ちょっと歴史っぽい西宮

わが街兵庫県西宮市を自転車でウロウロ

■ 目次 ■
 はじめに
 先史時代〜銅鐸・銅戈
 先史時代〜稲荷山古墳と大塚古墳
 上代〜務古水門と広田神社
 上代〜漢織と呉織
 飛鳥・奈良時代〜名次山
 飛鳥・奈良時代〜都努の松原
 平安時代〜昌林寺
 平安時代〜岡太神社
 鎌倉時代〜西宮えびす神社
 南北朝時代〜瓦林城・松岡城
 室町時代〜瓦林氏のこと
 戦国時代〜越水城
 戦国時代〜神呪寺・鷲林寺
 安土桃山時代〜秀吉と歯神さん
 安土桃山時代〜傀儡師の話
 安土桃山時代〜鳴尾義民
 中世・近世〜百間樋用水1
 中世・近世〜百間樋用水2
 中世・近世〜百間樋用水3
 江戸時代〜越木岩神社と刻印石
 江戸時代〜幕藩体制下の西宮(付・市域の墓地)
 江戸時代〜西国街道と中国街道
 江戸時代〜水害
 江戸時代〜樽廻船と今津灯台
 江戸時代〜宮水
 江戸時代〜学問・文化
 江戸時代〜道標
 江戸時代〜元号コレクション
 江戸時代〜その他歴史っぽいもの
 江戸時代〜西宮砲台と幕末動乱
 番外〜北部の歴史散策 その1
 番外〜北部の歴史散策 その2
 番外〜北部の歴史散策 その3
 近代〜西宮市の成立
 明治〜西宮の維新群像
 明治〜文明開化
 明治〜西宮七園の昔
 大正〜枝川の廃川と甲子園球場
 昭和〜阪神間モダニズム
 昭和〜戦時下の西宮
 昭和〜旧阪神パークそして鳴尾飛行場
 昭和〜廃線跡ウォッチ1
 昭和〜廃線跡ウォッチ2〔旧武庫川線〕
 昭和〜廃線跡ウォッチ3〔路面電車〕
 昭和〜廃線跡(?)ウォッチ4
 平成〜阪神大震災
 現代〜かわりゆく西宮
 その先の未来〜僕の好きな西宮
 参考文献


その先の未来〜僕の好きな西宮

 歴史散策というものは過去の遺物を探して思いにふけるわけで、将来のことを考えつつ歩くなんてことは普通出来ません。当然のことです。「未来」などと書いてしまうと「これからの西宮」みたいなテーマになってしまいますが、そういう話が出来るのは、学者か政治家か経済プランナーか、あるいは占い師か。もちろん、僕には何の才能も無いわけで、そんな話をしようなんてつもりは毛頭ありません。
 「未来」と書いたのは、単に便宜的なことです。銅鐸や古墳から始めて明治大正昭和平成。そして前回「現代」と書いてしまったので、次はもう「未来」としか書きようがなくなった、というだけのことです。
 しかしながら…未来の史跡候補、というものはあったりするわけで。

 たとえば、こういうもの。甲子園六石町にありました。

 郵政省郵政省

 「郵政省」ってのは、省庁再編により2001年に既に無くなっています。つまり、これは最低でも10年は経過しています。でも、まだまだ史跡には見えませんね。ついこの間まであった省庁っていう感覚があり、まだ歴史っぽい感じはしません。

 では、こういうのはどうでしょうか。
 芦屋との市境にあったJR(旧省線)の引込み線を尋ねてあたりをウロウロしていた時のこと。夙川公民館のある片鉾池の公園の西側は、鉄道撮影ポイントでファンが数人車両を狙っています。そんな鉄分の強い兄ちゃんたちに、ちょっと引込み線について聞いてみたんです。彼らはそれについては知らなかったものの、「面白いものがあるよ」と線路脇の用水路を指しました。さすれば。

 国鉄国鉄

 ”国鉄 芦ヤ支区” 国鉄かぁ(笑)。
 国鉄が分割民営化されたのは1987年。ずいぶん経ちましたね。こんな金属製の、しかも固定されていないものがよく残っているなと感心しました。震災も乗り越えたということですからね。
 さらに、こんなのはどうでしょう。

 電電公社1電電公社

 今や懐かしい電電公社のTTマーク。これは鳴尾のNTT社宅外で見つけたのですが、NTT熊野社宅外にもありました。もっとあるでしょう。 
 電電公社は1985年に民営化されましたから、結構経っています。30歳以下の人は、存在を全く知らないことも考えられます(そのくらい学んでいて欲しいのですが)。

 こういうものが歴史的遺物か、と言われれば、それはどうかわかりません。でもこれがさらに年月を重ねるとどうなるか。「郵政省」だってもう10年経ったら、ブロガーが写真を撮りに来る対象くらいにはなっているかもしれません。さらに50年経てば。大正8年に設置された道路元標みたいな扱いになるかも。さらに100年経てば…。
 歴史的遺物というのは、そういう過程で生まれてくるものだと思います。西宮砲台や六英堂のように、全てがドラマティックな物語を経てはいない。時間が、なんでもないものも史跡にしてゆく。道標も墓石も、出来たときは史跡ではなかったのですから。

 ただ、史跡というものは、語り伝えられていないと何だかわからないものになってしまいます。何だかわからなくてもとにかく存在していてそれが古ければ「文化財」というくくりに入れてしまうことは可能ですが、そうなると「思いを馳せる」対象にはなりにくい。
 例えばこういうものも、「これは何?」となる可能性だってあるのです。西宮南高校のそのまた南側。街の足跡を知っていれば即座に分かるこのコンクリートの万里の長城ですが、知らなければわからない。だってその先に海はもう無いんですから。現に僕は、西宮に越してきた直ぐの頃は、これが何だかわかりませんでした。

 防潮堤鳴尾浜防潮堤
 僕は川を離れ、かつての海岸道路に沿って東に歩いた。不思議なことに古い防波堤はまだ残っていた。海を失った防波堤はなんだか奇妙な存在だった。僕は昔よく車を停めて海を眺めていたあたりで立ちどまり、防波堤に腰かけてビールを飲んだ。
村上春樹「羊をめぐる冒険」より
 こんなのを読むと、西宮にゆかりのある村上春樹氏なので、思わず「川」は鳴尾川かと思ってしまいますが、まあそんなことはありません(笑)。ただ、ここで描写されているように「海を失った防波堤」というのは奇妙なものなのです。
 西宮は遠い昔から、海岸線が変貌しつづけた土地です。越水丘陵の先端である西田公園で漁具が発掘されているわけですから。そしてこの防波堤も、そんな発見された漁具や、また本町通の砂嘴の痕跡である隆起などとともに、ある時代の西宮の海岸線を示す遺構に間違いはありません。ただ、鳴尾浜の埋立てが戦後のことであるため、さほど歴史っぽく感じないだけです。しかしこれも、史跡になる可能性はあるのです。

