川口宗勝
2023年12月01日
宗良親王・尹良親王・井伊家・大橋家・川口家・織田家・徳川家についての一考察
宗良親王・尹良親王・井伊家・大橋家・川口家・織田家・徳川家についての一考察
これまでの一考察集・・
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91076974.html
関連年表・・
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html
宗良(むねよし)親王の母は、二条為子で、その先祖が藤原定家であるということは以前に考察しています。
宗良親王がかなり和歌に優れていたのは、当然に藤原定家から続く母親譲りの血筋にあったからであると思われます。
この宗良親王の妃が、宗良親王に従って活躍した井伊道政の娘の駿河姫で、その皇子が、尹良親王となります。尹と付くのも伊からであると、そのままに想像できるわけです。
しかし、尹良親王は多くの伝承がありながら、未だに歴史的には懐疑され続けている存在であります。宮内庁により認定された陵墓があるにもかかわらずに。
軍記の浪合記の物語性によるところからであろうが、そもそも全く何もないところからそんな話は出てくるわけがなく、やはり、地方、地方で伝承されてきたことが、その下地となっているのは明らかであり、その足跡、史跡も多く残されてあることから鑑みても、実在性の方がはるかに高いと思われるのであります。
ちなみに井伊家には、やがて徳川家康の四天王の一人として活躍する井伊直政が出てくる。南朝功臣の井伊家と徳川家。宗良親王と井伊家。尹良親王と賀茂一族。賀茂一族と徳川家康。井伊直政と徳川家康と・・まあ、色々とまた繋がってくるのではありますが・・
とにかく、くだんのお墓が、尹良親王の実在を裏付ける一つの大きな鍵となるのではないかと思われるのであります。
宗良親王には、桜姫という娘がおり、その桜姫が津島大橋家の大橋定省の室となり、その子の定元の娘が、尹良親王の子・良王君(尹重)の妃となって、その子が大橋信重で、信重の子が、定廣、定廣の子が盛祐、盛祐が川口家へと養子に入ることになります。
良王君・尹重の尹は、井伊家を表し、重が、子の信重へと受け継がれたと考えることができます。
ここで言えるのは、良王君が婿養子のような形で大橋家に入ったと言えるわけでありますが、これも幕府、北朝から南朝の皇子を守るためにやむなくのことであったと言えるでしょう。お墓でさえも偽装しなければ祀れなかったと考えられるわけですから・・
いずれにしても、大橋家、川口家、井伊家も、その後、南朝方功臣同士として織田信長や徳川家康に従って戦うことになっていくのであります。
何よりも織田信長の叔母と大橋重長の子である織田信弌は、織田家連枝とまでなっています。(本能寺の変で信忠と共に討ち死にしている)
信長が、連枝にまで引き上げて信弌を重用したのも、大橋家を南朝後胤と信長が認めていたからでもあるのでしょう。
同じく大橋家から養子となった川口盛祐の孫となる川口宗勝(母は織田信長の伯母・徳川家康とははとこ同士)も南朝後胤として認めていたために直臣・弓大将として重用したのだと考えられるわけであります。
とにかく、静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家の針間野集落跡にあるお墓が、尹良親王の実在を裏付けることになるかもしれないため、実際に現地に行って調べてみたいと思っています。
後醍醐天皇の孫・尹良(ゆきよし)親王のお墓についての一考察
静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家の針間野集落跡には、後醍醐天皇の孫、宗良(むねよし)親王の皇子とされる尹良(ゆきよし)親王のお墓となる宝篋印塔があるということで、尹良親王の皇子である良王君が、津島大橋家、そして、津島大橋家からの養子を迎えた川口家の先祖になると一説では考えられていることから、この宝篋印塔について少し詳しく調べてみることにした。
まず、近影となるネット上の画像を最初に見たところで、かなりの違和感を感じた。
これは宝篋印塔ではない。
では、五輪塔なのかといえば、五輪塔でもない。
中世の高貴な者のお墓は、建立されるとしたら五輪塔か、宝篋印塔である。そのどちらでもないのであれば、お墓ではないのではないか、ということになる。
しかし、これは、昔より伝承、口伝で南朝の王子(尹良親王)のお墓と今に伝わってきている。
どういうことであるのか。
ここに逆賊、逆臣の汚名を着せられてしまって、非業の死を遂げた者の悲しい現実を目の当たりにすることになるのである・・
これは偽装されたお墓であると考えられる。
形状をよく分析すると、多くの転用が窺えるのである。
上から、五輪塔の宝珠型、半月型(あるいは灯籠の宝珠)、そして、傘が、社型で屋根を少し平らとなるように切ったもの、その下が、(春日型)灯篭の火袋、灯籠の受け(蓮華座)、柱、石盤(地輪)となっている。
このように意図的に偽装して、遺骨・遺灰か遺髪、または、経筒、舎利容器等を火袋に納めて祀られた可能性が考えられるのであります。
もし、建立時に南朝方の親王のお墓であると、すぐに北朝方、幕府方に知られてしまったら、当然に破却、滅失させられてしまうのは明らかであります。
ですから、偽装せざるをえずに、秘密裏に祀り、証拠を残さないように口伝の形で伝えていかないといけなかったわけなのです。
火袋の部分は、正面に明らかにはめ込まれた石があり、取っ手のようなものも見えます。つまり、取り外して、中に納められるスペースがあるのではないかと考えることができます。
既に中のものは何もないかも知れませんが、改めて調べることで、もしかするとこのお墓の由来について分かるものが何か残っているかもしれません。
また、火袋の左右、後ろにも何か彫られてあるように思われるため、何が彫られてあるのかも注目すべきでしょう。
そして、最も私が気になっているのが石柱の彫り物です。
画像からは、三本の足と左右の翼、そして、中央にクチバシと見えるのであります。もしかすると蓮の可能性もあるでしょうが、もしも、これが八咫烏(やたがらす)であれば、ここに祀られてあるものについて、その確かなる痕跡をここに残したと考えることができるのであります。(※もしかすると賀茂家・上賀茂神社・下鴨神社・八咫烏神社の家紋・神紋の二葉葵である可能性もあります。)
神武天皇の東征の際に大和国まで導いたとされる八咫烏は、やがて神格化されて祀られますが、鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)など、実際に東征を助けた有力人物が由来であったとされる説があります。
その鴨建角身命からの一族が、上賀茂神社・下鴨神社、全国の加茂・賀茂・鴨神社へと繋がる賀茂氏で、朝廷の陰陽道・神道を少なくとも南北朝期までは取り仕切っていたとされるわけです。つまり、神武天皇以来、天皇にかなり近いところで仕えていた一族であったというわけです。
やがて、天皇に関する祭祀を取り仕切る中で、陰陽道、神社神道を束ねる有力一族となり、大和賀茂氏、山城賀茂氏、備前賀茂氏と地方でも大きな勢力を占めることになっていたと考えられます。
そして、何よりもこの八咫烏陰陽を篤く信仰していたのが、後醍醐天皇であり、奈良県宇陀市榛原にある八咫烏神社を庇護していたのであります。
後醍醐天皇が何度も京都での窮地を脱して、比叡山や笠置、吉野等へと逃れることができたのには、朝廷の祭祀を取り仕切っていたこの賀茂一族の助力があり、各地にある神社のネットワークを通じて、容易に逃れていくことができたとも言えるわけです。
もちろん、当時に真言宗の東寺長者であり、後醍醐天皇の護持僧であった文観によって、文観に縁のある寺院のネットワーク、修験道のネットワークが利用されたというのが有力な説でありますが、三者のネットワークがうまく使われたというのが、本当のところではないだろうかと思われます。
後醍醐天皇が崩御したその後も、後村上天皇や以後の南朝方の天皇や親王を賀茂一族が支えることになっていったのも、天皇の祭祀を取り仕切っていた関係からも当然のことであったと言えるのではないかと考えられるのであります。(やがて、岡山へと逃れた小倉宮家の皇族が立てた美作後南朝の植月朝廷を支えて、祭祀を取り仕切ったのが備前賀茂氏と考えることができるのであります。)
そして、尹良親王にも仕えた賀茂一族がおり、その賀茂一族が、戦乱の中で非業の死を遂げた親王のお墓を建立して菩提を弔った可能性があるということになるのであります。
そこで、せめて、南朝親王のお墓であることを後世に示しておきたいとして、この石柱に八咫烏を彫ったのではないかと思われるのであります。とにかく、いずれ調査と供養を兼ねて現地へと赴きたいと思います。
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2023年07月04日
川口宗勝と伊達政宗の関係性について
また教えて頂いたことから・・
川口宗勝が、関ヶ原の戦いで西軍であったにもかかわらず、徳川秀忠に旗本として召し抱えられたのは、信長、家康との血縁関係からでもあるが、何よりも伊達政宗の嘆願によるところが大であったのではないかと教えて頂いた。
どうしてなのかと詳しく聞くと、
伊達家は、南北朝時代は南朝の忠臣であり、第7代、伊達行宗(行朝)は、後醍醐天皇に従い、義良親王(後村上帝)、北畠顕家の式評定衆として尽くしており、同じく南朝の忠臣であった津嶋・大橋家とも同朋の関係であったことから、一説に後醍醐帝の後胤であるとされる大橋家から養子となり川口家となった子孫である宗勝を、とにかく何としてでも擁護するのは、南朝忠臣の伊達家として当然のことであったということなのである。
これも南朝に纏わる歴史の妙というわけである。紙一重のところで助けられたのであるのかもしれない。
・・
あれから一つ新たに分かったことがあり、先々代(川口蓮海)は、岸和田の久米田寺(高野山真言宗)にて得度していたということであります。また改めて関連年表を修正致します。
・・
久米田寺は、往生院とも似たような歴史を持っており、奈良時代に聖武天皇勅願・行基菩薩開基の四十九院の一つとして創建されたとされており、平安時代に九条兼実の姉・皇嘉門院の持仏堂である九条御堂の末寺として寺域が整備されている。
往生院も、その前身である六萬寺は、聖武天皇勅願、行基菩薩開基の四十九院の一つとされ、その後に平安時代に安助上人により往生院が創建、そして、九条兼実によって金堂が建てられて寺域が整備され、九条家の祈願寺となっているのである。
更には、久米田寺は、南北朝時代には、楠木正成らによる南朝の一大拠点となっており、南朝からの庇護を篤く受けているのである。
往生院も、南北朝時代には、楠木正行の要所となり、そして、正行の菩提寺となるのである。
なんとも九条家、楠木家、特に南朝と・・とにかく縁が深くあるのである・・
よく昔に先代(川口立誡)のお庫裏・芳樹尼が言っていたことに、
「このお寺は南朝との深い縁のある者によって、必ず復興されて、護られていくことになる」と。
続けて、「だから、ご縁を頂いている墓苑の方々も南朝の子孫さんがきっと多いはずです」と。
ふーん、そんなものなのかなと、当時は話半分に聞いていたが、川口家もその昔に養子を迎える津島・大橋家は、南朝との縁が相当に深い。一説では後醍醐帝の後胤でもある・・これほどまでに南朝の縁に誘われるものなのか・・芳樹尼の言に今更ながら深く頷かねばならない・・
先々代は、その久米田寺(真言宗)で得度、修行した後に、久米田寺の近く、泉南・信達楠畑の浄土宗・大雄寺に逗留、文筆家としての執筆活動中に、当時の大雄寺の住職であった豊島妙澄尼の娘と再婚して、それから、明治後半に無住となって荒廃し、村の檀信徒たちが南朝ゆかりの者を迎えたいと念願していた往生院に入寺することになり、真言宗から浄土宗へと転籍、浄土宗教師となるのである。
それで、本堂に安置されてある中で、今回は調査対象から外れている弘法大師坐像のゆかりも、先々代にあったのだということで、ようやくわかったのである。やはり由来は必ずあるのである。
これで、往生院の仏教の歴史としては、南都仏教(六萬寺)、天台系浄土教(安助上人)、臨済宗(円爾禅師)、浄土宗(浄泉和尚)・・真言宗(先々代)、曹洞宗(先代)・・更には、修験道(役行者・岩瀧山開山)、浄土真宗(先々代の実家の寺院、親鸞聖人坐像・玉日姫坐像・報恩講が実施されていた)、神道(皇家神儀・摂家神儀・稲荷社・十二社権現・岩瀧山)と、更には、真言律宗の慈雲尊者、興正菩薩(叡尊)ともゆかりがあったとして、少なくとも10宗派との関わりがそれなりにあったということである・・
ただ、慈雲尊者、興正菩薩(叡尊)と往生院との縁だけはまだ追いきれていない。近くには慈雲尊者が隠居した生駒山中の雙龍庵があるが1キロほど離れている。慈雲尊者が再興された東大阪市・長栄寺は5キロほど離れている。慈雲尊者、あるいは興正菩薩(叡尊)かとして、寺伝と先代の判断であった舎利容器の舎利・・その由来はやはりはっきりとはしない・・親鸞聖人とも考えられるのではあるが・・その考証はまだまだこれからとなります・・
・・
ひとまず往生院の関連年表については一段落し、あとは、東大阪市教育委員会・社会教育部・文化財課と協同しての坐像等の実際の調査・研究を待つことになります。7月中旬ころから実見調査となります。
親鸞聖人自作坐像については、仏像彫刻専門家の意見と共に、できれば炭素年代測定はしたいと考えています。
また、関連したことでの知見がございましたら、往生院六萬寺の方へと情報を提供して頂けましたら有り難くに存じます。
最新年表はこちらになります↓
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html
往生院関連年表を更新しました
桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった
念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)
安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。
この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。
往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。
玉日姫供養
九条家の祈願寺として九条家の子女であった玉日姫を供養
慈円、良快、慈源など九条家の者が四天王寺別当であった時代以降の往生院では、同じく九条家に関係する僧侶により管理されていたものと思われる。
仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。
親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する
九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)
円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺・初代住職は円爾)
親鸞の供養
楠木家の要所となる。山城として利用される。この頃から、河内地方は楠木家等、武家勢力が支配する地域となり、各地にあった九条家など公家の荘園地・寺社領地は急速に失われていった中で、往生院も九条家の管理から離れた可能性が高い。
夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる
楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。
楠木正行と弁内侍が結婚
(弁内侍は後醍醐天皇の女官で親鸞と同族となる日野俊基の娘)
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。
北畠親房の長男・花将軍・北畠顕家が戦死。顕家は南朝勢力維持のため後醍醐帝の下、各地を転戦して活躍した。
四条縄手の合戦、高師直と楠木正行・正時が戦う。往生院が本陣となる。正行死後、黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。翌年に楠木正儀が供養のため来寺している。
楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺
畠山家内紛時に城塞化が進む
応仁の乱
若江城の戦い・往生院城焼失
畠山義豊戦死・往生院城焼失
往生院の本堂にあった説相箱が古・神感寺へと渡っている。
戦国期、往生院は、城塞として利用されるものの、細川晴元の内衆三好家に仕えていた渡辺(稙)孫三郎(渡辺惣官家)の所領となり、三好長慶が畿内を制覇した際には、その所領を安堵されている。また、織田信長が三好三人衆を畿内から駆逐した際には、渡辺(稙)孫三郎は信長に従い、その所領が安堵された。渡辺(稙)孫三郎が織田信長に所領地を安堵された理由の一つには、渡辺家が元々は南朝の功臣であったからではないかと思われる。信長は南朝功臣たちを明らかに厚遇、一定配慮しているのが分かる。
江戸前期の往生院には、有名な大きな柘榴の木があった。(和漢三才図会・河内國名所鑑)近くの寺院には、南北朝期に会通していた古・神感寺があり、山号は楉蔵山であった。古・神感寺由来の柘榴ではないかと考えられる。
鷹司信房の開基により浄土宗・往生院の成立。欣誉浄泉(池島村・富家家)が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。浄土寺往生院と戦時供出した梵鐘に銘されていた。寺号を浄土寺としていたことが分かる。
浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。
また、何よりも親鸞の正妻であった玉日姫を祀る九条家の祈願寺であり、親鸞の自作坐像が納めてあったこと、玉日姫、
親鸞それぞれの舎利(遺骨の分骨)が納められてあった可能性もあることから、浄土真宗と併宗していた可能性も極めて高い。
十世・松誉貞故の際に寺域が再整備される。池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。
江戸後期、本願寺派20世・広如の時に、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡が一斉に整備された際、鷹司家により、往生院に玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納された。
往生院は、明治期に楠木正行公御墓所を御陵墓(小楠公神社)とする計画が立ち上がり、その中心となった会が南木会(明治35年発足)であった。会長は、鷹司熈通。そして、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院は、この南木会によって小楠公神社の一角になっていた可能性があった。
寺院としての根底が破壊されてしまいかねなかった時期である。(但し、神仏分離令の例外として往生院存続のためにやむなく神社の一角となり往生院を再興しようとしていた可能性もあった。)
しかし、この南木会は財政問題により早々に解散。やがて小楠公神社の中心的な整備は、四條畷神社へと移り、往生院は難を逃れた。
以後、九条家・鷹司家と往生院は戦後に交流は完全に絶えたが、現代では、春日大社の藤裔会での、寺族との個人的な挨拶程度における交流、面識が続いている。
大正・昭和・平成・令和の歴史は別紙、川口家関連年表を参照
[雑記]明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちが多く、やがて信長を総大将として、南朝の復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。楠木家の子孫である楠木正虎も書記官として信長に仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちへの配慮であったと思える。また、津島大橋家と織田家との間の信弌は、織田家の連枝(一門)となっている。一説には津島大橋家が後醍醐帝の後胤であったとされることからも、南朝方においては、南朝後胤を天下統一間近である織田家の一門に加えることのできた意義は大きく、それもあって、いよいよ南朝の復権を恐れた朝廷が、本能寺の変の背後にあったとしても全く不思議ではない。とすれば、光秀の本命は信長よりも信弌にあった可能性も否定できないだろう。(明智家の出自となる土岐家は、南北朝時代、最初は後醍醐帝に従うも、その後は足利尊氏に従って北朝の功臣となり、美濃守護となっている。その土岐家、足利家に従ったのが明智家であり、光秀も信長の家臣ではあるものの、信長の足利義昭追放後には北朝方の一番の有力者となっていたのである。)
[雑記]関ヶ原の戦いにおいて小早川秀秋が西軍であるべきが、東軍についたのは後南朝の朝廷が関係していたと思われる。小早川秀秋は、木下家の出自で、秀吉の後継者の一人として豊臣家の連枝となっていた。本来は秀頼の後見人と期待されると共に、当然に豊臣家を守るべきであるはずが、関ヶ原の戦いにおいて裏切り、徳川家康につくことになった謎が、後南朝の朝廷にあり、後南朝後胤である小倉宮家とは、越前(福井)・北ノ庄15万石の大名に転封になった際に、秀次事件に連座して以来、中央政権への再起を図るため、美作には行かずに北ノ庄に残っていた小倉宮家との関係を築き、そして、南朝方勢力が集まっていた徳川家康に従うことになったと考えることができる。関ケ原の戦いでの論功行賞により、秀秋は、宇喜多秀家(西軍側)の改易によって岡山藩主となる。これには、既にあった小倉宮家の美作・津山の後南朝・小朝廷「植月御所」を管轄、庇護するようにとの家康の裏の意図があったのではないかとも思われる。秀秋の死去後には、跡継ぎがなかったため、無嗣改易となり、その後は、やはり南朝方と言える織田信長の家臣として活躍した森可成(清和源氏の流れ)の子・森忠政が美作・津山藩主とし、後南朝朝廷を安堵している。同族の森家は、南北朝時代には細川清氏(北朝方から南朝方となった)に仕えて南朝方として戦っている。森可成は、土岐家、斎藤家、織田家と従っている。森可成の兄弟には本能寺の変で信長と共に死去した森蘭丸がいる。その後、津山藩・森家は四代にわたり後南朝・美作朝廷を庇護するものの、やがて幕府により意図的に森家改易と共に美作朝廷は廃絶されることになる。(1697年・幕府による良懐親王号の剥奪。)
伝・聖武天皇御宸筆・六萬寺・山門額「岩瀧山」
藤原北家、関白・藤原忠通の六男として九条兼実誕生。1155年、兼実の弟である慈円誕生
九条兼実、摂政・関白・太政大臣と出世。弟・慈円は、四天王寺別当、天台座主となる。慈円は後鳥羽上皇の護持僧。浄土信仰に篤い四天王寺における念仏三昧院では民衆だけでなく後白河法皇、天台宗の高僧などによっても百万遍念仏行が常時行われていた。しかし、承元の法難では四天王寺でも念仏停止となる。
九条兼実・法然の下で出家
九条良経(九条家二代目)・死去
九条兼実・死去。九条道家・九条家三代目当主となる。
九条家の玉日姫の供養においては、親鸞の妻であると共に、父である九条兼実の浄土信仰の篤さからも、本来は、念仏・浄土宗において供養するところ、念仏停止の法難中のため、法難の中でも浄土教・念仏で供養ができるところとして、往生院において菩提が弔われた可能性が高い。その際には、玉日姫の遺骨を分骨した可能性もある。(但し、往生院では明治における四條畷神社建立地選定の際に、それを免れるべくに多くの歴史的な古文書等を処分してしまったため、保管されてあった舎利容器の遺骨の由来について書かれたものもその際に失われた可能性があり、それらの舎利を慈雲尊者の舎利と伝わってあるものとして、1980年、新本堂前の三重塔建立時に埋葬されてしまった可能性がある。)
慈円・示寂
九条道家・安貞二年の政変で復権。(仁和寺御室・道深法親王がその立役者)
近衛家実から関白を奪還
四条天皇の即位・母は九条道家の娘。九条道家、権勢の全盛期を迎える。
九条道家の長男・四代目当主・九条教実死去。その後、九条道家の次男の良実が二条家、四男の実経が一条家と、それぞれの初代となり、九条家分裂。室町・戦国期以降、九条家の権勢は徐々に衰え、荘園地・寺社領地も失っていく。
九条道家・東福寺(九条家菩提寺)建立の発願
慈円・慈鎮和尚の諡を四条天皇より賜る。慈円13回忌。九条兼実の30年遠忌。九条教実の3回忌。法然の遠忌もあり、親鸞と九条家にとっては大切な節目の歳と言える。九条道家の娘・仁子が近衛兼経へと嫁ぐ。九条家と近衛家の和解。近衛兼経が四条天皇の摂政となる。近衛兼経の兄弟・近衛家実の四男・鷹司兼平が鷹司家の初代となる。
九条道家の五男・福王(法助)が仁和寺御室・道深法親王の弟子となる。道家・良快の下で出家する(良快は兼実の子・道家の叔父・天台座主・四天王寺別当)
道家の子・慈源や慈実も天台座主・四天王寺別当になっている。日本仏教界を実質、九条家が管理していた時代でもある。
九条道家・死去
東福寺の完成
親鸞往生後、所縁のところへと遺骨が分骨される。
遺骨分骨の際に、九条家か、あるいは、親鸞の弟子
で玉日姫のお付きであった田村光隆(有阿弥)が、往生院へ親鸞の遺骨を分骨した可能性がある。(慈雲尊者の舎利とされて、1980年、新本堂前の三重塔建立時に納められたものがそうであった可能性がある。また、幾つかの舎利容器の一つには分骨された玉日姫の遺骨も含まれてあった可能性がある)
南北朝~室町~戦国と武家中心の政権となり、それに伴い九条家を始めとした摂関家、公家の力は衰えていく。
南北朝時代から戦国時代にかけて、特に河内地方における河内十七箇所の荘園群を巡っての争奪戦が激しく繰り広げられることになる。往生院もその争いに巻き込まれることになっていく。
新田義貞・燈明寺畷で戦死
楠木正行は幼少期を多く過ごし、武芸をみがいた往生院にて本陣を構えて決戦へと挑むことになった。
畠山義就と畠山政長との争い
畠山義就による河内平定
畠山尚順との家督争い
説相箱はその後、竹林寺、唐招提寺へと渡っている。
鷹司家12代・鷹司忠冬・死去・直系が絶える。
九条家15代・九条尚経の長女・経子を母とする二条晴良の子・信房が、織田信長の勧めによって正式に鷹司家を再興する。
鷹司信房、関白となる
信房の兄は、九条兼孝・17代九条家当主。九条尚経は九条兼孝の曽祖父にあたる。
九条家19代当主・道房死去。鷹司家から養子を迎えて、九条兼晴が20代・九条家の当主となる。江戸期以降、鷹司家と九条家はほぼ同家となり、鷹司家が九条家の祈願寺であった往生院の後見となる。
以後、九条家と共に鷹司家の祈願寺にもなる。後陽成天皇より御宸筆の勅賜本堂額「往生院」を賜る。
早逝した鷹司基輝の御袍が供養のため往生院に奉納されている。
113代・東山天皇の子・閑院宮直仁親王の娘が、本願寺派16世・湛如に嫁いでいる。閑院宮直仁親王の第四王子は、鷹司家の養子となった鷹司家21代の鷹司輔平。この時、鷹司家が皇別摂家となる。鷹司輔平の子が、鷹司政熈。その娘が、本願寺派20世・広如に嫁いでいる。また、閑院宮直仁親王の第三王子が、典仁親王。その子が、光格天皇となり、その直系が現代の天皇家まで続いている。
鷹司政熈の子が鷹司政通。
鷹司政通→鷹司輔熈(九条家からの養子)と続く。
本願寺派20世・広如の時に、九条家・鷹司家が、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡を一斉に整備して玉日姫の総供養を行っている。
鷹司家は、明治5年に、九条尚忠の子・熈通を、鷹司輔熈の養子として迎えて当主とし、また九条家の本流となった。鷹司熈通は、九条家29代・九条尚忠の子。鷹司家養子となる。大正天皇侍従長、貴族院議員。兄弟姉妹には、孝明天皇に嫁いだ皇后・夙子。
また、尚忠の子、道孝の四女は、大正天皇に嫁いだ皇后・節子。そして、昭和天皇が誕生する。
鷹司家は、その後、信輔、平通と続き、その後は松平家から養子(鷹司信輔の娘の子)を迎えての鷹司尚武が、現当主となる。九条家は、九条尚忠→九条道孝→九条道実→九条道秀→九条道弘と続き、九条道成が、現当主となる。
[雑記]徳川家康の出自の松平家は、元々は新田系清和源氏である世良田氏からの流れとされている。世良田家は、新田家と共に後醍醐帝、特に宗良親王に仕えて各地を転戦した南朝功臣である。津島大橋家とももちろん縁が深く、同志中の同志である。織田信長が松平家、徳川家康を厚遇したのも、津島大橋家と一緒で、やはり南朝功臣であったからだと推測できる。非情だとされた信長ではあるが、よくよくに調べてみると南朝功臣の子孫となる者たちにはかなり配慮している。一方、北朝側の子孫へは容赦しなかった。この歴然としてある差はいたるところで現れている。やはり、信長は南朝功臣たちの勢力、復権への悲願を利用することにより北朝勢力を排して天下統一を果たそうとしたのではないかと思われるのである。そのあともう一歩のところで、足利義昭の下で一番の幕臣であった明智光秀により討たれることになる。その後、豊臣秀吉により天下統一は達成されるが、南朝方の復権とまではならずであった。秀吉の死去後、南朝功臣たちは徳川家康をその中心として、やがて豊臣政権を打倒、江戸幕府が開かれることになるのである。関ヶ原の戦いも各勢力を分析すると、まさに北朝方と南朝方との争いに分けることができるのである。そして、明治維新の戊辰戦争もその構図は続き、その中心となった新政府軍・薩摩藩・長州藩は、北朝方、幕府側は南朝方と分けることもできるのである。
[雑記]正史では、後水尾天皇の次の天皇は、明正天皇となっている。この間では朝廷と幕府において色々と揉め事が起こっている。高仁親王の名も正史には確かにあるが、それは夭折した後水尾天皇の実子とされている。一方、美作後南朝史では、1626年に後水尾天皇より譲位されて、後南朝天皇・高仁天皇(正統歴代には含まれていない)が即位し、1634年には幕府により廃位されて、明正天皇(女帝)がその次となっている。後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川秀忠の五女の和子であり、徳川家の外戚が天皇となったのである。この間に、もしも後南朝側の天皇を幕府が意図的に即位させていたとするならば、その意図は、南朝方勢力への配慮であったと言えるのかもしれない。徳川家にとっては、南朝方功臣たち子孫の活躍によって、関ヶ原の戦いも勝利できたため、その最大級の見返りということになります。南朝功臣たち子孫の悲願は、何よりも南朝方天皇の即位にあったからであります。しかし、美作後南朝史では間もなくして高仁天皇は廃位に追い込まれています。やはり、北朝の天皇が正統であるということが、当然に朝廷・公家たちの認識であり、後水尾上皇もまだまだ健在で院政をしいており、王子も誕生していたのであるから、そんな幕府の側の事情などお構いなしで、南朝の高仁天皇など微塵も認めることなどなかったと推測できるのであります。当然に歴代天皇、歴史上にも記録が残されなかったわけです。そして、徳川家にとっては、その外戚となる皇女が天皇となるのだから、いくら南朝方であった松平家とはいえども断る理由などどこにもなく、むしろ歓迎されるべきことであったのかもしれません。
