現在の自治体名になっている「西宮」という名前の最初の起こりは諸説あるようです。どこから見て「西」なのか。また「宮」とはどこの社なのか、という話です。
 そんなの考えたってわかりませんわな(笑)。
 少なくとも「宮」は広田神社か西宮えびす神社かどちらかでしょう。社格は官幣大社だった広田神社ですし、中世以降栄えたのは西国街道と中国街道の合流点にあるえびすさんでしょうし。どこから見て、という点で、津門やえびす神が上陸した鳴尾から西、ということだと西宮えびす神社でしょうけれども、都のあった京都からすればやはり当時高名なのは広田神社でしょうし。
 現在は「西宮神社」といえばえびすさんですが、名称の起こりとなった頃の「宮」を特定するのは難しそうです。広田・えびす両方、そしてそれらを含む神社群、とすれば全て丸くおさまりそうな。

 では、もっと上代ではこの地域のことはなんと呼んだのか。
 それは「むこ」ですね。
 律令制による令制国が成立したのはやはり701年の大宝律令から、というのが定説です。それ以前からもあったようですけれどもね。そしてこの地は「摂津国」となり、その中で現在の西宮市域は「武庫郡」となりました。(もっとも、北部の塩瀬・山口地区は「有馬郡」ですが)
 もちろん地名ですから、それより以前から、このあたり一帯は「むこ」と呼ばれていたはずです。郡名はそれを採用したかと。
 「むこ」の語源については「武庫」という漢字を当てていることから、「古代の武器庫」であったという説があります。嘉応3年(1171)、広田神社に宛てた官宣旨に、神宮皇后が異賊と合戦をした兵具を納めたのが、武庫の名の元である、という意味のことが書かれてあるそうです。
 西宮のさらに西には「兵庫」という湊もあったことですし、それと対応させて頷ける話ではあるのですが、どうも地名というのは、特に古い地名はそういう中国の音にルーツを求めるのは何だか不自然な感じもすることはするんです。「たけるのくり」とか和語で言うならともかくも、そんな古代に…。これはやはり「むこ」という音が先にあって「武庫」という字を当てたのではないでしょうか。
 江戸期の国学者賀茂真淵は、その著作「冠辞考(枕詞辞典ですね)」において、「古代の中心港だった難波の津からみて向こうにある港だから"むこ"ではないか」と言っています。こっちの方が、一応頷けます。
 ですけどね。市民とすれば「向こう」が語源とはちょっと忸怩たる思いが(笑)。「あっち」と言ってるのと同じじゃないですか。
 真淵は「椋の木が多かったから"むく"→"むこ"かもしれないなぁ」とも言ってるようですがこれもなんですし。椋の木がそんなに多いとも思えませんけど。古代の植生のことは知りませんが。
 新説が出てこないもんでしょうかね

 さて、西宮のことが文献に最初に出てくるのは、「日本書紀」巻九神功皇后摂政元年のことです。これ、西暦で言いますと201年に相当します。おいおいまだ弥生時代じゃないですか。
 なんせ神功皇后って100歳まで生きた方ですからね。上代の天皇は100歳超えってザラですから。ここから、神功皇后を架空の人物であるとする見方もありますが、実在したとしても年齢は一考を要するでしょう。歴代天皇の年齢はもう少し縮めて考えて、これは西暦201年じゃなくてもっと後世の出来事でしょうか。
 その摂政元年の出来事をかいつまんで申しますと、九州で夫の仲哀天皇が急死し、神功皇后は妊娠したまま(お腹の子は応神天皇)朝鮮半島に出兵、新羅・高句麗・百済の三国を平定して畿内へと向かいました。後の応神天皇も生まれました。この時畿内に居た仲哀の皇子である香坂王と忍熊王は、父仲哀の死、三韓平定という皇后の武功、新皇子誕生を知り、そして神功軍と対立構造が生じます。継母神功皇后と赤ん坊には従えない。戦争準備が始まりました。
 忍熊王らはまず播磨赤石(明石)に陣取りますが、菟餓野(灘あたりか)で香坂王が猪に襲われ死んでしまい、忍熊王は住吉に後退します。
 神功水軍は紀伊方面に迂回して難波津を目指しましたが、船が海上で廻って進めなくなり、「むこ」の港に向かうことになります。
 これが、西宮が文献に出てくる初出だということです。原文を引きます。

