行基

2026年02月14日

「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について(令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料)

令和8年3月春彼岸施餓鬼法要 配布資料
 

【往生院六萬寺の歴史】「岩瀧山」の磐座と河内「六萬寺」について
 
近年、往生院六萬寺の歴史について再調査研究していく中で、色々な新しい発見がありました。その一つに、お寺の山号である「岩瀧山」(いわたきさん)の山頂には、複数群の「磐座」(いわくら)があり、その東の背後にある三間石山(夫婦岩)とともに、古代祭祀の遺跡であることが分かってきました。

その創祀は、今から2185年ほど前、紀元前160年頃に、出雲王国・出雲族の移動に伴うものであったことが考えられます。

紀元前165年頃 出雲王国・二王枯死事件(2190年前)
紀元前160年頃 生駒山地(三間石山・岩瀧山等)磐座の創祀(2185年前)
紀元前155年頃 金剛山・二上山・葛城山磐座の創祀(2180年前)
紀元前150年頃 三輪山・ダンノダイラ磐座の創祀(2175年前)

紀元前165年頃に、出雲王国の主王(大国主)と副王(事代主)が同時に幽閉されて亡くなるという大事件があり、それを受けて、当時の主王と副王の子どもたちが、出雲族を率いて出雲の国(現在の島根県)を離れて、新天地を目指し、「出雲→丹波→摂津→河内→大和」へと移動していく中、河内に留まった際に、生駒山地に祖神、先祖を祀る磐座を、複数ヵ所にて造営したものの一つが、岩瀧山磐座と考えられます。

特に、この岩瀧山・三間石山の磐座は、春分・秋分の日(彼岸中日)に太陽が大阪湾へと沈む、その真東に位置しており、極めて重要な磐座であったと考えられます。古代の出雲族にとっては、彼岸の中日が現在のお正月に当たるため、彼岸中日は、特に重要な日として、先祖への感謝と供養の大祭が行われていました。この風習が、彼岸における先祖供養として現在でも続いているのであります。

 



また、平安時代、安助(あんじょ)上人により、河内・往生院が創建(1040年頃)されますが、その理由も、彼岸中日に夕陽が沈む真東に当たるからでありました。
安助上人は、「當天王寺之東門、定知極樂東門之中心也、加以西天迎晴夕日可觀」(拾遺往生伝)として、「日想観」(じっそうかん)による極楽誓願を行うのに最も適したところであるとして、この地を選ばれたのであります。

生駒山の磐座としては、夏至の日に太陽が沈む真東の饒速日山(にぎはやひやま)・磐座、冬至の日に太陽が沈む真東の天川神社跡・磐座とともに、岩瀧山は、彼岸中日に太陽が沈む真東の磐座として、古代出雲族にとっての一番大事なところであったことが窺えます。

当地は、まさに先祖の供養を行う上での「稀有なる聖地」であると言えます。

また、この磐座遺跡とともに、今まで謎だらけであった河内・六萬寺の歴史についても、ようやくに解明が進んでいくことになりました。

745年、聖武天皇の勅願により、行基上人の開基にて河内「六萬寺」は創建されます。この創建の理由も、供養を行う上での「稀有なる聖地」であったためということが分かってきました。

天平の疫病大流行(735-737年)によって亡くなった者たちへの供養とともに、この疫病の原因は、「西ノ山古墳」(八尾市楽音寺)の被葬者による「祟り」であるとして、聖武天皇の勅命により、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)、弓削道鏡禅師、行基上人の三名が中心となっての大規模な供養(と結界)が営まれ、その重要な一つのお寺として、六萬寺が創建されたと考えられるのであります。

 



中心となって主宰したのが、弓削道鏡禅師と考えられ、各三種の神器を社名に冠する神社と、各神社の神宮寺を結ぶことで、西ノ山古墳の被葬者へ向けての強力な供養と結界を営んだと考えられるのであります。六萬寺も含めて、いくつかの寺院、神社が、この頃に創建されたのではないかと考えられます。

 