法然・誕生
親鸞・誕生
法然・浄土宗立教開宗
親鸞・慈円(青蓮院門跡)の下で得度
親鸞・磯長の夢告
法然・慈円や兼実と交流、四天王寺で日想観を修している(一心寺は、法然の日想観の庵)
法然・選択本願念仏集を著す(九条兼実の要請)
親鸞・六角夢告
親鸞・法然の弟子となる
親鸞・玉日姫(九条兼実の娘)と結婚。範意(印信)・善鸞の誕生
興福寺奏状(貞慶・解脱上人の起草)
承元の法難(後鳥羽上皇)
法然・土佐へ流罪
親鸞・越後へ流罪
玉日姫・死去(25歳)
法名・善変、京都伏見・西岸寺(九条兼実の父・藤原忠通が建てたと伝えられる法性寺の小御堂が後の西岸寺)に葬られる
親鸞・越後にて三善為教の娘・恵信尼と結婚
恵信尼の先祖には拾遺往生伝を著した三善為康がいる。(安助上人が往生院を創建した由来が記されてある)
法然・京都へ帰る
法然・往生
(親鸞・越後から一時帰京して玉日姫と法然の墓参をする)
親鸞・越後から関東へ
承久の乱(後鳥羽上皇の失脚)
親鸞・顕浄土真実教行証文類を著す(浄土真宗・立教開宗)
法然・親鸞と親交が深くあった九条兼実(兼実は、法然・親鸞と熊谷直実[蓮生法師]と高野山参籠も共にしている)は、九条道家の祖父。寵愛を受けていた道家は、祖父より法然・親鸞の庇護を頼まれていた可能性が高く、九条道家が執権を担うと共に、念仏への弾圧も当然に緩みつつあったと思われる。※熊谷直実は平敦盛を討った武将
親鸞・関東から京都に帰る
玉日姫の27回忌を期として帰京したと思われる。当時の日野家15代当主・日野家光が病床に伏したことも関連があるかもしれない。以後、京都で過ごすことになった下京区の光圓寺は九条兼実の別荘・月輪本庄花園殿のあった地で、結婚時代に玉日姫と過ごしたところにて晩年を迎えて往生するのである。
親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する
法然・華頂尊者の諡を四条天皇より賜る。法然25年遠忌。
日野家15代当主・日野家光死去
全国に伝わる玉日姫の墓所
京都・伏見の西岸寺の御墓所。茨城・笠間の西念寺(稲田の草庵跡)の御廟。茨城・結城の玉日姫の御墓所。
親鸞・玉日姫との次男・善鸞を義絶
親鸞・往生
唯善事件・大谷廟堂留守職就任問題・浄土真宗後継問題・1309年決着・覚如(親鸞と恵信尼の娘である覚信尼の子)が後継となる。この際、覚如の異母兄弟・唯善と親鸞と玉日姫の子・範意の娘の子・源伊とも後継を争ったとされる。
三世・覚如・大谷廟堂を寺院化し本願寺とする
正中の変。後醍醐天皇の下にあった日野資朝・日野俊基が鎌倉幕府討幕を計画し失敗する。
建武の新政(後醍醐天皇)
足利尊氏、日野賢俊の仲介にて光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受ける。
足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を起こす。後醍醐天皇、吉野にて南朝を立てる。(南朝・大覚寺統と北朝・持明院統に天皇が分かれる)
日野家は室町幕府の立役者となったことで、以後、足利家の下で権勢を強めていく。
四世・善如・楠木正勝に浄土真宗を講じる
蓮如・東国布教
蓮如・本願寺八世となる
日野家の権勢、日野富子の代で最も大きくなる。
蓮如・石山本願寺建立
蓮如・往生
1559年に正親町天皇の綸旨により本願寺が門跡寺院となる。本願寺は正親町天皇へ多額の援助をしており、また、証如・顕如が摂関家である九条家の猶子となって門跡に相応しい格式を得たとして門跡への昇格を求めていた。蓮如以来、教勢が一気に拡大していく。
本願寺が東西に分かれる
九条忠栄の娘と本願寺派13世・良如が結婚。(玉日姫以来、九条家と再び縁戚関係となる)。同時期には、東本願寺・13世・宣如が九条幸家の娘と結婚。その子が14世・琢如。琢如は、近衛信尋の娘と結婚。
本願寺派14世・寂如と鷹司信房の娘が結婚。(鷹司家と縁戚関係になる)
九条兼晴の子・住如が本願寺派14世・寂如の養子となる。寂如の娘と結婚。住如が本願寺派15世となる(九条家の者が宗主となる)
本願寺派16世・湛如死去(一説には自害)後、湛如の弟の静如が法継したが即隠居させられ、河内国・顕証寺住職の寂峰が法如として本願寺派17世となる。本願寺派7世・良如の子の寂円の子。
本願寺派18世・文如、二条宗基の娘と結婚(二条家と縁戚関係)
鷹司政通の子・華園摂信(東山天皇系)が真宗興正寺派・27世門主となり、西本願寺から興正寺が独立する。華園沢称→真淳→真暢→沙弥香
本願寺派20世・広如、鷹司政熈の娘と結婚。同時期、東本願寺20世・達如も鷹司政熈の娘と結婚している。
明治になり、本願寺派21世大谷光尊の子・3名が九条道孝の子・3名と結婚している。本願寺派22世・大谷光瑞(大谷探検隊で有名)は、道孝の娘・九条籌子と結婚。本願寺派23世・大谷光照の母は九条道孝の娘・紝子。大谷光照→大谷光真→大谷光淳と続く。
東本願寺・24世・大谷光暢は、久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹にあたる智子女王と結婚。智子女王は、現上皇(平成天皇)の叔母にあたる。大谷光暢による開申事件以降、宗門の方針、教義的な論議が激化し、やがてお東騒動へと発展し、東本願寺は著しく分派・分裂することになる。真宗大谷派・大谷暢裕、浄土真宗東本願寺派・大谷光見、浄土真宗大谷本願寺派・大谷暢順、真宗東派・大谷光道。鷹司輔平の子には、真宗高田派の門主となった円祥がいる。その後は、近衛忠煕の子、常盤井堯煕が有栖川宮家として入り、堯煕の後は、近衛忠房の子、常盤井堯猷、鸞猷、慈祥と、近衛家の流れとなっている。真宗佛光寺派は、鷹司政通の三男、教応の跡を、伏見宮邦家親王の子・家教が26世となり、以後、渋谷姓を名乗り、真意尼、渋谷隆教、渋谷有教、真承、暁真、恵照、真覚と続く。真宗木辺派は、西本願寺、本願寺派21世、大谷光尊の次男、孝慈を20世として迎えている。木邊孝慈→宣慈→円慈→顯慈と続く。真宗出雲路派は、18世に真宗興正派の22世・寂永の子を迎えている。真宗誠照寺派は、近年、二条家が歴代門主となっている。二条家は、九条家、鷹司家とほぼ同格摂家である。
[雑記]南北朝の統一・明徳の和約が破られると、後南朝勢力が南帝を擁立して蜂起することが度々に起こる。北畠満雅による後亀山上皇とその皇子・小倉宮恒敦を擁立しての挙兵(和睦)、恒敦の子・小倉宮聖承を擁立しての挙兵(伊勢守護・土岐持頼により鎮圧)、その後も楠木家による挙兵(畠山持国により鎮圧)、源尊秀によって南朝皇胤とされる通蔵主・金蔵主兄弟を擁立しての禁闕の変(鎮圧)、同じく南朝の皇胤であるとされる自天王と忠義王が、赤松家再興を目指していた赤松家家臣たちにより討ち滅ぼされる長禄の変、また、後村上帝の孫である円満院門跡・円胤(説成親王の子)の挙兵(鎮圧)、そして、小倉宮の末裔とする者たちによる挙兵と相次ぐも、全て失敗に終わることになる。その後、戦国時代へと向かう大きなきっかけとなる応仁の乱でも、南北朝が絡むことになり、東軍は北朝、西軍が南朝といった構図となる。東軍の総大将・細川勝元が、後土御門天皇・足利義政を味方としていたことに対抗して、西軍の総大将・山名宗全は、南帝(奈良・高取の壷阪寺にいたとされる小倉宮の末裔)を擁立し、南朝勢力を結集して戦いを進めていこうとする。しかし、山名宗全が死去し、東西の和議が成立すると、この西陣南帝は放逐され、越前(福井)・北ノ庄へ落ちのびる。また、小倉宮家は、近江(滋賀)・甲賀を経て、山名宗全と同族で、嘉吉の乱後に赤松満祐の討伐の功績により、美作・石見守護となった山名教清(祖父の山名時氏は、新田系源氏ではあるが、足利家との姻戚関係から最初は足利尊氏に従うも、その後、足利直義に従って南朝方となる)を頼って美作(岡山)・津山へ辿り着き、吉野と同様に小朝廷「植月御所」を立てることになったともされる。流れとしては、小倉宮良泰の子・高福天皇(尊義)・後南朝初代天皇→義有親王の子・興福天皇(尊雅)→尊義親王の子・忠義天皇→尊朝親王→尊光親王→尊通親王→尊純親王(青蓮院宮、1638年・天台座主になる)→高仁天皇(1626年・後水尾天皇より譲位されたとされているが、1634年幕府により廃帝。但し、正統な天皇の系統には入っていない。後水尾天皇の次は、その皇女・明正天皇となっている。この譲位は名目的なもので実質的には後南朝後胤の断絶を意図した幕府の懐柔策として行われたものであると思われる)→良懐親王(1697年・幕府により親王号剥奪。1709年、岡山・西大寺へ参詣に向かう途中で死去。暗殺されたとも。)以後、小倉宮家は断絶されたとされるが、この小倉宮家の末裔と称する者たちが戦後に南朝系の天皇であると何人も名乗り出ている。
[雑記]明正天皇の後には、後水尾天皇と藤原光子(壬生院)との男子である素鵞宮が、後光明天皇として即位。しかし、後光明天皇は早逝し、その弟が後西天皇となり、その次には後水尾天皇のまた別の王子である霊元天皇、そして、その次には霊元天皇の子、東山天皇と、北朝方の天皇がそのまま続くことになります。当然に後南朝など論外とされています。やがて、五代将軍・徳川綱吉の代においては、後南朝後胤の断絶策が講じられることになり、1697年、美作・津山藩主・森家が正当な理由が見当たらないのに突然に改易処分とされて、幕府によって美作後南朝の良懐親王の親王号は剥奪、その後に暗殺されたと思われるのであります。関ケ原の戦いで活躍した南朝方功臣の子孫たちも、代がすっかりと変わってしまい、後南朝のことなど忘れ去られつつある中、もはや遠い昔のことになってしまっていたのでしょう。奇しくも、津山藩主・森家が改易された同時期には、青菅旗本の川口家も改易されています。同じ南朝功臣の子孫、織田家家臣の子孫という繋がり・・果たして偶然といえるでしょうか。
桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった
念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)
安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃から、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)。九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。
往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。
仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。
親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する
九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)
円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺・初代住職は円爾)
楠木家の要所となる。山城として利用される。
夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる
楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。
北畠親房の長男・花将軍・北畠顕家が戦死。顕家は南朝勢力維持のため後醍醐帝の下、各地を転戦して活躍した。
四条縄手の合戦、高師直と楠木正行・正時が戦う。往生院が本陣となる。正行死後、黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。翌年に楠木正儀が供養のため来寺している。
楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺。
畠山家内紛時に城塞化が進む
畠山義就と畠山政長との争いに巻き込まれる
応仁の乱
若江城の戦い・往生院城焼失
畠山義豊戦死・往生院城焼失
畠山尚順との家督争い
往生院の本堂にあった説相箱が古・神感寺へと渡っている。
戦国期、往生院は、城塞として利用されるものの、細川晴元の内衆三好家に仕えていた渡辺(稙)孫三郎(渡辺惣官家)の所領となり、三好長慶が畿内を制覇した際には、その所領を安堵されている。また、織田信長が三好三人衆を畿内から駆逐した際には、渡辺(稙)孫三郎は信長に従い、その所領が安堵された。渡辺(稙)孫三郎が織田信長に所領地を安堵された理由の一つには、渡辺家が元々は南朝の功臣であったからではないかと思われる。信長は南朝功臣たちを明らかに厚遇、一定配慮しているのが分かる。
キリスト教伝来
桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る
織田信長が足利義昭と共に京都に入る
室町幕府滅亡
安土城完成
本能寺の変
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が豊臣秀吉に敗れる
豊臣秀吉が関白になる。
豊臣秀吉が天下統一
豊臣秀吉死去
関ヶ原の戦い・東軍の勝利
江戸幕府成立
大坂夏の陣・豊臣家滅ぶ
江戸前期の往生院には、有名な大きな柘榴の木があった。(和漢三才図会・河内國名所鑑)近くの寺院には、南北朝期に会通していた古・神感寺があり、山号は楉蔵山であった。古・神感寺由来の柘榴ではないかと考えられる。
鷹司信房の開基により浄土宗・往生院の成立。欣誉浄泉(池島村・富家家)が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。後陽成天皇より御宸筆の勅賜本堂額「往生院」を賜る。以後、九条家と共に鷹司家の祈願寺にもなる。浄土寺往生院と戦時供出した梵鐘に銘されていた。寺号を浄土寺としていたことが分かる。浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。
早逝した鷹司基輝の御袍が供養のため往生院に奉納されている。
十世・松誉貞故の際に寺域が再整備される。
池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。
江戸後期、本願寺派20世・広如の時に、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡が一斉に整備された際、鷹司家により、往生院に玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納された。
