古墳時代、と一般的に言いますけど、これは考古学的な区分です。縄文式土器が出土するから縄文時代、と言うのと同じで、古墳が日本で数多く造られていた時代だから古墳時代。だいたい3世紀半ばから7世紀末頃までの約400年間を指します。
 歴史的時代区分は文献から読み解きますので、西暦始まってすぐ後漢から金印がもたらされてますし、魏志倭人伝の卑弥呼、また古事記や日本書紀は紀元前のことまで記述があります。だからこの時代を「先史時代」とするのは間違っているとの考え方もありますが、古事記が成立したのは僕は7世紀末と考えていますし、日本書紀は8世紀初頭。それ以前のものは墓誌などを除き残っていません。これら史書が描く歴史の風景は神話的要素もあり、その時代の為政者の作為的な記述もあると思っています。なので、その「大和時代」「飛鳥時代」と呼ぶ歴史的時代区分とは別に、考古学的資料が残るこの古墳時代を一応「先史」として別次元で考えたいと思います。

 しかし「考古学的資料が残る」と書きましたけれども、これがまたそんなに残ってないんだなあ。
 古墳のことを考えたいと思うのですが、西宮市にも数多くの古墳があります。有名なものですと、老松古墳に代表される苦楽園の八十塚古墳群。また関西学院大学構内の円墳で知られる上ヶ原古墳群。
 ですけれどもこれらは、円墳が主です。やはり古墳時代と言えば「前方後円墳」が見たい。日本独特の墳墓であり、大規模なものも多く、その地域の首長、権力者を埋葬したものと考えられます。歴史的にも興味深いものです。
 その前方後円墳、西宮にも3基、ありました。ありました、と書くのは、もう既に失われてしまっているからに他なりませんが。
 ひとつは、上ヶ原台地にあったとされる車塚古墳。横穴式石室を持っていたと言われますが、今は完全に消滅しています。横穴式石室は古墳築造としては新しい部類で、6世紀以降のものと推測されます。
 上ヶ原まで自転車で行くのはキツいので、あと2基あったとされる前方後円墳の痕跡をたどってみたいと思います。

 まずは、稲荷山古墳です。

 津門稲荷町津門稲荷町

 こんなふうに町名として残っています。地名って有難いですね。
 この古墳は津門にあったわけです。津門(つと)とはつまり水門(みなと)。今でこそここから海は遠くにありますが、かつてはここまで海がきていたわけです。西宮は武庫水門(むこのみなと)と上代は呼ばれ、このあたりは水運の要衝だったとも考えられますので、力を持つ豪族がいてもおかしくはない。
 「稲荷山」というのは、後の時代、後円部の上に稲荷神社が祀られていたことに由来するようです。
 西宮市史によりますと大正3年の略測図があるそうで、それによると全長約40m、後円部の直径は20mほどだったそうで。当時既に前方部は旧状を失っていたようですが、一応前方部は幅狭く後円部より高さは低めで「杓子形」と記されているようです。
 これは、前方後円墳の形状としては一応、古いかたちになりますね。手鏡のようなかたちで、前方部が低いということは。
 前方後円墳のかたちの分類としましては、この手鏡型が最も古いとされ、時代を経るにしたがって前方部が扇のように広がり盛り上がってきます。
 この分類方式も天皇陵を基準に時系列を追った結果ですので、多くの天皇陵の比定が怪しいとされ、また奈良の箸墓古墳のように古いとされているものでも前方部がバチのようなかたちをしているものもありますからアテにはならないのですけれども、後円部周辺には円筒埴輪もあったらしく、4世紀中ごろと推測されています。

 この稲荷山古墳は、後円部を北に南北にまっすぐ築かれ、大正時代まではその形状をなんとか留めていました。しかし大正12年の阪神国道(現在の国道2号線)敷設工事において後円部中央以北が道路敷きとなり破壊、その後消滅しました。
 今では、全くそのかたちを追うことは出来なくなっていますが、ヒントとしては、西宮駅から500mくらい離れた場所だったということと、後円部は2号線で半分潰されたんです。んで、2号線をウロウロしていますとちょうどその位置あたりに「津門稲荷北公園」という小さな公園が設置されていました。

 津門稲荷稲荷北公園

 右側に見えるのが国道です。ということは、もしかしたらここが後円部の中心だったのかも。そう思って見れば、微妙に半円形の公園です。
 確かに埋葬地の上にビルやマンション建てるのも気分のよろしいもんではありませんから、何も建てずに小公園にした、とも考えられます。後円部に公園か(オヤヂギャグ)。

 市内に残るもう1基の前方後円墳は、その稲荷山古墳のすぐ北、現在「津門大塚町」となっている地域に存在したようです。大塚って、もういかにも古墳ですね。

 津門大塚町津門大塚町

 地名って本当に有難いですね。
 この古墳は「大塚」または「大塚山」と呼ばれていました。稲荷山古墳よりも少し大きかったからそう呼ばれたらしく。また「鬼塚」とも呼ばれていて、源頼光の鬼退治の話とかかわった伝承がありました。
 昌林寺 源頼光が大江山で酒呑童子を討伐した話はよく知られていますが、その際に頼光が大江山から持ち帰った財宝を埋めた場所が、大塚古墳だという伝説が残されています。
 津門の昌林寺は源頼光に縁のある寺ですが、その門前に立つ嘉永年間の標石は、実は道標です。その一面に、
 「村東に鬼塚あり」
と刻まれています。その文言が、町名とともに大塚古墳が存在した痕跡のひとつなのですが…。
 なんとその文言は、壁側の一面となっていて実に見にくい(汗)。
 えー、なんとか隙間から無理やりカメラを向けてみます。

  P1010017

 「鬼塚」と刻まれているのがおわかりいただけるでしょうか?(汗)
   
 さて、その古墳があった津門大塚町は、現在その町域ほとんどがこうなっています。

 朝日ビールアサヒビール

 アサヒビール西宮工場じゃないですか!