では、天平の疫病の祟りの原因とされ、このように大規模な供養と結界が行われることになった「西ノ山古墳」の被葬者とはいったい誰であるか・・

あくまでも現時点までの調査研究における推定ですが、西ノ山古墳は、「天皇の陵墓」であり、それも歴代の天皇には名前の無い天皇であるのではないだろうかと考えています。

応神天皇の次の天皇として即位された宇治天皇は、クーデターにより殺され、更に、次に天皇に即位した宇治天皇の異母兄弟である隼別天皇も同じくクーデターにより殺されていることは、日本書紀や古事記において、それとなく暗喩されていると思われるエピソードはあるものの、秘密にされて、隠された歴史になっていると考えられるのであります。

いずれにしても、仁徳天皇の八田皇后(宇治天皇の妹)が、兄である宇治天皇と隼別天皇を、仁徳天皇没後に、それぞれの母の実家の地であるところ、宇治天皇をヒシアゲ古墳(和邇氏の勢力地)に、隼別天皇を西ノ山古墳(桜井田部連氏の勢力地・河内郡桜井郷)に、手厚く改葬されてあることが、出雲伝承(出雲口伝)からも推定されるものとなります。

特に、天平の疫病は、隼別天皇による祟りであるとして、当時の朝廷の認識(二人の天皇が殺されていることをまだ知る者があった)、あるいは神祇官による占いの結果や、神託・託宣があった可能性もあり、この憂いから、聖武天皇の勅命により営まれたのが、この供養と結界なのではないかと考えることができます。

この供養と結界の重要な一角を担う寺院として、行基上人により、この聖地に「六萬寺」が創建されたと考えられるのであります。

引き続き、六萬寺の歴史の解明とともに、西ノ山古墳・隼別天皇陵説についての研究も更に進めていければと考えています。

YouTubeで、「ミニ法話シリーズ」とともに、「歴史再考シリーズ」として動画で解説をしています。    

 


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2026年01月26日

改めて拙研究の目的について(隼別天皇・宇治天皇への慰霊鎮魂供養に向けて)

ここのところ、動画を観られた方から拙研究の目的について尋ねられることがあります。

一番の目的は、往生院六萬寺の歴史を解明していく中で、特に河内・六萬寺と河内・桜井寺のことと、桜井寺と共にあったとされる桜井神社(上之社)の解明であり、更には、この過程から、岩瀧山や生駒山地には古代祭祀の痕跡となる磐座が存在し、東出雲王家の天日方奇日方命や西出雲王家の阿遅鉏高日子根命ら出雲族の河内への移住の際に創祀された磐座であることや、神功皇后が三韓征討の帰国後に岩瀧山霊畤にて大嘗祭を行って天皇に即位していることなど、そして、滅んだ宇佐王朝の悲しいクーデターの歴史、隼別天皇が西ノ山古墳に改葬されたこと、隼別天皇の鎮魂慰霊のために三種の神器ダイヤモンド結界が、聖武天皇の勅願により、左大臣・橘諸兄、弓削道鏡禅師、行基上人により営まれたことなどが分かってくることになりました。

このような中で、日本神道には、祟り神が、鎮魂慰霊により、やがては国家の守護神として祀られる流れがあり、伊勢神宮の天照大神(豊玉姫・卑弥呼、第二次物部東征途上で無念の死)も、宇佐神宮の八幡大神(応神天皇・宇佐王朝一代で滅亡)も、天満宮の菅原道真(天満天神、太宰府左遷にて無念の死)も、要は「祟り神」が、後に強力な鎮護国家の守護神となって祀られてあることもわかってきました。

(出雲王国の二王枯死事件での八千矛王命・大国主命→大黒天、八重波津身命・事代主命→恵比寿天も、祟り神から、やがては守護神として祀られることになっています。)

ところが、クーデターにより無念の死を遂げた宇治天皇、隼別天皇、特に隼別天皇の慰霊鎮魂供養は、三種の神器ダイヤモンド結界による鎮魂慰霊が、弓削道鏡禅師の失脚によって早々に滞ったままとなり、以来、国家的、公式にはなされなくなってしまっているのは、日本の国体護持、安泰という観点からも、非常に憂慮されるものであると考えております。