往生院は、明治時代に楠木正行公御墓所を御陵墓(小楠公神社)とする計画が立ち上がり、その中心となった会が南木会(明治35年発足)であった。会長は、鷹司熈通。そして、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院は、この南木会によって小楠公神社の一角になっていた可能性があった。寺院としての根底が破壊されてしまいかねなかった時期である。(但し、神仏分離令の例外として往生院存続のためにやむなく神社の一角となり往生院を再興しようとしていた可能性もあった。)しかし、この南木会は財政問題により早々に解散。やがて小楠公神社の中心的な整備は、四條畷神社へと移り、往生院は難を逃れた。その後、明治時代後半から荒廃したままの往生院は無住となり、村の総代、世話人たちが管理していた。南朝にゆかりのある者を住持として迎えたいとして待つ中、大正14年に川口蓮海が入寺し、浄土宗教師となって再興を目指すことになる。
川口蓮海は、楠木正行御墓所の整備、林間学舎建設(1930)、楠公道場の建設(1940)など、心身の鍛錬所として寺院を開放していた。また、菊水会・楠薫会・三寶会など講社を結成して往生院の檀家を増やすことに努力する。神武天皇御聖蹟巡拝会も結成している。文筆家としても小説の刊行、また、小誌を多く監修している。
往生院参道整備・桜並木化
行者堂建立(1926)
小楠公銅像建立(1927)
菊水寮建立(1930)
楠公道場建立(1940)
梵鐘の供出
小楠公銅像の供出
学童疎開の受け入れ
8月11日・川口蓮海・往生
8月15日・終戦
川口立誡が住職となる
単立寺院となる(臨済宗系)
檀家制度廃止、信徒制度となる
戦後すぐの頃の往生院は困窮著しく、薪を売ったり、托鉢に出るなど、日々の生活にも厳しい状況であった。法輪・菊水という機関誌を発行して生計の足しとしていた。
この頃の無縁塔の整備から始まり、本堂修理、金堂跡整備、墓苑整備、稲荷社整備と、ようやく本格的な復興が始まる。
寺務所建立
梵鐘再鋳(戦時供出)
中門建立
仏殿建立
新本堂・奥之院建立
宝蔵・校倉建立
仁王門建立
新寺務所・客殿建立
川口立誡・遷化
川口哲秀が住職となる
小楠公銅像再鋳・建立
民具供養館建立
新鐘楼堂建立
歴史館・展示館の改修建立
公衆トイレ建立
日想観法要再興
岩瀧山・滝行再興
合祀塔・やよい観音建立
寺史再考証
桓武天皇・誕生・白壁王(光仁天皇)の長男
桓武天皇・即位
桓武天皇の子・葛原親王(桓武平氏の祖)→平高望→平国香(伊勢平氏の祖)
平国香・平将門の乱で戦死
平国香→平貞盛(平将門の乱の鎮圧・鎮守府将軍)→平維衡→平正度→平正衡→平正盛→平忠盛(平清盛の父)
平正度の子・正衡の兄弟・貞季の子が、平正季→範季→季房→家貞(筑後守)→
貞能(筑前守・肥後守)
平貞能は、平清盛の参謀。治承・寿永の乱で活躍。大橋姓を名乗る。
平貞能は、平家滅亡後に流浪。母が宇都宮家でもあり、親友であった宇都宮朝綱(奥州合戦で活躍)を頼り、身を寄せた。宇都宮朝綱には貞能への恩義があった。朝綱の嘆願により源頼朝の許しを得た。
貞能以降、大橋通貞→貞経→貞宗→貞俊→貞高→定清→定省(愛知県津島市に奴野城を築城・城主となる)
津島四家七名字。新田系の四家としての大橋家・恒川家・岡本家・山川家、七名字としての堀田家・平野家・服部家・光賀家・鈴木家・真野家・河村家となる。
南北朝時代から戦国時代にかけて、特に河内地方における河内十七箇所の荘園群を巡っての争奪戦が激しく繰り広げられることになる。往生院もその争いに巻き込まれることになっていく。
足利尊氏、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受ける。
新田義貞・燈明寺畷で戦死
後醍醐天皇を助けた北畠親房の三男・北畠顕能は伊勢国の国司となり、以後、公家大名として伊勢周辺域を支配している。この際に北畠家に従い、南朝方の武将として参戦し、新田義貞・楠木正成と共に活躍することになったのだと思われる。
定省→信吉→信重(良王君の子・後醍醐天皇の後胤説)→定廣
定廣の子に、定安(禅休)・宗定・定祐・廣正と女子(大河内家へ嫁ぐ)・女子(蜂須賀家へ嫁ぐ・蜂須賀正勝の母)がおり、この内の宗定(帯刀・盛祐)が、川口家へと養子に入る。
大橋家と同様に川口家も桓武平氏で、平季房の子の流れで同族であり、美濃の川口村(岐阜県安八郡)にあった宗倫の代から川口姓となり、8代・宗持の養子に大橋家の宗定(帯刀・盛祐)が入った。
川口宗吉。妻は、小島信房の娘、織田信長の伯母とされる。大橋家と同様に織田信秀に仕える。子に川口宗勝。宗勝の織田家での厚遇から織田信長の伯母の子であると考えられる。
川口宗勝。妻は、福富直貞(福富家は織田家家臣)の娘。水野信元→柴田勝家→織田信長に仕える。織田信長の直臣旗本、弓大将となる。本能寺の変後、織田信雄、豊臣秀吉と仕える。伊勢国と尾張国内で1万8千石を拝領している。
関ヶ原の戦いにおいては、安濃津城攻めなどに参加する。西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領は没収。身柄を伊達政宗に預けられる。1606年、徳川秀忠に許されて千葉・佐倉・青菅2千5百石を賜って旗本となった。1612年、青菅にて死去。以後、1698年までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行された。徳川秀忠に許されたのは、宗勝と徳川家康との血縁関係によることからも考えられる。
川口宗勝が、織田信長、信雄に仕えていた時代、つまり、安土幕府の時には、安土城の城下屋敷に川口家も一族が移り住んでいたと思われる。現在、川口家が代々住職となっている西法寺は、元々武家屋敷であった事が、昔の地名から分かる。安土村大字中屋字屋敷内。川口宗勝の兄弟、あるいは子、川口家の一族が、武家屋敷を寺院として、信長や柴田勝家、戦友たちの菩提を弔うために僧侶となって西法寺を開基したと思われる。現在の往生院・川口家のルーツは、川口宗吉・宗勝にあると推測でき、また西法寺の由来について改めて詳しく調査、精査することで確定させることができると考えている。
織田信雄が秀吉の配下となると共に、宗勝は秀吉の家臣となる。おそらくは、織田信長の直臣であった川口家が、秀吉の家臣になることなど屈辱的でもあり、許さなかった川口家一族の中で、秀吉の家臣にはならずに屋敷を寺院として出家した者が西法寺の住職になったということではないかと考えられる。
以後の川口宗勝の直系は、徳川家の下、旗本として関東に所領を持ち、代々徳川幕府に仕えることになった。
滋賀県近江八幡市安土町中屋の浄土真宗・大谷派・西法寺は、安土桃山時代から代々、川口家が住職を勤めているものと思われる。明治時代に西法寺の住職であった川口法旭の三男・蓮海が、大正14年に往生院に入寺することになる。川口蓮海は、東京帝国大学・英文科を出て、朝日新聞の本社編集長となるも、前妻・英子の死去後、紆余曲折を経て、岸和田の久米田寺(高野山真言宗)にて得度、修行し、その後に泉南の信達楠畑にある浄土宗・大雄寺にて文筆家として小説を多く書いていた。縁によって往生院に入寺し、浄土宗へと転籍、浄土宗教師となって、往生院の復興を目指すことになる。
豊島英海が中心となり、河内新西国三十三箇所霊場を開く(1930)。現在の河内西国観音霊場の前身である。
川口立誡が三樹子(芳樹尼)と結婚。1946年に現住・川口哲秀が生まれる
川口立誡は、浄土宗で得度した後、教師過程から、思うところがあり、曹洞宗・橋本恵光老師門下となり、曹洞宗の僧籍へと転籍している。薬師寺の橋本凝胤の下で3年間、唯識を学んでいる。漢詩作成に秀でていた。法隆寺の佐伯良謙、東大寺の清水公俊らとの交流があった。
1966年・川口哲秀・岐阜・正眼寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。1969年に帰山。その後、敏子と結婚。1976年に現副住・川口英俊が生まれる。
民具供養館にて社会見学の受け入れ(延べ20万人以上)。近隣の幼稚園の園児たちの岩瀧山・登山遠足を受け入れていた。また、定期的に子ども向けの坐禅会も開催していた。
1999年・川口英俊・岐阜・
瑞龍寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。2001年に帰山。
仏像・宝物について再調査
伝・聖武天皇御宸筆・六萬寺・山門額「岩瀧山」
聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇
光仁天皇は天智天皇の孫
南都仏教を牽制・最澄留学
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北平定
平将門の乱
平忠盛は白河院・鳥羽院に仕えた武将。娘を源義忠(河内守・検非違使)に嫁がせて河内源氏と和合した。
保元の乱
平治の乱
平清盛が太政大臣になる。
源頼朝が挙兵する。
壇ノ浦の戦い・平家滅亡
源頼朝が征夷大将軍になる。
鎌倉幕府の成立
承久の乱(後鳥羽上皇流罪)
一説には、大橋定省に後醍醐天皇の子である宗良親王の娘・桜姫が嫁ぎ、その生まれた子・定元の娘が、宗良親王の子であるとされる尹良親王の子の良王君の妻となり、その子が大橋信重となるとあり、後醍醐天皇の後胤との説もある。
また、新田系となるのは、新田家の世良田政義の娘が、良王君の母であるとされたからであろう。
いずれにしても、以後、津島四家七名字、その代表であった大橋家は南朝方に従って戦ったのである。
後醍醐天皇即位
後醍醐天皇・建武の新政
後醍醐天皇が吉野に移る。
(南朝・大覚寺統と北朝・持明院統に天皇が分かれる)
足利尊氏・征夷大将軍となる
室町幕府の成立
北畠親房が神皇正統記を著す
観応の擾乱の際には南北・正平一統が一時的にあった。
南北朝の統一・明徳の和約
しかし、足利義満が死去すると和約・両統迭立が破られることになり、北朝中心の天皇継承となる。以後、後南朝勢力が断続的に新帝を立て蜂起することになるが鎮圧される。
川口家・・姓ハ桓武平氏、平宗清末流、宗信美濃国川口村ニ住シ男宗倫ヨリ川口ヲ称ス、宗倫八代ノ孫宗持大橋廣定ノ二男宗貞(定)ヲ養子トス、家紋ハ丸ニ茗荷一ノ字、王ノ字(向島岩子島史)
川口家は、大橋家とは季房までは同じ平氏で、大橋家は、家貞の流れとなり、川口家は、季宗の流れとなって、川口家は代々「宗」がつけられるようになったと推測できる。つまり、同じ伊勢平氏として大橋家ともほとんど同族関係にあったのだと思われる。そして、盛祐が、宗定と改名して、嫡子の絶える川口家を継いだと考えられる。
川口宗定の妻は、徳川家康の祖母の華陽院(於富の方)。
以後の川口家(川口宗吉から)は、徳川家康とも血縁関係ということになる。
華陽院は、松平清康、水野忠政、あと二人と結婚している。華陽院との子に川口宗吉。華陽院は、なんと5名と結婚している。よほどに魅力があったのだろう。
水野忠政と華陽院との娘(於大の方)が徳川家康の母である。
大橋安定の子、大橋重長は、織田信秀の娘婿で織田信長の姉婿である。最初は、尾張国・清洲城主織田家と領地を争っていたが、後に、織田信秀に帰順する。
大橋安定と織田信秀の娘の子は、織田一門となった織田信弌。本能寺の変で戦死した。もう一人の大橋安定の子、大橋重一は、津島に近い美濃の高須城の城主となっている。川口家の由来となった美濃の川口村にも近い。津島四家七名字に川口家は含まれていないが、大橋家と同様に武家としての力があったと推測できる。
川口宗勝が、徳川秀忠に召し抱えられることになったのは、伊達政宗の嘆願によるところも大きなところがあったと考えられる。伊達家は、南北朝時代は南朝の忠臣であり、第7代、伊達行宗(行朝)は、後醍醐天皇に従い、義良親王(後村上帝)、北畠顕家の式評定衆として尽くしており、同じく南朝の忠臣であった津島大橋家とも同朋の関係であったことから、一説に後醍醐天皇の後胤であるとされる大橋家から養子となり川口家となった子孫である宗勝を、とにかく何としてでも擁護するのは、南朝忠臣の伊達家として当然のことであったということであるのかもしれない。
大橋家は、大橋重賢が、織田家の家臣として、滝川一益に仕えたが、滝川家の没落後、福島正則に仕える。福島正則の改易後、松平直政(父は徳川家康の次男・結城秀康)に仕えて家老となっている。(松平直政が、出雲松江藩に入る際、武名の高かった福島正則・旧臣の大橋茂右衛門を6千石で召し抱え、家老としている。)
久米田寺は、往生院とも似たような歴史を持っており、奈良時代に聖武天皇勅願、行基菩薩開基の四十九院の一つとして創建されたとされており、平安時代に九条兼実の姉・皇嘉門院の持仏堂である九条御堂の末寺として寺域が整備されている。更に、南北朝時代には、楠木正成らによる南朝の一大拠点となっており、南朝からの庇護を篤く受けているのである。
大雄寺は、大正時代に、豊島妙澄尼(松山藩士の子孫)が住職になっていた。豊島妙澄尼の長女・壽子(茶道・華道・俳句の師範)と川口蓮海が結婚し、川口立誡が生まれている。大雄寺は、楠木正成の一族・和田高家が築城した岸和田城に近く、また、楠畑と名があるように、近くには楠由来の名前が幾つも見られることから、南朝・楠木家に縁があったと推測できる。現在は無住のお寺である。
豊島英海・浄土宗教師・松山藩士の子孫。蓮海の妻・壽子の弟(松山には豊島家住宅・重要文化財が残る)。
終戦後すぐの頃には、度々、窮状打開・寺院護持のための断食行、千巻心経祈願・一切経祈願・金剛経祈願・理趣経祈願が川口立誡により修されている。復興へと向けた並々ならない気迫が伝わる。
三樹子(芳樹尼)の母・塩田妙澄尼(前述の豊島妙澄尼とは別人)は大阪市・天王寺区・六大院(真言宗)の尼僧。戦後になり往生院に入り、長年、三樹子(芳樹尼)と共に往生院の復興に大変貢献される。当時、川口立誡が住職であった頃は、檀家制度を廃止しており(信徒制度)、また、川口立誡は、葬式仏教を廃するとの強い信念があり、葬式の導師を勤めることは住職在中、一度たりとも無かった。ただ、次世の川口哲秀の頃からは葬儀の導師の受け入れを再開している。寺院・小楠公の歴史・史跡の保全に努める。民具歳時記の発行(延べ30号以上)。
戦時に梵鐘と共に供出されて無くなっていた小楠公銅像を再鋳再建。
浄土真宗開祖・親鸞、親鸞の正妻・玉日姫との関連が濃厚となっている。
伝・親鸞聖人自作像
由緒書解読
具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故應頂礼
星歳如夢 往昔□□日□□末代門葉唯称佛名歓喜踊躍
祖大織冠鎌足末父有範母吉光前師慈鎮和尚後?帰?法然上人
釋愚禿親鸞世壽六十五歳而自像作者也
干時□□□丁酉年三月廿二日
南旡阿弥陀佛
丁酉(ひのととり)は、1237年1297年1357年1417年1477年1537年1597年1657年1717年1777年1837年1897年1957年
とある。本当に六十五歳の時に自作されたとすれば、1237年・嘉禎三年となる。
筆跡は、親鸞聖人の自筆では無いと思われる。筆跡を親鸞聖人真筆の教行信証等と比較すると、特に「世」が明らかに違うと思われる。また、名前も正式には、愚禿親鸞 か 愚禿釋親鸞 と書くはずである。おそらくは、後にお付の者か、弟子か、後世の者かが、その由来を書いて貼ったのだと思われる。
胎内仏・阿弥陀如来立像・金属製・後ろに「九品仏」と彫られてある
法然聖人・三日月の御影
知恩院の三日月の御影の軸画ともまた違う絵柄である。知恩院の三日月の御影は、特別な時(御忌定式)にしか掲げられない大切なもののようで、南北朝時代に描かれたものであるらしい。
三日月の御影の由来は、藤原隆信(1142-1205)が、夢の中で見た三日月に座す法然聖人であるらしいが、隆信が描いたものは、現在、現存していない(未発見)。隆信の原画ではないにしても、原画の模写の可能性もある。
