歴史

2024年10月21日

新シリーズ 歴史再考について

第1回 新シリーズ 歴史再考「これからの再調査の再開に向けて 河内・往生院跡 河内・浄土院跡 河内・西光寺跡 四條縄手古戦場跡」 2024年10月21日
https://youtu.be/yM8kEuUE7MI?feature=shared 新シリーズは今後こちらにアーカイブをまとめていきます↓再生リスト https://youtube.com/playlist?list=PLG2SRXHSbDlWy6A8tIoTLaqmgKedKIVii&feature=shared ・・

新シリーズ以前のものは・・ ↓ アーカイブ(2024.4.18以降)はこちらにまとめています ↓ 往生院六萬寺の歴史について(動画説明)古い順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92689129.html 新しい順 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html 情報・資料提供・アドバイス・質問等はこちらの動画のコメント欄へとお願いいたします https://youtu.be/6u2nysA53vY?feature=shared 往生院六萬寺 http://oujyouin.com/ 往生院六萬寺の歴史 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/7810399.html 往生院関連年表 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html 往生院六萬寺歴史館について https://youtu.be/EFK08uxguOU?feature=shared



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2024年04月06日

往生院六萬寺の歴史について(動画説明)

往生院六萬寺の歴史について(動画説明)

現在、往生院六萬寺の歴史について、再調査研究を進めています。随時に考察報告動画をアップさせて頂いております。

古い順になっています。新しい順は、こちら 

「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月5日

「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月6日

空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月7日

往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画 4月8日・釈尊降誕会の様子 2024年4月8日
https://youtu.be/Cdtx_BML4qw?feature=shared

往生院六萬寺の歴史 補足について 2024年4月10日

往生院金堂跡 立派な庭園があった!?  2024年4月11日
https://youtu.be/_W4_g7JG12g?feature=shared

大発見!? 歴史に全く登場しない寺院・河内・浄土寺跡探索 往生院に匹敵する金堂跡か!? 2024年4月12日

河内・浄土院か? 浄土寺跡について 往生院の兄弟寺!? 当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く

河内・浄土院と往生院 その関係性について 当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える

河内・往生院と浄土院 当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く

正行の城あと 字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ 楠木正行の城あとを確認 往生院金堂跡・北側 2024年4月16日

字「南九重堂」 「九重」は「九輪」と混同したか!?   やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた? 2024年4月17日

河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたのか? 日想観と共に華麗荘厳な来迎会 2024年4月18日

河内・往生院の中興開山はいったい誰であるのか? 当麻寺との関係から読み解く 2024年4月21日

証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について 当麻曼荼羅の普及への貢献 2024年4月21日
摂関家・門跡寺院としての往生院の盛衰について 往生院・浄土宗西山義から臨済宗東福寺派の寺院に 2024年4月21日

河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ 現地見学説明会 2024年4月22日

河内ふるさと文化誌 「若楠(わかくす)」のご紹介 2024年4月24日

寺歴の再調査研究における今後の課題について 往生院六萬寺 2024年4月26日 https://youtu.be/2cV4JGcZbWo?feature=shared

河内・往生院・中興開山についての再考察 2024年4月29日

歴史に埋もれたままの寺院 経塚 楠開基 多門寺について 2024年4月30日

河内・浄土院 歴史表舞台デビューへ 大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて 2024年5月2日

河内・浄土院の存在確定! 枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!! 河内国河内郡横小路村 天保14年(1843年)の村明細帳 2024年5月6日

枚岡神社と往生院との関係性について 枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰 六萬寺の寺名の由来仮説 念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣 2024年5月7日

往生院金堂・焼失時期について 南北朝時代・四條縄手の戦い 室町時代・河内守護畠山家内紛 2024年5月8日
https://youtu.be/Ui8kMT-acns?feature=shared

河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日
https://youtu.be/vg_0Olg-xNk?feature=shared

往生院と修験道 往生院と陰陽道 妙見菩薩像・八臂弁財天像 土御門家と額田歴代組 金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山 役行者 不動明王 2024年5月10日
叡尊(興正菩薩)と枚岡神社 元寇降伏祈願法会 蒙古襲来・元寇 全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命 2024年5月11日 https://youtu.be/LsKjS2uDLj4?feature=shared

今後の配信予定 楠木正行念持仏について 楠木正行御墓所について 四條縄手の戦いについて 楠木正成・正行の戒名について 楠木家一族による寺院開基開山について 2024年5月13日

楠木正行公の念持仏について 毘沙門天・多聞天立像 懐中仏 携行仏 守り本尊 戦勝祈願 岩瀧山往生院六萬寺 2024年5月14日

小楠公墓所・楠木正行公のお墓 往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所 全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について 往生院六萬寺 2024年5月15日