このため、隼別天皇陵墓、宇治天皇陵墓が、正確に比定され、歴史と事績の見直しもされ、両天皇が改めて歴代天皇に列せられた上に、陵墓のしかるべくの整備と祭祀慰霊がなされることが、国体護持、安泰において望ましいものになると考えるため、国体の護持、安泰へと向けた慰霊鎮魂供養へと向けて、とにかく研究を一歩でも前へと進めねばと考えているのであります。

もちろん、桜井神社と八幡神社の上之社の再興も望まれるところであり、今後の具体化を更に検討して参りたいと思います。

拙研究考察については下記から記事一覧をご参照下さいませ。

https://ameblo.jp/iwatakiiwakurareiji/entrylist.html




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2025年12月11日

「三種の神器ダイヤモンド結界」図をアップデート

「三種の神器ダイヤモンド結界」図をアップデートしました。

 

今後、最新の調査研究ではこちらの図を用いていく予定です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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2025年12月05日

日本古代史・推定年代と今後の調査研究の内容について

これまでの考察に関する推定年代を、ある程度まとめてほしいと頂きましたので、推定してみました。


また、今後の調査研究の対象についても改めてまとめています。


桜井神社(東大阪市六万寺町)の創祀は、桜井田部連氏の先祖、出雲王国の出雲族(天日方奇日方命が率いる出雲族一団)が、大国主・八千矛王と事代主・八重波津身命の二王枯死事件後、紀元前160年頃(2185年前)に河内へと至った際に、サイノカミ三大神と出雲王国の歴代の先祖である大国主命・事代主命を祀った三間石山と岩瀧山磐座への遥拝からとなりますが、当初は神社というよりも遥拝所という形式であったと考えられます。


推定年代


紀元前165年頃 出雲王国・二王枯死事件(2190年前)


紀元前160年頃 生駒山地(三間石山・岩瀧山等)磐座の創祀(2185年前)


紀元前155年頃 金剛山・二上山・葛城山磐座の創祀(2180年前)


紀元前150年頃 三輪山・ダンノダイラ磐座の創祀(2175年前)

海村雲命・初代大王 海部・磯城王朝の成立(天日方奇日方命が後見)


紀元前100年頃~25年頃 綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇


紀元後25年頃~150年頃 孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇


150年頃 第一次物部東征(彦五十瀬命・宇摩志麻遅命)

大田田根子命と宇摩志麻遅命が同盟、大和へ侵攻

孝霊天皇が播磨、吉備、出雲へ侵攻

大彦(長髄彦)が伊賀、近江から北陸・東北へと侵攻


160年頃 三輪王朝(大田田根子命・宇摩志麻遅命の共同統治)・磯城王朝(孝元天皇)の並立


200年頃以降


桜井茶臼山古墳(桜井市外山)・・大田田根子命(大直禰子命・意富多多泥古命・三輪大王)


箸墓古墳・・倭迹迹日百襲姫命(孝霊天皇の皇女)


桜井外山古墳(桜井市外山・宗像神社付近に推定)orメスリ山古墳(桜井市高田)or渋谷向山古墳(天理市渋谷町)or柳本行燈山古墳(天理市柳本町)・・宇摩志麻遅命or意富弥希毛知命(大御食持命・おおみけもちのみこと・神部大王)or大三輪大友主or大鴨積命


富雄丸山古墳・・磯城県主大目or細姫命(孝霊天皇の后)の兄と細姫命


奈良帝塚山古墳(奈良市学園中に推定)・・孝元天皇or天足彦国押人命(孝昭天皇の皇子)


以前に、築山古墳(大和高田市築山)を宇摩志麻遅命の墳墓と推定しましたが、やはり時代が合わない可能性があり、共同統治の宮を置いていたと思われる鳥見山周辺域が有力になるとして、改めて考察し直しています。


豊国・豊玉姫(卑弥呼)と崇神天皇(物部印恵王)が同盟


磯城王朝、開化天皇(丹波道主命)が丹波に勢力移動(大和は磯城王家、和邇家等の複数有力豪族による内乱状態・倭国大乱)


崇神天皇は九州で没する


250年頃 第二次物部東征開始

垂仁天皇・豊玉姫・豊来入彦・豊来入姫らによる侵攻


255年頃 豊玉姫没する(安芸の宮島)、宇佐神宮(卑弥呼・天照大神)に祀られる

第二次物部東征軍により出雲王国滅亡


260年頃 垂仁天皇・豊来入彦・豊来入姫(台与)ら大和入り

豊来入姫(台与)による檜原神社の創祀(母・豊玉姫・卑弥呼・天照大神を祀る)


