前回記事で書きましたが、江戸時代の西宮は、酒造りという産業が発達しそれを江戸に販売することで隆盛を極めました。そうした中、学問文化が花開くわけです。むろん向学の心というものは志の問題で、決して衣食足りて…で生まれてくるものではありませんが、やはりどうしてもそういった面もあるようで。

 そうして西宮の文化は、酒どころでもある西宮郷、今津郷を中心に栄えてくるわけですが、それについて書く前に、先にふれておきたい人物がいます。瓦林村の毛利重能です。
 熊野神社境内に、「割算天下一」毛利重能の顕彰碑があります。昭和47年に建立されました。

 毛利重能碑毛利重能顕彰碑

 毛利重能という人物は、豊臣時代から江戸初期に活躍しました。最初は池田輝政に仕えた武士であったようです。やはり、西摂津の大ボスである池田輝政が顔を見せますね。算術に秀で、のち秀吉に登用されます。
 大阪の陣においては、豊臣方にいました。当然、没落。武士を辞め京都で塾を開きました。「天下一割算指南」の看板を掲げていたとされます。
 現存する日本最古の数学刊行物のひとつである「割算書(通称。この書籍の書名が伝わらず、目次の「割算目録之次第」から便宜上そう呼ぶ)」を著しています。このことから、毛利重能は「日本算学の開祖」とされます。
 その「割算書」の奥書に「摂津国武庫郡瓦林之住人、今京都に住、割算之天下一と号者也」と書かれていることから、瓦林村つまり西宮の人物であったことが知れるのです。

 僕は和算の世界のことなど全然知らず、毛利重能という名も西宮に来るまで知りませんでしたので(汗)、周辺の本などを読んでみましたら、重能の開いた塾は「そろばん塾」ですね。「割算書」は僕は実際に見たわけではありませんが、どうやらそろばん手引書の色も濃いらしい。なあんだ、と一瞬思ってしまいますが、当時はそろばんも最先端技術であったのかもしれません。「割算」もまた高等数学だったのかも。
 毛利重能の偉いところは、弟子には知識を全て教えた、ということがあります。そんなの当然だろ、と思いますけれども、当時は学問の世界も「一子相伝」「秘伝」でした。「古今伝授」なんてありましたね。日本はこういう風土があるようで、今でも板前さんは「技術は盗め」なんて言われます(汗)。
 また、教授法も巧く、短時間で習得できたといいます。そういう開け放たれた学風から、公式を歌にして覚えやすくした今村知商、算学の世界で名著と言われる「塵劫記」を書いた吉田光由、またあの有名な関孝和の師匠である高原吉種が出ました。
 顕彰碑の隣には、算学神社が祀られています。

 算学神社算学神社

 受験生はお参りするのもいいかもしれません。
  
 さて、えびす神社境内、松林の中に句碑があります。

 芭蕉碑芭蕉・鬼貫句碑

 裏面に、「天保癸卯冬」と建立年が記されています。これは、松尾芭蕉と上島鬼貫の「真蹟」と刻まれています。伊丹の鬼貫はともかく、芭蕉が西宮に来ていたとは。
 と、ここで勘違いしそうになりますが、芭蕉も鬼貫も天保年間ではもうこの世の人ではありません。一種の顕彰碑ですね。
  はるもややけしきととのふ月と梅 はせを
  にょっぽりと秋の空なる富士の山 おにつら
 裏面に、その頃の地元の俳人の17の句が刻まれています。このうち4人が伊丹の人で、あとは西宮の俳人であるということ。西宮ではこのように、和歌、俳諧がかなり盛んであったようです。太田道雄、千足真言や真田尚古の名が残ります。
 そうした西宮の文人たちと芭蕉の邂逅は残念ながらありませんでしたが、「宮っ子」31号(1982年7月)には、芭蕉が西宮に足跡を残した可能性が高いことが言及されています

 西宮の文化人として欠かせない人物は、何と言っても原老柳でしょう。
 「学の緒方か術の原か」と、あの適塾の緒方洪庵と並び称された江戸時代きっての大阪の名医。この人のことは名前程度しか知らなかったのですが、実は西宮の人だったのです。
 で、伝記「原老柳の生涯(松本順司著)」を読んでみましたら、この人本当に面白い人で。
 生まれは天明3年(1783)、札場筋。鞍掛町あたりだと言われます。名は戸田佐一郎宗哲。父が医者だったのですが早くに逝き、母親に育てられます。母に医者となるべく勉学に励めと鍛えられますが、遊び好きで。酒と女、ですね。西宮には遊郭もありましたから。ただ医術は極め、西宮で開業、妻も娶ります。ですがね。
 浮気がバレます(笑)。門戸厄神近くに愛人が居て、泊りがけの往診と称して供の少年をひとり連れていつも出かけます。その供の実家が岡田山のため、西国街道から厄神さん筋に入るあたりで里帰りさせ自分は門戸へ、というのが常でした。ところが、わかれた供が土産に貰った酒粕をハラ減ったと食べて酔っ払って行方不明となり、騒ぎになってとうとうバレてしまうのです。
 これで、老柳は母親に勘当されるのです。えっ、老柳って当主やん、家の主人を勘当って、と思うのですが、母の強権で西宮を追い出されるのです(笑)。戸田の姓も名乗れなくなり、その後は父祖の姓の原を名乗ることに。
 その後老柳は大阪や伊丹で開業、また長崎で修行し、名医の誉れ高く、医師番付で大関の最高位に。その頃緒方洪庵は前頭でした。
 また人情医者で、貧しいものからお金は取らない、大名に呼ばれても特別扱いしない、元祖「赤ひげ先生」ですね。腕は超一流、しかし大酒家で豪放磊落、金には無頓着。大阪で緒方洪庵らと種痘治療所「除痘館」の設立に尽力。晩年は、故郷西宮に戻りました。
 満池谷墓地に墓があります。
 
