楠木正成

2018年03月31日

小楠公御墓所(楠木正行公御墓所)へのお参りについて

小楠公御墓所(楠木正行公御墓所)へのお参りについて・・

小楠公御墓所(楠木正行公御墓所)へのお参りは、できる限り事前にお問い合わせ下さいませ。

急な訪問の場合、対応できないことがございますため、どうかご了承下さい。



楠木正行公について
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往生院六萬寺
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2017年05月29日

梶無神社さんの朝市でミニ歴史講座

地元鎮守神社である梶無神社さんの朝市でのミニ歴史講座で、当寺住職・川口哲秀によります楠公父子紙芝居の上演が、地域情報発信サイト「どーなってるの?!東大阪」さんで記事になりました。

http://www.do-natteruno.com/con_c/c486/c486.html#3

「どーなってるの?!東大阪」
http://www.do-natteruno.com/index.html

往生院六萬寺サイト
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2001年01月02日

往生院六萬寺 楠木正行公について

楠木正行公について

※ご墓所へのお参りにつきましては、管理の関係上、必ず事前に寺務所へとお問い合わせ下さいませ。場合により、ご案内できないことがあります。

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楠木正行は正成の長男として、正中元年(1324)、河内に生まれます。

幼少の時を往生院などで学問を学び、武芸を磨きました。

その頃、南北朝の抗争が激しく、千早赤坂城などで活躍していた父、正成は九州より足利尊氏が勢力を盛り返し、都へ攻め上がるとの報を聞き、子・正行と最後の別れをします。


※桜井の宿・・東大阪市六万寺周辺の桜井郷という説と摂津の桜井という説があります。

時は1336年。新田義貞とともに湊川の戦いにおいて、正成は足利尊氏と戦い、壮絶な戦死を遂げました。

その後、正行は楠木一族の頭領として南河内を中心に活躍します。

湊川の戦いで勝利した足利方は、着々と幕府の基礎を固めつつありましたが、南朝方の動きを常に気にし、楠木一族の河内での活躍に、いつ決戦を挑むか機会を窺っていました。

そして、正平2年(1347)12月26日、いよいよ南朝討伐の兵を尊氏は挙げます。

足利方は高師直・師泰を中心とした兵6万の大軍をもって京都を出発し、淀・八幡に着きます。この報を聞いて、正行は27日、吉野の皇居に馳せ参じ、後村上天皇に拝謁しました。


※この時、帝はめったに上げることのない御簾を上げて正行に声をかけられた。

くしくも、父・正成が、湊川の戦いへ赴く前に後醍醐天皇に拝謁し、決死の覚悟で戦いに望んだのと一緒であった。親子二代・南朝方天皇陛下に忠義忠誠を尽く し、南朝方のために散る覚悟だったに違いない。後村上帝は「父と同じ道は歩んではならぬ、無理はせずに生きて帰るように」と正行に告げたが、もはや心の中 では帝のために玉砕を覚悟していた。


※戸板に書かれた和歌は如意輪寺に納められている。

「かえらじと かねて思えば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」

と辞世の歌を残して、河内へと出陣しました。



正平3年(1348)1月2日、幼少期を過ごした往生院に本陣を置き、5日早朝、凍てつく中を正行は3千の兵を率いて、東高野街道から押し寄せる数万の高 師直・師泰軍を目指して激しく戦いを挑みました。劣勢は明らかながら、忠義忠誠に燃えた兵たちはひるむことなく猛然と戦いました。



その日、四條縄手の戦いにおいて、30余度戦いの末、ついに刀折れ、矢尽き、もはやこれまでと敵の手にはかかるまいと弟・正時と刺し違えて亡くなりました。まだ僅か25歳の青年でした。

四條縄手の合戦により、往生院の伽藍も兵火に焼け落ちてしまいました。


※四條縄手・・東大阪・東部の四条・縄手地区周辺との説と今の四条畷市周辺との説が分かれている。

正行公の亡がらは黙庵和尚により往生院の境内にひっそりと埋葬(胴塚)されたと伝えられています。





※お墓は全国に六ヶ所ほど伝わっており、往生院境内(胴塚)・額田首塚(東大阪市山手町)・宝匡院首塚(京都府嵯峨野)・正行寺首塚(宇治市六地蔵附 近)・四条畷墓所(四条畷雁屋南町)・甑島墓所(鹿児島県西)など様々に伝わっている。南北朝歴史研究家の間では非常に興味深く議論されている。

(往生院における考察は、大日本史・太平記・拾遺・吉野拾遺・和漢三才図会・日本名勝地誌・河内名所図会・大阪府史蹟名勝天然記念物・群志・その他多数文献に基づいて記述しております。)

史実に限らず楠公さんの果たした志を考え、御供養を続けていくことが何より大切であると存じます。毎月5日は墓前供養・1月5日は祥月命日供養をお勤めさせていただいております。