265年頃 垂仁天皇による物部王朝成立

野見宿禰の出雲軍が田道間守、豊来入彦らを大和から追い出す


270年頃 豊来入姫により伊勢神宮(豊玉姫・卑弥呼・天照大神)の創祀

豊来入姫(台与)が暗殺される(ホケノ山古墳に葬られ、豊受大神として伊勢神宮外宮に祀られる)


280年頃~350年頃 景行天皇、倭建命の遠征、成務天皇・仲哀天皇


350年頃 神功皇后による三韓征討開始


355年頃 生駒山・岩瀧山霊畤にて大嘗祭・神功天皇の即位


370年頃 応神天皇の即位


390年頃 宇治天皇、続いて隼別天皇即位もクーデターで敗死

仁徳天皇の即位


430年頃 八田皇后によりヒシアゲ古墳(奈良市佐紀町)・西ノ山古墳(八尾市楽音寺町)の造営開始


440年頃 宇治天皇をヒシアゲ古墳に、隼別天皇を西ノ山古墳に改葬


・・


今後の研究調査・考察の説・・


桜井神社奥宮・元宮の全容解明

河内・桜井寺の全容解明


三種の神器ダイヤモンド結界について(西ノ山古墳とともに)

河内・六萬寺の全容解明(行基上人開基・三種の神器ダイヤモンド結界との関連)

弓削道鏡禅師の事績解明(三種の神器ダイヤモンド結界主宰)




古墳関係・・


桜井茶臼山古墳(桜井市外山)・・大田田根子命(大直禰子命・意富多多泥古命・三輪大王)


桜井外山古墳(桜井市外山・宗像神社付近に推定)orメスリ山古墳(桜井市高田)or渋谷向山古墳(天理市渋谷町)or柳本行燈山古墳(天理市柳本町)・・宇摩志麻遅命or意富弥希毛知命(大御食持命・おおみけもちのみこと・神部大王)or大三輪大友主or大鴨積命


富雄丸山古墳・・磯城県主大目or細姫命(孝霊天皇の后)の兄と細姫命


奈良帝塚山古墳(奈良市学園中に推定)・・孝元天皇or天足彦国押人命(孝昭天皇の皇子)


桜井六萬寺古墳(東大阪市六万寺町に推定)・・桜井田部連(島・嶋)垂根(男鉏と糸姫の父)


島の山古墳(磯城郡川西町唐院)・・桜井田部連(島・嶋)男鉏と糸姫(糸井姫)


西ノ山古墳(八尾市楽音寺)・・隼別天皇

西ノ山古墳陪塚(東大阪市横小路)・・雌鳥皇后



天皇歴代・即位関係・・


天足彦国押人命(孝昭天皇の皇子)の天皇即位説


長髄彦・大彦命(孝安天皇の皇子)の天皇即位説


神功皇后の天皇即位説(生駒山・岩瀧山霊畤大嘗祭)


宇治天皇・隼別天皇の天皇即位説


高市皇子(天武天皇の皇子)の天皇即位説


尾治(尾張)天皇の天皇即位説


高仁天皇(後南朝小倉宮家)の天皇即位説(後南朝美作朝廷・小倉宮家の系譜、美作朝廷の全容解明)


その他・・


三炊屋姫(長髄彦・大彦命の妹)は宇摩志麻遅命の后・妃説


川口家先祖の系譜についての解明・・


後醍醐天皇→宗良親王→尹良親王→良王(尹重)→大橋信重(良王と大橋定元の娘との子)


大橋定省と桜姫(宗良親王の娘)の子が大橋定元、大橋定元の娘と良王との子が、大橋信重


大橋信重→定廣→川口盛祐(川口家(宗持)の養子、妻は於富の方(華陽院))→川口宗吉(織田信長の伯母を妻とする)→川口宗勝(信長直臣・弓大将、江戸幕府の旗本)


