神功皇后の「務古水門」の後に西宮の記述が日本書紀に見えるのは、応神天皇31年(西暦300)8月のことです。
 あれ、確か神功皇后の務古水門の話は西暦201年…応神天皇が生まれたのはそのときだったはず。100年経ってますがな。なかなか古代歴史書の解釈は難しいものです。
 書紀に載る話は、「枯野」という名船のことです。
 枯野という立派な船があったのですが、老朽化して廃船となりました。そこで、記念にこれを薪にして製塩したのです。そうしたら500籠の塩がとれました。そして天皇はその塩を諸国に与えて、船を造らせました("則施之周賜諸國 因令造船"と書かれてますけど、塩で船が出来るわけじゃなし、塩を資金にしたのか、或いは清めの塩に使ったということでしょうか)。さすれば500艘の船が貢上され、その船がみんな武庫の港に集まってきたという話です。
 原文は「是以諸國一時貢上五百船 悉集於武庫水門」と。ここでは「武庫」という漢字がつかわれてます。「武庫」の初出でしょうか。
 しかし500艘とはすごいですね。しかも諸国から集まったわけで、そんなに小さな船じゃないでしょう。そんなに大きな港だったんでしょうか西宮の港は。
 もちろん誇張も潤色も文飾もあるとは思いますけども、やはり武庫の港は一流だったのでしょう(かなり贔屓目に見てます)。

 その船が集まったところはどこらへんだったか、なんて事を考えるのは無茶なことです。4世紀頃の海岸線は推定されていまして、阪急神戸線より南はほぼ海、市内は大きな湾を形成していたと考えられますので、今の市街を海だと思って、そこに500艘の船が満ち満ちていた様子を一生懸命想像することにします。史跡を訪ねようがない。
 では次の話題に。漢織(あやはとり)と呉織(くれはとり)の伝説についてです。

 500艘の大艦隊から6年後、応神天皇37年(306年)2月。天皇は阿知使主(あちのおみ)を中国に遣わしました。阿知使主という人は誰かと言いますとおそらく渡来人、百済系あるいは加羅系渡来人で、東漢氏の祖とされます。東漢(やまとのあや)氏と言えば渡来人集団を形成し日本のテクノクラートとして、また軍事集団として活躍する氏族です。蘇我氏の台頭そして乙巳の変、壬申の乱とあらゆる場面で暗躍する氏族ですが、その最初が阿知使主です。
 目的は「令求縫工女」つまり機織の技術者を求めてのことです。
 さて、阿知使主とその子であるとされる都加使主(つかのおみ)は、呉に行ったことになっています("都加使主於呉"や"渡高麗國欲逹于呉"と書かれる)。三国志の孫権でおなじみの呉は、このときはもう晋に滅ぼされたあとです(280年滅亡)。これは歴史が錯綜してしまっているのか、それとも呉方面(江南地方)へ行ったということなのか。どっちかわかりませんが、阿知使主は高麗経由で呉に行き、呉王から4人の婦女を賜ります。兄媛、弟媛、呉織、穴織。えひめ、おとひめ、くれはとり、あなはとりと通常は訓します。
 応神天皇41年(310年)。阿知使主らは帰ってきます。筑紫(今の北九州)に到着しますと、胸形(宗像)の神様が「工女を欲しい」とおっしゃるので兄媛を胸形大神に奉じ、あとの3人と都へ帰ります。「既而率其三婦女以至津國 及于武庫」と日本書紀は記していますので、西宮に着いたということです。
 ところが、応神天皇は既に亡くなっていました。残念。なのでこの紡績技術職の女性3人を次の大鷦鷯尊(仁徳天皇)に奉じます。
 