南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日) 楠木正行・正時 vs 高師直・佐々木道誉 四條縄手 東大阪市四条町・上四条町周辺 四條畷市北条周辺 2024年5月16日

楠木正成公・正行公の戒名について 補足 小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識 2024年5月17日

東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!?  四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について 2024年5月18日

楠木正行公・御墓所 全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔 / 明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!? そして、明治時代後期に発足した南木会とは!? 2024年5月19日

四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町) その激戦の痕跡 霊光院 旧楠公院 畑小路地蔵尊 歯神さん 砂山城跡 2024年5月20日

花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚 楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将 2024年5月20日

西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!? 2024年5月21日 https://youtu.be/YYG1DKByLew?feature=shared

古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて 四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて 2024年5月27日

四條縄手古戦場(東大阪市上四条) 地鎮法要・追善法要 楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養 経塚前祠堂にて厳修 法要の様子と経塚古墳について 2024年5月29日

【調査研究につきましての情報・資料提供・アドバイス・質問等】を頂けましたら有り難いです。コメント・オンにしています。定期的にチェックいたします。宜しくお願い申し上げます。また、ご質問・戒名のことについてご回答しております。2024年6月2日

春日神社(東大阪市上四条町)元春日・中臣氏と生駒山麓 河内・往生院との関係 2024年6月4日

経塚古墳(東大阪市上四条町)再調査 壁面の陀羅尼の解明 経塚古墳の由来について考える 2024年6月5日

山畑子安地蔵尊 旧山畑墓地の六地蔵尊 四条春日神社、近年に再建か? 東大阪市上四条町 2024年6月6日 https://youtu.be/eiGRxn8xYNM?feature=shared

楠木正行公・正時公 畑小路地蔵尊堂内・五輪塔の伝来地を探す 東大阪市上四条町・山畑地区 2024年6月8日

字・天王堂が芝と字・山田 天皇・皇子の建立したお堂があったか? 河内国に当麻皇子の建立した当麻寺の前身である万法蔵院・禅林寺のあった可能性も? 2024年6月9日https://youtu.be/3xSFlxz6Z0A?feature=shared

字「天王堂が芝」場所の特定が難しいのはなぜか? 飛鳥時代の寺院が存在していた可能性も。河内・桜井寺・六萬寺の実態解明にも期待できる 2024年6月10日

往生院六萬寺 歴史館の紹介 展示物の簡単な説明 実際の見学は事前完全予約制・寺務所まで事前に必ずご連絡下さい

未発見の石碑「忠臣小楠之墓」 江戸時代・西光寺廃寺(東大阪市上四条)の境内に建立された石碑が行方不明のまま? 2024年6月12日

山畑古墳群 山畑2号墳の紹介 府下最大級の玄室 上円下方墳 西光寺廃寺跡探索 東大阪市上四条町 2024年6月18日

字「天王堂が芝」について 福富神社の由来 やはり字名の由緒は古代に皇族の建てたお堂にあるのか? 2024年6月18日

西光寺廃寺跡の調査について 候補地を選定 ついに有力候補を発見か!? 東大阪市上四条町 2024年6月18日 https://youtu.be/Cxk6p7mLD5g?feature=shared

字・花草谷にて舟形板碑五輪塔を確認 南北朝時代・四條縄手の合戦での戦没武将のお墓である可能性も 近くには神宮寺小太郎の首塚も伝わる 2024年6月24日

調査に進展!! 西光寺廃寺跡 最有力候補地について 前回確認した舟形板碑五輪塔とも関係か!? 東大阪市上四条町 2024年6月29日 https://youtu.be/cGkpoPsNbXw?feature=shared

舟形板碑五輪塔の由来について 村に伝わる伝承から読み解く 河内四條史を参照 南北朝時代・四條縄手の戦い・戦没武将のお墓で間違いないか!? 2024年7月1日 https://youtu.be/DSvO3Fc5iio?feature=shared

河内・往生院の世界 アクロス歴史アカデミー2024前期 河内・往生院の成立 中興・金堂の建立 河内・浄土院との関係 講座解説資料

2040年・河内往生院・開創1000年 2045年・河内六萬寺・開創1300年 2048年・楠木正行公四條縄手の戦い・戦没700年 記念事業・大法会へと向けて 2024年7月15日

往生院六萬寺
http://oujyouin.com/ 往生院六萬寺の歴史 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/7810399.html 往生院関連年表 http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html