川口宗勝の主君

水野信元→柴田勝家→織田信長→信雄→豊臣秀吉→徳川秀忠


於富の方(華陽院)の水野忠政との子である於大の方(水野大(子))は、徳川家康の母


ちなみに、於富の方(華陽院)は、水野忠政、松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐と、五人に嫁いでいる。


宗勝の子、宗信、宗之、宗重(三男が旗本本家となる)、宗利、宗澄、宗政のいずれかが、本能寺の変の後、安土城下の川口宗勝の武家屋敷に浄土真宗寺院を開基。


・・


出雲散家と南朝について改めて関連を考察しておきたいと思います。


以前に織田信長と南朝の関係については色々と考察済みになっています。


また、徳川家康と南朝の関係についても、ある程度考察をしていますが、徳川家康と出雲散家との関係が、実はまだであったと思います。但し、賀茂家との繋がりについては以前には触れています。


南朝勢力を結集することで、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康の松平氏は、賀茂氏(三河賀茂社(豊橋市賀茂町)の社家)の出自であり、つまりは、出雲散家ということであります。(以前は出雲族との関係までは全く言及できていない。)


三河賀茂社の社家、賀茂氏の一族が、三河国加茂郡松平郷(豊田市松平町)へと移り住み、やがて、松平氏となります。


賀茂氏・・松平信盛-信重-娘婿(世良田)親氏-泰親-信光-親忠-長親-信忠-清康-廣忠-徳川家康


松平氏の氏神を祀る「六所神社」には、猿田彦神・塩土老翁・岐の神が祀られており、また、元々の祭神として、大山祇神(クナト大神)も祀られていたことから、「六所山」には、サイノカミ三大神の磐座が祀られていることが窺え、松平氏の出自が、東出雲王家の富家、賀茂家の出雲族であることが、これにより、よりはっきりと明らかになります。


実は、徳川秀忠の娘・和子と後水尾天皇との皇女である明正天皇は、明確に出雲王国の末裔であって、しかも南朝方遺臣の血も引く天皇であったと言えるのであります。


(後水尾天皇は継体天皇、欽明天皇の流れからにはなりますから、東出雲王家の富家から蘇我家に養子に入った富太彦・継体天皇からの繋がりで、出雲王家の子孫ということにはなります。)


(また後水尾天皇が先に譲位したのは、美作後南朝・小倉宮家の高仁天皇であったわけですが、徳川家光の圧力により即座に廃位となります。)


但し、明正天皇に子女がいなかったため、その血統が続くことにはならず、将軍家(+東出雲王家+南朝方遺臣)を外戚とした唯一の天皇となったのであります。


南朝と松平家との関係・・


新田義重(新田源氏)-世良田義季・・・満義(新田義貞の家臣)-政義、子に親季、政親、政秋・・松平家の娘婿(世良田)親氏-泰親-信光-親忠-長親-信忠-清康-廣忠-徳川家康

後醍醐天皇に従った新田義貞の新田源氏の流れにあった世良田氏の嫡流は、その後に絶えるものの、政義の子か、または甥と思われる親氏が、世良田氏の嫡流が絶える前に、世良田氏か

、ら松平氏へと養子になっており、やがて世良田氏をも継ぐ形となり、松平氏が世良田氏をも名乗るようになっていたと考えられ、松平氏は、南朝方の遺臣であると、言えることになるのであります。


徳川家と井伊家との関係・・


徳川家康に仕えた井伊直政は、徳川四天王の最右であります。


井伊家は、三国広見(真人)の子孫で、つまりは、三国国造家の末裔であり、東出雲王家・富家からの養子を迎えた蘇我家(富太彦・継体天皇)の流れとなり、その子孫が、遠江国井伊谷に移り住み、井伊氏となり、遠江介に任じられた井伊行直が、後醍醐天皇の皇子・宗良親王に従って南朝方となります。


(同じく宗良親王に従ったとされる井伊道政は、行直の兄弟か叔父、子の可能性があります。)


遠江国引佐郡の大敬神社、現在の「三嶽(みたけ)神社」が、まさに井伊家の先祖、氏神を祀る神社であり、広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、大国主命、少彦名命が祀られています。