 ここには、僕はよく工場見学に訪れていまして(つまり試飲でタダ酒を飲もうというコンタンで)馴染みがあるのですが、そこがつまり大塚古墳の上に立地していたとはねぇ。これでは、痕跡を探すことなど無理です。
 念のために。別にアサヒビールが古墳を破壊したわけじゃありません。この古墳が消滅したのは、明治も初めのことです。
 官営鉄道(大阪〜神戸間 つまり今の東海道線の一部です)の敷設工事が「文明開化」の掛け声とともに行われ、それは大塚古墳のすぐ北側に敷かれ、その線路の盛り土を造るために封土が切り崩され使われてしまったのです。

 JRアサヒ裏

 これはアサヒビール工場の北側ですが、今もJRが走っています。この線路の下に大塚古墳の土があるのかもしれません。

 古墳はその時封土をことごとく利用され、さらに地面下まで掘って、何と用水池になってしまいました。当時「鬼塚池」と呼ばれました。稲荷山古墳と同様大正時代に略測されたそうですが、それはこの池を測ったものです。
 昭和2年に、日本麦酒鉱泉株式会社(ユニオンビール)の敷地となり、それが戦後アサヒビールに引き継がれました。

 大塚古墳は、町名や標石、JRの盛土以外に往時をしのぶものは何も無い、と言うわけではありません。実は石室の一部が残っているらしいのです。それは、ここからほど近い津門神社にありました。

 津門神社蓋岩津門神社

 この「津門神社」と刻まれた大きな岩は、石室の蓋の一部であったとされています。
 この岩は、持ち出された当時は朱で塗られていたという話があります。
 石室の壁面を赤く染めることは竪穴式石室では多く行われています。それは、割竹形木棺(丸太を刳り抜いた円筒形の棺)を用いていた古墳時代前期(3世紀から4世紀代)に多くなされていたことであり、そうなると大塚古墳の築造年代はかなり早期に設定することも可能ではないか、と素人の僕などは思ってしまいます。
 しかしながら、大塚古墳には稲荷山古墳のように円筒埴輪の存在などが確認されていないこともあって、稲荷山より少し時代が下る5世紀半ばの築造が推定されています。でも明治初年にちゃんとした調査もされず破壊されているので、実際はどうだったか。
 また別の視点で見ると、古い竪穴式石室は石槨が小規模で、ことに幅はなく、棺の外枠程度のものが一般的です。このような大きな岩を石室の蓋石にしていたということは、もしかしたら石室の大きい横穴式古墳だった可能性も出てくるのでは、とも思ってしまいます。横穴式であればもう少し新しい時代が推定されます。
 難しいですね(汗)。いずれにせよ石室にはかなり手がかかっていることが想像され、相当な実力者を埋葬したことも考えられます。
 津門には、湊の管理者として朝廷から派遣された「津門首(つとのおびと)」と呼ばれる天皇家から分家した豪族が存していて、その津門首を葬った古墳であった可能性もある、と言われています。さらに、その津門首が分家ではなく物部氏である、という話もあって、そうなるとさらに興味深かったりするのです。
 もっとも、この津門神社の蓋岩と伝承だけでは、想像の域を出ないわけですが。

 ※2013/6 追記
 さて、以上で話は終りだったのですが、続けます。ただこの部分は面倒な話なので飛ばしていただいて結構です。このあとは、また探訪記に戻りますので。話は、これら前方後円墳の築造年代が上記と異なる可能性が出ている、ということ。

 ここまで稲荷山古墳、大塚古墳について書いていることは、主として西宮市史の記述を下敷きにしています。
 市史は、稲荷山古墳を4世紀半ばに想定しています。古墳時代前期。それは古墳の形、円筒埴輪が後円部をとりまいていたという記録があることからの推定です。大塚古墳は中期で5世紀半ば、車塚古墳は横穴式石室を想起させる記録があるため古墳時代後期、6世紀と推定しています。
 えー、西宮市史って古いのですよ。古墳について記載がある第一巻の発行は昭和34年です。その後、説は揺らいでいたようです。

 昭和49年の兵庫県史では、車塚古墳は横穴式石室の推定により5世紀末から6世紀初めごろ、稲荷山古墳は尼崎の水堂古墳に対応する時期と推察しています。県史は水堂古墳を4世紀後半としていますので、市史とあまり差異はありません。大塚古墳の記載はありません。
 ここまでは僕も読んでいます。ですが昭和59年の「日本の古代遺跡3兵庫南部」は見ていませんでした。記述があります。
後期の前方後円墳としては、西宮市津門の稲荷山古墳と大塚古墳が知られている。いずれも全長約四〇−五〇メートルで、横穴式石室を埋葬施設とし、須恵器や刀などが出土したといわれているが、早くに消滅して、詳細は明らかでない。
 これは、ずいぶんと様相が異なってきています。後期であれば、6世紀ということになります。うわぁ200年ずれる。
 びっくりするのは、両方とも横穴式であると推定しているようです。あれ?確かに大塚古墳は横穴式とも考えられますが、稲荷山古墳はどういう根拠なのでしょうか。確かに竪穴式だったという根拠もありませんが(汗)。
 また、須恵器や刀などが出土したとは聞いていません。考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀半ば以降だというのが通説です(異説はあります)。
 ちょっと面倒になってきました。

 大塚古墳については、横穴式と考えてもいいのかもしれないと僕も思います。津門神社の石がデカいもん。あれは、横穴式石室の一部と見るべきであるとは思います。
 遡って昭和51年の「具足塚発掘調査報告(市教委)」も、大塚古墳の横穴式を想定しています。そして、水堂古墳を中期築造と推定し、稲荷山古墳を同時期に考えています。
 稲荷山の6世紀は何が決め手なのでしょう。難しいな。

 明言しているのがありました。平成8年の「兵庫県の考古学」です。西摂津の後・終末期の古墳(6〜7世紀)のうち、群集墳ではない独立墳として、津門稲荷山古墳、津門大塚古墳、上ヶ原車塚古墳、園田大塚山古墳(尼崎)、大井戸古墳(尼崎)などを挙げています。
 稲荷山古墳については「南方近接地から最近出土したという六世紀初頭ごろの埴輪片とともに築造時期を知る一助となろう」との一文があります。これか。
 最近出土、ということは平成に入ってからですね。知らんかった。
 コミュニティ誌「宮っ子」に記載がありました。どうも平成6年に円筒埴輪が出土しているようです。→宮っ子・コミュニティつと
 この円筒埴輪の写真を見て、ああ4世紀じゃなく6世紀か、なーんてことは全くわかりませんが(汗)、専門家の鑑定なので、一応従うことにします。
 しかし吉井良秀氏や紅野芳雄氏が観察した、後円部に並んだ円筒埴輪はどう解釈されているのでしょう。須恵器についての詳細も、よくわかりません。

