往生院
2025年08月23日
西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論(隼別(皇子)天皇陵墓説)について
河内「往生院」の前身寺院である、飛鳥時代「桜井寺」と奈良時代「六萬寺」の解明にも繋がると考えている「西ノ山古墳(八尾市楽音寺)」の被葬者の解明についての考察になっています。
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西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論について[隼別天皇陵墓説]・1-4
https://ameblo.jp/iwatakiiwakurareiji/entry-12925118904.html
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西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論について[隼別天皇陵墓説]・1-4
https://ameblo.jp/iwatakiiwakurareiji/entry-12925118904.html
「宇佐王朝・隼別皇子と西ノ山古墳」・「隼別天皇と弓削道鏡」・「弓削道鏡と宇佐王朝」・「出雲と山背大兄王」
西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論について[推定・隼別天皇陵墓]・1
「宇佐王朝・隼別皇子と西ノ山古墳」
奈良県磯城郡の川西町に「糸井神社」があります。
今は豊鋤入姫命(宇佐・豊国・豊玉姫の子・豊来入姫・台与)が祭神とされていますが、これは明らかに間違いであり、名前の通りに元の祭神は、「糸井姫」と考えられます。
糸井姫は、嶋垂根(桜井田部連垂根・さくらいのたべのむらじたりね)の娘であり、応神天皇の妃(側室)となり、隼別皇子(隼総別・速総別・はやぶさわけのみこ)をもうけています。糸井姫の兄は、桜井田部連男鉏(おさひ)になります。
糸井神社の近くにある「島の山(島根山)古墳」は、応神天皇の側近となっていた桜井田部連男鉏と糸井姫が、その被葬者であると考えられます。
では、現在、島の山古墳の被葬者として考えられている糸井姫の父の桜井田部連垂根の古墳は、いったいどこにあるのかについても、ある程度、推定できています。(河内郡桜井郷の地に推定できています。)
応神天皇(宇佐王朝)は、后、磯城王朝・孝昭天皇皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の流れとなる有力豪族・和邇(わに)氏の宮主宅姫(みやぬしやかひめ)との子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)・宇治大君を皇太子とします。
応神天皇崩御後に、宇治大君は皇位を継承したものの、武内大田根命の子孫筋・葛城襲津彦系の氏族が、これに不満を持ち、その中で、許勢(巨勢)小柄の子・星川(星河)建彦がクーデターを起こします。
宇治天皇は敗死し、その後、宇佐王朝は、宇治天皇の異母兄弟である隼別(はやぶさわけ)皇子が、天皇に即位したものの、更に、星川建彦が、同族氏族である蘇我臣氏(石河)、紀臣氏(角)、平群臣氏(都久)らと協力して、隼別天皇の勢力も討ち破り、隼別天皇も敗死、その後に、星川建彦が仁徳天皇として天皇に即位することになり、葛城・平群王朝が成立することになります。
この経過が記紀では全て改竄・隠蔽されています・・
この歴史と往生院六萬寺が絡むのは、この地は古墳時代から飛鳥時代には河内郡桜井郷として、屯倉が設けられて管理することになった桜井田部連垂根が、当地を支配していた中、三韓征討から帰国した神功皇后(神功天皇)の生駒山(岩瀧山)での大嘗祭の祭祀を取り仕切り、やがて、宇佐王朝の政権を支える有力氏族となり、大和へと進出したということであります。神功皇后が長らく生駒山に留まったところは、麓の桜井郷であったと考えられます。(住吉大社神代記)
これにより、以後、桜井田部連垂根の息子、男鉏が、神功天皇・応神天皇の側近として活躍したと考えられます。
このことにより、島の山古墳の被葬者には、桜井田部連男鉏が主被葬者、糸井姫が、副被葬者と推定されるところとなります。
しかし、星川建彦のクーデターによって、宇治天皇と隼別天皇が相次いで殺されてしまったことで、神功天皇の側近となり宇佐王朝を支えていた桜井田部連の大和、河内の一族にも、当然に何らかの影響があったものと考えられます。
政治的に大きく見れば、クーデターにより、宇佐王朝が、葛城・平群王朝に変わる政権交代があったと言えます。
往生院六萬寺・当境内地、周辺域における古墳時代の遺跡群は、桜井田部連氏によるものであることが確実であり、東出雲王国による岩瀧山磐座祭祀の解明とも並行して、こちらもいよいよ進めていかなければならないと考えています。
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また、島の山古墳は、実は、蘇我入鹿のお墓と地元では伝承されているようです。
もちろん、竪穴式石室の古墳であり、時代が全く異なることになるため、蘇我入鹿のお墓ではないのですが、これには何らかの根拠がきっとあるはずです。
恐らくですが、蘇我馬子は、嶋大臣(しまのおおおみ)とも言われていたことから、嶋垂根・男鉏の「嶋」と混同してのことではないかと推測されます。
蘇我氏を「嶋」氏として、嶋蝦夷・入鹿ということによっての入鹿の墳墓説となったのではないかと思われます。
しかし、蘇我馬子も蝦夷も入鹿も、実在の人物ではなく、記紀の創作上の人物であるとされています。
そもそも馬子や蝦夷、入鹿という少し蔑視的な名前が、実際の人物に付けられたとは考えられないのであります。
蘇我馬子も蝦夷も入鹿も、本当は、当時、実際に実在し、政権中枢を掌握していた崇仏派の石川臣氏の稲目、麻古、雄正のことであり、物部守屋と中臣勝海(なかとみのかつみ)が共謀して崇仏派となった用明天皇を暗殺した事件や、中臣鎌子による崇仏派への粛清の事実を隠すために、中臣勝海、中臣鎌子の子孫である藤原不比等が、奈良時代、記紀編纂に際して、この事実の改竄を、猛烈、強硬に指示したとされています。
このあたりの歴史は極めてきな臭く、「聖徳太子」も、親仏派への懐柔のために、実在した上宮太子や山背大兄王に仮託して、創作した人物像が描かれることになります。
上宮太子の子、山背大兄王、財王、日置王は、蘇我入鹿によって殺されたとされていますが、実際には逃げ延びており、特に、山背大兄王の子・弓削王の子孫が、河内に戻り、やがて弓削道鏡として、再び歴史の表舞台に登場することになったと考えています。
宇佐八幡宮神託事件は、ただの臣下による皇位簒奪未遂事件ではなく、用明天皇の後裔・弓削王の子孫、そして、宇佐王朝(物部王朝の血筋もある)の子孫である弓削道鏡が、皇位に就いてもおかしくないことから端を発したものであり、恐らくは、クーデターにより殺された応神天皇の次の天皇であった宇治天皇、更には、隼別天皇の子孫筋にも弓削道鏡があたるということから、かつての宇佐王朝の勢力が、弓削道鏡を推すことによっての皇位返り咲きを図ろうとしたことが、この事件の本当の真相であったのではないかと考えています。
また、弓削道鏡が左遷された下野国(現在の栃木県)・下野薬師寺は、応神天皇の生まれた故郷であり、第二次物部東征後に、関東方面へと進出した豊国・豊来入彦命による勢力の中心地となって以来、関東の宇佐王国と言えるところであったわけです。
本当に臣下によっての皇位簒奪未遂であったならば、弓削道鏡は死罪となっていたはずであり、殺されずに左遷の扱いとなったのも、宇佐王朝の正統な皇統にある王族であったからであり、このため、関東の宇佐王国であるところへの配流程度で済んだということが考えられるのであります。
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以上の考察のことから、西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者についても、新たに解明が進むことになりました。
宇佐王朝「隼別天皇」(しゅんべつてんのう)と考えられます。
諡号が無いため、隼別(はやぶさわけ)をそのままに音読みで充てています。
宇佐王朝は、「神功天皇→応神天皇→宇治天皇→隼別天皇」が、それぞれ正式に天皇に即位していたと考えられます。
もちろん、宇治天皇と隼別天皇は、現在、正式に歴代天皇には列されていません。(神功天皇も、明治時代に歴代から外されています。)
先に述べてあるように、クーデターの事実が隠されて、記紀において史実が捏造されたためであります。
しかし、宇治天皇と隼別天皇の妹である仁徳天皇の后となった、八田(やた)皇后(矢田皇女)は、仁徳天皇没後に、両者を陵墓に改葬し、その一つが、宇治天皇の母の実家、和邇氏の本拠地に造営したヒシアゲ古墳に宇治天皇を、そして、隼別天皇の母の実家、桜井田部連氏の本拠地に造営した西ノ山古墳に、隼別天皇を改葬したと考えられます。
