配布資料・しおり・施本など

2026年03月23日

岩瀧山磐座・日想観法要・彼岸配布資料・法話内容「仏教・神道・キリスト教の救済論についての比較検討」

施餓鬼法要にご参列できなかった方のために法話内容を動画で撮り、YouTubeで公開させて頂きました。

彼岸中日の日の出、日の入の様子、配布資料についても言及しております。ご参考下さいませ。

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岩瀧山磐座・日想観法要・彼岸配布資料・法話内容「仏教・神道・キリスト教の救済論についての比較検討」2026年3月23日
https://youtu.be/M1TAxI_Xbwk?si=4zblKkViF8UHL43K

「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について(令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料)

仏教のお話・法話のアーカイブはこちら↓


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2026年02月14日

「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について(令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料)

令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料
 

【往生院六萬寺の歴史】「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について
 
近年、往生院六萬寺の歴史について再調査研究していく中で、色々な新しい発見がありました。その一つに、お寺の山号である「岩瀧山」(いわたきさん)の山頂には、複数群の「磐座」(いわくら)があり、その東の背後にある三間石山(夫婦岩)とともに、古代祭祀の遺跡であることが分かってきました。

その創祀は、今から2185年ほど前、紀元前160年頃に、出雲王国・出雲族の移動に伴うものであったことが考えられます。

紀元前165年頃 出雲王国・二王枯死事件(2190年前)
紀元前160年頃 生駒山地(三間石山・岩瀧山等)磐座の創祀(2185年前)
紀元前155年頃 金剛山・二上山・葛城山磐座の創祀(2180年前)
紀元前150年頃 三輪山・ダンノダイラ磐座の創祀(2175年前)

紀元前165年頃に、出雲王国の主王(大国主)と副王(事代主)が同時に幽閉されて亡くなるという大事件があり、それを受けて、当時の主王と副王の子どもたちが、出雲族を率いて出雲の国(現在の島根県)を離れて、新天地を目指し、「出雲→丹波→摂津→河内→大和」へと移動していく中、河内に留まった際に、生駒山地に祖神、先祖を祀る磐座を、複数ヵ所にて造営したものの一つが、岩瀧山磐座と考えられます。

特に、この岩瀧山・三間石山の磐座は、春分・秋分の日(彼岸中日)に太陽が大阪湾へと沈む、その真東に位置しており、極めて重要な磐座であったと考えられます。古代の出雲族にとっては、彼岸の中日が現在のお正月に当たるため、彼岸中日は、特に重要な日として、先祖への感謝と供養の大祭が行われていました。この風習が、彼岸における先祖供養として現在でも続いているのであります。

 



また、平安時代、安助(あんじょ)上人により、河内・往生院が創建(1040年頃)されますが、その理由も、彼岸中日に夕陽が沈む真東に当たるからでありました。
安助上人は、「當天王寺之東門、定知極樂東門之中心也、加以西天迎晴夕日可觀」(拾遺往生伝)として、「日想観」(じっそうかん)による極楽誓願を行うのに最も適したところであるとして、この地を選ばれたのであります。

生駒山の磐座としては、夏至の日に太陽が沈む真東の饒速日山(にぎはやひやま)・磐座、冬至の日に太陽が沈む真東の天川神社跡・磐座とともに、岩瀧山は、彼岸中日に太陽が沈む真東の磐座として、古代出雲族にとっての一番大事なところであったことが窺えます。

当地は、まさに先祖の供養を行う上での「稀有なる聖地」であると言えます。

また、この磐座遺跡とともに、今まで謎だらけであった河内・六萬寺の歴史についても、ようやくに解明が進んでいくことになりました。

745年、聖武天皇の勅願により、行基上人の開基にて河内「六萬寺」は創建されます。この創建の理由も、供養を行う上での「稀有なる聖地」であったためということが分かってきました。

天平の疫病大流行(735-737年)によって亡くなった者たちへの供養とともに、この疫病の原因は、「西ノ山古墳」(八尾市楽音寺)の被葬者による「祟り」であるとして、聖武天皇の勅命により、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)、弓削道鏡禅師、行基上人の三名が中心となっての大規模な供養(と結界)が営まれ、その重要な一つのお寺として、六萬寺が創建されたと考えられるのであります。

 



中心となって主宰したのが、弓削道鏡禅師と考えられ、各三種の神器を社名に冠する神社と、各神社の神宮寺を結ぶことで、西ノ山古墳の被葬者へ向けての強力な供養と結界を営んだと考えられるのであります。六萬寺も含めて、いくつかの寺院、神社が、この頃に創建されたのではないかと考えられます。

 



では、天平の疫病の祟りの原因とされ、このように大規模な供養と結界が行われることになった「西ノ山古墳」の被葬者とはいったい誰であるか・・

あくまでも現時点までの調査研究における推定ですが、西ノ山古墳は、「天皇の陵墓」であり、それも歴代の天皇には名前の無い天皇であるのではないだろうかと考えています。

応神天皇の次の天皇として即位された宇治天皇は、クーデターにより殺され、更に、次に天皇に即位した宇治天皇の異母兄弟である隼別天皇も同じくクーデターにより殺されていることは、日本書紀や古事記において、それとなく暗喩されていると思われるエピソードはあるものの、秘密にされて、隠された歴史になっていると考えられるのであります。

いずれにしても、仁徳天皇の八田皇后(宇治天皇の妹)が、兄である宇治天皇と隼別天皇を、仁徳天皇没後に、それぞれの母の実家の地であるところ、宇治天皇をヒシアゲ古墳(和邇氏の勢力地)に、隼別天皇を西ノ山古墳(桜井田部連氏の勢力地・河内郡桜井郷)に、手厚く改葬されてあることが、出雲伝承(出雲口伝)からも推定されるものとなります。

特に、天平の疫病は、隼別天皇による祟りであるとして、当時の朝廷の認識(二人の天皇が殺されていることをまだ知る者があった)、あるいは神祇官による占いの結果や、神託・託宣があった可能性もあり、この憂いから、聖武天皇の勅命により営まれたのが、この供養と結界なのではないかと考えることができます。

この供養と結界の重要な一角を担う寺院として、行基上人により、この聖地に「六萬寺」が創建されたと考えられるのであります。

引き続き、六萬寺の歴史の解明とともに、西ノ山古墳・隼別天皇陵説についての研究も更に進めていければと考えています。

YouTubeで、「ミニ法話シリーズ」とともに、「歴史再考シリーズ」として動画で解説をしています。    

 