広国押建金日命は、継体天皇の次の天皇である安閑天皇(母は蘇我振姫)のことになります。


その昔に安閑天皇の一族、蘇我家(継体天皇と蘇我振姫の子孫)が、この地に移住した際に、三岳山にサイノカミ三大神を祀ったのが、その創祀であると考えられます。


宗良(むねよし)親王と井伊行直(道政)(もしくは行直の兄弟、その一族)の娘との子が、尹良(ゆきよし)親王になります。


井伊家は、出雲王国の末裔にして、南朝方の遺臣ということになるのであります。


他・・


世良田政義の娘は、尹良親王の室となり、その子が良王(よしたか)君であります。


大橋定省と桜姫(宗良親王の娘)の子が、大橋定元で、大橋定元の娘と良王君との子が、大橋信重になります。


(尹良親王、良王君は、実在性についての疑義がありますが、それぞれにお墓も実際にあり、尹良親王のお墓は宮内庁により陵墓に治定されています。様々な伝承と、それに基づく史跡が幾つもあることから、安易に実在が否定されるものでは全くありません。いずれにしても、宗良親王の娘、桜姫は大橋定省の室であり、大橋家、川口家は後醍醐天皇の後胤であると言えることになります。)


良王君-大橋信重-定廣-盛祐(川口宗持の養子)-川口宗吉-川口宗勝


川口盛祐と於富の方(華陽院)の子が川口宗吉になります。


於富の方(華陽院)と水野忠政の子が、於大の方、於大の方と松平廣忠の子が、徳川家康になります。


宗良親王、尹良親王に仕えた津島大橋家から養子となった川口盛祐の子が、宗吉(母は於富の方)、宗吉の子、宗勝は、徳川家康と「はとこ」同士になります。


織田信長が、川口宗勝を直臣として特別に扱ったのは、織田信長の伯母が宗勝の母であり、織田家の親戚で、また、大橋家、川口家が後醍醐天皇の後胤でもあることをよく理解しており、特に、大橋信弌は、父が、大橋重長で、母は、織田信秀の娘・くらの方であり、信長にとっては甥にあたることから織田家の連枝に迎えて織田信弌とするのであります。


織田信弌を連枝とし、川口宗勝を直臣にしたのは、信長が、いよいよ室町幕府に取って代わる政権を目指して、南朝勢力の結集を図るため、ある意味で利用する目的もあったのでしょう。


(楠木正儀の子孫である楠木正虎や、楠木正行の遺児とされている池田教正の子孫、摂津池田氏の重用なども同じと言えます。)


本能寺の変後、宗勝は織田信雄、豊臣秀吉、秀頼に仕え、最盛期には伊勢国と尾張国に、合計1万8千石を領有します。


(本能寺の変後に安土城下にあった武家屋敷を寺院として開基したのが、宗勝の子で、拙川口家はその子孫になります。旗本は宗勝の三男の宗重が継いでいます。)


宗勝は、関ヶ原の戦いにおいて、消極的ながらにも豊臣方の西軍について戦わざるを得ず、敗戦後には所領が没収となり、高野山に蟄居し、伊達政宗(伊達家は、西出雲王家の五十猛命の末裔にして、しかも南朝遺臣中の遺臣)の預かりとなります。


しかし、徳川家康、徳川秀忠は宗勝を放免して、異例にも江戸幕府の旗本に取り立てます。


やはり、その理由には、宗勝が家康の「はとこ」であり、徳川家と血の繋がりがあったからであると言えるでしょう。







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2001年01月01日

往生院六萬寺の歴史

往生院六萬寺の歴史

現在、往生院六萬寺では、本堂の安置物について詳しく再調査した結果、幾つかの文化的、歴史的な新しい発見と共に、これまでの寺史の見直しが必要となることが明らかとなっております。

最新の関連年表につきましては、下記をご参考下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html


・・旧簡略寺史・・

大陸との文化交流が盛んに行われていた頃、大陸より文字、仏教、その他新文化が日本に流入する中、崇峻天皇3年(590年)に善信尼(日本最初の尼僧の一人・仏法興隆に貢献)を中心とした一行が百済(今の朝鮮半島)に留学し、帰国後、桜井寺に入山されたことが日本書紀に書かれています。