西ノ山古墳は、古墳時代前期~中期における竪穴式石室で、出土物はご遺骨と共に、三角縁神獣鏡・勾玉・管玉・小玉・鉄剣・鉄刀・定角式銅鏃などたくさんの副葬品があったとされており、かなりの有力者であったことが分かっています。
場所は、隼別天皇の母である糸井姫の実家、桜井田部連氏が支配していた桜井郷の南端と、色々と符合してくることになります。
天平の大疫病・天然痘大流行の祟り説も、クーデターにより殺されての廃位となれば、十分にその祟りの根拠としてはありうるものとなります。また、記紀での改竄、捏造についても、祟りの原因として考えられてもおかしくないものとなります。
何よりも天皇であったのであれば、三種の神器ダイヤモンド結界と供養が、まさにそれを示すものと言えるわけです。
[補足・・三種の神器ダイヤモンド結界は、天平の疫病大流行の原因が、西ノ山古墳の祟りであるとして、聖武天皇の勅命にて、大規模な結界と供養が営まれることになり、これまでの結界の分析から、当時の公家のトップである橘諸兄が施主となり、この頃には仏教界にて頭角を現していた弓削道鏡禅師と、聖武天皇の崇敬篤くあった行基上人の三人により行われたのではないかと思われます。また、この寺社による結界と供養には、特に密教と神道にも通じていた弓削道鏡禅師が中心となって行われたことが考えられます。]
三種の神器ダイヤモンド結界と供養を中心となって営んだ弓削道鏡との関連は、先に見たように、弓削道鏡は、用明天皇(蘇我王朝)+宇佐王朝(物部王朝)の天皇の後胤・子孫であり、ある意味では皇統の名門中の名門となる純粋な血筋で、特に、西ノ山古墳の被葬者であると推定している隼別天皇の直系子孫であるとも考えられ、このため白羽の矢が立って抜擢されたのではないかと思われます。
少なくとも奈良時代までは、宇治天皇や隼別天皇の存在は知られていた存在であったと言われており、記紀の編纂に際して、不都合となる史書、文書類は全て焚書されてしまったことにより、やがて人々の記憶からも消えていくことになったと思われます。
しかし、神社伝承には僅かにも史実が残されているということであります。
さて、六萬寺の前身には、桜井寺があったと伝わっており、古墳時代においては、河内郡桜井郷に屯倉(みやけ)が置かれ、その屯倉を糸井姫の実家、桜井田部連氏が支配、管理して本拠地としており、ここに飛鳥時代、桜井田部連氏によっての創建の菩提寺が、桜井寺であったと考えられています。
やはり、隼別天皇への鎮魂のための結界と供養の要所として、この桜井寺のあったところへと行基上人により六萬寺が建立されたと考えることができるのであります。
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また、三種の神器ダイヤモンド結界の中心が、賀茂神社であり、祭神・大田田根子命を中心としているのも注目すべきところであり、桜井田部連氏の先祖が、出雲王国の出身であったことを示しているとも言えるでしょう(東出雲王国・天日方奇日方命創祀・岩瀧山磐座/桜井神社・祭神・大己貴命(大物主命・大国主命))。
つまり、磯城王家・富(登美)家・大田田根子命が、桜井田部連氏の直系の先祖になるということであります。
東出雲王国・天日方奇日方命・建飯勝命・・大田田根子命・・・桜井田部連(嶋)垂根→糸井姫→隼別天皇→皇子or姫・・・弓削道鏡という流れを、道鏡禅師ご自身が重視された結界ということを表しているとも言えるわけです。
結局、出雲王国とも繋がってくるということになると考えています。
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隼別天皇の父・応神天皇の御陵である誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳は、墳丘長420メートル。
これまでの調査から、西ノ山古墳の元々の最大墳丘長は、推定400メートルほどであったと推定しています。
八田皇后により、仁徳天皇没後に、天皇陵として新たに造営され、隼別天皇がそこに改葬された可能性は十分にあり得ると考えます。
更には、仁徳天皇に次ぐ天皇となれば、日本全国3番目の前方後円墳の規模であったとしても全くおかしくないということであります。
前方部には、もしかしたら隼別天皇の妃であった雌鳥(めとり)皇后が葬られてある可能性もあります。
または、元花岡山古墳や現在の未調査花岡山陪塚も、隼別天皇に関連しての陪塚と考えられます。
これらの今後の調査次第によっては、日本の古代史が大きく見直されることになるかもしれません。
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メモ・・
宇佐王朝から葛城・平群王朝への本当の流れは、
「神功天皇(辰韓・日矛命子孫)→応神天皇(上毛野国造家・竹葉瀬王子)→宇治天皇→隼別天皇→仁徳天皇(巨勢臣小柄の子・星川建彦)」となります。
神功皇后は、三韓征討後、生駒山(岩瀧山)で大嘗祭を行い天皇に即位していたと考えられます。(住吉大社神代記)
神功皇后の子は夭折したため、豊国・宇佐王国の豊来入彦命の子孫である竹葉瀬君(たけはせのきみ)を養子に迎え、やがてその子が応神天皇となります。
応神天皇の子、宇治天皇が、星川建彦によるクーデターにより殺され、次に宇治天皇の異母兄弟で天皇となった隼別天皇も殺されて、宇佐王朝は終わりを迎え、星川建彦が、同じく武内大田根命の子孫で親族となる葛城・平群の豪族たちの支持を得て、仁徳天皇として即位するのであります。記紀では抹消された歴史となっています。
記紀において貶められたのが、宇治天皇、隼別天皇であり、特に隼別天皇については酷い扱いになっています。奈良時代、祟りを起こしたと考えられても当然のことと言えるでしょう。
西ノ山古墳は、やはり天皇陵であるということで、規模も元々が推定墳丘長400メートルほどで、立派な大王墓であると言えるでしょう。
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当然に隼別(はやぶさわけ)天皇は諡号が無いため、そのままシュンベツ天皇の呼称にて仕方がないことになります。
大雀(仁徳天皇)よりも優れていた天皇であることを記紀編纂者たちは一応、どうにかして伝えたかった節があります。
本当はクーデターを起こしたのは、隼(はやぶさ)ではなく、雀(すずめ)の方だったのですが・・
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西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論について[推定・隼別天皇陵]・2
「隼別天皇と弓削道鏡」
用明(ようめい)天皇が、物部守屋と中臣勝海の共謀により殺された後、不穏な政治情勢を嫌っていた上宮太子の妃、菟道貝鮹(うじかいたこ)皇女が、上宮太子との子、財(たから)王(額田部財王)と日奉王(日置王)を、西出雲へと逃がし、旧出雲王国の富家・郷戸家による庇護を受けさせています。
日置王は、太陽信仰を司る日奉部に属していたため、推古天皇の支援により、日御碕神社を創建し、特に夕陽を拝する信仰の神社を創祀しています。
このことは、上宮太子の創建した四天王寺の日想観、そして、河内・往生院の日想観にも何らか繋がるものとも言えます。
日置王は没後、上塩冶(かみしおや)築山古墳に葬られたと伝えられています。
日置王と額田部(臣)財王は、財王の方が兄になります。
記紀によると、敏達(びだつ)天皇と推古皇后(天皇)の子である菟道貝鮹皇女には、子はいなかったとされていますが、これは捏造であり、用明天皇暗殺後の情勢の中で、菟道貝鮹皇女が、身の危険を避けるためにとして出雲へと子を逃がしており、この際、菟道貝鮹皇女の所領地や財産は、兄の方へと譲られたため、兄は、財王と呼称されたと言われています。
財王には豊富な財力があり、これを基に出雲の富家、郷戸家の諜報機関となる「財筋」(たからすじ)ができたとされています。
財王は、没後、岡田山1号墳に葬られたと伝えられています。
そして、記紀では、「乙巳(いっし)の変」で殺されたとされている蘇我入鹿も捏造された人物であり、もちろん、馬子も、蝦夷も本来は存在していません。
このモデルとなったのは、石川臣氏一族でありますが、用明天皇を暗殺して、その石川臣氏一族をも滅ぼした中臣勝海(かつみ)、鎌子(かまこ)らによる崇仏派への粛清事件を、藤原不比等の指示にて、記紀編纂者が、蘇我氏の架空の人物による事件として仕立て上げたのであります。
そして、やがて山背大兄王(やましろのおおえのおう)の住む斑鳩(いかるが)の宮を襲ったのも、本当は、中臣鎌子であります。
ここまで中臣鎌子が崇仏派の徹底排除を図ったのは、宮中の祭祀を一手に取り仕切っていたのが中臣氏であったからであります。
忌部(いんべ)氏も既に中臣氏により完全に宮中祭祀から排斥されていました。