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2025年08月16日

「法話 墓じまいについて 令和7年お盆施餓鬼法要における法話内容 映画国宝ロケに関連して 岩瀧山往生院六萬寺」第76回 仏教ミニ法話 2025年8月16日

期間中に法要にご参列ができなかった皆様のためにお盆施餓鬼法要での法話の内容を動画にしてアップさせて頂いております。

最近、「墓じまい」のお話が多くあるだけに、やはり皆さんご関心が高く、いつもよりご熱心にお聴き下さいました。ご参考下さいませ。

「法話 墓じまいについて 令和7年お盆施餓鬼法要における法話内容 映画国宝ロケに関連して 岩瀧山往生院六萬寺」第76回 仏教ミニ法話 2025年8月16日

https://youtu.be/Mxijd8La2Is?feature=shared


「墓じまい考」令和7年8月お盆施餓鬼法要・配布資料



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映画「国宝」 これまでのロケ地・往生院六萬寺における関連記事まとめ一覧
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/95514786.html

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往生院六萬寺
http://oujyouin.com/




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2025年08月04日

このお盆施餓鬼法要の法話用フリップ

お盆の法話にて使うフリップを作成いたしました。

今回の法話の概要をご覧頂けます。

毎回、お盆期間の5日間で150回以上、同じ話をすることになります。

15分×150回、2250分、37時間。

もう、27年間ほど、春彼岸1週間とお盆5日間の年2回の法話が、この形式となります。

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お施餓鬼供養、お待ち申し上げます。合掌

お盆施餓鬼法要

8/11~8/15 午前8時~午後4時(最終日は午後3時まで)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/95587921.html

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お盆の配布資料になります。法話にて補足予定です。

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令和7年8月お盆施餓鬼法要 配布資料

「墓じまい考」

映画「国宝」・墓石(セット)開眼式・祈願式のことから墓じまいについて考える

当寺が、映画「国宝」のロケ地となり、喜久雄(吉沢亮さん)・半二郎(渡辺謙さん)・幸子(寺島しのぶさん)のお墓参りのシーンが撮影されました。どのようなシーンであるのかは、是非、映画をご覧下さいませ。
撮影の前日(令和6年3月28日)には、実際に墓石(セット・木製・一代大名墓・五輪塔・霊標)と戒名(初代・花井白虎)の開眼・入魂式をお勤めし、美術制作スタッフの皆さんご参列の下、映画の完成と大ヒットを祈願させて頂きました。(また、撮影にあたっては、撮影前に当山全御仏方並びに全御墓所全御霊位への読経ご供養をお勤めさせて頂いております。)
昨今では、「墓じまい」の流行により、墓石建立開眼式よりも、墓石閉眼式の方が多くなっている中で、久しぶりに開眼式のお勤めをさせて頂きました。
「墓じまい」(あるいは、仏壇じまい)については、「祭祀継承者が絶えてしまう」など、どうしてもやむを得ない、仕方のない理由によることも当然にあるため、一概に「墓じまい」全てが悪い、反対であるというわけではありませんが、「墓じまい」をなさる中には、祭祀継承者がまだいらっしゃるにもかかわらずに、「墓じまい」をされる場合があるのをお見受けすることも、結構ございます。
この場合、元々の建立者が「墓じまい」をなさることは無く、建立者でない方がなさることが、ほとんどになっています。
このため、墓石建立や仏壇の開眼に際しての、建立者である施主・功徳主の方の大事な想い、または、祈願の想いも無視されてしまうことが、往々にしてあるのが、お墓に携わる者としては、寂しいと感じることがあります。
映画「国宝」の墓石開眼式・祈願式の際の回向では、開眼の趣旨に合わせて、祈願を「映画「国宝」撮影制作の円満並びに大ヒット上映」とさせて頂いていますが、通常、本来の開眼回向(宗旨宗派によって異なります)においては、以下のように「祈願文」が元々に含まれてあります。
回向中の祈願文言・・
「伏して願わくば、仏日輝きを増し、法輪は常に転じ、万民は和楽に、国土は正平せんことを。更に冀わくば、家門鎮静、災障侵さず、吉祥は駢集し、一切の願望は皆悉く円成し、内魔外魔、都て悩乱無く、現世安穏、後世善処ならんことを」
「伏して願わくば、天眼遥かに観て、金光恒に照し、通顕霊応、万古に亘って恒然、福寿康寧、十方と与に不替ならんことを。次に冀わくば、家門鎮静、中外咸く安く、道念増長、諸縁吉慶、法界の有情と、同じく種智を円かにせんことを」
「伏して願わくば、劫石は消ゆべきとも滅授は益々振い、心業燦発して仏果円成し、法界の衆生と同じく覚路に登らんことを」
洒水(しゃすい)文言・・
「爾今以後、この新石(牌・霊屋)を体として安住し供養を受け、速成就仏身し、子孫を擁護せられんことを」
このように、特に、仏安座開眼においては、仏教の力にて、「万民和楽」・「国土正平」という国家レベル・世界レベルでの皆の幸せまでも祈願され、「家門鎮静、災障侵さず、吉祥は駢集(へんじゅう)し、一切の願望は皆悉く円成し、内魔外魔、都て悩乱無く、現世安穏、後世善処ならんことを」として、仏安座開眼の功徳による家門の息災、安泰と繁栄、家族皆の現世での安穏と死後の浄土往生(悟りへの道の歩み)を祈願しているのであります。
石仏や五輪塔、宝篋印塔の開眼でも、これは仏壇開眼と同様の回向となります。
洒水では、等しくに、「速成就仏身」とあるように、先祖・亡者が速く悟りを得て仏となって、仏法によって、私たち子孫を導き、擁護下さるようにとの祈願が入るのであります。
実は、墓石や仏壇には、建立者・施主の方の色々な先祖や家族、子孫へ向けての大切なそれぞれの想いはもちろん、仏教的にも上記のような祈願の内容もあって建てられてあるということについて、「墓じまい」(仏壇じまい)をなさろうと思われる際においては、少しだけでも立ち止まって考えて頂ければ有り難いと思うのであります。
もちろん、どうしてもやむを得ない、仕方がないということもありますので、一概に見直してほしいというわけではありませんので、このことは、悪しからずにご了承下さいませ。
ご先祖さまのご供養のあり方についてお考え頂く一助となりましたら幸いに存じます。合掌
・・

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映画「国宝」について、ロケの際での秘話やこもれ話につきましては、以下にてまとめてございます。ロケ地となるまでの経過やロケ当日の様子なども。
映画「国宝」 これまでのロケ地・往生院六萬寺における関連記事まとめ一覧


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2025年08月03日

「墓じまい考」令和7年8月お盆施餓鬼法要・配布資料

お盆の配布資料になります。法話にて補足予定です。
お盆施餓鬼法要

8/11~8/15 午前8時~午後4時(最終日は午後3時まで)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/95587921.html