 街は更新を続けます。その足取りは絶えることなく、現在をあっという間に過去にしてしまいます。その過去は、広義で言えば「歴史」に足を踏み入れることになるわけです。
 この話は2011年の話だと前置きしておきますが、その'11年現在、阪神電車の武庫川〜甲子園間の高架工事が行われています。このサイトを始めた頃はまだ本格化していませんでしたが、現在電車は仮線を走っており、徐々に高架化されるのでしょう。
 小曽根線の渋滞にはしばしば悩まされますから、高架化はやはり生活のうえでは有難いのです。しかし、それにしたがって消えてゆくものもあるはずです。歴史的な目から見れば、寂しい部分はやはりあるわけで。
 まず、レールの下に見えていた用水路は、全て暗渠になるはずです。それは、路線が高架化されるときに必ずなされる対処です。これは、ちょっと寂しい気もします。そんなことを寂しいと言ってる人間などほぼ居ないでしょうけれども。
 せめて、どこかにそれとわかる痕跡が残ればいいのに。
 話が高架化からそれますが、川は、次々と暗渠化されていきます。それは時代の流れでしょう。市内に網の目の如く広がっていた農業用水路は次々にフタをされてゆきます。震災の時には消火活動に役立った用水路なのに残念ですが、しょうがないことです。けれども、どこかにその痕跡は残してほしい。
 橋の跡などは、いいと思います。欄干とはいかずとも親柱を保存しておいてくれているところがあります。

錦橋錦橋親柱

 こういうのは有難い措置です。久寿川の橋跡ですが、大正13年って結構古いですよね。
 西宮は文化財意識が高いのか、時々こういうのを見ます。津門集会所の前とか、阪急夙川駅前の羽衣橋とか。 

 高架化に話を戻しますが、当然のことながら踏切は消えます。

 焼屋敷踏切道焼屋敷踏切

 現在工事中です。踏切がなくなればそりゃ便利ですが、この踏切名は「焼屋敷踏切道」。うーんなんとも歴史っぽい名前。焼けた屋敷は平重盛の館か、それとも足利尊氏が籠った松岡城か。それとも実は「屯倉屋敷」か。想像していると実に楽しいわけですが、「焼屋敷」という小字名はもう既に地名からは消えており、この踏切名くらいしか名残はないのです。惜しいなー。
 なんとか踏切の痕跡みたいなものは、残せないんでしょうかね。

 踏切跡産所公園踏切跡

 産所公園に踏切警報機が立っています。もちろんこれは、ストレートに踏切の痕跡ではないでしょう。一種の記念碑的なものだと思います。けれども、こういうものって重要だと思うのですよ。ここを走る阪神電車は、最初からあんな高いところを走っていたわけじゃない。踏切がここかしこにあった時代がある、という記憶は、とどめておくべきです。
 市内の踏切は、しばらくは消えることはないでしょう。阪急今津北線は、交差する最大の道路である国道171号線がすでに頭上を越えています。しかし、阪急神戸線は今後どうなるか。中津浜線や今津西線の渋滞のこともあります。北口駅はもう高架駅になる可能性はないのでしょうけど。

 ま、しかしそんなことは僕が考える話ではありません。未来のことは、わからない。
 しかし、何か見えている未来もありますよ。

 阪急武庫川駅阪急武庫川駅予定地

 日野神社前の踏切から、東を向いて阪急神戸線を見ています。視線の向うには武庫川が流れ、それをもちろん鉄橋で渡るのですが、そこで線路が二股に分かれているのがわかりますね。武庫川に架かる鉄橋は現在、複線橋梁ではなく単線並列橋梁に架け替えられているのです。
 これはつまり、駅設置の布石ですね。二股の間に島式ホームが作られ、橋上駅になる予定です。阪急「新」武庫川駅。僕は阪神沿線の人間であり、あまり関わりはないのですけれども、新駅の話ってやっぱりワクワクするわけで。
 そうやって、また街は更新されてゆくのです。僕の好きな西宮という街は、これからどんなふうに変貌を遂げ、どんな歴史を刻んでゆくのでしょうか。
 そんな西宮の未来を夢想しながら、このサイトを終えようと思います。

 なお、番外編作りました。
 全くもってヘタな写真しか撮れないのですが、そうして撮った画像がまだ余っています。いずれも、うまくテーマに当てはまらなかったり、それが何なのか分からなかったりで掲載を見合わせたものですが、最後にいくつか出しちゃおうと思います。

  もうひとつの「ちょっと歴史っぽい西宮」補遺編
  もうひとつの「ちょっと歴史っぽい西宮」謎編

 別ブログへ飛びますが、ご覧いただければ幸いです。中身ははみ出したものの羅列であって、バラバラで統一性のない内容なのは申し訳ありません。興味のある方には、ちょっと面白いかも。
 では、どうもありがとうございました。以下、長い長いあとがきに続きます。


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現代〜かわりゆく西宮

 西宮市は、震災で街が大きく変わったということは、もう言うまでもないことです。したがって震災後にやってきた僕には、わからないことが多いのです。
 「震災の前はな、ここに市場があったんや」「映画館もあったんやけどなあ」「すっかり変わってしもて」
 こういう話は、実によく聞きました。今でも聞きます。
 「駅前に阪神の変電所がありましてん。煉瓦造りでして。残念ながら崩れ落ちました」
 歴史ヲタクとしては、歴史的遺構が消えた話を聞くのは実に哀しいことです。
 「あのマンションのとこにイズミヤがあった」「あそこにジャスコがあった」へぇそうだったんですか。
 「震災前はあそこにサティが…」 ?? 時々混同されておられる方もいらっしゃいます。山手幹線のサティは僕も知ってます。震災後も営業していたはず。
 「震災前は競馬場があったんやけどな」 ! !そんなアホな競馬場は戦時中に飛行場になって消えたはずです。だから古老の話を聞く、というのは難しい(笑)。