 皇后之船直指難波 于時皇后之船廻於海中以不能進 更還務古水門而卜之

 書紀の原文は「務古水門(むこのみなと)」ですね。武庫ではなかった(汗)
 と、ここで重要なのが地域の比定です。「詣播磨興山陵於赤石」というところは、明石でいいでしょう。忍熊王らは仲哀天皇の墓を明石に造る、と謀って陣営するわけで、なんで明石に埋葬するのかということに疑問も残りますがこれは明石しか考えられない。菟餓野というのは、灘区の都賀川あたりと言われます。このあたりは昔、都賀野村と言いました。六甲山系には猪はよく出ますしね。
 問題は「住吉」です。これが、大阪の住吉大社か、東灘区の本住吉神社か。本住吉神社であれば、務古水門は西宮ではおかしいことになります。その後の戦況を考えれば、神功軍は忍熊王より西にいなくてはいけません。本住吉であれば、務古水門は兵庫港あたりに比定しないと。
 「むこ」は地名としては絶対に西宮か、と言われればそれはわからないのですよ。神戸の後背は六甲山ですけど「六甲(むこう)」とも読める。神戸方面、つまり兵庫港、大輪田泊であった可能性もあるんです。
 原文は「則引軍更返屯於住吉」で忍熊王は軍を引き返したのですから、灘区から東灘区では引いたうちに入らないと思いますので、大阪の住吉でいいと思いますけれどもね。けれども、ここは論争のあるところです。

 さて、皇后は船がくるくる廻ってうまく進路がとれず西宮に上陸します。そして神に伺うと、天照大神が「我が荒魂を皇居に近づけてはならない。広田国に置きなさい」と託宣。皇后は神託どおり天照大神の荒魂(あらみたま・天変地異や疫病を起こし祟り戦う魂)を、山背根子の娘の葉山媛に命じて広田に祀らせました。
 原文は「於是天照大神誨之曰 我之荒魂不可近皇居 當居御心廣田國 即以山背根子之女葉山媛令祭」。これがすなわち広田神社です。つまり広田神社の創建は、201年ということになります。古いっ。
 このとき皇后は生田神社や長田神社も創建し、おかげで無事に船もまっすぐ進むようになって忍熊王と対峙することが出来たわけですが、務古も広田も歴史がありますね。

 その広田神社です。

広田神社1

 「官幣大社 廣田神社」と記され、さすがに大いなる風格を示しています。
 その社格は高く、文徳天皇治世に従五位下、清和天皇治世に従三位から正三位、そして貞観十年には従一位まで上ります。これは、当時摂津国に地震が続き、占うと広田、生田神社の祟りであるとされ、位を上げ怒りを鎮めようとしたのだと伝えられます。

広田神社2

 やはり天照大神の荒魂です。風雨や地震に威をふるうのです。「皇居に近づけるな」とされたのもわかります。

 さて、日本書紀に書かれた広田神社の鎮座地は、ここではありませんでした。社伝によりますと神功皇后の時代、最初に鎮座したのは「高隈原(タカクマハラ)」であったと言われます。その後、南北朝の頃だとも言われますが、山を下りて御手洗川のほとりに遷座。ただ水害の恐れがあるとして現在地に遷座したとされます。江戸時代、享保年間のこと。
 では、高隈原とはどこだったのでしょうか。

 諸説ありますが、市史によれば「六軒新田の上高隈原はむかし広田大神鎮座の地なり」との伝承が、江戸期の「広田 西宮参詣独案内」に記されているとの事。
 ここは、現在の広田神社の北、御手洗川をはさんで存する六軒山丘陵のことと考えられます。町名は六軒町そして五月ヶ丘。
 「高隈原」ですから当然その丘陵のピークに存したはずです。ここは現在五月ヶ丘の住宅地になっています。山下忠男氏著作「町名の話」によればこの五月ヶ丘は住民投票で決まった地名で、西宮には珍しく歴史の匂いがしません。ところが旧字名は「甲東村大字栗林」と「大社村大字中目神山」とにまたがった地域であったとされ、僕などは「お、目神山か!」と一瞬喜んだのですが、よく考えてみれば目神山は甲陽園方面に広がる字名で、今もそのものズバリの「甲陽園目神山町」があります。この神の山とは当然甲山を指すのでしょう。
 甲山はやはり神奈備山と考えられますし、広田神社は甲山を仰ぐ場所に鎮座したと考えられますが、後世の字名で旧地を推定するわけにはいきませんしねぇ。
 ともかくも、上ってみました。

