うようにとの指示があります。

阿弥陀如来と観音菩薩の関係を考える上でも非常に興味深いところであります。

・・

曹洞宗の甘露門について

質問を頂きましたが、実は、臨済宗と曹洞宗では同じ「甘露門」という名前のお経であっても、その内容が全く違っているのであります。

これは典拠とした施餓鬼の作法が示されてある儀軌集・論書集が異なっているからであると推測されます。

現在曹洞宗における甘露門の内容・・

「奉請三宝・縁起衆→招請発願(施餓鬼の目的の発露)・雲集鬼神招請陀羅尼→破地獄門開咽喉陀羅尼→無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼→蒙甘露法味陀羅尼→毘盧遮那一字心水輪観陀羅尼→五如来宝号招請陀羅尼→発菩提心陀羅尼→授菩薩三摩耶戒陀羅尼→大宝楼閣善住秘密陀羅尼→諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)→(撥遣解脱陀羅尼)→普回向・略三宝」

10(11)の陀羅尼により構成されています。(臨済宗では陀羅尼が4つ)

臨済宗の7如来は、5如来に集約されています。

多宝如来・妙色身如来・甘露王如来・広博身如来・離怖畏如来

また、菩提心を起こさせて、戒律を授けるための陀羅尼もあることから、仏教へと帰依させしめる効果が鮮明化されています。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼・諸仏光明真言灌頂陀羅尼は、滅罪消除、悪趣清浄、浄土引導的陀羅尼となります。

さて、ここまで同じ名前のお経で内容に違いがあるのはなぜか、これは、臨済宗の葬儀儀軌との違いとも関連があると見ています。

臨済宗では、葬儀儀軌と同様に、開甘露門に「往生呪」があることから、施餓鬼においても、餓鬼も含めた一切衆生の阿弥陀如来の極楽浄土への引導が示唆されており、曹洞宗は、この点を避けた儀軌を(近年になり)調えた傾向がみられます。

しかし、元々の曹洞宗の葬送儀軌、施餓鬼でも阿弥陀如来の極楽浄土への往生思想的な面は立宗の早い段階(瑩山清規)からあったものの、それが近代の曹洞宗から無くなってしまった背景がどうしてであるのかは、教義面との整合性からであるのか、そこは非常に興味深いところであります。(曹洞宗の葬送儀軌でも、元々は極楽浄土への往生思想的面が強くあった。)

・・

開甘露門(施餓鬼のお経について)
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施餓鬼供養の本質について
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施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
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3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
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2021年02月25日

見仏と授記へ向けて(雑記)

見仏と授記へ向けて

もちろん、菩薩の現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものの根拠が凡夫にあれば、一切如来からの灌頂における大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼のお加持のお力により、不退転位を得ることは可能になると考えることはできます。

しかし、現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものは、通常の波羅蜜乗であれば、やはり相当な修行が必要であり、当然に時間も掛かります。(少なくとも二阿僧祇劫ほど)

もちろん、当人が過去世でそれだけの二資糧を積み終えてあれば、たやすく灌頂により不退転位を確定させることは可能であるでしょう。

では、まだとてもその二資糧に無い凡夫はどうなるのだ、ということになります。

葬儀の授戒と引導だけでは、やはりとても足らないのは明白。

それを補うための二資糧を葬儀の儀軌にて持たせることができるのかどうか・・これはやはりとても無理なことである・・

では、今世だけでその二資糧を積むことはできないのか、となれば、それはできる方法があり、それが無上瑜伽タントラの修行の実践となる。

つまり、生起次第と究竟次第となる。

また、もしも現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるぐらいの修行となれば、生起次第を終えてあることは必要不可欠となるのではないだろうかと思われる。

これなら、今世だけでも可能と言えば可能である。

もしも、曹洞宗の引導によりて、大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来からの灌頂を頂き、即座に不退転位に至りたいと思うのであれば、無上瑜伽タントラの生起次第までは確かに終えておけば、確実に至れることになるのではないだろうかと考えることはできます。

いや、そもそも生起次第を終えてある者であれば、自らの意思で行きたい浄土へと赴くことも可能となっているぐらいであり、他による引導は必要としないのではないかと言えば、もちろんそれまででもある。

まあ、とにかく灌頂は頂けても、その灌頂から実際の修行に励まなければ、とても成仏へは至れないのは確かであり、即座に不退転位は不可能でも、見仏と授記、灌頂(四つの灌頂)を受けることで、仏道を前へと進めていくための足掛かりは十分に調えることができるのであります。

そう考えれば、そのための引導と捉えられるのであるならば、意義は大変に大きなものとなります。

もちろん、執行する側、つまり、導師の資質も十分に問われるものとなるのは明らかであるのは言うまでもないのではありますが。

いずれにしても、浄土往生、浄土導引に向けては、引導を受ける側においても、それなりの条件(仏縁、善根、福智二資糧)は最低限必要となるのも言うまでないことであります。

できる限り今生においても仏縁、善根、福智二資糧に励んでおくことが肝要ということですね。

・・

引導だけで一切如来からの灌頂を頂けることになるのかどうか

そう、釈尊成道時直前に色究竟天にて灌頂を頂いたのは、般若智灌頂からである。

であっても、この般若智灌頂にて大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼におけるお加持を頂戴する灌頂があったかどうかはやはり確定はできない。

むしろ、それより前の過去世にて既に頂戴している可能性ももちろんある。そのヒントの一つとしては不退転となる菩薩の段階であるかもしれない。

そうなれば現前地あたりの菩薩時が妥当となる。

ならば、瓶灌頂、秘密灌頂である可能性も当然に否定はできない。

しかし、この陀羅尼により全ての如来が成仏することができたのだというほどに決定的かつ必要不可欠な陀羅尼であることが強調されてあるから、やはり成道の終局時に近いと考えることもできる。

ならば、最後有の菩薩が妥当とも言える。

まあ、とにかく主眼は、曹洞宗の引導において、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来からの灌頂を頂けることになるのかどうかであります。

誠にそうであるならば、一気に不退転の位に到達することにもなるのでしょうが、いきなり凡夫が菩薩の現前地に至れるかどうかと考えるならば、やはり現実的ではないと言わざるを得なくなります。

なぜなら、現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものの根拠が凡夫には当然にないからであります。

ましてや葬儀だけでその代替とするなど、とてもとても、

・・

「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」のお加持のお力を授かるための灌頂は何か?

これは拙見解でありますが、「般若智灌頂」であると考えます。

理由は、この陀羅尼が、仏性の覚醒を目的とする趣旨が強くあるため、仏性の覚醒、つまり、無上瑜伽タントラにおいての「光明」に関わってくる灌頂であると想定されることから、それが「般若智灌頂」であるからであります。

しかし、いずれしても、「般若智灌頂」を頂戴するには、その前段階である灌頂、更には灌頂を受けるための資格要件も満たさなければならないものとなります。

そもそも、死後、例えば葬儀の引導だけで、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)に赴き、一切如来から灌頂を賜れることが可能となるのかどうか、もちろん、灌頂だけであれば、頂戴できる可能性は高くありますが、実際に赴けるだけの機縁、機根、仏縁も具わってあるのかどうかというところも問われるものとなります。

もちろん、これは極楽往生についても言えることではありますが・・

善根少ない者はやはり当然ながら無理となるでしょう。このあたりのことついては更に考えることにします。

・・

では、釈尊が色究竟天にて灌頂を頂いた際のどの灌頂において、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」のお加持のお力を授かることになったのか?