 もう手当たり次第に資料を漁っていますと、郷土資料館の第9回特別展展示案内図録「八十塚発掘」(平成6年7月)に以下の一文が。
西宮市では、奥畑町に満池谷奥畑古墳が造られたのが最初のようです。6世紀のなかば、南部の平野では津門稲荷山古墳、津門大塚古墳、上ヶ原台地では上ヶ原車塚古墳とも前方後円墳があいついで造られ、当地にあっては威容を誇りました。
 なに? 満池谷奥畑古墳? それが西宮最古の古墳?
 もう20年くらい前からそんな話になっていたということですわね。僕は満池谷墓地に古墳があったなんて全く知りませんでした。
 この奥畑古墳については「兵庫県の考古学」には記載があります。
広田越水丘陵上の標高五〇辰鯊る独立ピークで昭和五〇年(一九七五)、須恵器や埴輪片が採集されており、単独に立地する古墳があったとみられる。六世紀初頭前後の築造か。
 どこだろうこれ? 城山? ともかく簡単な記述過ぎてよくわかりません。詳細な資料をどこに求めたらよいのでしょうか。うーむ。
 ともかくも西宮の古墳はみんな、前方後円墳含め後期古墳ということに。
 平成10年の第13回特別展展示案内図録「紅野芳雄『考古小録』〜西宮考古学のパイオニア〜」によりますと、
平成6年、津門稲荷山古墳所在推定地における市教委の発掘調査によって、円筒埴輪が出土したが、遺構にともなうものではなかった。古墳破壊時にほりかえされた土砂がかろうじて残存していたものとみられる。
また昭和52〜53年ころ、この南方約150mの住宅建設現場で円筒埴輪をはじめ、須恵器、土師器など、大量の遺物が採集されている。この埴輪と津門稲荷山古墳の埴輪は若干の形式差があり、6世紀以降の須恵器を多く含むことから、津門稲荷山古墳周辺に複数の古墳があった可能性が高い。
 なんだかまだ少しは余地を残しているようにも読めますけれどもね。わかりにくいことですが。
 平成15年の「新西宮歴史散歩(西宮郷土資料館編)」は稲荷山古墳を5世紀後半期と推定しています。あれ、まだ揺れているのかな?

 ともかくも、6世紀ならばちょっと残念ではありますね。稲荷山古墳が前期古墳であれば、いろいろと面白かったのですが。
 日本史上、4世紀というのは「謎の世紀」とされています。それは、4世紀の日本が中国の歴史書に全く登場しないからです。
 3世紀には、ご存知邪馬台国が魏志倭人伝に登場します。しかし4世紀になると日本の情報が途絶えます。それは主として中国側の都合ですが(五胡十六国時代と呼ばれる動乱期だったため)、記録が無いものはしょうがない。5世紀の初めのいわゆる「倭の五王」まで公式記録がありません。高句麗の広開土王碑くらいでしょうか。
 つまり、日本の4世紀というのは、考古学でしかわからない時代なんです。
 そんな時代に、西宮に首長墓があったとすれば、これは面白いとは思っていたのですがね…。

 しかしながら。
 西宮の、存在したとされる前方後円墳は、車塚含め3基。それは、多いとも少ないとも申しませんが、現在全く痕跡を留めていない。遺物は、見えるところには津門神社の蓋石のみ。誠に口惜しい限りです。
 
 西摂津を俯瞰しましても、巨大前方後円墳はいくつもあります。
 県内最大の有名な五色塚古墳(全長194m)は神戸とはいえ垂水ですから摂津とは言えませんが、開発進む神戸でああいうものが残されているのは立派なことです。
 灘には、ヘボソ塚古墳こそ失われたものの、西から西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳と並んでいます。中でも全長98mの西求女塚古墳は前方後方墳であり、古墳時代最初期の3世紀後半築造という説もあるほどです。
 そういうのは、措いても。
 ちょっと芦屋に市境を超えただけで、古墳が結構残されているのですから。
金津山古墳3 打出に前方後円墳があるんですよ。しかも、弓場町のすぐ向こうの春日町ですよ。その金津山古墳(←)は、ほぼ後円部を現存させています。形が残っているというのが、なんとも有難い話ですよねぇ。
 打出小槌古墳(これも前方後円墳)は全く現状を留めていませんが、なんと黥面埴輪(顔に入墨模様を持つ)が出土してるんです。貴重ですよ。
 そして、親王塚古墳。阿保親王の墓ということで宮内庁管理になっていて様子がわかりにくいのですが、当然ながら立派に整備されて、円墳となっていますがおそらく前方後円墳の方部が欠けたのではないかと。
 芦屋は群集墳も数多い。ちょっと堀切川を越えたら、なんでこう古墳がたくさん残ってるんでしょう。うらやましい。

 東に武庫川を渡ったら、前述した尼崎の水堂古墳があります。
水堂古墳 やはり前方後円墳なのですが、前方部に現在須佐男神社が建ち、しかし原形は損なわれているものの後円部は鎮守の森として残っており、発掘調査で竪穴式粘土槨跡が見つかりました。そこには長さ約7mの割竹形木棺があり、なんとその発掘現場を誰でも見ることが出来るんです!
 朱塗の木棺が存在した古墳中心部はそのまま残され、古墳保存館として覆屋が建てられています。宮司さんにお願いすれば誰でも鍵を開けて入れます。なんとうらやましいことか。