五月丘1

 坂道キビしいっ!
 南向きで撮影してますが、このあたりがピークですかね。相当な高さです。左右はもう、崖と言っていいかも。ここにもしかしたら広田神社が最初鎮座していたかもしれない、と思いますとちょっと厳粛な気持ちに。
五月丘2

 東側には、一ヶ谷町を隔てて上ヶ原丘陵が。上ヶ原中が見えます。

 さて、この五月ヶ丘からちょっと御手洗川方面へ降りれば、そこは六軒町。ここに、「風(フウ)神社」があります。 これはやはり風神雷神の風神であると考えられ、そう考えると実にいかめしい名前ですが、「風の神社」と考えればなんともリリカルな名称に思えます。

風神社案内

 住宅地のとおりすがりに道標があります。この奥に、細い路地が。通っていいのかな、と思えるほどの小道です。そこを抜けますと、

風神社遠景

 
 左手に風神社の姿が見えます。住宅の隙間にひっそりと佇んでおられます。

風神社

 なんともかわいらしい祠がふたつ。風神というより「風の神社」にふさわしい感じがします。来てよかったなと思いました。

 高隈原に鎮座していた広田神社は、14世紀頃に御手洗川河畔に下りたとされます。その高隈原にあったとされる旧社地が五月ヶ丘として、この風神社はかなり近い場所にあったのではないのかと思ったりもするのです。妄想に近い話ではあるのですが、高隈原時代の名残の神社ではないのだろうかと。
 天照大神の荒魂は、風をもたらします。神功皇后も船がくるくる廻って務古水門へやってきたわけです。風とは縁が深い。またそんなことも共通項として思います。荒魂というにはあまりにもささやかでひっそりとした神社ではありますが。

 これで旧鎮座地に訪れた、と言ってもいいのですが、僕にはもうひとつ、どうしても気になる地名があるのです。それは、五月ヶ丘から少し東にある「高座(たかくら)町」です。
 なんといっても、いかにも神が鎮座してましたよ、と言わんばかりの地名。高隈原=五月ヶ丘、というのはもう定説化しているふうではありますが、ここも候補地ではないでしょうか。

高座バス停

 その名もずばり高座町バス停。この先、道は「五段坂」と呼ばれる急坂となります。キツいのですが上ってみました。

高座1

 五段坂、本当に五つの坂が続いています。このあたりがピークでしょうか(大汗)。 
 南を向いて撮影してます。ここもまた、広田神社鎮座地の可能性があると思っています。

高座2

 西側。もう崖です。市立西宮高校が少し見えます。

高座3

 愛宕山バス停です。この丘陵の東側の町名は「愛宕山」となっています。
 町内に、京都の愛宕神社が勧請されて存在しています。それがもちろん地名の由来であるのかもしれませんが、そもそも「あたご」という名称、また転化して「おたぎ」とも言いますが、それは古代、神の鎮座した場所という一般名称ではなかったか、という妄想を僕は持っています。沖縄の「御嶽(うたき)」も同じ語源ではないか。これは僕が勝手に考えていることなので信用されても困るのですけど(汗)。
 ともかくも「高座」「愛宕」という地名にはやはり相当神聖な匂いがするのです。ここもやはり広田神社の鎮座地である可能性は捨て切れません。

高座4

 東側には、岡田山が見えます。神戸女学院ですね。
 岡田山には岡田神社があるわけですが、延喜式に言う式内社の一つである岡太神社(鳴尾にありますけど)は、もともとはここが鎮座地ではなかったか、とも考えられます。
 西宮にある武庫郡の式内社は3つ。広田・岡太・名次。名次神社は当初越水丘陵にあったという説もありますし、古代の神社はみなこのあたりの丘の上にあったのではないでしょうか。甲山から連なるこの丘の上に。
 それは、古代においては、すぐ丘の下まで海が迫っていたからですね。これ以上低地、また南に鎮座することは無理だったと。そして徐々に西宮の海岸線は南へと下がり、神社も丘から平野に降りてきた。そう考えていいような気もします。

 
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