これはなかなか難しい質問。。

無上瑜伽タントラの四灌頂のうちのどれになるのかということになるでしょう。

そして、秘密灌頂、般若智灌頂、第四灌頂のいずれかになると思われます。

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼の中枢目的を鑑みれば、ある程度の推測はできるでしょう。

・・

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼(宝楼閣真言)から曹洞宗の引導先を考える

要は、臨済宗と曹洞宗で、それぞれ葬儀儀軌・施餓鬼で引導にて中心的に読まれる陀羅尼の相違が、そのまま引導先を決定づけると言っても良いかもしれません。臨済宗は、「往生呪」であり、極楽浄土への引導が明らかとなります。

では、曹洞宗の「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」は、具体的に述べればどこになるのか。

「・・かの諸衆生、この陀羅尼(大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼)を聞くに由っての故に、常に安楽を獲りて諸地獄餓鬼畜生阿素羅道より離れ、諸悪趣門悉く皆関閉し、浄天の路を開き、かの諸衆生皆、阿耨多羅三藐三菩提心を観ず。・・」(施餓鬼作法・面山瑞方師)

「浄天の路を開き」とあるように、やはり、「天」が想定されてあるとは言えるでしょう。

では、その「天」とはどこになるのか。

おそらくは、この「天」は、曼荼羅世界、つまり、諸尊から密教灌頂を受ける世界になると推測されるものではあります。

そしてその曼荼羅世界が荘厳されてあるところということになると考えられます。

では、それはどこか。

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼は、広大宝楼閣善住秘密陀羅尼経における陀羅尼となりますが、この陀羅尼が説かれる由縁は、「牟梨曼陀羅呪経」に依るのが妥当とされます。

それによれば、釈尊が王舎城の説法集会の場において、突然現れた魔軍をこの陀羅尼により瞬時に滅したことに端を発し、請われてこの陀羅尼の由来について、まずは東方の「宝灯世界」にある「大宝賢種々善住清浄如来」のことを紹介し、この陀羅尼の力を示し、また、全ての如来もこの陀羅尼により成仏したことを説明し、そして、実際に宝灯世界に皆を連れて赴き、大宝賢種々善住清浄如来から、この陀羅尼を説くように改めて勧められ、そして、諸仏諸菩薩を招来して、更に詳しくこの陀羅尼について説くことになります。

この陀羅尼の力は、悟り・無上正等覚へ向けた不退転、つまり、悟りへ向けて退かないということ、つまり、仏道を前へと確実に進められるようになること、そして、悪罪滅除、一切如来からの灌頂と授記を受けることができるということが説明されるものとなります。

これが重要であり、この陀羅尼によって、一切如来からの灌頂を受けて「見仏と授記」を満たすということで成仏への道筋をつけるということになるのであります。

つまり、具体的に述べるとするならば、一切如来から灌頂を受ける場、「菩提(灌頂)道場」ということになります。

では一切如来とはどの如来となるのか、全ての諸尊となるのか、または五仏のことで、胎蔵・金剛のどちらの五仏になるのか、更には、五仏・五智のそれぞれの力が一体化した如来のことであるのかということであります。

あるいは、五仏・五智、諸尊が一体化した曼荼羅そのものと考えることもできます。

いずれにしても灌頂には諸尊(曼荼羅)によるお加持のお力が必要になるということから、大宝楼閣曼荼羅(世界)そのものと言えるのではないだろうかということになります。

この陀羅尼により荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と今のところは理解しておくことにします。

そして、それは天部(予想では、釈尊が悟りを開く際に[この陀羅尼の]灌頂を[も]受けたと思われる色究竟天)に荘厳されてあると考えることもできるでしょう。

ということで、拙見解として、曹洞宗の引導先は天部・色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と推察するところとなります。

・・

曹洞宗の引導先の類推

曹洞宗の甘露門について考察していく中で、曹洞宗の引導先について、甘露門・招請発願にある一節に少しそのヒントがあるように思えました。

「・・苦を離れて解脱し、天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し、菩提心を發し、菩提道を行し、當来に作佛して、永く退轉なく・・」

特に「天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し」のところであります。

曹洞宗の通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」と共に勘案して、天界に生じさせしめて、そこから色々な如来のいらっしゃる様々な浄土世界に、自分が学び修したい、自分の機根、機縁、仏縁に合ったところへと自分の意思で向かう(もちろん、天での諸尊の導きによるところとなるのでしょうが)、それも一つのところではなく、あっちの浄土に行ったり、こっちの浄土に行ったりと。

とすれば、曹洞宗が葬儀で引導する先は、あくまでも甘露門からの類推として、まずは「天」、例えば、色究竟天や忉利天、あるいは兜率天など仏の教えが、如来や菩薩方から学び修せられることのできる世界と考えるのが妥当ではないだろうかと思われます。

・・

同じ禅宗で曹洞宗の場合の引導はどうでしょうか、ということですが、曹洞宗の場合の引導は、臨済宗の「極楽浄土」とは異なります。

曹洞宗と臨済宗、葬儀においてはほとんどよく似た回向になりますが、「山頭念誦回向」の内容が決定的に違うからです。臨済宗の場合では、阿弥陀如来様の称名三回が入り、霊位の資助(往生)を阿弥陀如来様にお願いする文言が入ります。

また、引導における陀羅尼も、臨済宗の「往生呪」(抜一切業障根本得生浄土陀羅尼)は無く、曹洞宗では「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」が読まれることになります。

曹洞宗の場合では、通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」がヒントになりますが、具体的にどこへであるとは示されるものは全体的にはないかと思われます。

そういう点では見性的な側面が強くあると言えるかもしれないですね。

「通夜・葬儀の式次第・一日葬の場合はどうするのかについて」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1d1728f0b3bcd55b57db7ab4dcceb105

・・

大悲呪(大悲心陀羅尼・千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼)について

千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼という名前の通り、千手千眼観世音菩薩のお加持のお力、ご加護を頂戴するための陀羅尼となっています。

縁起としては、千光王静住如来が観音菩薩(当時の名前は不明)に対して、この陀羅尼により、未来に(濁世になった世界の)衆生たちを救うようにということで授けられたものが由来となっています。

そこで、この陀羅尼と共に、未来において、たくさんの衆生を救うことができるようにと、千光王静住如来に対して、千の手と千の眼を下さいと懇願した結果、千手千眼を備えることができるようになったとあります。

ここで想起されるのは、チベットにおいての伝記にて、観音菩薩が、救っても救っても救いきれない衆生たちの数に圧倒されて疲れてしまい、やがて衆生を救うことを諦めるような気持ちを起こしてしまった際に、かつて阿弥陀如来に対して挫折するようなことがあれば、顔は十に割れ、体は千に砕けると誓願したように、顔は十に割れ、体は千に砕けてしまわれることになります。(この砕ける直前に悔しさから涙した滴がターラ菩薩になります)

その慈悲深くある観音菩薩を憐れみられた阿弥陀如来は、より衆生を救えるようにと、バラバラになったそれぞれをつなげ十の顔と千の手とし、十一面千手観音が誕生することになります。