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2014年11月13日

民児協ひがしおおさか・広報誌35号「寺社シリーズ」へ寄稿

東大阪市・民生委員・児童委員協議会連合会の広報誌

平成26年11月1日発行・第35号にお寺の紹介を寄稿させて頂きました。




↑クリックで画像拡大表示

 岩瀧山往生院六萬寺は、東大阪南東部、生駒山系の山麓に位置し、背後には修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)行者も滝行修行したとされる岩滝が多数点在してすることから「岩瀧山」との山号、六万寺町の町名の由来として、その昔にあった「六萬寺」の寺号を称しています。
 六世紀に建てられたとされている桜井寺の荒廃後、奈良時代において聖武天皇勅願・行基菩薩開基として創建されたのが六萬寺であり、その六萬寺の荒廃後、 平安時代に念仏聖である安助上人が寺院を再建して、「往生院」となります。この地は、「四天王寺の西門から真東にあり、極楽浄土の東門に当院が当たる」と いうことから、極楽往生を念ずるにふさわしい場所であると考えられ、夕陽を見て、極楽往生を願う、「日想観」(じっそうかん)を修する場所として、多くの 僧侶・信者がこの地を訪れて栄え、念仏が絶えることがなかったと伝わります。特に春秋彼岸の中日(春分の日・秋分の日)には、真西となる四天王寺の西門へ 向けて真っ直ぐに陽が沈みます。
 その後、南北朝時代、後醍醐天皇に仕えた楠木正成公、その嫡男・正行(まさつら)公と縁の深くあった往生院は戦乱に巻き込まれることになります。特に幼 少期において往生院にて武芸・学芸に励んでいた正行公は、足利尊氏が南朝方の討伐を目指して奈良吉野へと進軍する中、往生院に本陣を構え、その一軍である 高師直(こうのもろなお)軍と四條縄手の合戦において激しい戦いを繰り広げ、戦死します。
 正行公の胴塚がお墓として現在も境内において祀られています。
 四條縄手の合戦において、往生院も戦火に焼かれることとなり、その後、何度も荒廃と復興を繰り返す中で、江戸時代には関白・鷹司信房(たかつかさ・のぶふさ)公により本堂の再建が果たされます。
 しかし、明治時代の四條畷神社創立の際に、その候補地としての選定を逃れるべくに、往生院は根底から破壊されてしまうことになります。
 太平洋戦争後、川口立誡和尚(昭和六十一年示寂)、川口哲秀和尚(現住職)により本格的な再興、伽藍整備・墓苑整備がなされ、現在では、単立寺院として正法興隆、仏法護持、衆生済度の聖業の取り組みがなされています。
 境内には、昔の農耕具を供養するために建てられた「民具供養館」もあり、昔の道具、先人の智恵を学んでもらえるようにと整備しており、これまでに保育 園・小学校・中学校と多くの社会見学も受け入れ、開館以来、延べ十万人以上の来館者を既に迎えています。現在、見学には事前予約が必要で、団体のみの受け 付けとなっております。事前に必ずお問い合わせ下さい。
 その他、年間の行事や諸法要・供養など、更に色々と詳しいことにつきましては、公式ホームページをご参照下さいませ。アドレス「 http://oujyouin.com/ 」を入力か、「往生院 東大阪」で検索して下さい。

※楠木正行公の御墓所へのお参りはできるだけ事前にご連絡下さい。事前のご連絡のない場合、事情によってはご案内できないこともございますのでどうかご容赦下さいませ。


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2001年01月04日

往生院民具供養館・歴史館・展示館について

往生院民具供養館・歴史館・展示館について

民具供養館


歴史館・展示館


見学につきましては、事前に問い合わせが必要です。個人の見学は基本的にお受けできません。団体見学の場合は、必ず事前に下見を行って頂いております。

先祖から受け継いだ民具は、時代の大きな流れの中で、近年急速に姿を消してしまいました。現在、使用されている例は極めて少なく、牛で田畑を耕す風景は都市近郊ではすっかり見ることがなく、あらゆる分野で機械化、近代化かが進み、民具は姿を消す一方で寂しい限りです。

先住住職が民具を寺で供養できないかと、農耕具を中心に集めかけられたのが始まりで、今では貴重なものが多く、三千点以上を数えています。

往生院では、昔の先人の知恵、道具の大切さを後世に伝えるべく、開館当初より、保育園や小学校、中学校を中心として社会見学をボランティアで行って参りま した。多い時で一年間で50校近い学校からの見学を受けさせて頂きました。(現在は保育園のみの受け入れとなっております。)これまで述べ10万人以上の方にご見学を頂いております。
 
一 見学は前もっての申し込みが必要となります。(お彼岸・お盆・土日祝は基本的に不可)
一 個人の見学は特別な場合を除き受け付けておりません
一 学校・園・グループは代表者の方が必ず下見を行っていただきます
一 入館は無料です


民具供養館












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歴史館





展示館



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2001年01月01日

往生院六萬寺の歴史

往生院六萬寺の歴史

現在、往生院六萬寺では、本堂の安置物について詳しく再調査した結果、幾つかの文化的、歴史的な新しい発見と共に、これまでの寺史の見直しが必要となることが明らかとなっております。