 阪神間はこれだけ都市化しているにもかかわらず、大きな古墳が多く残されています。灘、芦屋はもちろんのこと、人口密度が兵庫県一の尼崎市ですら、御園古墳、南清水古墳 伊居太古墳と猪名川沿いに前方後円墳が並んでいたのがわかっています。さすがに多くは形状をとどめてはいないものの、想像できる程度には存在しています。だいたい、塚口なんて古墳があるからついた地名です。
 伊丹にも古墳が残されます。御願塚古墳は実にきれいに残されていて、その形状は帆立貝式前方後円墳です。5世紀後半頃と推定されています。
 市の名がそのまま古墳由来である宝塚には、やはり数多くの古墳が保存されています。前方後円墳としては長尾山古墳、万籟山古墳いずれも4世紀の築造と推定されています。
 これら阪神間の前方後円墳は、かなりの数が時代区分的には前期中期(4〜5世紀)の古墳と考えられているようです。なのに、西宮の三基の古墳は、後期(6世紀)ということになってしまっています。うーむ。
 古いから偉いとかそういうものではもちろんありませんが、西宮の古墳については、とにかく記録が少なすぎるんですよ。だから、土器ひとつですぐに時代がひっくり返ってしまう。
 明治なんて時代は、自然保護とか文化財保存とか、そういうことは全然考慮されなかった時代なのだと思いますね。廃仏毀釈もありました。そして、近代化へ猛進。文化財よりも富国強兵殖産興業。
 大塚古墳は鉄道の盛土のために壊されたのですが、別に古墳の上を路線が跨いだわけでもなく。鬼塚の伝承などどうでもよかったのでしょう。前述したように墳丘を崩すだけではなく、掘り返してしまって跡は池になってます。これではもう今調査しても何も出てこないでしょう。アサヒビール工場閉鎖で、もしかしたら調査のチャンスなのかも、と思っているのですが。
 稲荷山古墳は、まず国道2号線敷設で後円部が壊されました。
 しかしながら、大正年間であればもう少し調査は出来なかったのだろうかと口惜しい思いがします。後円部を半分潰したとして、横穴式であったのなら石室が露出されたのではなかったのでしょうか。羨道が壊され玄室露呈、とか。しかしそんな話は聞いてないぞ。大塚古墳は、その跡の池に石槨の石の残りがあったことが図示され(紅野芳雄氏の「考古小録」にある)、津門神社にも現物があります。稲荷山古墳にそんなのがあれば、運び出すのだって大変だったでしょう。噂話くらい残ってないんでしょうかね。大阪城築造の残念石だっていわれが伝わっているのに。
 もしも水堂古墳と対応しているならば(ちょうど武庫川を挟み対称的位置)、粘土槨であったかもしれず、それなら崩しても確かにあまり話題に上らなかったでしょうよ。
 灘から海岸線、そして河畔にずっと前方後円墳が並んでいます。それは示威的建造物であったかもしれません。その中で、武庫の湊にあった古墳だけ、なぜ100〜200年も築造年代が下がってしまうのでしょう。うーむ。
 いろいろ腑に落ちないことは、あります。

 しかし、考古学は古い年代を扱う学問でありながら、日々進歩しますので様々なことがひっくり返ります。できるだけ最新のものに気を配らなくてはいけないなと思いました。
 というわけで、いつかまた追記するかもしれません。

 えー、この後もまた大幅追記を致します。西宮市の古墳を、面倒くさがらずにもう少しまわってみることにしました。



より大きな地図で 稲荷山古墳と大塚古墳 を表示
 
 
 追記です。(2013/6)
 西宮の古墳といえば、今は無き稲荷山古墳と大塚古墳だけではありません。まだまだ多くの古墳が、実は存在していました。3年前は面倒くさがってそういう場所へはあまり行かなかったのですが(高地が多いんですもの^^;)、そんなことばかりも言ってられません。で、ぼちぼちと訪ねました。
 西宮においては、山口の青石古墳が最も状態がよいとされています(→こちら参照)。
 しかし、行ってませんごめんなさい。いつか訪れたら、追加します。


 ※追記(2014/4) 行ってきたよー。
 
 P1010018青石古墳

 古墳の場所はなんとか西宮市域ですけど、まず神戸セミナーハウス方面に向かいます。国道176号線をちょっと神戸市域へ出て交差点を東へ折れ、セミナーハウスへの案内にしたがって進みます。突き当たれば南側に平田配水場があります。そのゲート左側に鎌倉峡に向かう「太陽と緑の道」遊歩道入り口がありますので、そこから山道に入ります。しばらく歩くと(10分はかかんない)、古墳に着きます。

 P1010021内部

 石室内に入れるのは、市域ではここだけでしょう。

 P1010022

 内部は滑ったりしますので気をつけて下さいねー。(追記終り)

 
 青石古墳は西宮指定文化財となっていますが、市の指定をうけている古墳は、青石古墳含め全部で4つあります。
 そのうち、市南部にあって、誰もが石室まで見ることができるのは、関西学院構内古墳だけです。古墳見学といえば、市内ではここが決定版です。構内古墳と言いますが、関学の門をくぐらずとも自由に行けます。立地は関学の北西部で、上ヶ原用水三流分岐、道標、丁石など史跡が密集する場所です。

 関学古墳1関学古墳

 このようにフェンスに囲まれてはいるものの、誰でも気軽に見学できます。
 直径12m、高さ3mの円墳で、7世紀前半の築造が推定されています。

 関学古墳2

 覗き込めば、横穴式石室が口を開いています。

 少し西宮の考古学の先達の話をします。西宮市には、紅野芳雄という方がいらっしゃいました。
 紅野家といえば西宮の酒造家で名家として知られています。大正14年に西宮町が市制を施行しますが、初代市長は紅野太郎氏。紅野芳雄はそのご子息にあたります。
 紅野芳雄氏は考古学に造詣が深く、自らこつこつと近隣の遺跡を調査され、その様子を詳細に書き残されました。それが「考古小録」としてまとめられています。紅野氏は昭和13年に46才の若さで亡くなられますが、亡くなる直前まで調査・採集を続けられました。今は無き稲荷山、大塚古墳について実測、図示されたのも紅野氏であり、西宮市史などもこの記録に多くを依拠しています。紅野氏と吉井良秀氏がいなければ、西宮3基の前方後円墳など全くの幻となっていたでしょう。「伝承によれば西宮にも前方後円墳が存在した可能性がある」てな記述になっていたかも。
 それほど、西宮の古墳は明治大正期に学術調査も無く次々と破壊されたのです。

 この関学構内古墳は、なんとか形を留めていますが、かつてはこの周囲には相当数の古墳がありました。少なくとも10数基、30基くらいあったとの話もあります。このように小規模墳墓が集まって造られている古墳群を「群集墳」と言います。
 考古小録にも大正3年に、
上ヶ原甲山登山口下の貯水池拡張の際、ニ三の古墳を掘り当て、土器類及び刀剣出土す
 などの記述があります。これら多くの古墳は、住宅地開発、関学の移転、浄水場建設などでそのほとんどが姿を消しました。

六十六2 ちょっと関係ない話ですが上ヶ原浄水場内に「六十六部供養塔」という石造物があります。網で見難いのですが。
 六十六部信仰について長々と書くわけにはいきませんので端折りますが(そういう諸国遍歴行者を供養する塔です)、その横に甲東地区ならではのいつもの説明板があります。そこに
「去る昭和三十七年ここに神戸浄水場建設がきまりその整地を始めたころ、この石塔も雑石とともに捨てられましたが、以後工事人などの病氣や怪我が続出、驚いて元の場所に戻し、また粗末に扱った古墳ともども鄭重に供養した」
とあります。
 昭和37年といえば、実に最近の話です。この供養塔とともに、古墳も粗略に扱われていたことがわかります。