 僕は震災を知りませんが、西宮に来た時はまだ20世紀でした。したがって、21世紀になって以降の西宮の変貌ぶりは、一応リアルタイムで知っています。そんな自分が知っている西宮の歴史をぽつぽつと書いてみたいと思います。
 まずは、阪神西宮東口駅です。

 東口1東口碑

 駅名が歴史的ですよね。西宮と津門村(合併後は今津町)の境に位置し、旧西宮町の東玄関口にあたる場所だから、西宮東口。明治38年の阪神電車開業以来の伝統ある駅でした。平成13年(2001)に廃止となりました。西宮駅と合併したという形ですね。上画像は、駅跡に残るモニュメントです。
 東口駅廃止は阪神本線の久寿川駅〜香櫨園駅の高架化と連動していたわけですが、上下線は片方づつ高架化されます。仮線を一本敷設して、その間に片側を高架化、それが完成すればもう一方を高架化、という形ですね。先に下り線の高架が完成したわけですが、駅廃止は上下線完全高架化後なので、高架上に仮駅があった時期がありました。

 東口2

 この高架線に残る南側のふくらみが、仮駅跡です。地上には全く駅の痕跡は残されていませんが、この仮駅跡が、モニュメントと共に東口駅の名残りとなっています。
 
 21世紀になって西宮の様々な施設が続々と閉鎖されていくわけですが、平成14年(2002)、甲子園競輪場がなくなりました。時代の流れなのでしょうか。
 甲子園競輪場は、昭和24年「鳴尾競輪場」としてスタートしました。鳴尾村が西宮市と合併した26年の正月に「甲子園競輪場」に改称されました。合併が原因で改称したわけではありませんけれどもね。
補助 以来、その収益は西宮の貴重な財源となっていったわけです。染殿町の福祉センターでこんなプレートを見かけましたけれども(右)、市にとっては有難い存在だったのかなと思います。
 ただ「文教都市」を謳う西宮には「ふさわしくない」と言われ続けたようですね。昭和30年代から根強い反対運動があったようです。しかしかわりの財源はどう確保するのか。そのため、辰馬夘一郎市長時代は「甲山にロープウェイを作ろう」なんて案が出たり(とても競輪並に儲かるとは思えないけど…)、田島淳太郎市長時代には市を二分したあの「日石誘致問題」が出てくるわけですよ。それを考えると、競輪で良かったのかも、と個人的には思います。あくまで個人的に(汗)。
 その競輪も、徐々に収益が悪化し、震災後も好転せずに結局撤退、廃止ということになりました。

 甲子園競輪1競輪場跡地
 
 この道の向うにそびえるマンションがある場所に、競輪場はありました。まわりウロウロしてみましたけど、全く痕跡が残っていませんね。きれいさっぱり消えています。

 甲子園競輪2

 あたりの歩道などに残るこのマークだけが、名残りといえば名残りかなあ。
 僕は不調法でギャンブルは宝くじしかやらない小心者でして、結局一度も入場せずに終わってしまいました。家から近かったんで、一度くらい入ってもよかったかなと後悔しています。
 
 競輪場は西宮に2ヶ所ありました。もうひとつは西宮競輪場です。といっても、これは独立した競輪場ではなく、西宮球場にバンクを特設して開場していたものです。もちろん、球場が閉鎖されて、終わりました。
 西宮球場ができたのは昭和12年。以来、阪急ブレーブスの本拠地として数々の名試合が行われてきました。 昭和50年の日本シリーズ優勝は、僕もTVで観戦してましたねー。
 余談ですが、僕は西宮球場で野球を観たことはありません。京都に住んでましたので、最寄は西京極球場でした。準本拠地ですかね。ここで、阪急の試合を何度も観戦しました。生まれて初めて野球の試合を見たのは阪急vs西鉄でしたが、これはさすがに幼すぎて詳細の記憶はありません(西鉄やもんな^^;)。記憶に残るのはその昭和50年で、数度観戦しました。福本、大熊、加藤、長池、マルカーノ、森本、ウイリアムス、大橋、中沢と猛者が揃っていました。投手はエース山田にベテラン米田、足立など。そして脅威の新人山口高志。何という速球か。子供ながらシビれました。日本球界最高の投手は金田でも稲尾でも松坂でもダルビッシュでもなく、今も江夏豊と山口高志だと僕は信じています(この二人は甲乙付けがたい)。その江夏が、伝説のオールスター9連続三振をやったのも西宮球場でした。絶対に破られない記録です。
 そんな西宮球場。日本初の二階建スタンドを持つ素晴らしきスタジアム。昭和21年、戦争で途絶えていた夏の高校野球大会が復活しましたが、それは西宮球場においてでした。甲子園球場は進駐軍の接収を受け、何よりグラウンドはまだイモ畑でした。その後も数々の栄光に飾られてきたのですが。
 阪急ブレーブスがオリックスとなり、フランチャイズも神戸に移転。僕が西宮に来たころは既に「西宮スタジアム」と名を変え、野球の試合以外に前述の競輪やアメフト、コンサートなどを行ってきました。僕もアメフトは見に行きましたし、話に聞けばマイケルジャクソンもライブをやったとか。しかし競輪も廃止となり平成14年(2002)いっぱいで営業を終了、解体されました。
 跡地は、西宮ガーデンズとなっているのはご承知のとおり。

 ガーデンズ西宮ガーデンズ

 「Garden」は「園」ということで、西宮七園を意識しているとのことです。オープンして何年かが経ち、徐々に蔦が伸びてきました。数年後には外壁を覆い、この画像とは全く異なる姿になっているのでしょう。
 ガーデンズ内には「阪急西宮ギャラリー」が置かれ、阪急電鉄やブレーブス、宝塚歌劇の歴史を展示しています。そして、屋上にはこんなものが。
 
 HBホームベース

 ホームベースがあった場所を示すプレートが設置されています。岡村浩二、中沢伸二、藤田浩雅、中嶋聡ら歴代の名手が守り抜いたホームベース。阪急ファンにはたまらないのではないでしょうか。
 もうひとつ。阪急百貨店南口のタクシー乗場に面した植込みに。

 ブレーブスこども会記念碑

 球場の正面横に置かれていた、ブレーブスこども会の記念碑が移設されていました。
 記念碑の隣には、ブレーブス後援会によって"バットの木"アオダモが植樹されていました。ガーデンズが出来たのは2008年、その時にも「ブレーブス後援会」が存在し続けていたことにちょっとした感動を与えてもらいました。