お待ち申し上げます。合掌

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令和7年8月お盆施餓鬼法要 配布資料

「墓じまい考」

映画「国宝」・墓石(セット)開眼式・祈願式のことから墓じまいについて考える

当寺が、映画「国宝」のロケ地となり、喜久雄(吉沢亮さん)・半二郎(渡辺謙さん)・幸子(寺島しのぶさん)のお墓参りのシーンが撮影されました。どのようなシーンであるのかは、是非、映画をご覧下さいませ。
撮影の前日(令和6年3月28日)には、実際に墓石(セット・木製・一代大名墓・五輪塔・霊標)と戒名(初代・花井白虎)の開眼・入魂式をお勤めし、美術制作スタッフの皆さんご参列の下、映画の完成と大ヒットを祈願させて頂きました。(また、撮影にあたっては、撮影前に当山全御仏方並びに全御墓所全御霊位への読経ご供養をお勤めさせて頂いております。)
昨今では、「墓じまい」の流行により、墓石建立開眼式よりも、墓石閉眼式の方が多くなっている中で、久しぶりに開眼式のお勤めをさせて頂きました。
「墓じまい」(あるいは、仏壇じまい)については、「祭祀継承者が絶えてしまう」など、どうしてもやむを得ない、仕方のない理由によることも当然にあるため、一概に「墓じまい」全てが悪い、反対であるというわけではありませんが、「墓じまい」をなさる中には、祭祀継承者がまだいらっしゃるにもかかわらずに、「墓じまい」をされる場合があるのをお見受けすることも、結構ございます。
この場合、元々の建立者が「墓じまい」をなさることは無く、建立者でない方がなさることが、ほとんどになっています。
このため、墓石建立や仏壇の開眼に際しての、建立者である施主・功徳主の方の大事な想い、または、祈願の想いも無視されてしまうことが、往々にしてあるのが、お墓に携わる者としては、寂しいと感じることがあります。
映画「国宝」の墓石開眼式・祈願式の際の回向では、開眼の趣旨に合わせて、祈願を「映画「国宝」撮影制作の円満並びに大ヒット上映」とさせて頂いていますが、通常、本来の開眼回向(宗旨宗派によって異なります)においては、以下のように「祈願文」が元々に含まれてあります。
回向中の祈願文言・・
「伏して願わくば、仏日輝きを増し、法輪は常に転じ、万民は和楽に、国土は正平せんことを。更に冀わくば、家門鎮静、災障侵さず、吉祥は駢集し、一切の願望は皆悉く円成し、内魔外魔、都て悩乱無く、現世安穏、後世善処ならんことを」
「伏して願わくば、天眼遥かに観て、金光恒に照し、通顕霊応、万古に亘って恒然、福寿康寧、十方と与に不替ならんことを。次に冀わくば、家門鎮静、中外咸く安く、道念増長、諸縁吉慶、法界の有情と、同じく種智を円かにせんことを」
「伏して願わくば、劫石は消ゆべきとも滅授は益々振い、心業燦発して仏果円成し、法界の衆生と同じく覚路に登らんことを」
洒水(しゃすい)文言・・
「爾今以後、この新石(牌・霊屋)を体として安住し供養を受け、速成就仏身し、子孫を擁護せられんことを」
このように、特に、仏安座開眼においては、仏教の力にて、「万民和楽」・「国土正平」という国家レベル・世界レベルでの皆の幸せまでも祈願され、「家門鎮静、災障侵さず、吉祥は駢集(へんじゅう)し、一切の願望は皆悉く円成し、内魔外魔、都て悩乱無く、現世安穏、後世善処ならんことを」として、仏安座開眼の功徳による家門の息災、安泰と繁栄、家族皆の現世での安穏と死後の浄土往生(悟りへの道の歩み)を祈願しているのであります。
石仏や五輪塔、宝篋印塔の開眼でも、これは仏壇開眼と同様の回向となります。
洒水では、等しくに、「速成就仏身」とあるように、先祖・亡者が速く悟りを得て仏となって、仏法によって、私たち子孫を導き、擁護下さるようにとの祈願が入るのであります。
実は、墓石や仏壇には、建立者・施主の方の色々な先祖や家族、子孫へ向けての大切なそれぞれの想いはもちろん、仏教的にも上記のような祈願の内容もあって建てられてあるということについて、「墓じまい」(仏壇じまい)をなさろうと思われる際においては、少しだけでも立ち止まって考えて頂ければ有り難いと思うのであります。
もちろん、どうしてもやむを得ない、仕方がないということもありますので、一概に見直してほしいというわけではありませんので、このことは、悪しからずにご了承下さいませ。
ご先祖さまのご供養のあり方についてお考え頂く一助となりましたら幸いに存じます。合掌
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映画「国宝」について、ロケの際での秘話やこもれ話につきましては、以下にてまとめてございます。ロケ地となるまでの経過やロケ当日の様子なども。
映画「国宝」 これまでのロケ地・往生院六萬寺における関連記事まとめ一覧


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2024年03月07日

「往生・引導・灌頂について」令和6年3月・春彼岸施餓鬼法要 配布資料

岩瀧山 往生院六萬寺  令和6年3月・春彼岸施餓鬼法要 配布資料

「往生・引導・灌頂について」

最近、個人的に、西本願寺・本願寺派の「新しい領解文(りょうげもん)」問題について考察することが多くあったことから、従来より進めていた浄土真宗の教義についての考究がよりいっそうに進むとともに、日本における初期の浄土教、平安時代の往生院における日想観(じっそうかん)を中心とした浄土思想、他、法然聖人が開宗なさられた浄土宗なども含めて、展開されていく浄土門の教えにも、それぞれで違った多様な思想や背景があることを知ることができました。

特に、親鸞聖人の思想となる浄土真宗は、他の浄土門の教えともやや異なり、特殊な教理体系にあることが理解できるようになりました。

ただ、今回は、浄土真宗の教義、思想についてではなく、基本的な浄土門における往生へのあり方と、他、聖道門や密教における、往生と同様の目的となる「引導」や「灌頂」のあり方についても検討することで、私たちが悟り・涅槃・成仏へと至るためのその過程について、その中でも、特に現代社会において、その過程の重要な役割を担うことになる「葬儀」の内容からも、少し考察して参りたいと思います。

基本的に、浄土門の教えとは、極楽往生を目指すものであり、往生により、阿弥陀仏との見仏、阿弥陀仏からの授記(じゅき)を頂くことで、浄土での修習によって、やがては悟りに至れる(成仏できる)ように調えるためのものと考えています。

浄土往生 → 見仏・授記 → 菩提道次第修習 → 福智二資糧完成 → 悟り

このようにして、涅槃・成仏へと至るための過程の一つを「往生」と考えるわけであります。

特に、現代においては、葬儀が、悟りへと向けて、浄土へと導き、往生させしめて、如来との見仏、如来からの授記を頂くことを目指し、その者の修道次第、進捗をより良くに調えるためとして行われるものとなります。