 その粗略に扱われた上ヶ原の古墳群ですが、関学構内古墳以外にもうひとつだけ、この浄水場内に残されています。
浄水場古墳1 しかし、右に書かれてあるとおり、見学することができません。
 世の中にはいろいろな立場の人がいますが、土日が自由になる人の割合が最も高いのではないかと思われます。というわけで、関学内古墳と異なり、この古墳は世の中の大部分の人が見学できない古墳です。
 僕もインターホンで一応「見せてっ」と言ってみたのです。でも「ダメ」ですって(汗)。土日は人が少ないので対応出来ないのだとか。確かに勝手に浄水場内に入れるわけにもいきませんしね。僕がテロリストで浄水場の水に毒を入れないとも限らないのですから。

 古墳は、浄水場入り口の東側、道路から近いところにあるのは様々な資料からわかっています。金網フェンスなので外から覗けそうなのですが、覗くことができません。高低差があるからです。
 ここにあるんですね。わずかに、いつもの甲東地区の説明板だけが見えます。

 浄水場古墳矢印

 あのフェンスの脇に立てないか。かなり高いのですが、梯子はなくとも浄水場入り口近くは高低差がないので、そこからフェンス沿いに歩いてこの場所までたどり着くことは可能です。しかし、足場は狭い。平均台くらいの幅に思えます。
 しかし、僕は勇気を振り絞って向かいました。これしか方法が無い。
 実は、僕は高いところが怖い。足が震えます。なんとかたどり着いて、フェンスの隙間からシャッターを。

 浄水場古墳3浄水場古墳

 こんな感じで、石室開口部までは見えませんが、その存在はなんとか確認できました。直径約7mの円墳で、周りを石垣で補強してあります。
※良い子は絶対に真似をしてはいけません。落ちたら怪我をします。真似する人はいないと思いますが。
 ちょっと苦労しましたが、上ヶ原古墳群に残るのは、この2基しかもうないのです。やはり、見ておかないと。
「考古小録」昭和七年
(甲東村上ヶ原新田)墓地東方松林中に散在せし十餘の古墳は、今住宅地建設のため無殘に破壊せられ、又破壊せられつつあり。仁川の流潺たる畔、岩をつみ土を盛りて奥域となし、悠久に靜かに靜かに眠るべかりし古墳の主が靈を想へば、哀愁の感轉々深きを覺ゆ。 

 上ヶ原には、前方後円墳もあったとされているのです。車塚古墳です。
 といいつつ、前方後円墳であったのかどうかも実は定かではないのですが。誰もその全容を記録に残していないからです。明治には、既に封土は無くなっていた可能性もあります。ただ「車塚」というそのネーミングが、全国的に前方後円墳を指すことから、そのように推定されているだけです。
 「前方後円墳」という用語は、江戸時代に蒲生君平が著した「山稜志」が初出とされています。昔からこうした形状の古墳は、茶臼山、二子塚、銚子塚、また車塚などと呼び習わされるのが一般的でした。
 江戸期の古地図には「高塚」とも記されています。しかしおそらく前方後円墳だったと思うのですが。
 吉井良秀氏の「武庫の川千鳥」にこのような記述があります。
大正五年頃までは村の中央田間に在りたり。封土は悉皆散失して前後の石壁も取去られ、左右の大なる壁石の天井石の一枚を載せて、裸々突兀として四個の大石のみ殘りしなり
 この記述から、横穴式石室が想定され、おそらくは6世紀の前方後円墳であったとされるのです。手がかりは、これだけなのです。
 発掘調査をすれば、もっと詳細が判明するかもしれません。しかし、どこに存在したかすら正確にはわからないのです。関学中等部正門付近という話もあるものの、むやみやたらに掘るわけにもいきません。

 名残は、上ヶ原八幡神社にあるとされます。狛犬の台座です。

 車塚車塚の存在証明

 この狛犬は天保年間の寄進ですが、寄進者の名が「當村 車塚七良兵衛」と刻まれています。車塚の七郎兵衛さん。車塚という場所が当村(上ヶ原)にはあった。ただそれだけしかもう名残が無いのです。しかし、大正初年までは石組くらいは存在していたのです。
 100年経たずして、ここまで土地の記憶というものは消えてしまうのか。恐ろしく思います

 上ヶ原台地には、群集墳の他、車塚のように単独墳もありました。またちょっと離れた場所に単独墳的に存在した円墳もあったようです。
 門戸天神裏古墳などは発掘調査され、成果もあがっているようですが、残念ながら原形は留めていません。
 また、甲陵中学の北側に入組野古墳と呼ばれる円墳がありました。直径17mという大きなものでしたが、これも宅地開発で消えました。ただし、移築されました。
 移築先は、県立西宮高校だということです。しかし学校内では、一般人は入れませんね(汗)。
 しょうがないので、何とか覗けないかと画策。あちこちに「講堂裏にある」と書かれているのですが、ワシら県西て入ったことないさかいにどれが講堂かもわからへんがな。

 県西古墳入組野古墳?

 これかなぁ…?
 西側から校内を覗いているのですが、何重ものフェンスと目隠しなどでここからチラリと見えるくらいですか。大きな石がボコボコとあります。
 違うかもしれませんので、ご存知の方は指摘して下さい。

 甲山の東麓、仁川南岸に分布した上ヶ原古墳群をたどれるのはこのくらいなのですが、群集墳は仁川北岸にもあります。五ヶ山古墳群と言われます。これは、丘陵の上にあります。
 かつては10数基の古墳が存在したという話もありますが、知られているのは4基です。
「考古小録」昭和十年
次に此の遺蹟(※注 上ヶ原新田墓地西方の遺跡)より仁川を越えて北方に當る山中にて(南北に走る百三十メートル乃至百四十メートルの山の背)古墳四基を發見す。三基は石槨露出、他の一基は石槨の一部分露出せるも封土(圓墳)尚殆ど完存せり。
 しかし現在残るのは3基です。しかも2基は宝塚市に属し、西宮市側には1基しかありません。しかしその1基は、市の指定文化財4基のうちのひとつです。訪ねなければ。