 ここまでは正史に記載があります。そしてここからは伝承です。
 女性技術者を含む阿知使主一行は西宮につきます。なんせ阿知使主らは往復で4年。呉を出発してからも長い日々だったでしょう。彼女らは故郷を離れて寂しかったでしょうね。一行は武庫の港に上陸、そしてしばしの休憩をとります。そこは、松原が広がる風光明媚な場所であったようです。彼女らは松に身を寄せ、故郷を偲んだとされています。
 その松が、最近まであったらしいのですね(汗)。松も長生きとはいえ1600年以上も長寿とは。ただ、昭和も始めに枯れてしまったらしく、その痕跡はありません。
 その場所には現在、喜多向稲荷神社があります。北に向かっておられるのでそう呼ぶのだと思いますが、御祭神は「織姫大明神」です。

染殿池1

 「史蹟 漢織呉織松 染殿池」と石碑にあります。この石碑は大正時代に建てられたもので、そのときはまだ松があったのですね。
 日本書紀では「穴織(あなはとり)」でしたがここでは「漢織(あやはとり)」となっています。まあ細かいことは良しとしましょう。「綾織」とも書いたりします。その漢織呉織松はもう枯れてありませんが、染殿池は神社裏にあります。

染殿池3

 彼女らはこの池の水を使って糸を染め、布を織ったとされています。今見ればこの池は「水溜り」でしかありませんが、かつては清らかな水がこんこんと湧いていたのでしょうか。
 あれ、武庫の港に着いたのは兄媛を除く3人だったはず。弟媛はどこ行ったんかいな?と思いますけど、これはあくまで伝承。
 兄媛・弟媛といえばこの二人は姉妹だったかもしれず、筑紫の胸形大神の横槍で二人は離れ離れになってしまい、その姉と別れた切なさに妹は武庫の港で涙を流し、その涙が池となって、その池で漢織と呉織は弟媛のために織物を紡いだのだ、とすると完璧なのですが、そこまで伝承は語ってはくれません。

 ところで、この伝承とほとんど同じ話が、大阪の池田市にも残っているのです。しかも、あっちのほうが充実している(笑)。その池田の名を冠した「伊居太(いけだ)神社」も正式名は穴織宮伊居太神社で式内社、さらに「呉服(くれは)神社」もあり、その両社の神主は阿知使主の末裔。この呉服神社から、和装衣服のことを「ごふく」と呼ぶようになったという、実に完璧な伝承です。染殿井もあります。染殿池ならこっちにもありますが、池田には織殿も「星の宮」として伝えられ、穴織、呉織の没年も伝承として残り、阿知使主らとともに相当に顕彰されています。池田で歴史散策をやれば、穴織・呉織ゆかりの地が中心になってしまうかも。うーむ。
 しかし、日本書紀には「武庫」に着いたことはちゃんと書かれてあることです。矛盾無く説明するとすれば、まず一行は西宮に着き、そして仁徳天皇に謁見、そしてその後池田に居を構え、日本の紡績業の元祖としてその発展に力を尽くし、池田に没した。池田には伝承として墓もあるそうですので。
 猪名川河畔に「唐船ヶ淵」という史跡があって、彼女らはそこから上陸した、との伝承だけはちょっと納得がいきませんが。着いたのは「武庫」だろう?(笑)。

 池田にはこの伝承にちなんだ地名も多く、ざっと地図を見ても「呉服町」「綾羽」などと言った町名が目に付きますが、西宮にもあります。先ほどの喜多向稲荷より南は「染殿町」ですが、さらに

呉羽

綾羽

 「呉羽町」や「綾羽町」もちゃんとあります。
 こんなことで対抗意識を出しても全くのところ不毛なんですけどね(笑)。

 ところでさっきも書きましたが、日本書紀には「既而率其三婦女」とはっきり書かれています。ところが池田においても「呉織・穴織」の二人です。
 弟媛の足跡が全然たどれません。もしかしたら、彼女は長命できなかったのかも、とそんな想像もしてしまいます。だとすれば、遠い日本に連れてこられて、織物をこの異国の地に根付かせようという青雲の志もあったやもしれませんが、姉と強引に別れさせられ、そして足跡も残らなかった「おとひめさま」のことに、僕は思いを馳せてしまったりもするのです。
 

より大きな地図で 漢織と呉織 を表示