『ユニークフェイス・ライフ』実家で見たよ紅白

2005年12月31日

『ユニークフェイス・ライフ』

 試写段階で観た『ユニークフェイス・ライフ』には、主役として2人の「当事者」が登場する。一人は久保丈夫さんという男性で、現在はお母さんのお仕事である印刷業を手伝っている。もう一人は奥中さおりさんという女性で、名古屋のボランティア団体に勤務しているということだったが、試写会当日には会場まで来て参加されていた。年齢はともに30代といったところだろうか。どちらも顔に「単純性血管腫」によるアザを抱えている。

 英語で「人格」を表す「personality」という言葉は、もともとラテン語の「ペルソナ」(仮面)に由来するという。「人格」即ち「仮面」だとは昔の人も含蓄のあることを言ってくれたものだが、ともあれ「顔」とは人間にとってその人格を代表するものであり、他者とのコミュニケーションを図っていくうえでのポータルというか、アイコンのようなものだと言える。

 だとすれば、その顔にアザがある人生というのは、いったいどういうものなんだろう? その人の内面にある人格以前に、まず他者からの好奇の目線にさらされ続ける人生とは――今のところそうした経験をしなくてすんでいる私には、当事者の人たちから話を聞きながら想像するしか術がない。

 久保さんも奥中さんも幼児期から一歩家の外に出るたびに、心無い言葉を浴びせられたりいじめに遭うなどの苦い差別体験を味わってきたという。もちろん、そこで苦しむのは当人たちだけではない(当人たちが一番辛いのは確かだが)。作中では久保さんのお母さんに、もう一人、やはり生まれながら顔にアザを持つお子さんを抱えてきたという女性が話を聞く場面が紹介される。同じ境遇にある母親二人の、特に感情を高ぶらせるわけではない淡々とした語らいから、むしろそれまで我が子と共に歩んできた年月、日々の暮らしの中にどうしようもなく横たわってきた悲しみの感情がにじみ出る。

 正直、もし自分がその場にいたら何と声をかけたものか、わからない。辛いな、と思う。映画の中盤、奥中さんの最初の登場シーンで、顔の左半分から腕にかけて大きな赤いアザを抱えた彼女のアップが出た時、そうした感情はピークに達したものだ。

 ところが、そうしたトーンが後半からにわかに一変する。

 映画に出演することについて、周囲の家族との間でいろいろあったらしい奥中さんだが、ひとたびカメラの前に出た彼女は実に快活で、自然体に振舞う。特に、いきつけの美容室にいき、顔なじみの美容師さんと屈託のないやりとりをする場面などはとてもほほえましい。上映後に感想を求められて、「私ってかわいいじゃん!」とはしゃぐように語っていたが、実際なかなかチャーミングな女性だ。映画が公開された暁には、結構ファンができたりするかもしれない(笑)。

 そんな奥中さんのパーソナリティに引っ張られてか、映画は終盤に向けかなりポジティブな感じで展開する。ラストシーンは、制作スタッフを担当したユニークフェイスのメンバーたちがカラオケボックスで楽しそうに歌いまくるという意表をついたものだった。不思議な余韻が後に残る。

 むろん、ここに出てきた二人だけで全ての「当事者」の実態が語り尽くせるものではないだろう。既に述べたように、ユニークフェイスのメンバーの中にも今回の映画制作に対して強く反対する人たちがいるという。それも無理はない。人によっては他者の目に触れること自体が怖くて家から一歩も外に出られないというくらい、被害者意識の強い人々が多いからだ。

 その意味でもう一つ、この映画を観ながら感心したのは、そうした撮影を進める課程でのメンバー間での議論の様子もそのまま撮ったうえで、下手に構成を加えるのではなく時系列的にそのまま作品の中に出しているという点だ。この映画を作ることが当事者たちにとってどのような意義を持つのか、また、そのことで彼らにどのような変化が生まれるのかというところまでも含めて作品にしてしまうという、極めてメタな要素を含んだドキュメンタリーになっているのである。

 そう、さらにこの映画で特筆すべきは、まさしく「当事者」自らが作り手として、被写体としての自らを描いていることにある。

 身体障害者などのいわゆるハンディキャップを描いたドキュメンタリー映画といえば過去にもいくつかの優れた作品がある。代表的なものとして知られるのは、脳性麻痺患者たちの団体「青い芝の会」の人たちを描いた原一男監督の『さようならCP』、ジャーナリストの北島行徳さんが主宰する障害者プロレスの団体「ドッグレッグス」を追った天願大介監督の『無敵のハンディキャップ』などが挙げられる。石井さんも今回の作品を作るに際しては、この前記2作品を意識していたという。

 もっとも、これらの作品では常に「障害者をそんな形で撮っていいのか」といった議論も一方では絶えずつきまとっていた。映画の作り手(多くの場合は健常者)が障害者に向けるカメラもまた一種の暴力装置であり、それはこれまで彼ら障害者たちを苦しめてきた世の中からの差別や暴力と、ある意味で同じものではないのか、と。

 ところが、この『ユニークフェイス・ライフ』の場合はどうだろう。他ならぬ、これまで差別や暴力にさらされてきた当事者の側がカメラを持って自らを撮り、自らの姿や声を世間に向かって発信しようとしているのだ。映像技術の進化によって、今やこうしたことが可能になっている現実を、我々は強く認識しておく必要がある。

(ちなみに大阪の映像制作集団「ビデオ工房AKAME」では、以前から障害者のためのビデオ講座というのをやっていて、確か車椅子に乗る障害者が自分たちを撮るドキュメンタリーの制作も進めていた。去年の秋に別件で取材した際に聞いた程度で、その後の詳しい話はまだ聞いていないが、はたしてどうなっただろうか)

 この『ユニークフェイス・ライフ』、今後は1月中に追加の編集を追え、春から完成した作品を各地で順次上映していく考えだという。なお、この作品はメンバーの間での当初からの申し合わせにより、DVD化もされなければWeb上でのストリーミング配信も行われない。あくまで上映会という場でのみ公開され、そのうえで作り手と観客とがじかに語り合おうというスタイルを貫くとのことだ。さて、どんな反響が出てくるか、楽しみだ。

ourplanet_iwamoto at 15:23│Comments(0)TrackBack(0) 知られる権利 

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