小山バプテスト教会BLOG

栃木県小山市にあるプロテスタントのキリスト教会です。小山バプテスト教会活動を紹介していきます。家庭的な雰囲気の中、毎週日曜日に礼拝を捧げております。聖書に興味がある方、初心者の方も大歓迎です。気楽にお入りください。人生について、聖書について共に学んでいきましょう。 Welcome to Oyama Baptist Church!! For the Creator God so loved the world He gave His only son Jesus Christ. We follow Jesus to love and pray for Oyama city, Japan and the world.

集会案内です。
主日礼拝 日曜午前 10:30-12:00
日曜学校 日曜    9:00-10:00
祈祷会  水曜午後  7:30- 9:00
     土曜午前  6:00- 6:40
家庭集会 金曜午後  7:30- 9:00

< Sunday worship service 10:30-12:00 we have kids play area >
< Weekly prayer time 19:30-21:00 >

〒323-0029 栃木県小山市城北2-22-11
< Address; Johoku 2-22-11, Oyama city, Tochigi >

0285-21-4655
mail
oyamabaptist@gmail.com

三原牧師就任式

今日は礼拝後、三原識文牧師の牧師就任式が行われました。

司式は宇都宮バプテスト教会の矢吹徹牧師、メッセージは
大田原キリスト教会の大橋富男牧師でした。
三原牧師は、社会人1年目のときに大田原キリスト教会で
大橋牧師と出会います。そして、三原牧師の御言葉に対する姿勢と
神に愛されていることを見て、当時の三原牧師に献身を勧め、今日まで
見守り、また今後も見守り続けるであろう、いわば父親代わりの人でした。

遠いところから遠路遥々、多くの先生方が三原牧師の前途を祈り、祝福する
ために駆けつけてくださいました。また、都合により来られずとも、
祈りをもって仕えてくださる方々や祝電を送ってくださった方々、
この場を借り深く御礼申し上げます。

小山バプテスト教会は地域に仕え、信徒と共に成長していく教会でありたいと願います。
皆様本当にありがとうございました。

IMGP7742IMGP7727IMGP7745IMGP7762IMGP7755IMGP7771

養ってくださる方 ~イエスキリスト~

 私たち小山バプテスト教会は、今年4月から新しく三原識文(みはら・しもん)牧師を迎えました。
人生に最も大切なことはなにか。創造主のメッセージである聖書から丁寧に祈りのこもったメッセージを届けてくださる牧師です。皆さんの来会をお待ちしています。

 今日は聖書の詩篇23:1-6から、私たちを導き養う方としての創造主の姿を学びました。

 詩篇23篇の著者ダビデは、命を狙われ敵意に取り囲まれて苦しみの内に荒野を逃げ惑う経験をした人物です。以前羊飼いだった経験からダビデはそんな自分を羊に、困難な中にも導き守ってくださる創造主を羊飼いに例えています。悪意と死に囲まれてもなぜダビデは「主は私の羊飼い」という希望の告白をすることができたのでしょうか。羊飼いを信頼する羊として私たちは、どんな困難の中にも「ここは安全な場所だ」と平安の中に過ごすことができる。養い手である創造主に信頼し、安全な食事と水を知っていると信頼してついていく。この現実社会を歩むなかで内面の乾きに気づくことがあります。しかしこの渇きを永続的に満たす方がいる。この方(羊飼い)は愛のゆえに羊(私たち)のために十字架で死なれたイエスキリストである。詩篇23篇の最後には「私たちはいつまでも主の家に住まいましょう」とある。これは宗教的な建物のことではない。創造主がイエスキリストを通して示された愛を受け取り、人生を親しく導いていただく経験をすること自体を”主の家”と呼び、それを私たちは愛し慕います。

 このブログをお読みの皆さん、魂の深い部分での渇きや虚しさを覚える時はありませんか?世間が提供する気晴らしや、つかの間の楽しみでは埋められない深い穴がぽっかりと心に空いていると感じることはありませんか?あなたを愛し、人生を喜びと平安へと導きたいと願っている、あなたを造った創造主の懐に戻ってきませんか?小山バプテスト教会に集う私たちはそのことを経験しています。迷子の羊のようであったのに、創造主の懐に飛び込み、困難のなかにも平安をいだいて生きる人生です。皆さんも一緒にこの愛を受け取りませんか、心からお招きいたします。
                                   (文;近藤栄恵)

もうあなたしか見えない

本日は宇都宮聖書バプテスト教会の矢吹牧師
からメッセージがありました。

題名:もうあなたしか見えない
聖書箇所:ルカの福音書 7章36~50節

ルカの福音書7章36~50節では罪深い女がイエス様の
足を香油と涙で拭うシーンが描かれています。
このようなシーンは各福音書に描かれているものですが、
香油でイエス様の足を拭う女は、福音書によって人物が
異なっているようです。マルコの福音書14章3節ではツァラトと
呼ばれる皮膚病を患う女が、ヨハネの福音書12章1節では
マルタとマリヤの姉妹が、そして本日のルカの福音書では
香油のシーンは罪深い女として描かれています。
そして、イエス様はペテロに罪深い女のこの驚くべき行動は
何によっているのかについて、例えを用いて説明されました。