より衆生を救うために、この大悲呪の強力な陀羅尼の力を得て、千の眼、千の手(強力な救済力)を得ることができたことと、どこか相似するところがあります。

また、千手経における釈尊による補足において、実は、観音菩薩は既にはるか昔に如来となっており、「正法明如来」であったが、衆生を救うために化身、応身として菩薩となっているということも説明されています。

言ってみれば、それだけ観音菩薩は慈悲の強さが半端ないということなのでしょう。

また、千手経によれば、大悲呪を唱える前には、現在の観音菩薩の先生である阿弥陀如来への念仏も行うようにとの指示があります。

阿弥陀如来と観音菩薩の関係を考える上でも非常に興味深いところであります。

・・

曹洞宗の甘露門について

質問を頂きましたが、実は、臨済宗と曹洞宗では同じ「甘露門」という名前のお経であっても、その内容が全く違っているのであります。

これは典拠とした施餓鬼の作法が示されてある儀軌集・論書集が異なっているからであると推測されます。

現在曹洞宗における甘露門の内容・・

「奉請三宝・縁起衆→招請発願(施餓鬼の目的の発露)・雲集鬼神招請陀羅尼→破地獄門開咽喉陀羅尼→無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼→蒙甘露法味陀羅尼→毘盧遮那一字心水輪観陀羅尼→五如来宝号招請陀羅尼→発菩提心陀羅尼→授菩薩三摩耶戒陀羅尼→大宝楼閣善住秘密陀羅尼→諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)→(撥遣解脱陀羅尼)→普回向・略三宝」

10(11)の陀羅尼により構成されています。(臨済宗では陀羅尼が4つ)

臨済宗の7如来は、5如来に集約されています。

多宝如来・妙色身如来・甘露王如来・広博身如来・離怖畏如来

また、菩提心を起こさせて、戒律を授けるための陀羅尼もあることから、仏教へと帰依させしめる効果が鮮明化されています。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼・諸仏光明真言灌頂陀羅尼は、滅罪消除、悪趣清浄、浄土引導的陀羅尼となります。

さて、ここまで同じ名前のお経で内容に違いがあるのはなぜか、これは、臨済宗の葬儀儀軌との違いとも関連があると見ています。

臨済宗では、葬儀儀軌と同様に、開甘露門に「往生呪」があることから、施餓鬼においても、餓鬼も含めた一切衆生の阿弥陀如来の極楽浄土への引導が示唆されており、曹洞宗は、この点を避けた儀軌を(近年になり)調えた傾向がみられます。

しかし、元々の曹洞宗の葬送儀軌、施餓鬼でも阿弥陀如来の極楽浄土への往生思想的な面は立宗の早い段階(瑩山清規)からあったものの、それが近代の曹洞宗から無くなってしまった背景がどうしてであるのかは、教義面との整合性からであるのか、そこは非常に興味深いところであります。(曹洞宗の葬送儀軌でも、元々は極楽浄土への往生思想的面が強くあった。)

・・

開甘露門(施餓鬼のお経について)
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/34b4c7f4598a50c7cd091030d62eed6c


施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html

施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html

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2021年02月23日

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼(宝楼閣真言)から曹洞宗の引導先を考える(雑記)

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼(宝楼閣真言)から曹洞宗の引導先を考える(雑記)

要は、臨済宗と曹洞宗で、それぞれ葬儀儀軌・施餓鬼で引導にて中心的に読まれる陀羅尼の相違が、そのまま引導先を決定づけると言っても良いかもしれません。臨済宗は、「往生呪」であり、極楽浄土への引導が明らかとなります。

では、曹洞宗の「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」は、具体的に述べればどこになるのか。

「・・かの諸衆生、この陀羅尼(大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼)を聞くに由っての故に、常に安楽を獲りて諸地獄餓鬼畜生阿素羅道より離れ、諸悪趣門悉く皆関閉し、浄天の路を開き、かの諸衆生皆、阿耨多羅三藐三菩提心を観ず。・・」(施餓鬼作法・面山瑞方師)

「浄天の路を開き」とあるように、やはり、「天」が想定されてあるとは言えるでしょう。

では、その「天」とはどこになるのか。

おそらくは、この「天」は、曼荼羅世界、つまり、諸尊から密教灌頂を受ける世界になると推測されるものではあります。

そしてその曼荼羅世界が荘厳されてあるところということになると考えられます。

では、それはどこか。

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼は、広大宝楼閣善住秘密陀羅尼経における陀羅尼となりますが、この陀羅尼が説かれる由縁は、「牟梨曼陀羅呪経」に依るのが妥当とされます。

それによれば、釈尊が王舎城の説法集会の場において、突然現れた魔軍をこの陀羅尼により瞬時に滅したことに端を発し、請われてこの陀羅尼の由来について、まずは東方の「宝灯世界」にある「大宝賢種々善住清浄如来」のことを紹介し、この陀羅尼の力を示し、また、全ての如来もこの陀羅尼により成仏したことを説明し、そして、実際に宝灯世界に皆を連れて赴き、大宝賢種々善住清浄如来から、この陀羅尼を説くように改めて勧められ、そして、諸仏諸菩薩を招来して、更に詳しくこの陀羅尼について説くことになります。

この陀羅尼の力は、悟り・無上正等覚へ向けた不退転、つまり、悟りへ向けて退かないということ、つまり、仏道を前へと確実に進められるようになること、そして、悪罪滅除、一切如来からの灌頂と授記を受けることができるということが説明されるものとなります。

これが重要であり、この陀羅尼によって、一切如来からの灌頂を受けて「見仏と授記」を満たすということで成仏への道筋をつけるということになるのであります。

つまり、具体的に述べるとするならば、一切如来から灌頂を受ける場、「菩提(灌頂)道場」ということになります。

では一切如来とはどの如来となるのか、全ての諸尊となるのか、または五仏のことで、胎蔵・金剛のどちらの五仏になるのか、更には、五仏・五智のそれぞれの力が一体化した如来のことであるのかということであります。

あるいは、五仏・五智、諸尊が一体化した曼荼羅そのものと考えることもできます。

いずれにしても灌頂には諸尊(曼荼羅)によるお加持のお力が必要になるということから、大宝楼閣曼荼羅(世界)そのものと言えるのではないだろうかということになります。

この陀羅尼により荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と今のところは理解しておくことにします。

そして、それは天部(予想では、釈尊が悟りを開く際に[この陀羅尼の]灌頂を[も]受けたと思われる色究竟天)に荘厳されてあると考えることもできるでしょう。

ということで、拙見解として、曹洞宗の引導先は天部・色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と推察するところとなります。

・・

曹洞宗の引導先の類推

曹洞宗の甘露門について考察していく中で、曹洞宗の引導先について、甘露門・招請発願にある一節に少しそのヒントがあるように思えました。

「・・苦を離れて解脱し、天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し、菩提心を發し、菩提道を行し、當来に作佛して、永く退轉なく・・」

特に「天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し」のところであります。

曹洞宗の通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」と共に勘案して、天界に生じさせしめて、そこから色々な如来のいらっしゃる様々な浄土世界に、自分が学び修したい、自分の機根、機縁、仏縁に合ったところへと自分の意思で向かう(もちろん、天での諸尊の導きによるところとなるのでしょうが)、それも一つのところではなく、あっちの浄土に行ったり、こっちの浄土に行ったりと。