より詳しくまとめると、

葬儀・引導(往生) → 浄土往生 → 見仏・授記 → 修道・菩提道次第 → 智慧・福徳二資糧完成 → 悟り・涅槃・成仏 となり、

まず、聖道門にしても、浄土門にしても、浄土への引導、往生においては、当然にある一定、同じような条件が必要であると考えられ、無条件にて、何らの因縁もなしに成り立つものではあり得ないものとなります。

また、「引導 → 浄土 → 見仏・授記」を、現世、今生生身にて行うことができる場合もあります。それが密教における「灌頂(かんじょう)」となります。

「灌頂」は、灌頂の導師である大阿闍利(あじゃり)が、本尊となる如来と一体化する(如来の代理となる)ことで、灌頂曼荼羅(まんだら)道場を浄土と化して、見仏・授記を実現させることになるのであります。

このため、密教においては、今世今生で修道を進める進捗、スピードを、浄土にて赴いて行うのと同じように速めることができるとするわけです。

もちろん、その分、そのための条件は、より厳しいものとなりますが、基本的には、引導・往生と同様になるものがベースとしてあると考えることができます。

現代における各葬儀の次第内容を鑑みると、主には、「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」、これらが少なくとも、引導、往生、灌頂においての必要条件であると考えることができます。

ただ、ここで気になるのは、悟りへと向けて、最も大切な要素となる般若の智、つまり、空性を悟る智慧については、引導、往生、灌頂の条件とならないのか、ということであります。

拙見解となりますが、引導と往生においては、もちろん、無常や縁起、空については、多少なりとも理解を促すことがあるものの、その智慧の境地については、特に条件として求められているものではないと思われるのであります。

それは、諸仏の教えとしての七仏通誡偈においても、「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい)」と、「悪い行いをなさずに、善い行いに努め励んで、自らでその心(業)を浄らかにすること」が基本として述べられてあるように、とにかく、善行、功徳に努めることの重要性が述べられてあることからも窺えるわけであります。

ですから、まずは帰依して、正式な仏の弟子となって、戒を守り、善行、功徳に励み、その上で、確かなる見仏と授記によって、智慧の修習へと取り組み、悟りへと向かうように調えるという流れが見えてくると考えるのであります。

六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践も、布施・持戒・忍辱・精進と、まず、善行、功徳に励むことが先となり、その次に、禅定・智慧と繋げることが重要になると考えることができます。

もちろん、全てをバランス良くに、並行して進めることが大切にはなりますが、これはただ単に布施から六つを羅列して述べられてあるわけではなく、やはり、実践の順番として述べられてあると考えることになるのであります。

当然に、現世、今生においても、禅定、智慧の修習について取り組むことはできますが、釈尊ご入滅以降、この娑婆世界では、密教は別として、直接に私たち凡夫であっても相まみえること(見仏)ができて、ご指導(授記)を頂ける(応身の)如来が不在となってしまっているため、少なくとも、弥勒(みろく)仏の下生までは、他の浄土へと赴くことでの確かとなる修習を促される意味で、釈尊は色々な浄土、如来をご紹介なさられたわけであります。(また、善行、功徳の実践を優先させるのは、特に、娑婆世界は、私たちが功徳を積むのに最適な条件の整っている恵まれた世界であるということにも関係していると思われます。)

少し話を戻して、智慧の修習に関して、往生や引導と異なり、密教ではやや違った扱いとなります。

釈尊は、如来の中でも、特に希有特別な如来であり、密教をお説きになられる功徳を有されておいででありました。そのため、今世今生でも見仏と授記を可能とされる密教の教え、灌頂についてもご教示なさられることがおできになられたわけであります。

その灌頂では、引導・往生とは異なって、ある一定の智慧の境地、空性の理解を必要とする条件をお示しになられています。

ですから、灌頂においては、空性の解説がその前行法話の大半を占めることになり、その理解を受者は条件として必要とするのであります。

また、灌頂の導師となり、空性の解説を行う大阿闍利の条件も、相当な智慧の境地を有してある者でなければならないとするわけであります。(例えば、チベット密教においては、本尊瑜伽(ほんぞんゆが)は当然として、無上瑜伽タントラにおける生起次第(しょうきしだい)の修行は完全にマスターして終えてあるほどの境地が必要とされています。)

ここで話を「浄土門」に戻して、阿弥陀如来の浄土である極楽へと往生を目指すのであれば、上記の基本的な条件「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」と共に、「称名(しょうみょう)念仏」を必要とすることとなります。

阿弥陀仏の本願 → 名号・称名・念仏 ← 衆生・凡夫

阿弥陀仏の皆を平等に救うとお垂れになられた慈悲の現れとして、その救いの利益・功徳を有する「名号」は、衆生、凡夫を浄土へと掬い取らせる(摂取)、往生させる「はたらき」であり、その「はたらき」を衆生、凡夫が、称名・念仏により頂き賜うことを、その往生としての条件にお加えになられているのであります。

では、聖道門のことを自力行、浄土門を他力行と分類する場合、その両者の違いはどのようなものになるのかと言えば、聖道門の自力行に比べると、往生、引導の作用が、浄土門においては、阿弥陀仏の名号における利益・功徳の力が大きく作用することになるため、称名念仏以外の条件が、聖道門と比べると、それなりに少なくて済むものになると考えることができるわけであります。

そのため、聖道門の勧める自力的な難行苦行を行うことはなく、簡単に、誰もが行い、実践しやすいものとして、阿弥陀仏の本願のお力へとおまかせしていくあり方としての「称名念仏」が勧められるわけですが、「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」が必要ではないのかとなれば、そうではなく、あくまでも聖道門よりかは、それらの条件の力がそれなりに少なくて済むということで、この点には注意が必要であると考えています。

ただ、現代では、聖道門の自力行も、従来のように直接に悟り・涅槃・成仏へと向けたものとしてではなく、引導、往生のために調えるということが、特に凡夫、在家者においての主な実践になっていると言えるでしょう。いや、僧侶においても、残念ながらそれが言いえるところになってしまっているのが現実であります。

まあ、要は、自力行にせよ、他力行にせよ、それが、自分自身の悟り・涅槃・成仏へ向けてのものとしてであれば、難行道、易行道としての区別のあるものとなるでしょうが、往生、引導としては、その区別はなく、往生、引導へと向けた条件としては、当然にそれぞれにおいて必要となるものがあると考えるのが妥当となるわけであります。

とにかく、浄土門においては、極楽浄土に赴いて、阿弥陀如来の報身、応身、変化身、また、そのそれぞれの対応する浄土地のいずれへと往生するにしても、悟りへと向けては、見仏と授記により、修道を確かに進めるためとして、その大切な一つの過程として「往生」を捉えることが肝要になると思うのであります。

つまり、娑婆や輪廻世界では、「難行道」として修行が難しいとするものも、浄土では、仏の直接のご指導の下において、よりそれぞれに応じた修行によって進みやすくできるということで、「易行道」になるとの意味合いで、難行、易行を区別、分類するわけであります。