藤原隆信の子、藤原信実(1176-1266)によるものではないかと思われる。藤原隆信は、歌人、画家で法然聖人の下で出家しており、藤原北流であり、九条家とも交流は深く、その子、信実は、似絵の家元になっている。特に信実は一尺五寸の坐像を主に描いており、まさにこれもその寸法である。信実によるものを九条兼実か九条道家、あるいはその子孫、または鷹司家が、往生院に下賜したものであろうかと思われる。
玉日姫坐像
この尼像は、親鸞聖人の後妻・恵信尼ではなく、前妻・玉日姫である可能性が高い。九条家の菩提寺であった往生院において、当時は徹底的な念仏法難の折にて、京都や奈良では念仏での供養は難しい中(大坂の四天王寺でも念仏停止中)であったが、往生院であれば、幕府や南都仏教の監視を掻い潜って、玉日姫の菩提を念仏供養にて行えたものと考えられる。親鸞聖人の妻は二人おり、一番有名であるのが、三善為教の娘、つまり、恵信尼。三善為教となれば、その先祖は三善為康と思われる。為康は、拾遺往生伝を著した浄土教信仰者で、その拾遺往生伝には、平安期に念仏聖の安助上人が往生院を創建された由来が詳しく記されている。その恵信尼とは別人である親鸞聖人の最初の妻が、関白・九条兼実の娘の玉日姫(たまひひめ)である。
九条兼実は、法然聖人の弟子で、浄土信仰の篤信者でもあり、教義的な確信を得たいとのことから、法然聖人に弟子と自分の娘との結婚を懇願し、親鸞聖人が選ばれたということである。更に、九条兼実の異母兄弟には、親鸞聖人の戒師となった天台宗の慈鎮和尚(慈円)がいる。つまり、親鸞聖人と九条家との関係もここで生じているところである。また、同じ藤原家の流れとなる日野家の親鸞聖人と藤原家の流れの当時の一番の有力者である九条兼実の娘との結婚、そして、当時の日本仏教界の指導者的な立場であった慈円、その姪にあたる玉日姫と親鸞聖人との結婚は、僧侶の破戒的な行為として本来であれば咎められるところであるはずが、公然、黙認されたのも兼実と慈円が兄弟関係であったことからも頷けるところとなる。九条家、鷹司家により、江戸時代においての玉日姫の供養の際に、対となる親鸞聖人坐像と共に、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院に奉納されたものと考えられる。
玉日姫であるとして、なぜ往生院で祀ることになったのか。
浄土宗往生院の開基は、鷹司信房である。
以後、鷹司家が往生院の後見となるが、藤原北家の嫡流の流れでは鷹司家と九条家は同じ摂関家となる。特に鷹司家は戦国時代に中絶したものの、九条家の流れを汲む二条家により再興したのである。
この再興した際の二条晴良の三男・信房が、まさに浄土宗往生院の開基となっている。もともと九条兼実の頃から九条家の祈願寺であった往生院に、鷹司家が、九条家の玉日姫(兼実の娘)を供養のために祀った可能性が極めて高いと思われるのである。
また、臨済宗往生院の開基、九条道家の父、九条良経は、兼実の子であり、玉日姫とは兄弟姉妹の関係である。
父の兄弟姉妹であり、祖父の兼実から道家は後継ぎとして寵愛されていたことから、その道家がよくよく兼実から話を伺っていたであろう玉日姫のことを篤く弔ったことは十分に考えられる。
つまり、浄土信仰の中心地でもあった往生院において、玉日姫が亡くなった当時、念仏はまだ法難中ではあるものの、法然聖人、そして正妻として親鸞聖人と、浄土教との強い縁があった玉日姫を、浄土教の根本地である往生院にて隠れて弔わせた可能性が極めて高いと思われるのである。
そして、関東から関西に戻った親鸞聖人が、玉日姫の菩提を弔いに、玉日姫の縁のある地としての往生院を参詣した可能性がある。その際に、妻である玉日姫の供養の意のためにと、自分の像を作って、あるいは作らせて、安置させ、常にそばに私がいるからと、手厚く供養したとも推測できるのである。
また、あくまでもこれも推測となるが、玉日姫の遺骸の一部か、遺髪か、遺品かが、九条家の祈願寺としての往生院に祀られてある可能性も否定はできない。
であれば、やはり親鸞聖人が供養のためにと自分で彫った自作像ということも否定されるものではないと考えることができるのである。
舎利容器と舎利塔
かなり古い金属製の方には明らかに舎利がない。しかし、本堂最奥にあり、昔から寺宝級として大切に保管されてきてあったと思われる複数は、当寺院と縁のあったとされる高僧、その中でも慈雲尊者の舎利(遺骨)であると先代は判断して、新本堂建立に際して、東西の三重塔に全ての舎利を納めたようである。
これまでの調査から分かってきたことから、あくまでもここからは私の憶測となるが、木製の古い舎利塔には、玉日姫の御遺骨か遺灰、遺髪が、そして金属製の舎利塔には、もしかすると親鸞聖人の御遺骨が納められてあったのではないかと思われるのである。
本当であるとすれば、わざわざ自分の木像まで自分で彫って、玉日姫の菩提を弔った親鸞聖人のことである。
ご本人の御遺志ではなくとも、九条家の当代か、あるいは、玉日姫のお付きで、のちに親鸞聖人の下で出家した田村光隆(有阿弥1176~1269)が、親鸞聖人のご遺骨を幾つか譲り受けて、玉日姫のそばへとお祀りした可能性もあるのではないかと思われるのである。
慈雲尊者の舎利と判断した先代も、明治、大正、昭和と戦時における混乱の中で、その由来となる文献類のほとんどが滅失していたため分からなかったが、この舎利塔らの護持のあり方には、何か特別なものがあると思われて、慈雲尊者のものとして三重塔に納められたのであろう。
私の推測が正しければ、本堂前の東西の三重塔には、親鸞聖人の御遺骨と、玉日姫の御遺骨あるいは遺灰、遺髪が祀られてある可能性もあるのではないかと考えており、今後の調査の進展を待ちたいところである。
その他、今回の調査対象
伝・浄泉和尚(浄土宗・往生院中興開山)坐像
江戸時代に作成されたものと思われるが、はっきりとした由来はわからない。
百万塔
百万塔は、天平宝字8年(764)におこった恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱後の動乱を鎮めるために、称徳天皇によって発願され、宝亀元年(770)に完成した100万基の小塔。中には陀羅尼経の一片が納められている。その一つで、奈良時代に聖武天皇勅願・行基開基にて創建された六萬寺に奉納されてあったものが、六萬寺の後に創建された往生院へと伝わったものであると推測される。
役行者坐像
旧本堂から昭和2年建立の行者堂にて祀られていた。行者堂は後に傷みのため解体、その後、現在の新しい本堂へと安置された。江戸時代の制作と思われるが、由来ははっきりしていない。伝わるところでは役行者の自作となっている。今回改めて調査対象とする。
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2023年06月24日
往生院の歴史について(関連年表)
最新年表はこちらになります↓
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html
往生院関連年表を更新しました
桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった
念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)
安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。
この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。
往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。
玉日姫供養
九条家の祈願寺として九条家の子女であった玉日姫を供養
慈円、良快、慈源など九条家の者が四天王寺別当であった時代以降の往生院では、同じく九条家に関係する僧侶により管理されていたものと思われる。
仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。
親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する
九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)
円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺・初代住職は円爾)
親鸞の供養
楠木家の要所となる。山城として利用される。この頃から、河内地方は楠木家等、武家勢力が支配する地域となり、各地にあった九条家など公家の荘園地・寺社領地は急速に失われていった中で、往生院も九条家の管理から離れた可能性が高い。
夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる
楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。
楠木正行と弁内侍が結婚
(弁内侍は後醍醐天皇の女官で親鸞と同族となる日野俊基の娘)
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。
北畠親房の長男・花将軍・北畠顕家が戦死。顕家は南朝勢力維持のため後醍醐帝の下、各地を転戦して活躍した。
四条縄手の合戦、高師直と楠木正行・正時が戦う。往生院が本陣となる。正行死後、黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。翌年に楠木正儀が供養のため来寺している。
楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺
畠山家内紛時に城塞化が進む
応仁の乱
若江城の戦い・往生院城焼失
畠山義豊戦死・往生院城焼失
往生院の本堂にあった説相箱が古・神感寺へと渡っている。
戦国期、往生院は、城塞として利用されるものの、細川晴元の内衆三好家に仕えていた渡辺(稙)孫三郎(渡辺惣官家)の所領となり、三好長慶が畿内を制覇した際には、その所領を安堵されている。また、織田信長が三好三人衆を畿内から駆逐した際には、渡辺(稙)孫三郎は信長に従い、その所領が安堵された。渡辺(稙)孫三郎が織田信長に所領地を安堵された理由の一つには、渡辺家が元々は南朝の功臣であったからではないかと思われる。信長は南朝功臣たちを明らかに厚遇、一定配慮しているのが分かる。
江戸前期の往生院には、有名な大きな柘榴の木があった。(和漢三才図会・河内國名所鑑)近くの寺院には、南北朝期に会通していた古・神感寺があり、山号は楉蔵山であった。古・神感寺由来の柘榴ではないかと考えられる。
鷹司信房の開基により浄土宗・往生院の成立。欣誉浄泉(池島村・富家家)が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。浄土寺往生院と戦時供出した梵鐘に銘されていた。寺号を浄土寺としていたことが分かる。
浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。
また、何よりも親鸞の正妻であった玉日姫を祀る九条家の祈願寺であり、親鸞の自作坐像が納めてあったこと、玉日姫、
親鸞それぞれの舎利(遺骨の分骨)が納められてあった可能性もあることから、浄土真宗と併宗していた可能性も極めて高い。
十世・松誉貞故の際に寺域が再整備される。池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。
江戸後期、本願寺派20世・広如の時に、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡が一斉に整備された際、鷹司家により、往生院に玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納された。
往生院は、明治期に楠木正行公御墓所を御陵墓(小楠公神社)とする計画が立ち上がり、その中心となった会が南木会(明治35年発足)であった。会長は、鷹司熈通。そして、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院は、この南木会によって小楠公神社の一角になっていた可能性があった。
寺院としての根底が破壊されてしまいかねなかった時期である。(但し、神仏分離令の例外として往生院存続のためにやむなく神社の一角となり往生院を再興しようとしていた可能性もあった。)
しかし、この南木会は財政問題により早々に解散。やがて小楠公神社の中心的な整備は、四條畷神社へと移り、往生院は難を逃れた。
以後、九条家・鷹司家と往生院は戦後に交流は完全に絶えたが、現代では、春日大社の藤裔会での、寺族との個人的な挨拶程度における交流、面識が続いている。
大正・昭和・平成・令和の歴史は別紙、川口家関連年表を参照
[雑記]明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちが多く、やがて信長を総大将として、南朝の復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。楠木家の子孫である楠木正虎も書記官として信長に仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちへの配慮であったと思える。また、津島大橋家と織田家との間の信弌は、織田家の連枝(一門)となっている。一説には津島大橋家が後醍醐帝の後胤であったとされることからも、南朝方においては、南朝後胤を天下統一間近である織田家の一門に加えることのできた意義は大きく、それもあって、いよいよ南朝の復権を恐れた朝廷が、本能寺の変の背後にあったとしても全く不思議ではない。とすれば、光秀の本命は信長よりも信弌にあった可能性も否定できないだろう。(明智家の出自となる土岐家は、南北朝時代、最初は後醍醐帝に従うも、その後は足利尊氏に従って北朝の功臣となり、美濃守護となっている。その土岐家、足利家に従ったのが明智家であり、光秀も信長の家臣ではあるものの、信長の足利義昭追放後には北朝方の一番の有力者となっていたのである。)
[雑記]関ヶ原の戦いにおいて小早川秀秋が西軍であるべきが、東軍についたのは後南朝の朝廷が関係していたと思われる。小早川秀秋は、木下家の出自で、秀吉の後継者の一人として豊臣家の連枝となっていた。本来は秀頼の後見人と期待されると共に、当然に豊臣家を守るべきであるはずが、関ヶ原の戦いにおいて裏切り、徳川家康につくことになった謎が、後南朝の朝廷にあり、後南朝後胤である小倉宮家とは、越前(福井)・北ノ庄15万石の大名に転封になった際に、秀次事件に連座して以来、中央政権への再起を図るため、美作には行かずに北ノ庄に残っていた小倉宮家との関係を築き、そして、南朝方勢力が集まっていた徳川家康に従うことになったと考えることができる。関ケ原の戦いでの論功行賞により、秀秋は、宇喜多秀家(西軍側)の改易によって岡山藩主となる。これには、既にあった小倉宮家の美作・津山の後南朝・小朝廷「植月御所」を管轄、庇護するようにとの家康の裏の意図があったのではないかとも思われる。秀秋の死去後には、跡継ぎがなかったため、無嗣改易となり、その後は、やはり南朝方と言える織田信長の家臣として活躍した森可成(清和源氏の流れ)の子・森忠政が美作・津山藩主とし、後南朝朝廷を安堵している。同族の森家は、南北朝時代には細川清氏(北朝方から南朝方となった)に仕えて南朝方として戦っている。森可成は、土岐家、斎藤家、織田家と従っている。森可成の兄弟には本能寺の変で信長と共に死去した森蘭丸がいる。その後、津山藩・森家は四代にわたり後南朝・美作朝廷を庇護するものの、やがて幕府により意図的に森家改易と共に美作朝廷は廃絶されることになる。(1697年・幕府による良懐親王号の剥奪。)