とすれば、曹洞宗が葬儀で引導する先は、あくまでも甘露門からの類推として、まずは「天」、例えば、色究竟天や忉利天、あるいは兜率天など仏の教えが、如来や菩薩方から学び修せられることのできる世界と考えるのが妥当ではないだろうかと思われます。

・・

同じ禅宗で曹洞宗の場合の引導はどうでしょうか、ということですが、曹洞宗の場合の引導は、臨済宗の「極楽浄土」とは異なります。

曹洞宗と臨済宗、葬儀においてはほとんどよく似た回向になりますが、「山頭念誦回向」の内容が決定的に違うからです。臨済宗の場合では、阿弥陀如来様の称名三回が入り、霊位の資助(往生)を阿弥陀如来様にお願いする文言が入ります。

また、引導における陀羅尼も、臨済宗の「往生呪」(抜一切業障根本得生浄土陀羅尼)は無く、曹洞宗では「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」が読まれることになります。

曹洞宗の場合では、通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」がヒントになりますが、具体的にどこへであるとは示されるものは全体的にはないかと思われます。

そういう点では見性的な側面が強くあると言えるかもしれないですね。

「通夜・葬儀の式次第・一日葬の場合はどうするのかについて」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1d1728f0b3bcd55b57db7ab4dcceb105

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大悲呪(大悲心陀羅尼・千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼)について

千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼という名前の通り、千手千眼観世音菩薩のお加持のお力、ご加護を頂戴するための陀羅尼となっています。

縁起としては、千光王静住如来が観音菩薩(当時の名前は不明)に対して、この陀羅尼により、未来に(濁世になった世界の)衆生たちを救うようにということで授けられたものが由来となっています。

そこで、この陀羅尼と共に、未来において、たくさんの衆生を救うことができるようにと、千光王静住如来に対して、千の手と千の眼を下さいと懇願した結果、千手千眼を備えることができるようになったとあります。

ここで想起されるのは、チベットにおいての伝記にて、観音菩薩が、救っても救っても救いきれない衆生たちの数に圧倒されて疲れてしまい、やがて衆生を救うことを諦めるような気持ちを起こしてしまった際に、かつて阿弥陀如来に対して挫折するようなことがあれば、顔は十に割れ、体は千に砕けると誓願したように、顔は十に割れ、体は千に砕けてしまわれることになります。(この砕ける直前に悔しさから涙した滴がターラ菩薩になります)

その慈悲深くある観音菩薩を憐れみられた阿弥陀如来は、より衆生を救えるようにと、バラバラになったそれぞれをつなげ十の顔と千の手とし、十一面千手観音が誕生することになります。

より衆生を救うために、この大悲呪の強力な陀羅尼の力を得て、千の眼、千の手(強力な救済力)を得ることができたことと、どこか相似するところがあります。

また、千手経における釈尊による補足において、実は、観音菩薩は既にはるか昔に如来となっており、「正法明如来」であったが、衆生を救うために化身、応身として菩薩となっているということも説明されています。

言ってみれば、それだけ観音菩薩は慈悲の強さが半端ないということなのでしょう。

また、千手経によれば、大悲呪を唱える前には、現在の観音菩薩の先生である阿弥陀如来への念仏も行うようにとの指示があります。

阿弥陀如来と観音菩薩の関係を考える上でも非常に興味深いところであります。

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曹洞宗の甘露門について

質問を頂きましたが、実は、臨済宗と曹洞宗では同じ「甘露門」という名前のお経であっても、その内容が全く違っているのであります。

これは典拠とした施餓鬼の作法が示されてある儀軌集・論書集が異なっているからであると推測されます。

現在曹洞宗における甘露門の内容・・

「奉請三宝・縁起衆→招請発願(施餓鬼の目的の発露)・雲集鬼神招請陀羅尼→破地獄門開咽喉陀羅尼→無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼→蒙甘露法味陀羅尼→毘盧遮那一字心水輪観陀羅尼→五如来宝号招請陀羅尼→発菩提心陀羅尼→授菩薩三摩耶戒陀羅尼→大宝楼閣善住秘密陀羅尼→諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)→(撥遣解脱陀羅尼)→普回向・略三宝」

10(11)の陀羅尼により構成されています。(臨済宗では陀羅尼が4つ)

臨済宗の7如来は、5如来に集約されています。

多宝如来・妙色身如来・甘露王如来・広博身如来・離怖畏如来

また、菩提心を起こさせて、戒律を授けるための陀羅尼もあることから、仏教へと帰依させしめる効果が鮮明化されています。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼・諸仏光明真言灌頂陀羅尼は、滅罪消除、悪趣清浄、浄土引導的陀羅尼となります。

さて、ここまで同じ名前のお経で内容に違いがあるのはなぜか、これは、臨済宗の葬儀儀軌との違いとも関連があると見ています。

臨済宗では、葬儀儀軌と同様に、開甘露門に「往生呪」があることから、施餓鬼においても、餓鬼も含めた一切衆生の阿弥陀如来の極楽浄土への引導が示唆されており、曹洞宗は、この点を避けた儀軌を(近年になり)調えた傾向がみられます。

しかし、元々の曹洞宗の葬送儀軌、施餓鬼でも阿弥陀如来の極楽浄土への往生思想的な面は立宗の早い段階(瑩山清規)からあったものの、それが近代の曹洞宗から無くなってしまった背景がどうしてであるのかは、教義面との整合性からであるのか、そこは非常に興味深いところであります。(曹洞宗の葬送儀軌でも、元々は極楽浄土への往生思想的面が強くあった。)

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開甘露門(施餓鬼のお経について)

施餓鬼供養で読むお経、「開甘露門」(かいかんろもん)について解説させて頂きます。

このお経の特徴は、陀羅尼・真言、偈頌、回向がいくつか集まっており、他のお経にはあまりないユニークなものになっています。

お経全文(参照・臨済宗勤行聖典・第2巻)



お経の構成



そこで、ここではその各構成の内容について詳しく説明して参りたいと存じます。

全14構成

1 題目 

お経の名前。甘露の門を開くというのは、餓鬼たちへと美味しい食べ物、飲み物を施すために、その細くなった食道を広げてあげる(門を開く)という意味合いと、仏教の有り難い教えを示して、仏の道の門を開くという意味合いの両方がかけられている。

2 破地獄偈(はじごくげ) 

もしも、三世、過去・現在・未来の三千仏における一切の仏の教えを確かに知りたいと思うのであれば、この法界(全世界・無数の三千大千世界)の本質・性質は、全て心が造り出したものであることを観じなければならない。唯識的な捉え方もできるが、輪廻(迷い苦しみ)、悟りの因縁(原因と条件)は全て自らの心次第になってくるということである。要は、業・カルマ(行いの集まり)によるところであり、心・業のありようが、今のありようと共に、次の輪廻のありようも決めてゆくのである。また、さらに深い意味合いでは「空と縁起」という本質についても想起されてくるところではある。この偈が「破地獄」、地獄を破るという名前がついてあるのも、仏の教えにより、自分の心のありようを正しく清らかに調えて、業をより善いものに調えていけば、地獄など悪趣(悪い世界)へと陥らないようになるという意味からであると考えることができる。