いずれにしても、それぞれにおける仏縁、功徳など、師僧、導師も含めて色々な縁や力の助けも得ていくことで、往生、引導、灌頂が成り立ち、悟りへの道を歩むことができるようになるのであります。

確かなる悟り・涅槃・成仏へと向けて、それぞれが自分自身における一大事の事業として(自灯明)、仏法の教えを拠りどころとして(法灯明)、往生、引導、灌頂についても留意しておくことが大切であると考えます。

合掌

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2023年07月26日

「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺

令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

 

 

岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

「 焼香の意義について 」

現代における仏教の供養、祭祀儀礼において、実際に自らの行為として行うものとなると、その一番の代表として、「焼香」を挙げることができます。

昔は、共に読経をしたり、お遍路のような講巡り、写経の納経等、後生や故人・先祖への追善のためとして、実際に、様々な仏事、供養、功徳に取り組むことが多くあったものの、今では、そのほとんどが成されることが少なくなりつつあり、焼香(線香)のお供えが、主となって残っているのが現実的なあり方となっています。

特に、葬儀においては、喪家、会葬者共に実際に、自らの行為として具体的に行う主な供養も、焼香となっている次第であります。また、寺院の御本尊へのお参りやお墓へのお参り、お仏壇での供養においても、焼香(線香)、または灯明のお供えがその主なものとなっています。

では、実際に「焼香」の供養とは何か、と聞かれても、あまり理解している方も少ないのではないかと思い、今回、私見も交えながら、いくつかその由来について考えてみたいと思います。

一、場と自分の清め

おおよそ、世間一般、仏教一般としての「焼香」の用例としては、まず「清め」ということのためとなります。どうして焼香で清めとするのかということは、仏教の始まりとなるお釈迦様の時代に、その由来が遡ることになります。

お釈迦様の時代のインドは、当然に日本よりか南に位置しているところ(緯度的に主に活動された王舎城付近は台湾のあたりとなりますでしょうか)にありますから、気候は高温多湿であり、そのような中での生活では、様々な「臭い」もある程度、きつくあったことが想像できます。

そのような中、説法会においては、大勢の人が集まって、お釈迦様の説法を聴くことになります。当然に、人もひしめき合い、色々な「臭い」が更にきつくなるわけです。わざわざ精舎からお出まし頂いて、尊い法をお説き下さるお釈迦様には大変に失礼なことになると考えるわけです。

そこで、その場のきつい「臭い」を和らげて、心地よい香りにて、お迎えし、説法を有り難く頂戴するということで、良い香りを焚き、その場を「清める」ものとして、ある意味で、尊い、高貴な方を迎える作法、習慣として「焼香」が始まったと言えるのであります。

そして、良い香りは、人の心を落ち着かせるという、ある種のアロマテラピー的な効果もあります。普段の煩雑な生活の中で、乱れてある心を落ち着かせて、有り難く尊い教えを頂く前に、煩悩を鎮める「心の清め」としても大切なことになったと考えることができます。

以上のように、神聖となる場の清めと、清らかで尊い教えを頂くための自分の清めとして、「焼香」が習慣化していく中で、定着した供養になったのだと思われるのであります。

また、やがては、香を焚き始めるだけで、お釈迦様がそれを神通力にてお知りになられて、お迎えも来ない早々の内にお出かけになられるようになります。そのことから、焼香すると、お釈迦様にご来迎頂けるということで、如来をお迎えする、現代では、如来の教えである仏法をお迎えするというために、法要の際、読経の前にて、まず焼香を行うということになったのだと考えられます。

ですから、通夜や葬儀、法事においては、まず導師は、三拝しての焼香から作法に入ることになるのでもあります。

二、香食(こうじき)

次に、香食のために行う場合を挙げることができます。

香食とは、そのままで、「香を食べる」ということですが、誰が食べるためかと言うと、亡くなられた方の、次の世界へと生まれるまでの間の存在となります。

人は、亡くなって、肉体の機能を失うと、次の輪廻、次の生まれへと向かう意識が肉体から離れることになります(しばらくは肉体に留まることもあります)。

それは、微細な輪廻を繋ぐ意識となりますが、その意識は普段の意識、肉体に左右されるような意識とは異なっており、死と次の生を繋ぐ意識と考えると良いかとは思います。少し、私たちの概念としてある魂、霊魂とは違うのですが、まあ、似たようなものではあります。

そして、その微細な輪廻を繋ぐ意識も、実は身体を持ちます。意成身、意生身と言われるものです。その身体も7日ごとに死を迎えるとされる不安定なものですが、肉体のように目に見えるものではなく、ある種、影のようなもので、普通、私たちが捉えられるようなものではありません。それは私たちが霊、幽霊と言っているものとは、やや異なるのではありますが、おおよそ似ているとは思います。

その意成身、意生身の状態において食べれるものが、霞(かすみ)、烟(けむり)、香となるのであります。その中で、やはり美味しいものが、良い香木を燃やしての香りである「焼香」となるのであります。


意成身、意生身は、非常に不安定な存在です。その意識も大抵の場合は混乱、混濁して不安定なものとなります。この意識下において、しっかりとその先への悟り、成仏へと向かう仏道が照らされてある功徳、智慧が、今世、過去世で集積されてあるならば、自ずと次の仏道、極楽などの浄土へと安定して向かうものとなりますが、そうでなければ、やはり、不安定な状態としての中有(ちゅうう)、中陰(ちゅういん)となるのであります。

この中有・中陰の状態は、どんなに長くても49日間が最長となります。早ければ、死後すぐにでも次の往生へと向かう場合も、もちろんあります。この中有・中陰においての意成身、意生身の意識・心を安定させて、次の往生へと向けて、落ち着いて向かって頂くために、その餞として召し上がってもらうために行うのが、特に逮夜・通夜での焼香となるのであります。

もちろん、実際に歩いたり、走ったりして、次の世界、浄土へと行くわけではありませんが、お腹が減っては、集中もできず、やる気も、元気も無くなるのは、私たち生身の人間も、意成身、意生身も同じことであります。元気に次へと向かって行って頂くために、そして、清めの時と同じように、アロマテラピー的に心を落ち着けて、これから通夜、葬儀と仏の教えを聴いて、仏弟子となりて、仏道をしっかり歩めていけるように調えて頂くためにも、香を薫じるということになるのであります。通夜・葬儀における「焼香」の意義は、場の清め、自分の清めと共に、香食の意味合いも大切になるということであります。

近年、一般の方は、葬儀会館の備え付けの抹香で焼香することがほとんどとなっていますが、会館によっては、大量に消費するため、安価であったり、化学配合の多い抹香を使用している場合もあることは否めません。

故人への香食、餞別のためとして、個々人で、良い香りのする香木を持参して、焼香するのも良いのではないかと存じます。ある方は、故人が大変に愛でていた木の皮を、焼香にてお供えしたということも。きっと、さぞかし故人は喜ばれたのではないかと存じます。