 原老柳4原老柳墓

 「老柳 原先生之墓」。隣にある「辰馬氏」と刻まれた墓は、最初の奥さんでしょうか。浮気はされましたが(汗)、老柳との間に一男三女を得ました。後ろの「戸田十齋之墓」とあるのは、老柳のおじいさんかもしれません。
 老柳は和歌や俳句も嗜み、また「日本外史」の頼山陽との交友も深かったとのことです

 西宮では和歌や俳諧が興りましたが、今津では学問が盛んでした。
 野田忠粛は慶安2年(1669)生まれの国学者です。万葉学者として知られ、「万葉類句」を著し霊元天皇に献じました。これは万葉集の索引であり、こういう書籍が出ると以後研究が進んだでしょうね。同じ万葉学者として高名な尼崎の契沖にも兄事していたとのことです。
 
 野田忠粛野田忠粛墓

 満池谷墓地に墓石が残ります。
 また、儒学者として、曲江梅賓がいます。あの伊藤仁斉に学び、子弟を教育し今津文化の隆盛を支えました。

 曲江梅賓曲江梅賓墓

 同じく満池谷に眠ります。その梅賓墓のすぐ横に、介中拙斉の墓もあります。介中拙斉の事績はよくわからないのですが、やはりこの時期今津の文化を支えた学者でした。
 
 介中拙齋介中拙齋墓

 余談になりますが、満池谷墓地は明治の末、西宮の町立墓地として設立されました。当時ここはまだ大社村でしたが、西宮町にそれだけの広い土地が無く隣村に設置されたものです。のち、西宮の六湛寺墓地を全て移転(跡地は市役所)、また津門、今津墓地もここに移転しました。なので、西宮や今津の古い墓石などが残っています。
 しかしなにぶんにも広大な墓地で案内もないので、誰がどこに眠っておられるかはさっぱりわかりません。ここに載せた墓の写真は、先達の郷土史家の先生方が丁寧に探された業績を元に訪れています。参考にしたのは主として「新西宮歴史散歩」「西宮医史(堀内泠氏著)」そしておなじみ山下忠男先生の「町名の話」ですが、これらは震災後の発刊であるにもかかわらず、もう既に現在その記された場所に墓石が見当たらない場合があります。
 例えば、加藤艮斉。今津の酒造家・学者であり、野田忠粛や曲江梅賓と共に今津文化を担ったのですが、その墓は梅賓と介中拙齋のすぐ前にあったはずでした。しかし現在は見当たりません。「艮齋先生墓」と刻まれた墓があったはずなのですが。どなたかご存知ないでしょうか。

 閑話休題。そうした今津文化隆盛の中で、次の世代として飯田桂山が登場します。加藤艮斉の門人でした。
 曲江梅賓らもそうでしたが、飯田桂山も酒造家です。儒学を学び、そして私財を投じて今津の子弟教育のために今津港近くに「大観楼」を建てます。そして高名な学者を招き、今津の学問的土壌を支え、さらに隆盛へと導いたのです。
 その「大観楼」。おそらくはこのあたりに在ったと考えられるのですが。

 大観楼跡大観楼跡推定地

 コーナンの向かいあたりです。痕跡はありませんね。江戸時代においては、風光明媚な場所だったはずなのですが。歩道に説明板がひとつあります。偲べるものは、これだけですね。

 大観楼説明

 なお、「宮っ子」103号(1989年1・2月)には、今津の田和材木店敷地の東南すみに標識があった、とされています。また、同じ宮っ子の152号「ぶらり見てある記」(1993年7月)には、小西酒造の東側空き地に大観楼の木柱が残っていたとの話が載っています。文化財が失われていくのは惜しいですね。
 飯田桂山の墓も、満池谷墓地にあります。
 
 飯田桂山飯田桂山墓

 周辺には、造り酒屋として戦前まで栄えた飯田家の墓石がずらりと並びますが、その中に郷土史家として有名な飯田寿作氏のお墓もありました。その著作「酒都遊観記」では、僕も勉強させていただきました。併せて、合掌です

 鳴尾のことについても少しふれます。
 西宮には「辰馬家」という名家が存在します。現在でも「白鹿」の本辰馬家、「白鷹」の北辰馬家が有名ですが、「本町辰馬家」と呼ばれる酒造家もありました。西宮5代市長の辰馬夘一郎氏はここの出です。他にも鳴尾辰馬家もいらっしゃいます。
 この本町辰馬家の辰馬主計が、鳴尾中津の砂浜新田の開発に乗り出します。そして、元文4年(1739)にその地に「砂浜神社」を建立。主計は家業を子に譲って砂浜神社の神官となります。
 この砂浜神社に、大阪の高名な狩野派の画家である大岡春卜の68幅の絵が寄進され、それぞれに古歌を添え(京都の公卿が書す)、そうした中ここに文人墨客が集いました。
 砂浜神社は今はなく、鳴尾八幡神社に合祀されています。その鳴尾八幡に、かつて砂浜神社に建立されていた「文房四神之碑」が残ります。

 文房四神文房四神之碑

 難しくて読めませんけど(笑)、文房というのはつまり文房具ですわな。その当時の文房具、筆・硯・紙・墨を四神になぞらえて崇敬するのです。学問ぽいですね。京都にも同様のものがあるのを見たことがあります。
 このように、西宮においては学問、文化が栄え、現在の「文教都市西宮」の礎になったと考えられます。
 
 
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