“23日、わかった”月刊『少年ジャンプ』休刊!巨乳とサラ金

2007年03月10日

『編集者 齋藤十一』

8fa36d7b.JPG 日本の雑誌ジャーナリズムに関心や関わりを持ってきた人間で、この名前に何も感じないという者はいないだろう。私自身、書店でこの表紙を見つけた時には思わず背筋にゾクッとするものを感じたし、手にとって開いた途端に出てきた←の写真にも、一瞬その場で凍りつくような気がしたほどだ。

 まるでヒッチコックを思わせる風貌。この“素顔”を表舞台に引っ張り出すために過去どれだけ多くの編集者や記者らが神経を擦り減らしただろうかと思う。上の写真が撮影されたのは、彼が鬼籍に入る約2年前、85歳になろうかという時期のことだ。生涯で為すべきことを全て為し終え、悠悠自適の余生を送る老人の風情が漂うものの、気になるのは道化師の仮面のごとき、その「目」だ。

 他者が自らの内面に踏み込むのを拒絶し、おそらく終生に渡って自分以外の誰をも信じなかった男。一方で俗世の森羅万象を、まるで惨殺死体を涼しい顔で解剖する医師のように見つめ続けたその目が、人生の終局を前に捉えていたものはいったい何だったのか。

 戦後日本の出版業界史には「三大名編集者」と讃えられる人たちがいる。『文藝春秋』の池島信平、『週刊朝日』の扇谷正造、そして『暮しの手帖』の花森安治だ。この三人はお互いに会社の枠を超えた交友関係にあり、またそれぞれの動静がメディアでも華々しく報じられる、ある種「出版界のスター」的な存在だった。

 齋藤十一(さいとう・じゅういち)は、そんな上記の三人とほぼ同時代を生きながら、終生にわたり「編集者は黒子」としての姿勢を貫き、表舞台に自身の姿をさらすことを良しとしなかった、伝説的な編集者だ。名門・新潮社の基幹雑誌群である『週刊新潮』『FOCUS』『新潮45』を立ち上げ、文芸編集者としても坂口安吾や小林秀雄、太宰治など数々の大作家を育て上げた――などの実績において、彼の存在は池島や花森らに比べて何ら劣るところはない。ただ、別に新潮社のオーナーでもなく、また正式な「編集長」の肩書を背負ったこともほとんどなかった(月刊『新潮』が唯一か?)にも拘らず、死の数年前に至るまで新潮社の経営や、上記3雑誌の編集方針にも多大なる影響力を行使し続けたことから、長らく出版業界の中では「黒幕」「新潮社の“陰の天皇”」などといった都市伝説的に妖しげな人物としての風評が独り歩きする格好になっていた。

 例えば朝日新聞が1995年2月7日付朝刊に掲載した「週刊誌考PART3 『新潮』の終わらない『昭和』1」と題された特集記事には、冒頭から齋藤についてのこんな記述が出てくる。

<鎌倉の朝、リボンに挿した羽根まで黒いソフト帽をかぶったその老人は、規則正しく歩を刻んで坂道を降りてくる。アジサイの寺・明月院の裏山にある自宅から谷筋の道を行き、円覚寺山門を横目に白鷺池を巻いて県道へ出る。午前九時過ぎ、JR北鎌倉駅の改札口を通る。新橋駅で降り、迎えのBMWの後部座席でパイプをくゆらせる。
 毎週、月・火・金曜日に繰り返される光景だ。
 今年八十一歳になる新潮社相談役・斎藤十一(じゅういち)を巡る虚実に、今も週刊誌の世界は寄りかかっている。一九五六年(昭和三十一年)二月創刊の週刊新潮は、今年三月に二千号になる。その骨格は斎藤がつくり、出版社系週刊誌の大ブームを起こした。今もその基本的なつくりは変わらない。斎藤が週に三回出社して企画を決めているからだ。>

 そう、世の良識を嗤い、人権を足蹴にし、水に落ちた犬は迷わず叩き、傷つく者の胸には容赦なく塩を塗りこみ、かと思えば時に皇族ですらも平気でからかいの対象にしてしまう――という、あの新潮社流雑誌ジャーナリズムの基本精神は全て齋藤が一代で育んできたものだった。