伝・聖武天皇御宸筆・六萬寺・山門額「岩瀧山」
藤原北家、関白・藤原忠通の六男として九条兼実誕生。1155年、兼実の弟である慈円誕生
九条兼実、摂政・関白・太政大臣と出世。弟・慈円は、四天王寺別当、天台座主となる。慈円は後鳥羽上皇の護持僧。浄土信仰に篤い四天王寺における念仏三昧院では民衆だけでなく後白河法皇、天台宗の高僧などによっても百万遍念仏行が常時行われていた。しかし、承元の法難では四天王寺でも念仏停止となる。
九条兼実・法然の下で出家
九条良経(九条家二代目)・死去
九条兼実・死去。九条道家・九条家三代目当主となる。
九条家の玉日姫の供養においては、親鸞の妻であると共に、父である九条兼実の浄土信仰の篤さからも、本来は、念仏・浄土宗において供養するところ、念仏停止の法難中のため、法難の中でも浄土教・念仏で供養ができるところとして、往生院において菩提が弔われた可能性が高い。その際には、玉日姫の遺骨を分骨した可能性もある。(但し、往生院では明治における四條畷神社建立地選定の際に、それを免れるべくに多くの歴史的な古文書等を処分してしまったため、保管されてあった舎利容器の遺骨の由来について書かれたものもその際に失われた可能性があり、それらの舎利を慈雲尊者の舎利と伝わってあるものとして、1980年、新本堂前の三重塔建立時に埋葬されてしまった可能性がある。)
慈円・示寂
九条道家・安貞二年の政変で復権。(仁和寺御室・道深法親王がその立役者)
近衛家実から関白を奪還
四条天皇の即位・母は九条道家の娘。九条道家、権勢の全盛期を迎える。
九条道家の長男・四代目当主・九条教実死去。その後、九条道家の次男の良実が二条家、四男の実経が一条家と、それぞれの初代となり、九条家分裂。室町・戦国期以降、九条家の権勢は徐々に衰え、荘園地・寺社領地も失っていく。
九条道家・東福寺(九条家菩提寺)建立の発願
慈円・慈鎮和尚の諡を四条天皇より賜る。慈円13回忌。九条兼実の30年遠忌。九条教実の3回忌。法然の遠忌もあり、親鸞と九条家にとっては大切な節目の歳と言える。九条道家の娘・仁子が近衛兼経へと嫁ぐ。九条家と近衛家の和解。近衛兼経が四条天皇の摂政となる。近衛兼経の兄弟・近衛家実の四男・鷹司兼平が鷹司家の初代となる。
九条道家の五男・福王(法助)が仁和寺御室・道深法親王の弟子となる。道家・良快の下で出家する(良快は兼実の子・道家の叔父・天台座主・四天王寺別当)
道家の子・慈源や慈実も天台座主・四天王寺別当になっている。日本仏教界を実質、九条家が管理していた時代でもある。
九条道家・死去
東福寺の完成
親鸞往生後、所縁のところへと遺骨が分骨される。
遺骨分骨の際に、九条家か、あるいは、親鸞の弟子
で玉日姫のお付きであった田村光隆(有阿弥)が、往生院へ親鸞の遺骨を分骨した可能性がある。(慈雲尊者の舎利とされて、1980年、新本堂前の三重塔建立時に納められたものがそうであった可能性がある。また、幾つかの舎利容器の一つには分骨された玉日姫の遺骨も含まれてあった可能性がある)
南北朝~室町~戦国と武家中心の政権となり、それに伴い九条家を始めとした摂関家、公家の力は衰えていく。
南北朝時代から戦国時代にかけて、特に河内地方における河内十七箇所の荘園群を巡っての争奪戦が激しく繰り広げられることになる。往生院もその争いに巻き込まれることになっていく。
新田義貞・燈明寺畷で戦死
楠木正行は幼少期を多く過ごし、武芸をみがいた往生院にて本陣を構えて決戦へと挑むことになった。
畠山義就と畠山政長との争い
畠山義就による河内平定
畠山尚順との家督争い
説相箱はその後、竹林寺、唐招提寺へと渡っている。
鷹司家12代・鷹司忠冬・死去・直系が絶える。
九条家15代・九条尚経の長女・経子を母とする二条晴良の子・信房が、織田信長の勧めによって正式に鷹司家を再興する。
鷹司信房、関白となる
信房の兄は、九条兼孝・17代九条家当主。九条尚経は九条兼孝の曽祖父にあたる。
九条家19代当主・道房死去。鷹司家から養子を迎えて、九条兼晴が20代・九条家の当主となる。江戸期以降、鷹司家と九条家はほぼ同家となり、鷹司家が九条家の祈願寺であった往生院の後見となる。
以後、九条家と共に鷹司家の祈願寺にもなる。後陽成天皇より御宸筆の勅賜本堂額「往生院」を賜る。
早逝した鷹司基輝の御袍が供養のため往生院に奉納されている。
113代・東山天皇の子・閑院宮直仁親王の娘が、本願寺派16世・湛如に嫁いでいる。閑院宮直仁親王の第四王子は、鷹司家の養子となった鷹司家21代の鷹司輔平。この時、鷹司家が皇別摂家となる。鷹司輔平の子が、鷹司政熈。その娘が、本願寺派20世・広如に嫁いでいる。また、閑院宮直仁親王の第三王子が、典仁親王。その子が、光格天皇となり、その直系が現代の天皇家まで続いている。
鷹司政熈の子が鷹司政通。
鷹司政通→鷹司輔熈(九条家からの養子)と続く。
本願寺派20世・広如の時に、九条家・鷹司家が、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡を一斉に整備して玉日姫の総供養を行っている。
鷹司家は、明治5年に、九条尚忠の子・熈通を、鷹司輔熈の養子として迎えて当主とし、また九条家の本流となった。鷹司熈通は、九条家29代・九条尚忠の子。鷹司家養子となる。大正天皇侍従長、貴族院議員。兄弟姉妹には、孝明天皇に嫁いだ皇后・夙子。
また、尚忠の子、道孝の四女は、大正天皇に嫁いだ皇后・節子。そして、昭和天皇が誕生する。
鷹司家は、その後、信輔、平通と続き、その後は松平家から養子(鷹司信輔の娘の子)を迎えての鷹司尚武が、現当主となる。九条家は、九条尚忠→九条道孝→九条道実→九条道秀→九条道弘と続き、九条道成が、現当主となる。
[雑記]徳川家康の出自の松平家は、元々は新田系清和源氏である世良田氏からの流れとされている。世良田家は、新田家と共に後醍醐帝、特に宗良親王に仕えて各地を転戦した南朝功臣である。津島大橋家とももちろん縁が深く、同志中の同志である。織田信長が松平家、徳川家康を厚遇したのも、津島大橋家と一緒で、やはり南朝功臣であったからだと推測できる。非情だとされた信長ではあるが、よくよくに調べてみると南朝功臣の子孫となる者たちにはかなり配慮している。一方、北朝側の子孫へは容赦しなかった。この歴然としてある差はいたるところで現れている。やはり、信長は南朝功臣たちの勢力、復権への悲願を利用することにより北朝勢力を排して天下統一を果たそうとしたのではないかと思われるのである。そのあともう一歩のところで、足利義昭の下で一番の幕臣であった明智光秀により討たれることになる。その後、豊臣秀吉により天下統一は達成されるが、南朝方の復権とまではならずであった。秀吉の死去後、南朝功臣たちは徳川家康をその中心として、やがて豊臣政権を打倒、江戸幕府が開かれることになるのである。関ヶ原の戦いも各勢力を分析すると、まさに北朝方と南朝方との争いに分けることができるのである。そして、明治維新の戊辰戦争もその構図は続き、その中心となった新政府軍・薩摩藩・長州藩は、北朝方、幕府側は南朝方と分けることもできるのである。
[雑記]正史では、後水尾天皇の次の天皇は、明正天皇となっている。この間では朝廷と幕府において色々と揉め事が起こっている。高仁親王の名も正史には確かにあるが、それは夭折した後水尾天皇の実子とされている。一方、美作後南朝史では、1626年に後水尾天皇より譲位されて、後南朝天皇・高仁天皇(正統歴代には含まれていない)が即位し、1634年には幕府により廃位されて、明正天皇(女帝)がその次となっている。後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川秀忠の五女の和子であり、徳川家の外戚が天皇となったのである。この間に、もしも後南朝側の天皇を幕府が意図的に即位させていたとするならば、その意図は、南朝方勢力への配慮であったと言えるのかもしれない。徳川家にとっては、南朝方功臣たち子孫の活躍によって、関ヶ原の戦いも勝利できたため、その最大級の見返りということになります。南朝功臣たち子孫の悲願は、何よりも南朝方天皇の即位にあったからであります。しかし、美作後南朝史では間もなくして高仁天皇は廃位に追い込まれています。やはり、北朝の天皇が正統であるということが、当然に朝廷・公家たちの認識であり、後水尾上皇もまだまだ健在で院政をしいており、王子も誕生していたのであるから、そんな幕府の側の事情などお構いなしで、南朝の高仁天皇など微塵も認めることなどなかったと推測できるのであります。当然に歴代天皇、歴史上にも記録が残されなかったわけです。そして、徳川家にとっては、その外戚となる皇女が天皇となるのだから、いくら南朝方であった松平家とはいえども断る理由などどこにもなく、むしろ歓迎されるべきことであったのかもしれません。
法然・誕生
親鸞・誕生
法然・浄土宗立教開宗
親鸞・慈円(青蓮院門跡)の下で得度
親鸞・磯長の夢告
法然・慈円や兼実と交流、四天王寺で日想観を修している(一心寺は、法然の日想観の庵)
法然・選択本願念仏集を著す(九条兼実の要請)
親鸞・六角夢告
親鸞・法然の弟子となる
親鸞・玉日姫(九条兼実の娘)と結婚。範意(印信)・善鸞の誕生
興福寺奏状(貞慶・解脱上人の起草)
承元の法難(後鳥羽上皇)
法然・土佐へ流罪
親鸞・越後へ流罪
玉日姫・死去(25歳)
法名・善変、京都伏見・西岸寺(九条兼実の父・藤原忠通が建てたと伝えられる法性寺の小御堂が後の西岸寺)に葬られる
親鸞・越後にて三善為教の娘・恵信尼と結婚
恵信尼の先祖には拾遺往生伝を著した三善為康がいる。(安助上人が往生院を創建した由来が記されてある)
法然・京都へ帰る
法然・往生
(親鸞・越後から一時帰京して玉日姫と法然の墓参をする)
親鸞・越後から関東へ
承久の乱(後鳥羽上皇の失脚)
親鸞・顕浄土真実教行証文類を著す(浄土真宗・立教開宗)
法然・親鸞と親交が深くあった九条兼実(兼実は、法然・親鸞と熊谷直実[蓮生法師]と高野山参籠も共にしている)は、九条道家の祖父。寵愛を受けていた道家は、祖父より法然・親鸞の庇護を頼まれていた可能性が高く、九条道家が執権を担うと共に、念仏への弾圧も当然に緩みつつあったと思われる。※熊谷直実は平敦盛を討った武将
親鸞・関東から京都に帰る
玉日姫の27回忌を期として帰京したと思われる。当時の日野家15代当主・日野家光が病床に伏したことも関連があるかもしれない。以後、京都で過ごすことになった下京区の光圓寺は九条兼実の別荘・月輪本庄花園殿のあった地で、結婚時代に玉日姫と過ごしたところにて晩年を迎えて往生するのである。
親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する
法然・華頂尊者の諡を四条天皇より賜る。法然25年遠忌。
日野家15代当主・日野家光死去
全国に伝わる玉日姫の墓所
京都・伏見の西岸寺の御墓所。茨城・笠間の西念寺(稲田の草庵跡)の御廟。茨城・結城の玉日姫の御墓所。
親鸞・玉日姫との次男・善鸞を義絶
親鸞・往生
唯善事件・大谷廟堂留守職就任問題・浄土真宗後継問題・1309年決着・覚如(親鸞と恵信尼の娘である覚信尼の子)が後継となる。この際、覚如の異母兄弟・唯善と親鸞と玉日姫の子・範意の娘の子・源伊とも後継を争ったとされる。
三世・覚如・大谷廟堂を寺院化し本願寺とする
正中の変。後醍醐天皇の下にあった日野資朝・日野俊基が鎌倉幕府討幕を計画し失敗する。
建武の新政(後醍醐天皇)
足利尊氏、日野賢俊の仲介にて光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受ける。
足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を起こす。後醍醐天皇、吉野にて南朝を立てる。(南朝・大覚寺統と北朝・持明院統に天皇が分かれる)
日野家は室町幕府の立役者となったことで、以後、足利家の下で権勢を強めていく。
四世・善如・楠木正勝に浄土真宗を講じる
蓮如・東国布教
蓮如・本願寺八世となる
日野家の権勢、日野富子の代で最も大きくなる。
蓮如・石山本願寺建立
蓮如・往生
1559年に正親町天皇の綸旨により本願寺が門跡寺院となる。本願寺は正親町天皇へ多額の援助をしており、また、証如・顕如が摂関家である九条家の猶子となって門跡に相応しい格式を得たとして門跡への昇格を求めていた。蓮如以来、教勢が一気に拡大していく。
本願寺が東西に分かれる
九条忠栄の娘と本願寺派13世・良如が結婚。(玉日姫以来、九条家と再び縁戚関係となる)。同時期には、東本願寺・13世・宣如が九条幸家の娘と結婚。その子が14世・琢如。琢如は、近衛信尋の娘と結婚。
本願寺派14世・寂如と鷹司信房の娘が結婚。(鷹司家と縁戚関係になる)
九条兼晴の子・住如が本願寺派14世・寂如の養子となる。寂如の娘と結婚。住如が本願寺派15世となる(九条家の者が宗主となる)
本願寺派16世・湛如死去(一説には自害)後、湛如の弟の静如が法継したが即隠居させられ、河内国・顕証寺住職の寂峰が法如として本願寺派17世となる。本願寺派7世・良如の子の寂円の子。
本願寺派18世・文如、二条宗基の娘と結婚(二条家と縁戚関係)
鷹司政通の子・華園摂信(東山天皇系)が真宗興正寺派・27世門主となり、西本願寺から興正寺が独立する。華園沢称→真淳→真暢→沙弥香
本願寺派20世・広如、鷹司政熈の娘と結婚。同時期、東本願寺20世・達如も鷹司政熈の娘と結婚している。
明治になり、本願寺派21世大谷光尊の子・3名が九条道孝の子・3名と結婚している。本願寺派22世・大谷光瑞(大谷探検隊で有名)は、道孝の娘・九条籌子と結婚。本願寺派23世・大谷光照の母は九条道孝の娘・紝子。大谷光照→大谷光真→大谷光淳と続く。
東本願寺・24世・大谷光暢は、久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹にあたる智子女王と結婚。智子女王は、現上皇(平成天皇)の叔母にあたる。大谷光暢による開申事件以降、宗門の方針、教義的な論議が激化し、やがてお東騒動へと発展し、東本願寺は著しく分派・分裂することになる。真宗大谷派・大谷暢裕、浄土真宗東本願寺派・大谷光見、浄土真宗大谷本願寺派・大谷暢順、真宗東派・大谷光道。鷹司輔平の子には、真宗高田派の門主となった円祥がいる。その後は、近衛忠煕の子、常盤井堯煕が有栖川宮家として入り、堯煕の後は、近衛忠房の子、常盤井堯猷、鸞猷、慈祥と、近衛家の流れとなっている。真宗佛光寺派は、鷹司政通の三男、教応の跡を、伏見宮邦家親王の子・家教が26世となり、以後、渋谷姓を名乗り、真意尼、渋谷隆教、渋谷有教、真承、暁真、恵照、真覚と続く。真宗木辺派は、西本願寺、本願寺派21世、大谷光尊の次男、孝慈を20世として迎えている。木邊孝慈→宣慈→円慈→顯慈と続く。真宗出雲路派は、18世に真宗興正派の22世・寂永の子を迎えている。真宗誠照寺派は、近年、二条家が歴代門主となっている。二条家は、九条家、鷹司家とほぼ同格摂家である。