 仁川町6丁目

 仁川沿いに上流に向かって自転車を漕いでいます。甲山が見えますが、そこから連なる丘陵の端は、てっぺんまで住宅が連なっています。そのてっぺんに、五ヶ山古墳群が存在するわけです。
 あの上まで自転車で漕いで上がれというのか。うひゃ〜。

 無理なので途中押しつつ(汗)、ピークへ。尾根筋をまっすぐに上がる急斜な道しかなく、自転車のことなど想定されていません。標高130mですって。こんなところに自転車で来るヤツなんて誰もいませんよ(笑)。
 上りきったところに、フェンスに覆われたマウントがあります。

 五か山(5)五ヶ山古墳

 これが、市指定文化財五ヶ山古墳群第2号墳です。立ち入ることはできません。

五か山(3)

 一応、このように「仁川古墳公園」とされ、説明プレートもあります。調査後、土を盛りなおして保存ということになったようです。第1号墳は、土取り工事で破壊されてしまいました。昭和34年のことです。
 もう一枚説明板はあるのですが、読みにくい場所にありますよ(全景画像参照)。ああいうの、何とかなりませんかねぇ。

 ここより先に(五ヶ山方面に)もう2基古墳があるのですが、それはもう宝塚市に入ります。こんな古代のものに現在の行政区画など何の意味もありませんが、「ちょっと歴史っぽい西宮」なので紹介はここまでとします。
 五か山(8)すぐ隣の3号墳(宝塚市)は、このように石槨が露出しています。ここは、非常に見晴らしのいい場所で、真下に阪神競馬場の全景が見えます。もちろん昔はそんなのありませんでしたが。

 群集墳としては、神園古墳群もありました。甲陽園から降りてきた丘陵地に現在のところ3基確認されています。
 残念なことに3基とも失われています。調査された後に、様々土地利用されています。
 2号墳の存在場所は、駐車場ですね。たぶんこの下に、遺構が眠っているはず。

神園02

 この前の道(県道82号線)沿いに、3基並んでいたわけです。
 3号墳はほんの少し南にあり、これも調査後埋め戻されました。
 そして最初に発見された1号墳は、すぐ隣の夙川学院構内に移築されたという話だったのですが…(宮っ子)。
 夙川学院は様々なことがあったようで、2013/5現在、工事が行われています。復元1号墳はサブグラウンド内にあったと思われますが、そこは現在マンション建設中です。
神園01工事フェンス脇から覗き込みますと、何やら石がならんでいるところが。これが復元1号墳だったのかどうかもよくわかりません。いずれにせよ、もう少し情報が入らないと。

 
 後期、終末期古墳はだいたい群集墳が主ですが、単独墳もあります。3基の前方後円墳もそうだったのでしょう(稲荷山古墳などに陪墳が無かったとも限りませんが、主墳・陪墳と群集墳は違います)。
 前述した、満池谷奥畑古墳も単独墳であった可能性があります。
 また、現在神戸女学院がある岡田山にも古墳があったようです。
「考古小録」大正七年
甲東村門戸桜井邸後にて、有紋埴輪殘片数箇収得。尚同邸前後の畑地に埴輪円筒破片無数散乱せるを見て此の地に円筒を有する古墳ありしを知る。
 岡田山は上ヶ原台地のうちに入りますが、孤立しており単独墳ともみられます。
 さらに、高座町に具足塚古墳があります。高座山の先端が御手洗川に接するところで、ここも広義に考えれば上ヶ原台地の南端と言えるかもしれませんが。

 具足塚

 新池から、その高座山丘陵の先端を見ています。あの森の中にあるはずです。ただ個人所有地なので、入ることができません。
 直径17mの円墳で、横穴式石室上部は露出しているのですが状態はよく、三名が合葬、副葬品が豊富だったそうです。その副葬品群は、郷土資料館にずらりと展示してあります。南野武衛氏は著作「西宮メモ」において、ここは西宮の藤ノ木古墳であると言われています。

 単独墳としては、王子ヶ丘古墳も知られています。

 王子ヶ丘古墳

 夙川河畔の片鉾池ですが、その北側に小丘がありました。それが、古墳でした。
 大社村誌は、
按ずるに蓋し仁徳期以前に築造したる古墳にして森具に緣故深き古氏族、土師連の祖先を埋葬せし墳塋なるべし
 と推測しています。いつもながら大社村誌は朗々としていますね。仁徳期以前となると前期古墳となり、現在の考古学ではそう判断するのは難しいようですが。
 王子ヶ丘古墳は明治42年、調査後に消失しました。もちろん、香櫨園遊園地がこの地に出来たからです。その遊園地は古墳を破壊して造ったにもかかわらず、短命におわりました。

 古墳は、後期から終末期にかけて、小規模なものが狭い区域に密集して造られるようになります。それを群集墳と称していることは前述しました。最初期は大型古墳を核として造営される場合がみられますが、6世紀中ごろから後半にかけて、核となる大古墳を持たず、徐々に規格性が強くなってきます。丘陵地また山麓などに築造されます。さらに6世紀末から7世紀にかけては、山の尾根や斜面など、狭小な斜面に重なり合うように極端に密集して築かれるようになってきます。
 西宮においても、上ヶ原古墳群や五ヶ山古墳群、神園古墳群などをここまで見てきました。ホント坂の上にあるものが多く、訪れるのに骨が折れるわけですが…その群集墳の最大のものが、八十塚古墳群です。
 場所は、六甲山の南斜面になります。他に造る場所もあったでしょうに、わざわざこんな山の中腹につくるのが、終末期群集墳です。
 柏堂町などにも古墳はあったようで、そういうのを含めるかどうかは分類の仕方によりますが、集中しているのは芦屋市の朝日ヶ丘町、岩園町、六麓荘町、そして西宮の苦楽園四番町、五番町、六番町あたりです。往時は100を超える数の古墳があったとされますが、現在確認されているのは56基ということです(「兵庫県の考古学」による。現在の最新確認数はわからないがもっと多いでしょう)。
 八十塚古墳群は、地形区分によって、朝日ヶ丘・岩ヶ平・老松・苦楽園・剣谷と5支群に分けられています。西宮市側に入るのは老松・苦楽園・剣谷の3支群ですが、数的には岩ヶ平が最も充実しています。
 ただそのほとんどが、もう姿を失っています。言わずと知れた高級住宅地です。致し方の無いところなのかもしれません。
 遺構は、一部移築されています。