 球技場西宮球技場碑

 ガーデンズから山手幹線を渡って南、駐車場横の歩道を入った所に、この碑が設置されています。敬愛会グループの病院の前ですかね。
 ”FIELD OF GLORY 西宮球技場”と表題のついたこの碑は、関西アメリカンフットボール協会が1997年に造ったものらしく。そもそもはどこに設置されていたのかは存じませんが、「56年間にわたる阪急西宮球場に対する熱き思いと感謝を込めてここに記念碑を建立する」と刻まれています。西宮には関学もありますし、アメリカンフットボールという知的なスポーツが似合う街でもあります。野球だけではない西宮球場でしたね。
 さて、球場の痕跡はこれだけではありません。

球場前1球場前橋球場前筋

 球場橋に球場前線。球場前踏切というのも前に紹介しました。こういうの、本当にいいですね。子供&他所から来た人に「どうして球場前?」と聞かれれば、必ず西宮球場の話をしなくてはいけない。そうして、語り継がれていくものがある。「球場もないのにこういう道の名前とか、ややこしい」なんてクレームが付いて市が動く、なんて事態にならぬよう切に祈ります。ありうるからなぁそういうこと。
 
 西宮と言えばもちろん旨酒の都であり酒造業なのですが、酒蔵が徐々に減ってきました。震災で廃業となったところも何軒か。名義は残っていても実際はもう無い、という蔵もあります。
 白雪の撤退には驚きました。そして、少しづつ風景がかわってゆきます。
 でも大関、日本盛、白鷹、白鹿は変ることはないだろう、と思っていましたら、知らない間に白鹿の工場がひとつ無くなっていました。瓶詰め工場として現役だった、前浜町の白鹿館(旧)です。昭和5年に建てられたもので、その意匠もすばらしく、阪神間モダニズムの項を書くときにご登場いただこうと思っていましたら、いつの間にやら解体され更地になっていました。残念なことです。
 企業には企業の立場があり、いつまでも古いものを残してはおけません。それはよく理解していますし、何でも声高に残せ残せと叫ぼうとは思いません。しかし、見たところ完全に更地になっているのは惜しい。何か痕跡でも残しておいてくれたなら。
 この白鹿館解体に先立ち、辰馬本家酒造旧本社屋も無くなりました。跡地はカフェやアイスクリーム屋さんになっています。完全に面影はありませんが、モニュメントがひとつ残されています。

 辰馬白鹿旧本社屋跡

 これは「撥ね釣瓶」の礎石らしいですけれどもね。
 せめてこういうものでもいいから白鹿館跡地にも、モニュメントを建立されればいいのになと思います。在りし日の白鹿館の姿を映したプレートもつけて、スーパーやしまむらが並ぶ駐車場の片隅にでも。歴史は追憶の積み重ねですから、いつでも思い出せるようにしてくだされば嬉しいですね。

 白鹿館は西宮港に面していましたが、その西宮港も変わろうとしています。洗戎川の水門工事は、西宮の風景をどう変えるのでしょうか。
 御前浜は最初に漁港として栄え、次に当舎屋金兵衛が築堤工事を行い樽廻船が新酒を運んで繁栄し、それが廃れた後は昭和31年の国体をきっかけにヨットハーバーとなりました。そんな西宮港ですが、そのヨットハーバー時代の最大の出来事は、堀江謙一氏による太平洋単独横断の母港となったことでしょう。
 それを称える記念のマーメイド像は、西波止町の西宮港にあったはずでした。ところが見当たらなくなり、いつの間にか新西宮ヨットハーバーに移転していました。
 
 マーメイドマーメイド像

 このマーメイド像は、太平洋横断記念に敷島紡績が建立したものです。敷島紡績は、当時金銭的余裕が無かった堀江青年に帆を寄付しました。そのシキボウのマークだった人魚が帆にデザインされていたため「マーメイド号」となったのです。
 この移転の事情は知りません。もしかしたら堀江氏が、震災後にオープンした新西宮ヨットハーバーの起爆剤のひとつとして当地に持ってこられたのかもしれません。そうだとしたらその心遣いは大変有難いことですが、あくまでも「太平洋ひとりぼっち」の航海の出発点は、古くからの西宮港です。マーメイド像は、そちらに存在すべきだと僕は思います。 
 話がそれて恐縮ですが、堀江謙一氏の偉業は、本当に称えるべきものだと僕は考えています。しかしどうも軽んじられているような気がします。かつて、密出国せざるを得なかった阿呆な日本の役所の対応や、太平洋横断や次の世界一周の航海を「本当に行ったのか」と疑い誹謗した某元知事などの薄っぺらさについては今さら言うこともありませんが、現在においてももう少し称えられてもいいのではないかと常々感じています。
 国民栄誉賞というものが政治の道具に使用されていることは承知ですし、手塚治虫氏すら受賞しなかったものにさほどの価値はないのかもしれませんが、大衆への周知に役立つとすれば、早く国は堀江氏に受賞させるべきです。植村直己氏のように亡くなられた後、という愚は繰り返さないで欲しい。堀江氏と三浦雄一郎氏を同時受賞させ、もっと冒険というものへの蒙を啓いて欲しいと願っています。
 マーメイド号は、西宮に三隻あります。

船1船2船3

 左から、縦回り世界一周のマーメイド4世号、世界最小ヨット太平洋横断のマーメイド(ミニ)号、東回り単独無寄港世界一周のSUNTORYマーメイド号です。この新西宮ヨットハーバーから出て戻った、東西両方向での単独無寄港世界一周を成し遂げた平成17年というのは、いいタイミングであったと思ったのですがね。

 他に西宮の風景が顕著に変わった場所といえば、西宮中央商店街のアーケードがなくなったことでしょうか。
 かつては、商店街には南北にもみじ通り、東西にさくら通り、柳通りと3本のアーケードがあり、雨の日も買い物に便利でした。しかし、老朽化と活性化を主たる理由として撤去されました。これで、西宮に残るアーケードは甲子園口センター街。あとは僕の知る限りでは、笠屋町のみやこ商店街と新甲子園商店街に小規模なものがあるだけではなかったでしょうか。他にはあったかな…。
 アーケードの是非は様々な意見があることでしょうから述べませんが、とりあえず痕跡はないかと見て回りました。しかし、なかなかありませんね。柱跡など簡単に見つかると思ったのですが、道路舗装を石畳にかえたこと、そしてお洒落な街路灯の設置が、痕跡を覆ってしまったのでしょう。