宮中祭祀が、仏教に取って代わられることを相当に恐れていたのであります。
山背大兄王は、既にこれを察知しており、異母兄弟である額田部財王の指示により、斑鳩の宮から生駒山へと逃れ、その後、住吉大社を経由して、出雲国へと至り、出雲にて寺院を建立して隠棲修行し、余生を過ごしたことが財筋に伝承されています。
この際に随伴したのが、記紀にも登場する三輪君文屋であります。
この三輪君文屋は、山背大兄王一家を守るために、出雲に神社を建立したことも財筋には伝わっています。
三輪君の先祖は、もちろん、大神神社創始祀の大田田根子命であります。
出雲王国・磯城家・富(登美)家であり、つまり、三輪君文屋が、財筋との仲介役となっていたということが考えられます。
逃走経路も具体的には、斑鳩の宮~平群~十三峠から賀茂氏・三輪氏の勢力地(大田田根子命出生地・八尾市・賀茂神社付近)を経ての住吉大社へのルートであったと思われます。
また、三輪氏と山背大兄王の子が、姻戚関係にあったと考えられ、特に、既に弓削王と三輪君文屋の娘が結婚しており、その子孫が弓削氏となり、更に弓削氏が、旧宇佐・物部王朝の姫を迎えたことで、用明天皇(蘇我王家)+磯城王家+宇佐・物部王家の血筋として、河内へと戻った一族から誕生したのが、弓削道鏡であると考えられるのであります。
三種の神器ダイヤモンド結界の分析から、弓削道鏡が、仏教(密教)と神道に深く通じていたと考えられる理由は、仏教に精通していた上宮太子・山背大兄王の血筋であり、更には、古代神道に精通していた三輪・大田・賀茂家の血筋であったため、当然のことと言えるわけです。
つまり、弓削道鏡は、磯城王家+蘇我王家+宇佐・物部王家という王家中の王家の血筋であり、更には、仏教(密教)と神道のスペシャリストの血筋という、とんでもない血統であったと考えられるのであります。
このため、宇佐八幡宮において道鏡への天皇即位の神託があったとしても、全くおかしくなかったということでもあります。
つまり、神託はホンモノであった可能性が極めて高いということであります。
いずれにしても、道鏡は、聖武天皇の時代から、非常に優れた僧侶であると朝廷において認識されていたのは確実で、更に、皇族の血統にあるという認識も、当時の朝廷においてあったと考えられます。
天平の疫病大流行が、西ノ山古墳(隼別天皇陵墓と推定)の祟りであると、神祇官による占いにおいて出たことで、当時、まだ朝廷において、西ノ山古墳の被葬者が、宇佐王朝の隼別天皇で、八田皇后により改葬されてあることを知っていた者により、その子孫にあたり、供養を行うに際して適任となる者として、聖武天皇へと推薦されたのが、弓削道鏡であり、推薦したのが、同じ皇族であり、弓削道鏡と同郷で、よく色々と事情を知っていた橘諸兄(たちばなのもろえ)であったと考えられるのであります。
また、隼別天皇の母である糸井姫は、桜井田部連垂根の娘であり、その先祖は、桜井神社(大己貴命)の創祀から鑑みれば、出雲王国の王家で、恐らくは、東出雲王国の天日方奇日方命が、摂津から河内、葛城へと移動していく際において、河内に留まって祭祀を行うことになった天日方奇日方命の子孫であると考えられます。(岩瀧山磐座・三間石山磐座の祭祀)
つまり、隼別天皇は、天日方奇日方命の血筋であり、東出雲王家・磯城王家の子孫ということにもなるわけです。大田田根子命との関係もまたここで繋がるものとなります。
これで、隼別天皇は、磯城王家+宇佐・物部王家の血筋にあったということも分かるのであります。
祟りを鎮め、クーデターにより無念にも斃れた隼別天皇の霊位を慰霊するのに適任となる者は・・
もはや、朝廷においては、弓削道鏡以外、見当たらなかったというのが正直なところであったのでしょう。
全てが繋がってくるのであります。
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西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論について[推定・隼別天皇陵]・3
「弓削道鏡と宇佐王朝」
弓削道鏡の宇佐王朝の血統は、敏達(びだつ)天皇の后、広姫(ひろひめ)に遡れることになると考えられます。
広姫の父が、息長真手王(おきながのまてのおおきみ)で、息長真手王は、応神天皇の子・稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の宇佐王朝の流れにあり、息長氏の祖と言えます。
敏達天皇と広姫の子である菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)、つまり、菟道皇女(うじのひめみこ)が、実は、菟道貝蛸皇女と間違えられている、もしくは同一人物を示している可能性があります。
菟道(うじ)の菟は、兔(うさぎ)、宇佐王国の宇を表すものであります。
(菟道稚郎子・宇治大君・宇治天皇)
単純に考えれば、菟道皇女は、宇治天皇の直系の子孫筋であるのかもしれません。
いずれにしても、菟道は、明らかに宇佐王朝の流れにあるものに付けられる名前であって、記紀では、菟道貝蛸(うじかいたこ)皇女の母は、蘇我堅塩姫(そがのきたしひめ)とされていますが、蘇我氏であり、宇佐王朝との関連が無いとはいえないものの、名前に菟道が付けられてあるのは、やや疑問の残るところであります。
ここにも記紀による捏造があると考えられ、菟道貝蛸皇女は、記紀が捏造した人物であり、本当は、敏達天皇と広姫の子・菟道磯津貝皇女、つまり、菟道皇女が上宮太子の妃であったと考えられます。
そもそも、貝蛸(かいたこ)というような、誰が聞いてもおかしい名前など皇女につけることなどありえないことで、馬子や蝦夷、入鹿などと同様で、記紀においての創作された人物ということでしょう。
おかしな名前は、明らかな捏造の証しで、むしろ、記紀の編纂者が、わざと後世の者が分かるようにしている節さえあります。
このように考えると、稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の名も、記紀編纂者による捏造である可能性も出てくるのですが、いずれにしても、菟道(磯津貝)皇女が、本当の上宮太子の妃で、その子が、日置王と財王ということであると言えるでしょう。
そして、山背大兄王が逃れた出雲の先において、日置王か、財王かの子孫と弓削王の子孫が繋がることで、弓削王の子孫にも宇佐王朝・息長氏の流れが入ったと考えられるのであります。
このように弓削道鏡は、宇佐王朝の血筋も引いているということになり、更には、敏達天皇の後裔であるということでもあります。
つまり、敏達天皇の後裔である橘諸兄(たちばなのもろえ)とも縁戚関係であり、互いに同郷同族意識も、かなり強かったと思われるわけであります。
橘諸兄は、弓削道鏡の出自についても詳しく知っていたことでしょう。
ですから、橘諸兄が、西ノ山古墳・隼別天皇の慰霊、祟りの鎮静について、聖武天皇に弓削道鏡を推薦したのも当然のことであったと、考えられることになります。
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西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論について[推定・隼別天皇陵]・4
「出雲と山背大兄王」
島根県松江市山代町の「山代」(やましろ)の由来が、「山背」大兄王にあることが窺えます。
(山背も元々の表記は、山代の方が多く使われています。)
出雲口伝・財筋の伝承も、出雲に山背大兄王一族が逃れたと伝わっており、山背大兄王が隠棲したところであったと考えられます。
やはり、先に出雲国へと逃れていた上宮太子の子・異母兄弟になる財王と日置王による手引きがあったと言えるでしょう。
この山代町には、茶臼山を挟んで、南北に二つの大きな寺院があったことが確認できます。
北側には島根県最古級寺院と推定されている「来美(くるみ)廃寺(山代郷北新造院)」があります。
金堂・塔・講堂と、ある程度本格的な寺院様式で建立されていたことが分かります。
財王の弟である「日置王」の建立と書かれてある記録が、出雲国風土記にあります。
「日置君目烈が造りし所なり」(置君自熊之所造也)
日置王か、その子により建立された寺院であることが分かります。
日置氏は、他にも新造院を建立しています。
山國郷・置部根緒之所造也
河内郷・置部臣布禰之所造也
屋裏郷・額田部臣押嶋之所造也(財王かその子孫)
飛鳥時代の寺院の瓦様式としての特徴である立派な蓮華紋の軒丸瓦が出ています。
この「来美廃寺」は、日置王により、出雲に逃れてきた異母兄弟である山背大兄王一族の隠棲修行するためとして建立された寺院であると考えられます。
一方の南側には、四王寺(しわじ)跡・山代郷南新造院があります。
まさに、上宮太子が創建した四天王寺を想起する寺院名であります。
出雲国風土記では、出雲臣弟山(おとやま)による創建されていますが、出土している軒丸瓦は、飛鳥時代の瓦の特徴と言える立派な蓮華紋の瓦が出ています。