3 三宝帰依(さんぽうきえ) 

十方(全ての方位浄土にある)の仏に帰依いたします。十方の仏の教えに帰依いたします。十方の仏の教えを歩む僧に帰依いたします。娑婆世界だけではなく、あらゆる世界、浄土における仏・法・僧に向けたものとなる。

4 縁起衆(えんぎしゅう) 

この開甘露門(施餓鬼)の儀軌を調えられた各尊師に対しての帰依を表します。もちろん、まずは仏教を開かれ、この施餓鬼の供養法をお示し下さった仏教の根本上師であるお釈迦様への帰依。次に、観音菩薩様への帰依。そして、阿羅漢であり、施餓鬼の供養を勤める端緒となった阿難尊者に対しての帰依となります。ここで観音菩薩様が登場なさられてあるのは、救いの力、あるいは功徳・回向の力として観音菩薩様のお力を頂戴することになるからであると推測できます。そのため、施餓鬼法要(山門大施餓鬼法会)においては、般若心経、大悲呪(大悲心陀羅尼・千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼)、観音経、あるいは世尊偈など観音菩薩関係のお経が読誦されるのも、ある意味うなづけるところとなる。

5 焔口(えんく)陀羅尼(だらに) 

一切の如来と観音菩薩への帰命と、焔口という餓鬼たちへの救いへ向けた陀羅尼となる。

6 施甘露水(せかんろすい)陀羅尼 

あしゅく如来(妙色身如来)への帰命と、甘露水、飲み物に喘いで苦しんでいる餓鬼たちへの水の施しと共に、仏の教えを与えるための陀羅尼となる。

7 施乳海(せにゅうかい)陀羅尼

全ての諸仏への帰命と共に、有り難い仏の教えの海へと誘う陀羅尼。乳海は、乳粥であるとも言えます。餓鬼たちもいきなり固形物は食べれないと思われるため、喉を通る乳粥を海の如くたくさん餓鬼たちに与えるという意味合いと、海の如く広く深い仏の教えを与えるという両方の意味合いがかけられてあるのでしょう。

8 七如来 

宝勝如来(多宝如来の別称)への帰依、多宝如来(法華経の宝塔に住む如来)への帰依、妙色身如来(あしゅく如来)への帰依、広博身如来(大日如来)への帰依、離怖畏如来(釈迦如来)への帰依、甘露王如来(阿弥陀如来)への帰依、さらに、阿弥陀如来への帰依となります。宝勝如来=多宝如来、甘露王如来=阿弥陀如来となるため、本来は五如来となる。それぞれ仏教を衆生に教化なさられておられる代表的な如来方への帰依を表す。五如来ではあるが、密教における五つの智慧を司る五智如来(金剛界五仏)や胎蔵界五仏などとは少し異なっている。

9 往生呪(おうじょうじゅ) 

阿弥陀如来への帰依と共に、阿弥陀如来とそのお加持のお力を讃え、極楽往生への誘いへ向けた陀羅尼。阿弥陀如来様のお加持のお力を賜り、仏の道(浄土への道)へと向かわさせしめるための陀羅尼と言える。

10 浄食加持偈(じょうじきかじげ) 

漢文でそのまま口語訳可能。

開甘露門のこれらの陀羅尼の力によって、お供えされた清らかな飲食物を、仏のお加持の力にて全ての苦しむ一切の鬼神、餓鬼たちに対していきわたるように万倍、億倍にして施し、それをもって皆がお腹がいっぱいになって、まずは飲食できずに苦しんでいた者たちが救われ、そして、仏の教えによりて、ケチな心、物惜しみする心を捨てさせて、つまり、餓鬼や地獄などの悪趣輪廻に苦しむ原因となる煩悩を捨てさせて、何とかこの悪趣から逃れて、仏の教えを学び実践できる善い世界(浄土)へと生まれて、三宝に帰依し、菩提心を起こして、やがて悟りへと至れますように、そして、この功徳が、未来に尽きることなく、あらゆる世界の衆生たちにもいきわたり、皆が悟りへ至るための法(仏法)を共に味わえますように(法食)。

11 四句回向・散飯偈 

これも漢文でそのまま口語訳可能。

鬼神・餓鬼たちよ、今、汝等にこの飲食のお供え(と仏の教え)を施そう。この飲食(と仏の教え)は、十方に遍くいきわたり、全ての鬼神・餓鬼たちがこの飲食(と仏の教え)を共に与えられることになるであろう。

12 八句回向・修行祈願偈 

これも漢文でそのまま口語訳可能。

この施餓鬼というお勤めを修することによる善い功徳を、恩恵ある父母(先祖)に感謝、報恩して向ければ(回向すれば)、父母(先祖)が生きているならば、福、楽を得られて、寿命も延びるであろう。父母(先祖)が亡くなっているのであれば、苦しみの輪廻を離れられる安養、安楽な浄土へと生まれることができるであろう。また、四つの恩ある者たち(国王・先生・同士等)から、欲界・色界・無色界の三界の全ての有情たち、あるいは、地獄、餓鬼、畜生の三つの悪い世界の者たちや仏の教えを学び修することが難しい者たちに至るまで、全ての衆生も、共に、その瑕疵、過ちである罪業を懺悔し洗い流して、尽く輪廻から離れさせしめて、浄土へと生じることができることであろう。

ここに施餓鬼供養が先祖供養にもなる一つのヒントがあります。また、存命中の父母に対しての利益があることも述べられてあります。いずれにしても、功徳を一切の衆生、皆の悟りへと向けて回向するということになります。

13 四句回向・結願回向 

普回向になります。

この功徳をもって、遍く一切の衆生に及ぼして、私たちも皆も共に仏の道を成就して悟りへと至れますように。

14 略三宝 

十方の三世の一切の尊き偉大なる諸仏、諸菩薩、諸師方、大いなる最高の悟りの智慧のご加護を得られますように。

以上が開甘露門の全内容となります。

コンパクトながら施餓鬼供養法がここに一つまとめられてあるお経と言えるでしょう。

施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html

施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html

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開甘露門からの色々な考察について(雑記)

曹洞宗の引導先の類推

曹洞宗の甘露門について考察していく中で、曹洞宗の引導先について、甘露門・招請発願にある一節に少しそのヒントがあるように思えました。

「・・苦を離れて解脱し、天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し、菩提心を發し、菩提道を行し、當来に作佛して、永く退轉なく・・」

特に「天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し」のところであります。

曹洞宗の通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」と共に勘案して、天界に生じさせしめて、そこから色々な如来のいらっしゃる様々な浄土世界に、自分が学び修したい、自分の機根、機縁、仏縁に合ったところへと自分の意思で向かう(もちろん、天での諸尊の導きによるところとなるのでしょうが)、それも一つのところではなく、あっちの浄土に行ったり、こっちの浄土に行ったりと。

とすれば、曹洞宗が葬儀で引導する先は、あくまでも甘露門からの類推として、まずは「天」、例えば、色究竟天や忉利天、あるいは兜率天など仏の教えが、如来や菩薩方から学び修せられることのできる世界と考えるのが妥当ではないだろうかと思われます。