 商店街現在の商店街

 ただ、現在の風景を見ていましても、お店の上部が揃っているところがかつて屋根があった頃を彷彿とさせるわけでして。名残は、やはりありますね。
 これは名残かどうかはわかりませんけれども、ちょっと面白いので紹介。

 トマトマソン

 トマソン、つまり無用の超芸術(@赤瀬川原平)ですが、その中でも「高所ドア」に分類されるものです(わからない方は検索してください^^;)。3階に相当する場所にドアがあります。怖いですね。ドアを開けて外へ出ればまっ逆さまに落下。自殺用扉と考えることしかできません。
 このドアは歯医者さんのものですが、実はこの手の恐怖ドア、ここだけじゃなく商店街にはいくつか見受けられるのですよ。つまりこれはやはり、アーケードの痕跡と考えてもいいのではないでしょうか。アーケードがあればドアを開けても落下せず、アーケード上部に降りられるわけですから。 
 
 街の変貌の話の最後に、阪神パークのことを。

 ららほららぽーと

 大型ショッピングモール「ららぽーと甲子園」ですが、ここに元々「阪神パーク」が在ったということは、もう細かに書かなくてもいい事柄ではないかと思います。戦前の浜甲子園阪神パークについては以前に採り上げましたが、戦後はこの地で営業を始めました。動物園と遊園地を併せた巨大施設で盛況を誇ったわけですが、その後、娯楽のニーズも変わり、阪神大震災の影響もあって入園者が激減、入場料を下げリストラしても立ち行かず、僕がこの地に越してきた頃には住宅展示場と一体化して入場無料となっていました。
 驚きでしたね。自宅から徒歩圏内にゾウやキリンが居て、しかもそれがタダとは。時々ふらりと行ってました。しかし時代の波にはついに勝てず、2003年3月30日に閉園となりました。
 そのかつての阪神パークの痕跡を見つけることは、困難です。真ん中を流れる用水路のあたりに古そうなものもあるのですが、昔と照合できない。将来こんなサイトを書くと分かっていたら、閉園の時に写真を撮りまくっておいたものを…。

 木ららぽの木

看板 右のような説明板がららぽーとに数ヶ所あります。つまり、ららぽーとの木は阪神パークを引き継いでいる、ということです。これら今も繁茂する木々が、現状に残る阪神パークの痕跡である、ということになります。
 ただし、その場に生えていたものか、それとも植替えがあったのかどうかまでは、記憶を辿っても判別できません。どなたかご教示いただけないでしょうか。木の位置までは記憶にないんですよね。
 
 ところで、ららぽーとの外に、阪神パークの名残を見つけることが出来ます。レオポンです。
 全盛期の阪神パーク最大の人気者はレオポンでした。ヒョウを父に、ライオンを母にして生まれたレオポンは、僕の子供の頃には児童雑誌やこども百科にも載っていたことを思い出します。
 レオポンは、昭和34年に2頭が誕生し(レオ吉とポン子)、さらに36年に3頭が誕生しました(ジョニー・チェリー・ディジー)。昭和60年に最後の1頭であるジョニーが亡くなるまで、人気を博していました。
 死後は親であるヒョウの甲子雄、ライオンの園子を含め7頭すべてが剥製にされました。僕は生きたレオポンは残念ながら知らず、阪神パークで見たのはこの剥製のみです。
 阪神パーク閉園後は、レオ吉とポン子は国立科学博物館に、チェリーとディジーは天王寺動物園に展示されることとなりました。そしてジョニーは、今も西宮に居ます。

 レオジョニー君

 ジョニーは、リゾ鳴尾浜でその雄姿を見せてくれています。ここはロビーで、チケットがなくても見ることができます。やはり、カッコいいですね。

 かつて、甲子園駅から阪神パークに向かう歩道には、動物像がいくつも飾られていました。立ち上がったゾウをはじめ、キリンやダチョウやラクダや…。子供達はこれらを見てワクワク感が助長したと思いますが、動物園が無くなってしまったので全て撤去されてしまいました。

 道かつての動物たちの道

 あの動物達も処分されてしまったのだろうな、ららぽーとの庭に置いておけばいいのに、と残念に思っていました。 
 ところがある日、そのららぽーとの近所である鳴尾小学校の横を自転車で通った際に、気がつきました。あっ、これは!

 獅子ライオン像

 凛々しく胸を張って座るライオン。確認をとってはいませんけれども、このライオンは間違いなくあの歩道にいた動物の一頭だと思います。生きてたんだ。何だか僕は、感動してしまいました。

 思えば、戦前の浜甲子園阪神パークのたったひとつの名残りは、大潮の時などの海水面がぐっと下がって干上がる日にだけ海からその顔を現わすライオン像でした(こちら参照)。そして、戦後の阪神パークを今に伝えてくれるのは、ライオンを母に持つレオポンのジョニーと、この鳴尾小学校の凛としたライオン像。偶然の符合なのでしょうけれども、それに気付いたときには胸が熱くなりましたよ。歴史というものは、ちゃんとドラマティックになるように出来ているんだなと。


 このサイトもとうとう現代まで時が進みました。歴史散策がテーマなので、これで書くことはなくなりました。したがって終了となりますが、次回もう一編だけ蛇足を付けます。 

 
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平成〜阪神大震災

 阪神西宮駅南口を出たロータリーの南側、正面のスーパーマーケットの前に、この時計が設置されています。人々は、震災大時計と呼びます。

 時計震災大時計

 この時計は、今でこそモニュメント式に西宮中央商店街入口に設置されていますが、僕が西宮に来た頃は、まだアーケードにかかっていました。
 商店街でふと上を見やると、この時計が。何も説明するものはなく、最初は普通の時計だと思いましたが、しばらくして時間が現在時刻ではなく、あの震災発生時刻であるということに気がつきます。そのときは、総毛立つ思いがしました。あの時計は、あのときに止まったままなんだ。
 中央商店街のアーケードが撤去されると同時にこの時計も頭上から降り、しばらく商店街中ほどの広場に置かれたあと、ここにやってきました。