 で、前置きが長くなったが今回の本である。死後6年を経過し、ようやくみんなが彼の存在を忘れることができるようになったんじゃないかという今頃になって突如刊行された“齋藤十一伝”は、編集の現場で、あるいはプライベートにおいて彼と接してきた人々がそれぞれの立場から述べた「齋藤十一」像を、夫人の齋藤美和さん(もともと新潮社の編集者として齋藤十一とは上司・部下の間柄だった)がまとめたものだ。

 生身の齋藤十一を知る彼らの何人かは、これまでマスコミで流布されてきた妖しげな「齋藤十一」像への異議や違和感を、それぞれの手記の中で述べている。もっとも、私自身は本書を一通り読み終えてみて、むしろ従来から私の頭の中にあった齋藤十一という人物へのイメージがむしろ補強されたような印象を持った。

 事実、そんな寄稿者たちも一様に齋藤の強面(こわもて)ぶりを証明するかのような回顧談を口々に述べている。曰く「齋藤さんが部屋に入ってくるとピーンと空気が張りつめ」「社員が皆そろって齋藤さんに異常な緊張をする」「トイレで隣り同士になると、ちびって小便が出ないものもいた」といった具合に、本当にもうこの人がのっそり廊下を歩いてくるだけで擦れ違う者がみんなびびりまくるという新潮社内部での位置付けがリアルに伝わってくる。

 後に『週刊新潮』三代目編集長になる松田宏氏は駆け出し時代、当時二代目編集長だった野平健一に編集方針をめぐり疑問を投げかけた際、「ウチは三割自治なんだよ」と言われたことで「七割のボス」が社内に別にいることを知ったという。何しろ新潮社のオーナー・佐藤家の三代目社長である佐藤亮一の家庭教師をしていたという縁から乞われ、大学を中退のうえ入社してきたという大番頭・齋藤の力量には、佐藤家も全幅の信頼を置いていたようだ。

 とはいえ齋藤十一は経営者との結びつきの強さを部下に誇示する腰巾着野郎でもなければ、権謀術数を駆使して組織を支配する社内政治屋でも、怒鳴り声や暴力的な立ち振る舞いで部下の首根っこを締め上げるワンマン上司でもなかった。むしろ『新潮』在籍時代の部下だった小島千加子氏(文芸評論家)が齋藤について
「編集会議の時も多弁ではない。が、何が飛び出すか分らない緊張感にいつも包まれた。説明も、修飾語も無しにグサリと刺すような一言が毎回ある」
 と述べているように、現実の出来事や目の前で展開されている議論の本質をたちどころに見抜いて、まさに「寸鉄、人を刺す」(この形容句も何人かの寄稿者が齋藤評の要所において用いている)ようにズバッと突いて来る。その圧倒的な迫力こそが問答無用の説得力を持って周囲の者たちを従わせてきたということらしい。

「人殺しのツラが見たくないのか」(『FOCUS』創刊時、殺人犯の顔写真を載せることをためらう編集部員に言ったとされる伝説の名ゼリフ)
「気をつけろ 『佐川君』が歩いてる」(パリ人肉食事件の佐川一政氏が日本に帰ってきた際の『週刊新潮』の記事タイトル」
「全学連闘士を殺した背広」(同じく『週刊新潮』記事タイトル。60年安保闘争を戦った若者たちが年明けにはスーツを着て就職活動に走りまわっていた様子を皮肉ったもの)
「人間はふだんが大事―“無実の罪”を叫ぶ人の日頃」(どういう記事だか知らないが、まあだいたいタイトルだけで中身がわかるよなあ)
「そんなヒマがあったら北方領土に上陸して日の丸を立ててこい」(『週刊新潮』に抗議しにきた右翼の街宣車に対し、スタッフを使いに出して言わせたセリフ)

 この種のセリフは並みいる大作家たちにも容赦なく投げつけられた。五味康祐は書いた作品を齋藤に送りつけるたび「貴作拝見、没」という短い手紙と共に送り返されたという。
 山崎豊子は自作について批判してきた報道機関相手の裁判の齋藤から「作家は裁判に勝っても作品で負ければ敗北だ」と諭されたほか、作家業からの引退を申し出た際にも「芸能人には引退があるが、芸術家にはない。書きながら柩に入るのが作家だ」と言われたのに続き「時に私の死期も近いから、私への生前香典として香典原稿を一作戴きたい」と注文されたのがきっかけで『沈まぬ太陽』を書いたとか。