こちらも、来美廃寺と同様に、同時期に山背大兄王一族のために建立された可能性があります。
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島根県安来市野方町の教昊寺(きょうこうじ)跡
この教昊寺は、出雲口伝・財筋の伝承では、財王によっての建立と伝えられています。
ここからも蓮華紋の軒丸瓦が出土しています。
いずれにしても、島根県において、これだけ飛鳥時代において立派な寺院がたくさん建立されているのは、やはり上宮太子の子孫たちによる上宮太子の仏教興隆への想いを継いだことによるものであると考えられます。
また、松江市山代町の茶臼山には、山背大兄王と共に出雲に逃れてきた三輪君文屋(ふみや)による創祀の神社もあったと言われており、それが、現在、松江市古志原に遷座されている「山代神社」(財王による創祀とも伝えられています)であると考えられます。
祭神の「山代日子命」(やましろひこのみこと)は、山背大兄王のことであると言えるでしょう。
恐らく、神社の元あったところは、山背大兄王のお墓があったところであるとも考えることができるのでしょう。のちに、子孫一族により改葬されて、河内か大和へと移された可能性もあります。
このように出雲には、山背大兄王一族が逃れてきたと考えられる痕跡が窺え、弓削王の子孫たちもここで育って、仏教を学び、やがて、河内、大和へと戻ることになったものと考えられます。
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これまでの考察経過は、動画でご確認下さいませ。
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西ノ山古墳(八尾市楽音寺)
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2025年08月06日
「河内往生院の考古学」シンポジウム資料
資料を整理していましたら、平成11年のシンポジウム「河内 #往生院 の #考古学」資料が出てきました。







#往生院金堂跡 は、大阪府指定史跡ながら、いまだに本格的な発掘調査がまだである。#古墳時代 から #室町時代 までのものが重層的に埋まっていることは、明らかなのであるのだが・・
#往生院金堂跡 研究には、文化財行政のパイオニア的存在 #水野正好 先生や、瓦仙人の #藤澤一夫 先生をはじめ、#考古学 界のそうそうたるメンバーが関わって頂いていたにもかかわらず、調査研究は止まってしまったままなのである。#往生院六萬寺 #往生院 #上原真人 先生 #小林義孝 先生 #駒井信雄 先生
何としても前進させたいという思いもあり、自主的に調査研究を進めていく中で、#出雲王国 の研究にまで範囲は広がってきたものの、とにかく原点はこの #往生院金堂跡 である。きっと意義ある発見が幾つもあることでしょう。#往生院六萬寺 #往生院 #水野正好 先生 #藤澤一夫 先生 #福永信雄 先生
#水野正好 先生がご存命であれば、#日想観 研究と共に、#岩瀧山 #磐座 #霊畤 遺跡にも、きっと、きっと御関心を高く頂けたこと間違いないでしょう。誠に残念極まりないことですが、拙生一人でも何とかしてできる限りに調査研究していかねばと存じます。
ありし日の水野正好先生 http://do-natteruno.com/con_c/c125/c12
最新の調査研究につきましては、下記チャンネルにて公開しています
https://www.youtube.com/@sankyusan
5.html
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2025年07月11日
「往生院-四天王寺-夢洲(万博会場)」は、東西の「日想観ライン」
実は、「往生院-四天王寺-夢洲(万博会場)」は、東西の「日想観ライン」になります。
万博開催期間中の9/23、秋彼岸中日(秋分の日)は、今年も往生院では、午後5時半から日没まで、「日想観極楽誓願法要」を表階段台地上にてお勤めを致します。
万博会場 にて、往生院からの夕陽をスクリーンに中継して頂いて、四天王寺さんや一心寺さんの主催にて、声明法要をお勤め頂き、これまでの全ての「いのち」への供養を考える、というあり方を示して頂いたら、大変有り難いものになるでしょう。
協会の方にダメ元で提案してみたいと思います。
・・
http://oujyouin.com/
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2025年01月21日
「楠木正行の終焉の地の秘密」(怪奇な歴史研究室さん)
楠木正行公・上四条古戦場跡のことについて取り上げて頂きました。
楠木正行の終焉の地の秘密
楠木正行の終焉の地の秘密
怪奇な歴史研究室さん、本当にありがとうございました。
取り上げて下さり、誠に感謝申し上げます。
取り上げて下さり、誠に感謝申し上げます。
「楠木正行公・四條縄手の合戦・上四条古戦場史跡の補足について」・「楠木正行の終焉の地の秘密」(怪奇な歴史研究室)動画内での史跡についての補足説明 2025年1月26日
https://youtu.be/iS0DLfJ1vEM?feature=shared
https://youtu.be/iS0DLfJ1vEM?feature=shared
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2024年10月21日
新シリーズ 歴史再考について
第1回 新シリーズ 歴史再考「これからの再調査の再開に向けて 河内・往生院跡 河内・浄土院跡 河内・西光寺跡 四條縄手古戦場跡」 2024年10月21日
https://youtu.be/yM8kEuUE7MI?feature=shared 新シリーズは今後こちらにアーカイブをまとめていきます↓再生リスト https://youtube.com/playlist?list=PLG2SRXHSbDlWy6A8tIoTLaqmgKedKIVii&feature=shared ・・
新シリーズ以前のものは・・ ↓ アーカイブ(2024.4.18以降)はこちらにまとめています ↓ 往生院六萬寺の歴史について(動画説明)古い順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92689129.html 新しい順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html 情報・資料提供・アドバイス・質問等はこちらの動画のコメント欄へとお願いいたします https://youtu.be/6u2nysA53vY?feature=shared 往生院六萬寺 http://oujyouin.com/ 往生院六萬寺の歴史 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/7810399.html 往生院関連年表 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html 往生院六萬寺歴史館について https://youtu.be/EFK08uxguOU?feature=shared
https://youtu.be/yM8kEuUE7MI?feature=shared 新シリーズは今後こちらにアーカイブをまとめていきます↓再生リスト https://youtube.com/playlist?list=PLG2SRXHSbDlWy6A8tIoTLaqmgKedKIVii&feature=shared ・・
新シリーズ以前のものは・・ ↓ アーカイブ(2024.4.18以降)はこちらにまとめています ↓ 往生院六萬寺の歴史について(動画説明)古い順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92689129.html 新しい順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html 情報・資料提供・アドバイス・質問等はこちらの動画のコメント欄へとお願いいたします https://youtu.be/6u2nysA53vY?feature=shared 往生院六萬寺 http://oujyouin.com/ 往生院六萬寺の歴史 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/7810399.html 往生院関連年表 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html 往生院六萬寺歴史館について https://youtu.be/EFK08uxguOU?feature=shared
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2024年07月15日