 平成7年(1995)1月17日午前5時46分52秒、未曾有の大地震が西宮を襲いました。
 地震名「兵庫県南部地震」。災害名「阪神・淡路大震災」です。

 マグニチュード7.3。先般の東日本大震災はM9.0でしたから、比較して大したことなかった、と言った人がいます。全くとんでもない話です。この地震の悲劇はいわゆる「直下型」であったということ。そして、その場所が人口密集地だったということ。地震波は、直接夜明け前の街にやってきました。そして、考えられないような惨事となりました。
 データ的にみますと、西宮の死者は1126人。これは、神戸市に次ぎます。そして負傷者6386人。建物全壊20667棟。半壊14597棟。よく、阪神大震災といえば神戸を連想する人が多いのですが、西宮も市内あちこちで震度7の激震であったと認定されています。
 震災直後、繰り返しマスコミで流された「崩落した高速道路から前輪が乗りだしてかろうじて残ったバス」の映像。誰もが記憶していると思います。あの現場は、西宮えびす神社にほど近い街の中心部でした。

 高速現在の阪神高速本町あたり

 もちろん今は、完全修復されて当時の痕跡は全く残っていません。ですが、いま改めてその現場跡に立ち、こんな街の真ん中でこの堅牢な建造物が崩れ落ちるほど地盤を揺すられたのだ、と思うと、本当に戦慄します。

 阪神大震災について、このサイトで採り上げるか否かは、迷いました。まず、僕は震災後に西宮に引っ越してきた者であり、体験者でもない人間が知ったかぶりで軽々しく語っていいのか、ということ。そして、このサイトは歴史散策のつもりで書いていますが、歴史と考えるにはまだ生々しすぎるのではないかということ。身内を亡くされた方、家を失った方は、近所にもたくさんいらっしゃいます。これは、いまだ現在進行形ではないのか。
 けれども、やはり西宮を歩く上で、震災を外す事はできません。当時の記憶を今も生々しく持たれている市民の方々には十分配慮せねばなりませんが、これはネットに載せるサイトであり、全日本語文化圏を対象としています。自分が何も分かっていないことは承知ですが、僕も現西宮市民として発信すべきことはすべきである。そのように判断して、あくまでも今(2011年現在)、自分が見たものを綴っていきたいと思います。

 ただし、西宮はその後、奇跡の復興を果たしました。
 僕がこの地に引っ越してきたときには、近くの瓦林公園横のグラウンドには仮設住宅がずらりと並んでいました。僕のような外から来たものが普通にマンションに入居していいのか、と思いましたが、そうした更地の目立った街並みは、見る見る間に変貌を遂げました。
 ぱっとみた感じで、当時の痕跡は何も残っていない。そのように見えます。ただひとつだけ、あの震災大時計が記憶を凝縮したかのように立っています。
 これは、他地域と比べても少ない気もします。震災全被害の何分の一かを占める西宮市であるのに。
 例えば神戸では「神戸港震災メモリアルパーク」があってメリケン波止場に崩れ落ちた岸壁が保存してあったり、2号線沿いの壊れて鉄骨が出た橋脚、東遊園地の地盤の食い違いなど、見てわかるものがいくつもあります。そして、ここが人口密集地であったら大変な人的被害が出ていたに違いない淡路島の北部には「野島断層保存館」があり、地震現象そのものを保存しているとも言えます。
 これは、難しい問題を孕んでいます。
 先般、東日本大震災が起こったときに、象徴的な議論がありました。岩手県大槌町において、津波で民宿の屋根の上に大きな観光船が乗っかっている凄まじい光景が報道されました。それは、津波の恐ろしさを如実に示していましたが、これに対し「後世に伝えるために、あの民宿と船をあのまま保存すべきだ」という意見と、「被災者の心情を考え、いつまでもトラウマとなる痕跡は残すべきではない」という意見がありました。結局解体されたわけですが、当時の西宮でも同じような議論はあったのかもしれません。
 吉井貞俊氏は「西宮からの発想−阪神大震災記−」において、「災害遺蹟」という概念を出され、
(夙川)沿いにブッ倒れたマンションがあるが、それを買い取り附近を整備すれば、どんな立派な博物館を造るより有名な建造物になるだろう、私が市長だったらただちに手を打つのだが…。
 と記されています。しかし、吉井貞俊氏はやはり同書において、えびす神社神池の石橋について触れ、
(前略)それがたった数秒の地震で脆くも崩れ去り、今日その姿を白日のもとに曝け出している(中略)この破橋の側に飛び石でも並べて池面を往き来してもらい、廻遊する人々の観賞に供し、平成地震の遺跡として、このままにしておきたいとも思うほどである。
 しかし、神社をめぐる氏子崇敬者の方々のなかにはいろいろな考えの方もおられよう。壊れた姿をいつまでも放置しておくのは神社の尊厳にかかわるではないか、ましてや社前の神池である。どう心得ているのかとお叱りを蒙るかもしれぬ。
 と、悩んでおられます。その結果どうなったかは、西宮の人は皆知ってます。石橋はきれいに修復されました。
 答えが出ない問題だとは思います。いま現実に生きている人たちのことを第一義に考えるのは当然であり、心的外傷の元を放置するなんて、本来は考えられないことかもしれません。けれども、未来のことを考えれば、残した方がいい。
 原爆ドームは象徴的だと言えます。当時日本に国力があれば、忌むべき対象として即座に解体されていたかもしれません。沖縄戦跡もそうでしょう。生き残った人々は、火炎放射器の痕跡など見たくもないはずです。しかし、結果として残り、我々に歴史を伝えてくれています。
 これ以上は、もう僕にはわかりません。

 モニュメントは、存在しています。

 碑1追悼之碑

 満池谷墓地、ニテコ池そばにある震災記念碑公園に建つ「犠牲者追悼之碑」です。
 亡くなった方々の千人を超えるお名前が淡々と刻まれています。傍に碑文があり、「厳寒の暁 地鳴りとともに大地は震え 街を沈めました」と、あります。僕はこの碑文を読むたび胸が詰まります。

 宝塚市との市境、閑静な住宅街である仁川町から、その仁川をさかのぼると百合野町に着きます。そこに、「仁川百合野町地すべり資料館」があります。

 地滑地すべり資料館

 阪神大震災で発生した、最も大規模な土砂災害はここでした。土砂は家屋13戸を押し潰し、住民34名が亡くなりました。

 現場

 ここが現場です。この上からどっと土砂が押し寄せたのです。
 僕がここを訪ねたのは3月だったと思いますが、粉雪が舞い、段上町とは明らかに気温が違いました。今はしっかりと整備され、5月になるとシバザクラが咲きます。
 