『多く赦されるものは、多く愛する。』

この罪深い女がイエス様の足を香油と涙で拭った場所は、
パリサイ人の家ででした。
当時のユダヤ社会において旧約聖書における律法は実生活における
社会法と同義でもありました。パリサイ人はその律法の権威である
律法学者として非常に社会的地位も高く、権威の高い存在でした。
そのような人の家に罪深い女が入ってきて、わき目も振らずに
イエス様の足を涙と香油で拭った。その行動は『愛』によらなければ
説明はつかないものでした。
『もうあなたしか見えない!』
そして、その愛は大きく赦されれば大きく赦されるほどに、愛もまた
大きくなります。
この罪深い女はきっと、人目に出ることもはばかられ、イエス様が
民衆の前で説教をしているなか、端っこのところで一生懸命耳を
そばだて、イエス様が発する言葉を一言ももらすまいと聴いていたのでしょう。
私たち人間は、すぐ隣の人をも裁き、噂するものですが、
神は人の罪を赦し、人間社会の地位によらず、評判によらず、
どんなに人から嫌われ、さげすまされ、打ち捨てられている人であっても
魂の奥底、人間の根柢の部分で愛の関係に入れてくださいます。
今の社会では浮かばれない、絶望しかない
罪深い女は、こんなものですら神に愛されるとは!どんなに希望を持ち、
喜んだことでしょう!
『もうあなたしか見えない!』

神様は人生のどん底から、そして陰府(ヨミ)のどん底からも浮かびあがらせて
くださいます。皆さんもぜひイエス様のもとに帰って、希望を持ち、愛の関係に
入らせていただく人生としましょう。

思いもよらぬ助け

本日はバイブル&ミニストリーズの町田俊之牧師からのメッセージでした。

主題:『思いもよらぬ助け』
箇所:ルカの福音書10章30~37節

町田牧師は大学で美術を学び、聖書の視点から美術を見つめ、
結び、語ることを目指しています。
今日の聖書箇所は傷ついた旅人とサマリヤ人からでした。
この箇所はゴッホもテーマに挙げて描いています。

無題














フィンセント・ファン・ゴッホ

ゴッホは1853年、オランダの牧師家庭の次男として生まれました。
発達障害を持ち、学校も中退してしまいます。その後も、父と同じく
牧師を目指し、神学校を目指しますが、結局学業に着いていくことが
できず学校を中退してしまいました。
しかし、若きゴッホは宣教の思いを諦めず、炭鉱に赴き伝道者として
働きますが、その炭鉱での伝道も激しさを伴っていたため、周りの
牧師に嫌われ、またもや挫折してしまいました。
ゴッホは多くの挫折を経験し、失意の中、27歳から画家を目指しました。
遅咲きのゴッホは自らの命を削るかのように絵に没頭していきます。
そんな中、上に挙げた良きサマリヤ人の画は、ゴッホが37歳で亡くなる最後の
1年間に描かれたものでした。

挫折の後、ゴッホの中には神の存在が希薄になり、やがて自然をモチーフと
して絵画に没頭していきました。
有名な『ヒマワリ』や『風景画』はまだ外を自由に歩きまわれた時代に
描かれたものでした。しかし、後にゴッホは精神病院に入り、自由に外を歩くことも
できなくなりました。そんな不自由で暗い生活の中でゴッホが立ち返った
場所が聖書の世界でした。そして、そんな暗い時代に見たのが、
善きサマリヤ人に見る、傷ついたゴッホを助けるイエス・キリストでした。

聖書に出てきます、強盗に襲われ傷ついた旅人を助けたのは、当時
ユダヤ社会から忌み嫌われたサマリヤ人でした。ユダヤ教祭祀もレビ人も
同じ通りを通っていきましたが、傷ついた旅人を見て見ぬふりをしました。
彼らは神殿に仕える高位の人たちでした。
傷ついた旅人をなぜ忌み嫌われる、軽蔑されるサマリヤ人は助けることが
できたのでしょうか?
人は相手よりも低くならなければ、心から相手を助けることはできません。

人生には思いがけない困難が起こります。それは善い人にも、悪い人にも
平等に起こるようです。町田牧師も多くの困難と苦しみと挫折の中、神に
祈りました。
なぜ?どうして?という祈りが多くあります。
しかし、そのような困難を通して町田牧師が学んだことは『低くなること』
でした。

私たちは身の回りの問題に対して、知恵をもって解決をしていきますが、
それはあくまでも人の知恵によってです。
しかし、イエス・キリストが教えることは世の中をうまく立ち回る処世術ではなく、
人よりも低くなり、相手を愛することでした。
そのことを、教えとしてではなく、理屈ではなく実際にこの世に来て、見せたのが
イエス・キリストでした。