2040年・河内往生院・開創1000年 2045年・河内六萬寺・開創1300年 2048年・楠木正行公四條縄手の戦い・戦没700年 記念事業・大法会へと向けて
2040年・河内往生院・開創1000年 2045年・河内六萬寺・開創1300年 2048年・楠木正行公四條縄手の戦い・戦没700年 記念事業・大法会へと向けて 2024年7月15日
https://youtu.be/7xhHFRvPGNQ?feature=shared 大きな節目へと向けて今後取り組むべきことについて少しまとめました。 今後の調査研究のお手伝いして頂ける方を募集しております。 現地調査、情報収集・整理、広報・啓発活動、冊子・論文執筆など。 メールアドレス oujyouinアットマークgmail.com まで ご支援、ご協力を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。 ↓ アーカイブ(2024.4.18以降)はこちらにまとめています ↓ 往生院六萬寺の歴史について(動画説明)古い順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92689129.html 新しい順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html 情報・資料提供・アドバイス・質問等はこちらの動画のコメント欄へとお願いいたします https://youtu.be/6u2nysA53vY?feature=shared 往生院六萬寺 http://oujyouin.com/ 往生院六萬寺の歴史 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/7810399.html 往生院関連年表 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html 往生院六萬寺歴史館について https://youtu.be/EFK08uxguOU?feature=shared
https://youtu.be/7xhHFRvPGNQ?feature=shared 大きな節目へと向けて今後取り組むべきことについて少しまとめました。 今後の調査研究のお手伝いして頂ける方を募集しております。 現地調査、情報収集・整理、広報・啓発活動、冊子・論文執筆など。 メールアドレス oujyouinアットマークgmail.com まで ご支援、ご協力を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。 ↓ アーカイブ(2024.4.18以降)はこちらにまとめています ↓ 往生院六萬寺の歴史について(動画説明)古い順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92689129.html 新しい順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html 情報・資料提供・アドバイス・質問等はこちらの動画のコメント欄へとお願いいたします https://youtu.be/6u2nysA53vY?feature=shared 往生院六萬寺 http://oujyouin.com/ 往生院六萬寺の歴史 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/7810399.html 往生院関連年表 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html 往生院六萬寺歴史館について https://youtu.be/EFK08uxguOU?feature=shared
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2024年04月21日
往生院六萬寺の歴史について(動画説明)新しい順
往生院六萬寺の歴史について(動画説明)
現在、往生院六萬寺の歴史について、再調査研究を進めています。随時に考察報告動画をアップさせて頂いております。
2024.4.18以降の新しい順はこちらになります。
舟形板碑五輪塔の由来について 村に伝わる伝承から読み解く 河内四條史を参照 南北朝時代・四條縄手の戦い・戦没武将のお墓で間違いないか!? 2024年7月1日 https://youtu.be/DSvO3Fc5iio?feature=shared
調査に進展!! 西光寺廃寺跡 最有力候補地について 前回確認した舟形板碑五輪塔とも関係か!? 東大阪市上四条町 2024年6月29日 https://youtu.be/cGkpoPsNbXw?feature=shared
字・花草谷にて舟形板碑五輪塔を確認 南北朝時代・四條縄手の合戦での戦没武将のお墓である可能性も 近くには神宮寺小太郎の首塚も伝わる 2024年6月24日
西光寺廃寺跡の調査について 候補地を選定 ついに有力候補を発見か!? 東大阪市上四条町 2024年6月18日
字「天王堂が芝」について 福富神社の由来 やはり字名の由緒は古代に皇族の建てたお堂にあるのか? 2024年6月18日
山畑古墳群 山畑2号墳の紹介 府下最大級の玄室 上円下方墳 西光寺廃寺跡探索 東大阪市上四条町 2024年6月18日
未発見の石碑「忠臣小楠之墓」 江戸時代・西光寺廃寺(東大阪市上四条)の境内に建立された石碑が行方不明のまま? 2024年6月12日
字「天王堂が芝」場所の特定が難しいのはなぜか? 飛鳥時代の寺院が存在していた可能性も。河内・桜井寺・六萬寺の実態解明にも期待できる 2024年6月10日
古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて 四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて 2024年5月27日
西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!? 2024年5月21日 https://youtu.be/YYG1DKByLew?feature=shared
楠木正行公・御墓所 全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔 / 明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!? そして、明治時代後期に発足した南木会とは!? 2024年5月19日
河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日
https://youtu.be/vg_0Olg-xNk?feature=shared
寺歴の再調査研究における今後の課題について 往生院六萬寺 2024年4月26日 https://youtu.be/2cV4JGcZbWo?feature=shared
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「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月5日
現在、往生院六萬寺の歴史について、再調査研究を進めています。随時に考察報告動画をアップさせて頂いております。
2024.4.18以降の新しい順はこちらになります。
2040年・河内往生院・開創1000年 2045年・河内六萬寺・開創1300年 2048年・楠木正行公四條縄手の戦い・戦没700年 記念事業・大法会へと向けて 2024年7月15日
河内・往生院の世界 アクロス歴史アカデミー2024前期 河内・往生院の成立 中興・金堂の建立 河内・浄土院との関係 講座解説資料
舟形板碑五輪塔の由来について 村に伝わる伝承から読み解く 河内四條史を参照 南北朝時代・四條縄手の戦い・戦没武将のお墓で間違いないか!? 2024年7月1日 https://youtu.be/DSvO3Fc5iio?feature=shared
調査に進展!! 西光寺廃寺跡 最有力候補地について 前回確認した舟形板碑五輪塔とも関係か!? 東大阪市上四条町 2024年6月29日 https://youtu.be/cGkpoPsNbXw?feature=shared
字・花草谷にて舟形板碑五輪塔を確認 南北朝時代・四條縄手の合戦での戦没武将のお墓である可能性も 近くには神宮寺小太郎の首塚も伝わる 2024年6月24日
西光寺廃寺跡の調査について 候補地を選定 ついに有力候補を発見か!? 東大阪市上四条町 2024年6月18日
字「天王堂が芝」について 福富神社の由来 やはり字名の由緒は古代に皇族の建てたお堂にあるのか? 2024年6月18日
山畑古墳群 山畑2号墳の紹介 府下最大級の玄室 上円下方墳 西光寺廃寺跡探索 東大阪市上四条町 2024年6月18日