・・

同じ禅宗で曹洞宗の場合の引導はどうでしょうか、ということですが、曹洞宗の場合の引導は、臨済宗の「極楽浄土」とは異なります。

曹洞宗と臨済宗、葬儀においてはほとんどよく似た回向になりますが、「山頭念誦回向」の内容が決定的に違うからです。臨済宗の場合では、阿弥陀如来様の称名三回が入り、霊位の資助(往生)を阿弥陀如来様にお願いする文言が入ります。

また、引導における陀羅尼も、臨済宗の「往生呪」(抜一切業障根本得生浄土陀羅尼)は無く、曹洞宗では「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」が読まれることになります。

曹洞宗の場合では、通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」がヒントになりますが、具体的にどこへであるとは示されるものは全体的にはないかと思われます。

そういう点では見性的な側面が強くあると言えるかもしれないですね。

「通夜・葬儀の式次第・一日葬の場合はどうするのかについて」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1d1728f0b3bcd55b57db7ab4dcceb105

・・

大悲呪(大悲心陀羅尼・千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼)について

千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼という名前の通り、千手千眼観世音菩薩のお加持のお力、ご加護を頂戴するための陀羅尼となっています。

縁起としては、千光王静住如来が観音菩薩(当時の名前は不明)に対して、この陀羅尼により、未来に(濁世になった世界の)衆生たちを救うようにということで授けられたものが由来となっています。

そこで、この陀羅尼と共に、未来において、たくさんの衆生を救うことができるようにと、千光王静住如来に対して、千の手と千の眼を下さいと懇願した結果、千手千眼を備えることができるようになったとあります。

ここで想起されるのは、チベットにおいての伝記にて、観音菩薩が、救っても救っても救いきれない衆生たちの数に圧倒されて疲れてしまい、やがて衆生を救うことを諦めるような気持ちを起こしてしまった際に、かつて阿弥陀如来に対して挫折するようなことがあれば、顔は十に割れ、体は千に砕けると誓願したように、顔は十に割れ、体は千に砕けてしまわれることになります。(この砕ける直前に悔しさから涙した滴がターラ菩薩になります)

その慈悲深くある観音菩薩を憐れみられた阿弥陀如来は、より衆生を救えるようにと、バラバラになったそれぞれをつなげ十の顔と千の手とし、十一面千手観音が誕生することになります。

より衆生を救うために、この大悲呪の強力な陀羅尼の力を得て、千の眼、千の手(強力な救済力)を得ることができたことと、どこか相似するところがあります。

また、千手経における釈尊による補足において、実は、観音菩薩は既にはるか昔に如来となっており、「正法明如来」であったが、衆生を救うために化身、応身として菩薩となっているということも説明されています。

言ってみれば、それだけ観音菩薩は慈悲の強さが半端ないということなのでしょう。

また、千手経によれば、大悲呪を唱える前には、現在の観音菩薩の先生である阿弥陀如来への念仏も行うようにとの指示があります。

阿弥陀如来と観音菩薩の関係を考える上でも非常に興味深いところであります。

・・

・・曹洞宗の甘露門について

質問を頂きましたが、実は、臨済宗と曹洞宗では同じ「甘露門」という名前のお経であっても、その内容が全く違っているのであります。

これは典拠とした施餓鬼の作法が示されてある儀軌集・論書集が異なっているからであると推測されます。

現在曹洞宗における甘露門の内容・・

「奉請三宝・縁起衆→招請発願(施餓鬼の目的の発露)・雲集鬼神招請陀羅尼→破地獄門開咽喉陀羅尼→無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼→蒙甘露法味陀羅尼→毘盧遮那一字心水輪観陀羅尼→五如来宝号招請陀羅尼→発菩提心陀羅尼→授菩薩三摩耶戒陀羅尼→大宝楼閣善住秘密陀羅尼→諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)→(撥遣解脱陀羅尼)→普回向・略三宝」

10(11)の陀羅尼により構成されています。(臨済宗では陀羅尼が4つ)

臨済宗の7如来は、5如来に集約されています。

多宝如来・妙色身如来・甘露王如来・広博身如来・離怖畏如来

また、菩提心を起こさせて、戒律を授けるための陀羅尼もあることから、仏教へと帰依させしめる効果が鮮明化されています。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼・諸仏光明真言灌頂陀羅尼は、滅罪消除、悪趣清浄、浄土引導的陀羅尼となります。

さて、ここまで同じ名前のお経で内容に違いがあるのはなぜか、これは、臨済宗の葬儀儀軌との違いとも関連があると見ています。

臨済宗では、葬儀儀軌と同様に、開甘露門に「往生呪」があることから、施餓鬼においても、餓鬼も含めた一切衆生の阿弥陀如来の極楽浄土への引導が示唆されており、曹洞宗は、この点を避けた儀軌を(近年になり)調えた傾向がみられます。

しかし、元々の曹洞宗の葬送儀軌、施餓鬼でも阿弥陀如来の極楽浄土への往生思想的な面は立宗の早い段階(瑩山清規)からあったものの、それが近代の曹洞宗から無くなってしまった背景がどうしてであるのかは、教義面との整合性からであるのか、そこは非常に興味深いところであります。(曹洞宗の葬送儀軌でも、元々は極楽浄土への往生思想的面が強くあった。)

・・

開甘露門(施餓鬼のお経について)

施餓鬼供養で読むお経、「開甘露門」(かいかんろもん)について解説させて頂きます。

このお経の特徴は、陀羅尼・真言、偈頌、回向がいくつか集まっており、他のお経にはあまりないユニークなものになっています。

お経全文(参照・臨済宗勤行聖典・第2巻)



お経の構成



そこで、ここではその各構成の内容について詳しく説明して参りたいと存じます。

全14構成

1 題目 

お経の名前。甘露の門を開くというのは、餓鬼たちへと美味しい食べ物、飲み物を施すために、その細くなった食道を広げてあげる(門を開く)という意味合いと、仏教の有り難い教えを示して、仏の道の門を開くという意味合いの両方がかけられている。

2 破地獄偈(はじごくげ) 

もしも、三世、過去・現在・未来の三千仏における一切の仏の教えを確かに知りたいと思うのであれば、この法界(全世界・無数の三千大千世界)の本質・性質は、全て心が造り出したものであることを観じなければならない。唯識的な捉え方もできるが、輪廻(迷い苦しみ)、悟りの因縁(原因と条件)は全て自らの心次第になってくるということである。要は、業・カルマ(行いの集まり)によるところであり、心・業のありようが、今のありようと共に、次の輪廻のありようも決めてゆくのである。また、さらに深い意味合いでは「空と縁起」という本質についても想起されてくるところではある。この偈が「破地獄」、地獄を破るという名前がついてあるのも、仏の教えにより、自分の心のありようを正しく清らかに調えて、業をより善いものに調えていけば、地獄など悪趣(悪い世界)へと陥らないようになるという意味からであると考えることができる。

3 三宝帰依(さんぽうきえ) 

十方(全ての方位浄土にある)の仏に帰依いたします。十方の仏の教えに帰依いたします。十方の仏の教えを歩む僧に帰依いたします。娑婆世界だけではなく、あらゆる世界、浄土における仏・法・僧に向けたものとなる。

4 縁起衆(えんぎしゅう) 