世の中には多くの宗教があります。どの宗教も良いことを言っています。
しかし、決定的に違うことは、イエス・キリストは教えではなく、事実、この世界に
来たということです。
彼は、誰よりも低くなり十字架に掛かりました。そのことによって、人の罪を
救い出すことができました。私たちは自分だけを見て、周囲を見ない、傲慢な
性質を持ちます。しかし、神は人に神と同じように愛の性質を持つことを
望んでいます。
私たちも、イエス・キリストを見上げ、愛を目指して歩んでいこうではありませんか。

神の愛と私たちの愛

今日の日曜礼拝は日下健一先生が、聖書からお話をされました。

聖書の箇所;ヨハネの福音書全体 (特に21章15-17節)
1)信仰を通してイエスキリストにひきつけられていく私たち。
2)イエスがぶどうの樹、私たちは枝
3)教会とは、愛のあるところ?

1)信仰 ~ イエス様に引き付けられていく私たち
 今日のヨハネ21章は、イエスキリストを裏切ったペテロに、イエス様が三回「わたしを愛するか」と問われるシーンです。十字架刑に向かうイエスを避け三度も彼を拒否・否定したペテロ。ペテロはその後自分の罪に泣きました。イエスは十字架で死にましたが復活を遂げて再びペテロそばに座り語りかけます。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言います。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」ここでは、愛するという言葉と信じるという言葉が同じ意味合いで書かれています。信じるとはなんでしょう?福音を聞きそのことばを理解して信じる、それも重要なことです。しかし実はその前に大切なものがあります。それはイエスキリストと人格的な出会いがあるか、ということです。イエス様と出会ってしまったら、「愛します」と告白するか、拒否するか、の二択しかないからです。信仰は本来人間の頑張りで告白するものではなく、ヨハネ12:32にあるようにイエスキリストが「わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」と、ご自身から人間に働きかけておられる人格的な出会いに基づくのです。
 ヨハネの福音書において、イエスはおびただしい数の人に会っています。その中でイエスキリストと本当に人格的出会いを経験し彼に従う選択をした数人の記録があります。サマリアの女性(ヨハネ4章)、癒された盲人の信仰告白(ヨハネ9章)など。彼らは本当に人格的にイエスキリストに出会ったので、この方は神であると告白することができました。個人的に語りかけられるイエスキリスト、その方に「愛します」「信じます」と応答した人は、その信仰が磁石のようにこの人をイエスキリストの元へ引き寄せていきます。こうしてイエスキリストとともに歩む時、新しい歩み、新しい命を歩んでいる自分を発見するのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と書いてあるイエスの言葉の通りに。
あなたはイエスキリストの語り掛けに応答しますか?

2)イエスがぶどうの樹、私たちは枝
 ペテロに3回語りかけなさったイエス様は、その後弟子たちを地上に残し、天に昇られました。彼は再びこの地上に戻ってこられます。それまでの一時的な期間、イエスが目に見えないからと言って動揺したり孤独だと思わなくていいのです。今もイエスキリストは助け主聖霊を通して信じる者の内に住み、共に歩んでおられます。イエスキリストを信じる者は、イエスキリストの御言葉(聖書)に従い生きようとします。そうすればするほど、イエス様が自分の内にいて、そのことを一緒にしようとされていることに気付くようになるのです。これがイエスキリストを信じたクリスチャンの歩みです。

3)教会 ~ 愛のあるところ ? ~
 イエスキリストは十字架に着く前、弟子たちに「わたしがあなたを愛したように互いに愛し合いなさい」と言われました。しかし現実には、人間が互いに本当の意味で愛を与えあうことなど、できるのでしょうか?ヨハネ13:37でペテロは、自分は死んでもイエス様についていく、と力をいれて述べました。しかし結果はどうなりましたか?同じペテロが十字架前夜にイエス様との関係を切り捨て、裏切りました。ここにペテロの弱さがさらけ出されました。しかし私たちはペテロを指さして高みから批判することはできません。教会の中であっても人間関係には、傷つけてしまうことや許せないこと、愛し合うのが難しいと思う出来事は起こります。私たちは本当に愛し合える者たちなのでしょうか?はっきりいって、それは私たちには無理です。でも、もしそれができるとしたら、それは自分自身の罪に泣き、それがイエス様の十字架によって赦されたんだという実感を持っている者たち。その赦された実感を持つ者たちが、人を赦すことができます。私たち自身が滅びの淵から救われ、その後も自分の都合でイエス様を裏切り、信じないときがあった。それがあなたではありませんか、私たちではありませんか。罪に泣いたペテロは、イエス様に「わたしを愛しますか」と問われた時、こんな自分ですが、あなたを愛します、と答えました。
 私たち一人ひとりが、このようにイエスキリストに応答し続けましょう。そうしていると、教会が霊的な生命が満たされる場所となります。そして、「イエス様のことを知りたいです」と求める方々が、その命の泉を求めて来る場所となるのです。                (文責 近藤栄恵)

プロフィール

小山バプテスト教会

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