このように焼香には、香食としてのお供えのあり方があるということも知って頂ければと思います。

三、雲程(うんてい)

さて、次に、焼香における大切な意味合いとして、「雲程」という考え方もあります。

雲程とは、空の一番高いところにある、青く清らかな雲、青雲を「悟り」と例えて、そこへと至る雲の道のりという言葉となります。


雲は、霞、烟と同じようなものとなります。つまり、亡くなった方を悟り、浄土へと送り、導く雲のお供えということであります。立ち上る焼香の烟が、瞬く間に悟り、浄土へと至る雲となるようにとして、清らかな真心の気持ちにてお供えするわけです。

葬儀の際における秉炬(ひんこ)佛事の前に、「山頭念誦(さんとうねんじゅ)」を読みますが、その最後の一節には、「茶、三奠(てん)を傾(かたむ)け、香、一炉に熱※(た)いて、雲程に送り奉りて、聖衆(せいしゅ)を和南(わなん)す」とあります。(※ 熱は、草かんむりがつく)

お茶を三点献じて、香を焚く、というのは、亡くなった方へ惜別の真心を表す場合と、お迎えの聖衆、つまり、来迎の如来、菩薩方へと献じるという場合の二通りが考えられますが、そのあとに「雲程に送り奉りて」とあるように、雲程へと送られる故人を送るのは、導師、喪家、会葬者となるため、亡くなった方へと向けて、お茶と香をお供えするというのが正解となるのではないかと考えます。

ちなみに、お茶を三杯献じるというのは、相手に真心の誠意を示すという意味があり、その昔に、近江・長浜で鷹狩をしていた豊臣秀吉が、休憩の際に寄った寺にて、お茶を所望した際、後の石田三成となる小姓が、一杯目に大きな茶碗にぬるま湯の茶を、二杯目には、ややそれよりも小さな茶碗に少し熱い湯の茶を、そして三杯目には、更に小さな茶碗に熱い湯の茶を出し、そのことに感心した秀吉が、その小姓を召し抱えたというエピソードがあります。石田三成はおそらく、この三杯のことを仏教の故事で学んでいたのであろうと思われるのであります。

そして、香の烟に乗って、雲程(悟り・浄土)へと至れるようにとして、「香、一炉に熱いて」は、私たちが真心、誠意にて故人を送り出すための焼香と考えることができるわけであります。

ここで、最後の「和南(わなん)す」とは、如来・菩薩方を、恭(うやうや)しく称名(念仏)して、敬礼(きょうらい)する、という意味となります。つまり、故人の悟り・浄土への導きを深くお願い申し上げるということであります。

この場面を考えると、つまり、ご来迎で、故人をお迎えに来て下さった如来、菩薩方のお姿が想像できるわけです。ご来迎で乗って来られるのは、もちろん、「雲」となります。つまり、「香、一炉に熱いて、雲程に送り奉りて」とは、故人を浄土へと送り出す「雲」を、まさに私たちの焼香の烟にてお作り申し上げて、故人を送り出すということを示すわけでもあります。

以上のように、「焼香」にはおおよそ三つの大きな意義があると考えることができるのであります。今後の焼香の際の参考になさって頂ければと存じます。合掌



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2022年08月19日

法話「放生について」往生院六萬寺 令和4年度 お盆施餓鬼法要 後日録画配信

法話「放生について」往生院六萬寺
令和4年度 お盆施餓鬼法要


https://youtu.be/4UG7urECmNA


以下が配布した資料です。ご参照下さい。

「施餓鬼会(施食会・水陸会)と放生会について」 令和4年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/88377541.html


往生院六萬寺
http://oujyouin.com/


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2022年06月12日

「施餓鬼会(施食会・水陸会)と放生会について」 令和4年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

 令和48月・お盆施餓鬼法要 配布資料 


「施餓鬼会(施食会・水陸会)と放生会について」

 

もともと、施餓鬼(せがき)会(施食会・水陸会)が中国、日本で盛んとなる前には、僧俗共における仏教行事の中でも、特に主な行事となっていたのが、「放生(ほうじょう)会」となります。

「放生」は、仏教における第一の戒律である不殺生戒の実践、慈悲行の実践として、全ての生類、衆生の命を大切にするということの一環として、特に食用、ペット用として売られてある生き物を助けて、野に解き放って、自然へと返してあげるという考えを基に行われることになります。

そして、「放生」により積んだ功徳を、一切衆生の悟りへと向けて回向したり、自分のご先祖さまや供養をしたい者への追善供養としたり、あるいは、自分の後生のための功徳とするなどして、各々の仏道の成就へと向けた資糧とするものであります。

また、生きていく上においては、やむなく奪ってしまう命(食べる命)や悪意、故意や過失なく殺してしまった命等、私たちは、たくさんの犠牲の元で生存させて頂いていることへの懺悔、慚愧ということから、「放生」による功徳で滅罪を図る、悪業浄化を図るという目的もあります。

この思想における仏典の典拠としては、主には金光明経や梵網経に由来するところになります。

しかし、この放生会は、やがて中国、日本においても衰退していくことになり、その代わりとして施餓鬼会(施食会・水陸会)の方がより中心的に営まれていくことになります。

この要因としては、やがて仏教における在家・信徒による要請として大きくなる先祖供養が主なものとなっていく中で、その役割を果たすことが鮮明化される施餓鬼会(施食会・水陸会)の方が、需要が高まることになっていったからであると推測されます。

もちろん、施餓鬼会(施食会・水陸会)も一切衆生の悟りへと向けた功徳を主目的として儀軌が調えられるものとなりますが、その趣旨は、餓鬼への施しを通じた先祖供養のための功徳という点が強調されるところになり、寺院行事の中心的なものとなっていくことになりました。

施餓鬼供養で読むお経「開甘露門」(かいかんろもん)についての解説は下記をご参照下さい。

開甘露門(施餓鬼のお経について)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85151234.html

しかし、拙考においては、「放生会」(不殺生行)による功徳と「施食会」(布施行)による功徳では、その差はかなり大きなものがあり、功徳の差を考えるならば、「放生」の方がより推奨されるべきではないだろうかと考えるところであります。

いや、むしろ、「放生会」と「施餓鬼会(施食会・水陸会)」は、両方を一緒に行うことで、よりその功徳の意義を高めることができるものとなるのではないだろうかと考えます。

「水陸放生施食会」として、儀軌を調えて行うことを提案したいところとなります。

ただ、近年、実際の放生で問題となっているのが、環境、生態系へと悪影響を及ぼしてしまう恐れがあることや、放生としての動物を売買する商用化、または、魚介類を放生した下流では転売目的で漁師が待ち構えて放生した魚介類を捕らえてしまうなどの反道徳・反倫理的な行為へと逆に繫がってしまうなどの懸念もあり、せっかくの善行、功徳を台無しにしてしまうことも多々見受けられるところとなっています。