 かと思えば、珍しく長いセリフもある。1997年の神戸連続児童殺傷事件後、容疑者として逮捕された中学生の顔写真を載せた『FOCUS』『週刊新潮』が販売中止などの袋叩きに遭った際、当時『週刊文春』の記者だった瀬尾泰信氏は鎌倉の齋藤邸まで押しかけ、奇跡的にインタビューに成功している。少年の顔写真を掲載したかつての部下たちの仕事を讃えつつ、齋藤はこんなコメントを残している(本書に収録された瀬尾氏の寄稿でも紹介されている)。

「人権? 確かに大事なものかもしれないね。でも、それに拘泥してたんじゃ、ぼくらは出版できない。人権よりももっと大事なものがある。それは人間だよ。人間の精神だよ。だから何があって、それが人権侵害だと言われても、僕が人間の方が大事だと思えば、絶対にそれをやるんだよ」
「俺も“売らんかな”だよ。でも天が決めた法、“天の法”に逆らってまで売ろうという気持ちはないんだ。教養だよ。各人の教養だよ。天の書いたもの、作ったものは何か。それが教養じゃないか。我々ジャーナリストは、条文に書いてあることよりも、天の法、天の教養を大事にしなければならない。こううことなんだよ」

 ここには齋藤十一という人物が持っていた価値基準や美意識のようなものがよく表れているような気がする。彼は部下たちに対して「『週刊新潮』も文芸だ」と語っていたそうだが、要するに人権尊重だ戦争反対だといったお題目を声高に唱える者たちは、彼にとっては文芸・芸術的に美しくない、無粋な偽善を叫ぶ存在でしかなかった。そんな偽善の上っツラを引っぺがした裏側にある人間のドス黒い本性こそを、余計な修辞を排して簡潔かつ的確に表現することにこそ、彼の主眼はあったのではないか。

「書かずにいられない何か、つまり“デーモン”を生まれながらに心に秘めているのが物書きの資質だ。これがなければ、いいものは書けない」
 と、齋藤は生前、美和夫人に語っていたそうだ。この言葉は私のような才能のない惨めな物書きの耳にも、どこか甘くて妖しく、危うい音色を帯びつつジワジワと染み入るように響いてくる。

 鎌倉の齋藤邸の居室には、日本国内に数台しかないというイギリス・デッカ社製のオーディオ機器があり、晩年の齋藤はこの部屋でクラシックの古典を収めた膨大な数のレコードを聴きながら悠悠自適の日々を送ったという。時には夫人と共に音色に耳を傾け、聴き終えた後でどちらともなく握手を交わすという静かな毎日。後は時折訪ねてくる後輩編集者たちや親族たちを自宅や近所の飲み屋に誘って屈託ない会話を楽しむ、幸せな余生だったようだ。

 本書の巻末には、その齋藤が生前愛聴していたレコード盤のリストが7ページにわたって記載されている。しかし直後の、本来なら巻の掉尾を飾る重要な記事であるはずの年譜はたった2ページの極めて素っ気ないもの(タイトルも「齋藤十一略年譜」)だ。

「21世紀は見たくない」
 晩年に『AERA』でインタビューした佐野眞一氏によれば、齋藤は近しい人々に対して、常々そう漏らしていたという。その言葉通り、齋藤は2000年12月28日に世を去る。
 晩年は体力の衰えはあったものの、死の直前までは比較的健康だったようだ。死の直前には珍しくもテレビのインタビューを受けている。だが、12月23日に放映された自らの映像を見た齋藤は「老醜だ。もう生きているべきではない」と語り、翌朝には愛用の椅子に座ったまま意識不明に。そのまま帰らぬ人となった。享年86歳。

「天の法」に従うと生前に語っていた彼は、本能的に天命通りの終幕を半ば自覚しつつも、淡々と受け止めたのかもしれない。

(「岩本太郎ブログ」と同時掲載)

ourplanet_iwamoto at 11:52│Comments(0)TrackBack(0) 出版界 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
“23日、わかった”月刊『少年ジャンプ』休刊!巨乳とサラ金