未発見の石碑「忠臣小楠之墓」 江戸時代・西光寺廃寺(東大阪市上四条)の境内に建立された石碑が行方不明のまま? 2024年6月12日
往生院六萬寺 歴史館の紹介 展示物の簡単な説明 実際の見学は事前完全予約制・寺務所まで事前に必ずご連絡下さい
字「天王堂が芝」場所の特定が難しいのはなぜか? 飛鳥時代の寺院が存在していた可能性も。河内・桜井寺・六萬寺の実態解明にも期待できる 2024年6月10日
字・天王堂が芝と字・山田 天皇・皇子の建立したお堂があったか? 河内国に当麻皇子の建立した当麻寺の前身である万法蔵院・禅林寺のあった可能性も? 2024年6月9日
楠木正行公・正時公 畑小路地蔵尊堂内・五輪塔の伝来地を探す 東大阪市上四条町・山畑地区 2024年6月8日
山畑子安地蔵尊 旧山畑墓地の六地蔵尊 四条春日神社、近年に再建か? 東大阪市上四条町 2024年6月6日
https://youtu.be/eiGRxn8xYNM?feature=shared
経塚古墳(東大阪市上四条町)再調査 壁面の陀羅尼の解明 経塚古墳の由来について考える 2024年6月5日
経塚古墳(東大阪市上四条町)再調査 壁面の陀羅尼の解明 経塚古墳の由来について考える 2024年6月5日
春日神社(東大阪市上四条町)元春日・中臣氏と生駒山麓 河内・往生院との関係 2024年6月4日
【調査研究につきましての情報・資料提供・アドバイス・質問等】を頂けましたら有り難いです。コメント・オンにしています。定期的にチェックいたします。宜しくお願い申し上げます。また、ご質問・戒名のことについてご回答しております。2024年6月2日
四條縄手古戦場(東大阪市上四条) 地鎮法要・追善法要 楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養 経塚前祠堂にて厳修 法要の様子と経塚古墳について 2024年5月29日
古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて 四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて 2024年5月27日
西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!? 2024年5月21日 https://youtu.be/YYG1DKByLew?feature=shared
花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚 楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将 2024年5月20日
四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町) その激戦の痕跡 霊光院 旧楠公院 畑小路地蔵尊 歯神さん 砂山城跡 2024年5月20日
楠木正行公・御墓所 全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔 / 明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!? そして、明治時代後期に発足した南木会とは!? 2024年5月19日
東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!? 四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について 2024年5月18日
楠木正成公・正行公の戒名について 補足 小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識 2024年5月17日
南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日) 楠木正行・正時 vs 高師直・佐々木道誉 四條縄手 東大阪市四条町・上四条町周辺 四條畷市北条周辺 2024年5月16日
小楠公墓所・楠木正行公のお墓 往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所 全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について 往生院六萬寺 2024年5月15日
楠木正行公の念持仏について 毘沙門天・多聞天立像 懐中仏 携行仏 守り本尊 戦勝祈願 岩瀧山往生院六萬寺 2024年5月14日
今後の配信予定 楠木正行念持仏について 楠木正行御墓所について 四條縄手の戦いについて 楠木正成・正行の戒名について 楠木家一族による寺院開基開山について 2024年5月13日
叡尊(興正菩薩)と枚岡神社 元寇降伏祈願法会 蒙古襲来・元寇 全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命 2024年5月11日
https://youtu.be/LsKjS2uDLj4?feature=shared往生院と修験道 往生院と陰陽道 妙見菩薩像・八臂弁財天像 土御門家と額田歴代組 金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山 役行者 不動明王 2024年5月10日
河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日
https://youtu.be/vg_0Olg-xNk?feature=shared
往生院金堂・焼失時期について 南北朝時代・四條縄手の戦い 室町時代・河内守護畠山家内紛 2024年5月8日
枚岡神社と往生院との関係性について 枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰 六萬寺の寺名の由来仮説 念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣 2024年5月7日
河内・浄土院の存在確定! 枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!! 河内国河内郡横小路村 天保14年(1843年)の村明細帳 2024年5月6日
河内・浄土院 歴史表舞台デビューへ 大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて 2024年5月2日
歴史に埋もれたままの寺院 経塚 楠開基 多門寺について 2024年4月30日
河内・往生院・中興開山についての再考察 2024年4月29日
寺歴の再調査研究における今後の課題について 往生院六萬寺 2024年4月26日 https://youtu.be/2cV4JGcZbWo?feature=shared
河内ふるさと文化誌 「若楠(わかくす)」のご紹介 2024年4月24日
河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ 現地見学説明会 2024年4月22日
摂関家・門跡寺院としての往生院の盛衰について 往生院・浄土宗西山義から臨済宗東福寺派の寺院に 2024年4月21日
証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について 当麻曼荼羅の普及への貢献 2024年4月21日
河内・往生院の中興開山はいったい誰であるのか? 当麻寺との関係から読み解く 2024年4月21日
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「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月5日
「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月6日
空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月7日
往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画 4月8日・釈尊降誕会の様子 2024年4月8日
https://youtu.be/Cdtx_BML4qw?feature=shared
往生院六萬寺の歴史 補足について 2024年4月10日
往生院金堂跡 立派な庭園があった!? 2024年4月11日
https://youtu.be/_W4_g7JG12g?feature=shared
大発見!? 歴史に全く登場しない寺院・河内・浄土寺跡探索 往生院に匹敵する金堂跡か!? 2024年4月12日
河内・浄土院か? 浄土寺跡について 往生院の兄弟寺!? 当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く