「崇峻天皇三年学問尼善信等自百済還、往桜井寺」(桜井寺、往生院六萬寺如古名(伝)・大日本地名辞典)現六万寺・古名・桜井郷あり。※大和国・桜井寺(明日香村豊浦)との説も有力。

その後、天平17年(745年)、行基菩薩49院建立の折に、聖武天皇の勅願により、桜井寺荒廃の跡へ、六萬寺を再建し、薬師如来を本尊としていたことが伝わっています。それ以前も文武天皇の時、役小角(修験道の開祖)が来山し、背後の岩瀧山にこもり、修験錬行の地としていたことも伝えられています。現在も岩瀧山には山号の由来として、修行に適していたと思われる険しい岩肌、滝が多数残っています。

行基菩薩の事歴は周知のところで、聖武天皇の尊崇あつく、当時、六萬寺も封境70戸寺田百畝を帝より喜捨され、伽藍を並べ、盛運の時に恵まれていたと伝わります。しかし、それから200年後、宇多天皇の治世時には、またも荒廃しており、宇多天皇の勅願により伽藍が修復・修理され、食邑30余町を寄進されたと伝わっています。更にそれから150年後の平安時代、後朱雀天皇・長暦3年に至り、念仏聖・安助上人が荒廃の六萬寺の地に庵を構え、極楽往生の日想観を修する修行道場として栄え、やがて、庵の後に伽藍が整備されて、往生院と公称されました。今から1000年余り前のことであります。

安助上人は河内石川の人にして、東高野街道(京道)を開きし僧侶であります。安助上人の努力により、法域も護持されましたが、後村上天皇・正平3年(1348年)に至り、建武の中興も空しく南北朝抗争が激しくなる中、1336年に湊川の戦いで、足利尊氏軍により討たれた南朝方の武将・楠木正成公の長男であり、正成公逝去後に、楠木一族の頭領となった河内国・検非違使・左衛門少尉・楠木正行公は、その最後の戦いとなる四條縄手(※四条畷の説もあり)の合戦で、吉野から出陣し、幼少期を過ごした往生院に本陣を構えて、京都八幡より東高野街道沿いに押し寄せる北朝足利方・高師直・師泰軍に対して戦いを挑みました。数十倍の相手方軍勢に対して果敢に戦いましたが、多勢に無勢、刀折れ、矢尽きて敗れました。

正行公陣没後、その遺骸(胴)は黙庵和尚により往生院の境内において葬られたと伝わっています。現在、そのお墓が往生院西南の境内にあり、左五輪塔は正行公の御墓、右石塔は正成公の供養塔として、供養塔は正成300年祭に関白鷹司信房によって建立されたものとなります。

正行公陣没後、往生院伽藍のほとんどが兵火に焼け落ちましたが、その後、江戸時代、後光明天皇・承応3年(1654年)、関白鷹司信房が名刹の荒廃を嘆き、再興を目指す中、幕府からも朱印170石を寄進されて、復興を図りつつ、明治時代へと至りました。

しかし、明治時代、四条畷神社創立の際における当寺院に対しての土地接収、寺仏破壊を恐れ、寺院伝来の聖地を守るべく、正成公・正行公の二石塔を隠蔽し、保存していた古文献等を焼却するなど完全処分して、その回避を図ったため、往生院は根底より破壊されてしまいました。

その後、鷹司家を中心として往生院再興についての努力が続けられるものの、結実せず、大正15年には、蓮海上人により本格復興発願されるものの、昭和21年、完成を果たせずに寂滅。

太平洋戦争終結後、昭和28年頃から、立誡和尚が本格的な復興を計画しました。

後中興・岩瀧立誡大和尚(昭和61年入滅)により、大半の伽藍が復興されるに至り、現住の哲秀和尚も精力的に尽力する中、墓苑整備、鐘楼堂・歴史館・民具館の建立、小楠公墓苑整備を行い、創立時の威容を徐々に取り戻しつつあります。

(日本書紀・行基年譜・大日本史・太平記・拾遺・吉野拾遺・和漢三才図会・日本名勝地誌・河内名所図会・大阪府史蹟名勝天然記念物・群志・本朝高僧伝、その他多数文献による)

http://ja.wikipedia.org/wiki/往生院_ (東大阪市)

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