この開甘露門(施餓鬼)の儀軌を調えられた各尊師に対しての帰依を表します。もちろん、まずは仏教を開かれ、この施餓鬼の供養法をお示し下さった仏教の根本上師であるお釈迦様への帰依。次に、観音菩薩様への帰依。そして、阿羅漢であり、施餓鬼の供養を勤める端緒となった阿難尊者に対しての帰依となります。ここで観音菩薩様が登場なさられてあるのは、救いの力、あるいは功徳・回向の力として観音菩薩様のお力を頂戴することになるからであると推測できます。そのため、施餓鬼法要(山門大施餓鬼法会)においては、般若心経、大悲呪(大悲心陀羅尼・千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼)、観音経、あるいは世尊偈など観音菩薩関係のお経が読誦されるのも、ある意味うなづけるところとなる。

5 焔口(えんく)陀羅尼(だらに) 

一切の如来と観音菩薩への帰命と、焔口という餓鬼たちへの救いへ向けた陀羅尼となる。

6 施甘露水(せかんろすい)陀羅尼 

あしゅく如来(妙色身如来)への帰命と、甘露水、飲み物に喘いで苦しんでいる餓鬼たちへの水の施しと共に、仏の教えを与えるための陀羅尼となる。

7 施乳海(せにゅうかい)陀羅尼

全ての諸仏への帰命と共に、有り難い仏の教えの海へと誘う陀羅尼。乳海は、乳粥であるとも言えます。餓鬼たちもいきなり固形物は食べれないと思われるため、喉を通る乳粥を海の如くたくさん餓鬼たちに与えるという意味合いと、海の如く広く深い仏の教えを与えるという両方の意味合いがかけられてあるのでしょう。

8 七如来 

宝勝如来(多宝如来の別称)への帰依、多宝如来(法華経の宝塔に住む如来)への帰依、妙色身如来(あしゅく如来)への帰依、広博身如来(大日如来)への帰依、離怖畏如来(釈迦如来)への帰依、甘露王如来(阿弥陀如来)への帰依、さらに、阿弥陀如来への帰依となります。宝勝如来=多宝如来、甘露王如来=阿弥陀如来となるため、本来は五如来となる。それぞれ仏教を衆生に教化なさられておられる代表的な如来方への帰依を表す。五如来ではあるが、密教における五つの智慧を司る五智如来(金剛界五仏)や胎蔵界五仏などとは少し異なっている。

9 往生呪(おうじょうじゅ) 

阿弥陀如来への帰依と共に、阿弥陀如来とそのお加持のお力を讃え、極楽往生への誘いへ向けた陀羅尼。阿弥陀如来様のお加持のお力を賜り、仏の道(浄土への道)へと向かわさせしめるための陀羅尼と言える。

10 浄食加持偈(じょうじきかじげ) 

漢文でそのまま口語訳可能。

開甘露門のこれらの陀羅尼の力によって、お供えされた清らかな飲食物を、仏のお加持の力にて全ての苦しむ一切の鬼神、餓鬼たちに対していきわたるように万倍、億倍にして施し、それをもって皆がお腹がいっぱいになって、まずは飲食できずに苦しんでいた者たちが救われ、そして、仏の教えによりて、ケチな心、物惜しみする心を捨てさせて、つまり、餓鬼や地獄などの悪趣輪廻に苦しむ原因となる煩悩を捨てさせて、何とかこの悪趣から逃れて、仏の教えを学び実践できる善い世界(浄土)へと生まれて、三宝に帰依し、菩提心を起こして、やがて悟りへと至れますように、そして、この功徳が、未来に尽きることなく、あらゆる世界の衆生たちにもいきわたり、皆が悟りへ至るための法(仏法)を共に味わえますように(法食)。

11 四句回向・散飯偈 

これも漢文でそのまま口語訳可能。

鬼神・餓鬼たちよ、今、汝等にこの飲食のお供え(と仏の教え)を施そう。この飲食(と仏の教え)は、十方に遍くいきわたり、全ての鬼神・餓鬼たちがこの飲食(と仏の教え)を共に与えられることになるであろう。

12 八句回向・修行祈願偈 

これも漢文でそのまま口語訳可能。

この施餓鬼というお勤めを修することによる善い功徳を、恩恵ある父母(先祖)に感謝、報恩して向ければ(回向すれば)、父母(先祖)が生きているならば、福、楽を得られて、寿命も延びるであろう。父母(先祖)が亡くなっているのであれば、苦しみの輪廻を離れられる安養、安楽な浄土へと生まれることができるであろう。また、四つの恩ある者たち(国王・先生・同士等)から、欲界・色界・無色界の三界の全ての有情たち、あるいは、地獄、餓鬼、畜生の三つの悪い世界の者たちや仏の教えを学び修することが難しい者たちに至るまで、全ての衆生も、共に、その瑕疵、過ちである罪業を懺悔し洗い流して、尽く輪廻から離れさせしめて、浄土へと生じることができることであろう。

ここに施餓鬼供養が先祖供養にもなる一つのヒントがあります。また、存命中の父母に対しての利益があることも述べられてあります。いずれにしても、功徳を一切の衆生、皆の悟りへと向けて回向するということになります。

13 四句回向・結願回向 

普回向になります。

この功徳をもって、遍く一切の衆生に及ぼして、私たちも皆も共に仏の道を成就して悟りへと至れますように。

14 略三宝 

十方の三世の一切の尊き偉大なる諸仏、諸菩薩、諸師方、大いなる最高の悟りの智慧のご加護を得られますように。

以上が開甘露門の全内容となります。

コンパクトながら施餓鬼供養法がここに一つまとめられてあるお経と言えるでしょう。

施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html

施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html

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2017年02月02日

「ひがし大阪もの知りカルタ」

「ひがし大阪もの知りカルタ」



もっとこの町のことを子どもさんに知ってもらおうと「ひがし大阪もの知りカルタ」を、市内でカウンセリング活動をされている市民団体「はぐくみネット」さんが監修されて作られ、その中で、拙寺のことも二枚、有り難いことに取り上げて頂いておりました。



絵札は市内小学生の作で、応募500作品から45枚を選ばれたようです。それぞれ絵に味があって良いですね。解説書もあり、カルタで学びながら楽しめそうです。







既に初版1000部は市内の小学校へと寄贈、活用されているようです。

往生院六萬寺サイト
http://oujyouin.com/

oujyouin_blog at 13:40|Permalink

2016年11月20日

花梨(かりん)寺務所前配布

寺務所前にて、境内で採れました花梨(かりん)をお配りしています。





今年も大豊作でした。かなり大きなのも。



どうぞ自由にお持ち帰り頂きまして、かりん酒漬けなどにご活用下さい。

車に置いておくだけで芳香剤代わりにもなりますよ。。

oujyouin_blog at 12:43|Permalink

2014年06月29日

超宗派系リスト

副住職(川口英俊)が、日本仏教における超宗派に関して考察をしておりまして、参考までにリスト化を進めさせて頂いたところ、かなり良いものとなりました ので、下記のように記させて頂いております。どうぞご参照くださいませ。拙生もこれから更に超宗派の活動につきまして努力して参りたいと存じております。 また、超宗派の取り組みにつきまして、ご参照を賜りまして、何らかの形にて各ご支援、ご協力を賜われましたら有り難くに存じます。どうか宜しくお願い申し 上げます。

勝義方便メモNo.9 超宗派系一覧、分類整理・再提示(2014.6.29時点)
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52166846.html
下記にも現時点での一覧を記してございます。