河内・浄土院と往生院 その関係性について 当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える
河内・往生院と浄土院 当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く
正行の城あと 字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ 楠木正行の城あとを確認 往生院金堂跡・北側 2024年4月16日
字「南九重堂」 「九重」は「九輪」と混同したか!? やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた? 2024年4月17日
河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたのか? 日想観と共に華麗荘厳な来迎会 2024年4月18日
往生院六萬寺 http://oujyouin.com/ 往生院六萬寺の歴史 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/7810399.html 往生院関連年表 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html
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2024年04月06日
往生院六萬寺の歴史について(動画説明)
往生院六萬寺の歴史について(動画説明)
現在、往生院六萬寺の歴史について、再調査研究を進めています。随時に考察報告動画をアップさせて頂いております。
古い順になっています。新しい順は、こちら
「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月5日
現在、往生院六萬寺の歴史について、再調査研究を進めています。随時に考察報告動画をアップさせて頂いております。
古い順になっています。新しい順は、こちら
「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月5日
「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月6日
空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月7日
往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画 4月8日・釈尊降誕会の様子 2024年4月8日
https://youtu.be/Cdtx_BML4qw?feature=shared
往生院六萬寺の歴史 補足について 2024年4月10日
往生院金堂跡 立派な庭園があった!? 2024年4月11日
https://youtu.be/_W4_g7JG12g?feature=shared
大発見!? 歴史に全く登場しない寺院・河内・浄土寺跡探索 往生院に匹敵する金堂跡か!? 2024年4月12日
河内・浄土院か? 浄土寺跡について 往生院の兄弟寺!? 当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く
河内・浄土院と往生院 その関係性について 当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える
河内・往生院と浄土院 当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く
正行の城あと 字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ 楠木正行の城あとを確認 往生院金堂跡・北側 2024年4月16日
字「南九重堂」 「九重」は「九輪」と混同したか!? やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた? 2024年4月17日
河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたのか? 日想観と共に華麗荘厳な来迎会 2024年4月18日
河内・往生院の中興開山はいったい誰であるのか? 当麻寺との関係から読み解く 2024年4月21日
証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について 当麻曼荼羅の普及への貢献 2024年4月21日
摂関家・門跡寺院としての往生院の盛衰について 往生院・浄土宗西山義から臨済宗東福寺派の寺院に 2024年4月21日
河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ 現地見学説明会 2024年4月22日
河内ふるさと文化誌 「若楠(わかくす)」のご紹介 2024年4月24日
寺歴の再調査研究における今後の課題について 往生院六萬寺 2024年4月26日 https://youtu.be/2cV4JGcZbWo?feature=shared
河内・往生院・中興開山についての再考察 2024年4月29日
歴史に埋もれたままの寺院 経塚 楠開基 多門寺について 2024年4月30日
河内・浄土院 歴史表舞台デビューへ 大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて 2024年5月2日
河内・浄土院の存在確定! 枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!! 河内国河内郡横小路村 天保14年(1843年)の村明細帳 2024年5月6日
枚岡神社と往生院との関係性について 枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰 六萬寺の寺名の由来仮説 念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣 2024年5月7日
往生院金堂・焼失時期について 南北朝時代・四條縄手の戦い 室町時代・河内守護畠山家内紛 2024年5月8日
https://youtu.be/Ui8kMT-acns?feature=shared
河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日
https://youtu.be/vg_0Olg-xNk?feature=shared
叡尊(興正菩薩)と枚岡神社 元寇降伏祈願法会 蒙古襲来・元寇 全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命 2024年5月11日
https://youtu.be/LsKjS2uDLj4?feature=shared河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日
https://youtu.be/vg_0Olg-xNk?feature=shared
往生院と修験道 往生院と陰陽道 妙見菩薩像・八臂弁財天像 土御門家と額田歴代組 金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山 役行者 不動明王 2024年5月10日
今後の配信予定 楠木正行念持仏について 楠木正行御墓所について 四條縄手の戦いについて 楠木正成・正行の戒名について 楠木家一族による寺院開基開山について 2024年5月13日
楠木正行公の念持仏について 毘沙門天・多聞天立像 懐中仏 携行仏 守り本尊 戦勝祈願 岩瀧山往生院六萬寺 2024年5月14日
小楠公墓所・楠木正行公のお墓 往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所 全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について 往生院六萬寺 2024年5月15日
南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日) 楠木正行・正時 vs 高師直・佐々木道誉 四條縄手 東大阪市四条町・上四条町周辺 四條畷市北条周辺 2024年5月16日
楠木正成公・正行公の戒名について 補足 小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識 2024年5月17日
東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!? 四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について 2024年5月18日