[雑記]南北朝の統一・明徳の和約が破られると、後南朝勢力が南帝を擁立して蜂起することが度々に起こる。北畠満雅による後亀山上皇とその皇子・小倉宮恒敦を擁立しての挙兵(和睦)、恒敦の子・小倉宮聖承を擁立しての挙兵(伊勢守護・土岐持頼により鎮圧)、その後も楠木家による挙兵(畠山持国により鎮圧)、源尊秀によって南朝皇胤とされる通蔵主・金蔵主兄弟を擁立しての禁闕の変(鎮圧)、同じく南朝の皇胤であるとされる自天王と忠義王が、赤松家再興を目指していた赤松家家臣たちにより討ち滅ぼされる長禄の変、また、後村上帝の孫である円満院門跡・円胤(説成親王の子)の挙兵(鎮圧)、そして、小倉宮の末裔とする者たちによる挙兵と相次ぐも、全て失敗に終わることになる。その後、戦国時代へと向かう大きなきっかけとなる応仁の乱でも、南北朝が絡むことになり、東軍は北朝、西軍が南朝といった構図となる。東軍の総大将・細川勝元が、後土御門天皇・足利義政を味方としていたことに対抗して、西軍の総大将・山名宗全は、南帝(奈良・高取の壷阪寺にいたとされる小倉宮の末裔)を擁立し、南朝勢力を結集して戦いを進めていこうとする。しかし、山名宗全が死去し、東西の和議が成立すると、この西陣南帝は放逐され、越前(福井)・北ノ庄へ落ちのびる。また、小倉宮家は、近江(滋賀)・甲賀を経て、山名宗全と同族で、嘉吉の乱後に赤松満祐の討伐の功績により、美作・石見守護となった山名教清(祖父の山名時氏は、新田系源氏ではあるが、足利家との姻戚関係から最初は足利尊氏に従うも、その後、足利直義に従って南朝方となる)を頼って美作(岡山)・津山へ辿り着き、吉野と同様に小朝廷「植月御所」を立てることになったともされる。流れとしては、小倉宮良泰の子・高福天皇(尊義)・後南朝初代天皇→義有親王の子・興福天皇(尊雅)→尊義親王の子・忠義天皇→尊朝親王→尊光親王→尊通親王→尊純親王(青蓮院宮、1638年・天台座主になる)→高仁天皇(1626年・後水尾天皇より譲位されたとされているが、1634年幕府により廃帝。但し、正統な天皇の系統には入っていない。後水尾天皇の次は、その皇女・明正天皇となっている。この譲位は名目的なもので実質的には後南朝後胤の断絶を意図した幕府の懐柔策として行われたものであると思われる)→良懐親王(1697年・幕府により親王号剥奪。1709年、岡山・西大寺へ参詣に向かう途中で死去。暗殺されたとも。)以後、小倉宮家は断絶されたとされるが、この小倉宮家の末裔と称する者たちが戦後に南朝系の天皇であると何人も名乗り出ている。
[雑記]明正天皇の後には、後水尾天皇と藤原光子(壬生院)との男子である素鵞宮が、後光明天皇として即位。しかし、後光明天皇は早逝し、その弟が後西天皇となり、その次には後水尾天皇のまた別の王子である霊元天皇、そして、その次には霊元天皇の子、東山天皇と、北朝方の天皇がそのまま続くことになります。当然に後南朝など論外とされています。やがて、五代将軍・徳川綱吉の代においては、後南朝後胤の断絶策が講じられることになり、1697年、美作・津山藩主・森家が正当な理由が見当たらないのに突然に改易処分とされて、幕府によって美作後南朝の良懐親王の親王号は剥奪、その後に暗殺されたと思われるのであります。関ケ原の戦いで活躍した南朝方功臣の子孫たちも、代がすっかりと変わってしまい、後南朝のことなど忘れ去られつつある中、もはや遠い昔のことになってしまっていたのでしょう。奇しくも、津山藩主・森家が改易された同時期には、青菅旗本の川口家も改易されています。同じ南朝功臣の子孫、織田家家臣の子孫という繋がり・・果たして偶然といえるでしょうか。
桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった
念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)
安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃から、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)。九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。
往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。
仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。
親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する
九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)
円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺・初代住職は円爾)
楠木家の要所となる。山城として利用される。
夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる
楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。
北畠親房の長男・花将軍・北畠顕家が戦死。顕家は南朝勢力維持のため後醍醐帝の下、各地を転戦して活躍した。
四条縄手の合戦、高師直と楠木正行・正時が戦う。往生院が本陣となる。正行死後、黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。翌年に楠木正儀が供養のため来寺している。
楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺。
畠山家内紛時に城塞化が進む
畠山義就と畠山政長との争いに巻き込まれる
応仁の乱
若江城の戦い・往生院城焼失
畠山義豊戦死・往生院城焼失
畠山尚順との家督争い
往生院の本堂にあった説相箱が古・神感寺へと渡っている。
戦国期、往生院は、城塞として利用されるものの、細川晴元の内衆三好家に仕えていた渡辺(稙)孫三郎(渡辺惣官家)の所領となり、三好長慶が畿内を制覇した際には、その所領を安堵されている。また、織田信長が三好三人衆を畿内から駆逐した際には、渡辺(稙)孫三郎は信長に従い、その所領が安堵された。渡辺(稙)孫三郎が織田信長に所領地を安堵された理由の一つには、渡辺家が元々は南朝の功臣であったからではないかと思われる。信長は南朝功臣たちを明らかに厚遇、一定配慮しているのが分かる。
キリスト教伝来
桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る
織田信長が足利義昭と共に京都に入る
室町幕府滅亡
安土城完成
本能寺の変
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が豊臣秀吉に敗れる
豊臣秀吉が関白になる。
豊臣秀吉が天下統一
豊臣秀吉死去
関ヶ原の戦い・東軍の勝利
江戸幕府成立
大坂夏の陣・豊臣家滅ぶ
江戸前期の往生院には、有名な大きな柘榴の木があった。(和漢三才図会・河内國名所鑑)近くの寺院には、南北朝期に会通していた古・神感寺があり、山号は楉蔵山であった。古・神感寺由来の柘榴ではないかと考えられる。
鷹司信房の開基により浄土宗・往生院の成立。欣誉浄泉(池島村・富家家)が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。後陽成天皇より御宸筆の勅賜本堂額「往生院」を賜る。以後、九条家と共に鷹司家の祈願寺にもなる。浄土寺往生院と戦時供出した梵鐘に銘されていた。寺号を浄土寺としていたことが分かる。浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。
早逝した鷹司基輝の御袍が供養のため往生院に奉納されている。
十世・松誉貞故の際に寺域が再整備される。
池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。
江戸後期、本願寺派20世・広如の時に、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡が一斉に整備された際、鷹司家により、往生院に玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納された。
往生院は、明治時代に楠木正行公御墓所を御陵墓(小楠公神社)とする計画が立ち上がり、その中心となった会が南木会(明治35年発足)であった。会長は、鷹司熈通。そして、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院は、この南木会によって小楠公神社の一角になっていた可能性があった。寺院としての根底が破壊されてしまいかねなかった時期である。(但し、神仏分離令の例外として往生院存続のためにやむなく神社の一角となり往生院を再興しようとしていた可能性もあった。)しかし、この南木会は財政問題により早々に解散。やがて小楠公神社の中心的な整備は、四條畷神社へと移り、往生院は難を逃れた。その後、明治時代後半から荒廃したままの往生院は無住となり、村の総代、世話人たちが管理していた。南朝にゆかりのある者を住持として迎えたいとして待つ中、大正14年に川口蓮海が入寺し、浄土宗教師となって再興を目指すことになる。
川口蓮海は、楠木正行御墓所の整備、林間学舎建設(1930)、楠公道場の建設(1940)など、心身の鍛錬所として寺院を開放していた。また、菊水会・楠薫会・三寶会など講社を結成して往生院の檀家を増やすことに努力する。神武天皇御聖蹟巡拝会も結成している。文筆家としても小説の刊行、また、小誌を多く監修している。
往生院参道整備・桜並木化
行者堂建立(1926)
小楠公銅像建立(1927)
菊水寮建立(1930)
楠公道場建立(1940)
梵鐘の供出
小楠公銅像の供出
学童疎開の受け入れ
8月11日・川口蓮海・往生
8月15日・終戦
川口立誡が住職となる
単立寺院となる(臨済宗系)
檀家制度廃止、信徒制度となる
戦後すぐの頃の往生院は困窮著しく、薪を売ったり、托鉢に出るなど、日々の生活にも厳しい状況であった。法輪・菊水という機関誌を発行して生計の足しとしていた。
この頃の無縁塔の整備から始まり、本堂修理、金堂跡整備、墓苑整備、稲荷社整備と、ようやく本格的な復興が始まる。
寺務所建立
梵鐘再鋳(戦時供出)
中門建立
仏殿建立
新本堂・奥之院建立
宝蔵・校倉建立
仁王門建立
新寺務所・客殿建立
川口立誡・遷化
川口哲秀が住職となる
小楠公銅像再鋳・建立
民具供養館建立
新鐘楼堂建立
歴史館・展示館の改修建立
公衆トイレ建立
日想観法要再興
岩瀧山・滝行再興
合祀塔・やよい観音建立
寺史再考証
桓武天皇・誕生・白壁王(光仁天皇)の長男
桓武天皇・即位
桓武天皇の子・葛原親王(桓武平氏の祖)→平高望→平国香(伊勢平氏の祖)
平国香・平将門の乱で戦死
平国香→平貞盛(平将門の乱の鎮圧・鎮守府将軍)→平維衡→平正度→平正衡→平正盛→平忠盛(平清盛の父)
平正度の子・正衡の兄弟・貞季の子が、平正季→範季→季房→家貞(筑後守)→
貞能(筑前守・肥後守)
平貞能は、平清盛の参謀。治承・寿永の乱で活躍。大橋姓を名乗る。
平貞能は、平家滅亡後に流浪。母が宇都宮家でもあり、親友であった宇都宮朝綱(奥州合戦で活躍)を頼り、身を寄せた。宇都宮朝綱には貞能への恩義があった。朝綱の嘆願により源頼朝の許しを得た。
貞能以降、大橋通貞→貞経→貞宗→貞俊→貞高→定清→定省(愛知県津島市に奴野城を築城・城主となる)
津島四家七名字。新田系の四家としての大橋家・恒川家・岡本家・山川家、七名字としての堀田家・平野家・服部家・光賀家・鈴木家・真野家・河村家となる。
南北朝時代から戦国時代にかけて、特に河内地方における河内十七箇所の荘園群を巡っての争奪戦が激しく繰り広げられることになる。往生院もその争いに巻き込まれることになっていく。
足利尊氏、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受ける。
新田義貞・燈明寺畷で戦死
後醍醐天皇を助けた北畠親房の三男・北畠顕能は伊勢国の国司となり、以後、公家大名として伊勢周辺域を支配している。この際に北畠家に従い、南朝方の武将として参戦し、新田義貞・楠木正成と共に活躍することになったのだと思われる。
定省→信吉→信重(良王君の子・後醍醐天皇の後胤説)→定廣
定廣の子に、定安(禅休)・宗定・定祐・廣正と女子(大河内家へ嫁ぐ)・女子(蜂須賀家へ嫁ぐ・蜂須賀正勝の母)がおり、この内の宗定(帯刀・盛祐)が、川口家へと養子に入る。
大橋家と同様に川口家も桓武平氏で、平季房の子の流れで同族であり、美濃の川口村(岐阜県安八郡)にあった宗倫の代から川口姓となり、8代・宗持の養子に大橋家の宗定(帯刀・盛祐)が入った。
川口宗吉。妻は、小島信房の娘、織田信長の伯母とされる。大橋家と同様に織田信秀に仕える。子に川口宗勝。宗勝の織田家での厚遇から織田信長の伯母の子であると考えられる。
川口宗勝。妻は、福富直貞(福富家は織田家家臣)の娘。水野信元→柴田勝家→織田信長に仕える。織田信長の直臣旗本、弓大将となる。本能寺の変後、織田信雄、豊臣秀吉と仕える。伊勢国と尾張国内で1万8千石を拝領している。
関ヶ原の戦いにおいては、安濃津城攻めなどに参加する。西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領は没収。身柄を伊達政宗に預けられる。1606年、徳川秀忠に許されて千葉・佐倉・青菅2千5百石を賜って旗本となった。1612年、青菅にて死去。以後、1698年までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行された。徳川秀忠に許されたのは、宗勝と徳川家康との血縁関係によることからも考えられる。
川口宗勝が、織田信長、信雄に仕えていた時代、つまり、安土幕府の時には、安土城の城下屋敷に川口家も一族が移り住んでいたと思われる。現在、川口家が代々住職となっている西法寺は、元々武家屋敷であった事が、昔の地名から分かる。安土村大字中屋字屋敷内。川口宗勝の兄弟、あるいは子、川口家の一族が、武家屋敷を寺院として、信長や柴田勝家、戦友たちの菩提を弔うために僧侶となって西法寺を開基したと思われる。現在の往生院・川口家のルーツは、川口宗吉・宗勝にあると推測でき、また西法寺の由来について改めて詳しく調査、精査することで確定させることができると考えている。
織田信雄が秀吉の配下となると共に、宗勝は秀吉の家臣となる。おそらくは、織田信長の直臣であった川口家が、秀吉の家臣になることなど屈辱的でもあり、許さなかった川口家一族の中で、秀吉の家臣にはならずに屋敷を寺院として出家した者が西法寺の住職になったということではないかと考えられる。
以後の川口宗勝の直系は、徳川家の下、旗本として関東に所領を持ち、代々徳川幕府に仕えることになった。
滋賀県近江八幡市安土町中屋の浄土真宗・大谷派・西法寺は、安土桃山時代から代々、川口家が住職を勤めているものと思われる。明治時代に西法寺の住職であった川口法旭の三男・蓮海が、大正14年に往生院に入寺することになる。川口蓮海は、東京帝国大学・英文科を出て、朝日新聞の本社編集長となるも、前妻・英子の死去後、紆余曲折を経て、岸和田の久米田寺(高野山真言宗)にて得度、修行し、その後に泉南の信達楠畑にある浄土宗・大雄寺にて文筆家として小説を多く書いていた。縁によって往生院に入寺し、浄土宗へと転籍、浄土宗教師となって、往生院の復興を目指すことになる。