 横穴石室

 これは、中央図書館の駐車場にある、剣谷支群2号墳の石室基礎に使われていたとされる石材です。もっとも、これだけでは古墳か何かは全くわからないのですが、発掘調査報告書を読みますと、おそらく奥壁に使用された石材だと思われます。
 苦楽園支群1号2号墳は、その形のまま大社中学校に移築されました。宮っ子にそのことが書かれています。
 ただし、学校内にあるものは、県立西宮高校に移築された入組野古墳同様、一般人では簡単には見学できません。うーむ。
 で、またこっそり外から覗いてみました(汗)。

 大社中古墳1

 北側のフェンスから、こんなふうに少し見えます。おわかりいただけるでしょうか。石室が口を開けています。

 大社中古墳2

 アングルを変えて後ろから。露出した石室上部が見えます。一応(笑)。

 ※追記:2014年冬
 あまりにも葉っぱが茂ってますので冬にまた覗きました。
 大社中古墳冬
 こっちのほうがまだマシやな。
 

 しかしこれで八十塚古墳群終了、とするわけにもいきませんので、とりあえず苦楽園へ行ってみたいと思います。自転車乗りには厳しい坂の上の高級住宅地へLet's goですわ。終末期群集墳というヤツは、どうして山の中腹なんかに建造するんでしょうかねぇ。
 そして必死でペダルを踏み(途中から歩き^^;)、苦楽園五番町へ。疲れます。もちろん自転車乗ってる人なんて誰もいませんがな。
 八十塚古墳群は、形状をなんとか保ちそれらしく残されているのは芦屋市側に多いのです。(→番外記事八十塚古墳群をゆく:凛太郎亭日乗)
 比べて、西宮側は厳しい状態です。破壊消失というより、発掘調査後に埋め戻して土中保存、という方法もとられていると思われます。そして、上には家が建てられています。
 つい先ごろまでは、まだ石槨の一部が放置してあった、との話も聞くのですが、現在のところそういうものは見当たりません。新しい家がずらりと並んでいます。

 苦楽園4

 僕は、ここを訪れる際に遺跡地図を図書館から借りてきていましたので、だいたいどこに古墳が存在していたかを特定することは、できます。写真も何枚か撮りましたが、それを公開するのもどうなの、と思い見送ります。住んでいる方々には、あまりいい気分がするものではありませんでしょうからね。
 古墳銀座であった五番町は、すっかり住宅地に。

 苦楽園3

 びっくりすることに、五重塔まで建っています。住宅ではないので書いてもいいと思いますが、だいたいこの五重塔あたりに、大社中学校へ移築復元された苦楽園支群1号2号墳があったと思われます。
 このあたりには、一部木々が茂る私有地もあり、原形を保っている古墳ももしかしたらそういった場所にあるかもしれませんが、確認まではできません。

 苦楽園1

 まだまだ造成中のところも。ここに古墳があったかどうかという話はしてはいけないのかもしれませんが、一言「遅かったか…」。
 しかし見晴らしがいい。終末期古墳がどういう場所を選んで築かれたのかということが、この建物も何も無い状態ですとよくわかります。
 この工事中の下は六番町になりますが、公園がありそこには巨石がごろごろしていました。石室の一部がもしかしたら紛れている可能性もあったりして。

 六番町にも古墳群があり、老松支群と分類されています。
 この老松支群には、横穴式石室が保存されている老松古墳が残されています。これが、八十塚古墳群の西宮側での唯一の遺構と言ってもいいですね。

 老松古墳

 しかし…入れません。鍵がかかっています。この正面路地を進んだところに、石室が露出した老松古墳があるのです。
 入れないのは承知していました。申し込めば見学させてくれるはずですが、僕は「フラリと行って見る」ことを旨としていますので、ここは諦めます。ただ来てみただけ(笑)。
 以前一般見学会があったのですが、僕は都合で行けませんでした。しかしながら、こういう機会にはちゃんとぽっつ君が行っておられますので、記事をリンクさせていただきます。有難い。ぜひご覧下さい。→ぽっつ君の西宮散歩:老松古墳見学
 天井石が崩れて石槨内に落ちていますが、これは阪神大震災によるものだそうです。やはり見晴らしがいいですね。
 老松古墳は、市指定文化財になっています。前述したように市指定は4ヶ所。青石古墳、関西学院構内古墳、五ヶ山古墳群第2号墳とならび、こちら老松古墳です。

 さて、さしたる収穫も無く山を降りてきましたよ。上るのは大変でしたが、下るのはあっという間。

 苦楽園6

 深谷町あたりから、今まで居た苦楽園五番町、六番町あたりを見上げます。高いな(ワシはあそこから降りてきたのか)。
 あの中腹に、かつて古墳がずらりと在ったわけです。見晴らしの良い場所でしたから、下からもこうして古墳を見上げていたのでしょう。こうして見ますと、終末期群集墳が山の斜面に築かれた理由がなんとなくわかるような気もします。
 古墳めぐりの最後に、高塚町へ。