 碑2神明緑地碑

 JR西宮駅の北にある神明緑地の石碑です。芦原地域では72名の方が亡くなりました。被害の大きかった地区です。ご家族(父上・奥様・お嬢様)を庫裏、書院の倒壊で亡くされた西福寺の御住職が、それでも気丈にお勤めをなされた話を、読んだことがあります。つい涙が出ました。

 この震災において西宮で特筆すべきなのは、火災の犠牲者の少なさです。上記の神明町で4人の方が亡くなられたのを含め、全市で13名の方がお亡くなりになられましたが、兵庫県警によれば震災犠牲者の10.3%が焼死であるとされる中で、西宮の焼死者は13名、1.1%です。炎が上がる長田区の映像を報道で見て、地震と火事は表裏だと思い込んでいた僕らからすれば、驚異的な数字です。
 西宮の建物被害の全壊20667棟、半壊14597棟という数字は、神戸市の約3割です。しかし神戸の全焼家屋が6965棟だったのに対し、西宮は何と50棟です。ボヤまで含めても、90棟程度。西宮は、燃えなかった。燃えていれば、もっと多大な犠牲者を生んでいた可能性が高いと思われます。
 ある人が僕に言いました。「西宮は川が多いよって、延焼せえへんかったんや」と。
 その言葉を裏付けるデータを僕は探したのですが、残念ながら見つかりませんでした。ただ、西宮には百間樋をはじめとする、中世以来の用水路が現在でも網の目のように張り巡らされているのは事実です。僕も、このサイトの中でずいぶん用水路を追って自転車を走らせ、実地検分をしてきました。
 火災が少なかった理由として「西宮現代史」は、前年の訓練の成果と言います。前年夏(1994)が渇水であったため、断水を想定して消火栓に頼らず河川等の水を利用する訓練を繰り返した成果があらわれた、と説きます。消防車には土嚢を積み、用水路を直ぐに堰き止めて放水できるようにしていたそうです。
 これは、一理あるかもしれません。実際、消防水利は被害で使用不能となっていったのですから。長田区では消火栓が使えず、ついに約1km離れた海までホースを延ばし放水を始めたのは、もう夕方であったといいます。対し西宮の火災件数は全41件であり、全半焼と比較して、類焼はかなり少なかったわけです。
 訓練の賜物というのは本当だと思います。消防は本当に頑張られたと。ただ、その水利が西宮に多く存在していたことは、歴史の勝利だと僕は思います。兜麓底績碑の中村治部紋左衛門や山の井の松山五郎衛門や鳴尾の義民たちが、数世紀を経て西宮の子孫たちを助けたのだ、と書けば余りにも戯言に過ぎるでしょう。でも、西宮現代史は新堀川から取水して消火活動を行う消防士さんの写真を資料として掲載していました。寛永年間に青山幸成が築かせた新堀川の水を使って。歴史ヲタクには感慨があるのですよ、そういうの。
 
 話がそれましたが、モニュメントは市内にまだ多く建造されています。

碑3碑4碑5

 左は、森具公園に隣接したお地蔵さんの前に立つ慰霊碑です。屋敷町や弓場町といった森具地区の被害は大変なものでした。前にも書いたことがありますが、このあたりには新しい家しかないのです。激震のものすごさがわかります。
 次は、高木西町の公園に建つ震災記念碑です。隣には時計も設置されています。森具地区も高木地区も、震度7であったとされています。
 右画像は、クリックして拡大しないとわかりにくいので申し訳ないのですが、前述した仁川百合野町の犠牲者の碑です。「やすらかに」と刻まれています。白木蓮の花が綺麗に咲いていたので、こういうアングルにしてしまいました。
 碑6碑7碑8

 これらはいずれも津門地区にあるのですが、左のものは阪神土建労働組合建立の碑です。組合員12名、ご家族22名が亡くなったと記されています。
 次は、後呂和裁学院が建立した慰霊碑です。学院の寮が倒壊しお2人が亡くなられました。
 右画像はフェンス越しで分かりにくくて恐縮ですが、津門小学校の震災記念碑です。正面へ回れば震災の碑と刻まれているはずですが、学校内であるため裏側を撮影しました。ただ、裏面にはデータがあり全壊1649戸、半壊1326戸、犠牲者36名としるされています。ちょっと余談ですが、列記された町名に今津東曙町、今津西曙町とあります。震災前は曙町が分かれていたのでしょうか。

 モニュメントは、他にも数多くあるようです。ただ多くは学校内に建てられているために僕は見ることが出来ず、残念でした。

 さて、震災の痕跡はモニュメントだけか、と言われれば、そうではありません。例えば、白鹿記念酒造博物館の酒蔵館には、こんな生々しいものが展示されています。

 白鹿酒ミュージアム内震災展示

辰馬 震災前、「酒蔵館」や「たつみ蔵」が現在位置から臨港線を隔てて向かいに在りましたが、全壊しました。そのときの様子が再現されています。
 明治25年築だった巨大な酒蔵は崩れ、今はわずかに右画像の煉瓦造の建物(相当に補強されているのが見てとれます)と、洋館の辰馬喜十郎邸が残るだけです。

 ですが、この白鹿酒造館のように震災の状況を表立って掲示しているのは、市内には多くはありません。震災大時計の他は、地すべり資料館、そして震災記念碑公園と神明緑地の写真パネルくらいしか確かに思いつきません。
 細かいところを拾えば、この香櫨園浜の「仮設住宅」の文言なども痕跡かもしれません。しかしこれは地震後のことです。 その他には、あまり震災の痕跡は見出せないように思われます。

 しかし実際には、痕跡は数多く残されていました。以降紹介するものは、痕跡というより爪跡の方が相応しいかもしれません。
 歴史っぽいものが数多く、また僕は石造物の元号を捜し歩くこともしていましたので、とにかく神社にはよく足を運びました。行けば必ず元号チェックはするのですが、今津で鳥居の元号を確かめようとしますと…。

 鳥居1今津浜恵比須神社
 
 肝心の元号が見えません。「壬戌」とありますので「文久二壬戌年二月」で間違いないとは思いますが、こんなところに鉄枠補強があるとは。これは、震災の痕跡と考えていいでしょう。