豊島英海が中心となり、河内新西国三十三箇所霊場を開く(1930)。現在の河内西国観音霊場の前身である。
川口立誡が三樹子(芳樹尼)と結婚。1946年に現住・川口哲秀が生まれる
川口立誡は、浄土宗で得度した後、教師過程から、思うところがあり、曹洞宗・橋本恵光老師門下となり、曹洞宗の僧籍へと転籍している。薬師寺の橋本凝胤の下で3年間、唯識を学んでいる。漢詩作成に秀でていた。法隆寺の佐伯良謙、東大寺の清水公俊らとの交流があった。
1966年・川口哲秀・岐阜・正眼寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。1969年に帰山。その後、敏子と結婚。1976年に現副住・川口英俊が生まれる。
民具供養館にて社会見学の受け入れ(延べ20万人以上)。近隣の幼稚園の園児たちの岩瀧山・登山遠足を受け入れていた。また、定期的に子ども向けの坐禅会も開催していた。
1999年・川口英俊・岐阜・
瑞龍寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。2001年に帰山。
仏像・宝物について再調査
伝・聖武天皇御宸筆・六萬寺・山門額「岩瀧山」
聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇
光仁天皇は天智天皇の孫
南都仏教を牽制・最澄留学
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北平定
平将門の乱
平忠盛は白河院・鳥羽院に仕えた武将。娘を源義忠(河内守・検非違使)に嫁がせて河内源氏と和合した。
保元の乱
平治の乱
平清盛が太政大臣になる。
源頼朝が挙兵する。
壇ノ浦の戦い・平家滅亡
源頼朝が征夷大将軍になる。
鎌倉幕府の成立
承久の乱(後鳥羽上皇流罪)
一説には、大橋定省に後醍醐天皇の子である宗良親王の娘・桜姫が嫁ぎ、その生まれた子・定元の娘が、宗良親王の子であるとされる尹良親王の子の良王君の妻となり、その子が大橋信重となるとあり、後醍醐天皇の後胤との説もある。
また、新田系となるのは、新田家の世良田政義の娘が、良王君の母であるとされたからであろう。
いずれにしても、以後、津島四家七名字、その代表であった大橋家は南朝方に従って戦ったのである。
後醍醐天皇即位
後醍醐天皇・建武の新政
後醍醐天皇が吉野に移る。
(南朝・大覚寺統と北朝・持明院統に天皇が分かれる)
足利尊氏・征夷大将軍となる
室町幕府の成立
北畠親房が神皇正統記を著す
観応の擾乱の際には南北・正平一統が一時的にあった。
南北朝の統一・明徳の和約
しかし、足利義満が死去すると和約・両統迭立が破られることになり、北朝中心の天皇継承となる。以後、後南朝勢力が断続的に新帝を立て蜂起することになるが鎮圧される。
川口家・・姓ハ桓武平氏、平宗清末流、宗信美濃国川口村ニ住シ男宗倫ヨリ川口ヲ称ス、宗倫八代ノ孫宗持大橋廣定ノ二男宗貞(定)ヲ養子トス、家紋ハ丸ニ茗荷一ノ字、王ノ字(向島岩子島史)
川口家は、大橋家とは季房までは同じ平氏で、大橋家は、家貞の流れとなり、川口家は、季宗の流れとなって、川口家は代々「宗」がつけられるようになったと推測できる。つまり、同じ伊勢平氏として大橋家ともほとんど同族関係にあったのだと思われる。そして、盛祐が、宗定と改名して、嫡子の絶える川口家を継いだと考えられる。
川口宗定の妻は、徳川家康の祖母の華陽院(於富の方)。
以後の川口家(川口宗吉から)は、徳川家康とも血縁関係ということになる。
華陽院は、松平清康、水野忠政、あと二人と結婚している。華陽院との子に川口宗吉。華陽院は、なんと5名と結婚している。よほどに魅力があったのだろう。
水野忠政と華陽院との娘(於大の方)が徳川家康の母である。
大橋安定の子、大橋重長は、織田信秀の娘婿で織田信長の姉婿である。最初は、尾張国・清洲城主織田家と領地を争っていたが、後に、織田信秀に帰順する。
大橋安定と織田信秀の娘の子は、織田一門となった織田信弌。本能寺の変で戦死した。もう一人の大橋安定の子、大橋重一は、津島に近い美濃の高須城の城主となっている。川口家の由来となった美濃の川口村にも近い。津島四家七名字に川口家は含まれていないが、大橋家と同様に武家としての力があったと推測できる。
川口宗勝が、徳川秀忠に召し抱えられることになったのは、伊達政宗の嘆願によるところも大きなところがあったと考えられる。伊達家は、南北朝時代は南朝の忠臣であり、第7代、伊達行宗(行朝)は、後醍醐天皇に従い、義良親王(後村上帝)、北畠顕家の式評定衆として尽くしており、同じく南朝の忠臣であった津島大橋家とも同朋の関係であったことから、一説に後醍醐天皇の後胤であるとされる大橋家から養子となり川口家となった子孫である宗勝を、とにかく何としてでも擁護するのは、南朝忠臣の伊達家として当然のことであったということであるのかもしれない。
大橋家は、大橋重賢が、織田家の家臣として、滝川一益に仕えたが、滝川家の没落後、福島正則に仕える。福島正則の改易後、松平直政(父は徳川家康の次男・結城秀康)に仕えて家老となっている。(松平直政が、出雲松江藩に入る際、武名の高かった福島正則・旧臣の大橋茂右衛門を6千石で召し抱え、家老としている。)
久米田寺は、往生院とも似たような歴史を持っており、奈良時代に聖武天皇勅願、行基菩薩開基の四十九院の一つとして創建されたとされており、平安時代に九条兼実の姉・皇嘉門院の持仏堂である九条御堂の末寺として寺域が整備されている。更に、南北朝時代には、楠木正成らによる南朝の一大拠点となっており、南朝からの庇護を篤く受けているのである。
大雄寺は、大正時代に、豊島妙澄尼(松山藩士の子孫)が住職になっていた。豊島妙澄尼の長女・壽子(茶道・華道・俳句の師範)と川口蓮海が結婚し、川口立誡が生まれている。大雄寺は、楠木正成の一族・和田高家が築城した岸和田城に近く、また、楠畑と名があるように、近くには楠由来の名前が幾つも見られることから、南朝・楠木家に縁があったと推測できる。現在は無住のお寺である。
豊島英海・浄土宗教師・松山藩士の子孫。蓮海の妻・壽子の弟(松山には豊島家住宅・重要文化財が残る)。
終戦後すぐの頃には、度々、窮状打開・寺院護持のための断食行、千巻心経祈願・一切経祈願・金剛経祈願・理趣経祈願が川口立誡により修されている。復興へと向けた並々ならない気迫が伝わる。
三樹子(芳樹尼)の母・塩田妙澄尼(前述の豊島妙澄尼とは別人)は大阪市・天王寺区・六大院(真言宗)の尼僧。戦後になり往生院に入り、長年、三樹子(芳樹尼)と共に往生院の復興に大変貢献される。当時、川口立誡が住職であった頃は、檀家制度を廃止しており(信徒制度)、また、川口立誡は、葬式仏教を廃するとの強い信念があり、葬式の導師を勤めることは住職在中、一度たりとも無かった。ただ、次世の川口哲秀の頃からは葬儀の導師の受け入れを再開している。寺院・小楠公の歴史・史跡の保全に努める。民具歳時記の発行(延べ30号以上)。
戦時に梵鐘と共に供出されて無くなっていた小楠公銅像を再鋳再建。
浄土真宗開祖・親鸞、親鸞の正妻・玉日姫との関連が濃厚となっている。
伝・親鸞聖人自作像
由緒書解読
具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故應頂礼
星歳如夢 往昔□□日□□末代門葉唯称佛名歓喜踊躍
祖大織冠鎌足末父有範母吉光前師慈鎮和尚後?帰?法然上人
釋愚禿親鸞世壽六十五歳而自像作者也
干時□□□丁酉年三月廿二日
南旡阿弥陀佛
丁酉(ひのととり)は、1237年1297年1357年1417年1477年1537年1597年1657年1717年1777年1837年1897年1957年
とある。本当に六十五歳の時に自作されたとすれば、1237年・嘉禎三年となる。
筆跡は、親鸞聖人の自筆では無いと思われる。筆跡を親鸞聖人真筆の教行信証等と比較すると、特に「世」が明らかに違うと思われる。また、名前も正式には、愚禿親鸞 か 愚禿釋親鸞 と書くはずである。おそらくは、後にお付の者か、弟子か、後世の者かが、その由来を書いて貼ったのだと思われる。
胎内仏・阿弥陀如来立像・金属製・後ろに「九品仏」と彫られてある
法然聖人・三日月の御影
知恩院の三日月の御影の軸画ともまた違う絵柄である。知恩院の三日月の御影は、特別な時(御忌定式)にしか掲げられない大切なもののようで、南北朝時代に描かれたものであるらしい。
三日月の御影の由来は、藤原隆信(1142-1205)が、夢の中で見た三日月に座す法然聖人であるらしいが、隆信が描いたものは、現在、現存していない(未発見)。隆信の原画ではないにしても、原画の模写の可能性もある。
藤原隆信の子、藤原信実(1176-1266)によるものではないかと思われる。藤原隆信は、歌人、画家で法然聖人の下で出家しており、藤原北流であり、九条家とも交流は深く、その子、信実は、似絵の家元になっている。特に信実は一尺五寸の坐像を主に描いており、まさにこれもその寸法である。信実によるものを九条兼実か九条道家、あるいはその子孫、または鷹司家が、往生院に下賜したものであろうかと思われる。
玉日姫坐像
この尼像は、親鸞聖人の後妻・恵信尼ではなく、前妻・玉日姫である可能性が高い。九条家の菩提寺であった往生院において、当時は徹底的な念仏法難の折にて、京都や奈良では念仏での供養は難しい中(大坂の四天王寺でも念仏停止中)であったが、往生院であれば、幕府や南都仏教の監視を掻い潜って、玉日姫の菩提を念仏供養にて行えたものと考えられる。親鸞聖人の妻は二人おり、一番有名であるのが、三善為教の娘、つまり、恵信尼。三善為教となれば、その先祖は三善為康と思われる。為康は、拾遺往生伝を著した浄土教信仰者で、その拾遺往生伝には、平安期に念仏聖の安助上人が往生院を創建された由来が詳しく記されている。その恵信尼とは別人である親鸞聖人の最初の妻が、関白・九条兼実の娘の玉日姫(たまひひめ)である。
九条兼実は、法然聖人の弟子で、浄土信仰の篤信者でもあり、教義的な確信を得たいとのことから、法然聖人に弟子と自分の娘との結婚を懇願し、親鸞聖人が選ばれたということである。更に、九条兼実の異母兄弟には、親鸞聖人の戒師となった天台宗の慈鎮和尚(慈円)がいる。つまり、親鸞聖人と九条家との関係もここで生じているところである。また、同じ藤原家の流れとなる日野家の親鸞聖人と藤原家の流れの当時の一番の有力者である九条兼実の娘との結婚、そして、当時の日本仏教界の指導者的な立場であった慈円、その姪にあたる玉日姫と親鸞聖人との結婚は、僧侶の破戒的な行為として本来であれば咎められるところであるはずが、公然、黙認されたのも兼実と慈円が兄弟関係であったことからも頷けるところとなる。九条家、鷹司家により、江戸時代においての玉日姫の供養の際に、対となる親鸞聖人坐像と共に、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院に奉納されたものと考えられる。
玉日姫であるとして、なぜ往生院で祀ることになったのか。
浄土宗往生院の開基は、鷹司信房である。
以後、鷹司家が往生院の後見となるが、藤原北家の嫡流の流れでは鷹司家と九条家は同じ摂関家となる。特に鷹司家は戦国時代に中絶したものの、九条家の流れを汲む二条家により再興したのである。
この再興した際の二条晴良の三男・信房が、まさに浄土宗往生院の開基となっている。もともと九条兼実の頃から九条家の祈願寺であった往生院に、鷹司家が、九条家の玉日姫(兼実の娘)を供養のために祀った可能性が極めて高いと思われるのである。
また、臨済宗往生院の開基、九条道家の父、九条良経は、兼実の子であり、玉日姫とは兄弟姉妹の関係である。
父の兄弟姉妹であり、祖父の兼実から道家は後継ぎとして寵愛されていたことから、その道家がよくよく兼実から話を伺っていたであろう玉日姫のことを篤く弔ったことは十分に考えられる。
つまり、浄土信仰の中心地でもあった往生院において、玉日姫が亡くなった当時、念仏はまだ法難中ではあるものの、法然聖人、そして正妻として親鸞聖人と、浄土教との強い縁があった玉日姫を、浄土教の根本地である往生院にて隠れて弔わせた可能性が極めて高いと思われるのである。
そして、関東から関西に戻った親鸞聖人が、玉日姫の菩提を弔いに、玉日姫の縁のある地としての往生院を参詣した可能性がある。その際に、妻である玉日姫の供養の意のためにと、自分の像を作って、あるいは作らせて、安置させ、常にそばに私がいるからと、手厚く供養したとも推測できるのである。
また、あくまでもこれも推測となるが、玉日姫の遺骸の一部か、遺髪か、遺品かが、九条家の祈願寺としての往生院に祀られてある可能性も否定はできない。
であれば、やはり親鸞聖人が供養のためにと自分で彫った自作像ということも否定されるものではないと考えることができるのである。
舎利容器と舎利塔
かなり古い金属製の方には明らかに舎利がない。しかし、本堂最奥にあり、昔から寺宝級として大切に保管されてきてあったと思われる複数は、当寺院と縁のあったとされる高僧、その中でも慈雲尊者の舎利(遺骨)であると先代は判断して、新本堂建立に際して、東西の三重塔に全ての舎利を納めたようである。
これまでの調査から分かってきたことから、あくまでもここからは私の憶測となるが、木製の古い舎利塔には、玉日姫の御遺骨か遺灰、遺髪が、そして金属製の舎利塔には、もしかすると親鸞聖人の御遺骨が納められてあったのではないかと思われるのである。
本当であるとすれば、わざわざ自分の木像まで自分で彫って、玉日姫の菩提を弔った親鸞聖人のことである。
ご本人の御遺志ではなくとも、九条家の当代か、あるいは、玉日姫のお付きで、のちに親鸞聖人の下で出家した田村光隆(有阿弥1176~1269)が、親鸞聖人のご遺骨を幾つか譲り受けて、玉日姫のそばへとお祀りした可能性もあるのではないかと思われるのである。
慈雲尊者の舎利と判断した先代も、明治、大正、昭和と戦時における混乱の中で、その由来となる文献類のほとんどが滅失していたため分からなかったが、この舎利塔らの護持のあり方には、何か特別なものがあると思われて、慈雲尊者のものとして三重塔に納められたのであろう。
私の推測が正しければ、本堂前の東西の三重塔には、親鸞聖人の御遺骨と、玉日姫の御遺骨あるいは遺灰、遺髪が祀られてある可能性もあるのではないかと考えており、今後の調査の進展を待ちたいところである。
その他、今回の調査対象
伝・浄泉和尚(浄土宗・往生院中興開山)坐像
江戸時代に作成されたものと思われるが、はっきりとした由来はわからない。
百万塔
百万塔は、天平宝字8年(764)におこった恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱後の動乱を鎮めるために、称徳天皇によって発願され、宝亀元年(770)に完成した100万基の小塔。中には陀羅尼経の一片が納められている。その一つで、奈良時代に聖武天皇勅願・行基開基にて創建された六萬寺に奉納されてあったものが、六萬寺の後に創建された往生院へと伝わったものであると推測される。
役行者坐像
旧本堂から昭和2年建立の行者堂にて祀られていた。行者堂は後に傷みのため解体、その後、現在の新しい本堂へと安置された。江戸時代の制作と思われるが、由来ははっきりしていない。伝わるところでは役行者の自作となっている。今回改めて調査対象とする。
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