最新の関連年表につきましては、下記をご参考下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html


・・旧簡略寺史・・

大陸との文化交流が盛んに行われていた頃、大陸より文字、仏教、その他新文化が日本に流入する中、崇峻天皇3年(590年)に善信尼(日本最初の尼僧の一人・仏法興隆に貢献)を中心とした一行が百済(今の朝鮮半島)に留学し、帰国後、桜井寺に入山されたことが日本書紀に書かれています。

「崇峻天皇三年学問尼善信等自百済還、往桜井寺」(桜井寺、往生院六萬寺如古名(伝)・大日本地名辞典)現六万寺・古名・桜井郷あり。※大和国・桜井寺(明日香村豊浦)との説も有力。

その後、天平17年(745年)、行基菩薩49院建立の折に、聖武天皇の勅願により、桜井寺荒廃の跡へ、六萬寺を再建し、薬師如来を本尊としていたことが伝わっています。それ以前も文武天皇の時、役小角(修験道の開祖)が来山し、背後の岩瀧山にこもり、修験錬行の地としていたことも伝えられています。現在も岩瀧山には山号の由来として、修行に適していたと思われる険しい岩肌、滝が多数残っています。

行基菩薩の事歴は周知のところで、聖武天皇の尊崇あつく、当時、六萬寺も封境70戸寺田百畝を帝より喜捨され、伽藍を並べ、盛運の時に恵まれていたと伝わります。しかし、それから200年後、宇多天皇の治世時には、またも荒廃しており、宇多天皇の勅願により伽藍が修復・修理され、食邑30余町を寄進されたと伝わっています。更にそれから150年後の平安時代、後朱雀天皇・長暦3年に至り、念仏聖・安助上人が荒廃の六萬寺の地に庵を構え、極楽往生の日想観を修する修行道場として栄え、やがて、庵の後に伽藍が整備されて、往生院と公称されました。今から1000年余り前のことであります。

安助上人は河内石川の人にして、東高野街道(京道)を開きし僧侶であります。安助上人の努力により、法域も護持されましたが、後村上天皇・正平3年(1348年)に至り、建武の中興も空しく南北朝抗争が激しくなる中、1336年に湊川の戦いで、足利尊氏軍により討たれた南朝方の武将・楠木正成公の長男であり、正成公逝去後に、楠木一族の頭領となった河内国・検非違使・左衛門少尉・楠木正行公は、その最後の戦いとなる四條縄手(※四条畷の説もあり)の合戦で、吉野から出陣し、幼少期を過ごした往生院に本陣を構えて、京都八幡より東高野街道沿いに押し寄せる北朝足利方・高師直・師泰軍に対して戦いを挑みました。数十倍の相手方軍勢に対して果敢に戦いましたが、多勢に無勢、刀折れ、矢尽きて敗れました。

正行公陣没後、その遺骸(胴)は黙庵和尚により往生院の境内において葬られたと伝わっています。現在、そのお墓が往生院西南の境内にあり、左五輪塔は正行公の御墓、右石塔は正成公の供養塔として、供養塔は正成300年祭に関白鷹司信房によって建立されたものとなります。

正行公陣没後、往生院伽藍のほとんどが兵火に焼け落ちましたが、その後、江戸時代、後光明天皇・承応3年(1654年)、関白鷹司信房が名刹の荒廃を嘆き、再興を目指す中、幕府からも朱印170石を寄進されて、復興を図りつつ、明治時代へと至りました。

しかし、明治時代、四条畷神社創立の際における当寺院に対しての土地接収、寺仏破壊を恐れ、寺院伝来の聖地を守るべく、正成公・正行公の二石塔を隠蔽し、保存していた古文献等を焼却するなど完全処分して、その回避を図ったため、往生院は根底より破壊されてしまいました。

その後、鷹司家を中心として往生院再興についての努力が続けられるものの、結実せず、大正15年には、蓮海上人により本格復興発願されるものの、昭和21年、完成を果たせずに寂滅。

太平洋戦争終結後、昭和28年頃から、立誡和尚が本格的な復興を計画しました。

後中興・岩瀧立誡大和尚(昭和61年入滅)により、大半の伽藍が復興されるに至り、現住の哲秀和尚も精力的に尽力する中、墓苑整備、鐘楼堂・歴史館・民具館の建立、小楠公墓苑整備を行い、創立時の威容を徐々に取り戻しつつあります。

(日本書紀・行基年譜・大日本史・太平記・拾遺・吉野拾遺・和漢三才図会・日本名勝地誌・河内名所図会・大阪府史蹟名勝天然記念物・群志・本朝高僧伝、その他多数文献による)

http://ja.wikipedia.org/wiki/往生院_ (東大阪市)

※Wikipediaの編集には中立の観点から一切関わっておりません。


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