 高塚町は、西宮市の西端です。阪急電車の北側で芦屋市に接したあたりです。もちろん高級住宅地ですが、ここだけは緑地を残しています。「高塚山」という小高い丘があるからです。
 その高塚山に、古墳が存在しているはずです。
 「考古小録」は明治四十一年から記述が始まっていますが、その正月五日に「香櫨園高塚山古墳を見る」との一文があります。
 高塚町という地名からして、古墳由来だとわかります。市内では津門稲荷町・大塚町とここが、古墳の所在を残す地名です(櫨塚町は違うみたい)。
 立地としては、八十塚古墳群の南端とみることも出来ますし、また「高塚古墳群」と分類することも可能ではないかと僕などは思います。古墳群と書きましたが、この高塚山にはかつて、3基の古墳が確認されていました。しかし現在では、1基を残すのみとなっているようです。
 その古墳、かつては見ることができたらしく。この丘は、展望台として活用されていた時代があったらしいのです。大社村誌によれば、
香櫨園が遊園地として繁盛の際、此所を森具の人南野木之助小遊園地を作り展望臺と命名せり
 と。市史には、展望台として親しまれていたことから古墳も著名だったと書いてあります。まさか古墳の上に登ったわけじゃないと思いますが(汗)。当時は稲荷山と呼ばれていたそうで、丘陵上にお稲荷さんをまつっていたのでしょう。
 武庫郡誌はさらに高らかに、王子ヶ丘古墳が仁徳期なれば高塚古墳は「崇神天皇以前のものか」とします。すごいな。崇神天皇が果たして何世紀に存在していたと仮定しているのかはわかりませんが。
 現在は、高塚山には勝手に入ることはできません。もちろん以前だって私有地だから展望台にしたのでしょうし、勝手には入れなかったでしょうが、今は手段がありません。住宅後背であったりフェンスで覆われていたりで、入り口もないのです。
 しかしかつては展望台だったのだろう、だったら人跡未踏の場所ではあるまい、ならばどこかからこそっと入ってやろうかと僕は目論んでいたのですが(嘘です)、そういうことは出来ないみたいで。
 1ヶ所だけ、南側で駐車場が隣接しているところがあり、そこには囲いがないようなのでちょっと足を踏み入れてみたのですが(嘘です)、足場が悪く諦めました(冗談で書いています)。
 その高塚山の南側に公園があるのですが、その公園の背後、丘陵南部が、住宅地建設のために現在切り崩されています。
 こちらの記事が詳しいので参照してください。(→犬と歩く夙川:高塚山が壊されて...)
 こちらは2012年5月の記事ですが、ほぼ一年後に僕もここへやってきました。工事は、かなり進捗しています。
 高塚山29 いろいろなことを思うのですよ。
 自然破壊という観点から見れば、古代に住民が古墳を築いた行為も、一種の自然破壊です。そこまで極端なことを考えなくてもいいとは思いますが、何でも一概には言いにくい。諸行無常。ただ歴史好きからすれば、古いものは何でも残っていたほうが嬉しい。これは、趣味の立場からの意見です。この発言になんの力もありません。
 この工事によって、苦楽園のように古墳が消失するのでは、と心配したのですが、今のところ工事は高塚山の南部に限られているようです。おそらく、古墳に手がかかってはいないでしょう。 

 高塚山には、前述したとおり3基の古墳がかつては存在していました。西高塚古墳、中高塚古墳、東高塚古墳と称されていました。おそらく現在も山中に存在していると思われるのは、東高塚古墳だけです。
 西高塚古墳は、遺跡地図によりますと所在は高塚山西側、西宮市内ギリギリの場所に存在しました。

 高塚山9

 高塚山の西側斜面です。ここにフェンスはないのですが、僕が棒高跳びの選手あるいは忍者でなければ山に足がかかりません。
 この段差から、高塚山西端をざっくり削って道が造られているのがわかりますが、おそらくここらあたりから見える範囲に西高塚古墳が在ったと考えられます。(特定しません)
 高塚山の北側も削られています。しかもかなり広範囲です。その削ってつくった平地の多くは貯水池になっているようで、阪神水道企業団が管理しています
 高塚山5 阪神水道企業団が山を破壊して貯水池を造ったのか、それとも何かの跡地を貯水池にしたのかは存じ上げませんし、土地は貯水池だけに利用されているわけではありません。
 ただ、この山を削って均す前には、ここに中高塚山古墳が在ったと考えられます。

 高塚山8

 山の北側はこのように断ち切られたような感じ。
 東高塚古墳がここから見えないかなと思いましたが、無理ですね(汗)。

 高塚山1

 東側から高塚山を見ます。たぶん、あの上に古墳があるな。存在を確認することはできませんでしたが、今もあると信じたいと思います。
「考古小録」大正十四年
高塚山古墳に至る。現場は數年前の通り羨道入口兩側の石は築造當時のまゝに存し羨道入口の蓋石も其のまゝあることに氣付く。 


 こうして西宮市内の古墳を訪ねてきました。そうした中、僕が見聞した限りにおいては、市内で形を留めている古墳は、全部で7基ですね。
 そのうち、自由に見られるのが青石古墳、関西学院構内古墳、五ヶ山古墳群第2号墳です。
 許可を得れば見学できるのが老松古墳、上ヶ原浄水場内古墳。そして、私有地にあって見ることが出来ないものが、具足塚古墳とこの東高塚古墳ということになります。
 わずかに移築復元されたものもあります。県西高構内の入組野古墳、大社中構内の苦楽園五番町古墳。(夙川学院構内の神園1号墳は不明)
 それ以外は、苦楽園の私有地内にまだ残されている可能性があるものの、ほとんどは埋められて建物の下にひっそりと生きているか、破壊されたとみていいでしょう。

 難しい問題は、いろいろあると思うのですよ。
 明治大正期に多くの古墳が破壊されたと前述しましたが、そういう例は昔からあります。例えば古くは、奈良平城京遺跡の北側に平城天皇陵とされる大きな円墳がありますが、これはもともと前方後円墳でした。710年に平城京の造営にともない、領域にかかる前方部が破壊されたのです(したがってこの古墳は824年崩御の平城天皇の陵では絶対にないのですが)。
 古代から、新しい土木事業のために古いものを壊すことはなされているのです。その平城京の礎石も、大和郡山城の石垣石として持ち去られたりしています。そんなことを繰り返しているわけで。
 しかし、死者がねむる古墳はまだマシだったかもしれません。「おそれ」の概念が日本人にありましたから。
「考古小録」大正八年
現存せる唯一の古墳稻荷山に關しては、村民一木一草いらへばたゝりありとして恐れをなせるが如し。
 しかしその稲荷山古墳も、大正12年に後円部が破壊されました。畏れとか祟りとかは通用しない世が、近代だったのかもしれません。さすれば、文化財保護という概念を持ってこない限り開発には太刀打ち出来ませんが、それもなかなか難しく。
 文化財保護に関する法律が最初にできたのは大正期ですが、やはり守られるのはよっぽどの史跡であり、近代化の波は多くのものを破壊しました。
 現在においても然りです。街は更新されるもの。それは、よくわかっているつもりです。
 でも、願わくばもうこれ以上は壊さないでくれ、という思いは、あります。古墳に限らず史跡全般に言えることですけれども。こちらでも書きましたが、さびしいんですよ。そういうの。

 今後、あらたに発見される可能性については、なかなか難しいと思います。わずかに山口に存在の可能性があるかも。かつて旧山口村には古墳はない、と思われていたのですが、青石古墳が発見され、そして下山口高塚古墳も存在したようです。
 しかし楽しみではあるものの、新しく古墳が発見される機会というのはおそらく、開発によって土地利用がなされる場合が大半でしょうから。かつてのように発見即消失、ということはないだろうとは思いますが…。文化財保護というものは難しいものだ、という手垢のついた言葉で、この項を終わることにします。
 


 
より大きな地図で 西宮の古墳群 を表示