楠木正行公・御墓所 全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔 / 明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!? そして、明治時代後期に発足した南木会とは!? 2024年5月19日
四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町) その激戦の痕跡 霊光院 旧楠公院 畑小路地蔵尊 歯神さん 砂山城跡 2024年5月20日
花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚 楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将 2024年5月20日
西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!? 2024年5月21日 https://youtu.be/YYG1DKByLew?feature=shared
古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて 四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて 2024年5月27日
四條縄手古戦場(東大阪市上四条) 地鎮法要・追善法要 楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養 経塚前祠堂にて厳修 法要の様子と経塚古墳について 2024年5月29日
【調査研究につきましての情報・資料提供・アドバイス・質問等】を頂けましたら有り難いです。コメント・オンにしています。定期的にチェックいたします。宜しくお願い申し上げます。また、ご質問・戒名のことについてご回答しております。2024年6月2日
春日神社(東大阪市上四条町)元春日・中臣氏と生駒山麓 河内・往生院との関係 2024年6月4日
経塚古墳(東大阪市上四条町)再調査 壁面の陀羅尼の解明 経塚古墳の由来について考える 2024年6月5日
山畑子安地蔵尊 旧山畑墓地の六地蔵尊 四条春日神社、近年に再建か? 東大阪市上四条町 2024年6月6日 https://youtu.be/eiGRxn8xYNM?feature=shared
楠木正行公・正時公 畑小路地蔵尊堂内・五輪塔の伝来地を探す 東大阪市上四条町・山畑地区 2024年6月8日
字・天王堂が芝と字・山田 天皇・皇子の建立したお堂があったか? 河内国に当麻皇子の建立した当麻寺の前身である万法蔵院・禅林寺のあった可能性も? 2024年6月9日https://youtu.be/3xSFlxz6Z0A?feature=shared
字「天王堂が芝」場所の特定が難しいのはなぜか? 飛鳥時代の寺院が存在していた可能性も。河内・桜井寺・六萬寺の実態解明にも期待できる 2024年6月10日
字「天王堂が芝」場所の特定が難しいのはなぜか? 飛鳥時代の寺院が存在していた可能性も。河内・桜井寺・六萬寺の実態解明にも期待できる 2024年6月10日
往生院六萬寺 歴史館の紹介 展示物の簡単な説明 実際の見学は事前完全予約制・寺務所まで事前に必ずご連絡下さい
未発見の石碑「忠臣小楠之墓」 江戸時代・西光寺廃寺(東大阪市上四条)の境内に建立された石碑が行方不明のまま? 2024年6月12日
山畑古墳群 山畑2号墳の紹介 府下最大級の玄室 上円下方墳 西光寺廃寺跡探索 東大阪市上四条町 2024年6月18日
字「天王堂が芝」について 福富神社の由来 やはり字名の由緒は古代に皇族の建てたお堂にあるのか? 2024年6月18日
西光寺廃寺跡の調査について 候補地を選定 ついに有力候補を発見か!? 東大阪市上四条町 2024年6月18日 https://youtu.be/Cxk6p7mLD5g?feature=shared
字・花草谷にて舟形板碑五輪塔を確認 南北朝時代・四條縄手の合戦での戦没武将のお墓である可能性も 近くには神宮寺小太郎の首塚も伝わる 2024年6月24日
調査に進展!! 西光寺廃寺跡 最有力候補地について 前回確認した舟形板碑五輪塔とも関係か!? 東大阪市上四条町 2024年6月29日 https://youtu.be/cGkpoPsNbXw?feature=shared
舟形板碑五輪塔の由来について 村に伝わる伝承から読み解く 河内四條史を参照 南北朝時代・四條縄手の戦い・戦没武将のお墓で間違いないか!? 2024年7月1日 https://youtu.be/DSvO3Fc5iio?feature=shared
河内・往生院の世界 アクロス歴史アカデミー2024前期 河内・往生院の成立 中興・金堂の建立 河内・浄土院との関係 講座解説資料
2040年・河内往生院・開創1000年 2045年・河内六萬寺・開創1300年 2048年・楠木正行公四條縄手の戦い・戦没700年 記念事業・大法会へと向けて 2024年7月15日
往生院六萬寺 http://oujyouin.com/ 往生院六萬寺の歴史 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/7810399.html 往生院関連年表 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html
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2023年08月15日
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2019年03月10日
「往生院は念仏・極楽往生の一丁目一番地」日想観・極楽誓願法要
先日にお参りの方から、「往生院さんは、元々は念仏道場で、極楽往生の一丁目一番地だったのですよね。」とのお声掛けを頂きました。
「はい、念仏行者、念仏信徒の信仰を集めて、かなり栄えていたようです。」
と、自分も【過去形】でお答えしてしまい、とっさに、日想観法要のチラシを取りに行き、「昨年からこの日想観という夕陽を拝しつつに極楽往生を願う法要を再興しましたので、是非どうぞご参加下さい」とお渡しさせて頂きました。
そう、ここは平安時代からの浄土教の聖地にして、念仏、極楽往生の一丁目一番地だったところ、いや、これからもまさにそうなるように頑張っていかなければ、、
極楽誓願にもっと自信を持って、名実共の念仏、極楽往生の一丁目一番地として、祖師方のご仏恩に報いなければと、彼岸中日の日想観法要を前に、気持ちを新たにしたのであります。
日想観法要、これまで2回開催(3回の内、1回は雨天中止)、まだ一桁ほどの一般参加しかございませんが、やがては、極楽往生を願う者たちによる念仏の大合唱が、山内に轟き響き渡るようになる日を夢見て、鋭意、努めて参りたいと存じます。
3/21・春彼岸中日・往生院「日想観・極楽誓願法要」Facebookイベントページ
https://www.facebook.com/events/2174443196151354/
春秋彼岸中日・年2回開催・往生院「日想観・極楽誓願」法要について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/72883056.html






往生院六萬寺サイト
http://oujyouin.com/
「はい、念仏行者、念仏信徒の信仰を集めて、かなり栄えていたようです。」
と、自分も【過去形】でお答えしてしまい、とっさに、日想観法要のチラシを取りに行き、「昨年からこの日想観という夕陽を拝しつつに極楽往生を願う法要を再興しましたので、是非どうぞご参加下さい」とお渡しさせて頂きました。
そう、ここは平安時代からの浄土教の聖地にして、念仏、極楽往生の一丁目一番地だったところ、いや、これからもまさにそうなるように頑張っていかなければ、、
極楽誓願にもっと自信を持って、名実共の念仏、極楽往生の一丁目一番地として、祖師方のご仏恩に報いなければと、彼岸中日の日想観法要を前に、気持ちを新たにしたのであります。
日想観法要、これまで2回開催(3回の内、1回は雨天中止)、まだ一桁ほどの一般参加しかございませんが、やがては、極楽往生を願う者たちによる念仏の大合唱が、山内に轟き響き渡るようになる日を夢見て、鋭意、努めて参りたいと存じます。
3/21・春彼岸中日・往生院「日想観・極楽誓願法要」Facebookイベントページ
https://www.facebook.com/events/2174443196151354/
春秋彼岸中日・年2回開催・往生院「日想観・極楽誓願」法要について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/72883056.html






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