 鳥居2皇大神宮社

 上田の皇大神宮社の鳥居です。明神鳥居ですが、笠木と島木をがっちり固定してあります。崩落してしまったからです。社殿拝殿は全壊してしまい、再建されたものです。

 鳥居もこのように補強してでも残ればいい。ただ、多くは倒壊しています。市の道路元標とされる西宮えびす神社の大鳥居は、僕が西宮に来たときにはまだありませんでした。市内多くの鳥居は倒れ、建てかえられています。
 市内で最古の上ヶ原八幡の寛文鳥居は、なんとか修理補強されて立っています。しかし市内2位だった貞享三年の門戸天神社の鳥居は、崩れ落ちました。

 鳥居3天神社

 おそらくこれが、残骸だと思われます。元号は確認できませんでした。
 
 鳥居4高木八幡神社

 長崎に、原爆で片方の柱が吹き飛んだ状態で立っている「一本柱鳥居」と呼ばれる戦争遺跡がありますが、これを見たときに「ああ第二の一本柱鳥居だ」とすぐ思いました。高木八幡さんの震災の痕跡だとすぐにわかる遺構です。前述しましたが高木地区は相当な被害を蒙っています。

 参道1大市八幡神社

 大市八幡さんの参道ですが、どこかおかしい。その違和感は、並ぶ石灯籠の火袋の部分が欠けているからです。なので、ぺしゃんと押し潰されたように見えてしまう。大市八幡は上部の無い灯籠など傷跡が深く残されています。指定文化財の本殿も相当にやられました。拝殿も仮普請です。
 ※追記: 灯籠は修復されました。こちらを参照してください。
 
 礫1岡太神社

 同じく市の指定文化財だった岡太神社本殿は、完全倒壊しました。その際の瓦などがおそらく記念として置かれているのだと思われます。
 市内南部で、被害を受けていない神社はほぼ無いでしょう。神社としては、岡太神社、皇大神宮社の他に鳴尾八幡、津門、日吉、日野、若宮八幡が本殿拝殿ともに崩壊しました。他の神社ももちろん無傷ではなく、えびす本殿のように結局解体となった社が多いということです。
 神社に限らず、寺院も多くは耐震構造の新築に生まれ変わっています。僕が西宮に来た頃、やたらビル化したお寺が目立つので、儲かるのかなと一瞬思ってしまいました。阿呆ですね。
 まだ新築出来る寺院はいい。神社は檀家さんがいない。氏子さんの力も限度があり、復興は遅れました。日野神社に長く本殿が建たなかったことはよく記憶されている事柄です。神呪厳島神社は今でもちょっと寂しい。そして多くの神社境内には、石造物等が崩壊し瓦礫となってしまったものが現在も多く積み上げられているのがよく見受けられます。
 倒壊した段上の若宮八幡さんも、社殿は再興されましたが、説明板に存在を書かれている宝永四年製の鳥居が残念ながら見当たりません。崩落したのでしょう。
 宝永四年というのは、紀伊半島沖に発生し、津波が襲い東海から九州まで被害を出した「宝永地震」が起こった年です。M8.4で日本史上最大級、あの時代の人口で2万人が犠牲となり、西宮も震度5だったと言われます。その宝永四年の鳥居がまた地震で…何という運命の悪戯か。

 八幡2若宮八幡神社
 
 境内には、鳥居を利用した石のベンチがあります。これが宝永鳥居の名残かな。灯籠もイスになっています。瓦礫とせずに姿を変えて、こうして生かしてくださる心がうれしいですね。

 こうした由緒ある神社は、しっかり再興されます。しかし小さなお宮さんの中には、失われてしまったのもあるのではないでしょうか。
 失われたわけではありませんが、移転したお宮さんがあります。夙川の雲井稲荷さんです。

 雲井稲荷雲井稲荷

 この前は何度も通ったことがありましたが、周辺の商店の商売繁盛のために勧請された祠くらいにしか思っていませんでした。羽衣町で雲井稲荷とはこれ如何に、も、雲井橋たもとにあるからだと勝手に考えていました。ところが、ちゃんと由緒書を見ますと、そうではありませんでした。このお宮さんは、やっぱり元々は雲井町にあったのです。震災で社殿倒壊、この地に遷座ということになったらしく。何故元の地で再興出来なかったのかはわかりませんが、どうも以前は公園にあったようで。

 公園雲井児童遊園

 その公園にやってきました。雲井稲荷さんの祠の大きさからして、この物置がある辺りが元鎮座地なんでしょうか。まわりも瑞垣っぽいのですが。

 雲井手水鉢

 そのあたりを見ていましたら、草叢の中に手水鉢がありました。これで、神社がここにあったことは間違いないでしょう。社殿は倒壊。この手水鉢だけが残った。重くて置いていかれてしまったのでしょうか。しかしこの手水鉢は神社の規模に比べて実に立派です。

 痕跡のようなものをたどるのはこれくらいにしておこうかと思います。
 僕のPCの平成フォルダにはまだまだ瓦礫や爪痕の画像がいっぱいあります。探し集めたわけじゃなく、撮っているうちに自然と増えてしまったのです。震災から幾年、東日本で新たに大地震が発生し、人々の記憶から少し遠ざかりかかっている前の震災ですが、土地の記憶は薄れてはいない。歩けば、いくらでもその揺れ動いた土地の記憶というものは、すがたをあらわしてきます。

 夙川公園に、バスタオルを被った子どもが立っています。愛らしい女の子です。まわりに震災関連の何かがあるわけでもなくただぽつりとお地蔵さんの如く立っているので、最初は単純に芸術作品だと思っていました。ところがこれは、慰霊の石像だったのです。後に知りました。

 夙像夙川の子ども像

 この子ども像については、西條遊児氏の随筆が詳細を伝えてくれていますが、いつも何かをかぶっています。この画像は夏で、強い日差しを気遣う帽子です。冬には毛糸の帽子であったり、マフラーも巻かれていたりします。花も絶えません。忘れる人がいないのだと思われます。土地の記憶だけではなく、人々の記憶もまた、薄れてはいなかったのです。
 よく話を聞いて、語り伝えなければいけない。それは、人口移動が激しい西宮における我々のような流入民と、次世代に生きる若者の使命であり、責務ではないのか。そう強く思います。
 
 「犠牲者追悼之碑」に添えられた碑文の後半を最後に書き留めておきたいと思います。

       安らかにお眠りください
       こよなく愛された西宮を
       安心して暮らせるまちに 
       希望に満ちた美しいまちに
       再び築き上げることをお誓いいたします
黙祷。

 
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プロフィール
HN: 凛太郎
くどい性格のおっさんです。
兵庫県西宮市に住みついてしばらく経ちました。
酒と旅とフォークとプロレスと歴史が趣味。

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