当初、超宗派についての参考までとして、ここまで充実させようとは思っていませんでしたが、改めてまとめてみますと、良いリストとなりました。

皆様、ご協力頂きまして、誠にありがとうございます。まだもし追加・修正等がございましたら、どうか宜しくお願い申し上げます。

このリストの内で、拙生の超宗派活動への参加と致しまして、

会員としてですが、下記の4つに参加させて頂いております。

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

NGO・国境なき僧侶団
https://www.facebook.com/pages/国境なき僧侶団/578961352183094

スーパーサンガ(宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会)
http://www.supersamgha.jp/

フリースタイルな僧侶たち
http://www.freemonk.net/

あとこれからでは、二つほどへの参加も検討させて頂いておりますが、現時点において対外活動は、全て私費によるところであり、なかなか厳しいという感じもございます。

本当なら仏教関連の会費や交通費などの活動費をお寺から出してもらいたいところもありますが、遠慮をしておりまして、全て自腹を切っているだけに、正直、これ以上はしんどいところもございます・・

この中では、「Hasunoha」は現時点にて会員登録が無料ですのでお勧めです。(任意で協賛会員制度もございます。)

「NGO・国境なき僧侶団」も会費年一口3千円と比較的協力しやすいのではないかと存じます。

「スーパーサンガ」、「フリースタイルな僧侶たち」も会費年一口5千円からと協力しやすいのではないかと存じます。

是非、参加・協力をご検討下さいませ。

・・

あと、余談ながら、現在、会員とならせて頂いておりますのが、MMBA・文殊師利大乗仏教会さん http://www.mmba.jp/ と日本テーラワーダ仏教協会さん http://www.j-theravada.net/ でございます。こちらの会費も私費で補っております。そして、会費以外にお出しさせて頂く各支援協賛金・寄付金等も私費にて補っております・・正直、きつ いところがあり、拙生が、なぜ、各対外的な活動での懇親会や飲み会に全く行けていないのかと申しますと、その余裕(お金)が無いためというところで、申し 訳ない次第にて、どうかご理解を賜りたくに存じております・・川口英俊拜

・・

勝義方便メモNo.9
http://togetter.com/li/681727

現在、勝義方便メモ・ツイート随時展開中。

https://twitter.com/hide1125

超宗派系一覧、改めて分類も致しまして、まとめさせて頂きました。

また、追記・訂正等がございましたら、どうか宜しくお願い申し上げます。

【超宗派系・団体】

[全国的組織]

公益財団法人・全日本仏教会 各都道府県市町村仏教会
http://www.jbf.ne.jp/

全日本仏教青年会・世界仏教徒青年連盟(WFBY)日本センター
http://www.jyba.ne.jp/

公益財団法人・全国青少年教化協議会
http://www.zenseikyo.or.jp/

公益財団法人・仏教伝道協会
http://www.bdk.or.jp/

公益財団法人・国際仏教興隆協会
http://www.ibba.jp/

一般社団法人・仏教情報センター
http://bukkyo-joho.com/

公益財団法人・日本仏教保育協会
http://www.buppo.com/

一般社団法人・在家仏教協会
http://www.zaikebukkyo.com/

公益財団法人・全日本仏教婦人連盟
http://jbwf.jp/


[交流系・学術系]

BBA(ボーズ・ビー・アンビシャス)
http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/bouzbeframe.html

仏教国際交流会(サンギーティの会)
https://www.facebook.com/pages/仏教国際交流会サンギーティの会/228798330571217

一般社団法人・お寺の未来・未来の住職塾
http://www.oteranomirai.or.jp/

結縁企画
http://www.kechien.jp/

一般財団法人・東京大学仏教青年会
http://todaibussei.or.jp/

東洋大学仏教青年会
http://www.toyo-ymba.org/

早稲田大学仏教青年会
https://www.facebook.com/wasebutsu

一般財団法人・九州大学仏教青年会
http://homepage1.nifty.com/cura/bussei/

公益財団法人・中村元東方研究所
http://www.toho.or.jp/

東京国際仏教塾
http://www.tibs.jp/


[NGO系・国際活動]

NGO・国境なき僧侶団
https://www.facebook.com/pages/国境なき僧侶団/578961352183094

スーパーサンガ(宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会)
http://www.supersamgha.jp/

NGO・四方僧伽
http://catuddisa-sangha.org/

仏教NGOネットワーク
http://www.bnn.ne.jp/

NPO法人・アユース仏教国際協力ネットワーク
http://ngo-ayus.jp/


[国内・社会活動・NPO系]

南無の会
http://homepage3.nifty.com/namunokai/

宗教者災害支援連絡会
https://sites.google.com/site/syuenrenindex/

宗教者災害救援ネットワーク
https://www.facebook.com/FBNERJ

自死・自殺に向き合う僧侶の会
http://www.bouzsanga.org/

自死に向きあう関西僧侶の会
http://www.inochinohi-kansai.com/

自死に向きあう広島僧侶の会
http://www3.hp-ez.com/hp/inochi-no-hi/page1

いのちに向き合う宗教者の会
http://inochi.in/

寺ネット・サンガ
http://teranetsamgha.com/

フリースタイルな僧侶たち
http://www.freemonk.net/

一般社団法人・メッター
http://metta.or.jp/

寺子屋ブッダ
http://www.tera-buddha.net/

傾聴僧の会
http://keichosou.houjuji.net/

いのち臨床仏教者の会
http://www.acls.gr.jp/

「Hasunoha」お坊さんがこたえるQ&Aサービス
http://hasunoha.jp/

INEB(International Network of Engaged Buddhists)
http://jneb.jp/

KTSK(傾聴に取り組む宗教者の会)
http://ktskktsk.jugem.jp/
https://www.facebook.com/KtskQingTingniQuriZumuZongJiaoZhenoHui

東北大学文学研究科実践宗教学寄附講座・臨床宗教師会
http://www.sal.tohoku.ac.jp/p-religion/top.html
https://www.facebook.com/pages/臨床宗教師会/343217972493361


[イベント系]

向源
http://kohgen.org/

メリシャカ!
http://www.merry-shaka.com/

諸行無常ズ
https://www.facebook.com/shogyomujoz

宿坊研究会
http://syukubo.com/


【超宗派系・無宗派系 単立寺院・宗教法人】

善光寺
http://www.zenkoji.jp/

日泰寺
http://www.nittaiji.jp/kakuouzan/

應典院
http://www.outenin.com/

虚空山彼岸寺
http://www.higan.net/

大法輪寺
http://daihourin.com/

みんなの寺
http://www.mintera.info/

正現寺
http://iede.cc/s/

福祉寺
http://www7.ocn.ne.jp/~fukusiji/

信隆寺
http://www.shinryuji.jp/

地蔵院
http://www.kitamuki-jizou.com/

玉龍寺
http://www.gyokuryuji.com/

心山寺
http://shinzanji.com/

誓教寺
http://www.seikyoji.jp/

活禅寺
http://www2u.biglobe.ne.jp/~katsuzen/

壹之寺
http://tera.saloon.jp/

一法庵
http://www.onedhamma.com/

仏心寺
http://busshinji.in/
https://www.facebook.com/busshinji

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2014年06月09日

往生院六萬寺 雑記

よもやま話・雑記も随時に追記して参ります。

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