そこで、大量の魚や鳥を放つ、それもわざわざ放生用としての動物を買い取って放つなど、そのように仰々しいことをしなくても、身近な生き物を大事にすることで、その功徳を積むことは十分にできるものとなります。

例えば、放生会の日(あるいはその前後、彼岸期間であれば一週間)は、できる限り肉、魚を食べることを控える、歩く際には、地面にできる限り注意を払って小さな虫を踏まないようにする、または、他人に踏まれそうな虫がいれば、草陰へと持っていってやる、水瓶等の水たまりで溺れている虫がいれば助けてあげる、家の中に出た虫を殺さずに外へと逃してあげる、蚊取り線香やゴキブリホイホイ、アリの巣コロリ等の殺虫剤の使用を控えるなど、実際に身近でできることはたくさんあります。

そのように放生の功徳を実践した上で、寺院・僧侶による放生会の法要に参加して、積んだ功徳を回向することが大切なことになります。

では、その法要の儀軌はどのようなものが望まれるのかということですが、主には施餓鬼会(施食会・水陸会)に準拠するものとして、回向において「放生の功徳を一切衆生へと回向する」ことを文言として整理して加えると良いでしょう。


「水陸放生施食会」法要の儀軌の例としては、観音菩薩の関連するお経を中心としての読誦、回向として、

開経偈・般若心経・大悲心陀羅尼(大悲呪)・開甘露門・観音経世尊偈・放生会回向並び施食会回向・四弘誓願として調えると良いのではないだろうかと思われます。

また、儀軌への補足としての称名念仏、真言や陀羅尼としては、開甘露門の七如来や五如来の称名や十仏名の称名、あるいはそれら如来の各真言、陀羅尼としては、光明真言や宝楼閣真言、宝篋印陀羅尼、阿弥陀如来根本陀羅尼、抜一切業障根本得生浄土陀羅尼、仏頂尊勝陀羅尼などを加えると尚良いのではないだろうかと存じます。

更には、放生としての不殺生の実践と共に、施食としての布施の実践としては、実際の餓鬼や地獄の衆生たちへと向けた食べ物等をお供えすること(実際は寺院へと納める供養料としての金品に代わってしまいますが、本来は、米等の供物が望まれるでしょう)も必要なことになります。

 

(※米が望まれるのは、米を万倍の乳粥へと陀羅尼により変化させて餓鬼へと提供し、その空腹を満たしてもらうため。炊いた米を皆で食べる前に少しだけ集めて、動物たちへと施す「生飯」(さば)の由来も施餓鬼であります。)

上記のように、これからの主な寺院行事の一つとして、「放生会」と「施餓鬼会(施食会・水陸会)」を一緒に行うようにしていくことをお勧めする次第でございます。

 

当寺院でも、これまでの施餓鬼の内容を見直して、「放生」の要素も加えてお勤めをさせて頂くことにしたいと考えています。

 

そのため、特に施餓鬼供養の彼岸の期間の一週間においては、普段はなかなか意識して取り組むことが難しくある功徳の実践をする期間として、できる限り生き物の命を大切にすることもその一つとして、それぞれで取り組みを頂けましたら有り難くに存じます。

 

合掌 


参考・・放生儀軌(現在の中国・台湾基本法式)

 

1、大聲稱念佛號(称名念仏)

南無本師釋迦牟尼佛(三回)

南無寶髻如來(三回)(所有的動物,就在捨報後馬上升天,永不墮入三惡道!)

南無寶勝如來(三回)(可助永不墜三惡道)

 

2、持経咒(誦経)

楊枝淨水讚:楊枝淨水遍灑三千  性空八德利人天  福慧廣增延  滅罪消愆  火燄化紅蓮

南無清涼地菩薩摩訶薩(三回)

南無大悲觀世音菩薩(三回)

大悲咒(三回)

般若波羅蜜多心經(一回)

 

3、懺悔

現前諸眾生,念汝多生業重,墮在畜生,今代為汝等,對三寶前發露罪愆,汝當至誠隨我懺悔。

往昔所造諸惡業  皆由無始貪瞋癡 從身語意之所生  一切罪障皆懺悔(三回)

 

4、三帰依

諸佛子等!汝等不聞三寶,不知皈依,所以輪迴三有,墮畜生身。我今為汝,授與三皈依法。汝今諦聽!

諸佛子等:

皈依佛、皈依法、皈依僧(三遍)

皈依佛兩足尊、皈依法離欲尊、皈依僧眾中尊(三遍)

皈依佛不墮地獄、皈依法不墮餓鬼、皈依僧不墮畜生(三遍)

皈依佛竟、皈依法竟、皈依僧竟(三遍)

 

5、発願(四弘誓願)

諸佛子等!再為汝等宣四弘誓願,令汝得聞,依法發願,依願修行,汝今諦聽。

眾生無邊誓願度  煩惱無盡誓頤斷 法門無量誓願學  佛道無上誓願成(三回)

 

6、念仏

南無西方極樂世界大慈大悲阿彌陀佛

南無阿彌陀佛(十回)(可助往生極樂世界)

(轉念四字佛號)...阿彌陀佛...(此時一邊唸佛一邊放生)

 

7、放生会回向

放生功德殊勝行  無邊勝福皆回向 普願沉溺諸眾生  速往無量光佛

十方三世一切佛  一切菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜

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2022年02月25日

『 正しいお通夜とお葬式へ向けて 』令和4年3月 春彼岸施餓鬼法要 配布資料

令和4年3月 春彼岸施餓鬼法要 配布資料

『 正しいお通夜とお葬式へ向けて 』

このところ小さなお葬式、小さな家族葬、格安葬、一日葬、直葬と、葬儀のあり方の変化が目まぐるしい中でございます。

本来の葬儀とは、どのようなものであるべきか。以前にもまとめて配布した資料がございますが、今一度、考える時期にあるのではないかと思い、改めてまとめてみることにしました。

葬儀の一番の目的は、亡者を浄土へと送ることにあります。(但し、浄土真宗の現在の教義においての葬儀の目的は、阿弥陀仏への仏恩報謝となっています)

では、なぜ、浄土へと送らなければならないのか、ということでありますが、まず、仏教においては、正しい悟りへの道、仏道を歩んでいくにあたっては、直接に、既に悟りを開いた仏・如来からのご指導を頂く必要がございます。

現在、この娑婆世界では、釈尊の最勝応身(凡夫でも相見えられることのできる仏のお姿の一つ)が入滅されて以来、仏・如来は不在となってしまっています。

仏の教えは、元来、対機説法、善巧方便として、一人ひとりに合ったカタチで説かれるのが基本となります。それが可能なのは、一切智者である仏・如来でなければできないことであります。(仏典・経典は、釈尊入滅後に弟子たちによってまとめられてあるもので、あくまでも八万四千ある釈尊の教えの代表的な要約に過ぎないものとなっています)