※ご墓所へのお参りにつきましては、管理の関係上、必ず事前に寺務所へとお問い合わせ下さいませ。場合により、ご案内できないことがあります。

作成・川口英俊副住職


http://ja.wikipedia.org/wiki/楠木正行
※Wikipediaの編集には中立の観点から一切関わっておりません。

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2001年01月01日

往生院六萬寺の歴史

往生院六萬寺の歴史

大陸との文化交流が盛んに行われていた頃、大陸より文字、仏教、その他新文化が日本に流入する中、崇峻天皇3年(590年)に善信尼(日本最初の尼僧の一人・仏法興隆に貢献)を中心とした一行が百済(今の朝鮮半島)に留学し、帰国後、桜井寺に入山されたことが日本書紀に書かれています。

「崇峻天皇三年学問尼善信等自百済還、往桜井寺」(桜井寺、往生院六萬寺如古名(伝)・大日本地名辞典)現六万寺・古名・桜井郷あり。※大和国・桜井寺(明日香村豊浦)との説も有力。

その後、天平17年(745年)、行基菩薩49院建立の折に、聖武天皇の勅願により、桜井寺荒廃の跡へ、六萬寺を再建し、薬師如来を本尊としていたことが伝わっています。それ以前も文武天皇の時、役小角(修験道の開祖)が来山し、背後の岩瀧山にこもり、修験錬行の地としていたことも伝えられています。現在も岩瀧山には山号の由来として、修行に適していたと思われる険しい岩肌、滝が多数残っています。

行基菩薩の事歴は周知のところで、聖武天皇の尊崇あつく、当時、六萬寺も封境70戸寺田百畝を帝より喜捨され、伽藍を並べ、盛運の時に恵まれていたと伝わります。しかし、それから200年後、宇多天皇の治世時には、またも荒廃しており、宇多天皇の勅願により伽藍が修復・修理され、食邑30余町を寄進されたと伝わっています。更にそれから150年後の平安時代、後朱雀天皇・長暦3年に至り、念仏聖・安助上人が荒廃の六萬寺の地に庵を構え、極楽往生の日想観を修する修行道場として栄え、やがて、庵の後に伽藍が整備されて、往生院と公称されました。今から1000年余り前のことであります。

安助上人は河内石川の人にして、東高野街道(京道)を開きし僧侶であります。安助上人の努力により、法域も護持されましたが、後村上天皇・正平3年(1348年)に至り、建武の中興も空しく南北朝抗争が激しくなる中、1336年に湊川の戦いで、足利尊氏軍により討たれた南朝方の武将・楠木正成公の長男であり、正成公逝去後に、楠木一族の頭領となった河内国・検非違使・左衛門少尉・楠木正行公は、その最後の戦いとなる四條縄手(※四条畷の説もあり)の合戦で、吉野から出陣し、幼少期を過ごした往生院に本陣を構えて、京都八幡より東高野街道沿いに押し寄せる北朝足利方・高師直・師泰軍に対して戦いを挑みました。数十倍の相手方軍勢に対して果敢に戦いましたが、多勢に無勢、刀折れ、矢尽きて敗れました。

正行公陣没後、その遺骸(胴)は黙庵和尚により往生院の境内において葬られたと伝わっています。現在、そのお墓が往生院西南の境内にあり、左五輪塔は正行公の御墓、右石塔は正成公の供養塔として、供養塔は正成300年祭に関白鷹司信房によって建立されたものとなります。

正行公陣没後、往生院伽藍のほとんどが兵火に焼け落ちましたが、その後、江戸時代、後光明天皇・承応3年(1654年)、関白鷹司信房が名刹の荒廃を嘆き、再興を目指す中、幕府からも朱印170石を寄進されて、復興を図りつつ、明治時代へと至りました。

しかし、明治時代、四条畷神社創立の際における当寺院に対しての土地接収、寺仏破壊を恐れ、寺院伝来の聖地を守るべく、正成公・正行公の二石塔を隠蔽し、保存していた古文献等を焼却するなど完全処分して、その回避を図ったため、往生院は根底より破壊されてしまいました。

その後、鷹司家を中心として往生院再興についての努力が続けられるものの、結実せず、大正15年には、蓮海上人により本格復興発願されるものの、昭和21年、完成を果たせずに寂滅。

太平洋戦争終結後、昭和28年頃から、立誡和尚が本格的な復興を計画しました。

後中興・岩瀧立誡大和尚(昭和61年入滅)により、大半の伽藍が復興されるに至り、現住の哲秀和尚も精力的に尽力する中、墓苑整備、鐘楼堂・歴史館・民具館の建立、小楠公墓苑整備を行い、創立時の威容を徐々に取り戻しつつあります。

(日本書紀・行基年譜・大日本史・太平記・拾遺・吉野拾遺・和漢三才図会・日本名勝地誌・河内名所図会・大阪府史蹟名勝天然記念物・群志・本朝高僧伝、その他多数文献による)

http://ja.wikipedia.org/wiki/往生院_ (東大阪市)

※Wikipediaの編集には中立の観点から一切関わっておりません。


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