現在の娑婆世界においては、仏典や経典、その解説の論書、またそれらを説明する僧侶により、ある程度、仏教を学び修していくことはできても、やはり、どうしても限界があるものとなります。

そのため、足りない点や正確性を補うために、実際に仏・如来が在世されていて教えを直接に頂けるところへと赴くことが望まれるのであります。

それが、「見仏(仏と直接に相見えること)と授記(個々人へと説かれる悟りへと至るための教え)」となります。

釈尊はご自身の最勝応身の入滅にて、その見仏と授記が、娑婆世界ではしばらくの間できなくなること(弥勒仏下生まで)を憂慮なさられて、他の浄土世界を色々とご紹介されて、そちらへと赴くことを促されたのであります。代表的には、阿弥陀経にて説かれてある阿弥陀仏・極楽世界です。(但し、娑婆世界であっても見仏と授記を頂く方法としては、密教における灌頂があります)

以上のことから、死後において、次の生まれ先を、この娑婆世界ではなく、直接に仏・如来から教えを頂ける浄土世界へと送るために執り行われるのが、葬儀ということになるのであります。

まず、その条件を調えるために行われるのが、通夜式での「授戒」となります。

過去世・生前からの悪業を悔い改め、しっかりと仏の道を歩んでいくためのルールを守る誓いを立てさせて、正式な仏の弟子とならしめるのが通夜式の役割となります。

そして、葬儀式においては、引導として、浄土へと送り出していくことになるのであります。

葬儀式で最も大切となるのが、引導文・引導法語となります。

これは浄土へと向けた一種のパスポート(渡航証)的な役割を果たすもので、悟りへと向けた大切な心構え、決意的なことが示さるところとなります。血脈(仏教の正しい教えを受け継いできた証)と共に、浄土への入国許可証と言えます。

このように考えますと、通夜式は、娑婆世界からの出国手続き、葬儀式は、浄土世界への入国手続きと言えるのではないだろうかと存じます。

この両方の手続きを正式に調えるために行われるのが、通夜式・葬儀式となるわけであり、浄土世界への出国へと向けた航海の無事、安全を祈り、送り出すことと共に、その手続きに不備がないか、間違いがないかを、しっかりと見届けるのも、ご遺族、会葬者の役割になります。

その手続きのためには、やはり省略ができないお経、回向があります。ですから、通夜式1時間(儀式40分・法話20分)、葬儀式1時間(儀式40分間・法話10分・告別10分)は、最低でも必要となります。また、法話では、通夜と葬儀の簡単な役割について、戒名の由来、引導の内容等の説明をしっかりと頂くことも大切なことになります。法話がないというのは論外であり、僧侶はしっかりと法話によって、導師として、葬儀についての説明責任を果たすことが求められるものでもあります。

以上のことから、仏式でお葬式をするということであれば、いくら小さく、短く、安くと言っても、限界があり、一日葬であれば、最低でも1時間半、直葬であれば、1時間(かなり巻き気味になる)は儀式の時間を取って行うことが望ましいものとなります。

祭壇や備品、お供え物等においては、多少なりとも負担を抑えるのは当然に構いませんが、時間と導師だけは、小さく、短く、安く、また、誰でもいい、適当で、というわけにはいかないことは、十分に認識しておくべきであると存じます。

やはり、僧侶、導師によっては、修行不足、作法の修練不足などにより、適当、いい加減、儀軌を間違ってしまっている者も中にはおります。上記で述べたように、手続きに不備がないか、間違いがないかを、しっかりと見届けるのが、ご遺族、会葬者の役割でもあります。確かな導師、僧侶に儀式の執行をお願いできるように、その資質を見極める、内容に間違いがないかをチェックするのも大切なことになります。

以前の配布資料の参照・・

『葬儀と供養の意義について』平成29年8月・お盆施餓鬼法要配布資料
ネット検索で全文ご覧いただけます→「葬儀と供養の意義について お盆」検索

各宗派における葬儀の要諦について(抜粋・加筆修正)

天台宗・・阿弥陀如来の極楽浄土へと向けた引導式。儀礼・・法華懺法(ほっけせんぽう)(法華経を読誦し、無明・煩悩・悪業を滅するための法)と例時作法(阿弥陀経を読誦し、極楽浄土への往生のための法)と光明供(光明真言を読誦し、浄土への引導・成仏へ向けた法)。密教印契、密教法具も用いられる。

真言宗・・弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)、あるいは大日如来の密厳浄土への引導式。儀礼・・灌頂形式。理趣経・真言・陀羅尼等が読誦され、密教印契、密教法具が用いられる。三密加持(御仏の身・口・意の三業の清浄)、本尊との一体化、浄土への引導へ向けた灌頂儀式。

浄土宗・・阿弥陀如来の極楽浄土へと向けた往生式。儀礼・・序分(諸仏をお迎えする儀式)・正宗分(引導式)・流通分(諸仏・故人を見送る儀式)の三部構成。主には阿弥陀経・無量寿経・念仏が読誦される。

浄土真宗・・阿弥陀如来への仏徳讃嘆・仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の儀式。授戒・引導を扱わない。故人は臨終後即座に極楽浄土へと往生したもの(即得往生)とみなされるため、故人へと向けた供養・回向は扱わず、あくまでも阿弥陀如来を対象とした儀礼となる。正信偈・念仏・和讃が読誦される。授戒式は無く、仏弟子としての帰依者に与えられる名前は、戒名ではなく「法名」と称されている。

曹洞宗・臨済宗・・もともと禅宗における修行途中に亡くなった僧侶への葬儀法が、在家葬送のためにも援用され、「没後作僧」(もつごさそう)として各宗派の葬儀法へも影響を与えていくことになった。没後作僧とは、死後に授戒し、正式な仏弟子(僧侶)とならせて、仏の助けを得て、浄土引導、成仏させるという考え方。臨済宗は、阿弥陀如来の極楽浄土へと向けた引導式。曹洞宗は、具体的な引導先は明らかとなっていないが、一切如来から教えを頂ける浄土への引導になると推測される。大悲心陀羅尼・観音経・舎利礼文などが読誦される(曹洞宗の場合・修証義や法華経の寿量品なども)。

日蓮宗・・久遠実成釈迦如来の霊山(りょうぜん)浄土への往詣(おうけい)のための儀式。法華経・題目などが読誦される。日蓮宗では、法華経に帰依信心すること(法華経の受持)、そのことが持戒そのもの(妙戒)であると考えられているため、授戒式は無く、仏弟子としての帰依者に与えられる名前は、戒名とは言わずに「法号」と称されている。

往生院六萬寺 お葬式(通夜・葬儀)について
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